第二話: 怖気づくのは、今を失いたくないからこそ

 



 ナタリアに覚えた違和感と、その時に浮かべていた笑み。そして、その時を境に現れ始めたという、ナタリアの『心地よい気分』という、前触れの無い変化。



 ――もしや、何かしらの病気……あるいは、それに近い何かを発症してしまったのかもしれない。



 そう思った私の判断は、まあ、ある種の親ばかに近い感情だったのかもしれない。今にして考えれば、そうだろうなあ、と思うようなことを、この時の私は考えていた。


 ただし、だからといって、私はすぐに行動はしなかった。普通ならここで病院にでも連れて行けばいいだけの話なのだが……まあ、これも当然の話だが、出来なかった。


 それは単純にお金の問題ではなく……モンスターであるナタリアを、下手に病院へ連れて行っても大丈夫なのか……という話であった。


 ナタリアの身体は一部を除いて、人間とそう変わりはない。指の数や目玉の数、体毛や顔の形、身体の凹凸なんかは、それこそ人間の少女と同じである。


 しかし、人間に近いとはいえ、ナタリアはモンスターだ。どれだけ身体が人間と同じであろうとも、その身体はモンスターである。


 完全なる両性なのも、そうだ。万が一、人外であることが露見してしまう可能性を考慮すると、はいそれじゃあ、というわけにはいかなかった。


 加えて、ナタリア自身は何ら苦痛を覚えているわけでもない。少なくとも、表面上は健康体だ。


 いや、それどころか調子はすこぶる良いらしい。食欲はもちろんのこと、体力も有り余っているようで、最近では元気すぎて上手く寝付けなくて退屈だと答えたくらいであった。



(特に痛みを訴えているわけでもないし、しばし様子を見るに留めておこうかのう)



 少なくとも、発熱や嘔吐といった代表的な諸症状も見られない以上は、それしかないだろう……結局、私はそのような結論を出した。


 そうして、その日の夜。とりあえずは、と大五郎から頼まれていた量の材木を確保した私たちは、この日はこれでお終いにした。



「それじゃあ、私はこれで――」

「別行動を取れと言っておったじゃろうが……しつこい女は美人であっても嫌われるのじゃ」



 ダンジョンに向かおうとしたお嬢ちゃんを押さえ付けながら、私たちはつかの間の休憩に勤しむことにした。






 ……だが、結局、日が落ちてもあやつは帰って来なかった。






 何かがあったのだと騒ぐお嬢ちゃんを力づくで静かにさせるのは、実にくたびれる作業であった。



(今日は、やけに時間が掛かっておるようじゃな……何か面倒事にでも巻き込まれてなければよいのじゃが……)



 ……まあ、私自身、心配しないわけでもないのじゃが……帰ってきたら、うんと甘えてやろう。



 ……しかし、だ。


 ただ待っていても仕方がないと判断した私は、気乗りしないマリアたちを説得して、さっさと清めと夕食を済まさせた。


 夜更かしは美容の大敵である。


 次いで、起きて待つと言うマリアたちを宥めて説得し、明日に備えてさっさと休ませるのも、少し面倒な作業であった。


 まあ、気持ちは分からんでもないのじゃがな。


 そして、照明が落とされてしばらくの時間が流れ、マリアたちの寝息が聞こえるようになった頃。


 素肌に張り付くシーツの感触と昼間の件が重なって、もんもんと思考を巡らせていた私は、月明かりが差しこむ中、のそりとベッドから降りたお嬢ちゃんの気配に目を開けた。


 気づかれないように視線をやれば、餓鬼が如く力の無い足取りであやつの使っていたベッドに潜り込んでいく、お嬢ちゃんの影が目に留まった。



(……臭いが出るから、そういうのは便所で済ませるのがマナーなのじゃがなあ)



 そういう気分ではない時に聞く同性の喘ぎ声ほど、耳障りなものはない。


 そう思った私は傍のランプに小さく明かりを灯す。そして、一言注意をしておこうと小山になったシーツを捲り――。



「マリーが居ない、マリーが居ない、マリーが居ない、どこに居るの、どこへ行ったの、嫌だ、置いて行かないで、私を傍に置いて、居ない、あなたがいない、どこへ行ったの、どこへ、どこへ、どこへ……」



