第三十二話 マリーの矜持

※グロテスク描写&暴力描写&性的描写があり、注意要







 ……内心を億尾にも出さずに、九丈は裾から伸びる触手をくねらせた。目的が変わったということを悟られる素振りは、欠片も見せない。



「その身体でよくもまあ強気になれる……正直なところ、称賛してやりたい気持ちはありますねえ……少しばかり、気が変わりましたよ」



 しかし、それが何時も正しい結果を生み出すわけではないのだけれども。


 そう続けた九丈の言葉に連動するように、刃のように研ぎ澄まされた触手の一本が『ドレス』の前を一直線に切り分けた。



「――っ!」



 その瞬間、いよいよマリーが殺されると思ったのだろう。サッと、イシュタリアたちからの気配が変わった。


 しかし、ごきり、と奥歯を噛み砕いて動き出そうとしたイシュタリアの足が、「――動くなと言ったはずですよ」九丈の一喝で止められる。


 同時に、飛び出しかけたサララとナタリアを嘲笑うかのように、彼女たちの眼前を触手眼球がぐるぐると蠢いた。


 ……切られた『ドレス』が広げられれば、露わになったのは汗濡れの白い肌に浮かぶ、淡い桃色の頂点が二つ。女には決して持てない、意識の片隅を惹きつける妖しさが、ふわっ、と香る。


 白い肌だからこそ目立つ青痣と擦り傷が痛々しいものの……いや、違う。むしろその傷があるからこその、何とも言えない色気がそこにはあった。



 ほう……九丈の目じりが、ピクリと震えた。しかし、それ以上は何も言わなかった。



 生地に編み込まれていた魔術文字式が分断されたことで、『ドレス』の機能が失われる。先ほどよりも明らかに脆くなったそれを、鋭き触手はこそぐように裂いていき……マリーの肌を守る物は、股を覆う一枚だけとなった。


 その一枚を、九丈は無造作に引きずりおろして破り捨てる。直後、九丈の目が大きく見開かれた。驚愕の表情を、露わにした。



「……男?」



 ポツリと零れた九丈の言葉に、マリーは何も言わずに視線を逸らした。


 九丈は目を瞬かせながら、視線を何度も上下させる……そして、イシュタリアたちに驚いた反応が無い事に気づき……ふう、とため息を吐いた。



「……『地下街』に入った当初から、ある程度あなたのことを見張ってはいましたが……こう言っては何ですが、男とは思えない程に綺麗な身体をしていますねえ」



 改めて、上から下へ、舐めるように九丈は視線を上下させる。



 ……本当に、綺麗な身体をしていると九丈は素直に思った。



 女に比べたら当然ながら起伏こそ無いものの、これまで見てきた女たちの誰よりも綺麗で、誰よりも儚さを感じさせる、その裸体。



 これが……本当に、人間の身体なのだろうか?



