イシュタリア編

第一話: その後ろ姿はいずこへ

※この話より、視点変更。時系列も、イシュタリアの目線で語られ、前後します。マリーが姿を消した後あたりから、です

 






 夢を見ていることを自覚すると同時に、その夢があの時の出来事であること。


 『私』は今、夢を、あの時の光景を見ていて、目の前に広がる光景がそうであると、意識だけとなった『私』はそれを自覚出来た。


 『東京』の郊外に広がっている森林の中。鬱蒼と茂る枝葉が日の光を遮るその場所は、昼だと言うのに薄暗さを覚える程度に明るい。


 その中を、お嬢ちゃん、ナタリア、ドラコ、そして私の4人が突き進んでいるのを、『私』は後方から見つめていた。



 実に不思議な気分であった。



 前を行く私が『私』であると分かるのに、『私』はこうして私の後ろを歩いている。それはまるで、映像を眺めるかのような感覚。


 なのに、『私』は私で、私は『私』だ。視点が二つに分かれているだけ、その奇妙な感覚に目を瞑れば、ここに私は1人しかいない。


 透明な存在となった『私』が、ガラス一枚を挟んだ向こう側の私と銅貨しながらも、『私』は冷静な頭で全体を観察しているのが分かった。


 くるくるる、何処からともなく聞こえてくる動物たちの声に、全員が耳を傾けているのが、後ろからよく分かる。『私』も耳を傾けながら、眼前の私が前を進むナタリアへ声を掛けるのを見つめた。



「おい、ナタリア」



 違和感……というには、あまりに些細な感覚。タンスから取り出したシャツの端っこに出来た皺のような、ともすれば次の瞬間には忘れてしまいそうな程度の違和感。


 それを知覚した『私』であったが、その時の私は、それが違和感であるということすら分からなかった。声を掛けた後に、何故声を掛けたのかと首を傾げてしまったぐらいであった……ことを、『私』は思い出す。



