スパイダーマンの謎 8-①

  

  8


 ロベルトがクラーラの肩を抱きながら宥めていると、平賀がやって来た。


「クラーラさん、大丈夫ですか?」


 平賀がクラーラの側に行って手を握る。


「ああ、神父様、あの子が警察に連れていかれるなんて……何かの事件に関わっているなんて……有り得ないわ。チェーリオは本当に優しい、いい子なんです」


 クラーラの頬を涙が伝った。


「一体、何があったんです?」


 平賀がロベルトに訊ねる。


「僕だってよく分からない。二人組のカラビニエリが突然やって来て、死体の側に彼の免許証が落ちていたから重要参考人だと、彼を連行して行ったんだ」


 ロベルトが答えると、クラーラはふらりと立ち上がった。


「でもね、そんなのおかしいわ。だってあの子の免許証なら、ここに……」


 小さな引き出しの中から、クラーラは一枚の免許証を取り出した。


 確かにそれはチェーリオの、最近の顔写真が付いたものである。


「こちらの免許証は、再発行されたものでしょうか? 顔写真が新しいですね」


 ロベルトが柔らかく訊ねる。


「ええ。あの子が村に来た頃、免許証をなくしたからと、新しく作って貰ったんです」


「成る程。つまり殺人犯もしくは死体遺棄犯は、チェーリオさんに罪をなすりつける為、チェーリオさんが紛失した免許証を利用した、とも考えられますね。

 まずは詳しい事情を確認する必要があります。チェーリオさんが連行されたのはどこです? ここから一番近いカラビニエリ支部でしょうか。他に情報は?」


 平賀の問いに、ロベルトはどこか上の空の様子で、


「二人組の名前は、フェルモ・バルトロ氏と、ジャン・クラヴェロ氏だ」

と答えた。


 平賀は頷き、携帯でカラビニエリを検索した。ウンブリア州内に、カラビニエリ支部は二十ほどあるようだ。


 最寄りのカラビニエリに電話をかけた平賀は、二人の職員の在籍を問い合わせたが、そのような者は存在しないし、居たとしても事件に関する質問には一切答えられないと、一蹴されてしまった。


 二本目の電話をかけようとした平賀だったが、ふと宙を見詰めると、携帯を操作する手を止めた。


「一応確認しておきたいのですが、問題の死体発見現場というのは、ベニッツェ村の近くだったのでしょうか?」


 平賀の問いに、クラーラは困り顔をした。


「いいえ、分かりません……。この辺りで死体が発見されたり、カラビニエリが出動したりという話は、聞いたことがありません。少なくとも昨日、私が村のお友達と公民館でお喋りをした時は、誰もそんなお話、していなかったわ」


