エピローグ その1




 もうすぐ寒気がやってくるのではないかという話が、ちらほらと住人たちの間で流れるその日……その日のラステーラも、晴天であった。



 ぽつぽつと浮かぶいくつかの雲、その下を、様々な種類の鳥たちがのどかに青空を飛び回っている。そんな穏やかな青空の下、今日もラステーラの町は、急ピッチで復興への道を進んでいた。



「19番! 接着粘土10kgとレンガ100kgが出来たぞ! 持って行け! 次は20番! 後ちょっとで精製が終わるから、今の内に用意しておけ!」



 責任者の、酒で少し枯れた野太い怒声が、ごうん、ごうん、と喧しくフル稼働を続ける『循環形成装置』の騒音をかき消すように響き渡る。


『循環形成装置』とは、使用された資材等を元の新品同然の状態に形成し直す特殊な装置だ。


 形成できるのは、レンガや鉄といった物に限られ、植物等の生物には使えず、土木建設に特化した装置である。


 ……その『循環形成装置』の前には、大勢の人々が列を成して並んでいる。


 早朝の定められた時間前から並んでいる彼らは、自分の番が呼ばれるのを今か今かと、ふわりとそよぐ冬風に肩を震わせながら待っていた。


 装置の前で列を成している彼らは、ラステーラ在住の土木業以外に就いていた男たちと、そして、『東京』から募集を聞いてやってきた様々な人たちだ。


 さすがに技術を必要とする場所は任せられないが、機材の運搬や、資材の調達などには人手が一人でも欲しい。


 町の復興が急ピッチで進めていけるのも、こういう人たちのおかげであった。


 その列の隣、今はもう瓦礫だらけとなった大通りには、いくつものテントが張られており、商売人たちが逞しく商売を行っている。


 さすがに以前よりも活気は落ち込んでいるものの、あの日から十数日……少しずつテントの数も増え、町に物流の息吹が吹き始めていた。


 半壊した建物を修理する作業員たちの、きん、かん、と奏でる作業音が町の至る所から聞こえてくる。


 ……けっこうその音はうるさいが、まあ、仕方がないことだ。


『東京』から運んできた装置を用いて鉄骨を打ち合わせたり、邪魔な瓦礫を力任せで砕いたりしているのだから、多少は騒がしくもなろう。


 ……とはいえ、騒がしいのはあくまで中央から南端までの間だ。


 そこから北は被害が少なかったこともあって、女子供たちはそこで毎日のように男たちの為に衣食住の用意を行っていた。


 挨拶ぐらいしかしたことがない相手であっても、同じ町に住む人間であることに変わりはない。ラステーラの女たちは、疲れて帰ってくる男たちの為に、精一杯汗水を垂らして頑張っていた。





 ……その、女たちが食事の用意を始めている中で、マリーたちは何をしていたかと言うと……肉を食べていた。大量に集められた肉に囲まれたそこは、いわゆる『仮食堂』と呼ばれている場所だ。


 机と椅子と、テントが取り付けられた、簡素な食堂。マリーたちはその食堂の末端にて、次から次へと運ばれてくる串焼肉にかぶりついていた。



「……いいかげん、肉は食い飽きた。野菜が欲しい、野菜が無ければ果物が欲しい。イシュタリア、ちょっとお前に頼みたいことが有るんだが……」



 湯気立つ串焼肉にむしゃむしゃとかぶりついていたマリーは、物憂げな態度を隠そうともせずに、そう呟いた。


 同じように物憂げな表情で力無く肉にかぶりついていたイシュタリアも、やる気無さそうにため息を吐いた。



「そこらに生えている草の根でも齧るのじゃな。例外なく苦い上に臭くて食べられたものではないと思うが、頑張ればイケると思うのじゃ」

「そいつは盲点だったぜ……よし、誰かちょっとこれを齧ってみてくれ」



 目についた雑草を引き抜いて、掲げてやると、サララが文字通り食いついた。躊躇なく、「マリーの為なら私が!」と言って、葉っぱに噛みついたサララは……静かに、顔色を悪くした。



