第二話: 亜人の目線・亜人の感覚

※少しばかりセクシャルな表現有り

※第三者の目で見れば『この亜人、何やってんだ?』みたいな感じでしょうね。当人は大真面目ですけど




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 ――あの夜が明けて、あの子が私たちの前から完全に姿を消して、しばらく経った頃。



 『あやつを探しに行ってくる』と言い残して彼女まで姿を消したのは、夏の終わりを感じ始めるかどうかという頃であった。



 その頃になると、館の外観はすっかり出来上がっていた。


 ボロボロだった鉄格子も全て新しいものに換えられ、庭の整地も進み、表向きは豪邸としか見えない立派なものとなった。


 所々破けていた絨毯は全て新しいものに替えられ、照明も真新しいものになった。ひび割れていた壁もくすんだ色合いのそれではなく、糊の臭いが漂う綺麗なそれへと生まれ変わり、ガラスも全て新しいものとなった。



 『予定していたよりもかなり早い』とは、大五郎の言葉だ。



 後は細かな内装(家具や小物類の設置)を終えれば完成まで持ってこられたのは、大五郎たちの努力のおかげなのはすぐに分かった。




 ……そうして、今日。


 『もう中で生活しても大丈夫』という大五郎たちの提案に甘えたマリアたちは、各自が思い思いに運べる荷物を持って屋敷に向かった。


 そして、改めて拝見する生まれ変わったラビアン・ローズを前に、感動のため息を零さずにはいられなかった……らしい。



 それぐらい、内装も綺麗になっていたのだ。



 少なくとも一ヵ月以上は掃除をしなくともいいぐらいに綺麗に掃除されたそこを見て、誰も彼もが大五郎たちにお礼を言わずにはいられないぐらいであった。


 それに合わせて、館を燃やした『ハンニン』もいくらか絞り込めたらしく、今のところは順々に証拠を固めている……とのことらしい。


 私は詳しくは知らないが、昨日やってきた人間が教えてくれたが……『ケイサツ』と呼ばれるやつらも頑張っているようだ。



 ……そうしてそれから、彼女……イシュタリアが館から姿を消してから、早数十日の月日が経った頃。



 おそらく、何時までも館に居る私の状況を憂いていたのか、マリアを含めた女たちから、ある提案を持ちかけられた。


 その提案とは、一言で言えば……一人での外出許可であった。


 それが私に伝えられたのは、朝食を終えてすぐ。最近では少し楽しみを覚えるようになった食器洗いを終え、何か食べようかと思っていた、まさにその時であった。



「――つまり、私は一人で街に出ても良いのか?」



 テーブルを挟んだ向こうに座っているマリアたちを見やる。



「ええ、そうよ。今日からしばらくシャラが番をしてくれるから、ドラコちゃんもいい機会でしょ。時々トミー君たちも様子見に来てくれるって話だから、遠慮しなくていいわよ」



 何時もの笑顔を浮かべたマリアが、私にそう告げる。


 その隣に居るシャラやエイミーたちに目を向ければ、こいつらもマリアと同じ考えなのか、笑顔で肯いていた。



「考えてみたら、ドラコちゃんはここに来てから自由に外に出たことも無いでしょ。ダンジョンか、あるいは買い物の荷物持ちぐらいか……それだって、ここしばらくは無かったわよね」



 そう言われてみて、言われてみれば……と私は頷いた。


 彼女の言うとおり、館の外に出るのは荷物持ちや『だんじょん』へ潜る時ぐらいで、ここに来てから一人で行動したことはない。


 ここ最近では簡単な家事や農作業の手伝いをするぐらいで、それ以外はずっと庭に立って番をするぐらいだ。


 それもこれも、全ては私が亜人であるからだが……まあ、仕方がない。爪や翼、そして四肢を覆う鱗は、ここでは些か目立ちすぎる。


 それに、私個人としても目立つのは嫌いな方だ。だからといって、こそこそと身を隠すのは癇に障るが……まあ、仕方がない事だ。


 ワガママを言って、館の者たちに迷惑を掛けるわけにはいかない。


 今の私は、あくまでマリーたちの下僕であり、この館の住人の一人であり、マリーの命令に従わなければならない奴隷という立場なのだから。



(……そういえば、今の私は奴隷なのだったな)



