第十九話: 相も変わらず力技

※残酷な描写有り、注意要





 あの後、しばらく。



「――サララから聞いた限りでは、あの『亀』はそうらしいぞ」

「空気の爆弾を吐き出す……か。何ともまあ、デタラメな生き物だな」



 ようやく泣き止んだサララの背中を摩りながら、(今更ながらに気づいて)ドラコからこれまでの簡単な経緯と、『東京』を襲っている『敵』についての情報を聞いたマリーは……深々とため息を吐いた。



(俺って、本当に何をやっていたんだろうな)



 そのため息の原因は……ドラコから教えてもらった、ナタリアに関してのことであった。



(イシュタリアに心労を掛けさせていたわけか……まったく)



 マリーは馬鹿な己に……心から唾を吐きかけたくなった。



(ナタリア……黙っていた俺が、悪かったのか……)



 後悔……苦々しさを伴うそれが、胸の奥を締め付けた。


 近い将来そうなるだろうとは聞いていた。半信半疑という言葉とは少し違うが、心の何処かで楽観視していたのかもしれない。


 まさかこうも早く来るとは……己が如何に甘い考えをしていたことを、マリーは改めて思い知らされた。



 ……分かっていたことでもある。そして、覚悟もしていた……つもりだった。



 だが、所詮は『つもり』でしかなかった。それを、ドラコからの話で突きつけられたのだ。



 ――無理やりにでも、『ダンジョン』へ戻すべきだったのだろうか。

 そんな考えが脳裏を過る。


 ――だが、あいつがそれを望んだのだろうか。

 そんな考えも、脳裏を過る。



(待っている……か)



 あいつは……多分、気付いていたんだ。


 考えないようにしていた疑問……己の犯した過ちに目を向ける。


 もしそうなのだとしたら、マリーがやったことは……悪手でしかない。そしてその結果、起こってしまった。マリーの自分勝手な思いが招いた、逃れようがない現実だ。


 『狂乱化』……あの女、『オドム』から逃れられない定めであると諭されたあの夜から、ずっとマリーは考え続け……そして、目を逸らし続けていた結果がコレだ。


 仮に『オドム』のせいでナタリアから離れざるを得ない状況にされたとしても、決断を先延ばししたのは、まぎれもなくマリーなのだ。



(……サララにも、ずいぶんと心配を掛けちまったようだしな)



 そっと、己の胸に蹲ったままのサララを見下ろす。


 自分が居なくなった(正確には、過去の時代に行っていたのだが)ことが、よっぽど堪えていたのだろう。


 見えているうなじは微かに震え、ドレスの裾を掴む指先が赤くなっている。意図せず身じろぎするたび、もう二度と離さないと言わんばかりに引っ張られる……ここまで取り乱したサララは始めて見る。



(こうやって泣くのを見ると――)



 思い返してみても、何時だってサララは強かった。危機的な状況に陥れば師の命令を破ってでも行動しようとしたし、日々の鍛練を見て驚嘆の眼差しを向けたことも、一度や二度ではない。


 その、サララが……今、こうして震えている。


 マリーの記憶の中にある彼女からは想像もできない、弱り切ったその姿。幼子のように頼りなく弱弱しいその背中はまるで、しぼんだ花……そう思った辺りで、マリーは軽く目を瞬かせた。



(考えたら、こいつはまだ二十にも届いていない『子供』なんだよなあ)



 今更ながら、本当に今更ながら、マリーはそのことに思い至る。と、同時に、マリーは初めてサララと出会った時のことも思い出した。



(……思えば、サララと出会ってから一年ぐらい、か)



 あなたを愛している……毎日のように伝えられるその言葉。


 それの為に、日々の厳しい鍛錬を行い、マリーの言うことは1から10まで了承し、マリーが望めば人すら殺す。出会った頃のサララからは、想像もつかない姿である。


 あの時は確か、サララはもっと少年風を装っていて、もっとか弱い印象があった。上手く言語化できないが、言ってしまえば強く振る舞おうとしていた素振りすらあった……そう、マリーは思う。