「マリー、これは食べられたものではないよ。砂の歯ごたえが悪すぎるし、滲み出てくる液がこれまた苦い……」



 咳き込むサララに、ドラコとナタリアが不思議そうに首を傾げた。



「……私自身、そういった方面の知識に疎い事を自覚しているが、それでも分かることがある。それはさすがに洗ってから食べるものではないだろうか?」

「……時々思うのだけれども、サララは無性に男らしいときがあるわよね。もしサララが男だったら、年頃の女たちが放っておかなかったわね」



 ……とまあ、マリーたちは相変わらずの調子であった。


 そんなマリーたちの姿に苦笑いする、ラステーラの女たち……惨劇前から変わっていない、相変わらずの光景であった。


 しかし、全てが惨劇前と同じと言うわけではなく、マリーたちと女たちの間に、ぎこちない何かが横たわっていた。


 ジロリと、どこかからドラコへと向けられる憎悪の籠った視線。


 言葉にこそ出さないものの、確実に向けられている悪意の瞳に……マリーたちは、表面上は何時もの調子を見せていた。


 町を襲った竜人の仲間でもあったドラコと、救世主であるマリーたちが一緒に行動する。言葉にすれば、とても奇妙なことだ。


 しかし、その奇妙なことのおかげで、女たちはもちろんのこと、男たちも……最後の一歩を踏みとどまっていた。


 今、この場にはドラコを責める者はいない。それを良しとするべきか、悪いとするべきか……今は誰の胸中にも答えが出ていない。


 もちろん、中にはドラコのことを『殺してやる』と泣き叫ぶ人もいたが……今の所、ドラコは素直に殺されるつもりはないらしい。


 時折石を投げつけられる姿が見受けられるが、ドラコは気にした様子もなく飄々とした態度を崩してはいなかった。


 マリーはため息を吐くと、右手の串に刺さった最後の一かけらを口の中に放り込んで、嫌そうに咀嚼を始めた。


 このような被害が出た状況の中、肉を食えるというのは非常に良いことなのに、この反応……普通であれば文句を言われても仕方がないはずなのだが、イシュタリアたちはもちろん、女たちも誰一人文句を言う者はいなかった。


 というより、ラステーラの女たちもマリーの愚痴には正直なところ、少しばかり同意したいのである。


 なぜかと言えば、先ほどからマリーたちが食べている肉……実はそれ、普通の肉ではないうえに、十日間ぐらい前から食べ続けているからであった。



「……しかし、やって来る商人と住人総出で食べまくっているというのに、まだ半分以上も残っていやがる……商人が一部を買って行っているはずなのに、どういうことなんだよ……」

「そりゃあ、アレだけデカければちょっとやそっと食べたぐらいでは目減りもせんじゃろう。神獣の肉が美味だったことは、不幸中の幸いじゃがな」



 そう、マリーたちがたった今食べているのは他でもない、神獣の肉なのであった。

 そして、いくら貴重な肉とはいえ、だ。毎日毎日、朝昼晩朝昼晩朝昼晩と食べ続ければ……少しぐらい違う物が食べたいと思っても不思議ではない。


 というか、この場で一番嫌がっているはマリーである。次いで、イシュタリアだ。育ち盛りのサララは何ら平気そうな様子で、ナタリアも似たようなものである。


 その中で、誰よりも食べ続けているのはドラコである。それはドラコ自身が負い目を感じているのもそうだが、「一度は神と崇めた存在だ。せめて、我の糧にしなければ……」という、独特の考えがあるからだった。



 ――神の使いとして崇めた存在を、食べる。



 弱肉強食の観点から言えば、それは間違ってはいない。だが、黙して食べ続けるドラコの想いを知る者は、ドラコ以外誰もいなかった。



(まあ、複雑だよな……ドラコもそうだけど、町のやつらも……)



 べっ、べっ、と唾を吐いているサララの背中を摩りながら、マリーは町の中央に横たわっている神獣の亡骸へと視線をやる。


 そこには、身体の半分近くを解体された肉塊がどどんと有って、青空の下で異様なほどに目立っていた。



「……もういっそのこと焼いたらいいんじゃね?」

「焼けるのは表面だけじゃな。しかも、焦げた血の臭いで凄まじいことになるのじゃ」

「だったら町の外に居る動物たちに食べてもらおうぜ。あいつらが頑張れば、すぐになくなるだろ」

「ちょっとぐらいならそれで解決するじゃろうが、あの量じゃぞ? それで他所から動物たちが集まってきたら……というか、もう既に集まって来ておるではないか。人に慣れたうえに餌付けされた獣ほど面倒なやつはいないというのに、これ以上数が増えたら後々困るのは町のやつらなのじゃ」



