第7話 ビギナー・体験




 ――――――地上階――――――――





 かつん、かつん……。


 奏でられるハンマーの音が、地上階の中を反響する。ダンジョンの中は、ざわめきやら何やらであれだけ騒がしかったルームの煩さを、一瞬で忘れさせる静けさがあった。


 相変わらず薄暗い地上階の、至る所に探究者の影が見え隠れする。今日はいつもよりも若い人が比較的に多いようだ。青年というよりは、少年という言葉が似合う子供や、緑色の髪を後ろに纏めた少女の姿もあった。


 ハンマーの打突音を除けば、時折女性のため息や、男性の苛立ち紛れの舌打ちが聞こえて来るぐらいで、今日は固まって行動しているグループは見当たらなかった。



「さて、と」



 くるりと、マリーは振り返る。緊張と不安で顔を強張らせているサララを見やって、マリーはサララの肩を叩いた。



「無理だと思うが、あまり緊張はするな。今日はあくまで雰囲気を体感するだけで、地下一階に潜るだけだから。今からそんなに気が張っていたら、最後まで持たないぞ」

「わ、分かっている。これは、武者震い」



 返事をしたサララの声は、はっきりと震えていた。どう見ても、サララの震えは高揚によるものではなく、極度の緊張と怯えからくるものだ。外とは違う、圧倒的な何かを前に、すっかり萎縮してしまっているようだ。


 はた目にも緊張しきっているのが分かるが、サララはそれでも虚勢を張ろうと胸を張っている。ビッグ・ポケットの口紐を握り締めている指先が白くなっているあたり、内心が透けて見える。


 胸部を覆うプレートもそうだが、サララの身体がカタカタと震えていた。マリーとサララは、出入り口から地下一階へと続くまでの間に立っている。距離にして、ちょうど地上階の真ん中ぐらいの位置だ。



「おーい、サララ、おーい」

「………………」



 再び黙ってしまったサララを見て、とりあえず声を掛けて見るが、サララの視点がマリーの合わさることは無い。


 片手に持ったウィッチ・ローザでサララの顔を照らしてみるも、反応は思わしくなかった。サララの額には、じっとりと汗が滲んでいた。



(……う~ん、雰囲気にすっかり呑まれていやがる。どうにか復帰させねばならんな。どうしたものか……ん?)



 マリーの視線が、サララのズボン……に包まれた臀部で止まった。センターにて、ワイヤーサポーターを買ったはいいが、買った物は全てビッグ・ポケットの中だ。まだ、履いてはいない。


 つまり、ズボンの奥には、余計なものは無いということだ。



(……他のやつらもいるし、下手に大声出して因縁つけられても嫌だし、ショック療法をしてみるべきか、否か)



 サララの顔の前で手を振るが、やはり反応は無い。ブツブツと「大丈夫、大丈夫、大丈夫」と呟いているだけで、ためしに肩を叩いてみるも、反応は変わらない。


 どうやら、緊張のあまり完全に我を無くしているようだ。サララの額には、びっしりと汗が滲んでいた。


 むき出しの土肌やら岩肌やらで、四方が埋め尽くされているからなのかもしれないが、ダンジョンの中は何時も涼しい。


 だが、寒いというわけではない。いつも同じような室温が保たれているダンジョン内は、ある意味快適な空間でもある。


 その中で、これだけ冷や汗を流しているということは……。そこまで考えを巡らせたマリーは、一つ頷くと、そっと右手をサララのズボンへと伸ばし……ぐにゅ、とズボンの上からサララの尻たぶを掴んだ。



(おおう、柔らかくも弾けるような弾力だ……いつまでも揉んでいたくなるな)



 槍を得物にしている辺り、足腰はしっかり鍛えられているようだ……サララの表情に目をやる。ほんの僅かだけではあるが、サララの意識が己に向いているのが、なんとなくマリーには分かった。


 しかし、まだ完全ではない。まだ、意識の半分が止まったままだ。効果があるのは分かったマリーは、そのままぐにゅぐにゅと掴んだ指先を蠢かしていく。


 ぐにぐにと、マリーがサララの弾力を堪能するにしたがって、サララの震えが徐々に治まっていく。次第に合い始めた焦点が、マリーへ向けられる。ほんのりと熱を持ち始めた下腹部の感覚を意識すると同時に、マリーは素早く手を離した。



