第三話: 人間の常識は小難しすぎる
※少しばかりセクシャルな描写有り
当人にとっては、抱えた幼子がお漏らししちゃった程度の感覚。投げ捨てるわけにもいかず・・・
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座り込んだ姿勢のまま、私はジッと坊やの両足を見つめる。後ろの人間たちに身体を見られないように気を付けながら、ガリガリと己の胸の下を掻いた。
(我ながら酷いものだ……エイミーたちが行っていた時は、何も知らない私の目から見ても見事な手際で綺麗な巻き方だと思ったぐらいだというのに……)
両足に巻かれた歪な治療の跡を見て、思わず苦笑する。
繊細な力加減は苦手な方だが、竜人だという事を抜きにしても、どうやら私は不器用だったようだ。少し、恥ずかしい気持ちになる……っと。
――私の事よりも、坊やの事だ。
とりあえずの処置は終わった、坊やに、歩けそうかと尋ねてみるが、立ち上がった瞬間によろめいたのを見て、すぐに歩かせるのは諦めた。
気を張り詰めていたおかげで我慢出来ていた痛みも、気が緩んだおかげで余計に強く痛みだしてきているようだ。
……時折思い出したように顔をしかめ、足を庇うように手で摩っているのが、その証だろう。出血していないのが、せめてもの救い……か。
まあ、所詮は見様見真似の拙く強引な自己流。それに加えて、坊やは、私が考えているよりもずっと脆い人間の子供だ。
竜人である私と同じように考えるわけにはいかないだろう。それぐらい、私にも分かるのだ。
「あの、ドラコお姉ちゃん……」
「――ん、なんだ?」
はてさて、どうしたものか……そう考えていると、呼ばれた。
視線を上げれば、気恥ずかしそうに前屈みになった坊やと目が合った……が、すぐに逸らされる……まただ。
(懐かしい……昔、弟がよくやった反応だ……)
先ほど名前を教えてやったおかげで、私に対して少しばかり気を許してくれたようだ。
改めて、お姉ちゃんと呼ばれるのは些かくすぐったい気持ちになるが、私はあえてそのままにさせることにした。
「あ、あのさ……」
「なんだ?」
ようやく覚悟が決まったのか、私の首から下を行き来した坊やの視線が、私へと向けられた。
「あの……おっぱいとか……見えてるよ」
……なんと。
何ともまあ可愛らしい質問に、私は思わず肩の力を抜く。足の痛みよりも前に、私を気遣おうとしてくれている。
……心優しい子だ。
竜人として見るなら、甘ったれなやつだと侮蔑の言葉の一つも掛けていただろう。けれども、私が……ドラコとして見るのならば、中々に快い子だと思った。
……さて、と。
せっかく、勇気を出してくれたのだ。坊やからは丸見えになっている己の恰好に目を向けた私は、「すまんな、見苦しい物を見せた」我慢して前を隠すことにした。
「……見たいのか?」
「――い、いいよ、別に!」
途端、残念そうな様子を見せたので尋ねてみれば、坊やは顔を真っ赤にして首を横に振った。何とも、分かり易い。
私を気遣っているのか、照れているのか。
おそらく、両方なのだろう。見たければ見たいと言えば、見せてやるのだが……まあ、坊やとて男の子、口には出さないことにした。
(ふむ、このぐらいの年頃であれば、気恥ずかしさを覚えるのも致し方ない……か?)
