第十九話: 悪夢の再来

※グロテスク&暴力的な描写があるので、注意






 ――ふと、こみ上げてきた尿意に目を覚ましたマリーは、むくりと布団から身体を起こす。



 眠気でぼんやりとする意識で、様々な寝息がふわりと響いている室内を見回した。


 花瓶に活けられたウィッチ・ローザの淡い光が、サララたちの顔を優しく照らしている。イシュタリアやナタリアもそうだが、サララもしっかりと寝入っているようであった。



「……ああ、そういえば」



 今がどこなのかを思い出したマリーは、大きな欠伸を零した。『地下街』では一般的とされている寝間着(『浴衣』と、イシュタリアは話していた)の胸元を整えながら、マリーはぼさぼさになった頭を掻いた。


 と、同時に、ずしん、と総身に圧し掛かっている疲労を遅れて実感したマリーは、もにょもにょと唇をへの字にした。


 ……寝る前にも薄々気づいていたことだが、やはり回復しきれていない。憂鬱な気分になってしまうのを、マリーは抑えられなかった。



(やばいなあ……明日には治まっていてくれるか?)



 いつもよりも熱いかもしれない額から手を離したマリーは、深々とため息を吐いた。


 あの化け物との死闘後、粘液を洗い流す為とはいえ、いちど身体を水浸しにしたのが悪かったのかもしれない。


 それに加えて、慣れない環境と心に圧し掛かる不安事、短時間ではあるがフルパワー状態で動き回ったのも重なり、不調を後押ししてしまったようだ。


 サララたちには辛うじてバレてはいないようだが……酷くならなければいいのになあと願いつつ、マリーは暗がりの中で立ち上がった。


 途端、くらり、と。思わず揺れた身体を堪えつつ、サララたち起こさないようにそろりそろりと足音を忍ばせて廊下へ向かう。


 するりとふすまを開けて顔を覗かせれば、すぐ近くの場所で寝息を立てているドラコの姿があった。



 ……身体と翼を丸めて寝ている姿は、まるで幼子だ。



 結局、ドラコが部屋内に足を踏み入れたのは食事のときだけで、トイレの時以外はずっとこの場所にいたなあ、とマリーは思い出した。


 後ろ手でふすまを閉めながら、マリーはキョロキョロと左右を見る。眠気のせいか妙に意識がはっきりせず、トイレの場所が上手く思い出せない。



 ――まあ、てきとうにぶらついていれば、そのうち見つかるだろ。



 そう結論付けたマリーは、先ほどと同じくドラコの前をそろりそろりと忍び足で進み――。



「眠れないのか?」

「――い、いきなり声を掛けるのは止めろ」



 ポツリと声を掛けられて、ギクリと足を止めた。


 振り返れば、身体を起こしたドラコが大きな欠伸を零していた。胸の谷間を無造作に掻くドラコは、大きく実った膨らみをぷるんぷるんと震わせながら、無言のままに立ち上がった。