「サララ、立てるか? 何時までも泣いている場合じゃないぜ」



 取り出したタオルで、半ば無理やりサララの顔を拭ってやる。「へぷふ」何とも可愛らしい悲鳴をあげつつも、何度か鼻を啜ったサララはマリーの言葉を聞いて立ち上がる。



「――あっ」



 だが、マリーと再会したことがよほど効いたのだろう。


 鍛え抜かれた両足は見ていてかわいそうになるほどに震え、生まれたての子羊のようで。カクン、と折れたと思ったら……ぺたりと、サララはその場に腰を下ろしてしまった。



「……大丈夫だ、泣くな。それぐらいは想定の範囲内だし、すぐに動けるようになるから、な」



 じわりと、涙を充填し始めたサララを宥める。次いで、傍にいるドラコを見上げるが、苦笑だけを返されてため息を吐きそうになって……堪えた。


 今のサララは、まるで、あの時のサララに戻ってしまったかのようだ。


 あの借金騒動を経てようやく、マリア曰く『そういう性格をしていた』というらしいが……もしかしたら、これが本当のサララなのかもしれない。



(しかし、これでは例え動ける様になったとしても……)



 サララの一番の持ち味は、鍛えた足腰から放たれる一撃必殺の爆発力だ。それが使えなければ、さすがのサララといえど戦闘能力は激減するだろうし、攻撃力も望めない。


 ……元通りにまで回復するには、まだしばらく時間を要するだろう。


 それが分かっているからこそ、サララも泣きそうになっているのだが……とはいえ、泣き言を言っても始まらない。敵は、こちらの様子など構ってはくれないのだから。


 改めて……彼方にて暴れ回っている二体の怪物を見やる。


 不幸中の幸いというべきか、運が回ってきたというべきか。『東京』一帯を埋め尽くしていた砂塵もそのほとんどが地に落ちていて、視界は良好であった。



(……『亀』と、あれは何だろうか?)



 一体はまさしく『亀』としか言いようがない図体。だが、もう一体は……建物の陰に隠れているせいか、よく見えない。



“もうすぐ、到着だぞ”



 既に、先ほど増やした内の数人を偵察に行かせているので、時期に分かるが……また見えないやつだろうか。時折見える『薄い物体』を見る限り、目で見える相手なのだろうが……と。



 “……え?”


(……え?)



 ようやく目標を捉えた『マリー』たちが……一様に目を瞬かせた。


 それはマリーも同様で、「……どうした?」不思議そうに首を傾げる傍のドラコたちに、マリーも不思議そうに首を傾げた。



「溶けてた」

「は?」



 ――何を言っているのかが分からない。



 二人の顔にはそう書いてあったが、おそらくはマリーの顔にも同様のことが浮かんでいただろう。



「だから、溶けてるんだって。あの先に居る、なんかアメーバを巨大化させたみたいなやつが、うねうねしながら煙を吹いているんだよ」



 指差した先に、ドラコとイアリスは目を向ける。あいにくと二人はマリーのように遠距離通信対応の分身を持ってないので、はっきりと確認は出来なかったのだが。



「……思うに、あの薄らと立ち昇っている白い煙の下に見える、変なやつか?」



 目を細めながら、ドラコがそう呟く。「え?」同じく隣で目を細めていたイアリスが驚いてドラコを見やり、「おお、さすがは竜人。よく見えたな」マリーは素直に称賛し……また、首を傾げた。



(なんか、あいつだけ他の3体とは違うような気がするんだが……まあ、いいか、考えたところで答えなんて分からん)



 『マリー』から伝わって来る映像を見る限りでは、だ。



 巨大アメーバ(としか、言いようがない)も他の奴らと同様に多大な被害を『東京』へもたらしてはいるが……とりあえず、この様子なら放っておいても大丈夫かもしれない。


 何せ、現在進行形で溶けているし。動きだって『亀』よりは速いが、それでも遅いことには変わらない。


 おそらくは消化中であろう亡骸がふよふよと漂っているのが見えるが、とりあえずは観察しておくだけで十分だろう。



 ――それよりも問題なのは、だ。



 いまだ我が物顔で直進を続ける、あの『亀』をどうするか、ということだろう。



「――言っておくが、私に名案を求めるのは止めておいた方が良いぞ」

「――右に同じく。マリー、私はあなたの指示に従うまでよ」

「……お前ら、それでいいのか?」



 チラリと視線を向けた途端に返された返答に、マリーは頬を引き攣らせる。せめて考える素振りぐらいしろよと言外に込めてみるが、ふふん、と逆に憐れむような視線を向けられた。



