第十八話: そう、彼女の憤りは彼女にだけ……



 突然のことにビクッと肩を震わせたマリーたちと男たちは、声がした方向へと顔を向ける。その視線の先に居たのは……一人の大男であった。



 その瞬間、マリーは……動揺してしまう己を抑えられなかった。


 その巨体が、あの時遭遇した大男を連想させる。それは、マリーの胸中に奥深く根付いているやつであった。



「無憎(むぞう)!?」



 バルドクとかぐちの声が、一致した。


 獣耳を生やした毛むくじゃらの大男は、厳つい顔に似合う鋭い眼差しをぎょろりと動かすと、男たちを力強く睨みつけた。


 途端、男たちの顔色が一斉に悪くなった。一人、また一人退いた男たちに……無憎の顔が真っ赤になった!



「また貴様らか! 今度こそ、その脳天を砕いてやる!」



 怒声が『地下街』に響くと同時に、無憎と呼ばれた亜人は男たちへと走り出した。


 巨大な片刃剣を掲げた、無憎と呼ばれた者の身体を守るのは、巻きつけただけの質素な布。


 ナイフで刺すだけで、位置によっては致命傷を与えることが出来るだろう……けれども、男たちは誰一人歯向かおうとはしなかった。


 相当に腕が立つのか、あるいは迫力に気圧されたのか、それは定かではない。


 分かったのは、怖気づいた皆がみな、一斉に背中を向けて一目散に逃げ出していくという結果だけであった。


 ……普通に考えれば、そのまま追いかけるところだろう。しかし、そこまでする気は無憎にはなかったようだ。


 あっという間に姿を消していく彼らを見て、無憎はすぐに足を止めて武器を下ろすと……マリーたちの前で立ち止まった。


 ムッとした熱気が、無憎の身体から放たれている。「う~ん、せくしぃ」と頬を赤らめるナタリアの声は、幸いにも聞こえていなかったようだ。無憎はマリーたちの前で大きく息を整えると、バルドクとかぐちを見やった。



「大丈夫か?」

「ああ、幸いなことに、怪我一つ追うことも無かった」

「ええ、ありがとうございます、無憎。最悪の事態一歩手前でした」



 大きく息を吐くバルドクとかぐちに、無憎は毛むくじゃらの顔で笑みを浮かべる。しかし、すぐにその笑みを引っ込めると、胡乱げな眼差しをマリーたちに向けた。



「……こいつらが、お前たちが話していた『亜人と共に戦った戦士』なのか? 俺の目には女子供の集団にしか見えんのだが……それで、あそこのやつがマリーなのか?」



 ジロリと、無憎の視線が少しばかり離れたところで立っている源へと向けられる。


 途端、ぷふっ、と頬を膨らませるイシュタリアの姿が有ったが、気付いたのはマリーとサララだけであった。



「……間違っているうえに、失礼なことを言うな。誤解する気持ちは分かるが、実力は俺が保証する……そこにいる銀髪の人が、マリーさんだ」



 それはそれで失礼な紹介をされたマリーは、ジッと無憎を見上げて軽く手を上げる。


 魔力コントロールを緩めることなく、常に反撃出来るよう無意識に身構えている自分がいる。そんな自分を、マリーは不思議に思った。



(見れば見るほど、あいつの姿と被ってしまう……変だよな。顔だってそうだし、あいつは獣耳なんて生えてなかった……どう見ても別人のはずなのに、どうして俺はここまでこいつを警戒しているんだ?)



 分からない……マリーは内心首を傾げる。けれども、どうしてもマリーは胸中のアラームを止めることが出来なかった。



「……マリー?」



 何時もと違う様子に気づいたサララの声が耳に届くが、グッと顔を近づけた無憎のせいで、それどころではない。ジワッと掌に浮かんだ汗を握りしめ、マリーは愛想笑いを浮かべた。



「俺の名は無憎だ。覚えていても覚えなくてもどっちでもいい。どうせ俺はお前らのことを覚えるつもりはないからな……ふん、それにしても、見れば見るほど、か弱い女子ではないか。もっとマシなやつはいなかったのか?」


(汗臭いんだよ、この毛むくじゃら!)



