第三話: 全ては遠き彼方の……

 



 ナタリアの変調を危惧していた私であったが、翌日になって目覚めたナタリアは……拍子抜けしてしまう程に、いつものナタリアであった。


 ただ、己の身体から放たれる酒の臭いに首を傾げる辺り、昨夜のことは何も覚えていないようであった。


 実際に問い質してはみたが、やはり何も覚えていないようで、むしろ逆に質問されたぐらいであった。


 もしかしたら、興味本位で酒に手を出してしまったのかもしれない。その結果、酔ったナタリアは誰かに絡んだり絡まれたりして騒動を起こしてしまった。


 そして、軽く酔いが醒めた後、ナタリアは血の付いた己を見て……私たちに怒られると思って、証拠の隠滅を図ったのかもしれない。そう考えれば、辻褄が……合うのだろうか。


 ……いまいち確証を得られない私は、とりあえずはそういう結論を出して己を納得させた。そうしてしまうぐらい、目覚めたナタリアは、私の知るナタリアであったからだ。


 食べ物の好き嫌いが激しく、興味がある物は迷惑を顧みず突撃し、マリアたちのいう事を良く聞く。



 あきれ返ってしまうぐらいに、いつもの彼女でしかなかった。



 ……とはいえ、普段の私ならそこで己を納得はさせなかっただろう。


 少なくとも、大筋で納得できるまでは観察を続けたか、あるいは私の傍を離れさせなかっただろう。


 なぜ、そんな風にして無理やり己を納得させたのかといえば、単に……あやつが……マリーが、一向に帰って来ないからであった。


 私自身、そのことが気になってしまったせいで、この時の私はナタリアに向けていた注意を幾らか外すしかなかった。というか、向けるだけの余裕がなくなっていた。



 ――時には一人で過ごしたいこともあるだろうし、その内帰って来るだろう。



 あやつが帰って来ないことに対して、当初はそう思って楽観視していた私であったが、さすがに3日を過ぎる頃にはただ事では無いと思うようになったのだ。



 ……なにせ、3日である。



 そういったことへの連絡に対してはきっちりしていたあやつが、何の連絡も寄越さないまま、だ。その頃になると、何かが起こったのではないかと思ったマリアたちの間から、心配の声が多々上がった。


 ……無理もなかった。


 一人で過ごしたくなってひょっこり姿を消すこと事態は、過去に何度かある。だが、その場合は必ず伝言を残していたし、時間にしてせいぜい1日半ぐらいのこと。


 もっと長くなる場合は必ずお嬢ちゃんを伴ったし、その場合は私も必ず同行した。なのに、今回に限って伝言はおろか、連絡一つ寄越してこない。心配するなと言う方が無理である。



「――もう我慢できない……探しに行ってくる!」



 だからこそ、我慢に我慢を重ね、欲求不満を耐えに耐えたお嬢ちゃんが、痺れを切らして立ち上がるのは……まあ、想定は出来ていた。


 瞳に爛々と蠢く何かを灯らせたお嬢ちゃんのその姿は……少々、想定以上だったけれども。


 私は、一人先走ろうとするお嬢ちゃんを止めようと踏ん張った。じゃが、私を上回る驚異的な力で振り払ったお嬢ちゃんは、私とドラコを引きずったまま歩き出す始末であった。


 当然ではあるが、マリアたちも止めに入る。シャラも今回ばかりはと止めに入るが、頭に血が上ったお嬢ちゃんの耳には届かない。あやつのことに関係すると、すぐにこれだ。


 あっという間に外へと飛び出したお嬢ちゃんへと、向かう。


 さすがに、私もドラコも、力ずくで嬢ちゃんを止める為に全力を出した。結果、「退きなさい!」と叫ぶお嬢ちゃんの前に立ちはだかることには成功したが……そこからが問題であった。