「思いつくような頭を持っていたら、自分からお前に伝えている」

「……イアリスは?」

「前に『お前は頭で考えて行動するな、仮に必要になったら自分からはけして動くな』と、皆から真顔で言われた」

「……お、おう、そうか」



 ――こいつらの知恵を頼るのは止めとこう。



 そう判断したマリーは、ひとまず思考を切り替える。次いで、『マリー』を通じてマリアたちの様子を確認した。



(まあ、幸いにもあいつの動きはとろいし……マリアたちは……ようやく最後の組が下りている途中か……まあいい。とりあえず、あいつらが無事なら最悪館がぶっ壊されても良し、だ)



 その最後の組にマリアが居る辺り、なんとなく状況を察して苦笑する。次いで、マリーは(そういえば、工事をしていた大五郎たちは……居ないな、逃げたか?)そのことに今更ながら思い至る。



“最初からいなかったようだぞ。家具等の設置を終えたのが少し前らしいが、その時に『ラステーラ』へ戻ったようだ。”



 キン、と響く『マリー』の声に、なるほど、とマリーは頷いた。


 一拍遅れて。



“それじゃあ、次はこっちの話だ”



 別の『マリー』からの声が頭に響く。


 それは、あの『亀』の方へと偵察に行っていた『マリー』からであった。



“あの『亀』さん、どうやら館がある方へまっすぐ向かっているようだぞ。さっきから、動きに迷いがねえ”


 ……マジで?



 思わず、『亀』の動いている先を見やり、「……うわ、マジだよ」深々とため息を零した……が、すぐに思考を切り替えると、早速『マリー』たちに指令を――。



“いや、無理だから”



 ――送るよりも前に、『マリー』たちから一斉に拒否された。その息の合い様にさすがのマリーも、“お、おう”たじろぐ他なかった。



 “いくら何でもアレは無理だって、お前……あれは数で押し切れるような相手じゃないぞ”

 “……さっきの倍に増やしたら?”

 “さすがにそこまで増やしたら、一人当たりに割り振られる魔力が減るだろ。ただでさえ頑丈なやつみたいなのに、力を分散させてどうする”



 頭の中に響く『マリー』たちの言葉に、マリーは唸る。


 傍でマリーの言葉を待っているドラコたちを見やり、落ち着いてきたサララの頭を撫でながら……うんうんと考える。



(あの『亀』も『気銃』なんかでは歯が立たんだろうし……イシュタリアが居たら知恵を借りられるのだがなあ……う~む、どうしたものやら……また前みたいに都合よく爆弾でも出てくれば、すぐにでも解決しそうなんだけどなあ……)



 現時点でまともに動けるのは、マリーとイアリスとドラコの3名だ。


 その内、建物に邪魔をされずに移動できるのはドラコだけで、有効なダメージを与えられるのは……変身したマリーか、イアリスの斬撃ぐらいだろうか。



(時間を掛ければそれでも倒せるだろうけど、致命傷を与えるまでには時間が掛かり過ぎるし、その前にサララがそうなったみたいに吹き飛ばされるだろうし……ん、いや、待てよ)



 そこまで考えて、ふと、マリーは思いつく。



(そういえば、イアリスはワンコの首を一太刀で切り落としたな……ん~、イアリスの持っているアレの切れ味と俺の力を合わせれば、あるいは……いや、無理か)



 内心、マリーは首を横に振る。


 あの芸当は、イアリスが持つ剣術が合わさって初めて生み出される一太刀だ。


 いくら『アルテミス』が優れた剣とはいえ、技量を伴わない一刀に、どれだけの威力を持たせられるか……ん?


