第六話: 失われた過去




「『あいにくと、私には悠長に遊んでいる時間はないの』」

『存じております』



 即答に……一瞬ばかり目を瞬かせたイシュタリアであったが、復帰するのは早かった。



「『分かっているのであれば、アレでお願いするわ』」



 キュイン、とイヴの身体が軋む。そして、イヴの返答は実に簡素であった。



『仰せのままに、イシュタリア』



 その言葉と共にイシュタリアの後ろにドスン、と乱雑に置かれたのは、金属製の粗末な椅子であった。


 綿やスプリングで多少は座り心地が改善されているそれに、イシュタリアは促されるがままに腰を下ろす。



 ――直後、天井の一部からリング状の拘束具が下りてくる。



 それは、スルスルと黒いケーブルを垂らしながらイシュタリアの頭上にて静止すると、優しく……本当に優しく、イシュタリアの全身を固定した。


 この瞬間、イシュタリアは身動き一つ取れなくなった。


 合わせて、いつの間にか降りてきた太い注射器が、何の予告も無くイシュタリアの胸に打ちこまれる。


 注入されていく薬液に顔をしかめるイシュタリアを他所に、全てを注ぎ終えた注射器はまた予告なく抜き取られる。


 ……赤い、粘ついた鮮血が、ぱたぱたと床へ滴り落ちた。



『――バイタルの上昇を確認。少し、気を落ち着かせてください』

「『い、いきなり出来るわけないでしょ……!』」



 悪態を突きながら、けほ、けほ、と咳き込んだ唇の端には、唾液交じりの鮮血。心臓へ直接安定剤配合の鎮痛剤を撃ち込まれたのだ……イシュタリアの言い分は、最もであった。



「『数百年ぶりだけど、この注射はやっぱり痛いわね……』」



 まあ、痛い、で済ませる辺り、それほど気にはしていないようであった。



『常人なら、苦痛で声すら出せないレベルですからね』

「『その痛い注射をした私に対して、何かいう事は無いのかしら』」



 ただ、それは何もイシュタリアが寛容だったわけではなく。



『痛み止めを追加致しましょうか?』

「『たった今、たらふく打ち込んだでしょ。これ以上入れて心臓が破裂したらどうするのですか』」



 イヴが、どこまでも機械的な対応をすることを知っていたからであった。「この対応に懐かしさを覚える自分が嫌なのじゃ」愚痴交じりにそう口走ったイシュタリアは、ため息と共にイヴを睨んだ。



「『言っておきますけどね、イヴ。いくら再生するとはいっても、痛みは相応にあるのですよ』」

『あら、そうなのですか。それでしたら、次からは痛みを軽くするために細い針を使用しましょうか?』

「『それだと、注入を終えるまでの時間が長引くでしょ……ああ、もう。無駄話はここらへんにして、さっさと始めてください』」



 とはいえ、普通ならパニックを起こす状況ではあるが、イシュタリアの目には何の恐怖もなかった。『――始めますが、確かに動けませんね?』というイヴの問いかけに、「『見ての通りです』」軽口を返す余裕すら見せた。



『それでは、これよりあなたの記憶中枢にメモリー・スキャンを挿入します』



 次いで、降りて来たのは……大小様々な針やら何やらが取り付けられた、奇妙な剣山のような形をした機械であった。


 その剣山は、一ミクロすら動けなくなっているイシュタリアの頭上にて静止する。照明の明かりを浴びたソレは、人の身体を容易く突き破りそうな鋭さを予感させた。



 ……メモリー・スキャン。



 それは、この時代において生物の思考や記憶をリアルタイムにて外部に通信させる装置の総称だ。言うなれば、テレパシーを機械的に行う装置……と言ったところだろうか。


 この装置によって、『本人も忘れ去っている記憶を読み取り、質問者と回答者の間に発生する差異を抑える』ことが出来る。


 通常は機械化された電子頭脳を介した接続を行うのだが、イシュタリアは生身である。安定剤や鎮痛剤を使用したのは、その為であった


 また、その形状と使用方法には違いがあり、大体にして発信する情報量と記憶レベルの度合いによって使い分けられている。


 ここ、『フロンティア』においても、マリーなどに使用した装着型が一般的とされているが、密着型では読み取れる総量が少なく、また読み取ったデータが欠損してしまう時があるという弱点があった。