 そんな疑念すら、浮かんでくる。まるで、意図的に美しくなるように作られた精巧な身体のようで……九丈は思わず胸中に熱が灯るのを実感した。



 ……しかし、その直後。



 マリーから向けられる余裕ありげな笑みに気づいて、かちり、と頭の中で何かが破裂した感覚を九丈は覚えた。





『お前のやることなど、何の意味も無い』





 そう言わんばかりな、その笑みを前に……にわかに浮かんだ獣欲が消し飛び、仄暗い何かが顔を覗かせた。


 つぶっ、と鋭き触手がマリーの肌の上を滑った。痛みに表情を歪めるマリーを他所に、触手の刃は左右に動きを変える。


 握りしめた拳から血が滴り落ちているイシュタリアたち……彼女たちの視線を感じながら、九丈はぺろりと己の唇を舐める。



 ……消し飛んだ獣欲の代わりに姿を見せたもの……それは加虐心であった。



 この状況でも涙一つ見せないマリーの顔を、絶望に塗り変えてやりたい。

 この状況でも砕けないマリーの心を、粉々に打ち砕いて辱めたい。



 そんな思いが九丈の脳裏に、ごう、と燃え上がる。


 だが……すぐに九丈は軽く頭を振って思考を切り替える。しゅるりと伸ばした触手と、眼前の白い裸体を見比べる……面白くない、そう九丈は率直に思った。


 普通にやるだけでは、意味がない。当たり前のように辱めるだけでは、意味がない。


 もっと別の、より心を痛めつけるやり方があるのではないか……眼前の美しい少年の心を砕く、えげつないやり方が――。



「……いいことを思いつきましたよ」



 ――瞬間、九丈は自然と笑みを浮かべていた。



 思いついたからには行動は速く、地面に落ちていたマリーのビッグ・ポケットを彼方へ放り投げ、そこにマリーを跪かせる形で叩きつけた。



「くっ――」



 いくら下が土とはいえ、無理やりそんな体勢を取らされれば膝やら掌やらを傷つける。じわりと滲む痺れと痛みに唇を噛み締めたマリーに、九丈は軽く頭を下げた。



「おやおや、済みません。少し性急すぎましたねえ」

「……何を企んでいるんだ?」



 低姿勢になった九丈に、マリーは視線を強める。しかし、九丈はそれに答えず……タイミングよく到着した『大男』という形をした化け物を、傍まで呼び寄せた。



「――っ!?」



 まだ、生き残りがいたのか。新たな化け物の登場に身構えるイシュタリアたちを他所に、九丈はちょいちょいと……ナタリアを手招きした。



「来なさい、ナタリアちゃん。この子の命が惜しいのであれば……ねえ?」



 警戒を露わにして目つきを鋭くするナタリアであったが、マリーの姿を見て覚悟を決めたのだろう。


 己を囲う触手を掻き分け、疲労で震える足をどうにか動かして、九丈たちの前に立った。


 ねっとりと、九丈はナタリアの全身を見つめる。


 いくらナタリアとはいえ、憎悪を抱く相手から明け透けな視線を向けられるのは嫌なのだろう。その視線は、初めてマリーたちと出会った時以上に冷え切っていた。



「――脱ぎなさい」



 そんな視線を物ともせず、九丈はそう命令した。当然、ナタリアだけでなく、イシュタリアたちの目に憎悪とは別の色が浮かんだが――。



「忠告しておきますが、私は首を切り落とされたぐらいでは死にません。それと、不用意にそれを外そうとすれば、そのまま串刺しになりますよ。その結果どうなるかを試したければ、御止めはしません……加えて、横のこいつが見えないわけではないでしょう?」