とはいえ、坊やには些か目に毒だろう。そのつもりはなかったが、坊やからは、私の胸も股もさぞ見やすかったことだろう。
そう考えれば、先ほどからずいぶんと視線を彷徨わせていたのは、つまり私の身体を見ていいのかどうか悩んでいたから……か。
……こんな坊やに気を使われるとは、すまないことをしてしまった。
「あ、あのさ、何で服を着てないの? もしかしてドラコ姉ちゃんって、変態ってやつなの?」
「変態がどういう意味なのかは知らんが、私が服を着ないのは、服が嫌いだからだ。坊やこそ、なんで服など着るのだ?」
「え、いや、だって服を着ないと寒いし、病気になるでしょ?」
「寒くなどないし、病気などならない。だから、服など着る必要はない。それだけのことだろ?」
当然の話をすると、坊やは心底不思議そうに首を傾げた。
……何故だろう、私がこうやって誰かと会話をすると、かなりの頻度で皆が坊やと似たような反応を示してくるのは。
「……恥ずかしくないの?」
「恥ずかしくなどない。私にとっては服を着る方が恥ずかしいのだ……さて、お喋りは終わりだ。連れて行ってやるから、案内しろ」
「え、いや、これぐらいなら自分で――あ、ドラコ姉ちゃ――」
呆気にとられた坊やを、ローブの中に抱き込む。「――え、え?」またもや顔を真っ赤にした坊やに「そのまま私の身体に手足を回して抱き着け」、強く命令をし……坊やの身体ごと、ローブの中に隠してやった。
(うむ、これなら周囲の人間に見られることなく、坊やを家に送り届けることが出来る……我ながら、上出来な方法を思い付けたものだ)
坊やの身体がずり落ちないよう、その小さな背中に腕を回す。途端、身体をビクつかせて離れようとした坊やを無理やり押さえつけると、坊やと私の中にあった隙間が全く無くなった。
お互いに抱き合うようにして抱えた黒髪の坊やの身体は、子供であることを差し引いても思いのほか軽い。同時に、坊やから伝わって来る体温が実に心地よく、特に下腹部をじんわりと温める熱に目を細めてしまった。
(子供の身体が熱いのは、我らも人間も同じか。そういえば昔、弟のやつも母を恋しがって私に抱き着いて来たな……あの時も温かった)
「坊や、足は痛くないか?」
「う、うん……あ、あのさ、自分で歩けるから下ろしてくれよ」
抱きしめた坊やは、この体勢で居ることに、ついに耐え切れなくなったのだろう。しかし、耳元で囁かれた坊やの懇願を、「駄目だ」私は一言で切り捨てた。
「いいから黙って運ばれろ……あと、さっきから腰を離そうとするな。ずり落ちて怪我をしても知らんぞ」
何度も腰を離そうとする坊やの尻を掴み、一息に身体を密着させる。「――うっ」瞬間、カチッ、と歯を食いしばって私の胸に顔を埋めたかと思ったら……ビクッと坊やが身体を痙攣させた。
(……坊や?)
坊やの手足に、力が込められたのが分かった。同時に、びくん、びくん、と断続的な痙攣が下腹部に伝わって来る。
痛みの脈動が全身を駆け巡っているのか、坊やの首筋は真っ赤に紅潮し、はっはっはっ、と獣のように鼻息を荒げていた。
……何が起こっているのだろうか?
