スパイダーマンの謎 5-③


  ※   ※   ※


「どうします、このままホテルまで送りますか?」


 車に戻ると、アンニョロが訊ねた。


「もしよろしければ、貴方が蜘蛛男を撮影した現場に行って貰えませんか?」


 平賀のリクエストで、一行はアンニョロが蜘蛛男を撮影した現場に向かうことになった。


 車は雑木林近くの酪農場で停まった。


「ここですよ」


 アンニョロが車を降りる。


 平賀とロベルトが続いて降りると、アンニョロは七十メートルばかり離れた場所にある人家を指さした。


「あの家の壁を、蜘蛛男が上っていったんです」


 平賀はアンニョロの言葉に頷くと、携帯に入れていたアンニョロの動画と、その人家を見比べた。


「もう少し近くで撮ったようですね」


 平賀が画面と現実の情景とを交互に見比べながら、人家へと近づいていく。


「この辺りでしょうか」


 平賀はそう言うと、携帯で何の変哲もない人家を撮影し始めた。


 五分ほど撮影して、平賀が携帯を下ろす。


 その様子を怪訝な顔で眺めていたアンニョロだったが、特に言葉は発しなかった。


 ただの人家を撮影して満足そうな平賀は、次にエレナとエンマが蜘蛛男を見た現場に、もう一度行ってみたいと言い出した。


 アンニョロは快く承諾した。


三人を乗せた車は、国道から雑木林に続く細い道へと入っていった。


 途中からは徒歩で現場に辿り着く。


 平賀は、蜘蛛男に出くわした当時、姉妹が座っていたという切り株の近くに移動した。


 すぐに鞄から双眼鏡を取り出して、周囲を見渡し始める。


「何を探しているんだい?」


 ロべルトが訊ねる。


「某かの手掛かりです。前に来た時は夜でしたので、充分な観察が出来ませんでしたから」


 そのまま二十分余り、くまなく周囲を観察していた平賀だったが、とうとう何かを発見した様子で、双眼鏡を持つ手をピタリと止めた。


「何か見つかりましたか?」


 アンニョロも興味深げに近づいてきた。


「木の上の方に、枝を曲げて、葉っぱを重ねて作った足場のようなものがあります。エレナさんが蜘蛛男の姿を見たという場所の近くですね」


「本当ですか? 私にも見せて下さい」


 アンニョロが驚いた様子で、平賀に話しかける。


「ええ、どうぞ」


 平賀は双眼鏡を動かさず、体を避けてアンニョロが双眼鏡を覗けるようにした。


「あっ、本当だ。あれは自然に出来たものじゃありませんよね。人工的に作られたものだ。きっと蜘蛛男が作った足場のようなものなんですよ!」


 アンニョロの声は弾んでいる。


 ロベルトも、二人が見上げている高い木のこずえ付近を眺めた。


「あんな場所に足場を作るなんて、常人じゃないな……」


 ロベルトは思わず呟いた。


「いやあ、平賀神父は凄いですね。私はこの現場に何度も足を運んだのに、あれには全く気付きませんでした。さあ、他にも行く所はありますか? 何処でもご案内しますよ」


 アンニョロは、乗ってきた様子だったが、平賀は冷静な顔つきで首を横に振った。


「いえ、今日はこれぐらいにしておきます。帰って検証してみたいことがありますから」


「そうですか……。ではホテルまでお送りしましょう」


 アンニョロは少し残念そうである。


 その様子を見ながらロベルトは、アンニョロはただ無邪気に、蜘蛛男に対して興味を持っているだけのようだと感じたのだった。


 三人は車まで戻り、雑木林の道から出て、村の中を走った。


 途中、シモネッティ家の前を通ると、家の前のベンチに腰かけたクラーラの足をマッサージしているチェーリオの姿が見えた。


 仲のいい家族だなと、ロベルトが微笑ましく思っていると、車に気付いたクラーラが大きく手を振って、呼び掛けてきた。


「アンニョロ! 神父様方!」


 その声に、アンニョロがブレーキをかける。


 車が停まると、クラーラは立ち上がり、チェーリオと共に車に近づいてきた。


