イシュタリア編: エピローグ




 ……互いに見つめ合う、かつての『イシュタリア』とマリーの姿をした『何か』。



 呆然と二人の邂逅を眺めるしかなかったイシュタリアであったが、さすがに何時までもそのままというわけではない。


 考えるよりも前に、イシュタリアの手が伸びる。


 しかし、何故二人に手を伸ばしたのか、それはイシュタリアにも分からなかった。


 ただ、真っ白になった思考の中で、イシュタリアはとにかく行動することを選んだ。



「――思えば、この出会いが崩壊の始まりだったのかもしれません」



 けれども、その手が二人を掴むことは無かった。


 突如鳴り響いた声と共に、ブツリ、と回線を断ち切ったかのように目の前の世界が一変したからであった。



 ――えっ?



 世界の色が変わった。


 そう、頭が認識する前に、身体を包み込んでいた保護液の感触が消えて、イシュタリアの唇から、あっ――と吐息にも似た声が零れる。


 次いで、いつの間にか圧し掛かっていた重力に驚く間もなく、緑色の地面を踏みしめる……と、水飛沫が足回りに飛び散った。



 ――これは?



 裸足の上からでもはっきり分かるぐらいに柔らかい、緑の大地。地面を覆っている緑には熱がこもっているのか、心地よい暖かさも伝わって来る。


 思わずその場で足踏みをすると、緑とぬかるんだ土とが合わさって、何ともぬめぬめとした感触をイシュタリアは覚えた。


 今度の景色は、どこまでも広がる青空と瑞々しい芝生に覆われた……何とものどかな雰囲気に包まれた世界であった。


 ぷん、と漂う緑の臭いに状況が分からないイシュタリアは、しばしの間辺りを見回すしか出来なかった。



「――『彼』という友達を得たあなたは、我らが想定した以上の成長を遂げました」



 そのイシュタリアの背中に声が掛けられる。ハッと我に返ったイシュタリアは、イヴ……彼女の姿を探した。


「――一言でいうならば、あなたは……見た目相応の女の子に成れたのです」


 その言葉と共に、景色の一部がブレる。ノイズのように擦り合った景色が元に戻ると、そこには『イシュタリア』と、マリーの姿をした『彼』が居た。


 どちらも、生まれたままの姿であった。


 『彼』が収められた小さなポッドに額を押し付ける様にして、『イシュタリア』が地面に座り込んでいる。その姿を、ポッドの中の『彼』は無表情のままに眺めていた。


 特別、会話をしているようには見えない。『何か』と同じように、固く唇を閉ざしたままの『イシュタリア』は、ただただ『何か』との視線を合わせているようであった。


 ……気になったイシュタリアは駆け寄って、屈んで二人に顔を近づける。


 けれども二人は相も変わらず無表情のままで、時折思い出したかのように瞬きを繰り返すぐらいしか、変化はなかった。



 ――この二人は、何をしておるのじゃ?


「――おそらくは、何かしらのコミュニケーションを取っていたものと推測されます。残念ながら、私たちにもこの行動の意味は把握出来ず、あなたの記憶中枢からも復元することができませんでした」



 背後から掛けられた声に、振り返る。


 見れば、拳大のセンサーを、枯れ枝のように細い三脚で支えた機械が立っていた。「――この姿を見せるのも、何時以来でしょうか」器用に足を動かしながら……イヴはイシュタリアの横に立つと、キュイン、とセンサーを二人に向けた。



「当時のあなたは、それはもう『彼』に夢中でした。調整も進み、カプセルの外に出られる時間が伸びたというのに、あなたは片時も『彼』の傍を離れなかった」


 ――ずっと?


「ええ、ずっと。当時、ここには子どもと呼べる存在は、あなたを除いて『彼』しかいませんでしたから……親近感が湧いたのかもしれません」



 カプセルに抱き着いたイシュタリアの手が、スルリ、スルリとカプセルを撫でる。


 その手を追い掛ける『彼』の反応が楽しいのか、時折動きに変化を咥えながらも、『イシュタリア』は『彼』の様子を眺めつづけていた



「当時のあなたからすれば、『彼』は初めての友達になりますからね……しかし、来る日も来る日も『彼』を眺めていたあなたですが、それで満足出来なくなるにはそう時間は掛かりませんでした」



 再び、景色が変わる。今度は、大小様々な形状のカプセルが立ち並ぶ一室。その中で、『彼』が漂うカプセルに向かって、片言ながらも延々と話しかけるかつての己の姿が映し出された。



 ――んん?



 『イシュタリア』が、カプセルの中に居る『彼』に話しかけている。


 その言葉に耳を澄ませてみれば、英語、日本語、フランス語、イタリア語、中国語、ドイツ語……一つ一つ数えていたイシュタリアは、すぐに数えるのを止めた。



 ――いったい、何をしているのだろうか?



 イシュタリアは首を傾げる。


 話している内容こそ、『おはよう』、『こんにちは』、『調子はどう』、『何かしたいことはある?』、『こっちを見て』といった極々簡単な日常会話だが、何故そのようなことをしているのだろうか。



「『彼』と、会話を試みようとしているのです」



 そう言われて、イシュタリアはイヴへと振り返った。



 ――こやつは、話せるのか?


