サララ編
第一話: 想い人の影を追いかけて
喧騒が、周囲を埋め尽くしていた。日が落ちた夜の街は、昼間には眠っている者たちが起き出してくる。
男を呼ぶ声、女を呼ぶ声、昼間とは違う騒がしさが、『東京』の夜には広がっていた。
蒸し暑かった昼間の日差しにも負けない、行き交う人々の熱気。ある種の湿り気を帯びた空気は、言葉では表しにくい何かを孕んでいる。
独特の雰囲気を伴ったそれらの中には、様々な人たちで溢れかえっていて、それらは主に二つに分けることが出来た。
一つは、いわゆる仕事帰りの一般人。赤ら顔で歩く者、これから呑み歩こうとする者、急いで帰路に着いている者……大半を占める彼らに気を留める者は、そう多くない。
そして、もう一つは……探究者やならず者、夜の仕事に就いている者たちだ。彼ら彼女らを気に留める者は多く、特に夜の仕事に就く者たちはこぞってこういう人達に声を掛けている。
……いったい、何故か?
それは単純に、金遣いが荒いからである。
例外はあるものの、彼ら彼女らの暮らしは危険が近い。昼を生きる者たちとは違い、暴力と血と性の世界で金を稼ぐからなのか、彼ら彼女らは総じて金を使ってくれる。
……だからなのだろう。夜の街で見かける後者は、一目でそういう世界で生きる者たちだと分かる雰囲気を放っていることが多かった。
彼ら彼女らが、自らそう振る舞ったわけではない。そう、振る舞うように己を見繕ったわけでもない。
だが、その生き方が、そうさせてしまうのだろう。
昼を生きる者と夜を生きる者には目に見えない違いがあり、ごく自然と区別が敷かれていた。
加えて、その区別を強固にしているのは、時間だ。昼を生きる者たち……特に、女たちの間には、ある種の門限とも言うべきものが存在していた。
それは誰が最初に始めたというわけでもなく、極力夜に出歩かないという、暗黙の了解が『東京』にはあって、気付けば生まれていたルールでもあった。
夜の世界を歩くのだから、それだけの覚悟はしているのだろう。
己の身を守るだけの度胸と機転は、備わっているのだろう。
不運が起こっても、へこたれない強さを持っているのだろう。
それが無いのなら、夜に外を出歩くな。
出歩いて何かあれば、それはお前が馬鹿で悪いのだ。
警察や助けなどを当てにする前に、己を守る為の行動を取れ。
そんな考えが、ごく当たり前のように一般常識として根付いているからだろうか。自然と、夜に出歩く女はそういうこともしている女ばかりという認識が広まっていた。
……そんな、夜の街並みの中で。
満足ゆくまで酒を飲んだ、とある男。その彼が、たまたま前を歩いていた麗しい褐色の少女に交渉を持ちかけたのは、『東京』の夜ではどこにでも見られる、ごく有り触れた光景の一つに過ぎなかった。
――振り返ったサララが最初に感じたのは、眼前の男の酒臭さであった。
次いで、認識したのは、己を見つめる粘ついた空気。己を女として捉えている、欲情を滾らせた特有の雰囲気であった。
……なんだ、こいつは?
無表情のままに、サララは男の風貌と気配を確認する。立ち振る舞いもそうだが、重心の安定感の無さ……ただの、酔っ払いか。
わずか1,2秒の時間だけでそう判断したサララをしり目に、男はヒューッ、と甲高い口笛を吹いた。赤ら顔に、締まりのない笑みが追加された瞬間であった。
「こらまた、えらい綺麗な嬢ちゃんだねえ。ちょっと痩せているけど、それがまたイイねえ」
「……どうも」
「髪も綺麗だし、肌も綺麗だ。お嬢ちゃん、将来はもっと美人になるよ」
「そう、ありがとう」
「へへへ、これはお世辞じゃないぜ」
サララとしては、面倒を嫌って当たり障りのない返答をしただけである。
しかし、男はそう受け取らなかったようで、「いいねえ、そういうの好きだよ」財布を取り出して……束の紙幣をサララに見せた。
「よし決めた、今日は嬢ちゃんのとこにしよう。店に、案内してもらえないかい?」
「……?」
――何故、いきなり金を見せるのだろうか?