 アンニョロが運転席の窓を開ける。クラーラは窓枠に手をかけ、少し身を乗り出すようにして、アンニョロに話しかけた。


「アンニョロったら、水臭いわ。うちの前を素通りするところだったじゃない。神父様方とご一緒に、うちに寄ってくれれば良かったのに」


 クラーラの言葉に、アンニョロが平賀とロベルトを振り返る。


「すみません。クラーラさん。僕達は、今日は少し込み入った用事があるんです」


 ロベルトがそう返すと、クラーラは心底、がっかりした顔になった。


「あら、残念だわ……。じゃあ、明日はどうかしら? お夕食、うちでいかが?」


 まるで懇願するように言われたので、ロベルトは少し考え、「長居は出来ませんが、お邪魔でなければ行かせてもらいます」と、答えた。


「まあ、邪魔だなんてこと、ある訳がないじゃありませんか。神父様方を迎えるなんて、とても有り難くて幸運なことなのに。それじゃあ、明日の夜はお待ちしていますわ」


 クラーラはニコニコと笑って、手を振った。


「では、明日はお世話になります」


「じゃあな、クラーラ御婆ちゃん」


 アンニョロは再び車を発進させた。


「何だか強引に誘ったようで、すみませんね。でも、クラーラはバチカンの神父様方が来るのを、本当に楽しみにしていたんですよ」


「いえ、こちらこそ申し訳ない気持ちです。僕達は、そんなに有り難い存在ではありませんので」


 ロベルトが苦笑する。


「ええ、そうです。過大評価です」


 平賀も頷いた。


「とんでもない。うちの村にしてみれば、バチカンの神父様方が来られたなんて、一大ニュースなんですから」


 そんなことを話しながら、三人はホテルへと到着した。


 アンニョロに別れを告げ、ホテルの部屋に入ると、平賀がいきなり話を切り出した。


「ロベルトは、蜘蛛がどうして壁などの垂直の面を上れるのかご存知ですか?」


「いや、僕はそういうことには詳しくないからね」


「蜘蛛はですね、何処でも這うことが出来ます。ガラス、壁、天井などあらゆる所です。 その秘密は、足先に生える微小な毛にあるんです。数千もの小さな毛が、蜘蛛と壁などの表面の間に無数の接触点を作るんです。

 一方、どんなに平らに見える物の表面にも、分子レベルで見れば凸凹があります。

 でもここで、もし蜘蛛の毛が硬ければ、物の表面のある一部分にしか接触出来ません。

 ところが、蜘蛛の毛にはとても柔軟性があるため、より広い面に接することが出来、さらなる付着性が生まれます。それが壁などにへばりつく能力になっているんです。

 蜘蛛のこうした付着性は、ダイナミック・アタッチメントと呼ばれています。たとえるならば、毛状の面ファスナーのような原理です。何度も使用可能で、蜘蛛の体を支えるのに充分な強度で付着し、且つ接触面は非常に素早く容易に離すことができます。


 ここで大切なことはですね、ロベルト。

 蜘蛛が足先や毛先から、粘液のようなものを分泌するという話を私は聞いたことがないという点なんです。少なくとも今までにそのような報告は、学会でもなされていません。

 ただ、譬え話として、『フジツボ等の付着力を強力接着剤に譬えるとすれば、蜘蛛の付着システムは、まるで付箋紙のようなものだ』という言葉なら、知られています。

 つまりですね、蜘蛛と蜘蛛男の生態は必ずしも一致しない可能性があるということ。そして蜘蛛男は、付箋紙ののりのような粘液を分泌している可能性があるということなんです。これはとても興味深いですよ」


「そうなんだ……。ともあれ、君が楽しそうで、何よりだよ」


「はい。これを調べるのが楽しみです」


 そう言うと、平賀は採取したビニール袋入りの綿棒を取り出し、それを一本一本、成分分析機の中に置いていったのだった。





 続く 




                     ◆次の公開は8月20日の予定です。

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