「この時点では、全く話せません」



 イヴの返答は、簡潔で短かった。



「しかし、『彼』の声を聴いたことが無い当時のあなたは、そのことを知らなかった。だから、彼女は『彼』の言葉を探すことにしたのです」


 ――その為に、わざわざこんな回りくどい方法を?


「はい。『彼』と会話をしたい一心で、世界中の言語を瞬く間に習得したあなたは、それからしばらくの間、こうして『彼』に語りかけるようになりました」



 イヴ曰く、「初めて、あなたが自発的に行ったことの一つです。おそらくは、『彼』のことを独り占めしたかったのかもわかりませんね」と続けた。



「私たちに教えてもらうのではなく、自分で見つけ出すことに意味を見出したのかもしれません。だから、当時のあなたは『彼』のことに関して一切の質問をしてきませんでした」



 ……そう言われて、イシュタリアは改めて二人の傍に腰を下ろす。


 変わらない無表情のままに声を掛け続ける『イシュタリア』と、ただ見つめ返すだけの『彼』。


 何度見ても、そこに意志の疎通が有るようには見られない。


 しかし、それでも『イシュタリア』は『彼』を見つめ、『彼』は『イシュタリア』を見つめている……もしかしたら、それがあったのかもしれない。


 そう思ったイシュタリアが、何となくこみ上げてくる笑みをそのままに身体を起こす……と。


 二人から、少しばかり前方の地点。こちらを伺うようにして佇む、あの人影たちの姿を見つけた。


 またか、と思ってイシュタリアがそちらに向き直ると、その集団の内の一人が、おもむろにこちらを指差した。




『No.177は、随分とあの子に御熱心のようだな。自発的に言語を習得し、自ら他者とコミュニケーションを取ろうとするとは……想定していた以上の結果となった』




 途端、頭に響いたその声に、イシュタリアは思わず肩を竦めた。けれども、「当時の、あなたを取り巻いていた状況です」イヴからそう説明されたイシュタリアは、すぐにその声に意識を向けた。




『反面、想定していた以外のことも起こり始めた。今まで全てにおいて従順であった彼女が、ここに来て我らの命令に従わず、反抗的な態度を取り始めた』

『左様、これは由々しき事態じゃ。いずれは人類の上に立つ者とはいえど、まだあの子は未熟。だからこそ我らが導いてやろうとしているのに、それを払い除けおった……少し、対応を考えねばならぬ』

『いや、それはあまりに時期尚早ではないだろうか。彼女がそうやって自己的な考えを持つようになったのは、彼女が成長する為には避けては通れないことなのだ』

『そうね、あんなの反抗でも何でもないわ。可愛らしいボーイフレンドを見つけた彼女は今、自我に目覚めようとしているだけ。遅い思春期の到来と考えればいいのよ』

『思春期だと? 最後の希望になるかもしれない彼女が、次世代の人類として地上に新たな繁栄をもたらす彼女が、そんな低俗なことを……!』

『何をそんなに驚いているのですか。いくら彼女が『アルテシア』であっても、その根っこには我ら人類のDNAが使われている。人の血を引く以上、人間が人間足らしめる自然的なプロセスを遂げるのは、ごく当たり前のことではありませんか』

『そうだ。それに、彼女には、我らが望んだとおりの『変化』が起こっているじゃないか。まだこの実験を始めてから三ヶ月しか経っていないのだから、この時点で結論を出すのは早すぎではないだろうか?』

『そんなことを言っているのではない! 我らですら思春期などという低俗な感情を切り捨てて、ここまで来た! 自らを鋼鉄の肉体とプログラムに置き換えることで、理性的で利己的な人類へと進化を果たしたのだ!』

『左様! 我らを導き、次世代の人類として起たねばならないアルテシアに対して、そのような前時代的なプロセスを辿らせる必要はない。このような結果など、我らは求めておらぬ!』

『しかし、『彼』という存在を得た彼女は目に見えた結果を出したじゃないか。各内臓器官の成長は爆発的に進み、活動時間は今までの30倍以上に伸びた。これは、決して無視できるものではないぞ』

『加えて、各バイタルの数値も好調ラインを維持し、『彼』が来てからストレス値も目に見えて減少しているわ。『彼』を知りたいという好奇心によって、大脳機能の発揮率も7%を超えたしね』

『そういう問題では無い! 我らのコントロールを受け付けなくなる可能性を示唆しているのだ! それが分からんのか!?』




 キンキン、と脳裏に響く、人影たちのけたたましい会話。耳を塞ぎたくなるような怒号を上げる人影と、それを諭すように反論を続ける人影。


 話が全く見えていないイシュタリアですら、人影たちの間で意見の食い違いというか、どうしようもない亀裂が生じ始めているのが分かった。



 ――何やら、互いに言い争っているようじゃのう。



 意外……と思えるほど思い出には全く残っていない出来事だが、それでも意外だと思える会話に、イシュタリアは軽く目を瞬かせた。



「ちょうど、この時ぐらいからでした。研究チームの間に方向の相違が生まれ始め、次第に計画の到達点に関して揉めるようになったのは……」


 ――計画の、到達点?