 あやつの匂いが残る、シーツの中。胡乱げな眼差しで枕に顔を埋め、延々とあやつの名を呼び続けるお嬢ちゃんを見て――。



「……うわぁ」



 年甲斐も無く、引いた。


 お前まだ一日も経っておらんだろうとか、帰宅が遅れているだけだろとか、色々考えていた言葉が一瞬で吹き飛んだ。それぐらい、丸まったお嬢ちゃんの姿は、酷かった。


 ……出来ることなら、見なかったことにしたい。


 そう思ってシーツを下ろそうとはしたのだが、遅かった。気配に気づいたお嬢ちゃんと目が合った私は、内心ため息を吐きながら……素知らぬ顔で笑みを浮かべてやった。



「夜更かしはするなと、あやつから言われておったはずじゃが?」



 周囲に声が漏れないように気を付けながら、軽く注意をする。


 あやつ、の部分に反応したのか、涙で潤んだお嬢ちゃんの瞳が、ぎょろりと私を見つめた。



「――どうして、どうしてマリーは帰ってこないの?」

「帰ってこないも何も、まだ半日ではないか。あやつも男なのじゃし、独りで酔い潰れたい時もあるじゃろうて」

「……酔い潰れたいなら、幾らでもお酒を買ってくるのに。いくらでも介抱してあげたいのに……どうして、私の傍に居てくれないの?」


 ――いや、それが嫌なんじゃなかろうかのう。



 辛うじて、その言葉だけは飲み込んだ。


 愚直なまでに一途であるのは私にとっては好ましいが、それが必ずしも良い方向に転がるとは限らない。それを、お嬢ちゃんはまだ……上手く理解出来ていない。



「……ま、まあ、酔い潰れて帰ってきたら、介抱してやるのじゃな」



 とはいえ、この娘は馬鹿ではない。その辺の機微は追々教えるとして……とりあえずは適当に言葉を濁した私は、苦笑と共にシーツを下ろした……っと。



(ナタリアが、おらぬのじゃ)



 ふと、目に留まる。もぬけの殻となったベッドを見て、目を瞬かせる。シーツに手を置いてみれば、すっかり冷たくなっているのが分かる。



 ……寝床を離れて、それなりの時間が流れているようだ。



 何時の間に、姿を消したのだろうか。何時もなら放っておくところだが、今はどうにも……あまり一人で行動させたくはない。



 ――厄介事が起きる前に、連れ戻すべきじゃな。



 そう判断した私は早速干しておいたドレスに袖を……通した直後、ひょっこりと部屋に戻ってきたナタリアを見て、手を止めた。何をしていたのか、髪はボサボサで、額には汗が噴き出していた。



「おい、ナタリア――」


 門限だけはしっかり守れ。



 そう叱ろうとした私は、ナタリアの身体から漂う臭い……何とも言えない異臭に、思わず声が詰まった。



「ごめん、今は眠らせて」



 取りつく暇も無い、とはこのことだろう。


 困惑する私を他所に、ナタリアは心底疲れ切った顔で私の横を通り過ぎて、自分のベッドに潜り込み……すぐさま寝息を立て始めた。



 ……何を、していたのだろうか?



 ナタリアに気づかれないように気を付けながら、そっとシーツの端を捲る。よほど疲れているのか、ナタリアはまったく気づいた様子はなかった。



(……酒の臭いと……甘い臭い? 服は……そう汚れてはいないようじゃが……)