 それらを考慮すれば、だ。



 長き時を生きたイシュタリアの記憶には不鮮明な部分が多々ある。加えて、それら一つ一つに補正処理を施す必要もあり、一般的なやり方では少々時間が掛かり過ぎてしまう。


 もちろん、時間さえ掛ければ大丈夫なのだが、イシュタリアの希望はとにかく早く、さっさと済ませたい、である。


 結果、今回イシュタリアが使用するのは、短時間で済む反面、大容量のデータを処理することの出来るやり方である。


 と、同時にそれは、頭部に直接装置を挿入し、記憶中枢から直接データを引き出す、『ダイレクト』と呼ばれる……あまり推奨されていない方法でもあった。



『バイタルの上昇を確認。緊張していますか?』

「『いいから、早くして頂戴!』」



 額に浮かんだ汗をそのままに、イシュタリアは声を荒げる。どうして声を荒げたのか……それは、すぐに分かる事だろう。



『――挿入します、ゆっくりと深呼吸を……』



 イヴは、その言葉の後に一瞬の間を作ると……根元まで、一気に剣山をイシュタリアの頭頂に突き入れた。



「――かはっ」



 瞬間、イシュタリアの身体が激しく痙攣する……ところだが、その身体は拘束具によって厳重に押さえつけられているおかげで、微動すらしなかった。


 大きく見開かれた目に浮かぶ瞳が、前後左右、あらゆる方向へと忙しなく動き回る。けれども、その唇から悲鳴が飛び出すようなことはなく、ため息にも似た掠れ声が時折漏れるぐらい。


 そして、静かに垂れた鮮血の一部が髪の中を進み、じわりと温もりが頭全体に広がった頃。ようやく瞳の痙攣が収まったイシュタリアは、大きく息を吐いて全身の力を抜いた。



(相変わらず、コレの異物感というか気持ち悪さは半端ではないのじゃ……)



 頭部に感じる違和感にくすぐったさを覚えながら、イシュタリアは力無く目を瞑る。鎮痛剤のおかげで、痛みはまるで無かった。


 加えて、配合された安定剤のおかげでストレスも軽減されており、体力の疲労もほとんど感じなかった。



『これは……ふむ、私の知っている日本語とはかなり違いますが、なるほど。これが、あの子たちの言っていたことですか……言語の情報更新を完了……以後は、あなたが楽な方で思考していただくだけで結構です』



 そう言われて、目を開ける。キュイン、と向けられたカメラを見て、(どうやら、思考接続は順調のようじゃな)イシュタリアは無事に装置接続が成功したことを悟った。


 装具から枝分かれするようにして伸びた小さな鉄の指先が、イシュタリアの額に浮かんだ汗を拭い取っていく。


 頭部に野太い針が何本も突き刺さっている感覚は、常に感じ取れる。だが、これのおかげで質問をする手間が省けるので、我慢するしかなかった。



『念のために確認致しますが、スキャン中は過去の記憶が夢という形で表層化されることは忘れていませんね?』


 ――それぐらい、覚えているわよ。



 そう、イシュタリアが心の中で念じれば、『分かっているのであれば、結構です』イヴはキュイン、とカメラの付いた頭部を軋ませた。



『それでは、睡眠剤を投与します。』



 まあ、どうせすぐに眠らされてしまうのだから……というのが理由としては大きいのかもしれない。


 そして、イシュタリアは、『投与量、67%……』こみ上げてくる強烈な眠気を前に……呻き声一つ上げる間もなく、『投与量、100%……』闇の中へ意識を放り投げ。



『今こそ、あなたに伝えましょう。そして、そこからどう行動するかは、あなたが選びなさい』



 その言葉を認識できないまま、イシュタリアの意識は……過去の思い出へと飛び立っていた。










 ……。


 ……。


 …………ぞくり、と背筋を走る悪寒に、イシュタリアはゆっくりと目を開ける。



 途端、眼球を撫でる黄緑色に驚いて、目を閉じる。次いで己の現状を思い出して目を開けて……視界全てを埋め尽くす黄緑色の液体に、目を瞬かせた。



 ――ここは?



