第四話: 彼女だけが知っている




 ――消息を絶ったあやつを探し始めてから、幾日。



 ユーヴァルダン学園の生徒を含めた数十人が突然姿を消したという話を、風の噂で耳にするようになった、蒸し暑い夏の日の早朝。


 元の面影を残しつつも、新しく形を変えて行く新生ラビアン・ローズ。

 それを前にした私は、隣の敷地から覗かれる大五郎たちの視線を手で払いながら……黙って、お嬢ちゃんを見つめた。


 早朝の街中には似つかわしくない、張りつめた気配を纏ったその姿。


 朝の陽ざしを受けてきらめく『粛清の槍』が、お嬢ちゃんの気持ちとは裏腹な輝きを見せている……そう、私は思った。



「今日も、暑くなりそうね」



 いくらか力が無く、いくらか頼りない声。只でさえほっそりとしたスタイルだったのが、さらに細くなった背中に目をやりながら……軽く、ため息を吐いた。



「そうじゃな。まあ、夏じゃからのう」

「ええ、今年はずいぶんと暑くなるらしいわ……きっと、マリーも喉が渇いて大変だと思うの」



 ポツリと、己に言い聞かせるかのように呟かれた言葉を、私はあえて聞かなかったことにした。



 ……脳裏に浮かぶのは、ここに来る前に見た光景。



 悲しみと寂しさに涙を流すマリアやシャラたちと抱き合う、やつれたお嬢ちゃんの微笑みだけ。



 ……お嬢ちゃんは、居なくなったあやつを思って、我慢に我慢を重ね続けてきた。



 ひいてはマリアたちの為に、ひいてはラビアン・ローズの為に堪えていたわけだが、「――私は行くわ」その我慢が限界を迎えるのは予想するまでもなかった。



「私は行くわ、イシュタリア、ドラコ……」



 そこで、奇妙な間が私たちの間を流れた。思わず何も言えなくなる私を他所に、「ナタリアには――」ドラコが顔をあげた。



「――ナタリアには、私からも言っておこう」

「……ええ、お願いするわ」



 空気を呼んだドラコの言葉に、お嬢ちゃんは軽く頷いた。ナタリアの名前を、お嬢ちゃんは言わなかった。


 それは単にナタリアを無視したわけではない。今、この場に、ナタリアの姿が無いからであった。



 ――何故、居ないのかと問われれば、どこかへ姿を眩ませたから。そうとしか、私には答えられない。


 ――では、何故眩ませたかと問われれば、それは私にも分からない。そうとしか、私にも答えられない。



 ただ、完全に消息を絶っているわけではない。


 時間にすれば数時間から翌日にはふらりと戻って来るし(そのかわり、ぼんやりしていることが増えたが)、あの日以来血の臭いを漂わせたこともない。



 ……だからこそ、私はあくまでナタリアを自由にさせてやりたいと思っていた。何かしらの目的が、ナタリアにはあるのかもしれないと思ったから。


 しかし、心配は心配だし、不安は否めない。


 なので、念のために治癒術を頭に掛けてやった後は、『次に血の臭いを漂わせた時は……』と覚悟するに留め、極力様子を観察するだけに留めていた。


 医者に見せたところで……という考えもあった。


 だが、何もそれは私一人の独断ではない。ナタリアの変調を知るお嬢ちゃんやドラコからも、医者に見せるべきだと口をそろえられたが……当のナタリアが、強く拒否したからであった。


 そう、ナタリアの拒否は、頑なであった。いや、それはもう、頑な等という生易しい反応ですらなかった。


 いくら私たちが説得し、叱りつけても、決してナタリアは首を縦に振らなかった。それどころか、医者に連れて行かれるぐらいなら暴れ回るとさえ口にされてしまったのだ。


 そうなればもう、私たちに出来ることは少ない。


 何せ、その時のナタリアの目が本気であったからだ。無理やり連れて行こうとするならば、本気で暴れるということが……嫌でも伝わってきた。



 …………正直に、だ。



 正直に言わせて貰えるならば……抵抗してくれて嬉しいと思った。


 間違っているのは承知の上で、私は……仮初とはいえ、自分は大丈夫だと口にするナタリアを見て……安堵していた。


 ナタリア自身がそう望むのであれば……そんな甘い考えをしてしまう己に軽く驚き、同時に、それは目を逸らしているだけだと、己に対して強く嫌悪したのも記憶に新しい。


 けれども、病院行きを撤回した私たちを前に、心から安堵した表情でため息を吐くナタリアを見て……これで良かったのかもしれない……そのとき、そう思ったのも事実であった。