 何気なく思い返して、ふと、己が家畜とそう違いない立場であることを何となく思い出す。


 けれども、それはあくまで思い出しただけで、あえて口に出そうとは思わなかった。


 ……なんとなく、それを口に出したら目の前のこいつらが寂しそうな顔をしそうな気がしたから。


 そんな表情にさせてしまうことに、私は何とも言葉にはし難い痛みが胸の奥で脈動するのを実感した。



(……賢者と称えられた母から生まれ、我らが祖先を導いた勇者と同じ名を冠していたこの私が、我らが祖先を迫害した者たちの子孫の家を守る……か)



 そう考えてみれば、何ともまあ数奇な運命というやつだろうか。我ながら、ずいぶんと暢気な日々を送っているものだ。


 昔の私が見れば、竜人の誇りがとか、亜人としての矜持がとか、さぞ怒り狂って暴れ回ったことだろう。思いの外、あっさり想像出来てしまう。



(……所詮は、今更だな)



 とはいえ、所詮はもしもの話で過ぎ去った話だ。そう私が己を納得させるのと、マリアの唇が動いたのはほとんど同時であった。



「やっぱり、イシュタリアちゃんからお留守番を頼まれているから?」

「そうだ」



 もう一度、頷く。



「やっぱり、私たちのせいで留守番をすることになっているのね」

「まあ、それもある」

「それも、というと?」

「これは単純に私の為だ」



 続けて尋ねられて、私は首を横に振った。



「私の身体は、少々人目を集めてしまう。余計な騒動が面倒なだけだ」

「でも、窮屈には感じているでしょ?」



 はっきりと断言されたせいか、一瞬ばかり言葉が詰まってしまった。



「……納得したうえで私はここにいる」


 ――だから、あまり気にするな。



 そう私が答えると、マリアはしばし目を瞬かせた後……見惚れるような愛らしい笑みを浮かべた。それを見た私は……何となく、これは押し負けるな……と思った。







 ……。


 ……。


 …………温かい日差しが、肌に触れる。私としては気にも留めない程度の暑さだが、人間にとっては少し辛いものがあるらしい。通り過ぎる人間の大半が額に汗を浮かべ、熱気から来る不快感に顔をしかめていた。



 ――そして、おそらく。今の私が感じているこの不快な感覚も、彼らと似たようなものなのだと思う。



 ただ、その原因は己の身体を覆い隠すローブではなく、己の胸と股間を覆う、いつもよりも多めに巻かれた布のせいであった。


 きゅう、二つを締め付ける感触に、思わず顔をしかめてしまう。そのせいで傍を歩いていた女子が肩をびくつかせてしまった。



「すまない」



 一言謝ってはおいたが、苛立ちと不快感は募るばかりであり、自然と足の動きが早まってしまうのを抑えられなかった。



(マリアのやつめ……!)



 何時も着ているアレでは、少々目に毒だと言われて没収されてしまった。どうも、男の欲情というやつを悪戯に煽ってしまうから……らしい。


 たかが裸でとも思ったが、故郷の子供たちも年頃になるとそうであったことを思い出してしまい、諦める。


 そうなれば、次いで、『これも余計な騒動を起こさない為よ』と、言われてしまえば私に拒否権など無かった。



(好意は有り難い……有り難いのだが……!)



 とはいえ、だからといって、この日の為に用意したという服を見せられた時は、色々な意味で嫌になった。


 曰く、『最低限だけ隠している』というやつらしいが、私からすれば覆い隠す時点で駄目だった。


 人間にとっては服を着るということが当たり前なのだろうが、竜人である私にとっては違う。下着というやつならまだ我慢できるが、服を着るということ自体が堪らなく嫌なのだ。


 こう、息苦しいというか、窮屈というか、とにかく嫌なのだ。マリーが望んでいたからこそ、我慢出来る限界のところで妥協していたというのに……だ。


 いくら皆の頼みとはいえ、それは嫌だ。故に、何度も何度も説明し、頑なに服を着ることを拒んだ。


 その結果、何とか胸と股間を覆うサラシと、翼意外を覆い隠すローブで妥協してもらったが……正直、これなら館にジッとしていた方がマシだったかもしれない。



 ……本当なら、今すぐにでもこのローブを脱ぎ捨て、身体を拘束しているサラシを破り捨てたい。



 しかし、コレはある意味では私を守るためのものであり、少しでも肌に合うようにとマリアたちが用意してくれた、上等なもの。


 それを聞いてしまった以上、せっかく用意してくれたソレを破り捨てるわけにはいかなくなってしまった。


 かといって、館で大人しく過ごすのもマリアたちの好意を無下にしてしまう……そう迷った時点で、私の今は確定されていたのかもしれない。



(……だいたい、暑いのであれば裸になれば良いではないか。お前らがわざわざ服なんて物を着るから、私も服を着る羽目になってしまうんだぞ……!)



