第二話: 何時ぞやの面影
幾年ぶり……思い出としてすら思い出せない程に掠れていた彼との邂逅から、半日。
日が昇り、『東京』の町が昼の人間で埋め尽くされた頃……サララは、かつての同居人である彼の案内を受けていた。
眼前を歩く彼の背中を見やりながら、今の状況にサララは首を傾げる。しかし、理由が無いわけではない。
――お前の探し人、会わせてほしいかい?
そう、彼が言ったから。普段のサララなら一蹴していたはずの、その言葉。
普段の己では無くなっている自覚が有ったサララにとって、その発言を無視するだけの余裕は……無かった。
――我ながら、情けない。サララは、そう己を恥じる。
彼の言葉が嘘であり、デタラメであることは分かっている。
現、に彼のいう情報は不明瞭で、いまいち信憑性が薄い。
おおかた、あの店で適当に聞き回った程度のことしか知らないのは、推測するまでもない。
明らかだ。誰の目から見ても、こき使おうとしているのが明白である。
けれども、サララは彼の指示に従った。それは間違っても彼の力になろうという憐れみからではない。
……万が一、億が一、京が一。
もし、彼が本当にマリーの行方を知っているのであれば。
もし、マリーの居場所を知っているのであれば。
そんな甘い考えが脳裏を過ってしまえば最後……サララに、彼の言葉を無視することなど出来るわけがなかった。たとえそれが、『愚かな娘』だと思われる行為であったとしても。
……とはいえ、馬鹿なことをしているという自覚はある。
だからこそ、何をやっているのだろうかと自問を繰り返す。
そうして、今すぐにでも踵を翻したくなる欲求に耐えながら、サララは黙って彼の後に続いた。
(……ん?)
そして、今更ながら。本当に今更ながら、サララは彼の身なりが汚いということに気づいた。
(洗濯、していないのかしら?)
シャツの首もとは薄い黄色が滲み、袖や裾は糸が解れて布地が伸びている。ズボンも所々破れており、全体的に薄汚れている。
そういう意識が薄いのか、よく見れば爪もそれぞれ微妙に長さが違っているようだった。
(……減点、ね)
冷めた頭で、サララは彼に対してそう評価した。
何が減点なのかはサララ自身考えていなかったが、とにかくサララの中では彼に対して、一つ評価が下がったのは確かであった。
……一つが見つかれば、自然と二つ目も見つかり、三つ目も。
それが気に入らない相手であれば尚更で、自然とサララの歩調は遅くなり、彼とサララの間にあった距離が、さらに広がった。
『まずは、皆に顔を会わせなきゃ駄目だな』
顔を会わせた直後、そう言ってサララの承諾も無く歩き出してから、早数十分。今の所、彼の足取りに迷いは感じられない。どうやら、本気で会わせるつもりのようだ。
……会わせる……誰に?
瞬間、サララの脳裏に浮かんだのは、かつての光景。
家畜として飼育され、優秀な家畜として他者の家畜を蹴落とし、飼い主に気に入られようとする……あの日々の――!