わけが分からず首を傾げるばかりの私の鼻が、密着した身体から立ちのぼってくる臭いを……残酷なまでに捉えてしまった。
……まさか。
嫌な予感が背筋を走った。
今もなお脈動が伝わって来る下腹部に意識を向けて、ゆっくりと、坊やに気づかれないように……嗅ぎ取った臭いは、かつて、故郷で何度か覗くことになった……あの臭いであった。
(ど、どうしよう……)
必死に頭の中のマリーたちに助けを求めるが、そんなのは時間稼ぎにもならない。
そして、途方に暮れるわけにもいかない私は、ひとまず坊やの様子だけでも把握しようと思った。
「痛むか?」
私としては、それが坊やに対する精いっぱいの気遣いであった。
けれども、坊やは一瞬ばかり驚いた表情になったかと思ったら、「ご、ごめんなさい……」目じりに大粒の涙を滲ませ始めた……うむむむ。
「痛みがないのであれば、動き出すが……いいか?」
「うん、いいよ……」
「……私の胸で良ければ、貸してやる。お前の泣き顔も、見なかったことにしてやる。だから、家に着くころには泣き止め……男は、そう簡単に涙を見せては駄目だぞ」
「……うん」
泣きそうな坊やの顔を己の胸に押し付けながら……私は何度も己を罵倒したくなった。
何故坊やが泣くのか、何故坊やは涙を流しかけているのか……むしろ、私自身が何だか泣きたい気分であった。
……ええい、面倒だ。さっさと坊やの家に向かうとするか。
肌に感じる華奢な身体と体温の懐かしさに、これ以上浸っているわけにもいかない。
そして、下腹部に伝わって来る脈動にも目を背け続けるわけにもいかない私は坊やを落とさないように必要以上に気を付けながら、歩き出した。
……。
……。
…………年老いた……というには少しばかり若々しい、左右に大きく肥えた女が一人。坊やが「母ちゃん」と呼んだその女は、『モニカ・キルステン』と己の名を告げると、何度も私に頭を下げた。
「本当に、ドラコさんには悪い事をしてしまったね」
コポコポと、カップに注がれた茶から匂い……いや、臭いが立ち上る。その臭いにつられて視線をあげれば、部屋の壁の至る所に張られた似顔絵や落書き、悪戯の跡が目に入った。
『キルステン孤児院』
それが、坊やの家の名前。
無事に坊やを送り届けた私は、先ほど帰って来たという茶髪の少年から事情を聞いたという孤児院の人間たちに取り囲まれ……気づいたら、こうして主人自らの手でお茶を振る舞われることとなっていた。
(金も返して貰ったし、もう十分なのだがな……)
迷惑を掛けてしまった(そして、罪を不問にしてくれた恩に報いたいらしい)以上、何もしないわけにはいかない……とは、ここの主人たちの言葉だ。
まあ、盗人を許しただけでなく、下手くそとはいえ治療までしてくれた……治療と呼ぶかは迷うところだが、私はそれをした。
そんな私に対して、せめて丁重なもてなしだけでもしたい……という考えは、分からなくもない。
ただ、金が使われていたならまだしも、未遂に終わった事だし、子供のやることだ。悪い事は悪いのだが、だからといって、仕留めてしまうのは……どうにも嫌だ。
故に、この結果は、所詮は私の身勝手な妥協に過ぎない。
だから、もてなしを受けるのは正直、嫌だと思った。けれども、あれよあれよと言う間に、こんな状況になってしまったのは……正直、不覚である。
……そうして、ふと。さすがに我慢できなくなった私は、注がれる気配に振り返る。
途端、部屋の扉……そのわずかに開かれた隙間から覗いていた幾人もの気配が、慌てて遠ざかって行くのが見えた。
……本人たち……子供たちは隠しているつもりなのだろう。
しかし、隠す気すら感じられない慌ただしい足音と、嫌でも耳に入る囁き声と、強すぎる彼らの気配そのものが……鬱陶しいぐらいに私のその存在を教えてくれた。
「――すまないねえ、五月蠅いだろ?」
「……いや、気にするな」
ふと、その言葉と共に目の前に茶が置かれた。見れば、女……いや、先ほどモニカと名乗った老女……いや、モニカの顔には、笑みが浮かんでいた。
……謝罪の言葉はあれど、ちっとも申し訳なさそうな顔をしていない。
とはいえ、謝罪の意思が無いわけではない。
それよりも、子供たちの元気な姿に思わず笑みを零してしまった……といったところか。モニカからは、騒がしいと全く感じていないのが伺えた。
「子供が元気なのは、人間であれ、亜人であれ、良いことだ」
「おや、それは気が合うね、ドラコさん。さあ、お詫びの印というには申し訳ないけど、食べておくれ」