意味が分からずに差し出された紙幣を見つめていると、「おや、これじゃあ足りないかい?」男はさらにもう数枚ほど、紙幣を追加した。
……ますますもって、サララは混乱する。いったい、どういうつもりなのだろう……もしかして物売りか何かだと勘違いされているのだろうか。
男の目的が分からず、サララは周囲に視線を向ければ、多種多様の男や女が居た。男が手を引いたり女が手を引いたりと違いはあるが、その誰もが……湿った雰囲気を漂わせていた。
……あ、もしかして……私、間違われた?
そこまで考えてようやく、サララは己の状況を理解する。自らが立っているその周辺に、そういう事を目的とする人たちが集っていることを認識した。
(ああ、しまった。そういえば、ここら辺はそういう場所だった……)
今更ながら、男の言っていることを思い出して頭を掻く。なるほど、娼婦との値段交渉として考えるのなら、何も不自然な点は無い。
これは、ぼんやりしていた私が悪い……そう己を戒めたサララは、無言のままに持っていた『粛清の槍』を見せつけた。
――途端、男は驚いたように目を瞬かせ、サララの顔と鞘に納められた刃先を交互に見詰めた。
次いで、男は首を傾げながらサララの恰好……特に、胸の辺りを何度も見やった後……ぱしん、と己の額を叩いた。
「あらあ、そいつは失礼なことをしてしまったなあ」
「いえ、こちらこそ御免なさい。私も、紛らわしいことをしてしまった」
幸いにも、男は物わかりが良く、暗黙の了解も分かっていた。「いやあ、すまない」手慣れた様子で束から紙幣を一枚抜き出すと、それをサララに差し出した。
これは、間違えて堅気の女に交渉を持ちかけた際の、謝罪の意味を込めたモノである。なので、受け取らない方が、この場合はマナー違反にある。
サララは黙ってそれを受け取った後、残りの紙幣を仕舞おうとする男の手を止めて、「――良き出会いを、あなたに」その紙幣の端に軽くキスを落とした。
この行為は、こういった夜の世界にて広く習わしとなっている、『互いに運悪く起こってしまった勘違い』の際に行う『お詫び』である。
このお詫びには幾つかのパターンがあり、方法はその時によって違う。
男が悪ければ紙幣を手渡し、女が悪ければ相手の手の甲にキスをするというのが、基本的なマナーである。
今回の場合は、互いに非があった為に互いに謝罪をしたというわけである。
……ちなみに、このキスを落とす場所によってその意味が変わる。
手の甲は『謝罪』で、頬なら『また次か、別の機会にでも』、となる。そして、紙幣の場合は……『心に決めた相手がおります』、となる。
「――こんな綺麗なお嬢ちゃんに祝福されたとあっちゃあ、今日はもう帰って寝ないとなあ」
もちろん、その意味を男が知らないわけがなかった。
笑顔のままにキスを落とされた紙幣を財布に入れると、男は手を振って夜の喧騒の中へと離れて行った。
しばしの間、サララは小さくなっていく男の後ろ姿を見送る。と、同時に、周囲から向けられていた幾つかの視線が離れていくのが分かった。
……男の姿が完全に消えたのを見届けると、サララは歩みを再開した。
視線が離れたのは、余所者の娼婦ではないと判断されたからである。
それを言われずとも察したサララは、視線を合わせないように気を付けながら、自然を装って歩調を速めた。
……客引きを行う娼婦の間には、ある種の縄張りというものがある。
別に紙面にして交わした約束というわけではないので、法的な罰則があるわけでもないが、悪戯に刺激し続けても良いことなど何一つない。
(……今日も、見つからなかった)
それが分かっていたサララは、さっさとその場を離れることを選んだ。また、酔っ払いから間違われない内に。
(何か、掴めればいいのだけれども……)
探し人を求めて表通りに出たサララは、また歩調を緩める。そして、またしばしその場で佇んだ後……静かに歩き始める。その足が目指す目的地は、『東京』では幾らでも見つかる飲み屋の内の一つ。
「マリー……あなたは、どこに居るの?」
その店の名は、『ミュマール』。
あまり程度のよろしくない飲み屋で、客層もあまり良いとは言えない。
なのに、その店に向かう理由は、その店が夜の世界において、『情報屋』が集まることで有名だからであった。