 ふと、サララの傍に転がったままの『グングニル』に目が留まる。マリーにとっては見覚えの無いソレに、はて、とマリーは目を瞬かせる。



「サララ」

「……ん、はい」



 まだ少し、気が高ぶっているのだろう。瞳を潤ませたままのサララが、赤らんだ顔をマリーに向けた。



「お前、槍を新しいのに変えたのか?」

「……?」



 ぽかん、とした様子で『グングニル』とマリーの顔を交互に見つめていたサララは、「ああ、そういえばマリーは知らなかったね」少し間を置いてから納得に頷いた。



「『粛清の槍』は……燃えちゃって、使えなくなったの」

「へ、燃えた?」

「うん、燃えた」



 予想外の返答に、思わずマリーは首を傾げる。数ある二つ名の武器の中でも、『粛清の槍』は中々の代物のはずだ。


 戦いの果てか不注意かは知らないが、槍の扱いに長けたサララであっても、そのようなことがあることに驚いた。



「あれは、その代わりにと貰った物。『グングニル』という名前」

「貰った? 誰から?」



 本職ではないが、それでも一目で業物だと分かるソレを、貰う。いったい誰からだろう……マリーとしては、何気なく尋ねたつもりだったのだが。



「――っ! それは……」



 何故か言い淀むサララに、マリーは内心首を傾げ……ああ、と一人納得した。



「職人から口止めされてるのなら、無理に言わなくてもいいぞ」

「――あ、う、うん、そうなの、よく分かったね!」



 頬を引き攣らせながら何度も頷くサララ。あまりにワザとらしいその仕草に、マリーは苦笑した。



「なにを焦っているんだよ……そういうのは珍しい話だが、無いってわけじゃないぞ」



 そう言って、マリーはサララから離れて『グングニル』を拾い……思わず、目を瞬かせた。



 『グングニル』という名前には覚えが無かったが、その艶めかしさすら感じさせる刀身の美しさに、マリーは一瞬賛辞の言葉が出せなかった。



 ……良い武器だな。



 それがマリーの素直な感想であった。刀身で軽く足元を撫でる……が、カリカリと屋根を削る手応えに、あれ、と首を傾げた。



「これ、綺麗だけど切れ味悪いんだな。これなら『粛清の槍』の方が、はるかに切れ味が良かったぞ」

「え?」



 今度は逆に、サララの方が首を傾げた。「そんなはずないよ」マリーから受け取ったサララは、座ったまま刃先を無造作に傍へ下ろし――するり、と先端が突き刺さった。



「ほら。むしろ切れ味が良すぎて、扱いに気を付けなきゃならないぐらいだよ」

「え、でも、さっきはけっこう力を込めたけど食い込みすらしなかったぞ」

「力なんて入れなくても、この槍の重さだけで切れるぐらいの切れ味……多分、角度が悪かったかも」



 ――そういうものなのだろうか。



 首を傾げながらも、マリーは再び刃先を足元に向ける……が、結果は同じだった。


 サララの時はスルリと突き刺さった『グングニル』は、マリーが持つとまるでナマクラになったかのようにガリガリと表面を削るだけであった――のだが。



「――あっ」



 それは、本当に偶然であった。あまりにも上手くいかないマリーを見て、サララが何気なく柄を掴んで手助けした……次の瞬間。



「え?」



 ――何の手応えもなくスルリと屋根に食い込んだ刃先に、「――あれ?」マリーは思わず手を離した。


 それはサララにとっても予想外の結果だったようで、「――うへっ?」気の抜けた声を出した。



「今、どうやったんだ?」

「……どうも何も、普通に手を掛けただけ……なんだけど……」



 不可解そうに首を傾げるマリーとサララ。


 そこに、「もしかしてそれは、あなたにしか扱えない類の武器なのだろう」様子を見ていたイアリスが、おもむろに魔法剣『アルテミス』を取り出すと、鞘ごと二人に見せた。



「この剣もそういう類でね。私以外には鞘から抜けないようになっている」

「へえ……だったら、抜身の状態なら?」



 マリーの質問に、イアリスはしばし視線をさ迷わせた後、「確か、それと同じだ」そう言って『グングニル』を指差した。



