第三十一話: 蠢く諸悪を統べる者

※ グロテスク&暴力描写あり、注意要 






 ……それにしても、随分と暴れましたねえ。



 力無く吊り下げられているマリーを眺めていた九丈は、そう、呟いた。



「まさか小娘一人を始末する為に、苦労して用意した手下のほとんどを失うことになるとは……おかげで私の計画が台無しですな」



 しゅるりと、着物から伸びた幾つもの細い触手が、マリーの顎を持ち上げるようにして撫でる。


 目を瞑っているからこそ栄える美しくも愛らしい顔立ちに、にゅるり、と透明な粘液がコーティングされる。



 にゅるり、にゅるり、にゅるり。



 瞬く間に粘液まみれになったマリーの身体を這い回る様に、ドレスの裾から触手が潜り込む。


 それを見た二人が飛び出す前に、「――おっと、動くなよ」九丈は二人を睨みつけた。



「そこから少しでも近づいてみなさい。お二人の攻撃が私に届く前に、この子の首をへし折ってあげましょう」



 そう言いながら、九丈は触手の動きを止めない。


 ウィッチ・ローザの明かりに煌めくマリーの姿は、血と粘液と泥にまみれても変わらない美しさと、淫靡な気配を覗かせていた。



「……は、それがどうしたのじゃ」



 練り上げた魔力が、イシュタリアの身体からふわりと立ちのぼる。『時を渡り歩く魔女』として畏怖された伝説が見せる、本気の眼光。


 隣に立つ無憎が思わず慄きたじろぐ程の迫力……それを、イシュタリアは全く手加減せず九丈へと放った。



「首でも何でも、へし折るがよい……その瞬間、貴様を殺し尽くしてやろう。その後、私の魔法術で治せば済む話じゃ」

「おほほほ、怖い怖い……さすが『時を渡り歩く魔女』と呼ばれた御方の言う事は違いますねえ」

「――ほう、私のことを知っているか……感心じゃのう」



 じゃがな、そうイシュタリアは言葉を続けた。



「それならば、私の言葉がただのハッタリではないことぐらい分かるじゃろ?」



 ぼこっ、と隆起した地面から作り出した手斧を二本、構える。隣に立つ無憎も、イシュタリアの反応を見て片手剣を構えるが……九丈は、それらを前にしても余裕を崩さなかった。



