第三話: 緑髪の少女
※暴力的・グロ的な描写有り、注意要
……静まり返った、空気。張りつめた気配がそうさせるのか、サララの居るこの廊下では、虫の鳴き声すら聞こえてこない。
あるのは、サララの鼓動と呼吸音。ただ、それだけ。
何故、槍を構えたのか。それはサララ自身、分からなかった。
ただ、眼前の少女を視界に収めた瞬間、これまで培ってきたサララの中にあった何かが全力で警報を鳴らした。
――だから、サララは従った。
何か考えるよりも前に、何か行動するよりも前に、まず、構えた。そして、それから初めてサララは……少女のことを、考えた。
(今、こいつはどこから出てきた?)
まず、それが強くサララの警戒心を刺激した。今しがた扉を開けたのが聞こえたが、サララの後ろにある扉は……あいつらが集っている部屋へのものだけ。
それ以外に扉は見当たらない。つまり、少女は今しがたまでサララが居た部屋から出てきたということになる……いや、ありえない。
内心、サララは首を横に振った。
(さっき部屋に入って来たのは7人のはず……一人、見落とした?)
そんな馬鹿な、ありえない。サララはすぐに否定する。
こと、気配や殺気を探る術において、サララは、マリーたちの中では誰よりも上だ。それだけは、密かに自信を持っていたからこそ、ありえない。
(わざわざ人影に隠れていた?)
なぜ、そんなことをする。それに、あの時は数えるついでに気配も探った。入って来た数は7だったし、顔も確認したから、これは断言できる。
(ならば、気配を消して隠れていた?)
それこそ、ありえない。あの時は怒りで多少心が乱れていたが、だからといって人ひとりの気配を見逃すことはない。
むしろ、怒りで心がざわついていた分だけ、気配には敏感だった自覚すらある。
……しかし少女は居る、サララの目の前に。
先ほど耳にした歩数から考えても、少女が出て来たのはあの部屋から以外考えられない……いったい、何者?
(こいつ……どういうつもりだ?)
自然とサララの視線は鋭く、強くなる。
はぁ、と吐かれた息が、思いのほか大きく廊下に響いた。構えた槍の刃先が窓からの光を受けて、ゆらりときらめいた。
……サララから見て、少女の存在は『場違い』の一言であった。
何が場違いか、それがサララには分からなかったが、とにかく、それがサララの中に強くあった。
着ている服は特別珍しい代物ではなく、『東京』ではごくありふれたワンピースタイプの衣装だ。しかし、よく見れば、解れが全く見当たらないだけでなく、驚く程細部まで洗練された逸品であるのが確認出来る。
言うなれば目立たない高級品、というやつなのだろう。それだけでも違和感が強いというのに加えて、少女の風貌だ。
室内だというのに目深く被った帽子のせいで、鼻先から上を確認出来ない。しかし、すらりと下ろされた緑髪は遠目からでも美しく、手入れが隅々まで行き届いているのが見て取れる。
だからこそ、サララは場違いだと思った。
何せ、良い所のお嬢さんが居る『東京』の中心地ならまだしも、ここは『貧民街』。どこからか盗んできた……にしては、それを見に纏う少女が、あまりに身綺麗過ぎた。
……そして、何よりも。
槍という凶器を向けられても怯えた様子も無く、その小さな唇が楽しげに弧を描いている。令嬢ではありえない反応……その異様さが、不気味に思えてならなかった……と。
「少し――」
少女の唇が、動いた。張り詰めた空気に注がれた、柔風の囁き。外観からのイメージそのもののような愛らしい声だった。
「期待が、外れましたわ」
そう言いつつも、少女はどこか楽し気であった。だからこそ、サララはより少女への警戒心を強めた。
「……言っている意味が、理解出来ない」