「サララ、これ何本に見える?」



 サララの顔の前で、マリーは指を立てる。呆然と立てられた指先を見つめていたサララは、ハッと我に返って「さ、3本」と答えた。その直後、頬を一気に紅潮させたサララは、己の尻に両手を当てた。



「……その、ごめんなさい」

「謝る必要はねえよ。こっちも思わぬ役得だったからな」

「――っ、もうっ!」



 軽いチョップが、マリーの頭部を打つ。しばしの沈黙の後、堪えられないと言わんばかりに零れる二人の笑い声に、周囲の視線が二人へと集まる。気づいた二人が唇を閉ざすと、途端に静寂が訪れた。



「最初だけで、そのうち慣れるよ。それじゃあ、地下への入口まで行こうぜ……あと半分だ。モンスターが出ても、俺が対処するから心配するな。今は、ビッグ・ポケットの重さと装備の重さに慣れるのが、サララの仕事だ」



 周囲からの関心が薄くなったのを横目で確認したマリーは、そうサララに言った。安心させるようにサララの背中を撫でてから、そっと、サララの手を取った。



「……うん、ありがとう」



 サララはマリーの手を握り、俯く。今度は、サララもパニックを起こすことなく、地下への入口まで行くことが出来た。







 ―――――地下一階へと続く階段―――――





 ひやりとした冷気が、二人の間を流れた。地上階とほとんど変わらない気温にも関わらず、何とも言えない寒気を覚える。階段脇に生えているウィッチ・ローザの光が、地下一階入り口の周囲を明るく照らしていた。



「よし、俺は少し準備をするから、ちょっと待っていてくれ」



 後10段ほど降りれば地下の土を踏める。そこまで降りたあたりで、マリーは背後にいるサララへと振り返った。



「……準備?」



 サララの視線が、マリーの全身を上下する。何を、準備するのだろうか。そう言いたげに首を傾げるサララを前に、マリーは笑みを浮かべると、繋いでいた手を離した。



 ――あっ。



 小さなため息が、サララの唇から無意識の内に零れた。サララですら気づかないぐらいに小さいのだから、マリーが気づかなくても仕方がなかった。


 心もち寂しそうに目じりを下げているサララに背中を向けたマリーは、ほう、と息を吐いた。両腕を軽く曲げて、自然体になった。


 静かに魔力コントロールを始めたマリーを見て、サララは邪魔をしないように、少しマリーから距離を取った。気功術を習得しているサララにとって、気をコントロールする際、周りが静かな方が集中しやすい。サララなりの、気遣いであった。


 しかし、そうなると手持無沙汰になるのはサララの方であった。階段途中は安全地帯であるということは、事前にマリーから聞いていたので、サララは思い切ってマリーの横に降り立った。



(……っ)



 半円状に広がった、眼前の地下一階世界を覗き見た。ここから見えるところだけを見れば、地上階とそう変わりは無い。けれども、その違いの無さが、何とも言えない不気味さをサララに与えていた。



(あそこが、ダンジョンの地下……)



 眼前にて広がる地下一階の空気を前に、サララはごくりと唾を飲み込んだ。これから、地下に降り立つ。そう考えるだけで、サララは強い喉の渇きを覚えた。


 ……槍を持っていたら、少しはこの恐怖心を抑えられていただろうかと、サララは己に問いかける。けれども、答えは出なかった。答えが分かるのは、もう少し先だ。



「……よし、準備が出来たぞ。これからが本番だが……ん、どうした?」



 横から掛けられた言葉に、サララはハッと我に返った。慌てて横を向くと、そこには不思議そうに眼を瞬かせたマリーの姿があった。サララは「なんでもない」と首を横に振って、マリーの背後へと移動した。



 ……まあ、本人が何でも無いと言っているんじゃあ、こっちとしても何も言えないな。



 まあどうせ、手持無沙汰になったからという程度のことなのだろう。言われずとも振る舞いから察したマリーは、改めて正面へと向き直ると、背後にいるサララへ声を掛けた。



「それじゃあ、今から地下一階に降り立つ。だが、その前にいくつか注意事項がある。これは本番でも同じことだから、しっかり頭に叩き込んでおけよ」

「うん、分かった」



 何を言われるのだろうか。ごくりと、サララは唾を飲み込んだ。



「まず、一つ目。物音や異音を感じたら、すぐに俺に知らせて、警戒態勢を取ること。自己判断はせず、必ず俺に尋ねてくれ」

「うん」

「二つ目。今のサララの状態だが、地下にいるときは絶対に武器を手元から放さないこと。手放す場合は、必ずすぐ手に取れる位置に置いておくこと。なぜか、分かるな?」

「……攻撃手段が、無くなるから?」

「そうだ」



 マリーは頷いた。



「俺みたいに徒手空拳を武器とするやつなら話は別だが、サララのような刃物を使うやつは、特に、だ。それに、この状況で武器を持っていないのは、かなり堪えるだろ?」

「うん……正直、緊張で吐き気がする……」



 そう口にしたサララは、ギュッと内またになる。かたかたと力無く震えてしまう四肢を、誤魔化すように身動ぎする。乾ききった喉へ唾を送るも、サララの口内は砂漠のように乾いていた。