 あまりに身勝手で、ナタリアの事を考えていない判断だろうとは思う。否、そうとしか思えない判断であるのは自覚していた……だが、私には、ナタリアを拘束してまで……など、出来なかった。



(お嬢ちゃんもそうじゃが、あの子もこの頃になって、ますます落ち着きを見せなくなったのじゃ……)



 けれども、ナタリアの変化は……ますます酷くなっていった。



(いったい、どうしたというのじゃ……ナタリアよ……)



 そう、あの日。『声が聞こえる』と口にしたあの日から始まり、ナタリアが血の臭いを漂わせて戻って来たあの日の後。ナタリアは、それまでとは違う、異様な行動を取るようになった。



 たとえば、黙々と地面を掘っては埋めて、掘っては埋め返す行為。

 たとえば、地を這う虫を見つけては、延々と指で潰していく行為。

 たとえば、己の腕を掻き毟り、その身体を傷だらけにしていく行為。



 辛うじてマリアたちの目が届いていない時。私やドラコ、お嬢ちゃんしか見ていない時に、ナタリアはそんな行為を繰り返すようになった。


 そして、決まってそんな行為をした後。泥だらけになった足を見て、体液で汚れた手を見て、血で真っ赤に染まった己の身体を見て……ナタリアは、涙を見せるようになった。


 そんな光景を何度も見た私は必然と、ある結論を出した。



 ……ナタリアの中で、何かが起きている。



 そう、私が考えるようになるには、そう時間は掛からなかった。


 けれども、それが分かったところで、私に出来ることなどたかが知れていた。



『ナタリア』



 一心不乱に異常な行動を取るナタリアの背中に、声を掛けた瞬間。フッと我に帰ったあの子が、怯えたように辺りを見回す。


 そして、私へと振り返り……泣きそうになっているナタリアを、強く抱き締める。


 それが、私が出来る唯一のこと。もう、抱きしめた数は、両手では到底足りない数であった。


 ……自然と、私は辺りを見回した。もしかしたら、戻ってきているかもしれないと一縷の望みを掛けてはみたが……ダメである。


 何処を見ても、影すら見当たらず、蒸し暑い熱気だけが頬をくすぐるだけであった。




 ……。


 ……。


 …………そして、翌日。



 戻ってきて一安心だと思った直後に、またもやナタリアは姿を消した。今回姿を消したのは、まだ日も昇らない昨日の今朝方であった……らしい。


 たまたま起きていたシャラが外に出て行くナタリアを見たらしいが、それから、未だにナタリアは見つかっていない。いちおう、顔見知りを通じてナタリアを見付けたら連絡して貰うように頼みはしたが……。