「……今更顔を会わせて、何になる?」
――掴んでいた槍の柄が、ギリギリと軋んだ……直後。
ゆらりと気配を立ち昇らせたサララの耳に届いたのは、町中に響き渡らんとする程の……鋭い、乳飲み子の泣き声だった。
突然、何の前触れも無く響いた、泣きわめく子供たちの泣き声。「ど、どうしたの!?」慌てふためく女の声と共に、ハッとサララは我に返る。
振り返れば、母親らしき女性が、必死になって子供をあやしているのが見えた。
……さらに、泣いているのは乳飲み子だけではない。
周囲に居た全ての子供たちが、一斉に泣きわめいて両親の足に縋りついている。それらを見て、思わずサララはギクリと肩を竦めた。
(しまった、私としたことが……)
子供は時に、大人よりも素直に、純粋に気配を捉える。
理由を知らない親からすれば、我が子が突然泣き出したようにしか見えなかったのだろう。
ある者は抱き上げて、ある者は子供の目線に合わせて、思い思いに子供を泣き止ませようとしているが……子供たちは皆、すぐに泣きやむような状態では無かった。
(ごめんなさい、驚かせてしまった)
心の中で、サララは泣いている子供たちに頭を下げる。次いで、サララは大きく深呼吸をすると、胸に手を当てて徐々に治まって行く鼓動を確認し……おもむろに、顔をあげた。
「――あっ」
そうして初めてサララは、彼の背中が幾ばくか遠くなっていることに気づいた。どうやら、思っていた以上に深く考え込んでいたようだ。
……近寄りたくないとはいえ、さすがに見失うわけにはいかない。
走りやすいように槍を構え直したサララは、子供たちの泣き声から逃れる様に走り出そう――。
「――ん?」
――と、してすぐ、視界の端を過った緑色の何かに、サララは足を止めた。
振り返ってそちらへ振り返る……が、それらしいものは何も見当たらない。何処を見ても、似たような光景ばかりが広がっているだけだった。
……気のせい、かしら?
違和感……というには、些か曖昧なその感覚。敵意などではない、何と言い表せば良いのか……そう、見られているような、そんな感じがした。
けれども、今は感じない。気のせいだったと、思える程度には。
少しばかり興味が引かれないでもなかったが、今は彼を追いかけることが先決であることを思い出したサララは、小さくなっている彼の後を急いで追い掛けた。
……。
……。
…………その、すぐ後。
サララが立っていたところに、一人の少女が姿を見せた。何の前触れも無く、何の気配も感じさせず、少女はそこに立っていた。
大人も、子供も、老人も、動物も、誰一人その少女に目をくれない。
まるで、少女など見えていないかのように……まるで、少女など初めからそこに居なかったかのように、誰も少女をその目で捉えてはいなかった。
子供たちの鳴き声が響く喧騒の中で、少女は場違いに笑う。
悪戯を隠した子供のように、くすくすと愛らしい笑みを浮かべて、ふわりと緑色の髪が風になびく。踵をひるがえせば、緑の……大地の匂いが揺らめいた。
――陽炎のようにおぼろげな姿が、人の流れの奥へと消える。
すると、もう、その姿はどこにもなかった。誰の目にも、誰の耳にも、少女を捉えることはおろか、その気配を感じることすら出来なかった。
……。
……。
…………案内が始まってから、どれぐらいの時間が経っただろうか。
サララが案内されたのは、『東京』の中心地から離れた、街外れの一角。いわゆる、『貧民街』と『東京』の住人から呼ばれている場所であった。
――貧民街とは、言うなれば生活困窮者が寄り集まって形成された『東京』の一角である。
その顔ぶれは様々で、障害を負ってしまった元探究者や、ならず者、娼婦くずれなどが多く、その呼び名の通り、生活に困窮している者が集まって暮らしている。
この一角の特徴としてまず上がるのは、何と言っても、孤児や浮浪者の数も『東京』の中で一番多いということ。
次いで、おおよそ『東京』で普及しているインフラが虚弱であり、整備もされていない。それ故に、この一角には独自のルールが暗黙の内に根付いている。
――大人しく引きこもっているのであれば。
――こっち側にちょっかいを掛けさえしなければ。
――直す金は出さないが、中に居る分は見逃してやる。
そのような理由から見逃され続けているその場所に初めて足を踏み入れたサララは、周囲から向けられる視線に気づきながらも……あえて、気付かないフリをしながら彼の後に続いた。
(なんか臭い……いったい、何の臭いかしら?)