 隠しすらしない侮蔑感情を滲ませた無憎の横顔に、渾身のフックを叩き込みたくなる衝動を堪えながら、マリーは少しばかり距離を取る。それは無憎に対して怖気づいたわけではなかった。



「……まあいい。俺たちの邪魔さえしなければ、好きにすればいい。どうせ今回のこれが失敗しても、責を負うのはお前らだ。俺に迷惑が掛からなければ、どうでもいい」



 それをどう捉えたのか、マリーには分からない。しかし、無憎の目に浮かぶ蔑みの感情から推測する限り、決して良い意味ではないだろう。


 さすがに苛立ちを見せ始めているサララたちに気づく様子もなく、マリーたちに背を向けた。



「俺は行くが、頼むから人間を俺たちのところへ連れて来るなよ……人間臭くてかなわんからな」



 そう言うと、無憎はのっしのっしと大股でその場を離れて行った。


 徐々に小さくなっていく無憎の背中が、クルリと家々の隙間、路地の向こうへと姿を消して……気配も、分からなくなった。


 そして、訪れた静寂の中で……バルドクとかぐちのため息が零れた。ガリガリと頭を掻きむしったバルドクが、マリーたちへと振り返った。



「済まない、気を悪くさせてしまったな。あいつは見ての通り腕に自信のあるやつでな……今回の件にはかなり難色を示しているやつの一人なんだ」

「まるで他にもいるかのような言い方が気になるのじゃが、まあ、気に病む必要は無いのじゃ。なぜならば、私が気にしておらぬからのう」

「あなたの答えなんて、初めから聞いていないから」



 スパン、とサララから頭を叩かれたイシュタリアが、その場につんのめる。相変わらずの二人の様子に、にわかに場の空気が緩む。


 そんな中、無憎が去って行った向こうへと視線を向け続けていたマリーが……バルドクへと、ポツリと尋ねた。



「なあ、あいつはいったい何者なんだ? ただ者ではなさそうなんだが……」



 いったい何者、か。



 マリーからの率直な問い掛けに、バルドクは、「ふむ、そうだな」顎に手を当てて答えた。



「今は現役を退いているが、腕利きの戦士であることは確かだ。昔は地上に出て大型の獣を何頭も仕留めてくる、地下街一の猛者だった。その実力は今も衰えていないと聞くが、本当かどうかは知らん」



 地上に……マリーの喉が、ゴクリと鳴った。



「そうかい……ところで、つかぬ事を聞くが、今もあの男は地上に出たりしているのか?」



 何とも様々な憶測を与える、直接的な質問だ。「――なんでそんなことを?」と首を傾げるバルドクにマリーがさらに尋ねると、バルドクはいくつもの疑問符を頭上に浮かべながらも、しっかりと答えてくれた。



「有り得ないと思うぞ。昔はそうだったらしいが、今は用もなく地上に出て行ったなんていう話は聞いた覚えがない」

「それは本当なのか?」

「知っての通り、ここと地上を繋ぐ通路はあの道だけで、アレを動かすだけで相応の血が必要となるからな。あいつに付き従うやつは大勢いるが、わざわざ血を提供するようなやつがいるかどうか……」

「だったら、しばらく姿を消したりする時はあるか? あるいは、付き合いが極端に悪くなったとかは?」

「いや、それも……ん、そういえば……」



 キッパリと、バルドクは否定した。しかし、思い至る部分が有ったようだ。


 少しばかり記憶の奥を探ったバルドクは、ああ、と思い出して顔をあげた。



「姿を消す……と言う程のモノかは分からんが、九丈(くじょう)という男があいつの周りに姿を見せ始めた辺りから、付き合いが悪くなったな。色々と悪い噂の堪えない男だ」



 ――マリーの何かが、ピクリ、と身じろぎした。



「……その九丈とかいうやつが、あいつの周りに現れたのは何時ぐらい前のことだ? だいたいでいいんだ……教えてくれ」



 そう尋ねられたバルドクは、しばし唸りながら頭を悩ませた。しかし、そのおかげで思い出せたようで、「……正確とは言えんぞ」と前置きをした後……日数を教えてくれた。



 ……偶然か、はたまた必然か。



 バルドクが語った日にちは、マリーがあの大男と死闘を繰り広げた、その少し前であった。



(はてさて、どう判断したものやら……)