「……大丈夫。私は、隠れているあの人を探すだけ」



 ポツリと響いたお嬢ちゃんの声に、私は我に帰る。


 そうして初めて、私は如何に思い詰めていたのかを実感した。



「こういう遊び、嫌いじゃないの」



 言い聞かせるように、お嬢ちゃんは繰り返す。それは決して、嫌々だからではなく、己を鼓舞する為にやっているのだということは……痛い程私には分かった。


 ……おそらくはお嬢ちゃんも、分かっているのだろう。


 けれども、それを理解したうえで、そうしてしまうのは、己の心を守る為。


 悲しいかな、お嬢ちゃんの強さは、あやつがいてこその強さなのかもしれない……そんなお嬢ちゃんを、私はそれ以上見ていられなかった。



「マリア姉さんたちのこと、頼んだわよ……ドラコ」

「……寂しくなるが、無理をするなよ。お前ら人間は、すぐに死ぬ。私が言えた義理ではないが……無茶はするな」



 置かれた材木から腰を上げたドラコは、そう呟いて、静かに目を伏せている。


 二人が過ごした時間は短い間ではあったが、私たちの付き合いは時間では無い。「そうね、寂しくなる」と呟いたお嬢ちゃんの落ち込みは、まぎれも無く本物であった。



「ごめんなさい、あなたをこき使って……」

「気にするな。余生を過ごしているに等しい今の私にとっては、むしろ暇つぶしにはちょうど良い」



 ドラコは、皆まで言うなと言わんばかりにお嬢ちゃんの声を遮った。


 あくまで傍観の立場に徹していた彼女は、おそらくは誰よりもお嬢ちゃんの内心を察しているのかもしれない。


 もしかしたらそれは、故郷を捨て去り、かつての仲間を見限るしかなかった過去を受け止めているからこそ、分かることなのかもしれない。



 ……お主に何かがあれば、悲しむのはあやつなのじゃぞ。



 そう思った私は、後ろ手で手を振るお嬢ちゃんを……ただただ、見送ることしか出来なかった。










 ――。


 ――。


 ――――チクリと、手に鋭い痛みが走る。



 その痛みに、思わず顔をしかめたイシュタリアは……その痛みのおかげで、ようやく我を取り戻すことが……いや、目を覚ますことが出来た。


 ……いったい、どれだけの涙を流したのだろうか。


 目を開けたイシュタリアは、降り注ぐ照明の明かりに懐かしさを覚える。次いで、ゆっくりと身体を起こし……白いベッドの下へと足を出す。途端、パキパキと、身体中の関節が音を立てた。



 ……そうか、私、泣き疲れて眠ってしまったのね。



 どれぐらい眠っていたのだろうか。


 変化の無い室内を見回しながら、イシュタリアは己の状態を確認する。涙の跡が残る頬を手で拭い、皺だらけになったドレスの裾を払いながら、大きく息を吐いた。



『御目覚めですか?』



 ――直後、背後から掛けられた声に、イシュタリアは声なき悲鳴をあげた。



 油断……という言い方も何だが、気が抜けていた。つんのめるようにしてたたらを踏みながらも体勢を整え、迎撃を覚悟して振り返り……あっ、と呆けた。


 イシュタリアの視線の先。扉を出てすぐの老化からこちらを覗くようにして、黒光りする球体が佇んでいた。


 廊下の照明と、室内から照らされる光を浴びた黒光りの球体は、出入り口を塞いでいることに気づいているのかいないのか、キュイン、とその身を震わせた。


 呆然と、イシュタリアはその物体を見つめる。黒球体も、イシュタリアを見つめている……のだろうが、目どころか顔すら無い彼らの視線を確認することは出来ない。


 しかし、たとえ無くても分かることはある。現に、黒球体の視線を肌で感じたイシュタリアは、何かを思い出すように何度か目を瞬かせた後。



「『ブラック・スイーパー』」



 ポツリと、彼の機体名を、正式名称を呟いていた。



「『……メルゥ?』」

『ああ、良かった、意識は正常のようですね』



 続けて、イシュタリアは己の専属機でもあり、仲の良かった彼の愛称を呟く。そして、その名に反応したのは、やはり目の前の彼であった。



『それでは、休眠ポッドに戻りましょう』



 休眠ポッドとは、言うなればイシュタリア専用のベッドルームみたいなもの。かつて、イシュタリアが毎日の寝床として利用していた装置の名称でもある。



「『休眠ポッド……ああ、あれですか』」



 とても懐かしい単語に、イシュタリアは目を細める。


 かれこれ数百年以上、布と木で作られた寝床を利用してきたイシュタリアにとって、休眠ボッドの寝心地は……思い出せないぐらいに彼方のことであった。



『ああ、あれですか……ではございません。自由活動の後は、20時間の休眠が義務付けられているのを忘れましたか?』



 けれども、彼はまるで昨日のことのように語る。


 プログラムで形作られた彼らの思考回路を考慮すれば、それは当たり前の反応。


 彼らにとって、明日も100年後も、昨日も100年前も、同じなのであることをイシュタリアはここにきて思い出した。



「『忘れたわけではないの……ただ、あんまり昔のことだから……』」



 イシュタリアの体感からすれば、数百年の別離。しかし、ごく自然と会話を行えていることに、驚きすらイシュタリアは覚えなかった。



『そうですか。それでは、さっそく向かいましょう』

「『まだ、もう少しここに……』」

『いけません。その甘えが、堕落への一歩なのですから』



 このあまりに融通の利かない対応。言葉の一句一言にデジャブを覚えてしまうぐらいの、変化の無い小言。


 それら全てがあまりに懐かしくて、「『相変わらず、あなたは小言が多いのですね』」イシュタリアは思わず笑みを零した。



(……んん?)