 なのに、脂汗だけは鬱陶しい程に全身から噴き出していた。


 傍にマリーの姿が無かったら、サララは緊張のあまり、失禁すらしていただろう。その場に膝をつかなかったのはサララなりの矜持と、覚悟があったからだ。それだけのストレスが、サララの心身に圧し掛かっていた。



「今のサララみたいに、一度その状態になると、ちょっとやそっとじゃあ、心の体勢を整えることは出来ない。これを解決するには、場数を踏んで慣れるしか無いが……今回は時間がないからな。悪いが、最初にデカいのを体験してもらう為の武器無しだ。悪く思わないでくれよ」



 表情を強張らせながらも、サララは頷いた。



「薄々、分かっていたから」

「そりゃあ結構なことだ。三つ目だが、決して無理をしないこと。探究者である以上、儲けを優先するのは当然だが、全ては命あってのことだ。金を稼ぐことよりも、命を最優先すること……いいな?」



 マリーの問いかけに、サララは頷いた……少し、目に不満の色を残したまま。それを見たマリーは、苦笑した。



「サララの言いたいことは分かっているよ。だけど、俺たちが目的にしているのは、ダンジョン内に出現するアイテムだ。ぶっちゃけそれ以外で借金を返済は無理だからな……いいか、狙うのは、アイテムだけだぞ。欲を出して、無謀はするなよ」

「うん、分かった」



 はっきりとした返事に、マリーはサララを見つめた。サララの瞳に浮かぶ、確かな了解を見たマリーは、納得して頷くと、改めて地下一階へと向き直った。



「それじゃあ、行くぞ。俺の傍から離れるなよ。今回は周囲の警戒だけに徹していればいいからな」

「うん! 頑張る!」



 力強い言葉を聞いたマリーは、背後のサララの気配を確認しながら……地下一階へと、一歩を踏み出した。








 ―――――地下一階―――――





 地上階とそう変わりない光景である地下一階の空気は、地上階よりも少しだけ肌寒かった。至る所に生えたウィッチ・ローザの数も、そう変わらない。


 いや、むしろ、地上階よりも少しだけ湿っぽさを覚える地下一階は、場所によっては地上階よりも明るくなっているのがちらほらと見受けられた。


 地上階への入口を出発してから、幾ばくか。階段の向こうから聞こえていた喧騒は、もう聞こえない。マリーとサララが生み出す音以外、何も無い。


 どうしてかといえば、むき出しの土壁と地面が柔らかくそれらを吸い取ってしまうからだ。二人分の足音など、わざと響かせるようなことさえしなければ、周囲にはほとんど聞こえないのであった。



 ……それ故に、地下の世界はとても静かである。



 静寂による耳鳴りで、痛みを覚える程に、地下世界は無音であった。変わることの無い景色に、暗黒色の海を漂っているかのような気分になりそうだと、サララは思った。


 あまりに変化がない状況。それによって起こる脳天からの鈍痛に、サララは眉根をしかめる。


 何か変化があれば、そちらに気が紛れてくれる。だが、この場所でソレが起きるとすれば、モンスター襲来による有事のときだ。さすがに、サララはそれを望むようなバカでは無かった。


 だからこそ、サララは背中を向けているマリーを黙って見つめた。緊張によって縮こまりそうになるサララを他所に、マリーは銀髪をさらりと揺らしながら、まっすぐ前方へと足を進めていた。


 運が良いのか悪いのか、二人はいまだ、モンスターに全く遭遇していなかった。あらゆる想定を想像し、常に臨戦態勢を取っていたサララは、いつしか肩の力を抜いていて……マリーに注意されて、慌てて気を引き締めた。



「息つく暇も無くモンスターが押し寄せるときもあれば、今みたいに全然遭遇しないときもある。遭遇していないだけで、モンスターが既にこちらを認識していることもあるんだからな」