 もう何度目かとなるマリーの提案に、イシュタリアは律儀に何度目かとなる返答を行った。


 既に何度か試した後なので、マリーもそれ以上何かを言おうとは思わず、黙って亡骸を眺めた。


 ……神獣撃破から、十数日。


 神獣の亡骸は、いまだラステーラのど真ん中に有る。そのあまりに巨大な亡骸は、たとえ住人総出であっても動かすことは容易ではなかった。


 神獣と称えられた巨大な怪物は、マリーたちの手で倒された。しかし、それで全てが解決したかといえば、そうではない。


 破壊をモタラシタ巨大な怪物は、今では巨大な障害物へと姿を変え……住人たちの悩みの種となっているのだ。


 視線をさらに上げれば、肉塊の頭頂部には、大小様々な数十羽の鳥が集まっているのが見える。鳥たちからすれば、これ以上ないぐらいの御馳走なのだろう。


 遠目からでも分かるぐらいに忙しなく肉塊を突いている鳥たちの中へ、また新たな数羽が降り立った……日に日に数が増えているらしい。普段であれば鬱陶しい鳥たちも、今ばかりは住人たちから非常にありがたい存在であった。


 その肉塊にへばりつくようにしがみ付いている、幾人の人影がちらほらと見え隠れしている。


 彼らは、神獣の亡骸から売り物になりそうな部分を切り分けている肉屋の店主たちだ。


 例の爆弾によってジェル状になった臓腑交じりの体液にまみれながら、彼らは今日もナタを振っていた。



 ……彼らの仕事は朝から晩まで亡骸にしがみ付いて肉を切り落とし、他の作業員と共同して神獣の解体作業を行うこと。



 早く処理をしないと亡骸が腐ってしまう。二次災害を抑える為にも、彼らは朝から日が暮れる晩までナタを振るいまくっているのだ。



 ……一見すると自分本位の金稼ぎをしているようにも取られそうだが、決してそんなことはない。


 肉の切り分けは非常に重労働だし、足場も悪い。血の臭いに酔って倒れる人もいるし、肉を食べられなくなった人もいる。


 それでも彼らが頑張るのは、単に復興資金を得る為だ。売れるのであれば売って、少しでも復興の資金に回したい。そんな思いで一丸となっている彼らは、今日も解体作業に精を出しているのだ。



「さて、あれにハエが集るようになるまで、あと何日のことやら……」



 ポツリと呟いたマリーのその言葉に、手を動かしていた女たちの肩がピクリと動いた。そして、誰しもが無言のままに顔を見合わせて……深々とため息を吐いた。彼女たちがため息を吐くの、無理もない事であった。



 ――寒空から絶えず降り注ぐ冷気と、強く吹きつけられる乾燥した季節風。



 この二つの恩恵もあってか、神獣の亡骸は未だ利用出来ているが、それも時間の問題だ。


 神獣の肉は他の肉よりも傷みにくいようで、まだ艶のある赤み部分は多いが、それでもいずれは腐り落ち、異臭を放つようになるだろう。


 商人たちもラステーラの事情を知っているので、ある程度は融通をきかせてくれているが……さすがに、売り物にならない物を買い取ってくれるほど甘くはない。


 それに加えて、肉そのものは痛んでいないが、亡骸から流れ出した体液の一部から異臭が出始めているという話が出たのは、昨日の事だ。


『東京』から持って来た『ろ過装置』と、ラステーラにある『ろ過装置』をフル稼働させ、昼夜を問わず処理を行っているが……こちらも、今のところは全く追いついていないのが現状である。



「しかし、まさかあんなデカブツが食えるとはなあ……見た目が不味そうなのはアレだが、それだけは唯一の救いだな……ああ、もう無理。これ以上食ったら吐くから……」



 ハイッと横から差し出された串焼肉に手を振りながら、マリーはしみじみと呟いた。「ほら、見ろよこの腹……いつ破裂してもおかしくねえぞ」断られた女は、見せられたマリーのお腹を見て苦笑すると、その串焼肉をドラコへと手渡して、忙しそうに離れて行った。



