貧血の令嬢 1-②


※  ※  ※


 午前十一時。


 ロベルトはローマ郊外にあるJS食品の本社前に立っていた。


 全面硝子ガラス張りの巨大な城塞のような建物に、少し気圧けおされながらも、回転扉を軽く押して入る。


 広いロビーの正面には、受付が設けられており、女性社員が二人立っていた。


 ロベルトはそちらに近付き、会釈をすると、バチカンの身分証明書を見せた。


「こんにちは。僕はバチカンの司祭で、ロベルト・ニコラスといいます」


「これは神父様、今日はどのような用件でしょうか?」


 女性社員達も会釈して訊ねてきた。


 なんといってもここはローマだ。バチカンの司祭を邪険には取り扱わない。

 その点は、役得である。


「実は、社長のカールミネ・スカッピ氏に謁見したいのです」


「アポイントメントは、お取りでしょうか?」


「いえ。失礼ながら、取っていません」


「左様ですか。では、どのようなご用件でしょうか?」


「食の安全に関して、ご助言を頂きたいと思いまして」


 ロベルトは無難な回答をした。


「分かりました。只今、確認致しますので、少々お待ち下さいませ」


 一人の女性社員が、内線電話をかけている。


 相手は社長のカールミネ・スカッピ氏か、その秘書のようだ。


 暫くすると、女性社員は受話器を置き、ロベルトに会釈をした。


「社長は今なら丁度、時間があるので、お会いするということです」


 ロベルトは内心、大きく安堵した。


 第一関門は突破だ。


「それでは神父様、こちらのお客様用の入館証をつけ、奥のエレベーターをお使い下さい。社長室は最上階です。弊社を出る際は、入館証をこの受付に返して頂きます」


「有り難うございます」


 ロベルトは首から吊すタイプの入館証を受け取った。


 エレベーターで、最上階まで上る。


 それから廊下を歩いていくと、社長室と大きく書かれたり硝子の扉の前に、秘書らしき人物が立っていた。


「バチカンの司祭で、ロベルト・ニコラスと言います。先程、社長様に謁見の許しを得たのですが……」


 ロベルトの言葉に、秘書は会釈して、「お伺いしています」と、答えた。


 そして、ゆっくり硝子扉を開いた。


「どうぞ、中にお入り下さい」


 そこには、まるでホテルのスイートルームのように豪奢な空間が広がっていた。


 床は、ワインレッドとダークブラウンを組み合わせた、光沢感のあるウィルトン織カーペット。折り上げ天井には柔らかな間接照明が埋め込まれ、その真下には、重厚感のある十二人掛けの会議テーブルと、革張りのチェアセットが置かれている。


 正面の大きな窓からは、青々とした葡萄畑と、石畳の旧市街が一望できた。


 部屋の左手には、カッシーナのソファセットが並んだ広い空間があり、右手には書庫のような落ち着く空間が作られている。


 カールミネ・スカッピ社長は書棚を背に、黒檀と思しき大きなデスクの前に座っていたが、ロベルトの姿を見ると直ぐに立ち上がり、大股で近付いて来た。


 スモークグリーンのダブルスーツを着た、体格の良い紳士である。


 腹は少し出ているが、それも貫禄の表現という感じがする。


 髪はロマンスグレーで、やや長めにセットされており、鼈甲縁の眼鏡の奥にある薄茶色の瞳は、穏やかな光をたたえていた。


「ようこそいらっしゃいました、神父様」


 スカッピ社長が握手を求めた手を、ロベルトは握り返した。


「初めまして、スカッピ社長。唐突に押しかけたことをお詫びします。宜しければ、僕のことはロベルトとお呼び下さい」


「分かりました、ロベルト神父。それで、食の安全について知りたいと?」


「ええ。御社ではどのような取り組みをしているのか、お伺いしたく……」


「何故そのようなことを?」


「個人的な話です。実は僕は、料理が趣味なんです」


「ほう」


 スカッピ社長の目が、少し輝いた。


「作るのは勿論ですが、作る材料にも健康的なものを求めています。ですから、御社が企業理念として掲げている『食は命である』という言葉に、以前から強い興味を持っていました。

 今日、社長から色々とお話をお聞かせ頂けたら、いずれは修道院や孤児院などでも、食の安全や食育について、助言を与えたいと考えているのです」


「そういうことでしたか。有り難いお言葉です。それではまず、我が社の場合の取り組みをお教えしましょう。さあ、あちらのソファにお掛けになって下さい」


 ロベルトは、スカッピ社長に言われた通り、ソファに腰かけた。


 目の前には百インチを超える、巨大なスクリーンが設置されている。


 そこへ手際よく、秘書がエスプレッソを運んできた。


「ミリンダ、我が社の農地や畜産のことを説明する為の、映像を流しなさい」


 スカッピ社長は、そう言うと、ロベルトの隣に座った。


 ソファの後ろにある映写機から、スクリーンに映像が送られてきた。


 まずは、広大な農地とそれを管理するシステムの映像である。


「ご覧の通り、うちで取り扱う作物の六十パーセントは、自社で作っている物です。AIを使って適切な温度と水やりを徹底しているのも特徴ですが、何よりうちでは遺伝子組み換えの作物は扱っておりません。そして更なる特徴は、ケミカルな農薬は一切使用していないという点にあります。残りの四十パーセントの作物は、我が社が提示する条件で作物を育てる契約農家からのものです」


「それは素晴らしいですね。ですが、ケミカルな農薬を一切使わないとなると、収穫高も少し減るのでは?」


「多少はそうなります。しかし我が社はオリジナルの天然農薬を開発していますし、作物は必ず虫の嫌うハーブと抱き合わせで作ります。それでそれほどの被害も出ません。

 どこのスーパーに行っても、我が社のブランド印があるものなら安全ですよ。では、畜産の方も見てみますか」


 スクリーンには、広い農場の様子が映し出された。


 農場内のスペースにはゆとりがあり、牛や豚、鶏などが自由に歩き回っている。


「うちは、動物達になるべくストレスを与えないように、ほぼ放し飼いに近い状態を意識しています。餌は、我が社で取れた作物なので、飼料添加物などは使っていませんし、適度にハーブや果物の皮などを調合している為、肉質や脂に臭みがなく、さっぱりと食べられるのです」


「とても贅沢な育て方ですね」


「ええ、ですから一般の畜産物より一割ほど値段が上がっているのは事実です。ですが、それも健康的な食事を摂る為ということなら、消費者の方にご勘弁頂けるのではないかと思っています」


 ここでロベルトは、本題に向けて話の舵を切ろうと腹を括った。

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