 だが、そうして初めて、イシュタリアは服の裾に張り付いたパン粒のような違和感を覚えた。自分でも言葉に表すことのできない小さな引っかかりに、イシュタリアは内心首を傾げた。


 いったい、自分は何に違和感を覚えたのだろうか。


 電源が生きていることや、彼らが稼働していること事態は大きな疑問だが、この違和感は違う。気になる部分であることには変わりはないのだが、それではない。


 ならばと思って、今しがたの会話も反芻してみるが、それらしいものは何一つ思い当たらない。埃被った記憶を掬い出し、少しずつ当時のことも思い出していくが……はて、とイシュタリアは目を瞬かせた。



『行く気が無いのでしたら、こちらにも考えがありますよ』



 しかし、額に手を当てて考え込むイシュタリアの反応を、ふざけた態度だと判断したのだろう。


 キュイン、と巨体を軋ませた黒球体は、その身の一片から伸びた鋼鉄の触手を使って、シュルリとイシュタリアの腕を引っ張った。



「『あ、こ、こら、乱暴な真似は止めなさい!』」

「『お許しを。決してあなた様に乱暴を働きたいわけではありません』」



 床を滑る様にして動き出した黒球体の後に、イシュタリアも続く。巻きついた鋼鉄の触手を外そうともがくが、ビクともしない。「『私は人を探しているところなのです。今すぐ放しなさい』」仕方なく命令を下してみたが。



『なりません』



 一言で一蹴された。



『どうか、ご容赦ください』



 部屋を出て、通路を進み、また扉に入る。景色はどんどん移り変わる。白色が基調となっていた世界が、様々な色合いでカラーリングされた世界へと移り変わって行く。



(えっと、先ほど居たのが居住区だから……)



 覚えのある光景と、特有の無機質な臭い。停止した『エスカレーター』の前を通り、七重の鍵が掛けられたゲートを潜る。


 次いで、『エレベーター』に乗せられて、地下へくだり、また少し歩いた後、別の『エレベーター』で上にあがる。



(……あら、あれは……?)



 降り立ったイシュタリアは、そのまま彼ら黒球体に引っ張られる。途中、穴だらけの壁に興味を引かれたが、それを尋ねる前に角を曲がってしまい、聞きそびれてしまった。



 ……いったい、今のは何の跡なのだろうか。



 少なくとも、イシュタリアの記憶には無い。一瞬なので断定は出来ないが、銃弾が着弾した跡に見えた。


 前を進む彼らを見やりながら、イシュタリアは考える。作られたコイン大の穴はそれほど深くは無く、そのどれもが真新しかった。


 それこそ、ほんの少し前に作られたと言っても過言じゃないぐらいに。


 どこへ連れて行くのかという不安も相成って、何とも言葉では言い表し難い好奇心が、少しばかり疼いたような気さえした。



(……あれ……ちょっと待って、良く考えたら、メルゥはどこへ向かっているのかしら……あっ)



 けれども、徐々に思い出し始めた記憶を前にして、燻り始めた好奇心は瞬く間に消えてしまった。



(休眠ポッド……ってことは、もしかして今向かおうとしている場所って――!)



 脳裏を過った予感に、冷や汗が出る。どんどん蘇ってくる懐かしい記憶に胸が張り裂けそうになりながらも、イシュタリアは何度も踏ん張っては、たたらを踏む。


 けれども、その程度では彼らを止められない。実はマリーに次ぐレベルの怪力を誇るイシュタリアの腕力を持ってしても、無理だ。


 何せ、相手は数トンの重量を引っ張る事が出来る馬力を持つ。いくらイシュタリア自身が常軌を逸したパワーを持っているにせよ、差が有り過ぎる。


 かといって、巻きついた鉄触手を引き千切ろうとしても、びくともしない。それだけの重量を引っ張れる強度を素手で引き千切るなんて、不可能な話でしかなかった。



 ――逃げたりはしない。



 力では駄目と判断し、そう懇願するイシュタリアであったが、彼の反応は変わらない。発せられた言葉を端から信用していないのか、鉄触手の締め付けが緩む様子もなかった。



「『――止まりなさい! これは命令です!』」



 さすがに怒りを込めて、イシュタリアは強く命令を下す。



『なりません。どうか、ご自愛を』



 しかし、答えは同じであった。『お叱りは、休眠後にお受けします』と繰り返すばかりで、速度が緩む気配すら感じられなかった。


 非常に困ったことになった。やはり、彼は己を『休眠ポッド』に押し込んで、無理やりにでも休息を取らせるつもりだ。



(しまった……!)