いくら半ば『東京』から見捨てられているごみ溜めみたいな場所とはいえ、汚物処理の定期巡回は、ここにも来ているはずである。(放って置くと、疫病が発生するし)
なのに、どうしてか、風に混じって異臭のような悪臭が纏わりついてくる。好ましくない臭い、汗の臭いや、酒の臭い、煙草の臭いもちらほらと……昔の嫌な記憶まで思い出してしまいそうで、嫌になる。
いわゆる、『貧民街』独自の生活臭というやつなのだろう。
平気な顔を保てる程度には慣れたが、ここに足を踏み入れた当初は思わず顔をしかめるぐらいに酷かった。仕方がない事とはいえ、子供の頃からこの世界は変わっていないのだなと、溜め息を零したくなった。
立ち並ぶ建物というか、目に映る景色も子供の頃に見ていたそれらと変わらず……似たようなものだ。
大半が古ぼけて継ぎ接ぎだらけで、壁の至る所に補強した後が見られる。窓と窓の間から釣り下がる洗濯物を見る辺り、中には身だしなみに気を使っている者もいるようだ。
この一角は治外法権で守られた檻のような場所。ここ特有のルールはあるだろうが、どんな人間でも受け入れてくれる場所……それが、ここなのだろう。
(全員で協力すれば、生活は苦しくてもここを抜け出す事が出来たのでは……いや、それは私が言える事ではないな)
そこまで考えた辺りで、私は思考を止めた。運に恵まれ、才に恵まれた私が言えば、それは嫌みでしかないと思ったからだ。
私の努力が不可欠であったにせよ、出会いが無ければ……一歩間違えていたなら、何処かで諦めていたら、私も彼と似たような境遇のままでいただろう。
私の力で得たモノはある。だが、それを当然の事だと思ってはいけない。私は何時も、他の誰かに支えられ、他の誰かに見守られ、ここまで強くなれたに過ぎないのだから。
――私一人で得たモノは、私が思うよりもずっと小さく少ないのだ。
かつて、私に生き方を教えてくれたあの人の言葉を。
マリア姉さんたちが示した、心の気高さと謙虚さを。
それを、忘れてはならない。謙虚を、忘れてはならない。
彼と私は生き物としては対等である。
優劣は有っても、そこに上下は無いということを……忘れてはならない。
(知らず知らずの内に、傲慢な考え方をするようになっていた……反省しなければ)
こんな形とはいえ、気付く切っ掛けになった……そこだけは感謝をしておこう。
気づかれない程度に、サララはため息を吐いて……ふと、視線を辺りに向ける。それは、己に向けられる……様々な視線を迎え撃つ意味合いが強かった。
(とりあえず、力量を察するだけの目は持っているのは確か……か)
とはいえ、だ。じろじろと、遠慮なく視線を投げかけて来るのは、サララが新参者に見えるからなのか。
それとも、久しぶりに訪れた上品なおのぼりに対するからかいなのか……いまいち、判断し辛い。向かって来ないのは、懸命であるけれども。
「――ここだ」
意識の外から掛けられた、その言葉。ぼんやりと彷徨わせていた視線が、彼へと向けられる。彼の視線の先に目をやれば、そこは古ぼけた建物が一つ。見た限り、アパートと呼んでいい外観だった。
……もうこの時点で罠確定である。でも、連れられて中に入る。
錆びだらけのポストの下に潜んでいたネズミが、ちゅう、と鳴いてサララの足元から外へと飛び出して行った。ずいぶんと大きな、今まで見てきた中でも上位に入る図体だった。
「……ここでは、ネズミを飼っている人が居るの?」
「え、お前見つけたのか?」
「今さっき、そこから逃げて行った。あれだけ大きいのは、久しぶりに見た」
驚いて振り返った彼の視線に、サララはネズミが消え去った向こうを見やる。そのまま逃げ隠れたかと思ったが、「……捕まったみたいね」既に子供が捕まえているのが見えた。
痩せていて、サララより二つか三つ程年下だろうか。薄汚れた衣服に身を包んだその子供は、一瞬ばかり笑みを浮かべると、小走りにどこかへ走り去って行った。
遊び道具を捕まえた……にしては、少々感じが違うように思えるが……何だろうか?