 こぽっ、と吐き出した気泡が頭上へと昇って行くのを見上げる。特殊ガラスで覆われた天井に手を伸ばせば、指先がこつん……と、ぶつかる。


 その先にある照明の光がきらめいて、実に幻想的な光景であった。



 ――むむ、服を着ていない……何時の間に?



 視線を下げれば、排水口(あるいは、排出口だろうか)らしき機器が足場となっているのが見える。わずかではあるが、水流を肌で感じ取ることが出来た。



 ――そうか、ここは休眠ポッドの中だ。



 思い出したと言うよりは降って湧いたと言った方が正しいのかもしれない。ほとんど反射的に己が今いるこの場所を理解したイシュタリアは……同時に、これが『夢』であることも理解した。



 ――久しぶりじゃからかもしれぬが、まさかここまで意識がはっきり残るとは……何とも、不思議な気分なのじゃ。



 イシュタリアは無意識の内にため息を吐く。肺胞の奥に残されたわずかな気体が、こぽりと気泡となって口から飛び出し……頭上へと昇っていった。


 ……メモリー・スキャンは大脳の中にある記憶中枢を強く刺激する。


 それは、直接記憶中枢を刺激した場合にのみ起こると言われている、副作用とも言うべき現象。イシュタリアは今、過去の記憶を追体験しているのだということを理解した。


 使用中、対象者の脳はレム睡眠時に近い状態に置かれている影響だと言われているが……今のイシュタリアのように、はっきり己を自覚するのは稀であった。



 ――もしかしたら、イヴが何かをしたのかもしれんのう。



 さすがのイシュタリアも、使用される薬液に関する知識までは無い。とはいえ、可能性は……というか、間違いなくしているだろう。


 何せ、追体験はあくまで当人の記憶しているモノしか映らない。これは明らかに外部の補正が掛けられていると――っと。




『――それで、アルテシアNo.177の調子はどうだ?』




 突如聞こえてきた声に、ハッと振り返る。


 そうして初めてイシュタリアは、黄緑色の液体に満たされたガラスの向こうに、いくつもの黒い人影が立っているのを認識した。



 ――誰じゃ、こやつらは?



 どれだけ目を凝らしても確認出来ない人影を見下ろしながら、イシュタリアはグッと顔を近づける。


 それでも、輪郭しか確認出来ない。声の調子で男女であることは分かるが、誰が男で誰が女なのか、それすらも分からない。


 分かるのは、影たちから聞こえてくる声の数は、十や二十では足りないということだけであった。



『どうもこうも、報告書の通りさ』

『一ヵ月前の定期報告じゃねえよ。リアルタイムでの話を聞いているのだ』

『だから、報告書の通り変化は無いってば』

『でも、少しぐらいは変化が起きているのだろ? 私たちは、その変化を知りたいんだ……それはお前たちだって、よく知っている――』

『はいはい、分かった分かった。そんなに知りたければ、昨日のデータを教えてやるよ……まあ、期待しているようなものは何もないけどな』



 影たちは、ガラスに頬をくっ付けて目を凝らす……そんなイシュタリアの姿に気づいていないのか、無視しているのか。


 ……いや、見えていないのだろう。


 これは、かつてのイシュタリアが見ていた光景……なのかもしれない。そう、納得するイシュタリアを他所に、会話は続けられた。




『……昨日のデータだと、各バイタルの数値は安定ラインを維持。DNAの劣化はもちろん、各所細胞の劣化も見受けられず、目立った異常は無し。深夜2時に気泡を1度、昼の13時に両手をわずかだが痙攣させたが、それだけだ』