 そうだ、その通りだ。


 そもそも、寒くもないのに服なんてものを着ようとする、その考え方が駄目なのだ。


 服を着るなんて、己が弱さを周囲に教えるだけ。生まれたままの姿で、服など必要ないという強靭さを見せた方がよいではないか!


 傍を過ぎる通行人たちの視線を感じながら、私は思わずそう苛立ってしまう。ついでに、抑えきれない歯軋りも。そのせいでますます視線が集まってしまった。



 “なあ、あの姉ちゃんの羽と角って、作り物かな?”


 “あれ、知らねえの? あいつは例の館に住んでいる亜人だぞ”



 しかし、ふと聞こえてきた声に私は目を見開いた。振り返れば、私の視線に驚いて、慌てて離れて行く二人の男の姿があった。


 その他にも、たまたま目の合った女は肩を竦めて視線を逸らし、年老いた老婆はそっと帽子をかぶり直しているのが見えた。



 ――しまった。



 慌てて翼を丸めて折り畳み、軽く肩を丸める。そのせいで余計に胸と股間の布が食い込んでしまったが……我慢する他あるまい。目立たないようにと思っていた矢先にコレとは、阿呆以外の何ものでもないだろう。


 ……これでは、帰った時にマリアたちから怒られてしまうかもしれぬ。


 そのことだけを考えながら、人間たちの視線から逃れる様に先を急ぐ。そして、幾つかの路地を曲がったところで、ようやく肩の力を抜いた。



(……まあ、ここでは服を着るのが掟なのだ。ここで暮らす以上、ここの掟に従うのが道理というものか……)



 そして、ようやく己を納得させ、顔から不快感を隠せる程度にまで気を落ち着かせたのは、最後の路地を抜けて大通りに出た辺りであった。



「……今日はずいぶんと人の数が多いな」



 行き交う人々の喧騒のせいか、静かであった景色が一気に騒がしくなった。


 朝と言うには遅く、昼というには早い時間帯だからだろうか。


 ここに来るまでにも女たちの喧しいお喋りや鳥の声、子供たちの声が聞こえて来ていたが……眼前のソレらと比べたら、まだ静かな方だったようだ。


 何人かの人間たちが、私に気づいて視線を向ける。その誰もが一瞬ばかり驚いた顔を見せる。おそらく、私がこの辺りでは……いや、ここですら見かけない亜人だからだろう。


 けれども、その誰もが直後に思い出したように軽く頷くと、興味を失せたかのようにこちらから視線を外していく。おそらく、私が何処の者かを思い出したからだろう。


 中には一瞥をくれるだけで何の反応も示さない者もいるが、そういったやつは亜人というものに興味すら抱いていない。というか、関わりたくないのだろう。


 初めから私など見ていなかったかのように視線を前に向けると、人の流れに沿うようにどこかへ消えて行く……のを、私は黙って見送った。



(……さて、どうしようか?)



 ぼんやりと人波を眺めていた私であったが、何時までもそうしているわけにもいかない。


 せっかく、ここまで我慢して外に出たのだ……何もしないままに一日を終えるのは、さすがに退屈過ぎるし、申し訳ない気もする。



(とは言うものの、知っている場所は市場かマリアたちの行きつけの店ぐらいだから……行くのなら、それ以外が良いのだが……)



 胸の中に押し込んだ財布を取り出し、金を確認する。高いのか少ないのかは分からないが、『お腹いっぱい昼食が食べられる代金分』はあるらしい。


 本当に、有り難い事だ。傷つけないように枚数を数えると、それを財布にしまった……ところで、私は頬を掻いた。



(……忘れていた)



 そういえば、無駄遣いしないようにと言われたが、いったい何が無駄で、何が無駄ではないのかを聞いていなかった。


 これでは何を買えるのか、どれが許されないのか、それが、まるで分からないではないか。



(一旦、引き返すか)



 結論を出した私は、元の場所に袋を仕舞おうと胸元を広げ……た瞬間、視界の端を過った何かに、目を止めた。



 ――糸?