「そ、そうなの?」

「そうだぞ。まあ、地下一階に出現するやつの中で、そこまで遠くからこっちを見つけ出して来るやつはいないけどな」



 と、いうのが、サララに向けたマリーの注意であった。


 ……探究者を除いて(あるいは、関係者以外)、ダンジョンに関することで一般人が誤解していることの多い事柄の1つが、実はコレであったりする。


 サララもマリーに教えられ、実際にこうして地下に潜るまで知らなかったことだが、地下には、溢れんばかりにモンスターがいるというわけでは無いのである。


 マリーが話した通り、地下一階にはモンスターが出現する。そして、モンスターは一部の例外を除き、入ってきた部外者である人間を積極的に襲う。


 だが、絶対に襲われるわけではない。モンスターたちは常に部外者の動向に気づいているわけでは無く、中には人間に気づかないモンスターも当然いるのだ。


 いや、むしろ、割合としては逆だ。各階に生息しているモンスターの大多数は、人間が入ってきたことに最後まで気づかない場合が多いのだ。


 何せここは、地上階よりもはるかに広大な地下空間。人間を超える身体能力を持つモンスターといえど、入ってきた人間の存在をピンポイントに見つけ出すのは難しい。


 嗅覚や聴覚といった索敵器官が発達したモンスターを除けば、モンスターたちが人間の存在を察知する為には、人間側がモンスターに居場所を知らせるか、モンスター側が人間を見つけるかしかないのである。



 例えば、だ。以前、マリーが戦った『ランターウルフ』の場合で考えよう。



 ランターウルフは視力が悪い分、抜群の性能を持つ嗅覚をもって敵の居場所を突き止める、狩人とも掃除人とも呼ばれているモンスターだ。


 その射程距離は相当なモノで、距離の離れた地点の臭いを敏感に察知し、位置を特定してくる。そして見付けたが最後、その命が尽きるまで敵を追い続けるのだ。


 けれども、言い換えれば、だ。その優れた嗅覚のレーダーに引っかからなければ、ランターウルフをそこまで怖れる必要は何もないのだ。


 マリーとなって初めて遭遇したランターウルフを前に取った行動のように、上手くやれば戦闘を避けて進むことが出来るのである。


 下層を狙う探究者には必要な知識だが……意外と、これを知る探究者は多くない。『センター』の職員を通じて資料を得ることは出来るのだが、利用する者は少ないという。



 何故かといえば、答えは一つ。



 モンスターを狩ることで生活を立てる探究者にとって、金券と等しいモンスターから逃げるということは、その分だけ時間と労力の無駄。逃げるよりも、効率良く手段を知りたい……と考える探究者は、少なくないからであった。


 もちろん、そうでない探究者も大勢いる。だが、『探究者』というのは基本的に生きるか死ぬかの危険性を孕んでいるだけでなく、どうしてもそこを目指す者の大半が一攫千金を夢見ている。



 言い換えれば、食うに困ってやって来る者が多いということに他ならない。



 探究大都市『東京』は、そんな『探究者』に対してある程度の補助はしてくれる。だが、あくまで補助だ。無制限に与えられるものではなく、対象も『探究者』に限定されている。


 つまり、『探究者』としての一定の成果を役所に(一定を一度でも越えればOK)示さなければ、場合によっては返金を迫られるというわけだ。


 当然、返金を迫られた所で食い詰めて地方よりやって来た者たちが、『はい、そうですか』と返せるわけがない。中には恵まれた素質から立派にやれる者もいるが、少なくない人数がここで窮地に立たされる。


 宿代飯代で目減りする所持金に加え、将来有望あるいはコネを持つ者でなければ……分かっていても、無茶をする者がいても不思議ではない。そして、そんな人たちを諌めてくれる親切な者なんて、そうはいない。


 それ故に、初心者であるサララが知らなくても無理からぬ話であり、むしろしっかり知識を得ている上に諌めてくれるマリーのような存在の方が稀有なのだが……当のサララは、そう考えるだけの余裕がなかった。



「……サララ、少し体の力を抜け」

「え、でも、さっきは……」

「気を抜くのも駄目だが、入れすぎるのも駄目だ。気付いていないようだが、今度はさっきの逆、全身が岩みたいにがちがちになっているぞ」

「…………あっ」



 ――身体が、重い。



 そう、サララが自覚した時、初めてサララは己が酷い緊張状態にあることに気づいた。その胸中にあった、マリーの言葉を理解して思考を巡らせるだけの小さな余裕が、汗と一緒に流れ出てしまっていた。