周囲の状況を確認しながら、サララはほんの僅かだけ後退(あとじさ)る。
何をするにしても、されるにしても、ここ(廊下)はあまりに狭すぎる。小柄なサララであっても、これでは存分には戦えない。
「憎かったのではなくて?」
帽子のつばに隠された視線……観察されている、そう、サララは思った。
「八つ裂きにしてやりたい。そう、思ったのではなくて?」
まるでネズミの動向を眺める子供のように、その声には軽やかさすら感じられた。
「お前には、関係のないこと。あれは、私だけの問題だ……名も知らぬお前にとやかく言われる筋合いはない」
突き放すようなサララの言い方……けれども、少女はそれが楽しいのか、笑みを浮かべた。
「あら、ツレナイことを言いますのね。これでもあなたのことを気に入っていますのよ……私たちの中では私が一番、ね――」
その言葉とともに、少女の傍にある扉下の隙間から、赤い何かが染み出てくる。それは赤黒くも滑らかで、少女の足元を柔らかく染めていく。
すん、と鼻を鳴らしたサララは、よりいっそう警戒心を強める。何故なら、その液体から漂ってくるのは紛れもない……濃厚な血の臭いであったから。
室内がどうなっているかは、サララには分からない。知りたいとも思わないが、留まることなく広がりを見せる赤色を見る限りでは、もう……。
「せっかく会わせてあげたというのに、あなたったら何もしないんですもの。我慢せずにその槍を振るえばよかったのに……なぜ?」
「…………」
「ただの気紛れか、あるいは打算の果てか。それとも、あなたの中にある良い人の想いを……汚したくなかったから、かしら?」
「…………」
「……だんまり、か。まあ、もう片付けちゃったから、今更なことでしかないわね」
そういって、少女はため息を吐く。少女から放たれる気配はあくまで悠然としていて、思考が読めない。
「お前は、誰だ?」
「そう尋ねると言うことは、あなたはあの子から何も聞いていないのね」
「あの子?」
「あなたが愛おしいと思っている人ですわ」
「……少し、あなたに対して興味が湧いた」
「あら、それはとっても嬉しいことよ。何でも教えたくなっちゃう……だって私、皆から厄介者扱いされているんだもの」
「へえ、そう……」
「そうなの、皆、とっても意地悪なの。私だって、私の一部なのに……」
あくまで優雅に余裕を見せながら、この脈絡のない意味不明な言葉……厄介で面倒な相手だと、率直にサララは思った。
だからこそ、サララは少しでも少女から距離を取る。とにかく、外に出なくては話にならない。
「皆、酷いのよ。私がちょっと遊ぶのに夢中になっただけなのに、寄って集って私を責めるんだもの」
「ああ、そう」
「あら……またツレナイ反応……もう少し笑顔を見せてくれてもいいじゃない」
「よく言われる」
少女に気づかれないように、少しずつ、少しずつ。
おそらくは……いや、もう既に気づかれてはいるだろうことを視野にいれて、サララは後ずさる。最悪、窓を蹴破って外へ――。
「……やっぱり、私ってあなたのこと好きですわ」
――ほんの一瞬。コンマ1秒にも満たない、瞬きの如き刹那の一瞬。
「あなたと遊ばないようにって決めていたのに」
サララの注意が少女から離れ、逃走経路を確認した瞬間。
「あなたのことを見れば見る程、知れば知る程」
気づけば、サララの眼前。すらりと伸びたサララの鼻先と、少女の鼻先が触れるまで迫っていて。
「あなたの色んな顔を、見てみたくなるわ」
帽子のつばに隠されていた、緑色の瞳と目が合った――そう理解した瞬間。
無意識の内にサララが取った行動は、身を滑り込むようにして放つ、肘打ちであった。
――。
――。
――――っ!?