 光を受けてきらめくそれの先端には、返しの付いた針が一つ。ゆらりとくねる糸の先が、音も無く私の胸元に――財布へと食い込む――知覚した瞬間、持っていた財布が宙を舞った。



(なんだ?)



 宙を舞う前に奪い返すことは出来たが、私はとりあえず財布の行方を見つめる。ゆるやかな動きで空を飛んだ財布は、人並みの向こうにある家の屋根の上に居た人間によって捕まえられた。



 ……その人間は、成人を迎えてはいないであろう子供だ。



 それも、木の棒を持った二人の子供であった。とはいえ、度胸はあるようなのか……二人は私の視線に気づいても慌てる様子も無く、素早く逃げて行ってしまった。



「……あのさ、追わなくていいのかい?」



 ぼんやりと消えた二人の居た場所に目を向けていると、横合いからそんな声を掛けられた。


 振り向けば、店の前に置かれた椅子に腰を下ろしていた若い男と目が合った。さっきのよりも、大人だ。



「早く追わないと、見失っちゃうよ」

「……追う、とは?」

「お金、取られちゃったんでしょ?」

「……?」

「いや、そんな不思議そうに首傾げられても……まあ、そこで待っていてもお金は返って来ないのは確かだよ」



 ……もしや、あれがマリアの言っていた盗人というやつか!? 初めて見たぞ!



「……うん、まあ、そうだよ」



 半ば確信を抱いて尋ねると、なぜか困ったような顔をされた。



 ――親切なやつなのかもしれないが、失礼なやつだ。



 そう、私は思った。







 ――身を屈め、鼻を鳴らす。



 多種多様の臭いが残る空間の中にある、わずかな臭い。あの少年たちが居た場所だけで嗅ぎ取れた、二人の体臭……それを捕らえ、臭いの強く残る方向へと歩を進める。


 馬鹿な少年たちだ。そう、私は思った。


 雨の日ならばいざ知らず、今日のような天気の良い日……風もない穏やかな日に盗みを働くとは……この我を前に、大した……いや、そうじゃない。



(よくよく思い出したら、人間は私たちのように『臭い』を頼りに探すことは出来ないんだったな……なるほど、あの男が困った顔をするのも頷ける)



 そう考えると、納得出来る。間抜けとしか言いようがないぐらいに、あの二人がこれだけの痕跡を残しているのも頷ける。


 おそらく、少年たちは私が臭いを辿れることを知らなかったのだ。だからこそ、途中で臭いを誤魔化すようなことをしなかったのだろう。



(すまんな、名も知らない人間。次に再会する時があれば、謝っておこう)



 足跡のように残る臭いを頼りに、街中を走り回ること幾しばらく。


 ひと際強く臭いが漂っているソコ……開けた場所にたどり着いた私は、安堵のため息が零れた。



(……ふむ、どうやらここは公園というやつか)



 入口から確認出来た中の様子に、軽く頷く。公園の中央には十数人ばかりの人間が思い思いにくつろいでいるのが言える。


 おそらく、幾らかは親子……というか、家族だろう。


 後援の四方には椅子やテーブルが置かれており、そこにも何人かの人間がくつろいでいる。この場所が喧騒から少しばかり離れているせいか、食べ物をテーブルに広げて、のんびりと食事を取っているようであった。



 ……どうやら、ここはそういう場所のようだ。



 穏やかに過ごしている者たちの傍で争うのは、無粋にも程がある。それならば、騒がしくするわけにもいくまい。


 ……出来る限り、穏便に事を済ませるとしよう。


 そう判断した私は、さっさと公園内に入って臭いを辿る。私の存在に気づいた人間たちの驚いた様子が伝わって来たが、私は構わず公園の中を進み……さっきの二人を見つけ……思わず、目を瞬かせた。



(……思っていたよりも小さいな)



 近寄ってみて、よく分かる。1人は茶髪、1人は黒髪。子供だと思っていた方は遠目で見た時よりも華奢で、私よりも二回り以上は小さかった。



(とはいえ、間違いない……臭いの出所はあの二人からだな)