『気泡の量は?』

『ごく微量。まあ、肺胞に残っていたのが出ただけで、両手の痙攣は脳神経における電気信号の誤作動……取るに足らないことだな』

『脳波及び思考ロジックに変動は?』

『そちらも同様で、相も変わらず幼稚で未熟の一言。大脳機能こそ従来の数十倍近い性能を有しているのは確認済みだが……しかし、まだその機能の1%も自由に引き出せていないのが現状だな』



 ボソボソと、大きくは無いが、決して小さくも無い会話がイシュタリアの耳に届く。話している内容に全く覚えはないが……人影たちが昔の自分について話しているということだけは、察することは出来た。



 ――アルテシアNo.177。

 ――それは確か、私の生体番号……だったかのう。



 記憶の奥底にて埃被っていた、その数字。イシュタリアという名が授けられる前は、確か己はその数字で呼ばれていた覚えがある……ことを、なんとなく思い出す。



 ――いや、違う。思い出したのではない。これは、記憶の奥から引っ張り出されたものじゃな……!



 静かに、目を細める。おそらくはこの記憶、己が生まれて間もない時期の出来事なのだろう。そして、この光景はおそらくはイヴが……何かを己に伝えるが為に作り出したものなのだろう。



 ――イヴ、そこに、私の求めている答えがあるのじゃな。



 イヴの思惑を推測したイシュタリアは一つ気持ちを切り替えると、ジッと影たちの会話に耳を澄ませることにした。




『何故、引き出せないのだ? 理論上では、既に8%程度は引き出せるようになっているはずだぞ』

『分析班によれば、『外部からの刺激が少なすぎる』のが原因らしいわよ』

『刺激だと?』

『そうよ。あなたたちも知っての通り、No.177はこれまであった虚弱性をクリアし、将来的には外を自由に動き回れる可能性を秘めた個体ではあるけれども……』

『まだ、内臓機能に未熟な部分が多く見られるせいで、ポッドから出れば半日とて生きられない。加えて、受胎機能が正常に備わっているかが現時点で確認出来ない』

『これまでの出来そこないとは違い、彼女は限りなく“完成個体”に近いですからね。仮に受胎機能に不全があったとしても、それを余りある価値が彼女にはある』

『左様。言うなれば、彼女は我々の研究の結晶とも言えるべき存在。多大なる資金と時間と労力を注ぎ、“ノア”から提供された技術を用いて、ようやくここまで来られたのだ……失敗するわけにはいかない』