 背筋を走る寒気は武者震いか、あるいは……何とも言えない気だるさに舌打ちしそうになりながらも、マリーはしばし考え込むこととなった。




 ……。


 ……。


 …………その姿を見つめるサララたち女性陣の視線に、気付くこともなく。







「――それじゃあ、少しこの部屋で待っていてほしい」



 その一言共に部屋を後にしたバルドクとかぐち。残されたマリーたちは、しばしの間、案内された部屋の中でのんびりと時間を潰すこととなった。


 外観からもそうだが、地上にはない不思議な空気が満ちていた室内は、何とも不思議な気持ちにさせられる奇妙な部屋であった。


 何から何まで材木で作られた空間……というのが、一番簡潔な説明だろうか。


 地上にも木材だけで作られた建物は多数存在するが、それを差し引いても『不思議で奇妙な』という形容詞が付くのはココだけだろうと、マリーは内心そう評価した。


 マリーたちが知る扉とは少し違う横滑りの扉に、細い草を編み込んで作られた、独特な肌触りの床。


 部屋の壁にはミミズがのたくったような線が掛かれた紙が掛けられており、その下には武器と思わしき高そうな短剣が、後生大事に置かれている。


 それなのに、外と中庭を遮るものが薄い板というだけ。中庭から中に容易く入ることも出来る。まるで、短剣を盗んでくださいと言わんばかりの、簡素で奇妙な作り。


 短剣はおそらく観賞用なのだろうけれども、あまりに不用心だ。これが地上なら、一週間と経たずに盗まれているところだろう……そう、マリーは思った。



(床に座るのは構わないんだが……それにしても、この『たたみ』とかいうやつは、不思議な肌触りだな)



 そんな独自のルールにも、マリーたちは目を瞬かせる。


 初めて触れる材質の床に腰を下ろしたマリーたちは、体感する新しい世界に目を白黒させっぱなしである。もちろん、監視者たる源も同様であった。


 しかし……ただ一人と、一体。イシュタリアと『人形』であるテトラの両名(?)は違っていた。



「――瓦、畳、ふすまときて、掛軸に縁側に刀か……ここまで来ると、もう色々どうでもよくなってきたのじゃ……」


 疲れ切ったようにぐったりとマリーへもたれ掛るイシュタリアの悲哀が、ポツリと零れる。立ち上がる気力もないのか、畳の上に力無く座り込んでいた。



 これは『畳』。


 これは『掛軸』。


 あれは『瓦』。


 それは『刀』。


 これは、それは、あれは……。



 部屋に入って、早々。


 聞かれてもいないのにイシュタリアが部屋に置かれた物や内装全ての名称を口早にまくしたてたのは、今からほんの少し前のことである。


 もしバルドクとかぐちが部屋に残っていたら、それはそれは驚いていただろう。

 珍しく半ばやけくそ染みた感情を露わにするイシュタリアの姿に、マリーたちはしばし目を丸くするばかりであった。



「……よく分からんけど、元気出せよ。そのうち良い事あるって……後、ふすまとか、一つ一つ説明してくれてありがとう」



 何かが感極まったのか、呆然とした様子で肩を落としているイシュタリアの背中を、マリーは優しくさする。「ふふふ……お主らには私のこの憤りが分からんじゃろうなあ」遠い眼差しを浮かべるイシュタリアに、マリーたちは首を傾げるばかりであった。