「あなたに……会いたい」
館を離れた日から、いくしばらく。シャラから教えられ、すっかり常連となったその店へと、今日もまたサララは夜の帳の中を歩き続けた。
……。
……。
…………さて、だ。
『ミュマール』という店は、昼の世界ではほとんど無名と言っていい飲み屋の一つでしかなかった。『東京』にて無数に存在する、(間取りはそれなり)寂れた飲み屋……それが、昼の世界を生きる者たちの評価であった。
どうして、そんな評価に落ち着いているのか。
それは、店が綺麗でないとか、出される料理がそれほど美味くないとか、店主の態度が悪いとか、理由は様々だが……何よりも、その店を知っている人がまず一つ目に上げるのは……『客層が悪い』、それに尽きた。
疵者(きずもの)(『東京』では、いわゆるヤクザ者の隠語として呼ばれている)に始まり、それに連なる傘下たち。
次いで、クスリの売人や人買い、それを求める人たちに、果ては殺し屋と呼ばれる人たち、等々など。
一言で言えば、悪者たちの溜まり場というのが、昼を生きる者たちの評価であった。
……恐ろしいことに、多少の誇張がありはしたが、実際、それらは全て事実である。冷やかし程度の感覚で入れば、大やけどを負うのは確実。
その店に集まる者の大半は真っ当な日々を送ってはいない者ばかりで、昼を生きる者たちからすれば、まず関わることの無い場所……それが、『ミュマール』であった。
……だが、一つだけ。『ミュマール』には、昼を生きる者たちが知らない、ある秘密がある。
それは『ミュマール』が、『東京』でも有数の情報屋が集まる場所であるということ。
『東京』で起こっていることを知りたければ、そこに行けば全て分かるとまで言われる程の、様々な情報が集まる特有の飲み屋なのであった。
――そして、今日も、サララはその店へと通う。全ては、マリーの行方を追う為に。
店の内装は、まあ広くはあるけど、という程度のものだ。カウンター席が、十と幾つか。ソファーとテーブルが、二十と幾つか。そして、立見席が幾らか。
騒がしいとは言い難いが、静かとも言い難い、独特な空間。一目で普通の店では無いと言わしめる何かが、そこにはあった。
――この日の『ミュマール』も、何時もと同じく煙草の臭いと酒の臭いが充満していた。
そして、この日も店内は様々な組織や職種に就く者たちで溢れかえっており、相変わらずの張り詰めた空気が流れていた。
――聞こえてくる会話は一見、どこにでもある世間話ばかりだ。
だが、よくよく耳を澄ませてみれば、だ。世間話の中には、内容があまりにも突然で、またチグハグだということに気づくだろう。
客層の割合は、顔見せの為に集まっているのが3割。商売に来た者が3割で、客として来たのが4割……と言ったところだろうか。
所々で行われる暗黙の取引を、歌い手と演奏者が奏でる独特のミュージックが、その不穏な隙間を縫うようにして隠す。公の上層部も絡んでいるとか居ないとかで、この店では今日も見て見ぬ振りが行われていた。
そんな……何時もの商売で静かに賑わっているこの店の扉をサララが開けたのは、あの場所を離れてから、数十分が立った頃。店内に最も人が集まり、サララが求める人たちが集まる時間帯であった。
――店の出入り口に陣取っていた幾人かのゴロツキたちの視線が、サララへと突き刺さる。
だが、番人でもある彼らは一目をくれただけで、それ以上は何もしなかった。気づいた他の客も同様に視線を向けただけで……それ以上は何もせず、始めから見えていないかのようにサッて視線を逸らした。
中には知らずにサララを指差す者もいたが、すぐに耳打ちをされ……慌てて視線を逸らしていくのが、サララには分かった。
「……ふん」
それに比べて、サララは彼ら以上に彼らへ目もくれなかった。
ただ、向けられた気配が鬱陶しかっただけ。
ふとした拍子に向けられる視線を払いのけながら、何時もと同じように店の中を進み、すっかり定位置となったカウンター席の一つに腰を下ろした。
……そうして店内を見渡せば……相変わらずの光景が広がっていた。
娼婦のような恰好で接客をする女に、取りとめのない面子の張り合いをする男たち。