「退かないのであれば……押し通る……!」



 こぉぉ……ゆるやかに呼吸を整えたお嬢ちゃんは、静かに、それでいて真剣な眼差しと共に構えた。きらり、と日差しを反射する獲物の刃が、音も無く大気を撫でた。


 ……ありゃあ、お嬢ちゃん本気じゃな。


 本気の目になっているお嬢ちゃんを見て、手斧を構える。抑え込めるように低く重心を落としたドラコの尻尾が、緩やかな動きで左右に振られている……ドラコも、お嬢ちゃんが本気であることを察したようであった。



(さて、場所は外。私とドラコを掻い潜って逃げることが出来ない以上、どちらかを抑えてからの脱出しかないじゃろうが……峰打ちも、けっこう痛いのじゃぞ……)



 気功術を発動させた今のお嬢ちゃんの身体能力は、常人のそれではない。瞬発力だけを見ればナタリアはおろか、私やドラコをも上回ることもある。


 加えて、今回はあやつが絡んでいるせいで、お嬢ちゃんの精神状態は研ぎ澄まされた刃に等しい。己すらも、傷つけかねない程に危うい。


 なので、気持ち半分で相手が出来る常態ではないし、そんなことをすれば瞬時に抜き去られてしまうだろう。



(……とはいえ、なあ)



 サララの後ろ。ぼんやりとした様子で虚空を眺めているナタリアを見て、私は内心ため息を吐く。どうやら、こんなタイミングで、昨日と同じく心がうろついているようだ。



(心ここにあらず……気が抜けているというには少し違うようじゃが、気力が感じられないのは同じじゃな)



 やはり、そうだ。あの日から、ナタリアはどうも様子が違う。調子に、落ち着きが……というより、不自然な落ち着きが見られる。


 今みたいな状態になると、もう駄目だ。


 ぼんやりと意識が定まっておらず、声を掛けなければ1日中そのままだ。連れて来たはいいが、これでは戦力になりはしないだろう。


 現に、お嬢ちゃんは全くナタリアに気を払ってはいない。つまり、相手にする必要性が無いと判断されているということ。


 何時もの彼女ならまだしも、今の彼女は……はっきり言って、そこらの子供と何ら変わりない。ただ、そこに居るだけに等しかった。


 せめて、怪我だけはするんじゃないぞ……そうナタリアに意識を向けた瞬間、しまった、と私は手斧を構え――。



「いまっ――!」



 瞬きのような刹那の一瞬を突いた、お嬢ちゃんの瞬動。眼前まで差し迫ったお嬢ちゃんを視認した私は、己の迂闊さに舌打ちし――ガツン、と武器と武器がぶつかり合った。


 凄まじい衝撃に、手斧の一部が砕け散る。それを理解するよりも前に新たな手斧を精製したが、捻る槍さばきが、出来立てほやほやの得物を遠くへ弾き飛ばした。


 反撃の蹴りを放つ。だが、それを予測していたお嬢ちゃんは、瞬時に槍を持ちかえ、肘鉄を私の腹部に打ち込む。「――っ!?」想定外の反応に、私はなすすべも無く体勢を崩した。



「――ふん!」

「――っく!」



 けれども、惜しい。


 私一人であったならば、そのまま抜き去ることが出来ていただろうが、今ここにはドラコも居る。


 私を無力化させるのに力を注いでいたお嬢ちゃんは、ドラコの後ろ蹴りを受けて、たたらを踏みながら後退し……再び、構えた。


 そして、私も立ちあがる。視線をお嬢ちゃんの後ろに向ければ、相も変わらずぼんやりとした様子のナタリアが目に留まる。


 これでもまだ反応を見せない辺り……本当にナタリアの援護を期待しない方がよさそうだ。というか、下手に来ても困る。



(あやつのことも気になるが、ここまで無気力なのも気にかかる……しばし、要注意じゃな)



 そう、今後の予定を結論付けると同時に、隙と判断したお嬢ちゃんが飛び出して来た。しかし、2度も同じ手を食うつもりはない私は、苛立ち気なお嬢ちゃんの槍を、薙ぎ払った。


 そこから始まったのは、まさに陣取り合戦だ。抜き去ろうとするお嬢ちゃんを私が押し留め、それをお嬢ちゃんは振り払う。ドラコが押さえ込もうとすれば、それ以上の俊敏さで躱して迎撃する。