「なぁに?」



 だから、振り返ったナタリアと目が合った瞬間、私と『私』は二の句を告げることが出来なかった。



「……いや、何でもないのじゃ」

「……? そう」



 疑問符を飛ばしながら前方へと向き直るナタリアに、私は軽く頭を下げる……のに合わせて、『私』も頭を下げる。


 訝しげな視線を向けてくるお嬢ちゃんにも軽く頭を下げながら、私たちはナタリアと同じく前方へと向き直った。



 気のせい……なのだろうか。



 すっかり消えてしまった違和感に、私たちは首を傾げる。もはや、胸中には名残すら残っておらず、置き土産と言わんばかりに何とも言えない空気だけが残されていた。



「サララ、あとどれぐらいが必要なのだ?」



 その空気を変えるかの如く、ドラコがポツリと尋ねた。


 質問の主語は省かれていたが、要は今回の目的である『館再建の為に必要な材木』を、あとどれぐらい確保すればよいのかというものであった。


 今朝方、マリーと別行動を取る様にして出発してから、早数時間。


 大五郎の注文の木を探して、既に7本持ち帰った。しかし、それでもまだまだ足りないというのが正直な現状であった。


「大五郎さん曰く、今の十倍はいるってさ……はあ」



 槍で眼前の枝を切り払いながら、お嬢ちゃんは息を吐いた。


 それはもう深々と、大きな大きなため息を吐いた。「大きい溜息じゃな」と私から言われたお嬢ちゃんは、しばし唇を噛み締めた後……。



「マリーは、今どうしているのかなあ……」



 ポツリと、愚痴にも似た哀愁を漂わせた。


 それは、別行動を取ってから数えて17回目となる同じ言葉であり……いい加減、鬱陶しく思えてきていたところであった。



 ――またか。



 そう思ったのは、何も私たちだけではない。「いつまでも女々しいやつだな」はっきりとドラコからそう言われたお嬢ちゃんは、うっ、と息を呑んだ。



「おまけに、未練がましい」



 そうも続けられたせいか、私たちの視線から逃れる様に縮こまった。


 ……そうしてみれば、時折おっかない彼女も年相応の少女である。融通は利かないし、いちいち重いし、決して器用な性格をしていない……が。



「お嬢ちゃんは、本当にあやつのことが好きなのじゃな」

「うん、大好き」



 こういうふうに、褐色の頬をわずかに赤らめ、素直に想いを口にする姿は……まあ、贔屓を抜きにしても可愛らしい女の子だなと、私たちは素直に思った。



「……そんなに好きなのかのう?」



 軽く、嫉妬する。私も、『私』も。そうまで素直に、心の赴くがままに愛を謳える彼女が、少しばかり羨ましいと思ったから。



「うん、この世の誰よりも好き。マリーの為なら、今すぐにだって自分の首を落とせるぐらいに愛しているもの」

「……そ、そうか、それは幸せなことじゃな。それだけ愛して貰えれば、あやつもさぞ嬉しいじゃろうな」



 ただ、赤らんだ頬をそのままに真顔で答えるその姿は、けっこう怖いとも私たちは思った。というか、少しばかり引いたし、『私』に至っては少しばかり距離を取った。


 ……そりゃあ、そうだろう。


 貴方の為なら喜んで首を落としますなんて、生半可な覚悟と想いで口にできる言葉ではない。それも、サララは首を落とせば死ぬ、人間の女の子だ


 ……これでもう少し器用で融通できる性格なら、申し分ないのだが。


 実に惜しい……そう思っていると、ふと、私の視線がナタリアを捉える。何時もなら私以上に騒々しい彼女が、今日に限って朝からいやに静かだ。



 ……もしかして、具合でも悪いのだろうか。


 ――『結局、彼女は具合が悪かったのだろうか?』



 そう思った私が、その時の事を思い返していた『私』を他所に、ナタリアに改めて声を掛けようとした直前、何の前触れもなくナタリアの足が止まった。



「……ナタリア?」



 遅れて、私たちも立ち止まる。どうかしたのかと思って顔色を伺うが、俯いているせいで、ナタリアの表情をうかがい知ることは出来なかった。



「どうしたのじゃ?」



 一向に何の反応も見せないナタリアに焦れた私が、ナタリアの肩を掴む。途端、ナタリアの肩がびくん、と跳ねると、弾かれたように顔をあげた。


 そして……しばしの間目を瞬かせた後、静かに、私へと視線を向けた。


 焦点の定まっていない、何とも奇妙な眼差しだと私は……いや、当時の私が思っていたのを、『私』は思い出した。



「何か、具合でも悪くなったのかのう?」



 当然の質問に、ナタリアはおもむろに首を横に振った。「ううん、そういうわけじゃないの」しかし、その声には抑揚の欠片も感じられず……どうしてか、不安を覚えてしまうのを、私は抑えられなかった。