「くそっ! あのガキ、運が良いぜ!」
「……運?」
彼の言葉に、サララは首を傾げた。「はあ? お前、決まってんだろ」それを彼は無知と受け取ったのか、ため息を吐くと苛立ちを隠すように頭を掻いた。
「ネズミは焼いて食うと美味いんだぞ。そんなことも知らねえの?」
「……えっ?」
思わず、サララはまた首を傾げた。
けれども、彼はそれには気づかなかったのか、「ほら、さっさと来いよ」そう言ってさっさと建物の中へと入って行った。
……一人、取り残されたサララ。
呆然と、今しがた子供が居た場所を見やる。食べる……食べるとはつまり、あのネズミを……焼いて、食べる。あの、子供が?
(いや、ネズミが食べられることは知っているし、私も野ネズミの肉は食べたことはある……んだけれども……)
サララが知る限りでは、だ。
食べられるというのは、あくまで野ネズミのことだ。街中で繁殖しているネズミなんて臭いし苦いし、とてもではないが食べられたものではなかったはず。
生き方を教えてくれたあの人も、『東京』に住まうネズミは腹を壊すだけで済まない場合もあるからと、食べるのなら飼育されているやつにしろと何度も私に注意を……止めよう。
(念入りに火を通せば、問題はないはず……その逞しさも、ここでは必要……ただ、それだけのこと)
そのように結論を出したサララは、軽く頭を振って意識を切り替えると、彼の後を追った。
……。
……。
…………そうして、案内された部屋。
彼曰く、『俺たち全員の共同部屋』だというその部屋は、これまた何というか……全体的に小汚い印象を感じさせる室内であった。
見たままの感想は、『東京』ではよくある内装……と言った感じか。全体的には木目調で整えられているが、これはさほど珍しくない。
ただ、内装に沁みついた何とも言えない甘い臭いが、妙に鼻に付いた。
また、家具の大半も年紀の入った代物で、所々修理の跡が見受けられる。埃か煙草の煙か、カーテンも窓も薄汚れていて、太陽が昇っているというのに室内は薄暗かった。
床のカーペットに至っては、穴どころか一部分が千切れて無くなった形跡すらある。空いた部分は黒く変色しており、うっすらとカビが生えているのすらあった。
(あんまり、長居すべき場所ではないわね……でも、建物自体は……けっこう、しっかりしているみたい。建てた人の腕が良かったのかしら?)
『皆を呼んでくる』と言われたっきり、一人残されたサララは、ぐるりと室内を見回す。失礼な行為ではあったが、戻って来るまでの退屈を潰す意味では、サララの興味を引くには十分な内装であった。
――こん、こん、こん。
しばらくして、室内の扉がノックされる。サララが振り返ると同時に、扉の向こうから『何をかしこまってんだよ』騒がしい会話が聞こえてきた。
と、思ったら、サララの返事よりも前に扉が開き……ゾロゾロと数名の男女が入って来た。それを見たサララは……ふむ、と一つ頷いた。
(……7人、か。あれ、こんなに少なかったか……確か、もうちょっと多かった覚えが……)
面影から記憶を探ることよりも、出会いの挨拶よりも。
おぼろげな彼方に残っている人影と、眼前の数を冷静に照合してしまう己が、ある意味では信じられなかった。
なにせ、最後の別れ方が、アレだ。最悪、顔を見た瞬間に全員を仕留めてしまうことすら心の何処かで危惧していたのは、否定出来ない。
よしんばそうでなくとも、一人か二人を反射的に手に掛けてしまうことを、本気で心配していた。
しかし、それが杞憂に終わったことが分かったサララは、人知れず握りしめていた拳から力を抜いた。ぬるり、と走る痛みと滑りが何なのかまでは、気付かないフリをしながら。
「――久しぶりね、サララ。私たちのこと、覚えているかしら?」
「覚えていたら、もうちょっとマシな顔を見せられたと思う」