 いつの間にか……つい先程まで気を抜いてしまったと思っていたはずなのに、気付かぬうちに緊張状態に陥っている四肢にサララは目を向ける。


 耳を澄ませ、瞳を左右に向け、全身の感覚を研ぎ澄ませる。何時襲いかかって来るか分からないモンスターの影を捉えんがために、サララは持てる精神力を奮い立たせる。


 言うは易いが、行うは難しい。これは、正しくその典型。気を張りつつもどこかリラックスしている素振りすら見えるマリーとは対照的に、緊張状態を解くことが出来ないであるサララ。



 これが、経験の差というやつなのだろう。



 瞬く間に消耗していく己を自覚しつつあったサララは、背後へと振り返った。既に3つ、通路を曲がってきている。サララの視界に、地上階への入口が映ることはない。


 あるのは、土くれの壁と、どこまでも続いている茶褐色の地面だけであった。


 ごくりと、サララは唾を飲み込んだ。背筋からのぼってくる、寒気にも似た恐怖に身震いする。居ても立っても居られなかったサララは、慌てて目の前を歩くマリーの裾を掴んだ。


 瞬間、ピタリとマリーの足が止まったと同時に、マリーが勢いよく振り返った……そして、サララの顔を見たマリーは、苦笑した。かりかりとマリーは己の頭を掻くと、サララの肩を優しく叩いた。



「そろそろいい時間だろうし、戻ろうぜ」

「――っ、う、ううん、まだ行ける!」



 マリーの提案に、跳び上がらんばかりに顔をあげたサララは、力いっぱい首を横に振った。それを見たマリーは、ははは、と笑みを零した。



「いや、もう戻るべきだな。今日はあくまで雰囲気に慣れるのが目的だし……どこで切り上げるべきか、俺も悩んでいたぐらいだ。今日の所はとりあえず、引き返そう」

「……で、でも」



 申し訳なさそうに俯くサララを前に、マリーは両手を顔の前に合わせて、頭を下げた。



「お願い、この通り」

「…………え、ちょっと」

「お願いします、サララ様。なんかもう疲れてきたので、俺は帰りたいんです。俺の為を思って、引き返すという英断を選択してくれませんでしょうか」

「…………」



 呆然と、サララはマリーを見つめた。正確にはマリーの頭だったのだが、とにかくサララは呆然とマリーを見つめた。


 ……しばらく、そうして黙っていたサララは「分かった、帰ろう」と、了承した。誰の為の提案なのか、分からない程サララは子供では無かったから。



「ほんとか?」



 サララの言葉に、マリーはパッと顔をあげた。(――あ、可愛い)改めて見るマリーの顔に、サララはそう思った。帰ると判断した途端に生まれた余裕に、サララはそっぽを向いて頬を掻いた。



「そうか、ありがとう。それじゃあ、今度も俺が前を先行するから、サララは背後の気配を探っていてくれよ」



 それだけを言うと、マリーはさっさとサララの背後へ回った。一度振り返ってサララの表情を見て微笑み「それじゃあ、行こうか」と声を掛けてから、歩き出した。


 サララは一つ頷くと、そっとマリーの後ろに並んだ。ほんの僅かだが、歩く速度がさっきよりも遅いように感じる。それが、マリーなりの労りであることに、サララは嬉しさを覚える反面、自らの不甲斐なさを情けなく思った。



(……これじゃあ、足手まといでしかない)



 何という体たらくなのだろう。そう、サララは自らの現状を思う。


 シャラと口論をしたとき、サララは何度も考えた『自分ならば、そうならない』と。己は、他の人のような不甲斐ない結果に終わるようなことはない。心のどこかで、そう考えている自分が居たのを、サララは思い出す。


 何気なく、サララは己の胸へと……真新しいプレートへと、指を這わせた。胸全体を覆っている、簡素な防具。ダンジョンに入る前は『これで十分だ、これ以上は邪魔にしかならない』と考えていたこの装備。


 あの時は、あれだけ頼りがいのある防具だと思っていたのに……今は、不思議と頼りなさしか感じない。分厚いと思ったプレートが、やけに薄く感じてしまう。


 そっと指先でプレートを押す。安物とはいえ、相応の強度を誇るプレートは、サララの力でどうにかなるようなことは無い。凹ませることなど、出来はしない、当然だ。なのに、どうしてここまで不安を覚えてしまうのだろうか……。



