スパイダーマンの謎

スパイダーマンの謎 1ー①


   1


 イタリア内陸部のウンブリア州、ベニッツェ村。


 ボニート・ボッシはその日、友人の家で開かれたパーティに参加していた。


 機嫌良く酔った彼が、うとうとと微睡まどろんでいた時だ。友人のクリスピーノ・カルヴィがその肩を叩いた。


「ボニート、起きろよ。そろそろお開きの時間だぜ」


 ボニートが辺りを見回すと、残った客は自分一人だけだ。時計の針は、夜の十二時四〇分を指している。


「すまん、すまん。ほんの一寸、寝ちまった。久しぶりに飲み過ぎちまったかな」


「大丈夫か?」


「ああ、酔いを覚ましながら帰るとするさ。悪いが俺の車は預かっておいてくれ。明日にでも取りに来る」


「それは構わんが、足元に気を付けて帰れよ。懐中電灯、持っていくか?」


 友人の言葉に、ボニートは首を振った。


「大丈夫だって。今夜は満月で明るいからよ」


 窓から見上げた空には、大きな銀色の円盤のような月が輝いている。


 ボニートは、軽く手を挙げて挨拶をすると、毛糸の帽子とジャケットを着て、帰路についた。


 二月の空気は澄み渡り、白い吐息がそこに溶けていく。酒に火照った身体に吹き付ける、冷たい風も今夜は心地良かった。


 自宅までは約二キロ。


 国道沿いには、二十メートル毎に街灯がある。


 左手に田畑と住宅、右手は雑木林。通る車は殆どない。


 ボニートは鼻歌を唄いながら、子どもの頃から見慣れたのどかな風景の中を歩いていった。


 一キロばかり歩くと、雑木林の手前に大きな看板が出ている。


 二年後に建設されるごみ処理場の完成図と、業務内容が細かく書かれた、二十メートルもの高さの巨大看板だ。


(やれやれ、この辺りの雑木林も、そろそろ伐採されるんだろうな……)


 少し感傷的な気分で、ボニートが看板をぼんやり見上げた時だった。


 そこにある筈のないものが、彼の目に飛び込んできた。


 看板の中央より少し上、地上十メートル以上の場所に、ぬらりとうごめく物影があるではないか。


 月明かりに浮かぶそのシルエットは、人間のものに違いない。だがその全身は、ぬめったような光沢を放っている。


 それがべったりと吸い付くように看板に身を寄せ、這うような動きで上へと移動していく。


 ロッククライミングのような、直線的で現実的な動きではない。もっと不気味な全身の動きだ。


 第一、その看板には、手足をかける場所など存在しない。なのに、まるで重力を無視しているかのように、それは上へ上へと移動していく。


 只ならぬ光景に、ボニートの肝は冷え、背筋が凍った。



 何だ、ありゃあ……?


 この世のものじゃねえぞ……



 その時だ。


 不気味な人影が、くるりとボニートを振り返った。


 その顔には鼻も口もなく、異様に大きな目が二つ、ギラリと光っている。


 ボニートの心臓は飛び出しそうになった。



 お、襲われる!



 ボニートは脱兎の如く駆け出した。


 何度も足をもつれさせ、息を切らして、彼は走り続けた。


 振り向くことは出来なかった。もし振り向けば、あの化け物がゴキブリのように低い体勢で、自分を追って来るのを見てしまうだろう。そして自分は、恐怖で一歩も動けなくなるに違いない。