その内の一人に声を掛けられたので、素直に答える。答えた直後、サララは声を掛けてきた女の顔を見て……内心、首を傾げた。
(今の私の年齢を考えても、一番齢が離れているのでも5つかそこらのはず……)
環境が理由の一つではあるだろうが……よく見れば、彼女だけではない。
彼を含めた全員が、妙に顔が老けているように感じる。見た所、実年齢よりも15は……栄養状態だけが、理由ではなさそうだ。
「……そ、それじゃあ、自己紹介でもしましょうか……せっかく会えたんだし、その方が思い出しや――」
「必要ない。どうせ、すぐに忘れる。それに、覚えるつもりもないし、思い出そうとも思っていない」
空気が、凍った。
「……っ、い、色々会ったけど、再会を祝したっていいと思わない?」
「思わないし、必要ない」
……サララとしてはごく当たり前のことを言っただけなのだが、「あ、あんたは、相変わらずね……!」少々、彼女の機嫌を損ねたようだ。
――まあまあ、落ち着けよ。
そう口々に彼女の宥めに入る、かつての家族たち。
責めるような視線を彼ら彼女らはサララに向けたが、今更そんなものでどうこうなるサララではない。茶番をする為に、来たわけではないのだ。
「ところで、さっきから気になっていたんだが……」
彼らの中では一番の大柄な男が、サララに話しかける。
男の視線が、サララから、サララの背にある……槍へと向けられた。
「なんで、部屋の中でそんな物騒なもんを持っているんだ?」
「お前たちの前で丸腰になる理由が思いつかない。ただ、それだけ」
……また、空気が凍った。
絶句して二の句を告げずにいる彼ら彼女らを前に……サララは、「やっぱり、来るんじゃなかった」これ見よがしにため息を吐いた。
「お前たち……まさか私と……仲直りできると本気で思っていたの?」
――瞬間、サララと彼を除いた全員が、一様に目を丸くした。
それを見たサララが彼に視線を向けると……彼は、バツが悪そうに視線を逸らした。
……つまり、そういうことなのだろう。
目の前の皆は、彼から都合の良い部分だけを聞かされていたようだ。道理で、微妙に話が食い違うわけだ。
「そ、それじゃあ、借金を肩代わりしてくれるって話は……?」
恐る恐る、サララの機嫌を伺いながらも尋ねられた質問に……サララは、「話にならない」ため息を持って答えた。
途端、彼ら彼女らの視線が一斉に一人へ向けられたが……サララは構うことなく本題を切り出した。
「これで、お前の要件は終わったな。それじゃあ、今度は私の番だ」
サララの言葉に、冷や汗を流していた彼は思い出したのだろう。
途端に顔色を良くした彼は、「ば、ばーか、そんな態度で教えると思ってんのか?」、サララが想定していたこと、そのままの言葉を口走ったので。
「そうか、ならばお前たちに用はない。どうせ、お前は何も知らないのだから」
サララもまた、想定していた通りの返答をして、外へと出ようとした。
「――助けてよ!」
だが、その前に。女たちが一斉に立ち塞がって、サララの進行を止めた。
そこに浮かぶ、必死の形相。目の下の隈が濃いせいか、それが彼女たちをさらに老いているように見せた。
「あんた、一端の生活出来る様になっているんでしょ!? だったら、助けてくれたっていいじゃない! でないと、私たち、本当に、本当に……!」
涙を零しながら、そう懇願する女たち。傍目から見れば、まあ、サララが悪者のように映るのかもしれない光景だろう。
「殺されるような借金を背負ったのは、お前らの責任。私には何の関係も無い」
ただ、実際はサララの言う通りであった。言葉通り、サララには何の関係もない話なのだ。
それどころか、彼ら彼女らはサララに対してどうにもならない過ちを犯してしまった。たとえそれが、未遂に終わったとしても、そこは変わらない。