訳知り顔で会話をする者たちに、小袋と札束の受け渡しを繰り返している者たち……すっかり見慣れた、吐き気を催してしまいそうな光景だった。
「――注文は?」
掛けられた声に、振り返る。さっきは居なかったのに、何時の間に戻って来たのだろうか。カウンターを挟んだサララの目の前には、この店の主人であるマスターが立っていた。
中々に体格のある、初老の男だ。
こういう店を経営しているだけのことはある迫力を滲ませた彼は、自分よりも頭一つ分以上は小さいサララを無表情のままに見下ろした。
「いちおう言っておくが、今日はそれなりに美味い酒が手に入った。飲むのなら――」
「オレンジジュース」
マスターの声を遮る。だが、特に彼は気にした様子も無く、「おや、今日はリンゴじゃなかったか」カウンター下に置かれた保冷庫から、幾つかオレンジを取り出した。
「混ぜるかい?」
「そのまま絞って」
――あいよ。
そう言ってマスターは、グリグリと果汁を絞り始めた。『お前が来るようになって、絞るのが上手くなったよ』と愚痴を零していた通り、その手の動きには全くの淀みが無く、ものの一分程でサララの前にジュースを置いた。
それを、サララは一口分だけ音も無く喉を動かす。「今日のは、前よりも濃厚ね」ありきたりな感想を零した後、しばし無言のままにグラスを眺め……「マスター」ジッと、マスターを見上げた。
「――あいにくと、お前さんの求める情報を持っているやつは居なかったよ」
サララが皆まで言うよりも前に、マスターはサララが聞きたくなかった言葉を伝えた。
「いちおう、お前さんが来る前に来た情報屋全員から聞いておいた。この後に来るやつらで何か掴んだやつが居たら、真っ先に俺の所に来るようになっている」
グラスを磨きながら、マスターはサララにそう伝えた。
「……そう、ありがとう、マスター」
落胆……その言葉を全身で露わにしたサララは、それ以上何も言わなかった。ただ、無言のままにグラスを一度、二度、三度、傾ける。
それを見たマスターは、サララの前にオレンジを差し出し……頷いたのを見て、また絞り始めた。
……この店の中では異質とも言える少女の何時もと同じ姿が、そこにあった。
だからなのか、遠くからサララの様子を伺っていた同じ常連たちの誰もが、『ああ、またか』、と苦笑してその後ろ姿を眺める光景が、店のあちこちで見られた。
サララが初めてこの店に来てから今日まで続く、すっかり馴染みとなった光景であった。
――また、である。
今日もまたサララは、店が閉まる時間までこの席に座り続ける。
その後は館に戻って短時間の眠りに付くか、あるいはまた別の店に行って聞き込みを続けるか、それともダンジョンに潜って資金を調達するか。
……どれかはその日の体調によって決めるが、それがサララのここしばらくの日常であった。
『普段はつまみ以外のもんなんざ作らねえよ』
そう言いながらも用意してくれたパスタとサラダを食べ終えてから、幾らかの時間が流れた。
夜もいよいよ深まり、営業時間の終わりが目の前まで近づいた辺り。
あれだけ集まっていた人たちも、一人、また一人と姿を消し、残っている人を数えられるようになった頃だろうか。
五杯目となるグラスを置いたサララが、何時もと同じように会計を済ませようと、何時ものように財布を取り出したこの日……何時もと違うことが、『ミュマール』に起こった。
「――すいません、勘弁してください!」
店中に響き渡る、悲壮感を滲ませた大声。店内に居た誰もが突然のソレに驚き、顔をあげて視線を向ける。
それはサララとて例外ではなく、反射的に槍に手を掛けたぐらいだった。
「金は無いんです! 後三日、後三日待ってもらえたら用意しますから! どうか、どうか許してください!」
店内にいた全員の視線の集中点には、二人の男がいた。
一人はソファーに座っている小太りの男で、もう一人の若い男は、その男の前で両手を突き……土下座をしていた。
小太りの方は、趣味やセンスは悪いが実に金が掛かってそうな出で立ちであった。対して、土下座をしている方は……何と言うか、みすぼらしい恰好であった。
いくら後ろ暗いこの店でも、中々見られない光景だからだろうか。帰ろうとしていた何人かの客が、降って湧いたショーを興味深そうに眺めていた……が。
(あいつは……!)