 中から飛び出したすえた臭いに、私は目を瞬かせる。気になってもう少し捲ってみれば、所々シミが付いたナタリアの衣服が目に留まる。


 顔を近づけて臭いを確認する……だが、アルコールの臭いが強すぎて、全く分からなかった。


 買い食いでもしてきたのだろうか。だが、それにしては漂う雰囲気があまりに異常だし、甘味好きのナタリアは酒をそこまで好んでいない。


 そもそも、ナタリアが贔屓にしている店には酒など置いていないし、今は営業時間外のはず……なぜ酒の臭いを漂わせているのだろうか。



「――凄い臭いだな」

「むむ、起こしてしまったかのう?」



 部屋の端。何時ものように床に寝転んでいたドラコが、のそりと身体を起こした。


 騒がしくしてしまったことを詫びると、「いや、起きたのはそれが理由ではない」ドラコは軽く首を横に振った。



「血の臭いだ」

「なに?」



 思わず、私は目を見開いた。



「ナタリアの身体から、血の臭いがする。酒と……菓子の臭いで誤魔化しているが、これは間違いなく血の臭いだ」



 そう断言したドラコの言葉に……しばしの間、私は何も答えられなかった。









 『まもなく、『東京』六丁目前。巡航馬車終着、『東京』六丁目前に到着です』



 ――脳裏に反響する御者の声に、フッと意識が浮上した瞬間、イシュタリアは強い既視感を覚える。



 磁石に振り撒いた砂鉄のようにこびり付く眠気を、頭を振って振り払う。


 そして、大きく欠伸を零すと、すっかり人気の無くなった馬車を降りて……『東京』の地面を踏みしめた。



「……久しぶりじゃな、こういう気分になるのは……」



 煙草を吸いたくなったのは何時振りだろうか。


 ズシリと肩に圧し掛かる精神的な苦しさに、イシュタリアはそれ以上に重いため息を吐く。傍を通り過ぎた皺だらけの爺が訝しんだ様子で振り返ったのが分かったが、イシュタリアは何も反応はしなかった。


 燃え上がる夕日、抉り込む様に降り注ぐ西日が、長い影を作っている。帰路に着く者たちとは逆方向へと足を動かしながら、ふと、イシュタリアは足を止めた。


 視線の先にあったのは、探せば見つかりそうな程度の、どこにでもありそうな煙草屋が一つ。大きいわけでもなく、小さいわけでもない店の中には、客らしき数人の影が見え隠れしていた。


 もくもく、と。店の外に漏れ出ている臭いに、鼻を鳴らす。地方では一つ二つしか取り扱っていないが、『東京』では両手で数えるぐらいは扱っている店が多い。もちろん、店によりけりの話だが。



 ……傍に寄って、視線を落とす。



 店番らしき男の視線を無視しながら、箇条書きされた商品の品書きに目を通す。驚いたことに、扱っている品は両手両足の指よりも多かった。


 ……ここ十数年程……煙草から遠ざかっていたのでアレだが、何気に隠れた名店なのだろうか。


 各銘柄の形と味を脳裏に思い浮かべながら、順々に読み上げていたイシュタリアの視線が……ある一点で止まった。



(おおう……これを置いておるのか)



 品書きの一番左に書かれた、高級に分類される煙草。値段は相応だが生育の難しい葉っぱを使用しているとかで、中々入荷されない代物のはずだ。


 もしや宣伝代わりに名前だけかとも思ったが、品書きの傍に置かれた、『残り3本』と書かれた立札を見て……イシュタリアは、顔を上げた。



「店主、この煙草をくれ」



 イシュタリアを見下ろしていた店主は、ジロリとイシュタリアの全身に目をやった。



「いちおう聞いておくが、吸うのは父ちゃんかい?」

「いや、私が吸うのじゃ」

「……帰んな、お嬢ちゃん。子供に吸わせてやるには惜しい煙草だ」



 店主……目じりに深い皺が寄った老人は、頬杖を突きながらイシュタリアへ手を振った。もちろん、その手は手招きではなく、犬や猫を追い払うようなぞんざいな振り方であった。


 客相手に、なんとまあ不遜な態度。普通なら激昂されてもおかしくない対応だが、イシュタリアは苦笑するだけで怒りは見せなかった。


 少女にしか見えない顔立ちと背丈。肌艶も大人というにはあまりに滑らかで、その手足も子供としか思えないぐらいに細くて小さい。


 おまけに、恰好がゴスロリちっくな少女然。大人として見ろと言うことこそ無理がある。それを、誰よりもイシュタリア自身が自覚していることであった。


 だから、そういう扱いをされるのは慣れていた。むしろ、客とはいえ子供には売らないという、ある種の頑固な優しさが、イシュタリアは嬉しく思えた方であった。



「そう固い事を言うな、店主。私はこう見えて、酒も煙草も十二分に知っておる。火遊びしたい年頃はとおの昔に通り過ぎたのじゃ」

「そうかい、それはよかった。ただ、年寄り臭い話し方したところで、俺の目にはごっこ遊びにしか見えんよ……ほら、これやるから暗くなる前に帰んな」



 そういって、店主が差し出したのは飴玉であった。紙に包まれたソレは、『東京』の菓子屋では大抵売られている、ポピュラーな物。


 どうやら、イシュタリアの言い分を端から信用していないようである。「こりゃあ頑固な店主じゃのう」仏頂面を崩さない店主を前に、さてどうしたものかとイシュタリアは苦笑を深める。