「そうですね、あなたの言葉がハッタリではないことは分かります」



 おほほほ、九丈はあの笑い声をあげた。



「ただ、全てが本当ではないことも分かります」



 しゅるりと、触手の一本が動く。それに気づいたイシュタリアが飛び出す――しかし、その足は直後に止まった。


 それを見た九丈は、にやにやと勝ち誇った笑みを浮かべた。



「おや、来ないのですか? 私の首はここですよ?」

「…………っ」



 とん、とん、と己の首を叩く九丈を、イシュタリアは無言のままに睨みつける。次いで、その視線が……マリーの頭にへばり付く鋭い肉の凶器へと向けられた。



 それの見た目は、肉で出来た茨の兜と言ってよかった。



 色合いは触手と同じだが、頭を囲うようにして伸ばされた、鋭い硬質な刃。分厚くも欠けた部分が見当たらないそれが、傷をつけない程度にマリーの額に食い込んでいた。



「私自身、『魔法術』に関しては聞きかじりでしてね。知識一つとっても、あなたの足元にも及ばないでしょう……ですがね、何も知らないわけではないんですよ」



 ぼこん、と地面から飛び出した新たな触手が、イシュタリアたちを個別に囲む。


 斑と焔の驚愕の叫び声が響く中、その身をくねらせていた触手が、びくん、と痙攣する。


 そして、その痙攣を数回程繰り返したと思ったら、それらの先端がぬちゃりと粘液の糸を引いて割れ……中から覗かせた大きな眼球が、ぎょろりとイシュタリアたちを捕らえた。



「例えば、どんな大怪我でも瞬時に治せる魔法術は有っても、死者を蘇らせる魔法術は存在しないということ……とか」



 ニヤリと、九丈は笑う。



「人間は、たとえ大怪我を負っても……即座に治してしまえば、蘇生することは出来る。しかし、一つだけ……頭の中を破壊されば、その限りではない……とか」

「――っ」

「おや、反応を見せない……大したものです。ですが、どうやら図星だったようですね……少しだけ、斧を握る手に力が入ったのを見ましたよ」



 つぷっ……マリーの額に食い込んでいた先端から、血の玉が浮かぶ。



「大方、心臓ぐらいは潰されてもすぐに蘇生させるつもりでいたのでしょう。ですが……頭そのものをぐしゃぐしゃにしてしまえば、御自慢の魔法術も、無理なのでしょう?」



 それは、瞬く間に重力に耐えられなくなって鼻筋を伝い、唇を伝って顎から滴り落ちる。それを見ていたサララが、憤怒の表情で立ち上がるが……。



「おっと、動かない方がいいですよ」



 触手の眼球が、ぎゅるりとその身をくねらせ、サララを威嚇した。



「その目は全て私に繋がっております……だから、何時までも気絶したフリをしていても無駄ですよ、金髪のお嬢ちゃん。そこでまともに動けないでいる人間の真似をしても……私にはバレておりますよ」

「……っ!」



 その言葉に、ナタリアと源の肩がわずかに動く……それだけで、九丈には十分だったようだ。


 源の傍を離れようとしないテトラの様子を確認してから、九丈は改めてイシュタリアへと目を向けた。



「あなたたちが少しでも変な動きをした瞬間、私のコレが、この子の頭を貫きますよ」

「貴様……!」



 ふわりと、イシュタリアの黒髪が逆立つ。感情の高ぶりが、そうさせている。そうしてしまうのを、イシュタリアは抑えられなかった。



「死者蘇生の魔法術を習得しているのであれば、どうぞ、私の首を取りに来なさい……その時は、私が大馬鹿者だったということだけですからね」



 つぷっ、つぷっ、マリーの額に付けられた新たな傷から、血が滲む。


 それを見やったイシュタリアたちは、肉体が燃え尽きてしまいそうな程の怒りに歯軋りをする。得物を握り締める指に、ギリギリと力が入る。


 それが、九丈には堪らないのだろう。「……いいですよ、その顔」キツネ顔を歪に歪ませながら、その瞳に心からの歓喜を滲ませていた。



「その顔が好きなんですよ、その顔が……」



 しゅるり、しゅるり。イシュタリアたちを焦らすように、マリーの前で触手を愚鈍にくねらせる。


 二人のみならず、少し離れた所でこちらを睨みつけていた彼女たちの視線を確認した九丈は、にやりと笑みを浮かべた。



「武器と、その肩に掛けている袋を下ろしなさい。この子を殺したいのなら、そのままで結構ですよ」



 静かに……それでいて、肯定以外の返答を許さない命令。一瞬、イシュタリアと無憎は互いに視線を交差させる。


 マリーの命には代えられないが、ここで武器を失えば……どうなるかは考えるまでもないことであったからだ。


 けれども……かたん、と嫌な音がしたのを耳にして、イシュタリアは九丈を警戒しつつ振り返る。


 眼球触手の向こうに見える、もう一つの触手の檻。今の音は、そこに囲われたサララが、『粛清の槍』とビッグ・ポケットを地面に捨て置いた音であった。


 項垂れているサララを他所に、しゅるしゅると、触手が『粛清の槍』を掴む。ずるずると槍が外に引きずられ、槍の柄に数本の触手が絡み付く。


 そして、しばしそのまま時間が流れた後……フッと、槍は放物線を描いて彼方の陰を転がって行った。その直後、槍を追いかけるようにビッグ・ポケットが放物線を描いた。



 ……これで、サララはまともに戦えなくなった。



 固く唇を噛み締めているサララと、イシュタリアの視線が交差する。無言のままに懇願の眼差しを向けるサララに、イシュタリアは血が出る程に唇を噛み締める。



 ――イシュタリアとて、分かっていた。この状況で命令に背くことがどういうことになるのかを。



 無憎もそれが分かっているからこそ、イシュタリアの判断を仰ぐように得物を下ろしているだけで、放してはいなかった。


 ……武器を捨てるのは簡単だ。時間にして5秒も掛からない。


 だが、それをすればマリーのみならず、サララもナタリアもドラコも……生き残る可能性が潰えてしまう。確実に始末される……まだ体力を残し、かつ死に難いイシュタリアを除いて。



(せめて、こやつらだけでも……!)