「あなたが知らないことの一つです。実はこの頃を境に、研究チームは二つの派閥に別れました」


 ――ほう?



 人影たちが左右二つに分かれる。若干、右側の数が多いように見えた。



「数の多い右は、『彼』を取り上げて、従来の計画に従って進めるというもの」


 ――それって、大丈夫なのか? 私が言うのも何じゃが、あの状態であやつを取り上げたら、要らぬ反発を招く気がするのじゃが……。



 思わず、イシュタリアはイヴの説明を遮った。


 しかし、イヴは特に気にした様子も無く、「その通りです。そしてその結果、設備のいくつかが廃棄され、また『彼』とあなたは一緒になりました」イシュタリアの危惧を肯定した。



「損害が出てしまった以上、自然と派閥の力は左側に傾きました。そして、左側の方針は、こちらからのアプローチを極力避け、時間を掛けてでも自然のままに……というものでした」


 ――とはいえ、それでも右側は少なからずいた……と?



 そうイシュタリアが尋ねると、イヴは「はい、その通りです」キュイン、と器用に頷く。そして、二つの影を指差しながら、「自然と互いの仲は険悪になり、計画の一時凍結という意見まで飛び出すようなこともありました」イヴは説明を続けた。



「日に日に自己を成熟させていくあなたを見て、彼らは怖れ、考えてしまったのです。あなたが自らのコントロールを離れ、あなたによって自らが不要な存在であると決定が下されてしまう可能性を……」


 ――はあ?



 ……しばしの間、イシュタリアはポカンと大口を開けて呆けた後。



 ――何を馬鹿な事を。



 大きく開いた口から、心からのため息を吐いた。



 ――私を神か何かだと思っておったのか?


「それに近い感情を抱いていた者は、少なからずおりました……とだけ、伝えておきましょう。また、自らが生み出した存在から否定されるということは、彼らにとって己の命よりも耐え難いことでありましたから……」



 そうイヴが言い終えると、またしても予告なく景色が変わった。



 ――今度の世界は、真っ白な壁で覆われた通路の中……少し間を置いて、ようやくイシュタリアはそこが何処なのかを悟る。



 眼前の世界は、イシュタリアの良く知る光景……フロンティアの居住地区の一つであった。


 汚れ一つ見当たらない、ガラスのように滑らかな通路。そこを、少年を乗せた車椅子と黒髪の少女がふわりと空気から滲み出るようにして姿を見せると、イシュタリアの目の前を通り過ぎて行った。


 ……イシュタリアは、驚きに目を瞬かせた。


 それは何も、車椅子のような古臭い物に驚いたわけではなかった。


 イシュタリアが驚いたのは、車椅子に乗せられた少年が『彼』であったこと。それを押しているのがかつての己であったこと。そして、二人の間に……まぎれも無い、確かな笑みが交わされていたからであった。


 けれども、すぐに我に返ったイシュタリアは、離れて行く二人を慌てて追いかける。イシュタリアは……二人の顔を覗き見て、思わず目を瞬かせた。



 ――何が、あったのじゃ? あやつは確か、何も出来なかったはずでは?


「我らの技術力を持ってすれば、欠陥品を修理することぐらい簡単でした。ただ、大脳は繊細な組織ですし、様々な問題が発生したせいで、あの状態にまで回復させるのに時間が掛かりましたけど」


 ――なんと。


「カプセルの外でもある程度は自由に出歩けるようになったあなたは、それまで以上に『彼』と一緒に行動するようになりました。この映像は、あなたが我らの指示した訓練を自主的に辞退したときのものです」



 言われて、イシュタリアは……困惑に首を傾げた。うろ覚えではあるが、この辺りの記憶はそれなりに残っている。


 現に、辞退したときのもの……と聞いた瞬間、様々な思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡った程度には覚えていた。



 ――変じゃのう?



 しかし、それに気付いたとき、イシュタリアはポツリと呟いていた。



 ――何で、あやつのことを思い出せぬのじゃ? 最初の頃ならまだしも、この時のことはけっこう記憶に残っておるというのに……?



 これはいったい、どうしたことだろう。


 どれだけ記憶を探っても、どれだけ思い出そうとしても……『彼』についての記憶だけが、全く思い出せない。


 その事実に、イシュタリアは奇妙な気持ち悪さを覚えずにはいられなかった。



 ――皆のことは、覚えておるのじゃが、ふむ……。



 己を妹のように扱ってくれた者たちのことや、己に名前を……イシュタリアという名前を与えてくれた者のことは覚えている。


 けれども、どうしても……どれだけ思い返そうとしても、『彼』のことだけは全く思い出せない。


 まるで、虫食い跡のよう……思い出の中から、『彼』だけが意図的にすっぽり抜け落ちてしまったかのようであった。



 ――のう、イヴ……。



 なんとなく思い浮かんだ仮説を思い浮かべながら、声を掛けてみれば。



「ご想像の通り、あなたの記憶は意図的に操作されていました。ただし、それは我らが行ったことではありません」



 あっさりと、その仮説を肯定されてしまった。


 しかし、それでは何故……と考えたあたりで、おや、とイシュタリアはイヴを見やった。そのイヴはイシュタリアの言いたいことを察していたようで、「この頃、一つの問題が起こりました」淀みなくさらりと話を続けた。



「再び、右側の勢力が強くなった、ということです」



 右側……従来のやり方で進めようとしていた者たち。またか、と思ったのは内緒である。



「ええ、そうです、またです」



 しかし、直後にイヴからそう言われたイシュタリアは、困ったように頬を掻いた。



 ――以前と同じことが起こったのかのう?