「……はあ」



 その後ろ姿を見送ったマリーは、けふっと息を吐いた。途端、膨れていたお腹がぺこりと凹み、若干のくびれすら見られる滑らかな腹部へと戻った。



「何じゃ、マリー……お主、もう限界か?」



 もぐもぐと、この日15本目となる串焼肉にかぶりついていたイシュタリアから見つめられたマリーは、げんなりとした様子で力無く頷いた。



「元々小食の俺に無茶言うなよ。6本も食えただけで、俺としては上出来通り越して感無量の域なんだぞ」



 ここ数日、マリーの胃袋は働きすぎた。太る気配こそないものの、正直何時食べ物が逆流してもおかしくないぐらいであった。


 ……こりゃあ、帰ったらしばらく野菜スープとパンだけでいいや。


 そんな考えが脳裏を過る……ふと、満腹感に膨れ上がった腹部を摩っていたマリーは、「ところで……」顔をあげた。



「前に掘り出した金はいくらか寄付したことだし、そろそろ『東京』に帰ろうかと思っているんだが、お前らどうする?」



 瞬間、周囲で作業をしていた女たちの視線が、一斉にマリーへと注がれる。今、マリーがあまりに聞き捨てならないことを言い放ったからだ。


 誰も彼もが例外なく、驚愕に目を見開いてマジマジとマリーを見つめているのを他所に、尋ねられた3人は……しばし目を瞬かせ、ドラコはジッとマリーを見つめた。


 昨日、『東京』から来たという商人からある程度の物資を購入したマリーたちは、そこでダンジョンの『増大期』が終わったことを聞いている。


 なので、サララたちも、そのうちマリーの方から言い出すんじゃないかなあ……ぐらいに考えていたのだが、まさか昨日の今日で帰ろうという言葉がマリーの口から出るとは……些か予想外であった。



「……別に帰るのは私としても構わないんだけど、もう少し復興を手伝ってからの方がいいんじゃないかな?」



 最初に返答したのは、サララであった。模範的ともいえるサララの返答に、イシュタリアは「……ふむ、迷うのう」首を傾げた。



「私としては正直、どっちでもいいのじゃが……竜人はどうするのじゃ? まさか、ここでお別れするつもりじゃなかろうな?」

「そんなわけねえだろ……普通に連れて帰るつもりだよ。ここに置いて行ったらどうなるか目に見えているしな……ドラコ、お前はそれでいいか?」



 ――嫌なら断ってもいいんだぞ。


 そんな言葉を言外に臭わせたマリーの問いかけであったが、ドラコは静かに首を振った。次いで、そっと身を屈めてマリーの頭に鼻先を擦りつけると、くるるぅ、と喉を鳴らした。



「元より、私にはもう行く当てなどない。お前が私を必要としてくれるのであれば、この命……潰えるまで傍に居よう」

「はい、ドラコの行き先は決まり。それじゃあ……うん、サララ、帰ったら一緒に風呂に入ろう。背中も流してほしいし、ご飯も食べさせて欲しい。というか、もう色々俺に尽してほしいんだ……だから、その握りしめた拳から力を抜こうな? な?」

「……マリーがそう言うなら、私はマリーに従う」



 例の目つきになったサララを内心必死になりながら、マリーは思いっきりサララを抱きしめる。すると、サララの腕がそっとマリーの背中に回され、自然と抱き締めあう形になった。


 ……もしかしたら、依存されているのかもしれない。フンフンとサララが臭いを嗅いでいるのが分かったが、マリーは何も言わなかった。


 いつものプレートを着ていないので、服越しにプニプニとした弾力が伝わってくる。二つの小粒も相まって、非常に心地よい。さり気なく胸を擦り合わせてみれば、さらに気持ちいい。



(……ふむ、間に服を挟むのも、また乙な感じだな)



 サララの首筋から伝わってくる臭いに、マリーはゆっくりと目を瞑る。けして嫌ではないその香りは、サララのボーイッシュさを表しているようで、マリーはけっこう好みであった。


 周囲の女たちからの視線を受けながらも、サララは全く離れようとはしない。当たり前のようにマリーの手がサララの尻を掴んでいても、されるがままだ。どうやら今日は、何時にも増して寂しがり屋な気分のようだ。



(やべえ、サララの身体あったけえぞ)



 じんわりと伝わってくる体温に、眠気が湧き上がってくる。もう今日は帰って寝ようかしら……そんな考えが浮かび始めた頃。ざわめきが遠くの方から聞こえ始めて来て、フッとマリーの意識が浮上した。