「それならば、どうして急に止まったのじゃ? 何か起こったのかと心配してしまったのじゃ」

「うん、ごめんなさい」

「……本当に、大丈夫じゃろうな?」



 無表情のままのナタリアに、私はもちろん、お嬢ちゃんやドラコも心配げな眼差しを向ける。もちろん、『私』もそこに含まれている。


 けれども、「一度引き返そうか?」と提案したお嬢ちゃんに、ナタリアは「そこまですることもないよ」笑みを浮かべた。



 ……その笑顔が、妙に作り物めいて見えたのは、はたして私だけだったのだろうか。当時の私もそうだが、今の『私』にも、それは分からないまま。



 胸中の危険探知機が、警報を鳴らしている。


 当時の私はそれを自覚していたが、「疲れたとか、そういうわけじゃないの」遮る様にして呟かれたナタリアの言葉に、話を切り出すタイミングを失ってしまった。



 失って……しまったのだ。



「ただ、声が聞こえるの」

「声?」



 うん、と頷いたナタリアの目は……どこか虚空を見つめていた。



「前々から、ふとした拍子に聞こえていたんだけど……今日は、何だか凄く頭に響くの」



 ……声? 初めて聞く話だ。



「その声は、何を言っておるのじゃ?」

「さあ、分からない。ガリガリと木々を爪で引っ掻いた感じの、変な声なの。今朝から聞こえていたんだけど、何だかどんどん強くなって来ているような気がして……」



 そう口にするナタリアだが、特に顔色は悪くなってはいない。それどころか肌の色自体はよく、頬には健康的な赤らみすら見受けられた。



「身体の調子とかは、悪くないの?」

「うん、悪くないよ。むしろ、悪いどころか――」



 そうお嬢ちゃんから尋ねられたナタリアは……唇だけが歪に弧を描いた、奇妙な笑みを浮かべていた。



「――ナタリア?」

「今まで感じたことが無いくらいに、身体が軽くて……とっても心地よい気分なの」



 そう零したナタリアに、私は思わず身構えてしまった……その姿を『私』はただ見つめる事しか出来なかった。何故そうしてしまったのか、それが今になっても分からないままに、『私』は立ち尽くす他出来ない。


 この時感じ取った異質な気配はすぐに消え去ってしまい、ナタリア自身も「すぐに治まった」と言ったこともあって、特に気に留めるようなことはしなかった。


 ……今にして思えば、迂闊としか言えない判断だったと『私』は思う。


 もしかしたら当時の私は、無意識のうちにその可能性を否定していたのかもしれない……この時の私はまだ、背筋を走る感覚が何なのかを察することが出来な――。



 『ラステーラ、ラステーラに間もなく到着です』






 ――あれ?








 ……。


 ……。


 …………あれ?



『ラステーラ、ラステーラに間もなく到着です』



 ――耳奥を揺らす御者の声に、ハッと目を覚ました瞬間。イシュタリアは一瞬ばかり、自分がどこにいるのかが分からなかった。


 カタカタカタ、カタカタカタ。


 ゆっくりと動きを止めた巡航馬車から降りたイシュタリアを迎えたのは、むせ返る程に蒸された熱気。改めて感じる夏季の日差しを受けながら、イシュタリアは額に浮かんだ汗をそっと拭った。



 ……こういうとき、あやつならどう動くのやら。



「……考えたところで、仕方がないのじゃがなあ」



 むわっと立ちのぼる熱気。季節が一巡する度に思い出し、思い知らされる不快感に顔をしかめながら、ポツリとイシュタリアは呟くと、顔をあげて辺りを見回す。


 かつての……『神獣』によって刻まれた傷跡は、今もなお色濃く残っている。イシュタリアが率直に抱いた感想が、ソレであった。


 幸いにも壊滅を免れた建物と、新しく建てられた建物が、見えるだけでもぽつぽつと数えきれないぐらいに有る。色合いも雰囲気も異なるそれを見比べるだけで、如何に被害が広範囲に及んだかが伺いしれるだろう。


 加えて、街中を行き交う人々の顔ぶれ……以前に滞在した時に比べて、かなり異なっているのが見て取れる。


 時間帯だとか、そういう問題ではない。純粋に、住人が入れ替わっている



 まあ、仕方がない事なのだろう……そう、イシュタリアは思った。



 直接的な被害を受けたのは町の一角だが、犠牲者は相当数に及ぶ。生き残りはしたが、後遺症のせいで長くは……なんて人も、それなりにいた。


 狩猟の町でもある『ラステーラ』でも様々な仕事はあるが、やはり、この町にある仕事の受け皿は、『狩猟』だ。次いで、大工仕事だが、やはり、狩猟の割合が一番多い。


 だから、後遺症などで狩猟が出来なくなればもう、この町でやれる仕事はそう多くはない。


 狩猟依頼そのものはほとんど変化していないが、それでも、仕事を求めて『東京』に移り住む者や、思い出す事が辛くて離れて行った者……そういった人たちが続出した事で、空いた場所に他所の人々が入って来ているのだろう……そう、イシュタリアは結論を出した。



