貧血の令嬢

貧血の令嬢 1-①


       1


 日曜の朝、ロベルトは八時に目覚め、シャワーを済ませて、朝食の準備を始めた。


 スクランブルエッグを作り、野菜をグリルし、パンケーキを焼く。


 パンケーキには蜂蜜を塗って、それらをワンプレートに盛り合わせ、エスプレッソコーヒーと共に、コーヒーテーブルまで運ぶ。


 そして窓際の椅子に座り、朝の木漏れ日を浴びながら、ゆっくりと朝食を味わうのが、休日のお気に入りのルーティーンである。


 今日、食事を摂りながら手にしたのは、新進気鋭の詩人、アルバーノ・ルチェラーイの新刊であった。


 ロベルトは、詩集をよく読む。


 半分は趣味であるが、半分は仕事の実益を兼ねたものだ。


 詩人が使う象徴や比喩の表現が、暗号解読の際に、閃きを与えてくれるからだ。


 そうして想像力を刺激されつつ、優雅な時間を過ごしていた時、スマホの着信音が鳴り響いた。


(何だろう? こんな朝から)


 いぶかりながら画面を見ると、表示されていたのは、ビアージョ・ルオッポという名である。彼は、よく互いに情報交換をする稀覯本きこうぼん屋であった。


 さては珍しい本でも入荷したのかと、ロベルトは期待しながら電話に出た。


「おはようございます、ルオッポさん」


『おはよう、ロベルト神父。朝から急に、済まないね』


「いえ、お構いなく。どうかされましたか?」


『耳よりの情報が手に入ったので、どうしてもお教えしたくてね』


「ほう。どんな情報ですか?」


『それがだね……』


 ルオッポは焦らすように一呼吸置き、咳払いをして話を継いだ。


『JS食品の社長が、まだ世に出ていないバルトロメオ・スカッピの直筆レシピ本を秘密裡ひみつりに所有しているという噂を聞きつけたんだよ』


「JS食品の社長といえば、カールミネ・スカッピ氏ですね。ご自身でもバルトロメオ・スカッピの直系子孫だと自負しておられる」


『その通りだよ。どうだね? 興味深い話だろう?』


 バルトロメオ・スカッピといえば、十六世紀のルネサンス期のイタリアで活躍した天才料理人で、バチカンの様々な枢機卿に仕えた後、少なくとも三人のローマ法王の料理長として働いたとされている。


 更に、「完璧な料理法マスター集」と銘打った、六冊の料理本——調理器具の紹介や食材の保存方法、肉料理とソースの作り方、魚と野菜料理の作り方、旬の食材の紹介、ペストリーやケーキの作り方、身体が弱い人の為の料理——を世に送り出し、それらが十七世紀のイタリア料理のバイブル的存在となった。


 今ではフランス料理の代表格であるパイやタルト、キッシュなどのレシピを考案したのも、バルトロメオ・スカッピといわれている。


 ヨーロッパの美食大国といえば、イタリアとフランスであるが、そもそもフランスに様々な料理レシピや食事マナー、カトラリーなどを伝えたのは、イタリアからフランス王に嫁いだ貴族の娘と、彼女が連れてきたイタリアの料理人達だったという。


 つまり、フランス料理の原型はイタリア料理ということだ。


 イタリア人ほど、古くから食にこだわってきた民族はいないだろう。


 何しろ、古代ローマ時代から、イタリア料理の基盤は出来上がっており、ケーナと呼ばれる夕食では、前菜、サラダ、メインディッシュの肉や魚介類、デザートにフルーツやケーキと、高級レストランさながらのコースが、貴族達に振る舞われた。


 肉に関しては、好んで食べられたのは豚肉であったが、家鴨アヒルの肉や、ガチョウを太らせて作ったフォアグラも、当時からあった。


 そして大量の美食が供される貴族の宴会では、満腹になれば吐き薬を飲んだり、孔雀の羽根で食道を刺激して嘔吐し、空腹に戻って食事を続けたという逸話が残っている。


 貧乏性のロベルトには考えられない話だが、古代ローマの医学書には、食事を吐き出すことが健康法の一種と見なされていたことを示す記述が見られる。


 月に二度ほど食事を吐き出して、身体の中をリセットすることで、悪いものを溜め込まないようにしたり、日頃から食べ物を吐き出す癖を付けておくことで、不意の毒殺などにも対応できるという記述である。


 ともあれ、ヨーロッパの美食をリードしてきたイタリアの伝説的カリスマシェフが、まだ知られざるレシピを残していたとすれば、ロベルトの好奇心に火がかない訳がなかった。


「ルオッポさん、それは確かに大層興味深い話です。本当にそんなものがあるなら、是非、僕もこの目で見たいものですが……」


『どうかしたのかい?』


「ルオッポさんは何故、その話を僕にしたのですか?」


 ロベルトの問いかけに、ルオッポは苦い笑いを漏らした。


『実はな、儂がこの噂話を聞いたのは五日ばかり前なんだ。それから何度もカールミネ・スカッピ氏にコンタクトを取ったんだが、まるで相手にされず、門前払いが続いてな。

 そこで儂では駄目でも、ロベルト神父なら融通が利くのでは……と思ったんだよ』


「何故、僕なら大丈夫だと思ったんです?」


『それはまあ、バルトロメオ・スカッピといえば、バチカンの法王の料理番だった訳だから、バチカンからの招待状でも持って行けば、それなりに対応してくれそうだろう?』


 ルオッポの言葉に、ロベルトは短い溜息を吐いた。


「ルオッポさん、僕は一介の司祭ですよ。僕なんかの一存で、バチカンが紹介状を書いてくれる筈がありません」


『そういうものか? だが、そこを何とか、ならんものかね』


 ルオッポは粘り強く言葉を重ねた。


 同じ稀覯本マニアとして、ターゲットの本をどうしても諦めきれない気持ちは、ロベルトにも分かる。


 そこでロベルトは、この無理な依頼を一旦、引き受けることにした。


「……分かりました。僕もその本に興味がありますし、駄目で元々という気持ちで、一度ぐらいは交渉してみます」


『おお! 是非、そうしてくれ給え。ロベルト神父なら、きっと突破口を見つけられる筈だ。その本を確認できたなら、儂に内容を教えてもらえると有り難い』


「ええ。余り期待せず、お待ち下さい」


『頼んだぞ! 期待して待っているからな!』


 そこで通話は切れた。


 ロベルトは眉をひそめ、ふうっと息を吐いた。


 JS食品といえば、イタリアの食品業界のトップメーカーだ。


 そんな大企業の社長と、どうやって会えばいいのだろう?


 幸い、本社はローマにあって場所的には近いのだが……。


 ロベルトは、あれこれ思い悩んだ挙句、何か策を練るよりも、最初は正面突破をしてみようという考えに至った。


 そうして相手の出方を見てから、こちらに何が必要かを判断した方がいいだろう。


 バチカンが紹介状を書いてくれるとは思い難いが、説得力のある申請書を書くにしても、今は情報が足りなさすぎる。


「兎に角、朝食を食べ終わってからだな……」


 ロベルトは独り言を呟くと、朝食を再開しながら、JS食品の本社の住所やカールミネ・スカッピに纏わる情報をスマホで検索した。

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