 ――そう言われてしまえば、ナタリアはもちろん、イシュタリアたちも何も出来なかった。



 ただ一人、マリーから「おい、止めろ!」という声があがったが、九丈がその声に耳を貸すはずもない。


 少し迷いを見せたナタリアであったが、すぐに抵抗することなく身に纏っている衣服を下ろし始めた。


 する、する、するり。あっという間に下着一枚となったナタリアは、その体格からは二回りは大きいパンツに指を掛け……一瞬ばかり躊躇を見せた後、一息に足首まで下ろす。



「驚きましたねえ……あなたもですか?」



 それもまた、九丈にとっては想定外だったのだろう。


 興味あり気に目を細める九条をしり目に、ナタリアは履いていた下着を傍へ投げ捨てると……仁王立ちになった。



「おほほほ、これはまたデカいですなあ」



 伸ばされた触手眼球が、ナタリアの股間をあらゆる方向から見つめる。しかしナタリアは羞恥心の一切を表に出すことなく、憎悪の眼差しを向けるだけ。


 それを確認した九丈は、にっこりと満面の笑みを浮かべ……マリーを指差した。



「その一物で、こいつを辱めなさい」



 ……瞬間、空気が凍った音をナタリアたちは確かに聞いた。



 何を言われたのかが分からず、呆然とする。徐々にナタリアたちの脳裏に理解が深まっていくに従って――。



「従えないのなら、こうしますよ」



 ――ずどん、と響いた鈍い音。



 それによって、ナタリアたちは我に返った。「――がはっ!」触手の一撃で咳き込むマリーを見て、ナタリアたちが飛び出さなかったのは、ほとんど奇跡に近かった。



「どうしますか? なんなら、コレにやらせてもこっちはいいんですよ?」

「貴様、何が狙いなのじゃ?」



 コレ、と指差された化け物を見て、イシュタリアが目を細める。けれども、「そんなの、わざわざあなたたちに教える理由がどこにあるのですか?」九丈にはどこ吹く風であった。



「そやつのソレは、常人よりも大きい。やるなら私にするのじゃ」

「駄目ですよ。それではつまらない」



 そして、取りつく暇もなかった。



「それで死んだらどうするつもりかのう?」

「死んだら、それまでですよ」

「……そうじゃな。その時は、私がお前を八つ裂きにするときじゃな」



 イシュタリアたちの表情を見て九丈はますます笑みを深めると、ナタリアの背中を叩いて、マリーへと押し出す。ボロボロになったマリーと目があったナタリアは、じんわりと涙を滲ませた。



「ま、マリー……」



 カタカタと、ナタリアの全身が震えているのをマリーは見上げる。眼前にて垂れ下がったナタリアのそこに目をやれば、かわいそうと思ってしまえるぐらいに縮こまっているのが見えた。



 ……マリーは、覚悟を決めた。




「そんな顔するんじゃねえよ……いつもの元気はどうした?」

「そんな、そんなの……できるわけがないじゃない……」

「おいおい、前に俺にやったことを忘れたのか?」

「あん、あんなの、もう、あなたには絶対しないって約束したじゃない……」



 ポロポロと、大粒の涙を幾つも零すナタリアを見て、マリーは苦笑した。苦笑してしまうことが出来るぐらいに現状を受け入れられている自分が、マリーには不思議であった。



「はは、ご丁寧にそういう姿勢を取れる程度には拘束を緩めてやがる……九丈、てめえも中々の変態だな」

「褒められても、何も出しませんよ」

「……死ねよ、糞野郎」



 満面の笑みを返す九丈を見て、それ以上マリーは何も言わなかった。少しでも気分を害したのならば、気も晴れるところなのだが……まあいい。


 己の後頭部に張り付く鋭き触手の刃を感じながら、苦労して四つん這いになる。それを見たナタリアは、嫌々と首を横に振った。



「出来ない……私、もう出来ないわよ……」



 しかし、現実がそれを許さなかった。


 つぷっ、とマリーの頭に食い込んだ触手の刃を見て、ナタリアは慌ててマリーの後ろに膝をつく。そして、震える手でどうにか位置を合わせようとするが……無理であった。


 えぐっ、えぐっ、喉を引き攣らせ、涙で濡れた顔を腕で拭いながら、ナタリアは必死に位置を合わせようとする。けれども、無理であった。胸中に浮かぶこれまでの思い出が、邪魔をした。


 マリーの顔が、イシュタリアが、サララが、ドラコが、館の女たちの顔が、次々に浮かんでは消えていく。脳裏を過る彼女たちとの約束と笑顔を前に、ナタリアは涙を止めることが出来なかった。



「……あまり待たせられるのは嫌いなんですけどねえ」



 そう九丈が零した直後、手足を拘束する触手の締め付けが増し、思わずマリーは呻き声をあげる。「――待って! すぐに準備が終わるから!」それに気づいたナタリアは一旦マリーから離れる。


 次いで、痛みを伴う程に強く扱くが……一向に固くなる気配がないそれを見て、固く唇を噛み締める。




 どうして、どうして、どうして……!