 がむしゃらに走って自分の家へ駆け込んだボニートは、玄関に鍵をかけ、カーテンを閉め、震えてベッドに潜り込んだ。


 酔いなど、とっくに吹き飛んでいた。


 ボニートは震える手で携帯を取り、クリスピーノに助けを求めた。


「お、俺だ、ボニートだ」


『おお、どうした。家に着いたのか?』


 のんびりした友人の声に、ボニートは苛立った。


「それどころじゃねえんだ! 助けてくれ! 俺、化け物を見ちまったんだ!」


『はあ? 化け物?』


「ああ、そいつが国道沿いの巨大看板を上っていたんだ」


『へえ、看板を?』


「そうさ、そいつは俺が見てるのに気付いて、こっちに襲いかかろうとしたんだ」


 必死に訴えたボニートの耳に、次の瞬間聞こえてきたのは、友人の笑い声だった。


『あっはっは! お前、酔っ払って夢でも見たんだよ。馬鹿なことを言ってないで、早く寝ろ』


 電話はプツリと切れた。


「畜生! 俺に何かあった時、後悔するなよ!」


 ボニートは頭から毛布を被って丸まった。


 そうして震えながら夜明けが来るのを待ったのだった。



 翌朝、目を覚ましたボニートは、カーテン越しの明るい光に、ほっと溜息を吐いた。


 カーテンに手をかけ、そっと外を見ると、いつも通りの田園風景が広がっている。


 あの化け物の姿はない。どうやら危機は去ったようだ。


 それにしても、昨夜見たものは何だったのだろうか。


(夢じゃない……よな……?)


 自問自答しながら、のろのろと農作業着に着替えていると、携帯が鳴った。発信者はクリスピーノだ。


「……よう、どうしたんだ、朝早くから」


『何寝ぼけてるんだ。もう昼近いぞ。それよりお前、昨日、巨大看板を上っていく化け物を見たって言ってたよな?』


 クリスピーノは興奮している。


「あっ、ああ……」


『お前、凄いもん見たんだな。昨夜は酔っ払いの夢とか言って、悪かったよ。今、村じゃ、一寸した騒ぎだぞ』


「何かあったのか?」


『直ぐに看板の所に来いよ。自分の目で見た方がいい』


「お、おう。直ぐに行く」


 ボニートは携帯を切って、看板の許へ向かった。


 そそり立つ巨大看板を、十数人の村人が取り巻いている。


 彼らが指さす方向を見ると、地上十五メートルはあろうかという看板の上方に、スプレーペンキで書かれたと思われる大きな文字が躍っていた。



  この一帯を、汚す勿れ!

        スパイダーマン



 ボニートの脳裏に、昨夜の看板を上っていく人影が蘇った。


 するとクリスピーノが駆け寄ってきた。


「こいつは驚きだぜ。なあ、ボニート」


 クリスピーノは、ボニートの肩をバシバシと叩き、看板に群がっている村人達に大声で呼び掛けた。


「おおい、皆、聞いてくれ! このボニートが昨夜、看板を上っていく化け物を見たんだ!」


 おおっ、と驚嘆の声が上がり、ボニートの周りを村人が取り囲む。


「どんな様子だったんだ?」


「あ、いや、暗かったからハッキリと見ちゃいないんだが、化け物が、この看板を這い上っていったんだ」


 ボニートは人々の勢いに押されつつ答えた。


「これを上るったって、どうやって?」


「手や足をかける場所なんてないだろう……」


 人々がざわめく。


「そうなんだ、だから俺も化け物を見たと思ったんだ。でも確かに、あの人影の動きは、蜘蛛のようだった。こう、ぴったり手足が看板に吸い付いてるみたいで、姿勢がうんと低くて」


 ボニートが答える。


「そいつの顔は見なかったのか?」


 クリスピーノが訊ねた。


「一瞬、見えたんだ。目がでかくて、鼻と口はなかった」


「それって……やっぱりあのスパイダーマンってことかしら」


「馬鹿馬鹿しい……」


「けど、そうでもなきゃ、あんな高い場所に、どうやって字を書いたっていうんだ?」


「確かにそうだが……」


「しかし、なんでアメリカンコミックのヒーローが?」


「誰かがそれを真似たんだろう。こいつはイタリアの蜘蛛男ウオモ・ラーニヨってとこだ」


「なあ、アメリカのスパイダーマンの主人公は、放射能を浴びた蜘蛛に刺されて、超人的な能力を得たんだよな」


「じゃあつまり超人の仕業、ってことになるの?」


「だとしても、そいつの正体は一体、誰なんだ?」


「村の誰かか?」


「あと、何の為にあんなメッセージを?」


 村人達は、再び巨大看板を振り返って、首を傾げた。


 その後も活動を続ける彼のことを、村人達はイタリアの蜘蛛男と呼ぶようになった。


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