第五話: アルテシア




 ――カシュン、と扉が開かれる。



 途端、肌に突き刺さるような冷気を感じ取ったイシュタリアは、ほう、と白いため息を吐く。数十℃以上も違う温度差によって生まれた白い絨毯が、まるでイシュタリアの足を包み込むように通路の床一面に広がった。


 そっと、『培養保管フロア』と呼ばれた室内を覗き込む。室内の隅から隅まで、等間隔で設置された縦横3メートル近いカプセルの群れ。その全てに霜が降りている……それが、室内の気温の低さを物語っていた。


 大半のカプセルには、少しばかり青み掛かった培養液が満たされている。そして、その満たされた培養液の中には……人とも、獣ともつかない物体が、静かに漂っていた。



 それらの形には、何の規則性も無かった。



 右手が5本も生えた四つ目の獣に始まり、蜘蛛のように足が生えた化け物から、全身の至る所から触手を伸ばした物体まで……カプセルの中は、まさしく物体としか言いようがないモノばかりが漂っていた。



「あいかわらず、ここは冷え冷えじゃのう」



 ぶるりと軽く肩を震わせて中に入れば、背後で扉が閉まる音がした。振り返れば、やはり扉は閉まっている。


 期待もせずに駆け寄って見るが


「ご丁寧にロックまで掛けおって……」


 案の定の結果を前に、イシュタリアは苦笑しながら目的地へと踵をひるがえす。


 ほう、と二度目のため息を吐いたイシュタリアは、力強く地面を蹴る。だん、だん、だん、と響いた足音が、閉ざされた冷気の中に響き渡る……が、反応は全く返ってこなかった。



「何じゃ、出迎えは無しか……つまらん」



 ポツリと零れた独り言と共に、イシュタリアは目を凝らす。立ち並ぶカプセルの向こう……記憶が正しければ、まっすぐ進めば『イヴ』の待つ『ブレイン・ルーム』への入口にたどり着くはずである。