 その僅かな葛藤が、イシュタリアの手から力を抜くのを迷わせる。探究者として、長き時を生きる者として、命の引き算を意識せずに行ってしまう。冷酷なまでに、命を数で捉えてしまう。


 ……だが、イシュタリアは知らず知らずの内に動揺していた己に気づいていなかった。と、同時に、イシュタリアは己の内にて育っていた『情』に気付いていなかった。


 今、彼女の眼前に立つ化け物が、そういう葛藤を、その身の宿る情を見逃す相手ではないということに、思考が及んでいなかった。



「……ふむ、そういう顔も好みですが」



 ジッとイシュタリアたちの顔を眺めていた九丈が、ポツリと呟く。ハッと我に返ったイシュタリアが、慌てて九丈に振り向く。



「まっ――」



 しかし、遅かった。イシュタリアが反応するよりも前に、死に掛けたヘビのように愚鈍であった触手が、弾丸が如き勢いでマリーの胸部を叩いた。



「――ごぉ!?」



 聞くだけで肩を竦ませてしまいそうな、鈍く、重苦しい打突音。


 その一撃は、失っていた意識を瞬時に叩き起こし、苦悶に顔を青ざめさせる程の威力があった。


 かはっ、けはっ、意識外から与えられた特大の苦痛に、マリーは拘束されたまま涎と涙を流して悶絶する。


 脂汗が一気に噴き出した横顔を見やった九丈は、おやおや、と驚きの表情を袖で隠した。



「骨の二、三本は砕いたと思ったのですが……これが、『ドレス』というやつの効果なのですねえ……少々驚きましたよ」



 ぐりぐりと、今しがた攻撃した部位を摩りながら九丈は目を瞬かせる。何度も咳き込んでいたマリーは、途切れそうになる意識を持ち上げた。



「だ、誰だてめえ……」



 混乱の極みにあったマリーの赤い瞳が、九丈を捉える。「……お前が、九丈か」しばし思考を働かせた後に出された答えに、九丈は満面の笑みを浮かべて――再び、触手がマリーの胸部を叩いた。



「――ごぉ!?」



 あまりの衝撃に半ば白目を剥きかけたマリーは、反射的に唇を噛み締めて意識を保つ。鮮血が滴るあごの下を、ぬるりと触手が撫でる。



「お前、呼ばわりされる覚えはありませんね。特に、苦労して用意した手下を壊してくれた『お前』みたいなやつには……」



 肉茨の兜から零れたマリーの髪を、九丈はまるで雑草を引っこ抜くかのようにグイッと持ち上げる。「……さて、と」涎と、涙と、鼻水と、鮮血。この四つで汚れた顔を、九丈はイシュタリアたちに見せつけた。



「まだ、答えは変わりませんか?」

「……っ」



 誰に対して言っているのか、分からないイシュタリアではなかった。


 判断を仰ぐ無憎の視線もそうだが、背後から感じ取れるサララの懇願の眼差しが、何よりも心を締め付ける。



「イシュタリア……お願い。私の一生のお願いだから……」



 普段のサララからは想像できない、か弱い声。それに込められた思いを嫌でも感じ取ってしまう……握りしめた手斧の柄にヒビが入る。


 その瞬間、ピクリ、と。


 反応を見せた九丈を精一杯睨みつけたイシュタリアは、固く目を瞑ってゆっくりと手の力を抜き……そしてビッグ・ポケットを下ろす。


 それを見やった無憎は……深々とため息を零した後、同じように武器を地面に置いた……この瞬間、イシュタリアたちは丸腰になった。



「――そういう素直な人は好きですよ」



 イシュタリアたちの荷物を、サララの時と同じように全て彼方に放り捨てる。イシュタリアたちから向けられた殺気を心地よさそうに受け止める。「それじゃあ、両手を私に見える様にあげていてください」、と告げられた九丈の指示に、イシュタリアたちは大人しく従った。