 ノア……まさか、その名をまた耳にすることになるとは。


 脳奥から沁み出た記憶の中。辛うじて残っていた名称を思い浮かべたイシュタリアは、軽く目を瞬かせた。



 ――考えてみれば、私自身、“ノア”のことはあまり知らんのう。



 ノアのことに関しては、いくらかはっきりと残っている記憶の一つに当たる。


 なにせ、ノアとフロンティアはライバルでありながらも、互いに惜しみなく協力し合う間柄だ。ココの一員でもあったイシュタリアが、知らないわけがなかった。



 ……己の誕生に深くかかわり、ノアから提供された魔術文字技術がフロンティアにて生かされているということは知っている。



 魔術文字によって技術は飛躍的に進み、別のアプローチにて未来を生み出そうとしている、ココと同等の組織であることも知っている。


 何故イシュタリアがそれを知っているかと言えば、かつて、己を作り上げた人たちから、イシュタリアはそう教えられたからだ。


 生みの親と行っていい彼ら彼女らからそう教えられたからこそ、イシュタリアは今の今まで純真無垢に『そういうものだ』と納得していた。


 けれども、だ。


 改めて考えてみれば、ノアのことで何を知っているかと問われれば、答えられないことの多さに今更ながら思い至る。



 ――そういえば私、ノアの連中がどういう研究をしていたのかも知らんのじゃな。



 そう……改めて考えてみれば、知っているのはそれぐらい。


 ノアの研究員と何度か顔を合わせた覚えはあるが、施設そのものに立ち入ったことはない……イシュタリアにとって、ノアとはその程度の付き合いだったのだ。


 遊びと称して、ノアから譲られた機械設備を弄らされたことはある。


 実験と称して、その機械設備を使って様々な薬品を、好奇心の赴くままに作った覚えもある。


 しかし……フッと湧いて出た疑問に、イシュタリアは首を傾げた。


 考えてみれば、数こそ劣るものの、ノアから生み出された機械は世界中の主要施設に搬入されているので、資金自体は向こうの方が上だ。


 加えて、魔術文字によって莫大な利益を得たノアは、ここの重要なスポンサーであり、歴史の古さでも向こうが圧倒的に古い。


 そこから、よくよく考えてみれば、だ。


 フロンティアの最終目標が“新たなる人類の生成”なのだとしたら、ノアの最終目標とは、いったい何なのだろうか……?


 いまいち、イシュタリアは答えを思い付けられずにいた。




『しかし、だ。彼女を失うわけにはいかない我らは、彼女を大事にするがあまり、我らは彼女の行動を著しく制限し、不確定要素を孕む接触は全て遠ざけてきた』

『それを言い換えるとすれば、すなわち彼女はあまりに甘やかされ過ぎた。つまり、彼女はその生においてほとんど自発的な行動を取る必要はなく、我らも取らせなかったということになる』

『結果、肉体の成長に比べて、精神の成長が遅れている……と?』

『正確に言えば、肉体の成長も予定値より下回っているがね。上がってくる報告書によれば、今の彼女の精神年齢もかなり低いようだ。反面、一部に置いては成人とそう変わりない部分もあるらしい……かなり歪だな』

『しかし、難しいモノだな。あらゆる道具を使い、時には僕たちが兄や姉となってコミュニケーションを取ってはいるものの、目立った効果が見られないとはね』

『子供は、ある意味では我ら大人よりもずっと鋭いらしいからな。もしかしたら、我らの感情……欲望とも言うべき願いを、無意識の内に見透かしているのかもしれない』

『子供は素直だし、裏表なんて分からない。例え僕たちの、彼女を愛する気持ちが本物であったとしても……ね。それが分からないからこそ、彼女はもしかしたら強いストレスを感じているのかもしれない』

『だからといって、そのストレスを掃除ロボットに向けられてもね……今回ので、もう13台目だよ。いくら予算に余裕があるとはいっても、無駄遣い出来る余裕はないんだけど』

『仕方ないわよ。そうやって壊すことで、彼女は知らず知らずの内に溜めこんだフラストレーションを発散させているのだから……むしろ、アレで済むなら安いものよ』




 聞こえてくる声に、怒りの色は見られない。言葉通り、必要経費であるとは分かっているが、問題には思っているのだろう……しかし、そんな影たちの嘆きを前にして、イシュタリアは。



 ――うむむ……私はそのようなことをしておったのかじゃな。



 全く覚えのない記憶に、気恥ずかしげに己の頬を掻いていた。



 ――驚いたのじゃ……まさか私に、そのような時期があろうとはのう……記憶にある限りでは、結構大人しく素直な感じだったような気がするのじゃが……。



 イシュタリア自身が覚えている限りでは、そういった乱暴な行動を取った記憶は無い。“新たなる人類”という欲望を携えながらも、向けられる親愛に偽りは無く……不器用ながらも、精一杯甘え続けた記憶があるばかり。


 けれども、これを見せると言うことは、これもまたイシュタリアの知らない(というか、覚えていない)真実なのだろう。


 それが分かっているからこそ、イシュタリアは目を逸らすことなく全てを受け入れる……つもりではいるのだが。



 ――し、しかし、意外な一面というか、何というか……こう、鳩尾の辺りがムズムズして仕方がないのじゃ。



 それはそれ、これはこれ。眼前のこれら全てがただの記憶であり、既に過ぎ去った過去であるのは分かっているが……何だか、穴が有ったら入りたい気分であるのは確かであった。