 ――出迎えが無い以上、こっちから出向いてやる他あるまい。



 そう判断したイシュタリアは、さっさと歩き出した。こつ、こつ、こつ……反響する足音が、静まり返った室内に木霊する。


 照明を受けて青み掛かった輝きを見せるカプセルの中……漂うばかりの物体を横目にしながら、イシュタリアの足取りは何ら変わりなかった。



 ……青み掛かった光を反射する、化け物が収められたカプセルの群れ。



 別に漂っているそれらが吼えてくるわけでもなければ、暴れるわけでもないのだが……それらを差し引いても、酷く不気味な光景であることには変わりなかった。


 なにせ、収められている物体の半分近くが、まともな生物の形を成していないのだ。


 出来の悪い、生き物を模した生物。臓物がむき出しになっていたり、血管や筋肉が露わになっていたりしているのが大半で、傷の無い物体を見つけ出すのが困難なぐらいである。


 少なくとも初見でここを通った者のほとんどは、培養液に浮かぶ物体のグロテスクさに生理的嫌悪感を覚えるだろう。


 図太いマリーであっても、そう長居が出来るような場所でないのは確かな光景であった。



「『お久しぶり……というには、些か間違いなのかしらね』」



 けれども、イシュタリアにとっては少しばかり違った。他の大半が浮かべるであろう嫌悪の感情……それを微塵も見せる素振りはない。


 それどころか、心の底から愛おしむようにカプセルの表面に浮かんだ霜を撫でては、指の跡を付けて行くぐらいだ。


 マリーやサララたちに向ける時がある……優しい眼差しを、イシュタリアは何度もカプセルに向けた。



「『……ありがとう、先人たちよ。こうして私が生を謳歌するのも、全てはあなた達のおかげ……せめて、この言葉をあなた達に……』」



 その言葉を聞いて思い出したように、カプセル内部の温度を制御しているジェネレーターが騒ぎ出す。


 けれども、それ以外の時は本当に静かであり……静寂に包まれた室内に、ぽつぽつと零れたイシュタリアの独り言が解けていく。




 ……『培養保管フロア』……それは、『フロンティア』の内部に幾つか点在するフロアであり、息絶えたサンプルなどを保管している場所である。




 そして、この場所は。このフロアだけは、イシュタリアにとっては他のフロアとは違う……特別な場所であった。


 勝手知ったる……とは違うが、かつての古巣である。もっと正確に言い表すのであれば、生まれた場所だ。


 歩いて行くにつれて、当時の思い出が鮮明に蘇ってくるような気さえしてくる。ある種の懐かしさ……寂しさが、胸中にて湧いて来るのを、イシュタリアは実感した。



「……あっ」



 淀みなく進んでいたイシュタリアの足が、ふと、ため息と共に止まる。その瞳の先にあるのは、液体に浮かぶ物体の中でも、ひと際異質な造形をした物体であった。


 ぷかり、ぷかりと浮かぶその外見を一言で表すとすれば、半透明の粘膜が飛び出したヒトデ……だろうか。あるいは、一部がアメーバ状となった触手の集合体というのが、近いのかもしれない。



「『……ごめんなさい。まずは、あなたに感謝を捧げるのが筋でしたね』」



 駆け寄って、冷え切ったカプセルに手を振れる。ガラス越しに伝わって来る冷気によって、指先に痛みすら生じたが……構わず、イシュタリアは眼前のガラスに、軽いキスを落とした。



「『始まりのホムンクルス』」



 ホムンクルス……それは、かつて人類が生み出そうとした、『新たな人類』の名称。


 ルリがマリーたちに語った、『新しい人類』を作る計画にて最初に作られた存在。


 イシュタリアの祖先でもあり、新たな人類のプロトタイプとして試作された……最初の失敗作。



「『最初の、アルテシア』」



 そっと、イシュタリアはカプセルを撫でる。気味が悪い外見をしている“彼女”を、怖れる気持ちはイシュタリアにはなかった。



 眼前のソレが、既に息絶えていると分かっていても。


 とおの彼方に魂が飛び立っているのだとしても。


 この行為が、全くの自己満足であったとしても。



「『……また何時かこの地に戻れたら、色々な事を話します。けれども、今はただ、安らかに眠っていてください』」



 イシュタリアは、祈りを捧げ続けた。



 己が命へと繋いだ、自らの祖先たちを思って――。











 ……。


 ……。


 …………嵐が来るかもしれない。



 そんな話が私の耳に届いたのは、お嬢ちゃんが私たちの元を離れてから少し経った頃。一日に一度は帰って来たナタリアが、ある時を境にとんと姿を見せなくなった頃であった。



 最初は、全く気付かなかった。



 ただ、何時もより少し帰りが遅い程度に考えていた私は、いつものようにナタリアの帰りを待ち……いつの間にか寝入ってしまった。


 そして、いつものように目を覚まし、ナタリアが帰って来ないことに気づく。珍しく深く寝入っていたドラコにも尋ねてみるが、答えは分からないの一言であった。


 その時、言葉にならない不安を覚えたのを、昨日のことのように覚えている。何かが有ったのだろうかと思った私は、何気なくナタリアの私物に目をやり……そこに有る見慣れぬ物に気づいた。