 このまま別の店を探すべきか、あるいは諦めるべきか。


 選ぶのは二つに一つだが、あの煙草は高級店だから置いているという類の銘柄ではないから、他を探しても見つかる保証は……と。



「――おお、もしかして、イシュ姉ちゃんかい」



 その声。声色からでも分かるぐらいに年老いた男の声が二人の合間に入って来たのは、イシュタリアが考え込んだ後……もう諦めようかなと思い始めた直後であった。



「ああ、やっぱりイシュ姉ちゃんだ。懐かしいなあ、随分と久しぶりだ。おい皆、イシュ姉ちゃんだ」

「え、本当か……おお、本当だ。あの頃のままのイシュ姉ちゃんだ。夢じゃあねえだろうな?」



 店主とイシュタリアが視線をそちらにやれば、そこには肩口が出た白シャツを着た老人と、その連れだと思われるのが数人。彼らも白シャツの老人と同じように、懐かしげに笑みを浮かべていた。


 全員が、齢60ぐらいに達しているぐらいだろうか。


 裕福な出で立ちではないが、人並み程度には持っていそうな身なりだ。そんな彼らの視線を一身に浴びたイシュタリアは……困惑に首を傾げた。


 全員が全員、見覚えの無い顔ぶればかりであったからだ。


 懇意にしている商人たちでもなければ、金持ちの友人たちでもないし、その関係者でもないだろう。


 気安く己の名を呼ぶが、いったい、こいつらは誰なのだろうか?


 そう思っているのが、イシュタリアの顔に現れていたのだろう。「まあ、もう50年も前になるからなあ」訝しげに首を傾げるイシュタリアを見て、老人たちは苦笑すると、白シャツの老人がグイッとイシュタリアに顔を近づけた。



「イシュ姉ちゃん、おいらだよ。コブト村の、トキワ岩の次男坊……」



 そう言いながら、老人は額をイシュタリアへ……薄らと浮かんで見える傷痕を、イシュタリアへ見える様に見せた。



「コブト村? トキワ岩?」



 はて、コブト村、トキワ岩……聞き覚えがあるような、無いような……あっ!?



 瞬間、イシュタリアは脳裏に浮かびあがった情景に、大きく目を見開く。そして、老人の額に浮かぶ痕を改めて見て、「ああっ!?」顎が外れんばかりに大口を開けると、白シャツの老人を指差した。



「じ、じろ坊!? トキワ岩の傍の家の、じろ坊か!?」



 じろ坊、と呼ばれた白シャツの老人は、満面の笑みを浮かべた。



「おお、思い出してくれたかイシュ姉ちゃん」

「思い出すも何も、お前らは土砂崩れに巻き込まれて……って、待て。お主がじろ坊じゃとすると、その後ろにいるのは――」



 改めて、イシュタリアはじろ坊の後ろに居る老人たちを見やる。全員が全員、少しばかり気恥ずかしそうな素振りを見せるが、顔を背ける素振りは無い。


 それどころか、もっと見ろと言わんばかりに身を乗り出す者もいる。「イシュ姉、俺っちは分かるか?」年甲斐もないお調子なその姿に、イシュタリアは……そっと、片手で己が目元を隠した。