「そこまで極端ではないが、この剣は私にしか扱えない武器なのだ」



 ――へえ、そんな装備もあるんだねえ。特に思うところもなく、二人は納得して頷いた。


 次いで、マリーはサララの手に収まっている『グングニル』と、今しがた傷つけた跡へと改めて視線を落とした。



「……ふむ、待てよ」



 もはや『グングニル』の特性とも言うべきそれらを見て、ふっとマリーの脳裏に考えが過った。そして、ドラコ、イアリス、サララの順に視線を送った後。



「なあ、お前ら」

「ん?」

「ちょっと、賭けてみるか?」



 そう言ってポツリと放たれたマリーの賭け。


 それはあまりに単純で楽観的な、失敗すれば命を落としかねない危険な賭けであったが、サララたちはほとんど迷うことなく頷いたのであった。









 荒れ狂っていた砂塵も止み、『東京』中を埋め尽くしていた薄黄色の霧が晴れた頃。耐え忍んでいた住民たちが恐る恐る外に出て……変わり果てた景色に言葉を失くした。


 空を覆っていた砂塵は、ほぼ降り積もった。差し込む日差しに照らされた、瓦礫と、砂埃と、そこに埋まった亡骸たち。それが、景色の大半であった。


 誰も彼もが現実を呑み込めず、これは夢なのかと己に言い聞かせる。つい数時間前まで広がっていた日常……あれはいったい、どこへ行ってしまったのだろうか。


 呆然と立ち尽くす人々……そんな彼ら彼女らを嘲笑うかのように響く、足音。それに気づいた人々は、一人、また一人とそちらへ視線を向け……乾いた笑みを浮かべるしかなかった。


 足音の正体は、『東京』を地獄のような景色へと変えた元凶の一つ、『亀』であった。その身体に降り積もった砂塵をそのままに、『亀』は進む。



 ただ、ひたすらに。


 ただ、ひたすらに。


 ただ、ひたすらに。



 『彼女』によって植え付けられた命令に従って進撃を続ける。


 それが自分の意志であると、そう『彼』は思いこまされたまま、目指すべき場所……ラビアン・ローズへと足を動かす。



 人々から向けられる絶望の眼差しに気づいているのか、いないのか。


 恐怖と歯痒さに呻く兵士の眼差しに気づいているのか、いないのか。


 踏み締める大地の下の数多の存在に気付いているのか、いないのか。



 『亀』の足は止まらない。『亀』の進撃は止まらない。



 人々の営みを吹き飛ばし、踏み砕き、幾重もの血だまりを生み出し続けても……それでもなお『亀』は、その中を我が物顔で突き進む。


 きっと、『亀』はその命を終えるその時まで、進撃を止めることはないだろう。脳髄の奥へと刻まれた指令に従うがまま、深手の傷を負ったとしても。けして、『亀』は怯まず突き進む――と。



 ――ふわり、と。『亀』の視界の端で何か動いた。



 最初は気にも留めていなかったが、何度か視界の端で動いたのを捉えて……足を止めるようなことはしなかったが、『亀』は内心、首を傾げた。



 ……?



 その何かの正体を、『亀』は把握出来なかった。影が視界に姿を見せたのはあまりに短く、また『亀』自身にそこまでの知能もなかったから。



 ――敵か、それ以外か。



 『亀』が考えたのは、それだけ。己に害を成すか否か、その二つだけが、『亀』にとっては重要だったし、それ以外に興味はなく、そして、『亀』は……おごっていた。



 ……はっきり言おう。



 『亀』はこの時『影』を、否、人類というものを眼中に入れていなかった。人が地を這う羽虫に気を留めないように、『亀』もまた足元を這う生き物たちをそうだと捉えていた。



 なにせ、『亀』からすれば、だ。



 人間など、攻撃にも至らないちょっかいを繰り返すだけの、鬱陶しい生き物でしかなかった。ちょいとその気になれば粉微塵に吹き飛ばされてその命を終える……弱くて脆い生き物でしかなかった。


 そんな認識だから、『亀』は人間というものを心底なめきっていた。


 雨あられのように弾丸を撃ち込まれようとも、その認識はピクリとも揺らぐことはない。むしろ、攻撃を繰り返せば繰り返す程、憐れみすら覚えたぐらいであった。



 ――?