「ほら、サララ」



 ふと、掛けられた声にサララは俯いていた顔をあげた。視界に入ったのは、振り返ったマリーの姿であった。サララよりも幾分小さめな、ナックルサックで保護された手を、サララへと差し出していた。



「ちょっとの間だけだぞ」



 ぱちぱちと、サララは目を瞬かせた。次いで、頬が軽く膨らんだ。



「……なんだか、子ども扱いされている気がする」

「落ち込んだり、寂しくなったりしたときは、誰かに手を繋いでいてもらいたいものさ。少なくとも俺は、そうされたい」



 その気遣いが、胸に痛い。けれどもサララには、マリーの手を拒否するなど出来はしなかった。



「……それじゃあ、ちょっとだけ」



 そう、サララは声に出した。言い訳を述べたのは、マリーに向かってから、あるいは己に向かってなのか。サララには分からなかったが、構わずマリーの手を握った。


 ぎゅう、と力を込める。力を込め過ぎたかと一瞬サララは思ったが、「おう、ちょっとだけ、な」マリーは笑みを零して握り返した……そして、何事も無かったかのように歩を再開した。


 その後を、サララは黙って追いかけた。マリーの邪魔にならないよう、歩調を合わせながら。



(これが、探究者……)



 これも、経験の差なのだろうか。悠然と、特に緊張した素振りも無いマリーの後ろ姿を見て、サララはため息を吐きたくなった。シャラがあそこまで激怒した理由を、サララはようやく理解した……ような気がした。


 行きと同じ道を、逆に進む。先ほどとは少しだけ違う景色に、目を向ける。相変わらず、土くれの壁と地面に変化は見当たらないが……っと。


 突然、マリーの足が止まった。つられて足を止めたサララが、モンスターかと身構える。何時でも攻撃を避けられるよう、神経を研ぎ澄ませた。



「ああ、サララ。別にそこまで警戒する必要はないぞ」



 直後、マリーから掛けられた言葉に、サララはキョトン、と緊張の糸を解いた。わけも分からずサララはマリーを見つめると、マリーは「ほら、あそこを見てみろ」と壁の一部を指差した。


 言われるがまま、サララは指差した方へと視線を向ける。見ると、土くれの壁の一面……その一部分に、楕円状の赤い何かと、青い何かが、ポツリとあった。



(え、なにあれ?)



 思わず、と言った様子で、サララは目を凝らした。赤色と青色の、楕円状の何かは、茶褐色の地下世界には、異質の存在感を放っていた。


 最初はペンキか何かだと思ったが、よくよく考えたらペンキが塗られているのはおかしい。それに、よく見たら楕円状の何かは、数センチぐらいではあるが壁から盛り上がっていた。


 ちょうど、平たい三角形を横に向けたような形だろうか……少なくとも、光の陰影とか、そういうものではなさそうだ。



「……あれって、なに?」



 恐る恐る、サララはマリーに尋ねた。一瞬、モンスターかと疑ったが、これだけ近づいているというのに、こちらに反応を示さないのは、あまりに変だ。普通なら、モンスターは人間を見つけたが直後、がむしゃらに襲いかかって来るはずだ。


 しかし、モンスターでなければいったい……そう思ってサララはマリーへ視線を向けると「ああ、モンスターだよ」視線を受けたマリーは、当たり前だと言わんばかりに軽く頷いた。



「……え、あれが?」



 反射的に声を荒げなかったのは、運が良かった。そっと口元を隠されたサララは、内心己を叱咤してからマリーの手を外すと、その背中に隠れるように身体を縮こませた。



「あ、あれもモンスターなの?」

「そうだ。あれが、探究者たちのアイドル、アメーバちゃんだ」

「……えっ」

「だから、探究者たちのアイドル、アメーバちゃん」



 ……聞き間違いだろうか。


 そう思って漏らした戸惑いの上から、マリーの言葉が圧し掛かった。何やら、己の中で緊張の糸が千切れる音を、サララは聞いた……ような気がした。



「……アメーバ、ちゃん?」

「そう、アメーバちゃん。正式名称は、アメーバ種という種類に属するモンスターで、あれはレッド・アメーバと、ブルー・アメーバだ。見た目はアレだが、赤い方が熱に強く、青い方は冷気に強い、れっきとしたモンスターなんだぞ」