「ドマクじゃろ?」

「おお、分かったか」

「からかうでない」



 そう言うと、イシュタリアは次々に老人たちの名前を呼んでゆく。


 名前を呼ばれるたびに歓声をあげる彼らの声に、イシュタリアは俯く。


 名前を呼ぶたびに、懐かしさが胸中から溢れ出してしまいそうで、堪らなかったからだ。



「お、おい……じろ、ドマク、お前らこいつと知り合いなのか?」



 その横で、独り取り残された店主が、困惑に首を傾げる。それも当然だろう……馴染みの顔ぶれが、子供としか思えない少女に気安く声を掛けているのだから。


 けれども、この場ではこの店主こそが異端であり、思い出せていないだけでもあった。


 それを見て、老人の一人は、つるりと滑らかな額に浮かぶ薄い痣を摩りながら、「テンちゃん、忘れちゃったのかい?」店主へ笑みを浮かべた。



「この人は、イシュタリア姉ちゃんだよ。ほら、よく悪戯して物置に押し込まれた時、こっそりパンを持ってきてくれただろ?」

「えっ、イシュタリアって…………あっ」



 しばし困惑するばかりであった店主は、ようやく思い出したのだろう。グワッと大きく見開いた瞳でイシュタリアを見つめると……顔中に玉の汗を浮かべて、頭を下げた。



「すすすっすっすすす、すまねえ、イシュ姉ちゃん! まっさかこんなところでイシュ姉ちゃんに会えるたあ夢にも思ってなかったんだ!」



 その、あまりに急な変わりように、イシュタリアはしばし目を瞬かせた後……堪えきれないと言わんばかりに笑みを零した。



「くくく、いやいや、気にするでない。私も言われるまで忘れておったのじゃからな……ところで、先ほどの件じゃが……」

「もちろん、売るに決まっているだろ! あ、いや、金はいいよ、これは再会を祝っての奢りだ!」

「――あっはっはっはっは、そうか、そうか。それじゃあ、お言葉に甘えようかのう」



 じわりと滲む目じりの熱を指で拭いながら、受け取った煙草に火を点けて貰う。


 久しぶりに味わう紫煙の味に、「いやあ、いつ以来かのう」イシュタリアは大きく煙を吐くと……改めて老人たちを見やった。


 ……マリーたちには語っていないことだが、老いないイシュタリアは、そのことから化け物として怖れられ、迫害を受けることがこれまでに度々あった。


 なので、危険を察知する度にイシュタリアはその地を逃げ出し、ほとぼりが冷めた頃にひっそり戻る……ということを、一時期は繰り返していた。


 今でこそ『東京』に住んではいるが、ほとんど根無し草の風来坊のような生活をしていた時期がある。


 というか、その『東京』ですら、マリーたちの下へ来る前は住居を点々としていた。その通り名こそ知られているが、その正体が知られていなかった理由の一つだ。



 ……無理もない。それに、彼ら彼女らは悪くない……それが、イシュタリアの正直な気持ちである。



 いくら見た目が美少女だとはいえ、だ。何十年経とうが見た目が変わらず老いないというのは、それだけでもいらぬ警戒心を与えてしまうものだ。


 そのような事情から住まいを転々としていたイシュタリアが、長く腰を落ち着かせていた村の一つが、コブト村である。記憶が確かであれば、住んでいたのはおそらく十五年ばかりだろうか。


 長く腰が落ち着いた理由は何と言っても、イシュタリアの事情に踏み込まず、大らかであった……だろう。


 何せ、見た目が変わらず若々しいままのイシュタリアを忌避したりせず、『そういう特殊な体質の人なのだろう』とだけで納得し、受け入れてくれる事など、数えられる程度しかない。


 イシュタリアの見た目が成人した女性であるならば、10年ぐらいは若々しいという言い訳で誤魔化す事は出来るだろう。


 けれども、イシュタリアは誰がどう見ても『少女』と判断する見た目をしている。育ち盛りの子供は、背丈もそうだし、1年もあればガラリと見た目も変わる。


 幼児体型だとか何だとかで言い訳も、通じて2年だ。だいたいは、1年ぐらいで不審な目を向けられ始める。


 2年目になれば先天的な病気を疑う者も現れ始めるが、3年、4年、あまりに変わらなさ過ぎるせいで……徐々に、異質を見る眼差しへと変わり……ほぼ100%の割合で、5年がタイムリミットだ。


 そんな中、15年も同じ場所に腰を落ち着けるというのは非常に貴重なことである。本当に、当時のイシュタリアはその村を心から気に入っていた。


 更に、明言はしなくとも『何時までも歳を取らない』という実在を前にしても変わらず接してくれるとなれば……記憶に残って当然である。


 ……ただ、それでも12,3年も経てば外からちらほら血も入り始め、イシュタリアを異質な存在として見る者が現れたのは……仕方ないは無いだろう。



 ……。


 ……。


 …………日差しもきついし、外で話すのも何だ。



 そういうわけで場所を店内に移したイシュタリアたちは、店主の用意した酒とたばこ、そして燻製肉をつまみにしながら、昔話とあいなった。ちなみに、中に居た客は雰囲気を察して店を後にしてくれた。