「おっと、そこの魔女。『何でも凍らせる手』で私の触手を凍らせても、意味はありませんよ」



 キセルの先端が、イシュタリアへと向けられる。



「全ての触手は私に繋がっていますが、何時でも切り離すことも出来ると忠告しておいてあげましょう……余計な事をして、この子を殺したくはないでしょう?」

「…………」



 イシュタリアは、何も答えなかった。反応しようとも、思わなかった。



「……てめえ、イシュタリア……」



 ただ、マリーだけは違っていた。己の耳が捕らえた声にイシュタリアはおもむろにマリーを見つめる。「マリー……!」サララの涙声を背中に受けたイシュタリアは、睨みつけるマリーの赤い瞳に唇を噛み締めた。



「い、今がどういう、状況なのか分かって、いるのか……」

「分かっておる。お主のためなのじゃ」

「ばか……やろう……分かってねえ、じゃねえか……」



 顔色は青を通り越して白くなっており、脂汗がびっしりと噴き出している。


 息も絶え絶えで、呼吸するだけでも辛いのだろう……それでも、マリーはイシュタリアを怒鳴る。出来る限りの、大声で。



「今すぐ、武器を作れ……てめえ、俺一人のために……全員、殺す気か……」

「言うな」



 静かに、イシュタリアはマリーから視線を外した。



「お、俺のことなんて、考える……な……俺ごと、こいつを殺せ……」

「頼む、何も言うな」

「お前は……お前のやれることを、やるんだ……」

「それ以上、何も言うな……私に、そんな考えをさせるな……そんな選択をさせるでない!」



 一瞬だけ、イシュタリアは激情に表情を歪めた。しかし、イシュタリアはそれをすぐに引っ込める。「情というものは、本当に厄介じゃのう……」そう言って、口を噤んだ。


 それを見やったマリーは、しばしの間黙ってイシュタリアを見つめる。「……済まない」とだけ呟いた後は、それ以上何も言わなかった。



 ただ、それはあくまでイシュタリアに対してであって。



 己を拘束する九丈を睨みつけると、ぶっ、と血反吐交じりの唾を吐きつけた。


 だが……九丈は気を悪くした様子はなかった。


 むしろ、顔に浴びた血反吐を指で掬うと、これ見よがしに舌で舐め取った。楽しくて仕方がない……そんな感情が、顔中から滲み出ていた。



「おほほほ、いいですねえ。そういうのを見たかったんですよ、そういうのを……ねえ!」



 笑みを浮かべた九丈の触手が、三度目の攻撃をマリーに与える。ごほっ、と吐き出された鮮血を、マリーは歯を食いしばって耐える。


 そしてマリーは、張りつめた顔のイシュタリアから、離れた所で座り込んでいるサララへ視線を向けた。


 びくん、とサララの肩が震える。マリーの視線から逃れる様に、肩を縮こませる。


 それを見たマリーは、大きく咳をして塊を一通り吐き出すと、血で汚れた歯を見せながら歪な笑みを浮かべた。



「そんな顔するな……なあに、すぐに逆転してやるさ……」

「おほほほ、言うだけならだれでもできますねえ」



 ずどん、と直撃した触手に、マリーは血飛沫を噴く。痺れて感覚が無くなるまで奥歯を食いしばって、零れた呻き声ごと口内に溜まっていた血反吐を吐き出す。



「よかったですねえ、『ドレス』を着ていて……でないと、まともにお喋りも出来ませんでしたよ」



 ――まあ、その我慢もどれぐらい続くのやら。



 そう続けた九丈の、勝ち誇った笑みを、マリーは横目で見やる。喋れる程度にまであらかた鮮血を吐き出してから、大粒の脂汗が滴った顔で笑みを作った。



「九丈……俺は今回の件について、ある程度読めてきたぜ――っ!?」



 そう言った途端、キセルの先端がマリーの頬に当てられた。


 じゅう、と焦げる音と共に、マリーの目じりがピクリと引き攣る。


 キセルが離れた後には、小さな火傷痕がくっきりと焼きついていた。



「口の聞き方には気を付けるべきですよ。あなたの命は私の掌……殺そうと思えば、何時でも殺せるのですよ」