 ……とはいえ、だ。何もかもが、その時のまま……というわけではない。



 あれだけの存在感を放っていた『神獣』の死骸が、影も形も無くなっている。完全とはいかなくとも、復興は進んでいるという話をマージィから聞いてはいたが……改めて、イシュタリアは時の流れを実感した。



「さて、と。向かうとするかのう」



 目的地へと歩き出しながら、誰に言うでもなく呟く。


 独り言が増えたのは、独りで行動することが増えたから。


 それを自覚出来るようになっていることに、イシュタリアは一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。



 ……今日で、70日目。それの意味するところは他でもない。



 イシュタリアが行動を共にしている(というには、もはや家族扱いされているが)ラビアン・ローズの女たちの主であるマリーが、消息を絶ってからの日数であった。


 マリー・アレクサンドリア。今は居ない彼の、その名を思い返しながら、イシュタリアはぼんやり眼前の景色を眺めていた。


 ブラッディ・マリーという渾名を持ち、ラビアン・ローズの主でもある、その男。


 それなりに楽しい毎日を送っていたイシュタリアの……イシュタリアたちの前から姿を消してから……色々なことがあった。



 ――むわっと頬をそよいでいく、熱風。日中にて暖められた熱気が、これでお別れよと言わんばかりに『ラステーラ』の空へと駆け昇って行く。



 残暑というには些か時期が早いが、季節の変わり目を予感させる。後一ヵ月もすれば涼しくなっていくだろう。


 けれどもそれは、今ではない。今は、誰も彼もが気だるそうに、街中を歩いて行く。


 けれども、それでいて日々和らいでいく熱さに笑みを浮かべる者がちらほら見受けられる最中……イシュタリアは、軽く息を吐いた。



(やれやれ、ついでに見つかれば良いと思ってはおったが、やはりそう上手く事は運ばぬか……)



 此処に来るまでの道中にて凝り固まった肩を解しながら、イシュタリアはトボトボと目的地を目指す。


 ……ここしばらく、ぶっ通しで歩き回ったはいいが、今日も昨日と同じく収穫は無し。まあ、手掛かりが無いのだから、致し方なし。


 けれども、致し方なしで納得出来るほど、彼との付き合いは浅くはない。自然とため息が増えてしまうのは、何も疲労ばかりが原因ではなかった。



「はてさて、お嬢ちゃんは館に帰っておるかのう……帰っていてくれれば、よいのじゃがな……」



 ポツリと呟かれたお嬢ちゃんというのは、ある少女のこと。マリーの隣に立ち、マリーの為なら躊躇なく命を捧げる褐色の少女、サララ。


 時折『東京』の街中で後ろ姿を見つけることが出来る、彼女の焦燥感に満ちた顔を思い浮かべながら……イシュタリアは、肩を落とした。



 ――ダンジョンにて消息を絶った者が、そのダンジョンで見つからなかった。



 それの意味することを理解してしまうだけの頭があったサララは、居ても経っても居られなかったのだろう。



『マリーを探しに行ってきます。見つかれば戻りますし、てきとうに帰ってきますので、心配しないでください』



 そうイシュタリアたちに言い残してサララが別行動を取り出したのは、マリーが消息を絶ってからしばらく経った後。


 ダンジョンの地下3階までを隈なく探し終り、新生ラビアン・ローズの外観が出来始めた、そんな頃であった。



『マリーはまだ死んだわけじゃない。きっと、ダンジョンの外。どこか別の場所で、のんびりしていると思う。もしかしたら、怪我を負って休んでいるのかもしれないし、里帰りでもしているのかもしれない』