 お願いの一切に耳を貸さない彼を見て、イシュタリアは内心焦り始める。


 これではマリーを探すことはおろか、このままだと『休眠ポッド』に押し込められてしまう。そうなれば、投与される薬品によって、最低でも10時間は眠らされてしまうだろう。



 ――こうなれば、破壊してでも動きを止めてやるか。



 そんな考えが脳裏を過る……が、直後にため息と共にその考えを捨てた。



(我ながら無駄な事をするところだったわ……けれども、どうしようかしら?)



 彼らの体表を覆っている合金の強度は、イシュタリアの怪力をもってしてもどうにかなるものではない……そのことを、思い出したからであった。


 例え両の拳が粉々になるまで頑張ったところで、イシュタリア自身が痛い思いをするだけ。実際に行った結果を遅れて思い出したイシュタリアは、混乱する頭脳を必死に回転させた。



「『ねえ、ほんのちょっとだけでいいの。ほんのちょっとだけ、後もう少しだけ、自由にいさせてください!』」

『なりません』

「『そんな冷たい事を言わないで……ねえ、いいでしょう?』」

『なりません』



 とはいえ、相手は一筋縄ではいかない。それを理解しながらも、イシュタリアは踏ん張った。



「『お願い! その人を見付けたら、すぐにでも休眠ポッドに入ってあげるから!』」

『なりません。以前にも似たような約束をしたのに、あなた様は守らなかった』

「『――そ、それは……』」



 ……覚えがないわけではないことを思いだし、イシュタリアは一瞬ばかり言葉を詰まらせた。



「『あ、あれはたまたま……こ、今度こそ守るから! 絶対、絶対守るから!』」

『そうしてあなた様のお願いを承諾した結果、そのあなた様がどうなったかを、あなた様はお忘れですか?』

「『……え?』」

『お忘れですか?』



 ですか、と、聞かれても。


 すぐに思い出すことが出来ないイシュタリアを横に、『お答えしたくないのでしたら、お答え致しましょう』黒球体はキュインと総身を軋ませた。



『細胞同士の連結が緩み、あなた様の全身は分離し……あなた様は76ヶの肉片に千切れて崩れた。その後、あなた様は187時間の集中治療と、64時間の集中調整が施されました』