 ナタリアの頭は、その言葉で埋め尽くされていた。


 脳裏に、これまで己が食べてきた男たちの姿をいくつも思い浮かべてみるが、快感はおろか反応すら感じ取れない。力無く垂れ下がっているそれを見て、ますますナタリアは零す涙を増やし――。



「ナタリア、ちょっと手を離せ」



 その手を、マリーに止められた。するりと外された己の手を見て、あっ、とナタリアが声をあげる前に――。



「――っぁぁぁ、ま、マリー……」



 痣と泥と血反吐まみれのマリーの顔が、股間の根元にぺったりとくっついた。直後、びくん、とナタリアの肩が震えた。



「ま、マリー……だ、駄目、汚いから……!」



 鋭くも温かい快感に、ナタリアの背筋が震えた。反射的にマリーの肩を押さえて腰を引こうとするが、マリーの頭に取り付けられた肉茨の兜が気になって、押し返すことが出来ない。


 高まっていく熱意に合わせて、どんどんそこに集まって行く血流。


 信じられない事態、信じられない感覚に、ナタリアはただその身を震わせるしかなく、イシュタリアたちは歯を食いしばって見つめることしか出来なかった。



「――あーはっはっはっは!! こりゃあ面白い! なんて傑作な光景なんでしょうねえ!!!」



 九丈の笑い声が、『地下街』に響く。よほど面白いのか、涙を目じりに滲ませながら、膝を叩いて腹を押さえている。「――おっと、うふふふ、動くと、この子を、ふふ、殺すことになりますよ!!」それでも監視の目は緩めていないようで、イシュタリアたちの舌打ちがさらに笑い声を深めた。



「――うぇほ! えほっ! えほっ!」



 時間にして、ほんの一分少々だろうか。許容面積を上回ったサイズを強引に吐き出して、マリーは大きく咳き込む。粘着質な銀の糸が立ちあがったソレとマリーの唇を繋ぎ、千切れて途切れた。



「えほっ……はあ、はあ、はあ、はあ……こ、これでいけるだろ」



 己の粘液で汚れたそれを見上げながら、マリーは改めてナタリアに背を向けて四つん這いになる。それを見てようやく覚悟を決めたナタリアは、せめて痛みを軽くしようとマリーの尻に顔を近づける。


 しかし、触手の刃が食い込んだのを見て、慌てて止める。「ごめん、ごめんなさい、マリー……!」諦めて、粘液に塗れたそれを掴んで位置を合わせると……おもむろに、腰を突き出した。