「――お主ら、どうして生きておるのじゃ。コブト村は確か、土砂崩れで壊滅したはずじゃろ」



 イシュタリアの言う土砂崩れとは、コブト村を襲った大雨による災害のこと。


 当時、外からやってきた者たちの視線に畏怖の色が見え隠れし始めたのを察したイシュタリアは、新たな移住地へと移ろうと考えていた。



 コブト村が大雨に見舞われたのは、その時だ。



 運悪く、別の町へ……イシュタリアの顔を知る者が絶対に居ないであろうことを前提での下見に行っていた為に起こった悲劇である。


 大雨に見舞われ、とある農村の牛小屋にて身を潜めていたイシュタリアが、嫌な予感を覚えて急いで引き返した時にはもう……遅かった。


 雨こそ止んではいたが、村はもう村の体を成してはいなかった。実際に壊滅して残骸となった村を確認したからこその、当然の質問であった。


 それを聞かれることを予想していた、じろ坊たちは「助かったのは、半分だけさ」、あっさり答えてくれた。



「もしかすると。そう思って最低限の物だけ持ち出して逃げ出したおいらたちだけは、難を逃れることが出来たんだ」

「命辛々逃げ出した俺たちは、近くの村に逃げて東京へと渡り、そこで働いて、嫁さんも貰えて、子供も出来て……まあ、こういうふうになったわけだ」

「……そうか、お主らも苦労したようじゃな」



 逃げ出さずに留まった人たちは……言われずとも察したイシュタリアは、「生きて会えただけでも、良かったのじゃ」素直に思ったことを口にすると……天井へ、大きく紫煙を吹きつける。酒は飲みたい気分では無かったので、全くの素面であった



「それにしても、もう50年も前になるのじゃな……月日が経つのが本当に早いのじゃ」

「ああ、それはおいらたちも思うよ。今になって、イシュ姉ちゃんの言葉が身に沁みて分かるよ」

「私の?」

「大人になるのはあっという間だ。どれだけ長く思えても、過ぎ去れば昨日も十年前も一緒だ……ってね。この歳になって、その意味を痛い程実感しているよ」

「そんなこと、私が言ったのか?」



 首を傾げるイシュタリアに、老人たちは「なんでえ、忘れちまったのかい?」口々に思い出を語り出した。



「色んなことを、イシュ姉ちゃんは教えてくれたよ。魚の取り方に、文字の書き方読み方。薬草の煎じ方から何から何まで……本当、色々教えてくれて、ありがとうよ」

「そうそう。女の裸は見慣れておけ、女は男が思う程柔じゃないし、すぐ涙を流して誤魔化す女は相手にするな、女とは時に男よりもずっと残酷で利己的な生き物だって、事あるごとに口にしていたよな」

「こっちに来た後、本当にそれを実感したもんなあ。俺たちの半分は生き残った同郷の女と結婚して、その内半分は他に男作って行ったしな……」



 しみじみと愚痴を零すじろ坊たちに、イシュタリアは曖昧な笑みを浮かべる。内心、無理も無いなあ、と思わなくはなかった。



(まあ、じろ坊たちには悪いが、田舎者であったのは事実じゃからのう)



 生まれてから小さな村で暮らしていた女たちにとって、さぞ『東京』の男たちは洗練された佇まいに見えたのだろう。


 加えて、愚痴から察することが出来る範囲で想像する限りでは、当時はかなりの極貧だっただろうことは伺える。


 うだつの上がらない野暮ったい村の男たちと、小奇麗な衣服と教養を身に着けた『東京』の男たち。


 単純に比べれば、後者の方に惹かれるのは当然なのかもしれない……そう、イシュタリアも思わなくはなかった。



(……とはいえ、何人の娘たちが生き残れたのやら)



 と、同時に……そんな洗練された男たちのどれだけが、田舎娘に本気になって責任を取っただろうか。少なくとも、半分にも満たないだろうとイシュタリアは思う。


 ちゃんとした相手を捕まえているのならば大丈夫だろうが、そうでない相手であったなら……女たちが迎えたであろう結末を想像したイシュタリアは、さて、と気持ちを切り替えた。



(……それにしても、まさか生きて再会できる日が来ようとは思わなかったのじゃ)