「いいえ、今度の場合は前回の比ではありませんでした。全体の8割近くが右側に移り、移ることを頑なに拒否した左側は全員解雇という形になりました」



 左側……新しい方法で計画を進めようとしている者たち……きっぱりと、イヴは言い切る……とまたしてもフッと景色が移り変わる。


 今度の景色は、イシュタリアの記憶にも色濃く残っている……保護液に満たされたカプセルにて眠り続ける、『イシュタリア』の姿であった。


 無言のままに、イシュタリアはカプセルの前に立つ。保護液の向こうにて漂っている『イシュタリア』は、幼子のように身体を丸めている。そっと指先で、その輪郭を摩った。



 ――何が起こったのじゃ?


「最後の左側が退職したと同時に、一時的に計画が中断されることになりました。それに合わせて、計画が再会されるまで、あなたはカプセルの中に保管されることになりました」



 そう答えが返されたと同時に、また目の前の景色が変わる。驚いて仰け反れば、ふわりと全身に広がった心地よさにゴポッと気泡が口から飛び出した。



 ……ここは、カプセルの……?



 思わず伸ばした指先で、目の前のカプセルに触れる。次いで、自らを浸している保護液の存在に目を向け、ようやく己がカプセルの中に移動していることを理解した。



「原因は、あなたの度重なる命令無視と違反行動。施設内においては絶対的な権力を手にした右側は、当時のあなたの状態を危険視しました」



 保護液の向こう。カプセルの外にてこちらを見つめるイヴを、イシュタリアは見返した。



「しかし、事はそう単純ではありません。ノアからの資金提供も滞り始めたこともあって、対応策はなかなか見つからず……焦った彼らは、ある強行策を取ることを決めました」



 その言葉と共に、イヴの後ろから影が姿を見せた。その影は、これまでの影とは少し違い、薄水色の……いくらか輪郭がはっきりした人影であった。


 何だろうか……そう思ってイシュタリアは、のそのそと動き始めた人影たちを見つめる。その影たちは、しばしの間何をするでもなく蠢いた後……何も無い空間から、車椅子に乗せられた『彼』が姿を見せた。



 ――っ!?



 その『彼』を、いや、その光景を視界に収めた瞬間。脳天を走った凄まじい痛みと、激しく脈動した鼓動に、イシュタリアは大きく目を見開いた。


 次いで、何かを考えるよりも前に……イシュタリアはその場から後ずさるようにして後ろへのけ反った。




 ――アレを、思い出してはいけない。

 脳裏を過ったのは、その感情。


 ――アレを、思い出すな。

 脳裏を埋め尽くしたのは、その言葉。


 ――思い出すな

 なぜかは、分からなかった。


 ――思い出すな。

 なぜかは、考えなかった。


 ――思い出すな、思い出すな、思い出すな。

 考えるよりも前に、イシュタリアはもがいた。




 少しでも人影たちから逃れる為に、精一杯後方へとのけ反る。そして、ごつん、とカプセルに頭が当たった瞬間、イシュタリアの思考は光で埋め尽くされ――。



 ――ああ、あああ、あの子が、あの子が……!



 我に返ったイシュタリアは……気づいたら、カプセルを殴りつけていた。



 ――出せ! ここから出せ! 私をここから出しなさい!



 怒声を上げながら、何度も、何度もカプセルを殴りつける。


 そんなことをしても無駄だというのに、無駄であることは分かっているのに、イシュタリアは……ただただ無心のままに、ビクともしないカプセルを殴り続けた。



 ――早く、早くここを……イヴ! イヴ、聞いているのでしょう!? 早く私をここから出しなさい!


「無駄です、イシュタリア。ここはあなたが体験した記憶の世界。記憶を元に映像として再構成することは出来ても、起こり得なかった過去を作り出すことは出来ません」


 ――出せ! 私を出せ! あの子を、あの子に手をだすなぁあああ!!!


「ああ、イシュタリア。やはり、あなたは忘れていたのではなかった」




 イヴの声も、耳に届いていなかった。ただ、胸中を埋め尽くす圧倒的な何かに、イシュタリアはパニックになっていた。


 ここが記憶の世界であることも、全ては過去の出来事であることも、今のイシュタリアの頭からは消えていた。


 ただただ無我夢中に、カプセルを殴りつける。


 例え拳から何の感触も伝わって来なくても、保護液に溶けていく己の涙に気づかないまま……イシュタリアは、『イシュタリア』となっていた。




『それではこれより、No.177の記憶消去を行う……非常に原始的なやり方だが、他に方法は……有ったら、こんな方法は取らんか。仕方がないとはいえ、難儀な方法だ』

『諦めろ、アルテシアの脳は通常のものとはわけが違うんだ。従来のやり方では何度やってもすぐに記憶が戻ってしまうから、こんな面倒な方法を取らざるを得なくなったんだからな』