「――っぐ、ぅぅぅぅぅ……!!!」



 びくん、とマリーの身体が震える。乱れた銀白色の髪が、ふわりと舞った。



「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」



 あまりの激痛に声すら出せずにいるマリーの背中に、ナタリアは何度も何度も謝り続ける。許容量を大幅に上回ったそれによって切れた部分から、鮮血が滲み出る。


 かつてはマリーが涙を流し、ナタリアが呻き声をあげた。


 しかし今は、ナタリアが涙を流し、マリーが呻き声をあげる、逆の光景。無憎たちが、もうこれ以上見ていられないとマリーから顔を逸らした。



「ほら、いつまでも止まっていないで動きなさい」



 しかし、九丈は容赦しなかった。


 いや、むしろその程度は序の口だと言わんばかりにナタリアの手を、触手を使って無理やりマリーの腰に宛がった。


 ギリギリと、ナタリアは奥歯を噛み締め……幾つもの涙をマリーの腰に零した後、ゆっくりと……静かに、腰を動かし始める。



「いいですねえ……それじゃあ、5分が制限時間ですから頑張ってくださいね」

「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」



 何の制限時間かを、説明されるまでもなかった。マリーを殺させない為に、マリーを助ける為に、ナタリアは徐々に、徐々に、腰の回転を上げていく。


 せめて少しでもマリーの身体を傷つけないように、その背中に抱き着いて、衝撃を抑えるぐらいしかナタリアには出来なかった。



「おほほほほ、愉快愉快、実に愉快!!」



 九丈の笑い声が、『地下街』に響く。


 誰もが言葉を無くして見つめることしか出来ない中、真っ青を通り越して真っ白な顔色となったマリーは……俯いたまま、何かを呟いた。



 ――当然、九丈がそれに気づかないわけがなかった。



 いや、むしろそうなるのを待っていたように、わざわざ二人の前に回ってマリーの髪を掴むと、グイッと引き上げた……だが。



「……んん?」






 露わになったマリーの顔を見て、九丈は目を丸くした。そこにあったのは、九丈が望んでいたモノではなく……いけ好かない、あの笑みであった。






「……何が可笑しい?」



 まず真っ先に九丈の心に浮かんだのは、疑問であった。外道かつ非道である自覚がある九丈だが、感情の機微が分からないほど鈍感ではない。


 絶望という言葉をそのまま体現したかのような状況に陥っているマリーが、なぜそんな顔でいられるのか……本気で、九丈には理解出来なかった。



「いや、なに……あんたが如何に無駄な努力をしているのかと思ってなあ」

「……なに?」



 腰の動きに合わせて脂汗を幾つも地面に落としながら、マリーは喋り難そうに声を詰まらせる。激痛に歯を食いしばりながらも……マリーは……笑みを向けた。



「お前がどういう意図でこれをやったかは知らんが……これで、お前は俺の何が変わると思っているんだ……?」

「……口では何とでも言えますが、あなた、ご自分が今どういう姿になっているか、分かっているのですか? ご自身が、どれだけ惨たらしい姿になっているか分かりますか?」



 グイッと、掴んだマリーの髪を引っ張った。


 それは嫌がらせが半分、おそらくは見ているであろう『あの方』への配慮であった。「なんて無様な恰好だ……本当に、私ならいっそ死にたくなりますねえ」にやりと、九丈は現実を突きつける。



「そりゃあ、俺だって死にたくはなるさ……だが、結局のところ、俺にとってはこの程度さ……」



 しかし、マリーはあっさりとそう言いかえした。



「九丈……てめえは、痩せ細って餓死したガキを見たことがあるか?」

「なに?」

「ハエの集った残飯の隣で、蛆を沸かせているガキの死体を見たことがあるかと聞いているのさ……ね、ねえだろ。そこらのゴミと同じように、郊外に捨てられる年老いた浮浪者の死体なんて見たことねえ……だ、だろ……」



 最奥を突かれた激痛に、うっ、と息を詰まらせる。けれどもマリーは笑みを崩さなかった。



「亡骸となったそいつらの顔を見たことがあるか? ねえだろ……教えておいてやるよ……そいつらの顔にはな……大抵、涙の痕が残っているのさ……」


「……何が言いたいのですか?」


「現実っていうのはな、泣いたって何も解決しないのさ。涙を流してどうにかなる世界なんて、そんなの誰かが用意した世界だけだ……本当の世界はな、泣いたところで、本当の意味では誰も助けちゃくれねえのさ」



 ぎゅうっと、地面の土を握り締めた。



「十回泣いたら飯を恵んでもらえるか? 百回泣いたら家を用意してもらえるか? 千回泣いたら奇跡が貰えるか? 貰えるわけがない……特に、俺のように後ろ盾のないやつにはな……相応の代償を払わねえと、誰も、何も、与えてはくれねえのさ」


「…………」


「尻を掘られて塞ぎ込む……ああ、そうだな。確かに辛い出来事だ。死にたくもなるし、相手を殺したいと恨みもするさ……だがな、そんなこと、俺にとってはそういうこともあった、という程度のことさ。なにせ、俺はまだ死んじゃいないからな」


「…………」


「そうさ、それがどうした。こんな姿になろうとも、その結果こうなっても、俺の答えは何時も一緒……それがどうした、だ。ケツを掘られた? 今までどれだけのウンコをそこから捻り出してきたと思ってんだ」


「…………」


「俺は今、こうして生きている。死んだわけじゃねえ。殴られようが、ケツを掘られようが……まだ、死んだわけじゃねえ。意識が飛びそうで死にかけているが、それでもまだ死んだわけじゃねえ……まだ、抗うことが出来る。生きることが出来るのさ」