 そう語ったサララの顔色を一言でいえば、死人のソレであった。


 そんな雰囲気すら醸し出していたサララが別行動を取ろうと言い出した時、それはそれはマリアたちから反対の声が上がった。


 今にも倒れそうな程に青ざめた顔で別行動をすると口走ったのだから、その反応も当然である。


 そりゃあ、二手に分かれた方が、効率が良いのは分かる。


 とはいえ、サララはまだ年齢的にも精神的にも大人とは言い難い。心配するのが、当たり前であった。


 しかし、生来の頑固さを見せたサララは最後まで、マリアたちの助言に耳を貸すことはなかった。



『私なりのやり方で探してみる』



 結局、サララはマリアたちにそう言い残すと、マリーを探しに私たちの元を飛び出して行ってしまった。



(若さと捉えるべきか、現実逃避と捉えるべきか……迷うところじゃな)



 少なくとも、イシュタリア自身は……若さだと好ましく思った。たとえそれが、最悪から目を逸らしたいがあまりの逃避を含んでいるとしても、だ。


 ……愚直な娘だ。愛おしさすら覚えてしまうほどに……そう思ったのは、おそらく、イシュタリアだけではないだろう。


 マリーたちが消息を絶ったのはダンジョンの中だ。(証言から、それが最も可能性が高い)探しに行くとするならば、ダンジョンへ向かうのが普通なところだろう。


 それなのに、ダンジョンではなくそれ以外を探そうとする。その行為の意味と、サララの内心を察することが出来たのは、マリアたちもであって……当然、イシュタリアも同じことを思っていた。


 偏執とも言うべき病的な愛情をマリーへ向けていたサララを知る者は皆、飛び出したサララを責めることも、咎めることもしなかった。というか、口を挟むつもりもなかった。


 マリアたちとて、マリーが死んだとは考えていない。マリーの実力を一端とはいえ知っている彼女たちからすれば、マリーが死ぬということ事態、あり得ない話であったからだ。



「……あやつだけでなく、イアリスを含めた学園の精鋭たちが同時に姿を消した。いったい、何が起こったのじゃろうなあ……」



 そして、それはイシュタリアも同意見であった。


 マリー一人だけが消息を絶つならまだしも、両手の指よりも多い数の人間が、同時に消息を絶つ。どの方向から思考を巡らせても、首を傾げてしまう。


 しかも、同時に姿を消したのは他でもない、ユーヴァルダン学園の生徒たち。加えて、『妖精』の二つ名を有しているイアリスすら姿を消したとなれば……単純に受け入れるには不可解過ぎた。


 そう、実に不可解な話なのである。


 いくら自己責任であり、命を落とすこと事態が珍しい話ではないとはいえ、一度に数十人の……それも、ユーヴァルダン学園の生徒がそうだとなれば、話は別だ。



 ――もしかしたら、何かしらの突発的事態が起こったことで身動きが出来なくなっているのかもしれない。



 そう判断した学園側は、ある意味妥当というべきか、冷静ではあっただろう。その翌日にはマーティやカズマ、鎌李といった精鋭を引き連れて、ダンジョンの中を徹底的に探し回った。


 人海戦術とも言うべき方法を使い、それなりの被害を出しながらも捜索を続け……それでも、影も形も見つからなかった。そのことが、イシュタリアは気になって仕方がなかったのだ。



 不幸という二文字で済ませるには、あまりに異様な何か。


 己が想像の範疇の外にある何か……何者かの思惑が動いている。



 そう、イシュタリアは思わずにはいられなかった。



(……それに、不可解なのはそればかりではないのじゃ)