 それは、ナタリアが愛用していた小道具の中に紛れていた、クシャクシャの紙切れ。


 そこに短く『今までありがとう、さようなら』と書かれた歪な文字を見て……私は、己が如何に馬鹿な行為をしていたのかを理解した。


 ……そう、この時、怖れていた事態が、ついに起こってしまったということを……私は嫌がおうにも気づかされてしまったのだ。




 目の前の問題から目を背けた結果……事態は、考えていた中でもかなり悪い方向へと動いてしまったということに。




 ナタリアが私たちの前から姿を消したと分かった時……不覚にも、その時の私はまだ心のどこかで呑気に構えていた。


 その結果、ナタリアが姿を消してから一夜明けた後……私はようやく、事の重大性を肌身で思い知らされた。


 家出とか、そういう生易しい事態でないのは、すぐに分かった。これまでの経緯が、経緯だ。


 夢中になって遊び呆けてしまい、帰ることを忘れていた……それなら、どれだけ良いことだろうと私は何度も己を罵倒した。



「ドラコ、私はナタリアを探してくるのじゃ」

「分かった……私は、どうしたらいい?」

「すまぬが、留守番を頼むのじゃ」



 けれども、己を責めたところで問題は解決しない。


 ドラコに留守を言い残した私はとにかく、帰って来なかったその翌日から『東京』の中を駆けずり回った。


 朝も、昼も、夜も、とにかく探し続けた。


 ナタリアが贔屓にしていた菓子屋を尋ね、玩具屋を尋ね、通い慣れた道を幾度となく往復し、時には郊外の森の方まで見に行った。


 けれども、結果は何時も同じ。いずこかへ姿を消したナタリアを見付けることは出来ず、私はそのたびに肩を落として宿に帰ることとなった。



 ……そして、そんな頃だっただろうか。マリアたちからナタリアの安否を気遣う発言が増え始めたのは。



 さすがに全く姿を見せなくなれば、マリアを含めた女性陣から心配の声があがるのは自然なことであった。


 実のところ、様子がおかしい事を薄ら察していたらしかったマリアたちからすれば、我慢しきれず……だったのかもしれない。


 とはいえ、心配で仕方が無かったのは私も同じこと。言葉は無くとも、ドラコも心配しているのは傍目にも分かった。


 言葉は無くとも、時折寂しそうにナタリアが使っていたベッドを見つめているのをみて……私は、ただただ己を責め続けた。


 だからこそ、なおさら私は必死で探した。『もしもの時は』という考えなど彼方に追いやった私は、とにかくナタリアが平静無事であることを願って、朝から晩まで聞き込みを続けた。



 ……後にも先にも、私の頭から、あやつのことがすっぽり抜け落ちていたのはこの時だけだったと思う。



 それが良い事なのか悪い事なのかは分からなかったが、心配のあまりにそれだけ余裕がなくなっていたのだろう。


 どこか心の中で、『あやつはお嬢ちゃんが探しておるから』と折り合いをつけたのかも分からないが……そうやって色よい結果を残せないまま、もたもたしている間に数日が経ち……ついに嵐が『東京』にやってきてしまった。





 ……。


 ……。


 …………そして、探し続けていたナタリアと再会したのは……そんな、嵐の中。



 これでもかと降り注ぐ雨と、腰が砕けてしまいそうな程の雷鳴が時折鳴り響く……そんな、夜のことであった


 その時の私は、半ば我が家となっている宿屋の一室に居た。


 いつも寝泊まりしているベッドの上で、いつものように肌を晒していた私は、女性特有の姦しいお喋りを背に受けながら、ぼんやりとガラスに叩きつけられる雨粒を眺めていた。



 “それにしても、今日で三日目ね。河川辺りの集落は大丈夫かしら?”

 “おそらく、明日には治まってくれているといいんだけど……”

 “あー、もう。蒸し暑いったら仕方がないわよ”

 “窓が開けられないんだから、諦めなってば”



 囁くように躱され続ける女たちの会話。時刻は夜だが、大人が寝るには少しばかり早い時間帯だからか、その声は他の客を慮っていくらか控えめであった。


 その合間に、パタパタと手やら団扇やらを使って煽る音が聞こえてくるのは、室内がそれだけ蒸し暑いから。


 かく言う私も、こうして生まれたままの姿でいるのは、単純に裸で居るのが気持ちいいだけが理由ではない。


 室温が高いのは、女たち全員が集まっているのと、嵐のせいで窓が開けられないのが主な原因だろう。


 風呂上りの熱気も合わさって、私たちが貸し切っているこの部屋は、中々に不快度指数の高そうな空間となっていた。


 空調設備は稼働しているとはいえ、許容人数を超えてしまっているのも理由の一つなのかもしれない。辛うじて室温がそれ以上になるようなことはなかったが、下がる気配もまるで感じられなかった。