 ……気を引かれたのはイシュタリアたちも同様で、自然とざわめきがあがった方向へ視線が向けられる。


 どんどん近づいてくるざわめきに、周りで作業をしていた女たちも手を止めてそちらに目をやり……通りの角から姿を見せた絶世の美女に、女たちは思わず息を呑んだ。


 現れたのが、嫉妬する気すら起きないレベルの金髪碧眼の美人であったからだ。


 粗を探すのに小一時間は掛かりそうな、その美女は、キョロキョロと辺りを見回し……マリーたちに視線をやって、ほころぶような笑顔を見せた。


 途端、ざわっ、と女たちの空気が変わる。


 何事かと立ち尽くす女たちを他所に、その美女は小走りに女たちの横を通り過ぎると……マリーたちへと大きく手を振った。



「――良かった、みんな大丈夫そうね!」

「おお、マリア。久しぶりに顔を見たのじゃ」



 そう、美女の正体はマリアである。『東京』のラビアン・ローズから遠路はるばるやってきたマリアが、ひょっこりと食堂に姿を見せたのであった。







 さすがに立ち話も何だということで、マリーたちは場所を現在寝泊まりしている宿屋へと移した。


 周りの目が、というよりも男連中が仮食堂に集まり始めたからでもある。どうやら、マリアの色気はラステーラの町でも十分に通用するようだ。


 今現在、マリーたちが寝泊まりしているのは、『りゅらん亭』よりもいくらかランクが落ちるが、中々に悪くない宿屋である。


 マリアの第一声も「……よく、宿を取れたわね」というものであったあたり、テントにでも寝泊まりしているのを想定していたのかもしれない。


 部屋に戻ったマリーたちは、早速これまでの経緯を話した。


 狩猟者生活のこと、竜人のこと、神獣のこと。数か月にも及ぶ話は夜まで掛かり、一通りの話を終える頃には日が暮れていた。


 夕食を交えながらのお話にじっくりと耳を澄ませていたマリアは、深々と安堵のため息を吐いた。それは何も、夕食に出された神獣ステーキが嫌だったわけではなかった。



「ラステーラが怪物に襲われて壊滅したっていう噂を聞いて、私も皆もいても経ってもいられなくて……でも、無事で安心したわ。代表して私が来たけど、みんな凄く心配していたのよ」

「無事といっても、実質は大損したんだけどな」



 そうマリーが言うと、マリアは静かに首を横に振った。



「それでも、五体満足でいるのでしょ? だったら儲けものよ」



 ……その言葉にイシュタリアがこっそり苦笑いしたことに、マリアは気づかなかった。まあ、イシュタリアの場合は、そうなるだろう。


 下手に話すと面倒なことになると、判断する。そんなイシュタリアの気遣いを他所に、「ところで……」と、マリアは視線をドラコへと向けた。



「ドラコと呼ばせて貰っていいのよね? 私はラビアン・ローズの前当主を務めていた、マリア・トルバーナよ。今のオーナーはマリー君だけど、館の運営は今も私が担当させてもらっているわ」


 ――よろしくお願いするわね。



 そう言って差し出されたマリアの手を、ドラコは興味深そうに眺めた。己と違ってとても繊細で、磨かれた大理石のように滑らかな指先をジッと見つめていると、マリアは困惑気に首を傾げた。



「もしかして、あなた達には握手をする文化って無いのかしら? それだったら、あなた達のやり方で挨拶をするわよ」

「……いや、そういうわけではない。ただ、お前も我らを……いや、私のことを怖がったりはしないのだな……と思っただけだ」



 優しくマリアの手を握る。今まで握った中では最も柔らかく、それでいて温かい。同じ『雌』だというのに、こうまで違うことにドラコは目を剥く。


 このまま握っているだけで、壊してしまいそうだ。思わず手を放すと、マリアはふわりと微笑んで、「あら、そんなこと?」うふふ、と笑みを零した。



「あなたを怖がる必要なんて、どこにも無いもの。怖がる理由が無いのに怖がるなんて器用な事、私には出来ないわ」

「……言っておくが、私が少し気紛れを起こせば貴様の顔をズタズタに引き裂くことも出来る。それを、お前はマリーの話を聞いて理解出来ていないのか?」

「理解出来ているわよ。あなたは私の100倍力持ちで、私の100倍素早く動けて、私の100倍頑丈で、私の100倍ぐらい本当は優しいってことをね……あらやだ、あなた、私のことをお馬鹿さんだと思っているでしょ?」