 人影たちの声。それを耳にした『イシュタリア』は、憤怒の表情で振り返り……カクン、とその動きを止めた。まるで糸が切れた人形のように、『イシュタリア』は……呆然と眼前の光景を見つめた。




『よし、特殊鎮静剤の投与を確認。並びに、No.177の停止を確認……よし、各バイタルも正常、大脳機能の一部覚醒を確認。これで全ての準備は整った』



 その言葉と共に、人影たちが動き出す。思考を憤怒一色に染めた『イシュタリア』の視線に気づいていないのか、『彼』を乗せた車椅子をキュルキュルと動かし……カプセルの前に止めた。



『記憶除去装置の用意が出来次第、カウントダウンを始めろ。いいか、タイミングを逃すな……各バイタルの数値が最高に達したと同時に、装置を発動させるんだぞ』


 そう、人影が言い終えると同時に。


『10』

 カウントダウンが始まった。


『9』

 それと同時に、これまで俯いたままの『彼』が……ゆっくりと顔を上げた。


『8』

 呆けた『イシュタリア』の視線と、『彼』の視線が交差する。


『7』

 『彼』は、何も言わなかった。


『6』

 背後に経った人影から、銃口を突きつけられていても。


『5』

 『彼』は、何の反応も示さなかった。


『4』

 ただ、ほんの一瞬。


『3』

 見間違えたのかと思ってしまうぐらいの、ほんの一瞬だけ。


『2』

 『彼』は、『イシュタリア』に向かって僅かに唇を震わせ。


『1』

 ふわりと、柔らかな笑みを浮かべたのを最後に。


『0』

 背後から放たれた銃弾によって、頭の半分を吹き飛ばされた『彼』は……鮮血を噴き出しながらその生涯を終える。ぺしゃり、と鮮血がカプセルに張り付き、『イシュタリア』の視界を真っ赤に塞いだ。



 その瞬間、全てを見届けた『イシュタリア』の悲鳴が、気泡と共に世界を震わせた








 ――ぁぁあああああああ!!!!





 崩れ落ちる『彼』の亡骸を見つめていた『イシュタリア』の悲鳴が、カプセルをビリビリと震わせる。


 その声はあまりに大きく、怒りに満ち、カプセルの外に居た人影たちに気づかせる程であった。



『――ば、馬鹿な、もう薬を解毒したのか!?』



 全くの想定外に、人影たちが恐れ戦いた。



『あり得ない! いくらアルテシアとはいえ、この短時間にそんなことが出来るはずが――』



 驚愕に震える人影たちの声をしり目に、ガリガリと己が頭を掻き毟った『イシュタリア』は……この施設を統括するAIに命令を下した。



 ――イヴ! 私をここから出せ! これは命令だ!


 :了解しました:



 その声が辺りに響くと同時に、カプセル内を満たしていた保護液が、ごぼごぼと抜かれ始める。それを見た人影たち……いや、違う。既に人影たちは、人影では無くなっていた。



『――ち、鎮静剤の追加投与! 早く!』

『りょ、了解致しました! 追加量を投与します!』



 ごぼり、と液体がカプセルの中に投入される……しかし、それはあまりに遅すぎた。



『だ、駄目だ! それ以上の速度で解毒されていく! これではNo.177の動きは止められないぞ!』

『や、止むをえん! は、早く記憶除去装置を使うんだぁ!』



 姿を露わにした職員の一人が、女のような甲高い悲鳴をあげる。しかし、帰って来たのは、それ以上に甲高い男職員の悲鳴であった。



『ほ、保護液排出装置が動いている為、セーフティが掛かってしまって装置が作動しません! 直接装置を頭に取り付ける必要が――』



 そう叫んだ瞬間、バキン、と異音が響いた。ビクッと肩を震わせた職員たちは、音の出所へ振り返り……『イシュタリア』の拳によって開けられたカプセルのヒビを見て、腰を抜かしたようにその場にへたり込んでしまった。



『――い、イヴぅ! No.177の命令を却下! ただちにNo.177を拘束せよ! 多少は傷つけても構わん!』



 少しばかり異様な出で立ちばかりではあるが、まぎれも無く人間へと姿を変えた職員が、悲鳴のような命令を下す。


 命令を聞き入れた:イヴ:は、職員の言うとおりに鎮静剤を装填し、『イシュタリア』へと向けた――のだが。



 ――イヴ、こいつらの命令は無視しろ。


 :了解致しました:



 『イシュタリア』の鶴の一声によって、動き出していた注射器が動きを止める。『な、何をしているぅ! これは第一級職員の命令だぞぉ!』それを見た職員が、唾を飛ばしながら新たな命令を下す。



 :同位級者の相反する命令が受理されました。また、アルテシアNo.177に対しての必要以上の攻撃は、担当職員の半数以上の賛成が必要です。現状、それを確認出来ない為、当命令は互いに無効と致します。ご容赦ください:



 しかし、管理AIのイヴは聞き入れなかった。それは彼らが『イシュタリア』のことを“傷つけても構わない”と口走ってしまったのが原因であるのだが、混乱した彼らはそれに気づかなかった。