 話しこんでいる様子の二人は、こちらに背を向けた形で椅子に座っている。



 まだ、こちらには気づいていないようだ。



 その手元は見えないが、後ろからでも分かるぐらいに、二人の声には元気が感じ取れた。


 ……金勘定でもしているのだろう。


 そう判断した私は、特に気にすることもなく二人の背中へ歩み寄る……と、一人が私の気配に気づいたのか、茶髪の方が何気なく私へ振り返る。やはり、顔立ちも子供であった。



「――っ!?」



 大きく目を見開いた少年は、その場から仰け反るようにして立ち上がった。黒髪も気づいて私へと振り返り、顔をしかめて後ずさる。


 歯を食いしばっているのは、焦りのせいなのか、それとも……まあいい。穏便に済ませようと思っていたが、どうもそれは出来なさそうだ。


 加えて、少年たちは私の隙を伺っているようで……金を返そうとは思っていないようだ。


 その証拠に、財布を私の視線から隠すように茶髪の少年が抱え込んでしまっていた。意地でも返さないという、鉄の意思が見て取れる。


 それを見た私は、本当に……心から困ってしまった。



(……さて、どうやって返して貰おうか)



 その気になれば何時でも奪い返すことは出来るし、私としては金さえ返して貰えればそれでいいのだが、相手は子供だ。


 殺し合いで挑むのであればまだしも、見た所、そこまでの気概も気迫も……あんまり手荒なことはしたくないのだが……ん?



 ――ふと、少年たちの視線が一瞬ばかり私の後ろへと向けられたことに気づく。



 気のせいかとも思ったが、少年たちの顔にこれまでとは違う……焦りのような何かが浮かび始めたのを見て、私は首を傾げながらも振り返った。



「あ、あの……!」



 そこには、少年たちよりも一回り小さい……女の子が立っていた。明らかにか弱く、私の腰よりも低い位置に頭が有る。


 怯えているのか、その瞳には大粒の涙が滲んでいる。しかし、少女は己の服を握り締めて涙を堪えると、恐怖に歪んだ顔で私を見上げてきた。



「ご、ごめんなさい!」



 と、思ったら、その女の子は小さな頭を深々と下げた。ぽろぽろと、地面に跡を作っていく涙の滴と、抑えきれない鼻啜り……顔は見えなくても、泣いているのが一目で分かる。


 遠くから様子をうかがっていた幾人かの人間たちが、驚きに顔を見合わせるのを……視界の端で確認した私は、ついに抑えきれなくなったため息を零した。



「――そいつは関係ないんだ!」

「――そうだ、悪いのは俺たちなんだ!」



 途端、背後から少年らの悲鳴が私にぶつけられる。嫌な予感を覚えつつも振り返れば、そこには気合を漲らせた二人。今まで弱気な顔を見せていたとは思えない程の、確かな覚悟を目に灯らせていた。



(……さて、困ったことになったぞ)



 返して貰えるだけでよいのに……なんでこうなったのだろうか。


 心の中でも、深々とため息を吐いてしまう。


 正直、もう金はくれてやろうかとすら思えて来たが……その金自体はマリアたちが用意してくれたものだ。


 どう使おうがマリアたちは気にしないだろうが、飯代の為にと言われているので、それ以外に使うのも……何だか落ち着かない。



(うむ、どうしていいか全く思いつかぬぞ)



 途方に暮れる……というやつなのだろう。


 ………こういう時、イシュタリアやナタリア、サララやマリーならどう切り返すのだろうか。


 記憶に残っている皆の姿を思い返してみるが……駄目だ、やはり何も浮かんでこない。皆なら上手い事やる姿は想像出来るが、具体的な部分がサッパリだ。



 ……こうなったら、さっさと奪い取って逃げるべきか。



 そんな考えすら頭の中を過ってしま――ん?



 瞬間、迫り来る気配を察知した私は、反射的に振り返る。


 直後、細く頼りない腕が、私の腰をぐるりと抱き締める。受け止める形となった私は……顔中に汗を滲ませた黒髪の坊やを見下ろした。



「――ここは僕が押さえるから、早く逃げろ!」



 その坊やが、私に抱き着いたまま少年と女の子に叫ぶ。それを聞いて我に返った茶髪の少年が、「――すまん!」必死の形相で回り込んで女の子の手を掴むと、振り返ることなく駈け出した。


 途中、何度も女の子が坊やへと振り返るが、そのたびに「――早く行け!」叫ぶ黒髪の坊やによって……二人は、公園を出て喧騒の奥へと消えて行った。




 ……。


 ……。


 ……後に残されたのは、何が何だか分からないままに抱き締められている私と、ふうふうと息を乱しながらも渾身の力を込めている少年……いや、坊やであった。



(……まあ、あの二人は臭いで辿れるとして……だ)



 背後から感じ取れる視線へ振り返れば、一斉に視線を逸らす人間たちの姿が見える。いったい、どのような意味で私は見られているのだろうか。


 もしかしたら加勢されるかと警戒するが、しばらくしても動き出す気配が感じられなかったので……私は、改めてこの子を観察することにした。



(問題は、この子だな……むう、この坊や……足を怪我しているのか? もしや、ここに来る途中で……?)