そう言うと、モニカは私の前に焼き菓子が山盛りになった皿を置いた。そして、今度ははっきりと申し訳ない顔をすると、「こんな形でしかお詫び出来ないけど……」私に向かって深々と頭を下げた。
……もうこれで、7回目だ。
私は心の中で、軽くため息を吐いた。ここに到着してからこれまで、既に7回も頭を下げられている。謝罪の言葉だけならば、その倍以上だろうか。
……それだけ、子供のやった事に心を痛めているのだろう。
正直、子供たちの声よりも、その謝罪の方が鬱陶しい。こちらがもう良いと言っているというのに……それが、歳を経るということなのだろうか……口に出さない方が賢明か。
何気なく振り返れば、部屋の端に立っていた茶髪の少年と、あの女の子も頭を下げている。黒髪の坊やが見当たらないが……多分、股を洗いに行ったのだろう。
そう考えた私は……頭を下げられ続ける苛立ちを隠しながら、モニカの頭を上げさせると、さっそく目の前の焼き菓子に手を伸ばし。
(まあ、さっさと食べ終わって出て行くとするか)
三枚ほど、まとめて口の中に放り込んだ。
(……んん? ほう、この菓子は中々美味いな)
瞬間、口の中に広がったのは初めての味。これまで何度か食べてきたクッキーと呼ばれるものとは少し違う味わいに、内心に渦巻いていた苛立ちが溶けて行くのを実感した。
と、同時に、モニカの淹れたこのお茶……なんというか、これも初めて飲む味だ。
マリアたちが淹れてくれるお茶と似たような色合いではあるものの、あれよりもずっと……こう、のど越しが良い。味の濃さはあっちが上だが、呑み込んだ後の爽快さは、こっちの方が上かもしれない。
甘みの強い焼き菓子と、このお茶は実に合う。
お茶の味なんぞそこまで気にした事はなかったが、中々どうして……手が止まらないとはこのことを言うのだろうか。気付けば、私はあっという間に山盛りの焼き菓子を全て食べきっていた。
――しまった、もう少し味わって食べるべきだった。
そう私が後悔しつつも手を引っ込める。
すると、これまで何も話すことなく立ち尽くしていたモニカが大きなため息を吐いた。
顔をあげれば、「あれまあ、凄いんだね、あんた」モニカは心底驚いたと言わんばかりに目を瞬かせていた。
「あれだけの量をこんなに短い時間で食べちゃうなんて……うちのチビ共よりも食欲旺盛だねえ」
「……すまない、もしかして全部食べてはいけなかったのか?」
それなら、申し訳ない事をした。
そう私が頭を下げると、モニカは呆けた様子で私を見つめた……かと思ったら、大声で笑い始めた。
「あっはっはっは、いいんだよ、これぐらい。むしろ、それだけ喜んでもらえたら、こっちも嬉しいさね」
そういうものなのだろうか……とりあえずは大丈夫なことに私が安堵すると、それを見計らったかのように「ところで、不躾なことを聞くけど、いいかい?」突然モニカが笑みを引っ込めた。
「いきなりこんなことを聞くのもなんだけど、ドラコさん、どうして部屋の中でもそれを脱がないんだい?」
「……ああ、これか?」
身に纏っている己のローブを指差せば、モニカはそうだと頷いた。
「この時期にそんなモノを着て、暑くないのかい?」
「暑くはない。ただ、見ての通り私は些か人の目を集めるからな……これはその為のものだ」
面倒だが、慣れるほかあるまい。そう私が続けると。
「……そうかい。世間には色々なやつがいるからね」
なぜか、憐れみの籠った目で見られた。その目を見て、少し……いや、かなり頭に来るものがあったが、黙っておくことにした。
我らにとっては当たり前のことがここでは非常識であるように、この場所では私の方が間違っているのだ。
眼前の女もそうだが、人間たちには悪気は無いのだ……怒りを向けるのは相手では無く、適応できない己に向けることなのだ。
「仕方がないことだ。人間の世界で生きる為には、色々と我慢しなくてはならないこともある」
そう話を〆括って、残ったお茶を飲み干す。「菓子は美味かった、もうこれで十分だ」それでこの話はお終いにしようと決めた私は、さっさと帰ろうと振り返り……ふと、扉の隙間からこちらを覗いている子供と目が合った。
――瞬間、私は……何かを考えるよりも前に、足を止めていた。
「――ドラコさん?」
不思議そうに首を傾げているモニカの姿が視界の端に映ったが……私の意識のほとんどは、その子供の……覆面の奥から覗く瞳へと向けられていた。
(なんだ、こいつ?)