 ……とはいえ、消灯時間(あくまで、この借りている部屋だけの話)を過ぎ、照明が落とされれば多少なりともマシにはなる。



 寝るには些か喧しかった室内も、寝息が一つ、二つ、三つと聞こえる頃には、夜の静けさがすっかり感じ取れるまでにはなっていた。


 ほう、とため息が零れる。ポツポツポツ……嵐に飛ばされた雨粒が、ガラスにぶち当たって弾けている音を耳にしながら、私はぼんやりとした頭で……あやつや、ナタリアのことを考えていた。


 あやつは無事なのだろうかとか、ナタリアは今どこに居るのだろうかとか、そんなことばかりが思考をかき回していく。


 お嬢ちゃんのことは……まあ、あの子はあの子である意味逞しいから、そこまでは心配していなかったりする。



(……あ、そういえば)



 ふと、前触れも無く思い出した。



(今日って確か……オジサマが久しぶりに様子を見に来る日だったような覚えが……)



 私としたことが……内心舌打ちをしながら、ベッドの下に入れておいた鞄から手帳を取り出し、確認する。


 淡いベッドライトの明かりに照らされた文字に目を通し……窓の向こうへと視線を向けた。



(さすがに、『ラステーラ』からこの雨の中は……それに、もうこんな時間じゃし……明日に変更は当然……じゃがなあ……)



 いや、しかし。



(確か前の時に、『ナタリアが気に入っていた菓子を持ってくる』とか言うておったが……オジサマ、けっこうナタリアのことを気に掛けておっしのう)


 オジサマには、ナタリアは調子を崩しているという風にぼかして話しているから、余計に心配なのかもしれない。


 もしかすると、時間を掛けてでもこの雨の中を向かってきているのかも……。


 そう思った私は、手帳と鞄をベッドの下に戻して再び窓の向こうを見やった。


 来なかったら来なかったで、その時はその時だ。


 どうせ目が冴えて眠れないわけだし、一夜ぐらい眠らなかったところでどうこうなる身体でもない。


 久しぶりに眠れぬ夜を過ごすとするか……そう己を茶化しながら、私はまたぼんやりと思考の奥へと意識を潜らせ――。



「――何か、考え事?」



 ――ようとした直後、掛けられた声にフッと我に返った私は、隣に腰を下ろしたマリアを見上げて……軽く視線を背けた。



「何じゃ、まだ起きておったのか?」



 蒸し暑いせいだろうか。いつもよりも若干ではあるが汗の臭いが強いように思える。


 いつもなら香水の淡い匂いが真っ先にするのだが……まあ、同性だから余計にそう感じるのかもしれない。



「ええ、何だか眠れなくて……隣、いいかしら?」

「座ってから尋ねるのは、事後承諾もいいとこじゃな」

「それもそうね」



 そう言って笑みを浮かべたマリアに、イシュタリアも笑みを浮かべる。腕に触れるマリアの体温と艶やかな金髪が少しばかり暑苦しいとは思った。



「さっき手帳を見ていたけど、何か予定でもあったの?」



 チラリと、マリアの視線がベッドの下に向けられる。特に隠すことでもなかったが、「盗み見なんぞするでない」いちおうの注意はしておくことにした。



「今日、マージィのオジサマが来る日だったのじゃ」

「あら、そうなの? この雨の中を?」



 窓の向こうに目をやったマリアは、軽く小首を傾げた。


 そして、室内に備え付けられた時計に目をやって……「明日に予定を変えたんじゃないかしら」反対に小首を傾げた。



「それならそれで良いのじゃ」

「良くない理由でもあるの?」

「オジサマは、けっこうナタリアのことを気に掛けておってのう……もしかすると、もしかするかも分からんのじゃ」



 ナタリア……その言葉に一瞬ばかり間が出来たが、マリアはそのことに対して何も言わなかった。



「……あらあら、それじゃあもしかして、もしかするときの為に徹夜を?」

「一夜ぐらい眠らなかったところで死にはせんからのう」



 しばし、無言を保ったマリアから……かすかに微笑んだ気配が伝わってきた。



「そういう律儀で誠実なところ……イシュタリアちゃん、けっこうマリー君に似てきたわね」



 ……思わず視線を向けた私を出迎えたのは、マリアの満面の笑みであった。


 マリーに似ている、その言葉が決して悪い意味ではないのは、すぐに分かった。


 分かったから、私はあえてそれを尋ねようとはしなかった。「照れると途端に無口になるところは、サララにそっくりね」続けて追い打ちを掛けられても、私は無言のままにマリアから視線を逸らし続けた。