『しかし、どうすればいい。我らとしては少しずつ彼女の成長を楽しみたいところではあるが、どうやら例の連中がこの研究に感づき始めたようだぞ』

『なに、あの狂人どもが?』

『そうだ。まだ確定した情報ではないが、少しずつ彼らのところに武装勢力が集まっているらしい。さらに付け加えるなら、ココが色々と独占しているとかいう噂が囁かれ始めているようだ……世界各地で小競り合いが再会するのも、時間の問題だろう』

『なんだと……想定していたよりも早いではないか。諜報部のやつらは何をしていたのだ。この研究は、それこそ人類の存亡へと繋がる偉大な研究だというのに……!』

『言ってやるな……諜報部のやつらも大分困惑しているらしい。なにせ、この研究は極秘中の極秘であり、外部からの侵入は完全に防いでいたらしいからな』

『しかし、結局はこの様か。名前が知られたところでどうにかなるわけではないが、こんなに早く事が起こり得るとはな……まさかとは思うが、我らの中に裏切り者が……』

『馬鹿な、あり得ない。今更我らの中に裏切り者が現れるなど、突如重力が反転するぐらいあり得ないことだぞ』

『でも、それは最もな話だわ。私たちはもちろんのこと、私たちと協力関係にある全ての関連企業や研究所は、この計画がどれだけ重要であるかを理解している。否、理解していなければ、この研究に携えるはずがないのだから』

『ということは、どういうことだ?』

『つまり、理解したうえで誰かが意図的に情報を漏らした……あるいは、その誰かが何かしらの目的を持って、裏で糸を引いているのかもしれない。その可能性を、否定することが出来ないということだ』




 ――うむ? 何じゃ、何やら不穏な話になってきたのじゃ。



 聞き捨てならない単語が、次々と飛び出してくる。これは一語たりとも聞き逃すわけにはいかないと思ったイシュタリアは、さらに耳を澄ませた。




『まあ、そこら辺りは諜報部に任せた方が得策だ。我らはあくまで研究が専門だ。スパイや黒幕を心配するぐらいなら、彼らが暴走しないことを祈っている方が現実的だな』

『それもそうだ。『神』を信じる彼らからすれば、我らが行っている“新たなる人類”を作るこの行為は、人の分際で神の領域を侵す大罪人でしかないからな』

『自分たちが飢えて苦しんでいるのに……という思いもあるのでしょう。しかし、僕らからすれば奴らの考えこそ身勝手でしかない。僕たちは、何時だって人類の為にやっているというのに』

『今まで幾度となく立ち直るチャンスは与えて来たからな。それら全てを不意にし、己らの懐に収め、結局はどうにもならない事態にまで悪化させたのは彼らだ』

『左様。彼らの言い分は、言うなれば性質の悪い賊でしかない。我らは彼らに食料を与え、教育を与え、医療を与えた。なのに彼らは足りないと騒ぐばかり……もはや、彼らに手を差し伸べるのは無意味だ』

『しかし、彼らの勢力は無視できない。技術や装備こそ俺たちは圧倒しているが、数の面では二十倍以上の開きがある。消耗戦になれば、研究の8割強をストップさせる必要がある』

『加えて、広域破壊兵器でも使われようものなら、いくらこの施設でも耐えられはしない。只でさえ生き物が住みにくくなったこの世界において、まさかそのような暴挙に出るとは思わないが……無いとも言い切れないのが悲しいことだ』

『ならば、そうなる前に彼女の成長を促し、研究を完成させるほかあるまい。彼らの身勝手な怒りと恨みが我らの所に届けば彼らの勝ち。だが、その前に彼女が自立できるようになれば、我々の悲願は半分ほど達成される』

『とはいえ、言うは易い。いずれは“新たなる人類”として成長を遂げるとはいえ、今はまだ癇癪持ちの幼子でしかない……何か良い方法はないかしら?』

『そう簡単に見つかれば、我々とてここまで苦労したりはしないさ……しかし、そうだな……いっそ、原点に戻ってみるか?』

『原点……というと、何か、彼女にお人形でも与えるのかい?』

『おや、不服かな?』

『今更……しかも、彼女にそんな古典的なモノを? 1%しか発揮出来ないとはいえ、彼女の理解力は既に常人を軽く上回る。人形など与えたところで、すぐに学習されて壊されるのがオチだ』

『ふむ……それならば、昨日“ノア”から引き取ったアレを投入してみてはどうだろうか? どうせ廃棄処分されるものだし、良い機会だとは思わないか?』




 ――アレ、じゃと?