ぐるん、と世界が回る……いや、違う。
その世界の中で唯一、少女だけが回っていない。
あっ、とサララの目が大きく見開かれ……声を上げるよりも前に、サララの身体はパキン、とガラスを突き破った。
――投げられた。
背中から広がる衝撃と痛みが、己が宙を舞っているという現実を教える。いつぞやを想起させる浮遊感に歯を食いしばり、ガラス片を撒き散らしながら……身体を捻って、地面に着地した。
常人なら何も出来ないまま地面を転がっていたところだろう。遅れて、幾重もの破片が地面に散らばって、広がる。辺りから悲鳴が聞こえたが、構っている余裕はない。
身体に付いた破片をすばやく払いのけながら、気功を駆使して体勢を整えたサララは……、悠然と立つ前方の少女を睨みつけた。
「ああ、その顔……とってもステキ」
ぶるりと、目に見えて身体を震わした少女が、恍惚の顔で帽子を放り捨てた……と思ったら、小さい指で形作られた拳が、サララの目の前に迫っていた。
「――っ!」
さすがに二度目の不意を受けるつもりはない。
頬を掠める様にして流す「はい」裏拳、「はい」肘打ち、「はい」正拳、「はい」膝蹴り、「はい」、とび回し蹴り――息をもつかせぬ連撃の五月雨。
一拳一足が、ヒュオ、と空気を切り裂く。
右に左に、前に後ろに、縦横無尽に地を蹴って、人間ワザとは思えない身のこなしだ。あまりの速さに砂埃が舞いあがり、飛び散った土が傍の建物にぶつかって、跳ねた。
サララは研ぎ澄まされた超感覚で持って、それらを受け止め、流し、躱し、跳ね除ける。槍の柄をたわませ、時には地面に突き刺していなしながら……捉えた隙へと、槍が大気を唸らせた。
「まあ、速いですわね」
けれども、少女はそれよりも速かった。そして、常識の斜め上を行った。
たん、と少女は地を蹴った。まるで羽のように宙を舞う少女を前に、サララは素早く攻撃に転じ――ようとした瞬間、少女が、何もない空間を蹴って反転した。
「――っ!?」
紙一重であった。
喉を抉り取る勢いで放たれた蹴りを柄で受け止めて、流す。いなしきれなかった衝撃が風圧となって頬を掠め、砂埃が舞った。
少女の猛攻は、終わらない。
まるで、見えない壁があるかのようにそこへ手をついて、蹴って、転がって、即座に体勢を整えてサララへと迫る。
平面的な攻撃から、立体的な攻撃へと姿を変えたそれらを前に、さしもののサララですら防戦を強いられる。
「はいさ」
軽い声で放たれた裏拳……それが、サララの身体を宙に浮かせる程の威力だと、誰が思うだろう。
魔法術なのか、それとも別の何かなのか、それは分からない。
だが、サララには触れることが出来ず、少女だけがそれを駆使出来るのを考えれば、少女が『壁』を作り出しているのは明白であった。
音よりも速く上げられた足が、下される。
受け止めた身体が軋み、ずどん、と地面に足跡が残る――と同時に放たれた後ろ蹴りが、地面を削りながらサララの身体を滑らした。
(なんという速さ……なのに、重い!)
防御が、徐々に間に合わなくなってきている。己が危機的状況を悟った直後、駄目押しと言わんばかりに放たれた蹴りが、サララの身体を宙に飛ばし……見知らぬドアにぶち当たった。
「えい」
「くっ――!」
顔面へと放たれた蹴りを、首を捻って躱す。バキッ、と扉が内側に倒れる。「――な、何だ君たちは!?」室内に居た住人が驚いて立ち上が――ると同時に、サララの身体が天井にて着地した。
悲鳴を無視して、衝撃で天井に抑えられた姿勢のままサララは顔をあげる。瞬間、サララが見たのは、穴が開いた扉の横なぎによって首をへし折られた、住人の姿であった。
「パパ――」
「邪魔」
悲鳴を上げかけた子供の頭を、少女は無造作に横殴りする。ばん、と壁に頭が放射状に張り付いたのと、サララが床に降り立ったのは、ほぼ同時であった。
「――せいやぁ!」
初めて、サララが先手を取った。踏み込んだ床が陥没する程の勢いで放たれた、必殺の突き。
「いいわよ、それ」
だが、それでも少女の方が早かった。
目にも留まらぬ動きで盾にしたのは、首から間欠泉のように鮮血を噴き出して痙攣する、子供の亡骸であった。
ぶばぁ、と肉片と血飛沫が爆発した。鮮血の霧と臓腑が部屋一面に広がって、張り付く。顔どころか全身を真っ赤に染めた二人は、無言のままに血が滴る得物を構えて……始まった。
「ほら、ほら、ほら、ほら、ほら」
少女は実に楽しそうに、手首足首を柄にして、ただ、振り回す。まるでタオルか何かのように扱われたそれは、恐ろしい武器となって叩きつけられた。
飛び散る鮮血に混じって、折れて欠けた肋骨が部屋中に散らばる。遠心力で飛び出した臓腑をサララが切り跳ねるたび、その笑みが深まっていく。
人間の死体を……亡骸を振り回して笑みを浮かべる。それを目の前にして、いったいどれだけの人間が正気を保てるだろうか。
もはや完全に原形を失くした亡骸をサララに投げつけ、今度は親の身体を振り回し始める。
その一瞬の隙を見たサララの刃が、折れ曲がっていた首を切り落とし……そしてまた、部屋一面に鮮血と臓腑が塗り固められ始めた。
「うふふふふ――!」
「――っ!」
びちゃ、びちゃ、びちゃ。二人の身体が、血で真っ赤にそまっていく。狂気が踊る世界の中、徐々に濃厚になってゆく鉄臭さ。繰り出される肉塊を跳ね除け続けたサララの呼吸が、ここに来て徐々に乱れ始めた。
(強くて速い……反撃に移れない……!)