「ごめん、僕もその点は聞きそびれていた」


 ロベルトが済まなさそうに答える。


「ということは、チェーリオさんの連行先を探すには、イタリア全土のカラビニエリ支部に片っ端から訊ねるしかないですね。大丈夫、時間をかければ辿り着けます」


 平賀は気が遠くなるようなことを言った。ロベルトは小さく咳払いをした。


「それは最後の手段として、それより前に一度、僕らの友人に相談してみてはどうだろうか?」


「友人と仰いますと?」


 首を傾げた平賀の目の前で、ロベルトは電話をかけ始めた。


「ご無沙汰しています、フィオナさん。僕はバチカンの神父で、ロベルト・ニコラスと申します」


 ロベルトの通話先は、カラビニエリと協力関係にある犯罪プロファイラー、フィオナ・マデルナであった。


『ああ、久しぶり……。神父さん達のことはよく覚えているよ』


 どこか間の抜けたような声で、フィオナが応じる。


「突然で済みませんが、一つご相談がありまして」


 ロベルトが事情を話すと、フィオナは少し笑ったようだった。


『へえ、分かった。すぐに調べて電話するよ』


「お手間をおかけします」


『とんでもない。マスターのお友達に協力出来るなんて、とっても光栄さ』


 それからものの十分も経たない間に、折り返しの電話がかかってきた。


『彼らが居るのは、ローマ郊外のメトロポリタン・シティにある、カラビニエリ支部だ。話は通ってる筈だけど、何かあったら電話してくるといいよ』


「ご親切に有り難うございます。助かりました」


 ロベルトはメモを取り、電話を切った。


「ローマ郊外ですか。早速、今から行きましょう」


 平賀は鞄を持って立ち上がった。


「クラーラさん、僕達が詳しい事情を聞いて、チェーリオさんのお力になりますから、安心して待っていて下さい」


「ああ、神父様、お願い致します」


 ロベルトの手を取って頭を下げたクラーラから優しく離れて、平賀とロべルトは、クラーラの家を出た。


  ※  ※  ※


 二人は発車間際の電車に飛び乗り、ローマ・テルミニ駅を目指した。


 座席シートにふうっと腰を下ろすなり、平賀はくるりとロベルトを振り向いた。


「今、思い出しました。実は貴方にご報告したいことがあるんです」


「何だい?」


「私は今日、雑木林で蜘蛛男の形跡を探していたのですが、そこで蜘蛛男を発見しました」


「何だって、蜘蛛男を?!」


 ロベルトは思わず大声を出した。


「はい。正確には蜘蛛男の死体です」


「死体……?」


 アンニョロの言った『蜘蛛男の正体は森の精霊』という言葉が蘇り、その死体とはどのようなものかという考えが一瞬、ロベルトの脳裏を過ぎった。


 いや、それとも蜘蛛男は確かに実在した人物で、森で死亡していたのだろうか。


 その死因とは?


 蜘蛛男は普段から、森で生活していたのだろうか?


 様々な疑問を抱きながら、ロベルトは平賀の言葉の続きを待った。


「はい。私が発見したのは、推定年齢八歳くらいの、雄のチンパンジーの死体です。木の上で死んでいました」


「で、そのチンパンジーと蜘蛛男の関係とは?」


「ロベルト、エレナとエンマを追いかけた蜘蛛男の正体は、彼だったんですよ。闇の中で樹上を見上げた場合、チンパンジーと人のシルエットは、よく似て見えます。


 ただ、ベニッツェ村の森林は野生のチンパンジーの生息域ではありませんので、恐らく誰かがペットとして飼っていたものを、雑木林に捨てたのでしょう。


 幼少期のチンパンジーは、飼い主の言うことをよく聞いたり、芸をしたりと、愛らしいペットのように見えます。ですがアフリカでは、彼らは歴とした肉食の猛獣として恐れられる存在です。


 個体差もありますが、およそ七歳から野生の本能に目覚めるといわれており、事実、アメリカなどでは、子どもの頃から飼っていたペットのチンパンジーが青年期になって、飼い主の顔面を食い千切ったり、身体を引き千切ったりして殺害する、という事件がしばしば起こっています。


 大人になると獰猛になるのは、動物にはよくあることです。早いうちに去勢することで大人しくなる個体もいることから、獰猛化の原因は、ホルモンによる性的な成熟や縄張り意識が関係していると考えられています」


「そうか。つまり飼いきれなくなったチンパンジーを、誰かが村の雑木林に捨てたんだね。村人の仕業なら噂を聞かない訳がないから、他の村か町の人の仕業だろう」


「ええ。チンパンジーは絶滅危惧種としてワシントン条約で保護されている動物で、本来はペットとして市場に出回るものではありません。しかし、密猟者や密輸入業者が横行し、保護動物や野生動物が売買されているのも事実です。

 買い手の方も、珍しい動物を飼ってみたものの、無責任に飼育放棄するという話も、よくあることです」


「じゃあ……エレナとエンマはあの時、本当に危険な状況だったのか」


 ロベルトはヒヤリと背筋を凍らせた。


「ええ。とりわけチンパンジーは危険な個体だったと考えられます。

 エレナとエンマがお気に入りにしていた場所には、ヴェルノニアというキク科の植物が生えていたでしょう? 寄生虫病にかかったチンパンジーは、その茎の髄を食べる習性があるんです。


 恐らくあのチンパンジーは何らかの寄生虫病に侵され、ヴェルノニアが群生する木の上に寝床を作っていたんです。そうして自らの不調を治そうとしていた。

 そこへやって来た彼女らを、チンパンジーは弱った自分から縄張りを奪おうと企む敵だと本能的に判断し、威嚇しながら追い払おうとした。


 追いかけられた二人は車に乗り込みましたが、身体の不調や精神的緊張から攻撃的になっていたチンパンジーは、怒りに任せて二人を追撃したんです」


「成る程。それで樹上から車の屋根めがけて、襲いかかった訳だ」


「ええ。慌てた二人は車を急発進させ、驚いたチンパンジーは車のサイドミラーに掴まった。

 チンパンジーの握力は、二百から三百キログラムといわれます。道理であのサイドミラーがぐんにゃりと曲がる訳です。

 しかし結局、チンパンジーは車から振り落とされたのでしょう。

 あのチンパンジーの死体の肋骨は、大きく折れていました。車から振り落とされた衝撃で、全身打撲のダメージもあったでしょう。

 そこでチンパンジーは、敵の来ない場所で休む必要を感じ、静かな場所に移動して樹上に寝床を作り、横になったのですが、そのまま動けなくなり、死んでしまったという訳です」


 平賀は寂しげに語り終えた。

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