それが、私が眼前の子供から直感的に感じ取った、最初の印象であった。
そう思ったのは、そうとしか言いようがないぐらい、そうとしか考えようがないぐらい、そいつは……私の知っている人間と、どこか似ていて、決定的に違っているように思えたからだ。
その子供の外見を簡単に言い表せば、頭から顎まで黒い両目部分以外をすっぽり布で覆い隠した子供……だろうか。着ている衣服は先ほど見た他の子供たちと、そう変わりないから、客というわけではないだろう。
「おや、ナナシ。お前がこんな時間から地下部屋から上がって来るなんて、珍しいねえ」
(……ナナシ……それがこの子供の名前か)
モニカの声に、ようやく我に返る。
見れば、こちらを見ていた小僧は私から視線を外し、モニカの傍に駆け寄っていた……こんな子供、先ほど紹介された時に居ただろうか?
「――ああ、この子かい? この子はナナシっていう名前でね。見ての通り、ちょっと人見知りが激しくてねえ……人前に出る時は何時もこうやって覆面をしちゃうんだよ」
そう思ってナナシと呼ばれた子供を見ていると、気を回したモニカが紹介してくれた。
「ほら、ナナシ、男の子なんだから、自分からちゃんと挨拶しな!」
続いて、モニカはそう言ってナナシの背中を叩く。とたとたともつれるようにして前に出たナナシは、先ほどと同じようにその瞳で……ジッと、私の目を見つめてきた。
――この目だ。瞬間、私は思った。
この目を、私はどこかで見た覚えがある。けれども、どこで見たのかを……思い出せない。それが妙に気になってしまい、私はナナシの瞳から視線を離せなかった。
「ナナシ、です」
……声にも、聞き覚えがある。
「――そうか、私はドラコだ」
差し出された小さな手を傷つけないよう、優しく握る。伝わって来る体温は温かく、どう見ても、どう感じても、まぎれも無い……人間の手であった。
「……私が言うのも何だが、何故そこまで顔を隠しているのだ?」
自分でも、何故そんなことを聞こうと思ったのか分からなかった。
ただ、気付いたとき、私の中にある直感にも似た何かが……目の前の少年のことを知るべきだと身体を突き動かしていた。
「あんまり、人に顔を見られたくないんです。お見せして……からかわれるのが嫌いなので」
ナナシは思いのほかあっさり理由を語ってくれた。「全く、そんなの気にする必要なんてないって言うのに――」呟かれたモニカの愚痴を聞く限りでは、何か傷でもあるのかもしれない。
「僕の顔のことよりも、お姉さん、もう帰っちゃうの?」
見れば、握った手を少年が……いや、ナナシが両手で掴んでいた。
「もうちょっとお話しようよ。皆もきっとお姉さんと話がしたいだろうし、僕も、是非ともお姉さんともっとお話がしたいんだ」
「おや、珍しい。ナナシがそんなに積極的になるなんて、始めて見たかもしれないねえ」
モニカが、驚いたように顔を綻ばせている。言葉の通り、このナナシと呼ばれる少年は大人しい性分なのか、「ナナシって、大人のお姉さんが好きだったのね」様子を見ていた女の子も驚いたように呆けていた。
「モニカ母さん、お姉さんが泊まっても大丈夫だよね?」
その大人しいであろう少年が、珍しく積極的に行動している。それはとても、珍しいことなのだろう。
その証左と言わんばかりに、モニカは嬉しそうに笑みを浮かべ……それでいて私の機嫌を伺うように首を傾げた。
「ん~、私としては構わないし、狭いのと御馳走が用意出来ない点を我慢してもらえるならいいけど……ドラコさんが了承してくれるのかねえ?」
「それなら大丈夫。お姉さん、そこらへんは全然気にしない人だから……ね、お姉さん、泊まって行ってよ。なんなら僕のベッドを貸すからさ」
「え、ん、んん?」
展開に付いていけない私を他所に、モニカとナナシと名乗る少年はさっさと話を進めて行く。