無意識の内に、サララは舌打ちをした。
それは、眼前の状況に恐れを成したからではない。少女が放つ猛攻があまりに激しすぎて、受けるだけでも体力を多大に消耗させらていることに対する、苛立ちからであった。
なにせ、繰り出される一撃が身体の深奥に響く程に重い。加えて、それらが息つく暇も無く放たれ続けるのだ。サララをもってしても、防御に極限の集中を強いられる。
それすなわち、サララはほぼ無呼吸のまま少女の攻撃を凌ぎ続けなければならない、ということ。少女の連撃は、呼吸する間も惜しい程の猛攻なのであった。
鍛えに鍛えたサララの肺活量が常人のソレでは無いとはいえ、無限ではない。辛うじて作り出した一瞬の合間に呼吸を行っているとはいえ、それでも徐々に影響が出るのは必然であった。
(このままでは……!)
身体が、燃えるように熱い。蟻が手足を這い回る感覚にも似た痺れが四肢から広がり、胸の奥が砂漠のように乾き始めてくる。
「あら、もう限界?」
「――っ!」
ポツリと呟かれた少女の言葉に、サララはことさら無表情を貫いた。
「でもね――」
でも、少女はサララの状態を見透かしたかのように……満面の笑みを浮かべた。
「もっと――」
突然、床に張り付いていた鮮血から煙が噴いた、その直後。
「楽しみましょう――」
床一面が……火の海へと姿を変えた。
「この滾りを――!」
「――っ!?」
再び投げつけられた肉塊を跳ね除ける――瞬間、少女とサララの距離が0になった。
素早く身体を捻って振り払う……が、それを見越していた少女の足払いによって、サララは鮮血の中を転がった。
加えて、一瞬の合間に跳ね飛ばされた槍がサララの手を離れ、壁に突き刺さる。体勢を整えようとしたサララの上に圧し掛かった少女は……マウントポジションのまま、満面の笑みでサララを見下ろした。
「絶体絶命……さあ、もっと見せて」
「――っ!」
素早く、何度も、サララは少女の身体を跳ね除けようと、身を捻じって床を蹴る。だが、そのたびに少女は巧みに重心をずらしている為、中々振り落とせない。
(――な、なにこいつ!?)
それだけでなく、少女の身体は異常なまでに重かった。
サララとそう変わらない体型(見た目)だと言うのに、下腹部に圧し掛かる少女の重圧と来たら、大人の比ではなかった。
――いったい、どういうことなのだろう。体重移動では説明の付かない……まるで巨大な岩石が圧し掛かったかのようだ。
骨盤ごと内臓を押し潰されてしまいそうで、まともに呼吸が出来ない。気功で肉体を強化していなければ、サララの下半身が潰されていたことだろう。
「ほーら、よそ見しないの」
「――ぐっ、ぬぅ!」
その状態でさらに少女は、サララの顔面へと拳で連打する。繰り出される拳を腕で受け止め、頬を掠り、飛び散った木片と血のりがバチバチと顔にぶちあたる。
力では完全に押し負け、重量も相手が上、さらに少女にはサララと違って余裕がある。加えて、サララの得物は手の届かない所に追いやられ、少女の得物は……己の拳。
状況は、最悪に等しかった。
力もそうだが、一番の武器である速さでも完全に負けているうえに、この体勢。反撃に移る隙どころか、このままでは時期に防御を破られるだろう。
(どうする……!)
猛攻を受け止め続けている腕が、瞬く間に痺れてきた。それはすぐに痛みに変わり、一発、一発と拳が腕に食い込む度に、脳裏が赤く染まる程の痛みが走る。
どうする、どうする、どうする……焦りばかりが脳裏を過る。
徐々に腕の感覚が無くなっていくのが分かる。まだ辛うじて折れてはいないが、このままではすぐに――!