「……なんで、ちゃん付け?」



 脳裏に浮かんだ最初の疑問を、サララは口にした。



 サララの美的センスから言えば、アメーバと呼ばれるモンスターは、ちゃん付けされるような外見では無かったからだ。


 というよりも、サララでなくとも可愛いと思う人は少ないだろう。だって、見た目は赤色と青色のぶよぶよっとした……お世辞にも可愛いとは思えない。



「まあ、それは至極最もな意見だろうな……まあ、見ていろ」



 首を傾げるサララに手を振ったマリーは、その場に落ちている石を一つ、拾った。軽く振りかぶって石をアメーバの傍に、投げた。瞬間、ぼすん、と腹に響く爆音と音と共に、石が壁の中にめり込んだ。



「……は?」

「ほら、アメーバを見てみろ」



 いや、そんなものよりも、ずっと凄い何かが今、起きたような気がする。



 そう頭の隅で考えつつも、サララは促されるがままアメーバへと視線を向けた。めり込んだ……というより、着弾した個所に興味が引かれたが、とにかくサララはアメーバへ視線を向けた。


 赤色と青色の楕円が、しゅるしゅると土壁の上を動いていた。思わず「やだ……」と鳥肌を立てたサララは、けっしておかしくない。もごもごと震えているそれは、まるで一塊の粘液が蠢いているようだ。


 よくよく見れば楕円が動くたび、その周囲から土が飛び散っている。アメーバには足や手というものが無く、己の身体である粘液を絶妙に振動させて移動を行う。周囲に土が飛び散るのはそのせいで、見た目が気持ち悪くなるのもそれが原因であった。


 しゅるしゅる、しゅるしゅる、しゅるしゅる。奇妙な音を立てながら、青と赤のアメーバはマリーたちから……正確に言えば、着弾した石の地点から離れ始めた。別段、その点に何らおかしいところは見当たらない。



 あ、逃げちゃう。



 意外な素早さを見せるアメーバに嫌悪感を催しつつも、サララは黙ってアメーバを眺める。「――あっ」次いで、変化が現れたのは、その直後であった。


 ぺちょん、と、赤と青のアメーバがくっついたのだ。触れ合った部分から白い蒸気が噴き出し始めたと同時に、アメーバの身体が瞬く間に小さくなり始めたのである。


 蒸気の勢いは凄まじく、しゅうしゅうと音を立てながら、絡み合うように小さくなっていくアメーバ……時間にして十数秒程で、赤と青のアメーバは、影も形も無くなってしまった。


 後には、呆然と立ち尽くすサララと、悲しそうな眼差しでアメーバが居たあたりを見つめる、マリーが残された。



「…………」

「…………」

「……え、終わり?」

「終わりだ」

「えぇっ……」



 再度訪れた静寂に、サララは言葉を濁した。何というか、感想が全く思いつかなかった。それは、マリーの分かっていたのだろう。困惑するサララの姿に苦笑すると「アメーバちゃんは……」と話を切り出した。



「モンスターの中では珍しい、とても臆病なモンスターなんだ。今みたいに、外敵の存在を察知すると、戦うよりも前に逃げ出すぐらいに、な」

「……別に、おかしくないと、思う」



 そうサララが言うと、マリーも頷いた。



「アメーバちゃんには、それぞれ固有の弱点がある。赤いやつは冷気に弱く、青いやつは熱気に弱い。共に、そういった環境に置かれれば、一分と生きていられないぐらいに弱いんだ」

「…………」

「アメーバちゃんは……凄く、寂しがり屋でな……外敵に見つかったり、あるいは攻撃を受けたと認識すると、どうしてか固まって逃げ出そうとするんだ」



 サララは、黙ってマリーを見つめた。マリーも、サララを見つめた。



「しかも、なぜかアメーバちゃんはよりにもよって弱点である力を持つアメーバと行動するんだ……そして、外敵が現れた逃げたときは決まって今のようにもつれ合って……」

「……自滅する」

「……そうだ」



 二人は、改めてアメーバが消えたあたりを見つめた。少しずつ薄れていっている蒸気の奥は、もうすっかりいつもの土肌が見えていた。



「……アメーバちゃん、だね」

「……そうだろ」



 何とも言えない空しさが、二人の間を通り過ぎて行った。








 ―――――サララの家―――――








 その後……まるでアメーバちゃんの儚い死に様に敬意を示したかのように、モンスターがちらほらと二人の前に姿を見せた。



 当然、マリーはそのモンスターを瞬殺した。サララも初めて遭遇する敵意を持ったモンスターの出現に総身を硬直させたが、マリーが4体目を倒した辺りで、少しばかり慣れたようであった。