 めきめきと力を付けてきているとはいえ、まだ私には届かない。先ほど不意を突いた際の瞬発力には目を見張るものがあったが……それだけだ。



 ……まあ、それでもその腕は既に一流だ。



 気功術一つをとっても、名を馳せることが出来るだけの腕前に達している。足りないのは、実践の経験値である……その未熟さが、一刀ごとに伝わってくる。



(まあ、本人はそんな気持ちなんぞ微塵もないようじゃがな……っと――)



 閃光が如く行われた攻防は、時間にして5分にも満たない一時であった。互いに相手を気遣っているからか、本来ならすぐにでも取り押さえられているところを、何とかお嬢ちゃんは持ち堪えていた。



「隙あり!」

「――っ!? しまっ――!」



 しかし、一進一退……というには、些かお嬢ちゃん贔屓な打ち合いを終えた直後。ほんの一瞬ばかり、お嬢ちゃんの気がわずかばかり逸れた瞬間、私とドラコはお嬢ちゃんへ圧し掛かっていた。


 濃密さにおいては、1時間にも達していただろう一時。


 その戦いを終えた私とドラコは、尻の下に敷いたお嬢ちゃんの身体を、グリグリと揺すってやった。途端、お嬢ちゃんは不機嫌そうに顔を歪めるが……振り払おうとはしなかった。



 ……猪突猛進な所があるお嬢ちゃんだが、馬鹿ではないし阿呆でもない。



 曲がりなりにも正面から押さえ付けられた以上、一時的にはこちらの要求を呑んだ……ということなのだろう。それがどれだけ続くかは分からぬが、そういうまっすぐな性根は、好きな部類であった。



(それにしても……)



 今の打ち合いで、改めて分かったことが一つ。



(日が昇るたびに、目に見えて腕を増していくのう……才能の塊というのは、こういうやつを差すのかもしれんのじゃ)



 感心にも似た疑問が脳裏を過ったが、私は特に気にはしなかった。お嬢ちゃんぐらいの年頃が予期せぬ成長を見せることはよくあることだからだ。



(そういえば、この前の手合せの時は中々良い突きを放ったのう……受けた手からしばらく痺れが取れなかった覚えが……)



 出会った当時のお嬢ちゃんの実力は、言ってしまえば中の下ぐらいであった。気功術によるブーストがあるとはいえ、まだまだ雑魚にヒレが付いた程度のもの。正直、探せば見つかる程度のものでしかなかった。


 だが、ナタリアとの死闘、神獣との戦い、『地下街』での激戦を潜り抜けてきたおかげで、飛躍的にその才能を伸ばしてきている。


 今のお嬢ちゃんの実力は……はっきりいって、一流の中でも上位に位置しているのは確かだ……そう、私は思っていた。



「……イシュタリア」

「――む、何じゃ、まだ抵抗するつもりかのう?」



 尻の下から響いた声にふと我に帰った私は、ぐりぐりと尻を動かしてやる。しかし「負けた以上、ここは引く」と力を抜いたお嬢ちゃんを見て、私はようやく腰をあげた。遅れてドラコが腰をあげると、お嬢ちゃんはため息を吐きながら、ゆっくりと身体を起こした。



「なんで止めるの。マリーが、心配じゃないの? 居なくなって、もう3日なんだよ」

「心配に決まっているのじゃ」

「それじゃあ、すぐにでも――」

「じゃが、まともに装備を整えず、槍一本でダンジョンに潜ろうとする馬鹿者を前にして、頭を冷やせと思った私は何ら間違っておらんと思うのじゃが?」



 ……言葉に出されて、ようやく己のしようとしていることを理解出来たのだろう。しばしの沈黙の後、お嬢ちゃんはそっと私から視線を逸らした。



「ちょっと、探しに行くだけだったのに……」

「そのちょっとが危険じゃと、あやつはお嬢ちゃんに教えなかったのかのう?」

「……言われてた」



 あやつの名前を出されて、お嬢ちゃんもようやく矛を収めてくれる気になったようだ。「……準備してくる」溜息と共に、お嬢ちゃんはトボトボと自室へと向か……おうとした直後、クルリと振り返った。


