エレイン・シーモアの秘密の花園 4-②

 モンマルトル大通りで車を降りると、ビルの一階を貫くようにして、アーチ型のトンネルが奥へ続いている。


 入り口にある説明によれば、一八四七年、巨大ホテル・ロンスレイの一階部分に、モンマルトル大通りから裏通りへ歩行者が通り抜ける為の「パサージュ(通路)」として作られたものらしい。


 一歩、中に入る。光が降り注ぐ天井のガラス屋根と、それを支える鉄のフレームの装飾が美しい。床のタイルも素晴らしい。


 そんな通りの左右には、何ともレトロな風情の店舗がびっしりと並んでいる。


 十九世紀のパリの繁栄が、そのまま封じ込められたかのような空間だ。そこに古さ故の侘しさが加わって、郷愁のような物悲しさが立ち込めていた。


 お菓子屋、雑貨小物店、子ども向けの玩具店、アクセサリー店などがあったかと思うと、万年筆専門店やステッキ専門店といった変わり種や、古本屋が軒を連ねていたりもする。


 エレインはショーウインドウの前で立ち止まったり、時折、店内に入って品物を手に取ったりしながら、散策を楽しんだ。


 アダンはというと、困惑気味の顔をして、黙ってエレインに付いてくる。


 そして、エレインが「これって、素敵ね」とか「これ、どう思う?」と声をかける度に、気の利いた返事も出来ず、「お、おお、そうだな」などと答えるのだった。


 裏通りに抜けるまで、パサージュを歩き切った所で、エレインはくるりとアダンを振り返った。


「ねえ、お腹が空かない?」


「えっ、うん。まあ……」


「来る途中にサロン・ド・テ(喫茶店)があったわ。一緒にランチを食べましょうよ」


「おお、それもいいな」


「お疲れ様。女性のショッピングのお供なんて、退屈だったでしょう?」


「そっ、そんなことはないよ、エレイン」


 二人は喫茶店の二階に通され、紅茶とオムレツとサラダ、クロワッサン。そして大人気だというモンブランを注文した。


 他愛ない会話をするうち、食事も終わり、モンブランが運ばれてくる。


「こいつは美味いな」


「ふふっ、本当にそう」


 そこでアダンはふと、遠い目になって天井を見上げた。


「しかし……エレインの上司は、いい上司だな。フランス旅行を許可してくれるなんて」


「そうでもないのよ。人使いは荒いし、お金にも女性にもだらしがなくて……。お陰で、私は尻拭い係ってとこ」


 他人の弱味を知りたければ、まず自分の弱味を晒すことだ。


 エレインは憂い顔で、溜息を吐いた。


「そうか、そりゃあ大変だな」


「ええ。今回の休暇だって、上司の気紛れで突然、決まったことで、本当に特別なのよ。

 マルセルの方のお仕事はどう? まだ見習いって聞いたけど」


「俺の方は……まあ、そうだな、まあまあかな……」


 アダンは言い淀んだ。


 仕事上の悩みや不満がありそうだ。そこを聞き出したい所だが、まだ焦る必要はないだろう。


「そう。それじゃあ、この後は何処へ行く?」


「エレインはどうしたいんだ?」


「私、グレヴァン蝋人形館へ行きたい。さっき看板を見たわ」


「蝋人形館だって? 変わった趣味だな」


「どうして? 面白そうじゃない。行きましょう」


 そうして二人は蝋人形館へ行った。


 アインシュタインやマイケル・ジャクソンといった著名人の蝋人形と共に、ふざけたポーズで、互いに撮影をしあったり、火刑にされているジャンヌ・ダルクやルイ十六世の幽閉生活といった怖いテーマのリアルな蝋人形に、小さく悲鳴をあげたりしながら、二人は大いに笑った。


 勿論、エレインの笑いは演技である。


 まるで学生のデートのように振る舞い、アダンが心を許すのを待つ。


 それから一旦、車に戻り、アダンはエレインをモンソー公園へ誘った。広さ八ヘクタール程度の観賞用庭園だ。


「ええと、クロード・モネがここで六作品を描いた他、ジャン=ジャック・ルソーが植物採取に訪れたり、作家マルセル・プルーストが毎週木曜日に散歩した公園としても有名、なんだとさ」


 アダンがマニュアルのメモを読みながら解説する。


「そうなんだ。芸術家に縁のある庭園なのね。絵画みたいに綺麗だわ」


「マクシム様が、きっとエレインの気に入るだろうと仰っていた」


「ええ、とても気に入ったわ。ねえ、マルセル、あの辺に座らない?」


 エレインは木陰になっているベンチを指差した。


「えっ? い、いいけど……」


 二人並んで、空を見上げる。


「いい天気ね」


「そうだな」


 アダンは大きく伸びをした。


 二人は暫く、無言で心地いい風に吹かれていた。


「毎日、秘書の仕事でくたくただったから、こうしていると、心が落ち着くわ」


「俺も、その気持ちは分かる。執事ってのがこんなに大変な仕事とは思わなかったよ」


「秘書の仕事とは少し違うのかしら?」


「多分な」


「詳しく教えてよ」


「聞いても面白くないと思うぞ」


「そんなことはないわ。夜にはワインでも飲みながら、お互いに仕事の愚痴でも言い合いましょうよ。ストレス発散よ」


「ははは。それも悪くないかもな。ディナーのレストランのリストなら、マクシム様のお勧めが……」


 再びアダンがマニュアルのメモを取り出そうとする手を、エレインは握って止めた。


「堅苦しい所は止めましょう。私はもっと大衆的でオープンな感じの店がいいの。そうね、マルセル、貴方がよく行きそうな店がいいわ」


「えっ、そんなんで、いいのかい?」


「ええ、それがいいの。私は貴族の淑女じゃないのよ。庶民の生まれなの。そういう所の方が、遠慮せず飲み食い出来るんだって」


「よし、じゃあ適当に行ってみるか」


「そうしましょう」


 それから二人は、公園に隣接したニッシム・ド・カモンド美術館へ足を運んだ。


 パリの銀行家であるモイズ・ド・カモンド伯爵が、マリー・アントワネットのお気に入りだった離宮プチ・トリアノンを真似て造ったというその建物の内部には、当時の貴族の暮らしぶりがそのまま残され、展示されている。


 溜息の出るような見事な調度品、選び抜かれた美術品、美しい曲線の螺旋階段。それぞれインテリアの異なる書斎やサロン、図書室といった部屋には、まるで完璧な美というものに取り憑かれたかのような、主の執念めいた迫力が感じられた。


 台所に置かれた、ピカピカに磨かれた銅製の鍋一つにさえ、美が込められている。


 膨大な食器のコレクションを飽きずに見ていたエレインに、とうとうアダンが呆れたように言った。


「なあ、この皿って……そんなに凄いのか?」


 エレインは、はたと我に返った。


(そうだった、アダンが居たんだわ)


「夢中になっちゃって、ご免なさい」


「皿なんて、使えりゃ何だっていいだろう? なあ?」


 同意を求めてきたアダンに、エレインは苦笑した。


「まあね。もう充分見たから、あとは適当に回りましょう。それで、気軽なブラッスリーにでも行きましょう」


「おう、そうだな」

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