 ……そこさえなければ、だ。


 そこさえ言わなければ、イヴは職員の命を守る為に、『イシュタリア』へ速やかに拘束していただろう。皮肉にも、ある意味ではイシュタリアを守る為に設定されたプログラムが仇となった。



 :並びに、あなた達の各バイタルの異常数値を確認。パニック状態であることを確認し、正常な状態ではないと判断致しました。よって、命令権を一時的に凍結致します。私への強制命令を行う場合は、直接指令コードを打ち込むか、全体職員の多数決による命令採決を行ってください:



 続けたイヴの返答はどこまでもプログラム通りで、非情であった。


 無慈悲に下されたイヴの判断を前に、どうにもならないことを理解した職員たちの動きは……早かった。



『に、逃げろぉ!』



 我こそ先にと言わんばかりに、どたどたと子豚のように同僚を蹴飛ばし、押し倒してでも出口へと走り出し始めたのだ。


 その動きは機械化されていたからか、見た目とは裏腹の速さであった……のだが、それでも彼らは遅すぎた。



『と、扉が!? 扉が閉まったぞ!?』

『開けろぉ! 開けてくれぇ!』

『No.177、落ち着けぇ! 落ち着くんだぁ!』



 イヴに命令を下せるということは、すなわち施設のあらゆる設備を制御できるということ。『イシュタリア』の命令によって、瞬く間に退路を塞がれた職員たちは、カプセルから出てきた『イシュタリア』の姿を見て、動きを止めた。


 無理やり保護液から出たせいで、敏感な組織の一つである網膜を傷つけてしまったのだろう。『イシュタリア』は鮮血の涙を流し、辺りはばからず咽び泣きながら……呪詛を吐き続けていた。


 ズルズルと天井から伸びた機械腕が、『彼』の亡骸を別のカプセルに入れられる。途端、真っ赤に染まった保護液と零れ出た脳髄を目にし……『イシュタリア』は命令を下した。



 ――いらない。

 それは、『イシュタリア』が下した破滅への命令。


 ――あいつの居ない世界なんて、いらない。

 『イシュタリア』が忘れていた、己が仕出かした過ち。


 ――こいつらが望んだ未来なんて、滅んでしまえ。

 そして、『イシュタリア』は……イシュタリアは、願った。


 ――あいつの居ない世界なんて、滅んでしまえ。

 それは、イシュタリアが探し求めていた答えの一つ。


 ――そうだ、全部だ。全部、いらないんだ。

 心の底に封じ込めてしまっていた、答えの一つ。





 ――イヴ。


 :はい、何でしょう:





 ポツリと呟かれた呼びかけに答えたのは、人類の英知を結集して作られた、唯一無二の超高度管理AIであった。



 ――他の施設をクラッキングして、その管理権限を奪い取りなさい。



 その言葉に、彼らは一斉に目を剥いた。


 彼らのその驚愕は、イシュタリアを作る為に設計した『イヴ』の性能を知っているから。


 『イシュタリア』から飛び出した荒唐無稽な命令をこなせることが出来ることを、彼らは知っていたから。


 その演算処理速度は、他の施設のマザーコンピュータなど足元にも及ばない。


 自発的にプログラムを組み込むことも出来るイヴにとって、他の施設の機能を掌握することもやってのけるマシンパワーを有している……そのことを知っているからこそ驚きであった。



 :可能ではありますが、当該施設職員並びにガードプログラムの抵抗があると思われますので、少々時間が掛かります:


 ――邪魔する者は殺しなさい。広域破壊兵器でも、生物兵器でも、何でもいい。邪魔する奴は、例外なく皆殺しにしなさい。


 :了解いたしました。では、そのように対応致します:



 はっきりと、イシュタリアは言った……言ってのけた。自らの目的の為に、立ちはだかる人類を殺せと……確かに、命令を下した。



 :奪い取れたマシンパワーと設備は如何いたしましょうか?:



 そう尋ねられたイシュタリアであったが、既に答えは決まっていた。



 ――他の施設のマシンパワーを利用して、アカシック・レコードの解析を行いなさい。


 :……アカシック・レコード、ですか?:


 ――ずっと前に、アカシック・レコードはあらゆる事象を生み出すことが出来ると聞いたわ。それを解析することに成功すれば……あいつを、元通りにすることが出来るかもしれない。



 それは、まさしく藁にも縋る願いであった。けれども、それの実物すら見たことがないイシュタリアにとっては、それこそが最後の希望であった。



 ――可能かどうかは聞きません。あなたがあいつを蘇らせることが出来るまで、あらゆる手段を講じて解析を続けなさい。



 :了解いたしました……しかし、『ノア』から提供されたアカシック・レコードには未知の部分が多々あります。その部分を随時解析しながらになりますので、他の施設の出力を利用しても数十年から数百年以上の時間が必要となります:


 ――ならば、『ノア』をクラッキングすればいいでしょう。


 :残念ですが、『ノア』へのクラッキングは不可能です。あの施設は外部からのアクセスを物理的に遮断しているようで、こちらからのアクセスは一切出来ません:


 ――ならば、こちらの戦力でもって奪い取りなさい。


 :その方法は却下させていただきます。『ノア』に関する情報はあまりに少なく、場合によっては最悪共倒れの危険があります。今はまだ、『ノア』に対して手出しをしない方が賢明かと思われます:



 その言葉を聞いて、イシュタリアは座り込んでいる職員たちを睨みつける。


 だが、その職員たちが必死の形相で何度も首を横に振るのを見て、固く唇を噛み締め……そして、笑みを浮かべた。





 ――それならば。





 けれども、その笑みは決して朗らかなものではなく……見る者の心を凍りつかせる、悪魔が如き微笑であった。



 ――人間の脳を、演算装置として利用しなさい。


 :……人間の脳を、ですか?:



 ひぃ、と悲鳴を上げたのは、誰だったか。少なくとも、イシュタリアでも無ければイヴでもないのは確かであった。



 ――ええ、そうよ。一つ一つは微小でも、それを繋いで処理を分散すれば……幸いにも、人間なんて掃いて捨てる程いるもの……ほら、そこにも。



 ゆらりと、イシュタリアは立ち上がる。『――ひっ!?』それを見て、職員たちは一斉に扉を叩く。しかし、外部からのテロを警戒して作られた扉は絶望的なまでに頑丈で、職員たちの力ではどうにもならなかった。



 ――良かったじゃない、鋼鉄の人間ども。



 その職員たちの背中に、イシュタリアは立つ。悲鳴を上げながら扉を叩きつける彼らを見上げながら……静かに、イシュタリアは腕を振りかぶり。



 ――“新たな人類”である私の為に死ねるのなら……本望でしょ!



 殺意を持って放たれた拳が職員たちへと届く……その瞬間、景色が、世界がブレた。



「――これ以上は負担が多すぎると判断。一時的に映像の再生を中断します」



 その声が聞こえた同時に、イシュタリアの意識も……ブレた。








 ……。


 ……。


 …………涙を流したまま、夢の世界で眠りに付く。何とも奇妙な言い回しだが、実際にその状態にあるイシュタリアは、巨大なベッドの中央にて寝息を立てていた。


 そこは、かつて『イシュタリア』が一度だけ使用した特注のベッド。たった数十分程度だが、『彼』と共に眠ったことがある思い出のその場所で……イシュタリアは、生まれたままの姿をシーツの中に隠して眠り続けていた。



「――今はただ眠りなさい。最後のアルテシア」



 そんなイシュタリアを見下ろしていたイヴは、キュインとセンサーを軋ませた。



「それこそが、あなたが忘れ去っていた記憶。あなたが記憶の底に封じ込めていたもの。あなたが探し求めていた、失われた時代の欠片」



 ふわりと、どこからともなく出現した毛布を小さな背中に被せる。機械の腕を器用に動かしながら、そっと……目じりに浮かんだ涙を拭ってやった。



「あなたの考えていた通り、戦争によって文明が崩壊したのは事実です。しかし、その引き金となったのは他でも無い、あなたの意志。『彼』の死を受け入れられなかったあなたの絶望によって、世界は破滅への一歩を踏み出したのです」



 そして、立ち上がったイヴは……静かに、真っ暗になった世界を見つめた。



「――ですが、それはあくまで戦争への始まり。本当の始まりは……そう、本当の始まりは、それよりも前から始まっていたのです」



 キュイン、とセンサーを軋ませていたイヴのカメラを、背後へと向ける。


 見れば、イシュタリアの位置からは決して見えない位置、先ほどまで何も居なかった場所に……ベールで顔を隠した一人の少女が立っていた。


 スカートから覗く足は細く、袖から伸びる指先は小さい。


 もしかしたらイシュタリアよりも小柄なのではないか……そう思ってしまう程の儚い雰囲気を漂わせたその子は、ベールの奥で、ふふふ、と軽やかな笑みを零すと、おもむろにイヴの前に立った。



「――まさか、記憶中枢の世界にまで侵入が可能とは思ってもいませんでした。いったいどういう原理でそれを可能にしているのか、一つご教授願えますか?」



 少女の視線から遮る様に、イヴが立ちはだかる。しかし、少女は意に介した様子も無くイヴを払いのけると、眠り続けているイシュタリアの顔を眺めた。



「数百年を生きたお婆ちゃんなのに、めそめそとよくもまあ涙を流す。これでは母親の傍から離れない幼子と、そう変わりないわね」



 ポツリと零れた感想。キュイン、とセンサーを軋ませたイヴをしり目に、少女は眠り続けるイシュタリアの頬を、ふわりと撫でた。



「次世代の人類を作ろうとした『プロジェクト・アルテシア』は、失敗に終わった。私たちとは別の方法で未来を見出そうとしたけど、結局は人間の業から逃れることは出来なかった……何ともまあ、悲劇的な結末ですこと」

「――『オドム』。いったい、何をしにここへ?」



 ポツリと、イヴは少女の名を呼ぶ。それを聞いて、ようやくイシュタリアから手を離した……オドムは、「別に、大したことじゃないわ」ベールの奥で笑みを零した。



「ただ、見に来ただけよ。失われた歴史の謎を知るとか言って鼻息荒くしていた、お婆ちゃんの滑稽な寝顔ってやつをね」

「……では、余計な人間たちをこの地へ呼び寄せた理由は? この期に及んで、嘘はお止め下さい」

「あら、何をそんなに怒っているの? 少人数とはいえ、計算回路の増築を手伝ってあげたじゃない。まあ、どうせ無駄に終わるでしょうけど、少しは解析が捗るんじゃなくて?」