 ……だからこそ、『亀』は最後までソレが何なのか分からなかった。己が脳裏を走る、警報を。明確なまでの死の予感に、『亀』は気づけなかった。


 ふわりと、視界の端。左右から同時に接近した、二つの影。



 一つはきらめく魔法剣『アルテミス』を上段に構え、全身から闘気を漲らせた、『妖精』の二つ名を持つ人間。


 一つは隕石が如く勢いで急降下し、脈動する力が肌に浮き出ている、『英雄』と同じ名を与えられた亜人。



 その二つの影が、全く同じタイミングで『亀』の左右から同時に迫る。のろまな『亀』にとって、それは意識の外から行われた攻撃に等しく、そして――。



「――でぇああああ!!!」


 その刃が、『気銃』ですら傷一つ付けられなかった、『亀』の右目を。



「――いぁああああ!!!」


 その爪が、『気銃』ですら傷一つ付けられなかった、『亀』の左目を。




 ――っ!?




 縦に、一閃。気合と共に放たれた、渾身の力が込められた二つの斬撃。根元まで突き刺さったソレは、生臭い体液を噴き出させながら落下していき……そして、離れた。その、次の瞬間。



 ――――ぉぉおおおおお!!!???



 痛みを知覚した『亀』が、悲鳴をあげた。初めて体感する四つに分かれた視界。何が起こったのかと考えるよりも前に、眼前の世界が瞬く間に暗く、闇の中へと閉ざされていく。



 攻撃、されたのだ!



 暗闇の中で、そのことを理解する。脈動に合わせて耐えがたき激痛が脳髄に響く。初めて体感する強烈な痛み、初めて体感する明確な攻撃……そこまで考えを巡らせた瞬間、『亀』の頭から思考が消えた。



 ――怒りだ。



 たった一つの、己を傷つけた外敵に対する怒りだけが、『亀』の脳裏を埋め尽くした。そして、怒りに埋め尽くされた『亀』の取る行動は……一つしかなかった。



 ――ぉぉぉおおおおお!!!



 雄叫びと共に、『亀』の甲羅の中央が、ごほぉ、と開かれる。と、同時に、ひゅごぅ、と爆風を噴き上げたかと思ったら……今度は逆に、凄まじい勢いで大気を吸いこみ始めた。


 それは、兵士たちに放った時とは比べ物にならない勢いであった。


 怒りと痛みで、我を忘れているからだろうか。あの時は数十秒も必要としたその行為を、『亀』は何と10秒程で終了させ……吸収を止めた。


 さあ、後は吐き出すだけだ。


 そう思うと同時に、『亀』は発射準備に入った。みちみち、と筋肉の隆起を利用して取り込んだ空気を凝縮し、それを一気に喉元へ移動させ――。



「――えやぁぁあああ!!!」



 ――た、と、同時であった。可愛らしい雄叫びと共に、軽い痛みが喉元を通り過ぎたのは。



 ――何を、された?



 それは、『亀』にとっては取るに足らない痛みであった。というよりも、両目から伝わる痛みが強すぎて、『亀』はそれを痛みとしてですら捉えていなかったのかもしれない。


 鬱陶しい羽虫が、また何かをした。おそらく『亀』は、そう考えたのだろう。それがさらに苛立ちを産み、ただでさえ沸騰していた頭にさらに血が上る。



 ――殺す!



 その意志が『亀』の脳裏を埋め尽くし……た、その瞬間、『亀』の意識が途切れた。何が起こったのかを知覚するよりも前に……『亀』の世界全てが、暗闇の中へと飲み込まれた。








 サララが槍を構え、変身したマリーがその両足を掴んで、サララごと振り回す。刃の角度と切れ込みの深さは構えたサララが調整し、足りないパワーをマリーが補う。


 ――サララにしか扱えないのなら、サララごと武器にしてしまおう。


 大雑把極まりない発想から生み出されたそれは、実に危険極まりなく、実に呆気なく……膨張した『亀』の喉元に亀裂を作った。



「――っ!!」



 体液が亀裂から噴き出したと同時に、サララは素早くマリーの胸に抱き着く。受け入れたマリーは槍ごとサララを抱きしめ、渾身の力を込めて地を蹴って、飛んだ。



 一瞬、静寂が『東京』を包んだ。



 物音すら聞こえなくなったその中を、サララをその胸に抱えたまま、弾丸が如き速度で距離を取ったマリーは、渾身の力を込めて地を殴る。ほんの数十センチではあったが、その一撃によって地面が陥没した。