 そう言って頬を歪ませた九丈に、へへへ、とマリーの唇が弧を描いた。



「お前には出来ねえよ」

「なに?」



 九丈は眼を瞬かせた。



「俺をさっさと始末せずにこうやって人質に取ったのは、俺を逃がさないためと、俺を殺せば自分がどうなるか分かっているからだ」



 はっきりと、マリーは言い切った。



「このまま俺を連れて逃げようとしないのも、何か逃げられない理由がお前にはあるからだろう? 実の所、追い詰められたのはお前の方だというのが俺の考えだ」

「……おやまあ、この期に及んでもその減らず口……大した根性ですねえ」

「事実さ……現に、お前はこれだけ俺に言われても殺そうとしない。お前は俺を殺す為だけに入口を封鎖して、持てる戦力のほとんど費やし、そして失った。そうやってデカい顔出来ているのも、俺という人質があるからこそだ……それに、今のお前の頭には……」



 マリーの赤い瞳が、九丈を見つめた。



「『どうにかしてこの状況を切り抜けよう』。お前の手札と計画をぐちゃぐちゃにした俺をどうするよりも前に、お前が今考えているのは、それだろ?」

「…………」

「ついでに言わせて貰えば……俺を殺そうと決めたのは、お前の後ろにいる誰かだろ? お前自身は俺を殺すことに関してそれほど御熱心じゃない……これまでお前が戦力を小出ししたり、閉じ込めたりと回りくどいやり方をしたのも、俺らを弱らせた後に、少ない労力で事を終わらせようと思っていたから……違うか?」

「…………」



 それに関しても九丈は何も答えず、無言のままに灰を落とした。懐から取り出した新しい煙草をぽとりとキセルにはめ込んだ。















 ……。


 ……。


 …………動揺を、隠せただろうか。



 虚空へと解けて消える煙を見やりながら、九丈は内心冷や汗を掻く。『あの方』から頂いた『超小型トーチ』を使って火をつけて、ぷかりと煙をくゆらせる……心が少し、落ち着いた。



(なんとまあ、恐ろしいやつだ。誰よりも危険なその状況で、誰よりも冷静に状況を見ている……やはり、こいつを弱らせることだけを考えて出し惜しみしなくて良かったですねえ)



 実際のところ、残っている『手下』の数は片手で数えられる程度しかないのは事実である。


 それに何より、マリーの推測の大半が的中していたことに、九丈は驚きを抑えきれなかった。



 己が実は、それほどマリーに対して興味を抱いていないということ。


 『あの方』の命令とはいえ、少ない労力でどうにかしたかったということ。


 そして、この状況をどうにかして切り抜けたいと思っていること……大方当たっていた。



 ――しかし、だ。



 内心の動揺を抑え込む為に、九丈は、ぷかりと煙をくゆらせる。教えるつもりはないが、幾つかマリーが思い違いをしている事に九丈は気付いていた。



(実のところ、入口を封鎖したのは私では無いんですけどねえ)



 それが、まず一つであった。



 『地下街』に来た夜に『手下』をぶつけたり、『ツェドラ』に連行したりしたのは、確かに九丈が実行したことだ。だが、それ以外は違う。


 しゅるりと、マリーたちに気づかれないように触手眼球で辺りの様子を確認する。


 ……視界に映る範囲では、先ほどから全く変化を感じ取れないが……しゅるりと、監視をイシュタリアたちへ戻す。



(変身したこいつの戦闘能力には目を見張るものが有りましたけど、それももう使えない。『手下』は残っていますから、最悪それを囮にして逃げ隠れるだけなら出来そうですが……)



 とはいえ、ここまで来てそんなことをしてしまったら、『あの方』に怒られそうだ。


 いや、怒られるだけでは済まない……『あの方』の性格を僅かではあるが把握できている九丈は、カリカリと頬を掻いた。



(入口の件は、おそらく『あの方』がやったのでしょう……どうやったかは知りませんが、『あの方』は今もこちらを監視しているとみて間違いないでしょうねえ)