グイグイと引っ張られる手にどうしたらいいか分からない私は、ともずればそのまま首を縦に振ってしまいそうな己に対して、困惑しっぱなしであった
「ね、いいでしょ?」
けれども、そう言ってお願いを繰り返すナナシを見て……ふと、頭の中を(そうだ、それなら――)ある考えが過り、私は首を振ってそれを頭から追い出した。
(代わりに顔を見ることを要求するのは、さすがに下品か)
喉元まで出かかった言葉を、私は寸でのところで呑み込む。さすがに、このやり方は失礼だろうし、私の矜持にも触れてしまう。
というか、そもそも何故、泊まる方向で話が進んでいるのだろうか。マリアたちに連絡するのもそうだが、いちいち連絡してココに戻るのも面倒だ。
――このままココにいると押し切られるかもしれぬな。
そう思い、ざわめきにも似た感覚を抑え込む。「すまないが、その申し出は断らせていただく。では、私はこれで失礼する」部屋の奥で成り行きを見ていた二人に手を振り、さっさと帰ろうと――。
「ねえ、いいでしょ――さん」
――扉のノブを掴んだ体勢のまま、私は己の鼓動が鼓動したのを実感した。どくりと、背筋が震えてしまうような、嫌な鼓動であった。
ゆっくりと振り返れば、覆面の上からでも分かるぐらいの満面の笑みを浮かべていたナナシが、静かに頷いていた。
「それじゃあ、今日のところは皆の話し相手になってね。僕と話をするときは、その時間だけは二人っきりでお話しできるようにしておくから」
そう言うと、ナナシは私のことなど無視するかのように私の横をすり抜けて、廊下へ飛び出して行く。
慌てて追いかけようとした私であったが、ナナシが逃げて行く先に居た、大勢の子供たちの存在に気づき……戻って、扉を閉めた。
……無言のままに、ため息を吐く。
それが、合図になったのか、「すまないねえ、気を悪くさせちゃったなら謝るよ」モニカが幾分か申し訳なさそうに頭を下げながら、三杯目のお茶を淹れてくれた。
「いや、気にするな。突然の申し出に驚いているだけだ……嫌というわけではない」
私が席に座ると、それに合わせてそっと差し出された。
「そういって貰えると助かるよ……ところで、本当に泊まってくれるのかい? 私としては、一日どころかしばらく泊まってくれても構わないよ」
――ただ、数日泊まるのであれば、少しばかり子供たちの為に寄付をしてほしいけど。
そう続けたモニカの言葉に、「どうするかはこれから決める」私はそう言ってカップを手に取る。
無言のままにそれを呑み欲し……一時の静寂が流れたのを感じた私は、ナナシが消えた方角を見やった。
「ところで、あのナナシという少年は何時もあんな調子なのか?」
テーブルを挟んで対面に座ったモニカが、困惑気に首を横に振った。
「いやいや、全く。普段のあの子は本当に物静かな子で、仕事の時でもほとんど喋らないんだよ。半日以上何も喋らない時もあるから、さっきのアレにはこっちが驚いたぐらいだよ」
「仕事? ナナシは働いているのか?」
「ナナシだけじゃなく、ここの子供たちの年長組は皆働いているさ。まあ、やることは簡単な荷物運び程度だけどね。一人当たりは高が知れているけど、数はある。おかげで、どうにか三食しっかり食べていけているよ」
振り返って、部屋の隅に居る二人を見やる。「毎日じゃないけど、俺も働いているよ」茶髪の少年はそう答えてくれたが、女の子の方は何も言わなかった。まあ、それもそうか。
「どこぞのお偉方と繋がりのある所ならまだしも、『国』からの補助だけでは食っていけない孤児院は多くてねえ。本当は勉強させてやりたいけど、そうも言っていられないのが現状さ」
「ふむ」
――人間の世界というのは、中々に複雑なのだな。
「……ああ、それと話は変わるけど、嫌でなければ遠慮なく泊まってくれて構わないからね。子供たちも喜ぶから……後、どうかナナシを嫌わないでおくれよ」