 次いでサララは『グングニル』を陥没した中央に突き刺した。直後、サララは槍から手を離し、歯を食いしばって両手両足でマリーに抱き着く。


 マリーはサララごとその場に伏せて、柄のほとんどが埋まった『グングニル』を掴んだ――次の瞬間。



 『亀』の喉元の亀裂から、体液と共に空気が噴き出し――圧縮されていた空気は一気にそこへと押し流され――た刹那の後。『亀』の頭部が爆音と共に四散すると同時に、その身体を空高く打ち上げた。



 それは、ほんの一瞬の出来事であった。


 凄まじい爆発音と共に解放された空気は、空を飛ぶ全てを呑み込んでいく。それは、空へと逃げていたドラコと、ドラコに抱えられたイアリスをも巻き込んだ。


 ……しかし、土壇場に置いてドラコの判断は、実に的確であった。己が胸に抱えたイアリスごと、己が身体を翼で包み込んでボールのように丸まり、押し寄せる爆風を受け流したのだ。


 とはいえ、それでも完全に受け流すことは出来ない。それを瞬時に理解したドラコは、あえて飛ばされるがままに抵抗をしなかった。


 そして、爆風が十分に通り過ぎ、後は落ちるばかりとなったのを感覚で察知した瞬間……素早く、翼を開いたのであった。


 きりもみしながら落下し続けていたドラコの身体が、ぐん、とわずかに速度が緩む。そのまま回転を抑えつつも落下を抑え……ふわりと、危なげなく地面へと降り立った。


 途端、待ってましたと言わんばかりに、イアリスがふらりとドラコから離れる。そのまま、数歩ほどよたよたと進んだと思ったら、その場に四つん這いになって。



「――ぉろろろ」



 盛大に、胃の中の物を吐き出した。



「大丈夫か?」

「…………」



 返事はなかったが、微かに頷いたイアリスを見て、ドラコは安堵のため息を零す。おそらくは、今しがたのアレで酔ったのだろう……ん?



「何だこれは?」



 ふと、頬に触れた何か。それを指で拭ったドラコは首を傾げつつも顔をあげ……。



「……出来る限り早めに、大雨でも降ってくれたらいいんだがな」



 ドラコは、そう言ってため息を零した。それは、体液の飛沫は粒子のように細かくなって、『東京』中へ広がり散っているのが見えたからであった。



 ……そして、ところ変わって。



 爆心地と言っても過言ではない、その場所。そこから少しばかり離れた場所に、小さな……大の大人ひとりがうつ伏せになれる程度の小さな穴があった。


 ミンチ状になった肉片が辺りに飛び散り、その上から体液混じりの砂塵が降り積もっている。そんな、生き物が存在し得ない穴の中で……のそりと蠢いたのは、一人の女……変身したままのマリーであった。



「……生きているって、良いもんだな」



 ポツリと、その声は静かに響く。白銀色の美しい髪は見るも無残に汚れ、その全身は『亀』の体液と土砂で酷く汚れている。だが、マリーは気にした様子もなく己が身体の下へと視線を向けた。



「……無事か?」



 ボソッと、囁かれたその声。マリーの身体の下で守られていたサララは、軽く呻き声を上げると共に目を瞬かせて……ポツリと返事をした。



「さすがに今度だけは、駄目かもと思った」



 明け透けな感想に、マリーはしばし目を瞬かせた後……ふふふ、と笑みを零す。次いで、雨のように降り注ぐ体液の臭いと、肉塊へと変わり果てた『亀』の亡骸を見上げ。



「それは奇遇だな」



 振り返って、『東京』の状況を見て……これからの『東京』のことを思い浮かべ。



「実は、俺もだ」



 深々と、ため息を零した。



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