 その視線は、ナタリアへと向けられていた。


 当のナタリアは、相も変わらず呆けていたようで、お嬢ちゃんに見られていることにすら気づいていない。これでは、今しがたの戦いすら頭に入っているのかどうか……。


 だが、それが一目で分かっているはずなのに、お嬢ちゃんはナタリアから視線を逸らさなかった。


 いや……むしろ、逆だ。呆けているナタリアを見て、首を傾げながらも、普段よりも幾らか鋭い眼差しを見せていた。



「……どうしたのじゃ?」



 気になって、尋ねてみる。すると、お嬢ちゃんは言葉を選ぶようにして、しばしの間唇を擦り合わせる。そして、「気のせいだったかもしれないけど」珍しく予防線を張った。



「先ほど、一瞬だけ私の気が逸れたのは分かっているよね?」



 当然、分かっているので私は素直に頷く。



「私の気が逸れた理由は、分かってる?」



 ……何を言おうとしているのかさっぱり分からない私は、首を横に振った。


 それを見た途端、お嬢ちゃんはもう一度ナタリアを見やると……そっと、声を潜ませた。



「理由はね、あの瞬間……あの一瞬だけ、ナタリアのことを……何故か私は敵と判断してしまった」

「――っ!?」

「本当に一瞬のことだったから、確信は無いけどね」



 思わず聞き返した私に、お嬢ちゃんは首を傾げながら眉根をしかめる。



「まるで、飢えた獣のような……」



 そう呟いた後、「……いえ、ごめんなさい。気のせいだと思うから」ナタリアを見て……疲れたようにため息を吐いた。



 ――それじゃあ、用意をしてくるから。



 そう言って、今度こそ装備を整えに駆けだしたお嬢ちゃんを見送りながら、私は……人知れず握りしめていた拳から、そっと力を抜く。


 そして、もう一度だけ……振り返る。


 そこに居るのは、今にも眠ってしまいそうなくらいに気を抜けた、いつもよりもだらけたナタリアが居るだけであった。










 ――フッと、意識が浮上する。



 目を開けたイシュタリアが最初に認識したのは、はるか高き場所に見える弱弱しい照明の光と、その光を遮る幾つもの黒い影であった。



 ……ここは?



 身体を起こして立ち上がろうとする……が、くらりと体勢を崩したイシュタリアは、そのまま尻餅をついた。


 ギョッと驚いたイシュタリアは一瞬ばかり焦りを覚える。


 だが、己がここに来た経緯を思い出すと同時に、辛うじてそれを表に出すようなことはしなかった。



(転移魔術による、転移酔いか。転移魔法術など、幾十年……いや、幾百年ぶりかのう)



 マリーたちを追う過程で発見した、一部分の記述が破損した魔術陣を強行使用したせいだろう。


 誰の邪魔も入らないようにと急ぎで作業を行い、かつ不慣れな転移魔術ということが重なったのも一因なのかもしれない。


 まるで全身の体液を吸い取られたかのような、奇妙な気持ち悪さだ。


 例えるなら、とびっきり重い二日酔いだろうか。吐き気すら覚える倦怠感に舌打ちしながらも、大きく息を吸って、吐いた。


 古典的な方法だが、これがイシュタリアにとっては最も効果的な治療方法である。


 麻痺して動かなくなっていた思考の一部が動き出せば、おのずと周囲から伝わって来る情報の量も増えてくる。



(……周囲の視界は不良。手元すら薄暗くて確認出来ない……か。あやつらがここに来てくれていることを願うのじゃ)



 辺りの暗がりを警戒しながら、思う。敵意や気配は感じ取れないので、おそらくこの場に居るのは自分だけ。「誰か、おるか?」危険を承知で声を出してみるが……やはり、何の反応も帰って来なかった。



(声が少しばかり反響したのう……天井の明かりを見るに、ここは幾らか密閉された空間かもしれぬのじゃ)



