貧血の令嬢 3ー②
「お次はこれかな」
ベルトランドは、五百ccのガラスボトルに入った液体を手にした。
「トランスグルタミナーゼ、と呼ばれる酵素だよ」
「それは人体に含まれる、血液の凝固や皮膚の形成、傷口の接着に役立つ酵素ですよね。どんな風に使うのですか?」
平賀が食い入るように訊ねる。
「例えば、牛肩ロースのような筋の固い肉の筋や膜を切り取ると、折角の肉塊がバラバラになってしまうが、そんな時にトランスグルタミナーゼを振り掛ければ、再び肉同士がくっついて、綺麗な肉塊になる」
「言われてみれば、トランスグルタミナーゼは、グルタミン残基とリジン残基を結合させるタンパク質架橋化酵素ですから、肉同士を結合させることが出来る訳ですね」
「そう。だから細切れの肉同士をくっつけてステーキ肉のような塊にしたり、牛と豚と鶏の混合肉を作ったりも出来るし、勿論、魚介類にも使える。
他にも、トランスグルタミナーゼの添加によって、エビカマやカニカマの弾力性が増したり、麺類に含まれるデンプンの老化を抑制したりといった使い方も出来るんだ」
「大変興味深いです。分子料理って面白いんですね、ロベルト」
子どものようにはしゃいだ平賀に、ロベルトは彼らしいなと微笑んだ。
ベルトランドは、棚に並んだガラスボトルの一つを手に取った。
「あとはそうだな、液体を薄い膜で包んで球体にする方法もある。ジュースなどの球状にしたい液体に、アルギン酸ナトリウムを溶かし、乳酸カルシウムを溶かした水に入れると、ジュースが球体になるんだ」
ベルトランドの言葉に、平賀はきりりと表情を引き締めてロベルトを見た。
「ロベルト。私は確信しました。こういう調理方法なら、私は貴方のアシスタントになれます。第一、科学実験のようで楽しそうです」
何やら危険な実験料理が出来そうな予感に、ロベルトはヒヤリとしながらも、曖昧な笑みを浮かべた。
「そ……そう。それは心強いな。頼りにしているよ」
「はい。器材の使い方が大体分かったところで、次はどうします?」
「まずやるべきは、メニューの考案だろう」
「そうですね」
そこで、二人の会話を聞いていたベルトランドが口を開いた。
「料理の本番が日曜日なら、今日を入れて四日しか準備期間がないね。今日はもう遅いから、食材の仕入れは無理として、残りは三日だ。
だからその三日間、君達は自由にここを使ってくれて構わないよ」
「いいんですか? 有り難うございます」
「本当に有り難う。助かるよ」
二人が銘々に感謝を述べると、ベルトランドは鷹揚に笑った。
「僕は自分の仕事時間を六時までと決めているんだ。それ以降なら、自由にしてくれ」
「ベルトランド、もう一つ頼みがあるんだが」
「何だい?」
「スカッピ家で料理を振る舞う日には、この調理器具を貸してくれないか?」
「ああ、それぐらいお安い御用さ。その代わりと言っては何だが、私のこともスカッピ社長に売り込んでおいて欲しいんだ」
「分かった。必ず君の話をしておくよ」
ロベルトとベルトランドの交渉は成立した。
三人はテーブルに戻り、メニューについて話し合うことにした。
最初の提案を口にしたのは、ロベルトである。
「前の日曜日に、僕がチェレスティーナ嬢と一緒に食べたコース料理のことは話しただろう? 僕は敢えてその日と同じ食材を使いたいと考えてるんだ」
ロベルトの言葉に、ベルトランドは不思議そうな顔をした。
「それはまた、どうしてだい?」
「同じ物を料理法次第で、どれだけ食べることが出来るようになるか、観察できるからね」
「成る程」
平賀とベルトランドが声を揃えた。
「それから、スカッピ社長からの依頼、つまりチェレスティーナ嬢の味覚を伸ばす料理というポイントは守りたい」
すると平賀が挙手して言った。
「余り食べられない人の胃の容量を、少しずつでも広げることも大事です。普段より量を食べて貰うには、食材に工夫をしませんと」
「例えば、どんな風にだい?」
「今、思いつくアイデアとしましては、消化酵素の入った野菜などを、同時に摂取することです。それで彼女の消化を助けてあげるのです。
例えばキャベツは、デンプンの分解を助けるジアスターゼという酵素が含まれていることで有名です。これは胃薬の成分としても使用されている酵素で、胃もたれや胸焼けなどにも効果がありますし、キャベツに含まれるキャベジンというビタミンも、胃弱に効果があるとされています。
また、ラデッシュには、デンプンの分解を助けるアミラーゼとタンパク質の分解を助けるプロテアーゼ、脂肪の分解を助けるリパーゼなど多くの種類の酵素が含まれます。
トウモロコシや緑黄色野菜にも、リパーゼが含まれていますし、タマネギにはプロテアーゼが多く含まれます。
こういう食材をメイン食材と共に提供することで、少しは胃の負担が軽減されるのではないでしょうか」
「サラダや付け合わせにすればいいだろうか。彼女には、野菜の好き嫌いはほぼなかったから無難だと思うが、ドレッシングに一工夫してみるかな」
「タマネギでしたら、細かくしてハンバーグに混ぜ込むといいですよ。イタリアのハンバーグは挽肉百パーセントですが、日本ではタマネギなどを混ぜるのがポピュラーな食べ方です。お祖母ちゃんの家で、そういうハンバーグが出てきました。
酵素が肉の消化を助けてくれるので、賢い方法です」
「それは参考になるな。何だか今日の君は一味違うね、平賀」
それにしても、それだけの知識がありながら、君は何故、そういう食事を摂らないのかという質問が喉元まで出掛かったロベルトだが、とにかく平賀は食事そのものに興味がないのだから仕方がないのだと、言葉を飲み込んだ。
「それから、十二歳の女性に必要な摂取カロリーは一日三食で二千四百キロカロリーが目安ですから、夕食で千キロカロリーの摂取を目指せれば良いかと思います。
あとは見た目も大事です。何枚も並んだ大皿や、油の浮いたスープなどを見ると、私達のような胃弱人間は、圧迫感や恐怖を感じます。視覚情報で満腹にならないように、なるべくライトな雰囲気が欲しいところですね」
「例えば、盛り付けをワンプレートにするとか?」
「いいですね。この一皿だけ頑張ればいい、と思えますから」
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