 どんどん息と腰の動きが荒くなっていくナタリアの手を、マリーはそっと摩る。それに気づいたナタリアが、真っ赤になった頬を涙で濡らしながら、ラストスパートに入る。


 もはや痛みが強すぎてどれが痛みなのか分からなくなってきたマリーは、血が出る程の強さで再び唇を噛み締める。辛うじて保たれた意識の中、改めて……九丈を見上げた。



「まあ、結局のところ俺が何を言いたいかっていうとだな……」



 プッ、とマリーは口内に溜まっていた血反吐を九丈の顔に吐きつけた、その直後。


 甘く蕩けたナタリアの嬌声と共に、断続的に背骨を揺らしていた衝撃が止まる。


 腰の奥に広がっていく、粘つく熱さを感じ取ったマリーは……べー、と九丈に舌を出した。



「俺をさっさと殺さなかった時点で、お前の負けなのさ」

「――っ!?」

「運が悪かったら、地獄で再開しようぜ」

「――きさ」



 ま、そう続けようとした直前、九丈は背中に衝撃を受けた。


 瞬間、九丈はコンマ何秒という短い時間の間に、素早くイシュタリアたちの姿を確認する……それが誤った選択であったということに、このとき九丈はまだ気づかなかった。



 彼女たちのことなど警戒する前に、マリーを始末すれば良かったのだ。


 マリーの頭を捉えている肉茨の兜に信号を送れば良かったのだ。



 最悪、身体の半分を失っても己なら大丈夫だという考えがいけなかった。


 心のどこかで自分だけは死なないという根拠のない考えがいけなかった。



 動けるのはイシュタリアだけだという先入観に囚われず、己の命を惜しまなければ、最低でもマリーだけは仕留めることが出来たのだ。



 けれども……それは、仕方がなかったのだ。



 生まれてからこれまで、一度も危険らしい危険に遭遇したことがないアマチュアの九丈に、突発的なアクシデントを前に、何度も正しい選択など出来るわけがなかった。



(――なんだ、その顔は?)



 触手眼球から送られてきたイシュタリアたちの様子を見て……九丈は思考の中で困惑した。


 誰も彼もが、驚いたようにこちらを見ている。呆然と、何が起こったのか分からないと言わんばかりに大口を開けている……何だ、何を見ている?


 そう九丈が思考を巡らせた途端、脳天から走った違和感に九条はたたらを踏む。マリーたちの監視を続けながら、触手の一本を制御して新たな触手眼球を作り出す。


 背中に感じる軽い重量に少しばかりの焦りを抱きながら、慌てて形成したばかりの触手眼球を背後に向け……九丈は息を呑んだ。


 ぷつり、と鮮血に濡れた『プッシュ・パス』を引き抜く小柄な影と、覚えのある匂い。ふわりと揺らいだ銀白色の間から覗く、その横顔を見やった九丈は、声なき声をあげる。



 ――ま、さか!?



 九丈だけでなく、イシュタリアたちもその姿に言葉を無くしていた。彼ら彼女らの視線を一身に受けた小柄な影は、赤い目を勝気に細めながら素早く九丈の背中から降り立って――。



「ほいさ」



 ――ナタリアに抱き着かれたマリーと全く同じ顔をした『マリー』は、マリーの頭に装着されていた肉茨の兜を彼方へ放り投げた。そこでようやく九丈が我に返った時には、もう遅かった。


 放物線を描いて飛んでいく肉茨の兜中で、罠が作動する。かしっ、と刃が空ぶったのが九丈の視界に映る。


 彼方へと、小さくなっていくソレを呆然と見つめていた九丈の身体に、幾本もの手斧が食い込んだのは、その直後。



 『マリー』が横たわっているマリーとナタリアを抱えて飛び出すのと、ほぼ同時であった。


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