 とはいえ、それでも確認出来ることもある。


 ある程度動けるまで意識が回復したのを知覚したイシュタリアは、さっそく立ち上がって魔力を練り上げ……「光よ!」周囲を照らした。


 何時ぞやの魔法術士が使ったものよりも、数倍は強い光が放射状に広がる。その光は瞬く間に暗がりを呑み込んで、視界一帯を昼間へと変えた。



「――これは……」



 その光の中、イシュタリアは眼前に広がる異様な光景を見て息を呑んだ。奇しくも、イシュタリアが初見にて抱いた感想は、マリーが抱いたものとほとんど同じであった。


 四方の壁から伸びる、大小様々なパイプの束。絡まった糸くずのように張り巡らされたそれらの大半は、イシュタリアの腰よりも太い。


 少しばかり青みが掛かったように思えるそれらの内の一本……傍の壁から伸びる一本に手を伸ばし、そっと指先で触れてみる。


 鉄……とは少しばかり違う。かといって、陶器のような感触とも違う、言葉では説明しにくい触感の違い。


 その肌触りに妙なデジャヴュを覚えたイシュタリアは、何となく摩り続けた後……ハッと、目を見開いた。



(まさか、耐劣化合成樹脂……!?)



 それは、イシュタリアだけが覚えている言葉。古ぼけた記憶の、かつてはあらゆる製品に利用されていた、ありふれた材質の名前。


 度重なる戦争によって研究所や製造施設が尽く破壊されてしまったせいで製造方法が失われ、今では現物を拝むこと自体が不可能に等しいはず……なのに。


 まさかそんな……そう否定しながらも、改めて周囲を見回したイシュタリアは……折り重なるようにして張り巡らされた、パイプの向こう。隙間の向こうに見える『通路』に目を止めた。


 ……無言のままに周囲を見回し、パイプとパイプの隙間を通って『通路』の前に立つ。


 視線をその横に向ければ、『通路』を塞いでいたであろう重厚な『扉』が、寂しそうに立て掛けられていた。



(元からこうなっていた……いや、違うのう。断裂部分が真新しいところを見ると、誰かが無理やりこじ開けた可能性の方が高いのじゃ)



 『通路』と『扉』に確認出来る破損部分と、歪に歪んだ取手らしき部分に目を止めたイシュタリアは、無意識の内に……安堵のため息を吐いていた。



 ……実際のところ、全てが憶測ではある。



 だが、もし仮に誰かが開けたのだとすれば、こんな重厚な扉をこのようにしてこじ開けられる誰かなど……イシュタリアの知る限り、一人しかいなかった。



(やはり、お主もここに来ておるのじゃな!)



 心地よい憶測の風が、ここしばらく続いていたイシュタリアの憂鬱をふわりと撫でて行く。ずしりと圧し掛かっていた不可視の重圧が、少しばかり外されたように思えた。


 光球を前方へと飛ばし、その後に続く。


 露わになった螺旋階段ははるか頭上へと続いており、その途中にある……立て掛けられた『扉』を見て、ふむ、とイシュタリアは階段を上り始めた。


 こつ、こつ、こつ……静まり返った空間に、足音が響く。マリーたちと行動を共にするようになってから、一年近く。久方ぶりに感じる、血潮すら止まってしまいそうな静けさが、そこにはあった。


 設置された手すりや、階段に取り付けられた滑り止めの樹脂。そして、至る所に降り積もり、へばり付いた泥の痕を横目で見やった。



(自然に付着するには、些か異様な量と場所じゃな……しかも、湿り気を帯びておるときたか……)



 軽く触れるだけで、ぽろぽろと崩れ落ちてしまうだけの淡い泥の束。そっと指先で捏ねくり回せば、土気色のそれはシャリシャリとした肌触りと共に地面に落ちて、分からなくなった。


 ……少しばかり好奇心が疼いたが、今はそんなことを考える時ではないだろう。


 裾で軽く土を拭い、小走りに目的の場所へとたどり着いたイシュタリアは、閉ざされた扉を見上げ――そこにある文字を見て、大きく目を見開いた。






『フロンティア・第7居住区非常口』






 そこに書かれていた文字は、かつて世界中で利用されていた文字。埋め込むようにして取り付けられたプレートに書かれた『英語』であり、『地下街』で見つけた懐かしき文字と同じ種類のものであった。