 かくり、かくりと坊やの足から何度も力が抜けるのを見やる。そのせいで、只でさえ力が足りていないのに、腰が引けてしまっている。


 臭いから嗅ぎ取れる限りでは、出血していないようだ。苦悶に歪む顔を見る限りでは、かなりの激痛なのだろう。



 だから、この坊やは逃げるよりも己を囮にすることを選んだのか……冷静な判断だ。



 背丈は私の顔より下……ちょうど坊やの鼻先が私の首もとに来る位置だろうか。髪に隠れた耳は真っ赤になっており、息を止めるたびに締め付けが強くなる……が、所詮は坊やの腕力だ。


 はっきり言って、欠片も苦しくはない……とはいえ、だ。


 私を押さえるには絶望的にか弱い努力といっても、竜人である我を相手に一歩も引かないその度胸……嫌いではない。


 特に、こうやって勝てないながらも全力で立ち向かおうとする姿は……なにやら、昔の弟の姿を思い出してしまう。


 そして、弟からマリーの姿を思い出して……思い出してしまえば、もう私にはこの坊やをどうこうする気は無くなっていた。



(……まあ、どうせ今日は自由なのだ。面倒なことになろうとも、それもまた楽しめばいいか)



 そう結論を出した私は、半ば身体を預ける様にしてもたれ掛ってきている坊やの頭を、「――分かった、私の負けだ」そっと撫でてやった。



「――えっ?」

「その足で、よくぞ抗った。子供でありながらも、お前はもう立派な戦士だ」



 驚いたように顔をあげた坊やの身体を、一息に抱える。「――な、何を!?」驚いて手足を振り回すが、私は気にせず近くの椅子に駆け寄ると、そこに坊やを下ろしてやる。そして、私も坊やの前に膝をついた。



「靴を脱げ」

「な、何だよ急に……」



 狼狽える坊や……やはり、まだ子供だ。



「私の手で無理やり脱がされる前に、靴を脱いでおけ」



 軽く力を込めて睨めば、それで坊やも諦めたようだ。見るからに不安と不満と不審を露わにしながらも、大人しく靴を脱ぎ……思った通りだった。



「ほう、この足でよくぞここまで逃げたものだな」

「そりゃあ、捕まったら袋叩きにされちゃうから……」



 項垂れたまま答える坊やの、赤く腫れた足首の辺りを摩った途端、「――っ!」ビクッと坊やの顔色が悪くなる。両足首とも、熱を持っている。


 両方とも腫れてはいるが、右足の反応がはるかに鋭い。左は軽く捻った程度で、右足は……骨にヒビか、肉を痛めてしまったのかもしれない。



(これは確か、『足を挫いている』という状態……だったか。前にエイミーがこうなった時、たしか水で洗って冷やしていたような……)



 骨や肉にまで傷を負っていたら、私には手出し出来ない。しかし、足を挫いている程度であれば、私も何度か経験しているので対処法は分かっている……なので、立ち上がって辺りを見回す。



 ……期待などしていなかったが、運は巡って来ているようだ。



 こちらを覗いている人間の中に目当ての人間が居るのを見て、急いで駆け寄る。何故か苦笑しているその人間は、私が何かを言う前に小さな……水の詰まった瓶を私に差し出した。



「いいのか?」



 思わず受け取った私が尋ねれば、目の前の人間は……何故か笑みを見せた。



「その為に、『水屋』の俺のところに来たんでしょうが」



 ……まあ、その通りではあるのだが。



「金は後で用意する。何処へ行けばいい?」

「いらんよ。面白い物も見られたし、それぐらいなら奢ってやるよ」



 そう言われてしまえば、それ以上は何も言えない。「この借りは何時か返そう」せめて、それだけを目の前の人間に伝えると、私は再び坊やの元へ駆け寄った。大きく見開かれた坊やの瞳と、目が合った。