 そうして、ふと、イシュタリアは今のじろ坊たちと……女の肌を知らなかった若かりし頃の彼らの姿とを、頭の中で比べる。


 次いで、自らの肌と彼らの肌を見比べて……静かに、目を細めた。



 ……50年。それは、イシュタリアにとっても長い時間ではある。



 だが、イシュタリアは変わらない。彼らの十倍以上を生きていても、イシュタリアは何時も……己以外の何かで時の流れを実感する。


 例えば、今だ。こうして改めて50年という歳月を目の前にして……イシュタリアは、燻っていた何かが固まって行くのを実感した。



(私よりも弱く、私よりも馬鹿で、私よりも短い命のこやつらが、生まれ故郷を離れ、苦労を重ねて今日まで生き延びた。その辛さ、到底一昼夜で語り尽くせるものではないのじゃ)



 半分辺りまで残っていた煙草を一息で吸い切ると、大きく紫煙を吐き出す。



(しかし、こやつらはやり遂げた。私の十分の一しか生きておらんこやつらが、困難を前にへこたれることなく、私とこうして再会まで……)



 ――それなのに、今の自分と来たらなんだ、イシュタリア。



 そう、イシュタリアは内心で己を罵倒した。


 未知が何だ、茨が何だ、片道切符が何だ。


 自分よりも背の低かった鼻たれ坊やが出来たことなのだぞ。


 永久少女として怖れられ、時を渡り歩く魔女とも呼ばれたというのに、なんと情けない有様だ。



(……まさか、こやつらから教えられる日が来ようとはのう……長生きしてみるものじゃな)



 一つ己に苦笑を浮かべると、イシュタリアはするりと椅子から降りた。「――イシュ姉ちゃん?」どうした、と視線を向けてくるじろ坊たちを前に……イシュタリアは、笑みを浮かべた。



「なに、ちょっと急用を思い出してのう。火急の用事じゃからな、語らいもそこそこに、先にお暇させていただくのじゃ」

「え、そんな急に……理由は分からんけど、明日じゃ駄目なのかい?」



 じろ坊たちの嘆きは、当然であった。しかし、それでも決意を固めたイシュタリアの足を、止められなかった。



「すまぬ。今更急いでも手遅れかもしれぬが、私は行かねばならぬのじゃ」



 そう言うと、イシュタリアは返事も聞かずに歩き出す。自然と前を空けてくれる彼らに内心頭を下げながら、その足は店の外へ――。



「イシュ姉ちゃん」



 ――行く直前、その足が止まった。振り返れば、じろ坊たちから……かつての面影を思わせる笑みを向けられた。



「頑張れ、イシュ姉ちゃん」

「……うむ、お前らも精進するのじゃぞ」



 応えたイシュタリアの笑みは……マリーが居なくなってから一度も見せていない、満面のソレであった。









 決断したイシュタリアの行動は、早かった。


 ポツポツと照明が灯り始める中、マリアたちが待つホテルへと直行したイシュタリアは、ラビアン・ローズの女たちとドラコを前に、これからしようとしていることを全て話した。



 ――ダンジョンで見つけた、発動された形跡のある魔術陣の存在。


 ――地道な聞き込みで判明した、一時的に『地下一階への入口が閉ざされていた』という話。


 ――そして、マリーのみならず、ユーヴァルダン学園の生徒までもが失踪した事実。



 それら全てを考慮したうえで導き出した答え……それは、『魔術陣の力によって、マリーたちは別の場所に転送されたのではないか』ということ。


 最初は驚きに言葉も無かったマリアたちであったが、イシュタリアの話を聞くにしたがって、徐々に真剣な眼差しへと変わっていく。


 そして、これまでの調査結果を全て話し終えたイシュタリアは、閉めにこう言った。



「これから私は、その魔術陣を使用してマリーたちの後を追うことにしたのじゃ」



 そう言葉にした瞬間。マリアたちの中からは、驚きの声も反対の声もあがらなかった。


 話を聞いている内に、彼女たちは薄々察していたのかも……いや、察していたのだろう。イシュタリアの決意が、固いということに。



「今すぐ、向かうの?」

「ああ、今すぐ向かう。全てが遅すぎるかも分からぬが、それでもこれ以上時間を掛けるわけにはいかぬのじゃ」



 だから、誰もが驚きこそすれ、イシュタリアを止めようとはしなかった。



「分かったけど、どうしてそれをサララには言わなかったの?」



 けれども、その疑問はマリアたち全員が共通したものではあった。


 イシュタリア以上に血眼になって探し回っているサララがこのことをしれば、怒り狂うどころの話では無い。


 それこそ、半殺しにしようとしてもおかしくはない行為である。



「先ほども言ったのじゃが、本当に見つかるかどうかは分からん。それに、魔術陣の発動には多大な魔力を必要とし、かつ、物質を転送させる魔法術は魔力の消費量が半端ではないからのう」