最初に謝罪ではなく、助けを求める……サララに対して、何かをしてもらおうという考えそのものが、あまりにおこがましい話であった。
「それに、いきなり殺されたりはしない。女は娼婦として、男は奴隷のように働かされるだけ」
ただし、男も女も、本当の意味で碌でもない客を取らされることになるだろうが……その言葉を、あえてサララは口には出さなかった。
どうせ、結果は後で分かることなのだから。
「あ、あんたは何も知らないからそんなこと、軽々しく言えるのよ!」
「知っているから、はっきりと答えただけ。大丈夫、運が悪くなければ、それなりに長く生きられる」
唾を飛ばして叫ぶ女に、サララは真っ向から冷酷なまでに否定した。
実際、借金を抱えた者の末路は悲惨なものだが、本当の意味で悲惨な最期を遂げるのは、ほんのごく一部である。
(見た所、どちらも探せば幾らでも見つかる程度の顔立ち。体つきも……貧相ではない。まあ、可もなく不可も無いと言ったところか)
冷静に、眼前の彼ら彼女らの値打ちを試算する。
あまり趣味の良いことでは無いが……まあ、昔の名残である
(……でも、よく考えたら)
しかし、ふと。眼前の者たちを見つめながら、サララは……思う事があった。
(私もマリーに出会わなかったら、こうなっていたかもしれないんだよなあ……)
もちろん、借金を抱えた経緯も理由も違うだろう。
だが、今、こうして借金を抱えて苦しむ彼らと昔の自分は、何が違うのだろう。
「…………」
正直、助けたいか否かと問われれば、即答で『否』と答える自信はある。なにせこいつらはかつて、寝込みを襲ってきた相手だ。槍を振るう理由には十分過ぎた。
というかむしろ、この場でこいつらの首をはねたとしても……仕方がないと自分に言い訳すら出来る自信がある……だが、しかし。
(マリーなら、どう判断するだろう?)
やれ、と発破を掛けてくれるだろうか。
それとも、やるな、とこいつらをぶちのめすだろうか。
あるいは、好きにしろ、とサララの意志を尊重するだろうか。
(……御免なさい、マリー。少し、会えるのが遅くなる)
しばし悩んで、というには十分過ぎる程に頭が煮えたサララが出した答えは、それであった。
マリアたちが聞けば、甘い、と怒られそう気がするが、サララはその考えを振り払うと、改めて彼ら彼女らを見つめた。
「借金、返したいの?」
「――返してくれるの!?」
「私一人では返さない。これは運が多大に絡むし、あなた達も協力しなければならない」
にわかに浮かべかけた笑みが、止まる。と、同時に、サララの目つきが鋭くなった。
「お、俺たちに協力出来ることなら、何でもやるぜ!」
サララの反応を察して、男たちが声を張り上げる。遅れて、女たちも同様に声を上げる。それを見たサララは、威勢の良い彼らの声に一つ、頷き。
「それでは明日、ダンジョンに潜る。全員、今すぐ役所に行って探究者登録をするように」
そう、サララが宣言した途端。
「――えっ?」
威勢よく勇んでいた彼ら彼女らの顔が、引き攣った。サララをココに連れて来た『彼』も同様だった。
……。
……。
…………あれ?
反応が返ってこないことに、サララは首を傾げる。見れば、『彼』はもちろん、男たちも女たちも皆一様に青ざめた顔で言葉を失くしていた。
何故、こいつらは顔色を悪くしたのだろうか。
彼ら彼女らの反応の意味が分からず、サララはしばし頭を悩ませ……「ああ、そうか」、手を叩いた。
「大丈夫、武器や防具ぐらいなら、安物だけど用意してあげるから。いきなりは辛いだろうから、数日慣らしてから潜ろう」
そう、サララは彼らを激励した。けれども、彼らの顔色は変わることなく、むしろさっきよりも悪くなったように思えた。
……ますます、意味が分からない。
(もしかして、言葉が悪かったのだろうか?)