「さあ、足を上げろ」

「……姉ちゃん、なんで俺にそんなことを?」

「私がそうしたいと思ったからだ。さあ、上げろ」



 再度睨めば、坊やは恐る恐る足を上げてくれる。そう、子供は素直なのが一番だ。


 私はその足を「痛っ――!?」掴んで支えると、口で瓶の蓋を外し……中に入っていた水をその足に掛けてやる。次いで、私は己が身体を包んでいるローブで水気を拭いてやった。



「痛くはないか?」

「……大丈夫」

「そうか、お前は強い子だな」

「…………」

「さて、後はこの足を……あっ――」



 抵抗しなくなった坊やの足を持ちながら私は……今更になって、足を固定するモノが必要であることを思い出す。


 故郷にて過ごしていた時は、薄くも頑丈で平べったい葉や木の皮などを使って固定していたが……さすがに、ここにはそんな便利なモノはないだろう。



「……いちおう聞くが、布か何かは持っているか?」



 どうせ、持っていない。持っていたら、とっくの昔に治療に使っていただろうから……と思いながらも尋ねてみるが、思った通り首を横に振られてしまった。


 では、何か代わりになる物はないだろうか。


 そう思って今身に纏っているこのローブを見やるが、これでは逆に力のムラが出てしまい悪化させてしまいそうだ。破いて結んで……うむ、まっすぐな巻き布をこしらえる自信がまるで無い。


 傷口を押さえるのではなく、固定するだけでいいのに、それが出来そうにない。


 かといって、ローブを無理やり巻き付け……たぶん、痛がりそうだ。


 というか、間違いなく痛いだろう。相手は子供だし、私の下手くそな巻き方でも大丈夫な、細くて平べったい、ちゃんとしたやつでなければ……あっ。



(何を困る必要がある。巻き布ならば、ここにあるではないか)



 ローブの前を空けて、胸を覆っているサラシを解く。「――え、ね、姉ちゃん!?」痛みがぶり返したのか、真っ赤な顔で目を見開く坊やを他所に、私は今朝ぶりに感じられる開放感に軽く息を吐くと、それを優しく坊やの右足に巻き付けた。



「あいにくと、見様見真似の下手くそな巻き方だが、我慢してくれ」

「え、あ、う、うん……ありがとう」

「痛みはどうだ?」

「う、うん、こうしている限りは大丈夫……」



 そう言いつつも、坊やは決して私の目を見ようとはせず、視線を時折あさっての方向へ向けたりしながらも私の胸元へ注いでいる。右に、左に、視線が落ち着いていなかった。



(……まあ、小さいとはいえ男だ。亜人であるとはいえ、女の私に情けを掛けられるのは大そう屈辱であろう)



 少々私には分かりにくい感覚だが、坊やにも坊やなりの意地が、羞恥が、そうさせるのだろう。


 先ほどよりもいくらか顔の赤みが増し、鼻息が荒くなっている坊やを見て……私は立ち上がった。



「よし、次は左足だ。少し汚いと思うだろうが、我慢しろ」

「え、汚いって、あ、いや、こっちはそんなに痛くは――!?」

「いいから、大人しくしろ」



 股を覆うサラシを解き、手繰り寄せる。そうして、さて巻いてやろうかと視線を下ろせば……不思議なことに坊やは、目を見開いたまま硬直していた。


 ……どうしたのだろうか。


 気になって私も己が足元に目を向けるが、特にそれらしいモノは見当たらない。もしかして、と思って手に持ったサラシを見やり……納得に頷いた。



「安心しろ」

「……え?」



 呆けた顔をあげた坊やの頭に、手を置いた。



「今朝、ちゃんとココも洗った。だからコレもそこまで汚れてはいないぞ」



 そう言って私が自分の股を指差し、坊やの眼前にサラシを見せる……途端、坊やの鼻から一筋、鮮血が滴り落ちた。


 その熱にようやく我に返ったのか、「あ、ご、ごめんなさい!」坊やは慌てて私から顔を逸らした。



「ほ、本当にごめ――」

「やれやれ、そんな体で無茶をしたからだ」



 ――仕方がない、これでしばらく押さえておけ。



 そう言って、手に持っていたサラシを坊やの鼻に押し付けると……なぜか、ぶぼっ、と坊やの鼻から鮮血が噴き出した。



 ……とりあえず、元気なのは確かなようだ。



 それを確認出来た私は、ようやく安堵のため息を零せた。




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