 ……普段であればマリーにもたれ掛るイシュタリアに目の色を変えるサララも、さすがに思うところがあったのか。この時ばかりは、気を使ってマリーの隣に座るだけであった。



 そうして、困ったように互いを見合わせるマリーたちを見て、イシュタリアは内心ため息を吐くしか出来なかった。



(本当に、分からんじゃろうなあ。この気持ちだけはのう……)



 致し方がないことだと分かっていても、心が乱れてしまう。『モノレール』に引き続き、失われた歴史の一端に触れているということの重要性に、果たしてマリーたちは気づいているのだろうか。



 ……気付く以前の話なんじゃろうなあ。



 即座に結論付けたイシュタリアは、ボールのように畳の上を転がっているナタリアの身体を、足で止める。「なぁに?」と碧眼を向けられたイシュタリアは、ナタリアの頭をのそっと己の膝に引っ張り込んだ。


 何をするつもりなのかと目を瞬かせるナタリアを他所に、イシュタリアは己のビッグ・ポケットから『フレッシュ・コム』を取り出すと、乱れに乱れきった金髪に、そっとコムを差し込んだ。



「少しばかり癒させてもらうのじゃ」

「なんだか分からないけど、どうぞご自由に。変な髪型になんかしないでちょうだいね」

「安心するがよい。ただ髪を梳くだけじゃからな」



 その言葉の直後に身体の力を抜いたナタリアを見て、イシュタリアは締まりのない笑みを浮かべる。


 分からないながらも、要求を受け入れてくれる事実に思わず唇が弧を描く。それは、信頼の証でもあるからだ。


 するり、するりと手応えなくコムが通って行く感触に、ぬふふふ、と頬を震わせた。



 ……傍目から見る分では、何とも不気味な光景である。



 思わずマリーの腕にしがみつくサララの頭を、マリーは優しく撫でる。室内ということもあって、サララの胸を覆っているプレートは外されている。


 そのおかげで、抱き締められた腕から、温もりと膨らみがダイレクトに伝わってくる。サララぐらいの年代だけが持ち得る、弾くような弾力を伴う心地よさだった。



(直接揉み揉みするのもいいが、服越しの感触もやはり乙なもんだな……ん、そういえば……?)



 ぷにゅぷにゅの体温と匂いに意識を集中しながら、ふと、マリーは顔をあげる。


 くるりと部屋の中を見回し、思い浮かべた人物がいないことに気付き、おや、とその名を呼んだ。



「ドラコ~」

「――呼んだか?」

「おう、そこにいたか……っていうか、なんでお前廊下にいるんだ?」



 がらりとふすまを開けて、廊下の向こうから顔を覗かせたのはドラコであった。(小便でもしてきたのか?)と首を傾げたマリーは、「ほら、お前も部屋に入ってこいよ」タンタン、と隣の畳を叩いた。



「悪いが、入れない」



 しかし、ドラコは珍しくマリーの言うことに首を横に振った。困ったように首を横に振るばかりで、一向に入ろうとしない……本当に珍しいことだ。



 ……何か、あるのだろうか。



 嫌な臭いとかそういのはしないけれども……不思議に思ったマリーが理由を尋ねると、しばしドラコは考え込むように視線を彷徨わせると、「……実は」と唇を開いた。



「その、『畳』というやつは、見た限りでは草を編み込んで作られた物だろう?」

「まあ、見た限りではそうだな」

「床が木で出来ているならばまだいいのだが、さすがに編み込まれた草となると……私の足では……な」



 その言葉と共に、にゅう、とドラコはマリーに見える様に足を差し出す。強固な鱗と鋭い爪で武装されている竜人の足を見て、ようやくドラコの言いたいことを察したマリーは、納得に苦笑した。