「――んご!?」
するりと防御を抜けた少女の拳が、サララの頬を、ごつん、と打ち抜いた。途端、少女の目が驚きに見開かれた。
「あらららら……もう、ちゃんとしないと駄目ですわよ」
そう言いつつも、振るわれる拳……それが、反対の頬にぶち当たる。
鋭く走った衝撃と共に視界が三つに分かれ、口の中で火花が散った。
痛みは無く、ただ熱さだけが広がる……鉄臭い味と異物感が、口の中に広がった。
「もう、おねんねには早いわ――」
その異物が己の歯であることを理解した瞬間、サララは無意識の間に反応していた。
三度目となる拳が振るわれる前に大きく息を吸って……溜まっていた血ごと、砕けて割れた歯を噴きつけてやったのだ。
「やっ――汚いわねえ」
その瞬間、少女は初めて表情を笑みから不快に変えて、のけ反った。
(――今だ!!)
一瞬の隙。その瞬間、サララは全身の筋肉に力を入れる。食いしばった歯が、ギリリと軋み……砕けた。その直後、サララの身体が、ぐんと跳ねた。
少女の身体が、ふわり、と重さを感じさせない動きで宙を舞った。その間に急いで(――だ、大丈夫、折れてない!)立ち上がったサララは――目の前に迫る少女の蹴りを躱した。
「ほーら、油断しない」
しかしそれは、囮であった。
「――ごほぉ!?」
信じられない速さの踏み込みから放たれた、掌底。その威力はサララの身体を宙に浮かし、建物の外へと吹っ飛ばし、そのまま身体を数回転させる程のものであった。
建物の外から様子を伺っていた住民たちが、悲鳴をあげて一斉に逃げ出していく。誰一人、蹲って苦痛に呻いているサララに手を差し伸べようとはしない……それも、仕方がなかった。
なにせ、彼らは先ほど既に二人の戦いを見ているのである。加えて、人間がありえない動きを見せて飛び出して来たのだ……逃げるな、と言う方が無理な話であった。
――うごぇ。
辛うじて失神を堪えたサララは、蹲った姿勢のまま胃の中の物を全て吐き出した。幸いにも内臓破裂は起こしていなかったが、今の一撃で受けたダメージは我慢でどうにかなるレベルではなかった。
はあ、はあ、はあ、はあ……サララの乱れた呼吸、燃え盛る炎の息吹。涙と胃液と鼻水と、粘りのある血で汚れた顔を、ゆっくりとあげて……頬が強張ってしまうのを抑えられなかった。
悠然と……少女が、立っていた。
燃え盛って煙を吐く家を背にした少女は、実に楽しげな様子でサララへと歩み寄る……その足が、サララの前で止まった。
「いいわねえ、その顔」
――にへら。
まるで大好きな人形を前にした幼子のように、頬を淡く染めた少女は恍惚に頬を歪めた。
「苦しいでしょ? 痛いでしょ? 怖いでしょ? 私、そういうのが大好きなの。大好きなあなたがそういう顔を見せるの……見たかったの」
するりと……少女はしゃがんで、蹲ったサララの目線に合わせた。
「いいわぁ……うん、凄く良い。どうせもうすぐ私たちの終わりが来るんですもの、少しぐらい、私が楽しんでも……いいわよね」
そう言って、心から嬉しそうに笑う少女を見て……サララは、かちり、と歯を鳴らした。
――どうする。
霞んでぼやける少女を見上げたサララは、必死に思考を巡らせる。ともすれば、苦痛で意識が飛んでいきそうだった。
――どうする。
槍は、少女の後ろにある、燃え盛る家屋の中。両腕はほとんど感覚が無い程に痛めつけられ、両足は酸欠と疲労でまともに動きそうにない。
うふふふ、含みのある笑みを零しながら、少女はそっと……サララの細い首に手を回す。それを、サララは黙って見つめるしかなかった。
――どうする。
抵抗する力など残されていないサララは、静かに、それでいてゆるやかに込められていく力を認識することしか出来ない。
――どうする。
少しずつ、少しずつ、少女の笑みが歪に深まっていく。それに合わせて、しゃがんだことでスカートの奥……幼子のような亀裂から、幾重もの粘液が滴り落ちているのが見える。
――マリー。
いよいよもって、サララの意識が薄れていく。目に見えて興奮を強める少女の顔の向こうで、記憶の彼方にしか残っていなかった思い出が映し出されていく。
――死ぬ前に、一度だけでも。
(あなたに、会いたか――…………)
その時であった。苦しみも、痛みも、消え去った一瞬……フッとサララの意識がどこか遠くへと飛び立とうとした瞬間――。
「――駄目、あなただけは、死んではいけない」
飛び込んできたその声が、サララの意識を瞬時に現実へと引き戻したのは。
――何が起こったのか、分からなかった。
その声を認識した直後、軽い衝撃と共に首から手が外れた……何かが胸に触れた。途端、初めて実感する、強い痺れにも似た衝撃が、心の臓を強く叩いた。
「――ごはぁ!?」
一拍置いて、サララは脳と本能が求めるままに激しく呼吸をした。
ふごごごごご、と人間が出したとは思えない音を立てて、サララは無我夢中で酸素を取り入れる。
(――い、生きてる……!)