『なるほど、悪い手では無い。精神の影響は、時に肉体にも強い影響を与えるという報告もある。その点を考慮すれば、少々古臭いやり方だが、試してみる価値があるのではないだろうか』

『そうだな、試してみる価値はあるかもしれない……『イヴ』、アレの状態確認と、君の意見を聞きたい!』




  ――イヴ!?



 キュイン、とガラスの向こうに姿を見せたイヴに、イシュタリアはギョッと目を見開く。視線の先には、イシュタリアの記憶にあるソレよりも真新しい光沢が、人影を見下ろしていた。



 :――検体No.203。肉体的異常は無し、洗浄と処置が終了次第、使用可能となっております:



 液体色に染まったイヴは


 :少々お待ちください:


 イシュタリアの良く知る声で沈黙を作ると……


 :よい方法かと思われます:


 人影たちの提案に賛同した。




『では、どのように使えばいいと思う? ある意味この中では一番母親らしい君なら、どうすればいいと思う? 意見を述べることを許可する』


 :許可を承認。私の意見は、検体No.203を、アルテシアNo.177のカプセル内に投入してみるべき、です:


『なに?』




 ――えっ?



 思わず驚きの声を上げたイシュタリアであったが、その声は誰の耳にも届かない。ただただ呆然と、成り行きを見つめるしかなかった。




『危険ではないのか? 万が一、アレが彼女を攻撃したら……』


 :その点についてはご安心を。No.203の筋力はNo.177の50分の1以下です。加えて、アレは大脳機能に致命的な欠陥を抱えており、自力行動はほとんど取れません:


『でも、カプセル内の環境は? カプセルを満たしている保護液は、あくまで彼女の身体に合わせた特注品でしょ。下手に違う物を入れれば、アレに拒絶反応が現れる恐れがあるよ』


 :お忘れですか? アレは、こちらから技術と、彼女のサンプルを使って、ノアが新たに作り上げたホムンクルスです。性能では雲泥の差こそあるものの、構成する細胞は限りなく彼女に近い:


『なぜ、カプセルの中に投入するのかな? カプセル越しに合わせるだけでは駄目なのかい?』


 :先ほども言った通り、No.203は自力行動が出来ない為、仮にNo.177がアレに呼び掛けても、アレは一切の反応を起こせません。加えて、No.203は、2分以上保護液から出られない:


『……なるほど。リスクはあるけど、同じカプセルに入れてより強い刺激を与えるわけね……よし、いいでしょう。イヴ、彼女のカプセルに、アレを投入しなさい』




 そう人影が命令を下した直後、とぽん、と何かがカプセル内に入ったのが分かった。頭上から何かが入り込んだ感覚……人影たちが口にしている“アレ”が入れられたのだと理解すると同時に、イシュタリアは振り返り……そして、言葉を失くした。



 ……視線の先には、無表情のままに漂うイシュタリアの姿をした……かつての自分、No.177が居た。



 黒髪がゆらゆらと広がり、よく知っている顔立ちが確認出来る。


 眼前にて漂うそれが、かつての自分であることを、イシュタリアは一目で察することが出来た。



 ――そんな、まさか……。



 けれども、イシュタリアの驚きはそこでは無い。イシュタリアの驚きは、かつての自分の前に居る、アレの姿。それこそが、驚愕の原因であった。


 アレの姿は、まるでイシュタリアが良く知る人そのまま。生き写しと言ってもいいぐらいに同じ姿のアレは、ぷかぷかと液体の中を漂った後、ゆっくりと赤い瞳がイシュタリアへ向けられて。



 ――マリー、どうしてお主が……ここで出てくるのじゃ!?



 無表情のままに、マリーの姿をしたNo.203に近づいて行くかつての自分を、見つめることしか出来なかった。



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