 こうしてマリーを拘束し、イシュタリアたちを抑えつけることに成功しているのに、まだ『あの方』は姿を見せようとしない。


 それはマリーを恐れているからなのか、それとも高みの見物をしているのか……いまいち、九丈には分からなかった。




 『マリーをこの地に連れて来て殺せ、私を楽しませろ』




 その命令を『あの方』から受けたのは、かなり前のことになる。


 バルドクたちを使い、『あの方』からある程度の情報を集めていたものの、九丈自身はもう少し時間を掛けて取りかかろうと思っていた。


 それを無理やり早め、わざわざマリーをこの地に呼び寄せたのも、先日、ついに『あの方』から最後通告を受けてしまったからに他ならない。


 なぜこんな小娘を狙うのか……元々マリー個人に覚えも無ければ恨みも無い九丈にとって、それらの疑問を考えなかったといえば、嘘になる。尋ねてみようと思ったこともある。



 けれども、九丈はそうしなかった。



 ただ、『あの方』の機嫌を損ねたくなかったから、結局は尋ねようとすらしなかった。『あの方』の機嫌を損ねねば、自分もどうなるか分からなかったからだ。



(おそらく『あの方』は気づいている。私が『あの方』に黙って全てを己の物にしようとしていることも、その為に『三貴人』である斑と焔を捕らえようとしていることも、『あの方』は承知のはずだ……なのに、どうして私に何も言ってこない? なぜ私を泳がせたままにする?)



 ――そもそも、だ。


 亜人は遅かれ早かれ、『ツェドラ』に押し込まれたアレに行き着いてしまうと『あの方』から聞かされたのが……全ての始まりであった。


 その話を信じている九丈にとって、この世界に固執する理由を見いだせなかった己の現状を、『あの方』は全て変えてくださった恩人であった。



 ……『あの方』のおかげで、九丈は己の中に隠されていた力を知り、その使い方を『あの方』から教えてもらえた。



 大勢の内の一人でしかなかった自分が、ここまでの力を手に入れることが出来たのも、全て『あの方』のおかげだ。


 どうせ長生き出来て50年そこそこ。元々度胸の無い性分だから、地上に出てみようという根性など無いと、九丈は己を理解している。


 だからこそ、最初の内は『あの方』の言うとおりにだけ動き、余計な事は考えずに努めていた。



(まあ、すぐに余計な事を考える様になりましたが……)



 己に仄暗い野心が眠っていたことに気づいた、遠い昔。あの時は、三日三晩眠れなかったのを、昨日のように覚えている。


 しかし、九丈は己の野心を抑えきれず、『あの方』に無断で薬を使用し、『手下』を増やして『あの方』に対抗できる力を用意しようと計画していた。



 だが……九丈は溜息すら零せず、内心の苦々しい思いを抑えつける。



 入口の落盤を知った九丈は、嫌でも理解させられた。『あの方』が気付いていないわけがなかったということを、あんな形で思い知らされた。



(地上への出口を閉ざしたということは、『地下街』の亜人たちを私の『手下』に変えていたことも、あの方に対抗しよう練っていた私の計画も、全てバレていると思った方がいいでしょうねえ)



 九丈は、その計画の大前提をぶち壊したマリーを見上げる。変身した時の姿を思い浮かべ、煙草が不味くなったのを実感した。



(バルドクからの話では、この小娘は『乗り物』で危険な状況に陥っても変身しなかった……それに、『手下』をぶつけてみた時も変身しなかった。確証は無いですが、おそらくその力はここに来てから習得したと見た方がいいかもしれませんねえ……)



 腑に落ちない。九丈はぷかりと煙を吐く。



(もしかしたら、『あの方』が力を与えたのでしょうか……ですが、もしそうだとしたら何の為に? 私には殺せと命じておきながら、小娘にはそれに対抗する力を与える……『あの方』の思惑とは、いったい……!)



 取り留めもなく、確証も無い推測が脳裏を過る……が、すぐに九丈はそれらの思考を切り捨てた。


 そんなことを考えるよりも前に、『あの方』から授かった仕事を達成する方が重要である。少なくとも、今の内は、まだ。



(『マリーを殺せ、私を楽しませろ』、ただそれだけが『あの方』の命令。おそらくただこの小娘を殺すだけでは駄目なのでしょうねえ。この事態を利用して、『あの方』を満足させる何かをしろというのが、『あの方』の本当の目的なのでしょうか……)



 どの道、もう自分の計画は壊されたのだ。新たな計画を考えるにしても、それは明日、明後日で出来上がるようなものではない。



 ――ならば、せいぜい『あの方』を楽しませてやろうじゃないか。



 まだ生き残っている『手下』に信号を送りながら、九丈はぷかりと煙を吐いた。



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