「…………」

「…………」



 静寂が、二人の間を通り過ぎる。タンタンタン、と窓にぶつかる雨粒の音が無ければ間が持たなかったかもしれない……そう思いながら、「そういえば――」私は話を切り出すことにした。



「お主には、何か夢が有ったりするのかのう?」

「……夢?」



 いきなり何を……そんな眼差しを向けられる。


 これもよい機会かと思った私は、「一度聞いてみたいと思っていたことなんじゃがな――」予てより考えていたことを話すことにした。



「今、お主は館の……ラビアン・ローズの運営を任されているのじゃ」

「ええ、まあ、そうね」

「私自身、そういった経験が無いので何とも言えぬのじゃが……決して楽な仕事ではあるまい?」

「まあ、そうね。楽じゃないと言えば楽じゃないけど……」



 それが、どうかしたの。


 そう目で尋ねてくるマリアを、私ははっきりと見返した。



「他のやつらを羨ましいと、考えたことはあるかのう?」

「えっ」

「シャラやエイミーに始まり、程度の差こそあれど、皆がみんな己の道を歩み始めている。毎日疲れた顔で帰っては来るものの、その充実した顔を見て……自分もそうなりたいと思ったことは、あるのかと聞いておるのじゃ」



 今更になって思い返せば、だ。


 ラビアン・ローズに人一倍思い入れのあるマリアは、館の運営を自ら望んでやっている……とは、皆から聞いた話ではある。


 館が燃える前の時には、笑顔で館の運営業務に勤しんでいる姿が幾度となく見かけることが出来た。


 だから、決して嫌々やっているわけではないことも分かっている……しかし、だ。


 例えそれを喜んでやっているとしても、シャラやエイミーたちがラビアン・ローズに死ぬまで居るかと言えば……そうなるとは限らない。


 今はまだ、男など作るつもりはないと思っているのが大半だろう。


 しかし、時の流れとは凄いもので、その気持ちも3年、4年、5年、6年と経てば……変わることもある。


 いずれ、館を出ようとする者が出てくるだろう。男と住むか、あるいは別の理由で離れるかは分からないが、ずっとこのまま……ということはない。


 とはいえ、おそらくマリアはその事を悲しむことはしないだろう。独り立ちして館を巣立っていくことが、マリアにとって本望なのは聞くまでもないことであるからだ。


 それは、イシュタリアも分かっていた……のだが。



「以前、お主は私に『そうならざるを得なかった自分のような人を救い出したい』という一心で、このラビアン・ローズを切り盛りしてきたと語ったのを覚えておるかのう?」

「……ええ、覚えているわ」



 イシュタリアの意図……というか、言葉の裏というか。


 それを察したマリアは、笑みを浮かべたまま……ジッと、イシュタリアを見下ろし……イシュタリアも、マリアを見上げた。



「お主は、それを死ぬまで続ける気があるか?」



 互いの視線が、力強く交差した。



「私たちが居なくなったとしても、あと数年分ぐらいは余裕を保てるだけの資金は確保できている……それは、お主も理解しておるじゃろうし、あやつからも自由に使って良いと言われておるはずじゃな」



 マリアは、何も答えなかった。



「だからこそ聞いておきたいのじゃ、マリア・トルバーナ。このままその願いを叶え、目指し続けるのもよい。じゃが、それ意外にも何か成し遂げたい夢は無いのか?」



 けれども、イシュタリアはそのまま話を続けた。



「ただ漫然と生きるのであればあまりに長く、何かを成し遂げるにはあまりに短い。それが、人の一生というもの……マリア、お主は……他の誰の為でも無い、お主の為だけの願いはあるのか?」