「『――あっ』」



 言われて、イシュタリアは思い出した。


 自分がまだ目の前の彼らと共に過ごしていた時、目の前の彼を騙してよく逃げだしたのを。結果的にはいつも捕まってはいたが、一度だけ逃げ切ったことがある。


 一度でいいから、外の世界に行きたい。外の空気を吸い、外の臭いを味わい、外の命に触れたい。


 その一心で彼を言葉巧みに騙し、そして彼の隙を突いて、彼の監視下を潜り抜け、逃亡を果たした……そして……。



『私どもがあの時、どれほどあなた様の生存を願い、己の不甲斐なさを叱咤したか……分からないとは言わせませんよ』



 ……何も言えないでいるイシュタリアを他所に、黒球体はキュインと異音を立てる。


 そして、しばしの間無言のままに時が流れた後……静かに、その動きを止めた。



『イシュタリア様』

「『……改めて様呼びされるのも、何だかくすぐったいわね』」



 遅れて足を止めたイシュタリアが、苦笑しながら顔をあげる。それを知ってか知らずか、黒球体はキュイン、と再び総身を軋ませた。



『――あなた様は、人間ではありません』



 一瞬、イシュタリアは反応が遅れた。


 それは、彼の言葉に驚いたわけではない。



「『……いきなり何を。そんなの、改まって言う事なのですか?』」



 ただ、あまりに今更な質問をされたから。



『イシュタリア様は時々、己がただの人間であるかのような振る舞いをなさる。その行為が精神に重大なストレスを与えることが分かっておりますのでね』


 ――今朝、トイレに行きましたよね。



 そんな、突拍子も無い質問をいきなりされたかのような気持ち。イシュタリアの驚きとは、すなわち、何を突然、と呆気に取られただけのことであった。



『イシュタリア様……忘れてはいけません。あなた様は、次代を担っていく“新たなる人類”なのです』



 ――ハッと、イシュタリアの目が大きく見開かれる。


 それを見た……というには目が無い黒球体は、『忘れてはいないようですね』安堵したかのようにキュイン、と異音を立てる。



『どうか、忘れないでください』



 そして、その声は、嫌に思えるほどにイシュタリアへ響いた。



『我らも、我らを作り上げた人類も、あなたに多大な期待と資金を投じました。あなた様は人類の希望であり、次世代を産み落とす最初の母になられる、唯一無二の存在なのです』



 まっすぐな、眼差し。目も、耳も、口も無い黒球体の彼から、まっすぐそれを向けられているのが分かった。



「『――はは、何ともまあ……』」



 けれども、幾百年ぶりかの黒球体からの“小言”を受けたイシュタリアは。



「『……なんてバカみたいな戯言ですこと』」



 ただ、乾いた笑いを返すことしか出来なかった。そして、それを彼は聞き逃さなかった。



『――イシュタリア様!』



 これまでとは違う、声色。プログラムで構成された彼のそれは、アルゴリズムに乗っ取ったものなのだろうか。


 あるいは、高度に発達したAIが生み出した、擬似的な知性なのか……それは、この場にいる誰もが分からないことであった。



「『……分かっております、そんなこと。ただ、今更ぐだぐだと念押しされるのが、たまらなく鬱陶しいだけなのです!』」



 彼の“小言”を遮る様にして、はっきりと、イシュタリアは答えた。


『……御理解なされているのであれば、私からは何も言いません』そう答えた黒球体の彼は、それ以上の“小言”を言うのは諦めたようであった。



『とはいえ、あなた様の肉体は、まだまだ欠陥が多い未熟な……非常に繊細で脆弱な身体なのは事実。その為、外界からの様々な刺激に耐えて対応する能力が現時点では著しく低い……ゆえに――』

「『ゆえに、一定期間ごとに細胞を休ませることで、消耗した各種細胞等を外部の力を借りて修復する必要がある』」



 ため息と共に、「『三度は言わないわよ』」と、そう言い切ったイシュタリアは、次いで、それまでよりも大きなため息を吐き……ようやく、違和感の正体に気づいた。



(何故、今更その話をするのかしら)



 そう、彼から知らされるイシュタリアの情報が、少しばかり古かった。例えるなら、子供の頃に解決した話を大人になってから、いきなり蒸し返した……という感じだろうか。


 それこそ今しがた話された細胞の話は、イシュタリアが『フロンティア』で暮らしていた年月の中でも中頃に当たる時期の話であり……イシュタリアは首を傾げた。



(……まさか、ここは……私が居る、この世界は……!)



 これはもしかすると、もしかするかもしれない。


 ある予測が脳裏を過ったが、イシュタリアは、「『ところで、先ほどの件だけど』」話を変えることにした。もう少しだけ、確信を得る情報が欲しかったから。



「『探すのは後にするとしても、せめて記録に残っていないかの確認を取ってはくれないかしら? おそらく、ここのどこかにいると思うのだけれども……』」



 イシュタリアからすれば、それは目的に沿った何気ない提案でしかなかった。なりません、と言われてしまうだろうと考えていたので、次の折衷案でどうにか落とし所としてもらおうとすら考えていた。



「『……ちょっと?』」

『…………』

「『どうしたの? 返事をしなさい』」

『…………』



 だから、返事をすることもなく沈黙を保ち続けている彼のことが、不思議でならなかった。


 なぜならば、目の前の存在は、機械でその身が形作られている。プログラムという名で構築されている思考回路は、自主的な黙秘という行為を最も苦手としていることを、イシュタリアは知っていたからであった。