「いや、嫌いになるつもりは無い。ただ、驚いているだけだ」
「そういって貰えると助かるけど、あの子はちょっと気難しいだけで、根はとっても良い子なんだよ。それに、どこで覚えて来たのか知らないけど、色々と物知りな子なのさ」
――物知り……か。
ナナシの姿を頭の中に思い浮かべながら、私はマリアたちに外泊の旨を伝える為に椅子から立ち上がった。とにかく、まずはそれを終えてからだ。
……。
……。
…………そうして一旦、館に戻った私は、急いでマリアを見付けて、このことを話した。もしかしたら外泊までは許さないのでは……と危惧していた私であったのだが。
『え、いいわよ、別に。その点を踏まえた上での自由時間なんだから、私たちに気を遣わなくてもいいわよ。シャラも、そのつもりでいるって言っていたし』
マリアからあっさり許可が下りたことが、正直意外だと思った。
それだけでなく、『だったら、寄付金としてこれを持って行ってちょうだいね』マリアは金庫から紙幣を数十枚程抜き出すと、私にそれを渡してくれた。
……拍子抜けしてしまうぐらいにあっさり事が進んだことに、すぐには状況を受け入れられなかった。
あまりにあっさり終わったので少し不安だったが……しかし、許可を貰えたことに変わりはないことに思い至った私は、さっさと孤児院へ戻ることにした。
結果、私はほとんど余計な時間を取られることなく、昼を少し回った辺りで『キルステン孤児院』に戻ることが出来た。
その経緯を、待っていたモニカに話したところ、「ずいぶんとまあ信頼されているねえ」そう笑みを向けられた。
「お姉ちゃん、今日は泊まっていくの!?」
「ああ、そうだよミレンダ。お話したいことがあったら、いっぱい話すといい」
「うん、分かった! ねえ、お姉ちゃん! お話して!」
「あ、ズルいぞ! 僕だって話を聞きたいんだから!」
「お、おい、お前ら袖を引っ張るな……!」
そして、そんなモニカの視線を向けられた私はというと、ここに住んでいる子供たち全員に取り囲まれていた。
どうしていいか分からなくなった私は、モニカとその夫である『ハワード』からの視線を前に……疲れ切ったため息を零さずにはいられなかった。
……年長組はそうでもないが、私の腰よりも下ぐらいしかない子供たちの勢いと来たら、怖い物知らずで好奇心に満ちている。
むしろ、私が怖気づいてしまうぐらいで、ローブからはみ出た翼はもちろん、尻尾や手足の鱗に遠慮なく手を伸ばし、擦り、引っ掻いていく。
正直、くすぐったくて鬱陶しかった。痛みは耐えられるが、くすぐったいのは駄目だ。しかし、相手は子供……力づくで振り払うわけにもいかない。
これが同族相手だったら加減も分かるのだが……私は、ただただ我慢をし続けるしかなさそうだ。
(それにしても、この私が人間の子供の子守りをする日が来るとは……)
そうして、相手をしながら、しばらく。沸々と湧いて来る後悔の気持ちに目じりを擦り……ふと、私はそのことについて思いを馳せた。
――マリアたちから信頼されている、か。
人間からその言葉を向けられることに、少々の違和感を覚えないと言えば嘘になる。まさか、人間を憎み続けた竜人の私が、その人間から信頼されていると言われる日が来るとは……な。
(……まあ、生きていればそういうこともあるだろう)
複雑な気分ではあったが、それが生きているということなのかもしれない。
敵だと憎んだ人間の傍で過ごし、敵だと恨んだ人間と同じ食事を取り、敵だと怒った人間を守り、その隣で眠る。
それもまあ、悪くはないと考えるようになったのは……果たして、私が強くなったのか、それとも弱くなったのか。
その答えを教えてくれるであろう母も、『神』も、もういない。
(……母様……あなたが今の私を見たら、どんな言葉を掛けてくれますか?)