 その中でも、『フロンティア』と書かれた部分を、イシュタリアは震える指先でなぞる。そして、小粒の涙を目尻に浮かべると……些か乱暴に拭い取ると、振り返って辺りを見回した。


 この場所を離れる際の前後の記憶は曖昧で、ほとんど覚えていない。


 だが、イシュタリアの記憶が正しければ、己がこの場所を離れてから……確実に500年以上の月日が流れているはずである。



 ……いくら人類が最も発展した時代の技術力があったとはいえ、だ。



 何のメンテナンスもせず、電力を蓄えた状態を500年以上も維持など出来たのだろうか……いや、無理だ。


 それが出来ていたなら、戦争など起きはしなかっただろう。


 ……建物やパイプの劣化がほとんど見られない。


 それは、明らかに不自然だ。いくら自然的劣化の影響を抑える素材が使われているとはいえ、限度というものがある。


 ましてや、ここは外気に晒されている。そう、湿った土がこびり付く程度の外気に晒されているこの場所で、500年も耐えられるのだろうか。



 ……ここは、本当に己が知る『フロンティア』なのだろうか。



 そんな疑問が、フッと湧いては消える。もしかしたら、『フロンティア』とよく似た別の何か……そんな場所なのでは――いや。



 ――いえ、止めましょう。



 そこまで考えた辺りで、イシュタリアは静かに首を横に振った。



 ――今は、考えないでいよう。



 そう決めたイシュタリアは、一つ息を吐く。ありえない出来事など、マリーと共に行動してから嫌と言う程経験してきている。感傷に浸るよりも、行動することをイシュタリアは選んだ。



「『第7居住区非常口……となると、先ほど見たパイプだらけの部屋は、ライフラインを調整しているポンプ室となるのかしら?』」


 額に手を当てて、おぼろげどころか霞よりも手応えの無い記憶の奥の奥を探る。


 その唇から無意識の内に零れるのは、かつてイシュタリアが日常的に使用していた、あの言語であった。



「『記憶が確かなら、このまま上に上がり続ければ……屋上のヘリポートに出られた……だったかしら?』」



 今の今まで全く思い出せていなかった(思い出さなかっただけなのかもしれない)が、こうして実際の光景を見れば、多少なりとも思い出せることもある。


 いや、むしろ、思い出せる部分が明らかに増え始めている。その場所だと分かったおかげか、少しずつではあるが降り積もっていた記憶の埃が払われていくのを実感するぐらいであった。