間一髪……まさしく、間一髪だった。
あとほんの十数秒……いや、あと数秒でも手が外れるのが遅かったら、サララは完全に意識を失って……死んでいただろう。
ぜえ、はあ、ぜえ、はあ、ぜえ、はあ……冷や汗が滝のように流しながら、サララはそれを強く実感する。痛みすら覚える程の激しい鼓動……本当に、危ないところであった。
……そこまで考えた辺りで、ハッとサララの頭が動き出す。そうだ、まだ、敵は目の前に居る。こんな状態で安堵している場合では――。
「――え」
――そう思って顔をあげたサララは、一瞬、目の前の光景を理解出来なかった。あまりに理解しがたい光景に、己の正気を疑ったぐらいだった……なぜならば。
(同じ顔が……二人?)
先ほどまでサララを襲っていた少女が、二人に増えていたからだった。
着ている物も同じ、背丈も同じぐらい、顔立ちも同じ。
一人はサララを庇うようにして立ち、もう一人は……苛立ちを露わにして、サララを……正確には、サララを庇うようにして立つ同じ顔をした少女を睨みつけていた。
「……殴られちゃったわ」
サララの困惑と動揺を他所に、睨みつける少女……よく見れば頬に痣が出来ている、先ほどサララを襲っていたであろう少女は、不快そうに舌打ちをした。
「どういうつもり? あと少しでイケそうだったのに……邪魔しないでくれないかしら?」
「どういうつもり? それはこちらの台詞だわ」
対して、サララを庇っている少女……サララを助けた少女も、苛立ちを隠さずに舌打ちをした。
「『あの子たちの相手は私がする』それは、『私』が決めたことのはずよ。『私たち』に、この子をどうこうすることは許されていない」
「でも私は、『私』から別れたもう一つの自分。私が望むことは、『私』が望んでいるということ……それを止めるなんて、不思議な話だわ」
「屁理屈をこねるな。例えそうだとしても、それを決めるのは『私』であって、『私たち』ではない」
(な、なに? 私? 私たち? どういう、こと?)
いったい何が起きているのか、サララは全く事態を呑み込めなかった。
あまりに突然な展開に、苦痛すら一瞬忘れてしまう。「――興が、削がれましたわ」燃え盛る家屋の弾けた音が無ければ、サララはおそらくずっと呆けていただろう。
「また会うことになるでしょうね……それではごきげんよう、サララ」
どこかへ放り捨てていた帽子を……何時の間に取って来たのだろう……かぶり直した少女は、陽気な笑みを見せてサララに背を向ける……と。
「えっ!?」
スーッと、その背中が空気に溶け込む様に消えて行く。ハッと、サララの意識が我に返った時にはもう既に、影も形も無くなっていた。
呆気に取られる、とはこのことだ。
あんぐりと、大口を開けたまま呆然と何も無くなった空間を見つめているサララ……そこで、限界に達したのだろう。
「……さて、と」
安堵のため息を吐いた少女が、サララへと振り返る。
「こうして顔を会わせるのは初めて――って、ちょっと――」
先ほどの少女とは打って変わって……同じ顔をした少女が見せた、敵意を感じさせない優しい笑みを前に、サララの意識は闇に閉ざされた。
――マリー。
愛しいその人の名前をポツリと呟いた、後だった。
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