私は、その答えを出せないまま……子供たちの問い掛けに返事をするばかりであった。
……そうして、しばしの後。
「――ねえ、何でお姉ちゃんは家の中で外着を着ているの?」
どれぐらい思考の中に意識を潜らせたのかは、正直分からない。しかし、耳元でその言葉が聞こえた瞬間、私はようやく今に意識を戻したのであった。
「ここは部屋の中だから、脱いでもいいんだよ。ねえ、お婆ちゃん!」
見れば、子供たちの中でも下の方に入る小さな背丈の男の子が、遠くから様子を見守っているモニカに尋ねている。「そうだね、その通りだよ」モニカは実に楽しそうに首を縦に振ると、私に視線を移した。
「というわけだ、ドラコさん」
「何がだ?」
「短い期間とはいえ、今のあんたはこの家の家族で、ここはあんたの家でもある。自分の家で、外着を着たまま過ごすやつなんていないだろう?」
「そう言われてみれば、そうなのだが……しかし……」
「いいから、遠慮するでないよ。ここにはお前さんの姿を馬鹿にするやつはいないし、あんたを恐れるやつもいない。気楽になっていいんだよ」
……つまり、この鬱陶しいローブを脱いで、普段の恰好で……私の好きな恰好でいても良いということなのか。
「気が回らなくて済まなかったねえ……ほら、おチビ共、ちょっと離れてやんな」
私の表情をどういう形で読み取ったのかは知らないが、モニカはそう言って子供たちに命令を下す。「はーい!」元気な声で手を上げた子供たちは、思い思いに私の傍から離れ……静かに、私を見上げた。
(……これは、脱げということなのだろうか)
私としては有り難い話だが、本当にこれを脱いでも……いや、とにかく私の恰好を見ても何も言わないとモニカは言った。ならば、私はそれに従うまでだ。
そう結論を出した私は振り返って、後ろに居た女の子を手招きをする。
首を傾げながらも近づいてきた女の子に、翼の根元に引っ掛ける形でずり落ちないように固定した、内側のボタンを外すようにお願いした。
「……どうだ、外れそうか?」
「ちょっと待ってて……うん、いけた」
その言葉と共に、ふわりと背中の一部が軽くなったのを実感する。女の子に一つ礼を告げた私は、その場にて立ち上がり……一気にローブを脱ぎ下ろした。
「――ふう、やはり服など着ないに限る」
瞬間、ざわめきが消えた……しかし、半日ぶりに気楽な姿になれた私は、モニカたちからの驚愕の視線も、並んで前屈みになった坊やを含めた少年たちの姿も……気にならなかった。
……。
……。
…………とはいえ、その開放感もすぐに終わる。
「あ~、ドラコさん。言った傍から悪いんだけど……」
「分かっている、ローブは着る。私たちの種族は裸が基本。それ故に、気楽に過ごせと言われるとこの恰好になってしまうのだ」
「……恥ずかしくないのかい?」
「私たちにとって、強靭である事が何よりの誉れ。故に、衣服を身に纏う事の方が恥なのだ……安心しろ、もうこの恰好にも慣れた」
思っていた通り、やはり人前では着ていた方が良いと暗に促された私は、特に断ることなく脱ぎ捨てたローブへと手を伸ばしたのであった。
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