「『……ねえ、どうしたっていうのよ』」



 ある種の不気味さすら感じられる沈黙に、イシュタリアは気味悪そうに後ずさる。


 しかし、ビクともしない鉄触手のせいでその姿は、後ずさったというよりは腰が引けたと言う方が正しかった。


 時間にすれば、ほんの数分ぐらいだろう。


 イシュタリアにとっては十数分にも及ぶ沈黙の後……『そこまで……』キュイン、と彼はその身を軋ませた。



『その御方のことを探したいのですか?』

「『え、ま、まあ、その為に私は――』」

『そんなに、マリー・アレクサンドリアが大事なのですか?』

「『――えっ』」



 遮る様にして放たれた言葉の爆弾に、イシュタリアの目が大きく見開かれる。「『ちょ、な、なんであなたがその名前を!?』」慌てて尋ねるが、黒球体の彼は何も答えなかった。


 それどころか、何の前触れも無く、『失礼、行き先を変更します』黒球体はその巨体を移動させ始めた。



「『ちょ……ま、待ちなさい! まずは質問に答えなさい!』」

『あなた様の疑問は全て、『イヴ』がお答えするでしょう』



 たたらを踏む様にして、イシュタリアも後を追いかける。カシュン、と開かれたエレベーターに乗り込めば、エレベーターは勝手に動き始める。


 ……ここに来てから、こればかりだ。


 『B8』、『B11』、『B14』……あっという間に切り替わっていく表示パネルの数値に、「『――『イヴ』のところへ向かっているのですね』」イシュタリアは黒球体の彼を見やった。



「『私を、どうするつもりなのですか?』」

『何もしません。ただ、あなた様を連れて行くだけです』



 キュイン、と黒球体は異音を立てる。



『出来ることなら……』

「『出来ることなら?』」

『あなた様を、休眠ポッドに押し込めて置きたい……それは私のみならず、私以外の同機全ての願いでもあります』

「『…………』」

『あなた様を閉じ込めて、この身が朽ち果てるまであなた様と共に居たい。それは、私個人の願いであると共に、彼女の……『イヴ』の願いでもあります』



 キュイン、と異音を立てた黒球体の声は、あくまで平坦であった。


 しかし、その声には感情が込められており、その感情の正体は……まぎれも無い、怒りと悲しみであった。


 あなた……ポツリと呟かれた独り言は、カシュン、と開かれた扉の開閉音にかき消される。ひやりとした空気が、エレベーター内になだれ込んできた。


 視線を向ければ、扉の向こうに広がっていた薄暗がりが、ポツ、ポツ、ポツ、と順々に点灯されていく照明によって、照らされていくのが見えた。


 上の階と似ているけれども少し違う、メタリックブルー色を基調とした世界。


 はるか遠くの方に見える『培養保管フロア』への扉のロックが外されているのを見たイシュタリアは、黒球体の彼に押しやられるがままに、通路へと歩み出た。



『道順は、覚えていますね?』



 イシュタリアは振り返った。



「『……わざわざ確認すること?』」

『あなた様にとって、もう数百年以上も前のことですから』

「『――なるほど』」



 その瞬間、イシュタリアは確信した。


 どういう理由でそうなったのか、どのような原理が働いたのかは不明だが、やはり、目の前の彼は事情を把握している。


 今が何時なのかは分からない。だが、彼は……イシュタリアが、当時のイシュタリアでないことを把握している事に……イシュタリアは気付いたのであった。



『少し、戯れが過ぎたかと存じますが、どうかご容赦を……』

「『……そんなことで、私が怒ったことあったかしら?』」

『そういえば、ありませんね』



 静かに、扉が閉まり始める。お互いが無言のままに、隔てる壁は無情にも狭まっていき。



「『さようなら、イシュタリア様』」



 その言葉とともに、扉は閉じられた。


 それは、まるで過ぎ去った思い出の時間から、現実の世界へと戻されたかのように……不思議な寂しさを、イシュタリアは感じた。


 エレベーター内のカゴが、上昇していく稼働音が聞き取れる。


 その音を追いかけるようにして顔を上げていたイシュタリアは……深々とため息を吐く。



「『……さて、と』」



 そして、艶やかな黒髪を靡かせながら、颯爽と振り返ったときには。



「行くとするのじゃ」



 永久少女としての、時を渡り歩く魔女としての、長き時を生きた彼女が、そこに居た。




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