「爪を引っ込めることは出来ねえのか?」

「引っ込めてコレなのだ」

「……そうか。ところで、もしかして館に居る時も爪を引っ込めていたのか?」



 ――うん、と。


 素直にドラコが頷いたのを見て、マリーはふむ、と顎に手を当てる。そういえば、館の絨毯が所々解れてきていると女たちが話していたことを、マリーは思い出す。


 今までドラコ自身が何も言わなかったこともあって気にも留めていなかったが、なるほど。ドラコには、人間とは別の理由で、そういった物が必要なようだ。



 ……これが終わったら、ドラコの靴を買いに行こうかな。



 そう、マリーは心に決めた。


 その……直後。タイミングが良いのか、「――ん、何でお前だけ廊下に出ているんだ?」バルドクとかぐちが廊下に佇むドラコに首を傾げながら、部屋に戻ってきた。


 二人の後ろには、白髭を蓄えた年老いた亜人と、ナタリアとそう変わりのない背丈の、かぐちと同じ白髪の幼女が仲良く手を繋いで立っていた。



「仕事について話がしたいから、部屋に入ってください」



 そう言ってドラコの手を引くかぐちであったが、ドラコは一歩もその場から動こうとはしなかった。思わず首を傾げる二人に、マリーはドラコの足を指差して、事情を説明する。


 チラリとドラコの足を見やった二人は、納得に頷く。構うことなく入れと促されるが、どうやらドラコはそれでも入るつもりはないようで、嫌々と抵抗するばかりであった。


 さすがに、二人もそこまで嫌がっている相手に無理強いするつもりはないのだろう。二人はため息と共にドラコから手を離すと、するりとドラコの横を通り過ぎた。



「妙なところで意固地なやつだ……まあ、それなら廊下で話を聞いていてくれ」



 ふすまを開けっ放しにした状態でマリーたちの前に来ると、バルドクは部屋内の壁に歩み寄り……ガラリと、『押し入れ』を開いた。



「……今更だが、気が回らなかった事を許してくれ」



 取り出した二枚の上質な座布団をマリーの前に並べ、マリーたちにはソレと比べて質素な座布団を手渡す。一つ頭を下げて受け取ったマリーは、それをお尻の下に敷く……中々の座り心地だ。


 ちなみに、老人と幼女は当然のように上質な方へ腰を下ろしていた。


 そして、二人はこれまた当然のように老人と幼女を挟むようにして左右に腰を下ろせば、マリーたちは向かい合う形となった。



 ……自然と、マリーたちの視線が老人と幼女へと向けられる。



 老人と幼女の視線がマリーたちに……特に、老人の視線がはっきりと己にだけ向けられているのが、マリーには分かった。



 ――唖然、呆然。



 まるで魂が抜けたかのように呆けた様子でマリーを見つめる老人。老人の隣に座る幼女がそれに気づき、鋭い視線を向けてくる。


 それに反応しそうになるサララの手を握りしめながら、マリーは内心にて苦笑するしかなかった。



(いや、まあ、来たのがこんなのだったらそんな顔するのも分かるけどさあ……せめて、もう少し隠そうぜ)