 転送された先で何が起こっているのかは分からない。自身が行動する為にも人数を極力省いて消耗を減らしたうえで……一人で向かった方が、何かと動きやすいという結論であった。


 加えて、魔術陣というものは、魔力を注いだ瞬間に、定められた魔法術が発動する、緻密かつ精密なもの。つまり、イシュタリアとて、そう易々と細工は出来ないのだ。


 発動中は下手に陣の外に出ることは叶わず、下手に出ようものなら境界線の影響を受けて、物理的に内と外で分断される恐れがあり……それを踏まえた上でのことでもあった。



「見つかれば、それで良い。ただ、これで万が一戻れず、かつ、あやつが見つからなかったら……多分、お嬢ちゃんの辛うじて保たれた心の均衡が崩れてしまうじゃろうな」



 そして、イシュタリアの言い分も最もであった。



「それに入れ違いになるならまだしも、別の理由で違う場所に居る場合もあり得ない話では無いのじゃ。わざわざ二人で同じ場所を探さんでも、ずっと効率が良いじゃろ」



 そう言われてしまえば、マリアたちもそれ以上は何も言えなかった。


 『危ないことなら止めてほしい』……それがマリアたちの本音だとしても、イシュタリアが決めたことだ。誰にも、彼女の決断を止める権利など、あるわけもない。


 ……自然と、女たち全員の視線が、壁にもたれ掛って静かに話を聞いているドラコへと向けられる。それは、イシュタリアも同じであった。


 目を瞑り、腕を組んだその姿からは全く内心をうかがい知ることが出来ない。ただ、全員の視線が集まっていることに気づいたドラコは、ゆっくりと壁から身体を起こすと……ジッと、イシュタリアを見つめた。



「私は、どうしたらいい?」

「お主は、これまで通り待機しておるのじゃ」



 同じく、イシュタリアもドラコを見つめた。



「そして、万が一お主の牙が、爪が、力が、必要になった時。存分に振るって、戦うのじゃ」

「……何が、襲ってくるというのだ?」

「言ったじゃろ、万が一の場合じゃよ。まあ、間違いなく使う機会など無いとは思うのじゃがな」



 そう言うと、イシュタリアはそっとドラコへと顔を近づける。察したドラコが耳を澄まして翼で周囲を遮り、イシュタリアはさらに顔を近づけて――極力声を潜めた。



 “ナタリアは、見つかったかのう?”

 “いや、依然として行方を眩ませたままだ”



 それは、マリアたちに隠した秘密。『私の知り合いの家に遊びに行っている』と言って誤魔化し続けている……二人だけの隠し事であった。



 “マリアたちの様子はどうじゃ ナタリアに関して、何か話しておったか?”

 “ナタリアに関しては、もしかしたら養子として貰われるのではないかという話があがっているだけだ”

 “そうか……そのように考えているのであれば、しばらくは安心じゃな”



 そう言うと、イシュタリアはため息と共に身体を離した。合わせて翼を仕舞うドラコを他所に、ビッグ・ポケットを首に掛けて、帽子を被る。それはマリーとお揃いの、尖がり帽子であった。



「……行く前に、一つ教えてくれ」



 さっさとダンジョンへと向かおうとしたイシュタリアの足が、止まる。ドラコへと、振り返った。



「その魔術陣とやらは……誰が、描いたんだ? そして、何故マリーを、大勢の人間を?」

「……さあな、それは私には検討もつかぬのじゃ」



 大きく、イシュタリアはため息を吐いた。



「ただ……私の想像をはるかに超えた何かが動いているような気がする……そうとしか、私には言えぬのう」

「……幸運を、祈っている」



 イシュタリアは、何も言わなかった。ただ、笑顔のままにドラコへ、マリアたちへ軽く手を振ると……颯爽とした様子で、ダンジョンへと向かって行った。




 そして、翌日も、そのまた翌日も、そのまたまた翌日も。



 イシュタリアが帰ってくることはなかった。



 また、その姿を見た者は……一人もいなかった。




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