その中で、ただ一人。
他の客たちとは別の意味で、サララだけが小太りの男を見つめていた。なぜならその男は、かつて、借金のカタという名目でマリアたちを手に入れようとした男であったから。
「ダムストリ・ローマン……いや、『金貸しのローマン』と言った方が、通りがいいかな」
当然、マスターがそれに気づかないわけがなかった。
「お前も知っているだろうが、あいつは意地の悪いやつでな。時々、あーやって借金抱えたやつを遊び相手にするんだ」
マスターの探りにハッと我に返ったサララは、軽く息を吐いた後……静かに、二人の成り行きを見守ることに決めた。
……そうして、誰も彼もが観賞に息を潜めた後。
ゆったりとグラスを傾けていたローマンが、ゆっくりと煙草を味わい……「三日って、お前さあ……」大きく、紫煙を男に吐きつけた。
「たった三日で、どうやって用意するつもりぃ? お前、自分が背負った借金の桁を勘違いしてなぁい?」
間延びした、独特の喋り方。男娼などが行うそれとは違う、生理的嫌悪感を引き出させる、特徴のある声色だった。
「い、いえ、そんなこと……」
対して、土下座した男の方はというと、聞いていて哀れに思えてしまうぐらいに小さく、か細い声だった。
「昼の人間が一年ぐらい働いて稼ぐ金額だよぉ? それをお前、どうやって返すつもりなの? 働き口が無くて仕事もしてないのにぃ?」
「す、すぐに見付けます! 少しずつでも必ず返します! だ、だから、どうか返済を待ってください! お願いします! どうか、どうか!」
――おいおい、三日で返すって今言わなかったか。
そんな言葉が店のあちこちから野次紛いに飛び出す。当然、ローマンもそれには気づいていたが、あえて何も言わなかった。だが、それに気づいていない男は、怒りを露わに振り返った。
――直後、自分が睨みつけた相手がどういう人種であるかに思い至ったのだろう。すぐに媚びへつらうように情けない笑みを浮かべると、またローマンへ頭を下げた。
「でもねぇ、あんた、今回の利子を払えてないでしょ。今までは利子だけは払っていたから見逃してあげてたけど、利子すら払えなくなったとあっちゃ……ねぇ?」
「こ、今回は偶々なんです! いつもなら仕事にありつけたのに、あの亜人の女が俺たちの取り分までぶんどっちまったから……」
(えっ?)
思わず、サララは嫌な予感を覚える。『東京』に居る亜人と言えば、サララの知るあの人ぐらいだ。今は、館にて留守番をしているはず……いや、しかし、そんなばかな……。
「――今朝の話だが、市場で亜人の女が日雇いの仕事をしていたらしい」
「……その話、本当?」
「嘘を言って、何の徳がある。まあ、この情報はサービスしてやろう」
振り返ったサララは、マスターの言葉に目を瞬かせた。
「亜人の女は、どこぞの孤児と一緒に薪運びの仕事をやったらしい。その際、一人で数十人分の仕事をこなしたみたいでな。そのせいで、仕事にありつけなかったやつが何時もより多く出たそうだ」
「……そう、なの」
嫌な予感、ますます強くなる。いや、もしかしたら、違うかもしれな――。
「手足に鱗があって、角と翼と尻尾があったらしいぞ。あと、かなりの美人で、ほとんど裸みたいな恰好で仕事をしていたそうだ」
――ああ、間違いない、あいつだ。竜人のドラコだ、間違いない。
「なんだ、知り合いか?」
含みのある視線。分かっていて聞いているのだと言うことは、言われずとも分かった。
「まあ、そんなところよ」
嫌な予感が寸分の狂いも無く的中してしまったことに、思わず眉間を揉む。こういう予感に関しては、どうしてこうも的中してしまうのか。
――何をやっているのだ、あいつは。
そう、内心にてドラコに苦言を向ける。だが、良く考えたら、自分がやっていることも似たようなもんであったことを思いだし、責めるのを止めた。
そんなサララの内心にて繰り広げられる自問自答を他所に、土下座男はひたすら言い訳を続ける。
曰く、あの女が居なかったら大丈夫だった。
曰く、あの女が悪い、不可抗力だ。
曰く、本当なら支払えていた、等々。
何ともまあ、ため息が出てきそうな情けない言い訳の連呼である。
加えて、あまりにも『自分は悪くない、仕方がなかった』と繰り返すばかりの男に、ギャラリーからも白けた空気が出始めた。
「……あのねぇ、あんた、今時坊やでもそんな言い訳したりしないよぉ」
ローマンもさすがに飽きてきたようで、態度もおざなりになる。
場の空気は、遊びにとても重要な要素の一つ。注目が集まってこその遊びなのに、これではここでやる意味がない。
見る間にぞんざいな態度を見せ始めたローマンに、悪かった男の顔色がさらに悪くなる。
彼からすれば、死刑台に足を掛けられたに等しい状況なのだから、当然だろう。
だから尚更、男の言い訳にも熱と涙が入り始める。だが、悲しいかな、男の声と必死さが大きくなればなるほど場の空気は白けていく。
そのせいで、ますます男は必死になり……何とも、哀れな悪循環であった。
(……見ていても、仕方がないか)
この騒ぎでは、おそらくもう無理だろう。
そう判断したサララは、そっとカウンターに料金を置く。「――見て行かないのか?」マスターの言葉に首を横に振ると、静かに出入り口へと向かった。
「――そういえば、ここにその亜人の女の関係者がいるぞ」
だが、突如店内に響いたその声が、サララの足は外に出る前に止めた。フッと静まり返った店内に振り返れば……ローマンと土下座の男の視線が、サララを捉えていた。
――おい誰だよ馬鹿野郎! なんでそんなこと言った!?