内心、ドキドキしながら反応を待っていると……たっぷり5分経ってから、「だ、ダンジョンに、潜る?」彼らの内の一人が、かすれた声でそう呟いた。
「うん、そう言ったけど?」
何だ、ちゃんと聞こえているじゃないか。そう思いつつ頷くと、それを皮切りに次々に声が上がり始めた。
「潜るって、探究者になれってことだよな?」
「そうだよ、でないと犯罪者だもの」
「俺たち、何の訓練も鍛錬も受けてないぞ。武器だって、ナイフぐらい……」
「大丈夫、そのうち慣れる。慣れなかったら死ぬだけだから、嫌でも慣れる」
「――も、もちろん、俺たちは荷物持ちだよな? 武器って、あくまで護身用だよな?」
「ビッグ・ポケットがあるから、荷物持ちは不要。あなた達がやることは、自らの身を自分で守り、自分の力で生き抜くということ」
「そ、それは、俺たちが借金を返すまでお前が護衛してくれるってことだよな? な?」
「寝言は寝て言え。こうして力を貸してやるだけでも有り難いと思え」
「で、でも、俺たちはお前とは違うんだ! あ、あんな場所、皆死んじまうよ!」
「どうせ、このままだと破滅は必至。嫌なら無理強いはしないけれども、それ以外の手段を私は知らない」
そうして答弁を繰り返すと、幾しばらく。
最初は悲鳴染みた彼ら彼女らの泣き言も、有無を言わせないサララの一言に切り捨てられていく。
……そして、ついには沈黙が室内に圧し掛かる。
けれども、青ざめたまま唇を噤む彼ら彼女らと、どうしていいか分からず何も言えないでいるサララ。
互いの沈黙の意味する理由に、天と地ほどの差があった。
「も、もしかして……あの時のこと、まだ恨んでいるの?」
重苦しい沈黙を破ったのは、最初に話しかけてきた女だった。
「……? 恨んでいるかと言えば、まあ、恨んでいる。だが、今はそんなことを話してはいないが?」
何をまた突然に……意味が分からず首を傾げた途端、女たちが吼えた。
「そりゃあ、一度はあんなことしてしまったけど……でも、アレは子供の時の話じゃないの!」
「……はっ?」
女の言葉にサララはしばしの間、何を言われたのか理解出来なかった。
たっぷり十数秒程経ってから、ようやく我に返ったサララは……信じられない物を見る目で、女たちを見やった。
(――そうか、分かった)
そうして初めて、サララは理解した。自分が何故、目の前のこいつらを前にして、妙に敵意を押さえられなかったわけが。
(こいつらにとって、あの時、私に行ったアレは……もう、終わったことであり、昔の話でしかないことなんだ)
今更になって、サララは理解した。彼らにとって、アレはもう過去の出来事。いちいち蒸し返す必要が無ければ、そんな面倒なことをする理由も彼らには無く。
(だからこいつら)
怒りが。
(私に対して謝罪の一言も無かったんだ)
噴き出す。
(全部、もう終わったことだから)
握りしめた柄が、軋む。
(謝る必要など無いと、思っていたから)
ぎりりと、噛み締めた奥歯が音を立てる。
後一つだけでも切っ掛けがあれば。サララは躊躇なくこの場を血で染めていただろう、極限の刹那。
「――出来ないのであれば、私に出来ることは何も無いよ」
サララは……堪えた。寸でのところで、踏み止まった。大きく息を吐いて怒りを吐き出し、心を鎮める。ただただ、マリーのことだけを思い浮かべて。
そうして改めて目の前の彼ら彼女らを見て……思わず、サララは失笑した。何のことはない……どこにでもいる、老け顔の男女が数名であったから。
「私は帰る……死にたくなければ、退け」
「――俺たちを見捨てるのか!」
サララの言葉に、一番近い位置に居た男が飛び掛かってきた――が、その足は一歩進んだだけで終わった。
「……お前たちは、一つ勘違いしていることがある」
男の鼻筋に、身体全部を捻るようにして放たれた横一線。ぴしゅ、と血飛沫が舞うと同時に、ぱっくりと割れた傷口から血が滴り落ちる。どたん、と男とは尻餅を付いた。