 見慣れた『ラステーラ』の街並みに目を細めながら、イシュタリアの足が……街の片隅に用意された、集合墓地の入口で止まる。


 これまたすっかり顔馴染となった墓守の男に軽く頭を下げると、イシュタリアはゆっくりと墓地の中に足を踏み入れた。


 墓地の中には、簡素な柵で覆われただけの、とても質素な作りの墓石がズラリと並んでいる。


 古ぼけたモノ、真新しいモノ、少しばかり傷やヒビが見られるモノ、綺麗にされたモノ。刻まれた文字に降りかかっている汚れの有無が、各自の時の流れを強く実感させた。


 イシュタリアの、その足取りには迷いが感じられない。先客らしき年老いた女に頭を下げて傍を通り過ごし、墓地の中を右に左に、慣れた様子で進んでいく。



「やれやれ、出来ることならこんなことに慣れとうはなかったのじゃがな」



 そして、墓地の中を歩くこと、幾しばらく。


 並び立つ墓石の中で、一つ。ひと際真新しい墓石を視界の端に捉えたイシュタリアは、無意識の間に唇を噛み締める。


 しかし、その足は立ち止まることもなく……目的地の前に立ち止まったイシュタリアは、深々とため息を吐くと……そっと、刻まれた墓碑銘を指で摩った。



「今回は良い花が手に入らなかったのでなあ、私の笑顔で我慢するのじゃぞ、オジサマよ」



 『マージィ』と彫られた、その墓碑銘を、慈しむように摩った。


 ……ここに通うようになってから、幾日が過ぎただろうか。正確な日数は覚えていないが、もうかなりの月日が経ったように錯覚してしまう。


 すっかり脳裏に刻まれてしまっている墓碑銘と、目の前の墓碑銘を改めて照らし合わせながら……イシュタリアは顔を伏せた。



「あの日、あの時、あの場所で、お主はいったい何を見た。ほんの少しで良い……答えの一端を、掴ませてはくれぬか?」



 ポツリと、イシュタリアは問いかける。しかし、死者の声を聞く術が、イシュタリアには無い。


 イシュタリア自身も、答えが返ってこないことが分かっていたので、期待などサラサラしていなかった。



「マリーが消え、オジサマが死に、サララは飛び出した。マリアたちの落ち込みようと来たら、言葉に出来ぬ状況じゃぞ」



 けれども、語らずにはいられなかった。


 誰かに話さずには、いられなかった。



「一つばかり、手掛かりらしきものは掴んだ。じゃが、それは片道切符の茨の道。その先に何があるのかは分からんし、もしかしたら的外れなのかもしれぬ……が、あやつらが関係している可能性はある」



 もしかしたら、もう二度とこの場所に戻って来られないかもしれない。その言葉を、イシュタリアは浮かべた笑みの奥に隠す。


 ある意味、サララがマリアたちの元から飛び出したのは都合が良かったのかもしれない。


 ……その言葉も、笑みの向こうに隠す。これだけは、マージィにも、誰にも聞かせてはならない言葉であった。



「……まあ、館は大五郎たちが、女たちはドラコが守りをしてくれるから大丈夫じゃろう。不埒な輩の十人二十人が押し寄せたところで、造作も無く片付けてくれるのじゃ」



 幸いにも、館を燃やした犯人の捜索は続いている。その点に関して言えば、時期に解決されるだろう。


 そう呟いたイシュタリアは、クスリと笑みを零し……ふと、表情を歪めた。



「どれだけ長く生きようとも、不意の別れは辛く悲しい。たった数か月の付き合いだったとはいえ、オジサマとの今生の別れがこのような形になるとは思わなかったのじゃ」



 だから、イシュタリアは、何度もあの時のことを思い返す。


 血だまりの中で冷たくなっていくマージィの姿を。血の塊を吐き出すマージィが言い残した、最後の……声なき遺言。


 その時のことをイシュタリアは何度も思い返し……そして、顔を上げる。



「私は、どうすればよいのかのう……ナタリアよ」



 おそらくはその時の真実を知っているであろう、その者の名前を……イシュタリアは呟く。


 けれども、やはり、返事など返ってくるわけがない。


 フゥ、と通り過ぎて行く熱せられた空気が、また新たな汗を拭き出す……それを、軽く拭ったイシュタリアは「……また、来るのじゃ」静かに踵をひるがえすと、振り返ることなくその場を後にした。


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