 そう、イシュタリアが問いかければ。



「…………」



 マリアは、目を瞑ったまま……静かに、考え込んでいた。


 静かに。


 静かに。


 静かに……マリアは、何も言わなかった。


 ただ黙って、ゆっくりと、己の中で言葉を探している。しかめられた眉根の奥……渦巻いている思考の中で、静かに言葉を組み立てている……それを察したイシュタリアは、あえて急かそうとはしなかった。


 こち、こち、こち……時計の秒針の音が、静まり返った室内に鳴り響く。少しばかり逸れたのか、ガラスを叩く雨粒の音も弱まっているような気さえする……そんな中。



「……先生」



 ……ポツリと、マリアの返事がイシュタリアの耳に届いた。



「先生……というと、学校の教師か?」



 静かにイシュタリアが聞き返せば。



「漠然とだけど……私、昔は学校の先生に成りたいって思っていたの」



 二度目は、先ほどよりもはっきりと頷いた。けれども、「まあ、思い出したところで意味が無いわね」すぐに寂しそうに頭を振って、笑みを浮かべた。



「でも、いいの。このままでも十分に遣り甲斐を感じているし、私ってそんなに器用な性格じゃないから……どっちつかずになるぐらいなら、このままの方が、私としては幸せかな……って思うの」



 そう、己を納得させるマリアを見て……私は、上手い言葉が出てこなかった。



「……そうか、お主がそう言うのであれば、私はこれ以上何も言わぬのじゃ」



 なんとか、苦し紛れに私が答えた――その瞬間。


 光が室内に飛び込んできた。


 ギョッと私とマリアが窓の向こうに視線を向ける。


 しばしの静寂の後、木霊のように響く雷鳴が、ガラリとこの場の空気を切り替えてしまったのを私は実感した。



(藪蛇とはこのことを言うのじゃろうなあ)



 率直に、そう思った。


 教職と言えば、コネやら資産やら家柄やらが必要となる仕事の代表格的な職種だ。


 元娼婦が成れるような職業では無く、努力でどうにか出来る話でもなかった。


 ……だからこそ、意味が無いと口にするだけの理由が察せるだけあって、「――それにしても、止む気配がないのじゃ」私は卑怯にも一方的に話を打ち切ることにした。


 マリアから感じ取れる、しょうがないなあ、という笑みに気づかないフリをしながらベッドから降りる。横たわっているドラコを跨いで窓へと歩み寄り、眼下の地上を見下ろした。


 既に街灯の明かりは落とされ、眼下の景色は真っ暗だ。


 何時もなら月明かりで多少は確認出来たが、この天気だ。イシュタリアの目を持ってしても、そう見えるものではない。



(ふむ、先ほどよりは雨足が弱まってきているようじゃな……この分じゃと、明日にはお日様を見られるかも分からんのじゃ)



 嵐のせいで館の建設が一時中断しているし、こう連日雨が続くと気も滅入ってくる。気分転換も兼ねて、明日は是非とも晴れてもらいたいものだ。


 そう思いながら、私は何度目かとなるため息を吐く……直後、再び閃光が地上を照らした。



(――えっ)



 瞬間……ベッドに戻ろうとしていた私の身体は硬直した。


 ほんの刹那の一瞬……その一瞬にて垣間見た光景に、私は知らず知らずの内に額を押し付ける様にして、眼下の地上を見下ろしていた。



 ――今のは、まさか。



 窓の向こうは真っ暗で、何も見えない。「どうかしたのか?」むくりと身体を起こしたドラコの声に私は、枕元に置いていた寝間着を手早く羽織る。そして、振り返ることなくドラコに尋ねた。



「ドラコ、雨の中を走る元気はあるかのう?」



 返事までの間は、ほとんど無かった。



「答える必要があるのか?」



 素早く立ち上がったドラコを引き連れて、私は弾けるように部屋を飛び出した。照明の落とされた暗い廊下には人通りはなく、「イシュタ――」呼び止めるマリアの声を後にして、私とドラコは玄関へと走り出した。



(――まさか、そんな、何があったのじゃ……!)