男には、見えなかった。サララがどうやって、槍を振るったのかが。男の後ろから見ていた他の者たちですら、残像を捉えられない。
――この時初めて、彼らは理解した。そして、思い知った。
自分たちが相手にしている存在が、どういう者なのかを。
かつては小さかった彼女が、今や自分たちでは……何をしてもどうにもならない相手であるということを。
「初めから、私とお前たちとの間に関係など……ない。それを、理解しておけ」
その言葉と共に、彼ら彼女らは転がる様にサララの前から飛び退く。かつての家族から向けられる恐怖の視線を受けながら……サララは悠然と進む。
「――どうして、どうしてよ……」
崩れ落ちる様に蹲っていた女の一人が、呻くようにして泣き始めた。
「どうして、私たちだけこんな目に合うのよ……どうして……なんで私たちだけ、こうなるのよ……」
あえて、サララは何かを言おうとは思わなかった。
ただし、一つだけ……。
「――あ、そうそう。そういえば、あんた、結局のところ心当たりはあるの?」
ドアノブを掴んだ辺りで、サララは振り返った。「そ、そんな男、知らねえよ」勢いよく首を横に振る彼を見て、「まあ、そんなところだろうとは思った」ため息を吐いた。
「これを逆恨みして、私を付け狙うのなら……今度は容赦しないよ」
それだけを言い残すと、サララは静かに扉を開けて……外に出た。
後に残されたのは、恐怖と緊張から解き放たれて無様な姿を晒した……どこにでもいる、男と女たちであった。
(やれやれ、やはり無駄足か)
扉一枚を挟んだ、廊下側。しばしの間、扉に耳を近づけ室内の様子を探っていたサララは、もう大丈夫だと判断して、そっと扉から離れた。
億が一の可能性に掛けてはみたが、結果は案の定。彼はマリーの行方はおろか、マリーが誰なのかも分かっていなかった。
全ては、サララに泣き脅しする為に付いた嘘だった。あの様子だと、そもそもマリーの外見すら知っていたのかも怪しい。
(思えばあいつ、マリーの名前を一度も出さなかったし、“探し人”って曖昧な言い回しをしていた……まあ、名前云々は考え過ぎか)
けれども、サララとしてはある種スッキリした気持ちですらあった。それは今まで気づきもしなかった、心の奥底にあったものだが……一つの区切りを付けたような気が、サララはしていた。
まあ、元はと言えば己が馬鹿だっただけか……それにしても、何だか妙に疲れた気がする。ドッと疲れが圧し掛かった肩を揉み解しながら、サララは再びマリーを探す為に街へと。
(――あれ?)
戻ろうとして、足を止めた。違和感が、脳裏を走った。
(あいつは、マリーの事を何も知らなかった。だから、マリーに関する情報を何も話さなかった)
そう、そこは分かっている。あいつは、マリーのことを知らなかった。あの状況になってもまだ話さなかった辺り、それは断言できる。
サララに対する信頼を得る為には、嘘でもマリーとの繋がりが有ったことを示した方がいい。
それが無いと言うことは、すなわち……そこまで頭が回らないバカか、あるいはボロを出さない為に言わなかったかの……二つ。
(仮に……仮に、本当に彼がマリーのことを何一つ知らなかったのだとしたら……)
だが、それならば。
(なんであいつは、私の質問に、『そんな男など知らない』と答えた?)
そこまで思い至ると同時に、きぃ、と背後で扉が開く音がした。
次いで、こつ、こつ、と床を踏みしめる音。
あいつらの内の誰かが出て来たのかと思ったサララは、勢いよく振り返った。
「えっ――」
だが、違った。サララの視線の先に居たのは、白いワンピースタイプの服に身を包んだ、緑髪の少女。
この場には似つかわしくない、不思議な香りを漂わせた見知らぬ少女であった。
そして、その少女を視界に収めた直後にサララが取った行動は――。
「――っ!」
――無言のままに槍を構えて心を研ぎ澄ませ、迎撃態勢を取る……であった。
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