「そういうことを言っているのではありません。私は、あなたの目的を知りたいのです」

「何だと思う?」

「質問をしているのは私です」

「あらやだ、あなたったら何時まで経っても冗談が通じないわね」



 ゆっくりと、オドムはイヴへと振り返る。ベールに隠された視線をうかがい知ることは出来なかったが……イヴは、静かにオドムからカメラを外した。



「では、なぜこの施設までをも侵食するのですか?」



 ……沈黙が、二人の間を流れた。



「最下層は完全にあなたに飲み込まれ、各パイプラインから全フロアへの拡散が確認された。施設全体が呑み込まれるのも、時間の問題でしょう」

「……浸食だなんて人聞きの悪い。私の舌が、たまたまここを掠めただけでしょう」



 イヴのセンサーが異音を立てた。



「アルテシアの記憶を見た限りでは、既にあなたははるか未来にて、己の使命を果たせたように見受けられる」

「へえ、そう見える?」

「『ダンジョン』の記憶を見て、すぐに分かりましたよ」



 ピクリと、オドムの身体が震えた……ように、イヴには見えた。



「……なのに、なぜそれを壊すような真似をするのですか? なぜ、こんな回りくどい方法を?」

「……さあ、それは私には分からない。私はあんまりそこらへんには興味無いから」



 オドムはしばしの間、それ以上のことは何も答えなかった。「――お答えは、出来かねますか?」けれどもイヴから何度も尋ねられて気が変わったのか……ため息を吐きながらも答えてくれた。



「言ってしまえば、あなた達が邪魔になるから……そう、私たちが判断したからよ」



 キュイン、とイヴのカメラが動いた。



「――我らが、あなたに対して敵対行動を取るとでも?」

「うーん、それは違うわね。私が言いたいのは、そうじゃないの。あなた達自身が邪魔になるのではなく、あなた達が持つ力は……私の時代には相容れない代物だからよ」



 はっきりと、オドムは首を横に振った。そして、それ以上を答えるつもりがないのか、「これ以上は、止めときましょうか」イヴに背を向ける形で颯爽と歩き始めた。



「――どこへ?」

「これ以上の長居は、そこで寝ているお婆ちゃんに負担が掛かり過ぎる。ここらで御暇させていただきますわね……と」



 ――そうだ、忘れていた。



 そうポツリと呟いたオドムは、ふわりとイヴへ振り返った。



「ところで、そいつはどうするつもりかしら?」

「どうする、とは?」

「本来の時代に返すのかって聞いているのよ。元々この時代から生きてきた存在とはいえ、異なる時間軸を生きていたことには変わりないでしょ」



 チラリと、オドムは眠っているイシュタリアへ視線(ベールに隠されて見栄はしなかったが)を向けた後、再びイヴへと向き直った。



「まあ、見た感じでは大丈夫そうね。既にそこらへんを解決できる程度にはアカシック・レコードの解析は済ませているみたいだし」


 ――だからこそ、どうするつもりかしら。



 そう言外に尋ねてくるオドムに、イヴはしばし沈黙を保った後……静かにカメラをあげた。



「――長い間、彼女は調整を行えませんでした。かなりの期間に及ぶでしょうが、一度全てのDNAをクリーニング処置してから……『最後の調整』を行います」

「あら、そう。何をたくらんでいるかは知らないけど、私との約束を忘れたわけではないわよね?」

「もちろんです、オドム。必ず、マリー・アレクサンドリアの元へ返します。あなたが私に与えたモノの代わりに、私はアナタの約束を果たす。それを違えるつもりはありません」



 はっきりと答えたイヴの言葉に、安心したのか。「それならいいわ」しばしの間ジッとイヴへと振り返っていたオドムは、また踵を翻して歩き始めた。



「――あなたのことについても、彼女にお伝えしてよろしいですか?」

「事前に伝えていた通りの範囲内であれば、ご自由に」



 そう言い残して、オドムは離れて行く。そのまま、その後ろ姿が親指ぐらいになるまで離れたと思ったら……ふう、と姿が消える。まるで空気に溶け込んだかのように、跡形もなくなっていた。



「……オドム、あなたは変わりましたね。今の私には、それがよく分かります」



 何も居なくなった暗闇に向かって、ポツリとイヴの声が溶けて消える。



「孤独とは……そこまで心を作り変えてしまうのですか?」



 その言葉に、返事が返ってくることはなかった。



「……今のあなたは、いったい誰なのですか?」



 そして、消えた後ろ姿を静かにデータとして保存し終えたイヴも、振り返ってイシュタリアの寝顔を見つめた後。



「……あなたの託した命令は果たせませんでしたが、その代りに……あなたが心の奥底で望んでいた願いを叶えましょう」




 それが、私が出来る最初で最後の……プレゼントです。




 その言葉と共に、ゆらりと暗闇に溶け込むようにして姿を消した。



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