 今しがたの光景が、脳髄の奥でぐるぐると螺旋を描いている。焼きついたその光景を前に、私はずっと問い掛け続けていた。



(――なぜ、お主がそんな顔をするのじゃ……!)



 降りしきる雨の中、閃光に照らし出された……『モンスター』としか形容しようがない、禍々しい形相へ、私は問い掛け続けた。









 ――。


 ――。


 ――――動き始めたジェネレーターのモーター音に、フッと記憶の底から意識が浮かび上がる。しばしの間ボーっと視線を彷徨わせていたイシュタリアは、軽く頭を振った。



 ……ここしばらく、気持ちが張り詰めたままだったからだろうか。



 あるいは、懐かしさによって、蓋をしていた内心が噴き出してしまったせいなのか……すっかり凍えて冷たくなった手から伝わって来る痛みに、イシュタリアは無言のままに身体を離す。



(……張り付いてしまったわね)



 すると、カプセルに触れていた指先が剥がれて、皮膚が張り付いてしまっていた……無意識の内に、カプセルに手を当ててしまっていたようだ。



「『……取れない』」



 べったりとカプセルの表面に残された痕跡に、イシュタリアは思わず声をあげる。慌てて取ろうと手を伸ばす……が、グズグズに凍りついた指先では思いのほか、剥がすのにてこずってしまった。


 両手の皮がめくれて折れ曲がり、幾らか皮膚も裂けてしまった。だが、何とかある程度は剥がせたのを確認したイシュタリアは、ため息と共に肩の力を抜いた。



「『汚してしまってご免なさい……それじゃあ、私は行きます』」



 深々と頭を下げてから、踵をひるがえす。青紫色になった指先が音も無く手から零れ落ち、白い絨毯の中に消える。そして、噴出した鮮血の中から……新たな指が形成され始めた。


 ――こつ、こつ、こつ。


 イシュタリアの足音が、静まり返った室内に響く。その足取りは規則正しく、欠けてボロボロになっていた手もすっかり治った頃……『ブレイン・ルーム』への扉を前にして、ようやく足を止めた。


 扉の広さは、両手を広げて5人分ぐらいだろうか。沸々と湧き上がってくる懐かしさと共に、イシュタリアは……扉の中央に設置されたカメラセンサーに、顔を近づけた。



「『イヴ、ここを開けてください』」



 キュイン、とカメラのレンズが動いたのが、イシュタリアには分かった……と思ったら、空気が抜けるような音と共に扉が開かれる。ふわりと、空気が動いた。


 パッ、パッ、パッ、『ブレイン・ルーム』へと続く通路に、次々と明かりが点灯していく。その一番奥……開けた場所になっているそこに光が灯ったのを確認したイシュタリアは、無言のままに奥へ進みだした。


 ――こつ、こつ、こつ。


 距離にすれば、ほんの数十メートルぐらいだろう。扉が閉まった音に振り返ることなく先を進んだイシュタリアは、さらに奥の開けた場所へ進む……広間の中央にて立ち止まった


 途端、イシュタリアの前方の床が開く。モーターの稼働音と共にせり上がってきたのは、巨大な金属の塊。カチン、と動きを止めたその塊は、プシュウ、と圧縮空気を吐き出した。



「『……ただいま、イヴ』」



 イシュタリアの問いかけに、イシュタリアの腰よりも太いケーブルをギチギチと揺らしながら、その塊は……巨大なカメラの付いた頭部を、キュインと持ち上げた。



『お帰りなさい、イシュタリア・フェペランクス・ホーマン』



 機械で作られた、合成音質。



『そして、待っていました、最後のアルテシア』



 女性的で自然な声ではあるが、どこか機械的な印象を拭いきれない。



『あなたが知りたかった全てを……私が知り得て、話せる全てのことを……出来る限り、あなたに伝えましょう』



 そんな、声であった。




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