瞬間、サララと二人を除いた全員が同じことを思った。
そう、思ってしまう理由が、この店の常連である彼らにはあった。
そしてそれは、マスターも例外ではなかった。
“今の言葉吐いたやつ出て来い! マジで出て来い!”
“ちょ、ちょっと待て、まさかここで暴れたりしねえだろうなあ?”
“こ、怖い事言うなよ……そ、その時はお前が足止めしろよ!”
“無茶言うな! あんなの、俺が百人いても瞬殺されるぞ!”
合わせて、ぼそぼと店内の至る所で行われる囁き声。幸いにもサララには聞こえていなかったが、ちらほらと集まる意味深な視線に首を傾げるばかりであった。
「――お、お前、まさか、サララ……なのか?」
だが、土下座をしていた男は違った。『亜人の関係者』、の部分に反応したのだろう。
今の今まで情けない態度であった彼が嘘のようにサララに走り寄って来ると……グイッと、彼女に詰め寄った。
「――やっぱりサララだ! サララお前、生きていたのか!?」
しばしの沈黙の後、男は驚きに声をあげた。
その声に店内にいた誰もが予測しなかった展開に目を瞬かせ、我に返ったローマンはサララを見て……つまらなさそうに、グラスを傾けていた。
「……どちら様、だったかしら?」
反面、訳が分からないのはサララの方だった。
一人ヒートアップしている男にどうしていいか分からず、困ったように首を傾げることしか出来なかった。
その困惑は男が、己の名を名乗ったおかげでさらに深まる。覚えはないが、どこか
次いで、男はサララが昔暮らしていた孤児院のことや、どこか聞き覚えのある名前を次々に上げた辺りで……ようやく、その表情が驚きへと変わった。
(まさかこいつ……あの孤児院の、あいつら?)
瞬間、サララの脳裏に浮かんだのは、あの地獄のような孤児院での日々だった。
懐かしさや哀愁なんて微塵もなく、むしろ怒りしか湧かない、かつての忌まわしい記憶ばかりが脳裏に浮かぶ。
(まさか、またこいつらに会う日が来るとは……憂鬱だわ)
――というか、今の今まで忘れていた事だし、こいつよく私の前に顔を出せたものだな。
そう思ってサララは男の様子を眺めていると、何故か男は、満面の笑みでローマンへと振り返った。
「ローマンさん、当てが見つかりました」
にっこりと、男は無邪気に笑った。
「こいつが払いますから、それで勘弁してください!」
「――はぁ?」
久しぶりに、サララは心から混乱した。
それは店内にいた客の誰もが同様で、ローマンですら、「え、あんた、何言っているの?」理解出来ない展開にグラスをテーブルに置いたぐらいであった。
「実は俺、昔こいつと同じ孤児院だったんですよ! 言わばこいつは俺の妹分で、孤児院では一番の下っ端だったんです」
「……それで?」
とりあえず、聞く気ではあるようだ。首を傾げるローマンに、男は「いやだなあ、決まっているじゃないですか」はっきりと言った。
「下っ端が、俺たち上の者の借金を払う。当然のことでしょ?」
……その場にいた誰もが、言葉を失くした。
それはサララとて例外では無く、男が何を話しているのかを本気で理解出来なかった。
「……何か、面倒くさくなっちゃったわぁ。いいわよ、もうしばらくは待ってあげるから」
その中で、最も早く正気に戻ったローマンは、深々とため息を吐いてそう零した。しかし、にわかに喜びを見せる男を「でもねぇ」睨み、次いで、意味深にサララを見つめた後。
「よりにもよって、その子を利用しようとするだなんて……あんた、大した度胸しているじゃないの」
ポツリと零したその言葉に、店内にいた誰もが力強く頷いた。
それは、ただ一人、「――えっ」意味が分からず困惑に目を瞬かせる男の横で。
「…………?」
混乱したままのサララの耳に届かなかったのは、ある種の幸運であった。
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