「『……察するに、これは本来のものではなく非常用扉だわね。と、なれば、意図せず作動してしまった際の対処は確か……』」



 ペタペタと、非常用扉の周囲を探る。見た目的には継ぎ目のない壁が一面に広がっているだけだが……その指先が、ある地点でピタリと止まる。


 指先が捕らえたのは、注意しなければ分からない程度のザラつきであった。



 ――ここね。



 そう呟いたイシュタリアは、そのままザラつきのある部分をまさぐり……カチリ、と一部分を押し込んだ。


 途端、置いた手の隣の部分の一部が、カシュン、とスライドする。中にあったのは、何時ぞやの『地下街』でも拝見した、『開閉スイッチ』と似たような造形のソレであった。



「『非常灯が点いているなら、予備電源が作動しているはずだけど……』」



 一抹の不安を覚えながら、スイッチの上に掌を押し付ける。途端、スイッチの上から下までに赤い線が走ったかと思ったら……ギィィ、と耳障りな異音と共に、扉が開かれた。


 ――良かった、最低限動くだけの電源は生きているようね。


 そう安堵のため息を吐いたイシュタリアは、扉の向こうから零れ出た明かりの中へそっと身体を滑り込ませ……そして、二度目となるため息を吐いた。



「『……はは、まるでタイム・スリップした気分だわ』」



 眼前に広がる、白くて無機質な世界。記憶の中にある光景と合致する、目の前の光景。「『……昔のまんまだわ』」ガラスのように滑らかな床を、足音を立てて進む。


 ……己の心臓の鼓動が聞こえるぐらいに、静かであった。


 本当に、不気味に思えてくるほどに静かであった。まるで、おのぼりさんになったかのように、イシュタリアはどことなく気を落ち着かせられなかった。


 周囲全てに隈なく視線を向け、胸中を過ってしまう何かに、ぽかんと大口を開けながら先へと進む。すんすん、と鼻を澄ませば……不思議と、涙腺が疼いて仕方が無かった。



「『……ふ、ふふ、ふふふ……やあね、もう。泣くにはみっともない年月を生きたっていうのに……』」



 けれども、声が震えてしまうのは仕方がなかった。


 涙が込み上げて来るのも、仕方がなかった。



「『た……たかが、生まれ故郷に似た場所に来ただけなのにね……!』」



 今はもう無いはずの『フロンティア』。そこを思い出させるこの場所は……あまりに、イシュタリアには毒が過ぎた。



 ……今の今まで忘れ去っていた思い出が、次々と脳裏に浮かんでくる。



 思い出は決して良いことばかりではないのに、何故だろう。イシュタリアは、何度も鼻を啜り、目尻を擦った。


 けれども、その程度で溢れ出しそうになる涙を抑えることは出来ない。


 瞬く間に頬を伝った涙が、足跡を残すかのように地面に水滴を落としていく。懐かしさが、溢れ出て行く。


 いったい、何がそこまで己を悲しませ、寂しく思わせるのだろう?


 それを不思議に思いながら、イシュタリアはただただ涙を堪えようと唇をふるわせ続けた。



「『……ここは?』」



 とぼとぼ……と、覚束ない足取りが立ち止まったのは、扉が壊されて、放置されている……とある一室。


 誰が、この部屋に入ったのかは……考えるまでもないだろう。


 特に思う所もなく、そのままそこへ足を踏み入れたイシュタリアは、ほとんど無意識の内に伸ばした手で、照明のスイッチをONにした。



「『――ぁぁ』」



 直後、イシュタリアは針で突き刺されたかのような痛みに、胸に手を当てた。


 泣き出してしまいそうな疼きに促されるがまま、イシュタリアは本棚の一番下の段に入っていた……『アルバム』と書かれた本を取り出すと、それを開いた。



 ――その瞬間、イシュタリアは膝から崩れ落ちた。



 膝の痛みなど、痛みとして感じる余裕は無かった。痛みなどどうでもよくなるモノが、四肢の痛みなんぞそこにあったから。


 『アルバム』に収められていたのは、十数枚の写真。その誰もが震え出す程に懐かしく、それでいて愛おしい彼ら彼女らであり……その中の一枚に目を止めた時、もう、イシュタリアは耐え切れなくなった。



「『ぁぁ――ぁぁぁ――っ!!』」



 イシュタリアは声にならない声で二言三言呟いて……ついに、大粒の涙を拭う事すら出来なくなった。


 ぽつ、ぽつ、と零れ落ちた涙が『アルバム』に落ちるが、イシュタリアは両手で鳴き声を抑えるだけで精いっぱいであった。


 思い出が、笑顔が、蘇る。何時しかイシュタリアは、幾白年ぶりに思い出す彼ら彼女らの名前を、思い出すがままに呟いていた。



「『ぁぁ――、――、――、――……』」



 けれども、その言葉は誰にも届かない。


 どれだけ名前を呼ぼうとも、返事が返されることはない。



「『――みんな、私、帰って来たの!』」



 静まり返った世界に、イシュタリアの泣き声だけが空しく響く。



「『ようやく、この場所に帰ることが出来たの!』」



 その鳴き声の中心地。抱えたアルバムを強く抱きしめたイシュタリアは……ただただ、蹲って泣き続けた。



「『私、帰って来られたの……パパ! ママ! 私、帰って来られたの!』」



 魂の涙が、いくつも零れ落ちて。



「『パパ! ママ! 私……私……帰って来られたのよ……!』」



 絞り出した魂の叫びが、うぁんうぁんと、反響した。


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