 ――唖然。



 ぽかんと口を開いたままのドラコを前に、マリアはおかしそうに笑い声をあげる。うふふふ、笑みを抑え込む為に口を抑えていた手で、マリアはそっとドラコの唇を押した。


 パチパチと、目を瞬かせるドラコを前に、マリアはにっこりと笑みを浮かべた。



「あなたが本当に残酷な人物だったら、私の手を怖がったりしないからよ」



 その言葉に思わず、ドラコは爪を引っ込めていた手を、上から押さえた。途端、「うふふ、あなたって隠し事下手ね」マリアはさらに笑みを深めた。



「大丈夫よ。確かに人間はあなたが考えているようにとても脆い生物だけど、怪我を負えばあなたと同じように傷は塞がるから。怖がってばかりでは、何時まで経っても前には進めないわ」


 ――二度目の、唖然。



 今度のは、先ほどよりも衝撃が大きい。再び、馬鹿みたいに口を開いたままになったドラコは、ふと我に返って……苦笑した。



「……お前は、母と同じことを言うのだな」



 ポツリと、ドラコは呟いた。「えっ?」と首を傾げるマリアに、ドラコは何でもないと首を横に振って背を向けた。


 そのまま、何も言わずに離れて行くドラコの背中を見て……わけが分かららないマリアは、首を傾げるしかなかった。



「――ところで、マリアは何時頃『東京』に戻るつもりなんだ?」

「え……あ、ああ、うん。いちおう、マリーくんたちと一緒に帰ろうかと思っていたんだけど……この様子じゃ、無理そうよね?」



 ドラコの様子を見て助け船を出したのは、マリーであった。


 幸い、マリアも空気をしっかり読む方だ。


 尋ねられた直後には、ごく自然な流れで気持ちを切り替えていた。



「いや、別に帰るだけなら、それこそ今日にでも帰ることは出来るぞ。ただ、帰るまでに一悶着ありそうな感じだな」

「あら、そうなの?」



 マリーの言葉に、マリアは驚いて目を見開いた……が、すぐに目を瞬かせた。「あなた達、何かしたの?」と首を傾げるマリアに、イシュタリアが困ったように笑みを零した。



「別に何もしておらんよ。ただ、私たちが此処を離れるとなると、あのデカブツの解体作業が少し遅れるのじゃ」

「……ああ、マリー君もイシュタリアちゃんも、とっても力持ちだものね」



 そう素直に納得するマリアであったが、イシュタリアの説明には、少しばかり間違いがあった。


 それは解体作業が少し遅れるという点だ。実際は遅れるどころの話ではなく、ストップするに等しいというのが正しい内容であった。



 ……と、いうのも、だ。 



 解体作業において最も時間が掛かっているのは、血のろ過分解作業でもなければ、肉の解体作業でもない。


 何よりも手間を掛けているのは、皮膚の表面にびっしりと張り付いた鱗を剥がす作業。それこそが、実は一番時間が掛かっているのだ。


 なにせ神獣の鱗は、マリーの全力パンチでヒビが入るのがやっとの強度だ。熱や冷気にも強く、湿潤による劣化も見られず、乾燥による劣化も見られない。それ故に、現状は鱗そのものを破壊することは不可能に近い。


 なので、今は鱗の破壊を避けて解体作業を進めているが……いずれは神獣そのものを移動させる為に、その身体を細かく解体する必要がある。


 こればかりは、避けて通ることが出来ない問題の一つである。今は後回しに出来ても、いずれは解体の邪魔となる鱗をどうにかしなければならない。



 ……そうして、試行錯誤を繰り返して。



 ようやく先日、『切ったり砕いたりするのではなく、剥がすことで処理が出来そうだ』という結論に至った……までは良かった。


 だが、そうするに当たって、新たに住人たちの前に立ちはだかったのは、これまた厄介な問題の数々であった。


 まず分かったのは、びっしりと揃った鱗には梃子を使う隙間がほとんど無いせいで、スムーズに鱗を剥がすのが不可能に近いということだ。


 それでも四苦八苦してようやく梃子を差しこめたと思ったら、今度は一人の力では数センチと持ちあがらない。最低でも、大人四人が必要であるということ。


 おまけに、鱗と皮膚を繋いでいる、靭帯にも似た組織の強度も異常に強く、伸縮性も非常に高い。鱗の位置によっては、持ち上げた鱗を数人掛かりで押さえなければならなかった。