 己の見た目を理解しているマリーは、あえて老人の視線に歯向かおうとは思わなかった。


 それよりも、マリーの興味はバルドクたちの恰好……正確に言えば、バルドク・かぐち・老人・幼女の四人が身に纏っている恰好に目を止めた。



「ところで、さっきと違い、ずいぶんと珍妙な恰好だな」

「……いちおう、これが、俺たちの礼服だ」



 ――おっと。マリーは己の唇に手を当てた。



「すまない、今の言葉は訂正する。なかなか面白い恰好だな」

「……ありがとよ」



 苦笑するバルドクとかぐち。明け透けのないマリーの感想に、いまだ目じりを尖らしている幼女の眉が、ピクリと跳ねる。遅れて、老人の頭は再起動を果たしたようだ。


 ハッと目を瞬かせた老人は、隣に座る幼女の機嫌の急降下に気づいて、バツの悪そうに居住まいを正す。次いで、幼女の怒りを誤魔化すように、おほん、と一つ大きな咳を――。



「珍妙ではないのじゃ。そこのバルドクと老人が着ているのは『袴』と呼ばれるれっきとした衣装で、女子二人は『着物』と呼ばれるやつじゃよ」



 ――する前に耳に届いたイシュタリアの言葉に、老人はハッと顔をあげる。驚愕に満たされた瞳が、イシュタリアを捉えた。



「なんと……お嬢さんは、この恰好がどういうものなのかを知っているのかい?」

「……? さすがに全てを知り尽くしているというわけではないが、ある程度のことは覚えておるのじゃ」



 首を傾げるイシュタリアの言葉に、老人は真顔になった。そしてそれは不思議なことに幼女も老人と同様に目を見開き、驚いたようにイシュタリアへと顔をあげる。



「斑(まだら)様、焔(ほむら)様、その方が先ほどお伝えしたイシュタリアという名の少女でして、大変な博識家になります」



 二人の驚愕を察したかぐちが、ポツリと説明を始める。それに反応したのは、意外にも幼女の方……焔であった。



「この方が、『地下街』と地上を繋ぐ『乗り物』の名称を知っていたという少女なのですね?」



 そして、これまた意外にも焔の口頭はしっかりしていた。無理に大人っぽく話したようでもないそれは、見た目とは裏腹の知的性を感じさせた。



「はい。そして、その膝にいらっしゃるのがナタリアさん。御二方の正面におられる銀髪の肩がマリーさん、その隣にいるのがサララさん、そして、廊下に居たのが我らと同じ亜人のドラコさんで、部屋の奥におられる男の方が源さん、その腰にしがみ付いているのがテトラさんになります」

「なるほど……バルドク、かぐち、ご苦労でありました。しばらく、羽を休めなさい」

「勿体無きお言葉です」



 その言葉と共に軽く頭を下げるバルドクとかぐち。しばしの沈黙の後、「さて、それでは改めまして」と焔が話を切り替えた。



「私の名は焔(ほむら)、『三貴人』の一人であり、この屋敷の主でもあります。今回の件が終わるまでこの屋敷に滞在してもらうことになります……短い間となりましょうが、どうかよろしくお願いします」

「同じく、『三貴人』の一人、斑(まだら)です。見ての通り肉体派ではないが、必要な物があったら、ワシに声を掛けてください。出来る限り用意させますので」

「……『三貴人』とは、この『地下街』を統括する代表者みたいなものと思ってください」



 そっと差し込まれたかぐち説明に納得すると同時に、揃って頭を下げる二人につられてマリーたちも頭を下げる。


 そして、顔を上げた焔と斑は互いの顔を見合わせ、一つ頷くと、マリーたちへと顔を向けた。



「まずは今の状況を説明したいのですが、お食事はその後でもよろしいでしょうか?」

「あんまり長くならないなら、それでいい――」



 ぐぎゅるるるるぅぅぅぅぅ……。



 突如部屋中に響き渡った大な異音に、マリーは言葉を止めた。それが腹の虫の催促であったことに気づくのに、少しばかり時間が掛かるぐらいに、その異音は大きかった。



「……お腹は減っているけど、私じゃない」



 首を横に振るサララから、私も違うぞと首を横に振るイシュタリアたちを見やったマリーの視線が、廊下から顔を覗かせているドラコの姿を捉えた。その唇の端からは、一筋の涎が垂れていた。



「……腹、減っているのか?」



 恐る恐る尋ねると、静かにドラコは頷いた。じゅる、と涎を呑み込んだドラコの腹が、再び盛大な催促を鳴らした。バルドクとかぐちが、ぷっ、と笑みを噴き出した。



「……我慢、出来そうにないか?」



 ぐぎゅるるるるぅぅぅぅ。



 言葉よりも雄弁と物語る胃袋と、庇護欲を覚えてしまうぐらいに悲しそうな表情を浮かべるドラコ。子供よりも無邪気な反応に、今度は焔と斑がふふふ、と笑みを零した。



「長旅でお疲れでしょうし、今日の所はお休みになって……積もる話は明日にしましょうか」

「……気を遣わせて、すまない」



 再び鳴ったドラコの腹の虫に、今度こそ耐え切れなくなった焔と斑の笑い声が、部屋の中に響いた。


 







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