 そうして、何度かモンスターに襲われては撃退しながらも、無事にダンジョンを脱出することが出来た。そのおかげで、微量ではありながらも、賃金を稼ぐことに成功した。


 センターを出て帰る途中「今回は面倒なやつが出なかった」というマリーの言葉に、サララがげんなりと肩を落としたり、落ち込むサララを慰めたりする一面もあった。


 結局、最後までサララが危険な状態(モンスターに襲われた時点で、危険ではあるが)に陥るようなことは無かったが、かつてこれほど不安と緊張に襲われていた時間は無いと、サララは内心にて強く思った。


 帰路に就く最中、ズシリと肩に掛かるビッグ・ポケットが、重い。サララの方に収めていた荷物のいくらかをマリーが代わりに持ってくれているというのに、これだ。



「……辛いなら持つぜ」

「いい、頑張る」



 気遣ってくれるマリーに申し訳なく、こうしてなんとか自力で家路に着いてから、しばらく。マリーに心配を掛けていることは分かっていたが、サララはなんとか意地と根性で足を動かすのであった。


 ……今日の朝、家を出るときは意外と軽いものだと思っていたプレートも、今では億劫に感じている。それだけ、サララの体力が消耗していることなのだろう。



 えっちらおっちら、鉛のように重くなった両足を必死に動かすこと、幾ばくか。



 鼻歌を吹いて平気な顔をしているマリーを他所に、サララの疲労は、刻一刻と限界に達しようとしていた。自宅である娼婦館になんとか到着したと同時に、サララは玄関にて膝をついて、疲労の籠ったため息を吐いた。



「ほい、到着。どうだい、初めてのダンジョンは?」

「……うん、なんというか、凄かった……色々な意味で」

(探究者って、誰もがあんなことが出来るのだろうか?)



 つい数時間前の、素手でモンスターを蹴散らしていくマリーの姿が、サララの脳裏に浮かんだ。


 実際に体験したことだというのに、どうしてもアレが白昼夢だったのではなかろうかと考えてしまう。マリーには申し訳ないが、人間なのか疑ってしまったのはサララだけの秘密である。それは、無理も無い話であった。


 繰り出す拳は容易くモンスターの表皮を貫き、骨を砕いて内臓を引きちぎる。目にも止まらぬ手足の連撃は、襲い掛かるモンスターを瞬く間に肉塊に変えた。


 そのうえ、自重の倍はありそうなモンスターの体当たりを素手で受け止め、あまつさえ、抱えて放り投げることをやってのけたのだ。


 しかも、ただ放り投げただけではない。水平に、文字通りブーメランのように円を描いて壁にブチ当てるのである。人間業じゃないと思ったサララは、決しておかしくは無いだろう。


 極めつけは、地面に落ちている石を使用した、投てきだ。


 構えも何もない、重心移動も何もない、特別変わったところのない、無造作に投げるだけ……だというのに、女の子のような小さい手から放たれた石の破壊力ときたら……もはや、砲弾といって差し支えはない。



 ――ふと、サララは己の得物である槍を思い出す。



 シャラから譲ってもらったあれを使って、上手いことやれば、己でもマリーと同じことが出来るだろうか……そこまで考えたあたりで、サララは首を横に振った。


 鍛えに鍛え続けた未来では可能になるかもしれない。だが、現時点ではどう上手く扱おうとも、どれだけ鍛錬を重ねようとも、投げた槍が埋もれるようなことは、なりそうにはなかった。



「シャラがあれだけ強く突っぱねたのも、分かっただろ?」

「うん。私一人だったら、絶対ここに戻って来られなかった」



 そう言うと、サララは深々とため息を吐いた。とにかく、サララは疲れていた。行儀が悪いとは思うが、本音を言えば、このままベッドに入って朝までぐっすり寝たい気持ちであった……と。



 途端、サララの口からふわあっ、と大きな欠伸が零れた。



 寝たい、と考えた瞬間であった。張りつめていた緊張感が、自宅に着いたことで完全に切れたのだろう。再度、ふわあ、と大口を開けて欠伸をするサララを見て、マリーは笑みを零した。



「布団に入りたいのは分かるが、まずは風呂に入れよ。気づいていないのかは知らんが、体中砂だらけだぞ」



 そう、マリーが言うと、サララは気の抜けた声で、返事をした。


 サララにとっての初めてのダンジョン探究……『探究者』としての仕事は、このようにして終わりを迎えたのであった。



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