 身体を痛めないように何人かでローテーションを組みながら、ようやく出来た隙間からナイフを差しいれて、十数回に渡って角度を変えながら少しずつ組織に切れ込みを入れる。その作業を十数回に渡って繰り返した後、ようやく梃子を差し込んで……数人掛かりで一枚の鱗を剥がせる。



 ……それが、鱗一枚を剥がすに当たって必要となる全体の工程である。



 手順そのものは簡単なので、手間取って時間が掛かっていた当初よりも慣れた今となっては、かなり時間の短縮が進んできてはいる。


 だが、一枚を剥がすのに数十分。鱗を10枚も剥がし終えた頃には、だいたいの作業員が汗だくになっている辺り、如何にそれが大変なのかが分かるだろう。


 それを……それを、だ。


 そこまで苦労する作業も、マリーたちの手に掛かれば一枚当たりの所要時間は10秒ぐらいで済む。加えて、マリーたちは事情を理解しているので、料金等の足元を見たりはしない……住人たちからすればメリットしかない。



 ……只でさえ、人手は幾ら有っても足りないこの状況。



 神獣の解体作業も寝床となる住宅の建築も、並行して進めたい。


 けれども、冬を越す為に必要な仮設の住宅を作る方に人が回されて、解体作業に人を回せない。


 だからといって外から人を呼び寄せようにも、今以上に出せる金がない。というか、すぐに来られない。


 しかし、解体を早く行わなければ後々の作業に酷い悪影響が出る。住人たちにとって、亡骸の処理は本当に頭を悩ませる問題なのである。


 そういった……諸々の経緯もあって、マリーたちが居ないと神獣の解体作業がストップしてしまうというのも、あながち誇張ではないのだ。



「町のやつらからすれば、せめてある程度復興の目処が立つまでは留まっていて欲しいというのが本音じゃろうな。本格的な冬が目の前に差し迫っている今、仮設テントでは最悪、凍死する者が現れる可能性があるからのう」



 実際問題、ラステーラの半数近い建物が倒壊してしまった現在、寝泊まりできる建物が物理的に足りていない。もちろん、助け合いは行われている。


 だが、中には素行の悪い者がいることもあって、部屋を無償で提供している人たちからも少しずつ苦情に近い愚痴が出始めているのが悲しい現状であった。



「とはいえ、その目処までどれぐらいの時間が必要なのかっていう話になると、一年、二年でどうにかなる話じゃない。それこそ、5年、10年は必要になる……俺としては、さすがにそこまで面倒見るつもりはねえよってだけの話さ」



 そうため息を吐くマリーであったが、その場にいる誰もがマリーを責めようとは思わない。皆、マリーと同じことを考えていたし、この場に居る中では一番情の深いマリアですら、マリーの愚痴に同意見であった。



「いくら何でも、5年はさすがに……ねえ?」

「マリアもそう思うだろ?」



 賛同してくれたマリアに笑顔を浮かべるマリーであったが、すぐにその笑みは曇る。深々と、マリーは先ほどよりも重苦しいため息を吐いた。



「とはいえ、この時期に帰るのも心苦しい部分があるのは事実なんだよなあ……かといって、下手に先延ばしにすると、あの手この手で情に訴えてきそうで、すげえ面倒くさそう何だよなあ」


 ……ありえそうだ。



 ポツリと零したマリーの愚痴に、その場に居る(ドラコを除く)全員が納得に唸る。現時点ですら、言外の引き留めを受けているのを実感する時があるぐらいだ……これ以上となると、正直想像したくはない。



「……正直、私は助けたいという思いはあるよ」



 ポツリと、サララの声が室内に響いた。



「ここの人達は良い人ばかりだし、親切にしてくれたし……マリア姉さんも、ここに来る途中で分かったでしょ?」

「……んん~、サララ、それは少し違うわよ。貴女の言う通り、親切で良い人もいたでしょうけど……でも、違う」



 マリアは首を横に振った。



「町の人達が優しかったのは、君たちが『良質なお客さん』だったからよ。これでマリーくんたちが『碌でもないお客さん』だったら、多分もっと早くに追い出されていたか、あるいはもっと粗末な扱いをされていたと私は思うわね」



 若くして波乱の人生を歩んできただけあって、マリアの思考はシビアである。いや、シビアというより、リアリストという方が近しいのかもしれない。


 情けを掛けるべき場面と、そうでない場面。それをきっちり分けたマリアの意見に、マリーたちは苦笑いしつつも……はっきりとは否定出来なかった。



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