「すまん、起こしたか?」

「いや、竜人は元々眠りが浅いんだ。物音や足音に、すぐに目が覚めるようになっている」



 首を横に振るドラコは、おや、と目を瞬かせた。そして、スッと目を細めると、爪を引っ込めた手でそっとマリーの頬を撫でた。


 その指先の冷たさに、ホッと気を緩めてしまうのは、それだけマリーの体温が上がっていることを物語っていた。



「……顔が赤い。病気になったのか?」

「んん、まあ、疲れが出てきただけさ。トイレ言ってスッキリすれば、明日には元気になるさ」



 そうドラコに手を振ると、マリーはさっさとトイレへと歩き出し……後ろに付いてくる足音に、マリーはゆっくりと振り返った。



「……お前もトイレか?」



 ドラコは、無言のままに首を横に振る。次いで、おもむろにマリーの手を取って横に並ぶと、クイッとその手を引っ張った。



 ……どいつもこいつも心配性なやつだ。



 やれやれとため息を吐いたマリーは、ドラコの手を強く握り返すと、グイッとドラコを引っ張った。


 笑みを浮かべるドラコに妙な気恥ずかしさを覚えながらも、マリーとドラコは気配の途絶えた通路をとてとてと歩き始めた。







 ――へくち。



 そのクシャミは、随分と可愛らしいものであった。


 屋敷から出て、少し離れた場所にあるトイレから帰る道すがら……浴衣の前をギュッと握りしめて背中を丸めるマリーを見やったドラコは、そっと目を細めた。



「マリー……やはり、明日は休んだ方がいいのではないか?」

「……そうするかどうかは明日判断するさ。今決めるのは早計もいいところだぜ」

「しかし、屋敷を出る前よりも顔が赤くなっている……熱が上がっているのではないか?」



 心配そうに伸ばされたドラコの手が、優しくマリーの額を覆い隠す。竜人特有のごつごつとした鱗の冷たさに、マリーはうっとりと目を瞑る。


 先程よりも、さらに冷たさが心地良い。そのせいで、目に見えて目じりをつり上げたドラコの顔を見ずに済んだのは幸いであった。



「やはり熱くなっている……汗も掻いているし、よく見れば震えているではないか……明日は私たちに任せ、マリーは屋敷の中で療養するべきだ」

「到着初日に熱を出して仕事先で寝込むとか、探究者でなくても失笑ものだぞ。それに、理由が何であろうと一度引き受けた仕事だ……このぐらい、どうってことないさ」

「そうは言うが、気力だけでどうにかなるほど人間の身体は頑丈ではない。それはマリー、お前も知っているはずだ」

「言われなくても理解させられているさ……何度も言うが、無理そうならちゃんと休むよ……っは、はっ……」



 ――へくち。



 見た目通りの可愛らしいクシャミをしたマリーは、ずずっと小さな鼻を啜った。


 すりすりと背中を撫でてくれるドラコに礼を言うと、天井に広がるウィッチ・ローザの小さな明かりを見上げた



「それにしても、家の中を移動するだけならまだしも、小便するだけの為に一旦外に出なければならないっていうのはけっこう不便な話だな」



 屋敷のトイレは、マリーたちが寝泊まりしている本館となる住宅から離れた場所にあり、屋敷の中には使用できるトイレが一つもない。


 『地下街』ではトイレの利用方法が厳格に決められており、共同のトイレ……いわゆる公衆便所を利用するというのが、ここでのルールであるからだった。


 何故そうなったのかといえば、数十年前に伝染病が流行ったのが原因らしい。それから、今のルールが徹底されるようになったとのことだ。


 まあ、それはそれで新たな問題が出そうなものだが、今のところは何とかなっているらしい。


 というのも、『地下街』の地面は地上と違い、地面の中に小便や糞便といった不浄な物を埋めると、半日と待たずに分解して塵に変わるらしく、今の所伝染病が再来したことはないとのことだ。


 何故、そのようになっているかは『誰も知らない』というのが、バルドクやかぐちの弁である。


 どうやらそれは『地下街』が出来たときから変わっていない『システム』らしく、今ではその理由すら忘れ去られてしまった……というのが、斑と焔の弁である。


 初めは『まるでダンジョンの中みたいだな』と驚いただけであったが、今になってかなり不便なことにもなり得ることを、マリーは身を持って痛感させられていた。



 ……それにしても。



 ゆっくりと視線を下ろしたマリーは、ぐるりと周囲を見回す。比較的真新しい家々ばかりが並ぶここら一帯は、今が『地下街』では深夜ということを差し引いても、あまりに生命の気配が感じられなかった。


 そっと首を伸ばして傍の家を覗きこめば、閑散とした室内には花瓶が置かれた台と、敷かれた二つの布団が目に留まる。使用された形跡が見られないそれには、皺ひとつ見当たらず、きっちりと並べられていた。



「……ここらはずいぶんと静かで不気味だな」



 ポツリと零した感想に、ドラコはふむ、と頷いた。



「そうだな。私の鼻にも耳にも、亜人の気配が感じられない。息を潜めているだけかも分からないが、ここら一帯が空き家になっているのかもしれないな」

「ふーん、それなら寂しい雰囲気が漂っているのも納得――」



 ――ちょっと待て、臭いすらしないだと?



 脳裏を過った直観に、マリーはハッと目を見開いた。「マリー?」突如足を止めたマリーへと振り返るドラコを他所に、マリーは急いで今しがた覗いた部屋を、もう一度覗きこんだ。


 そして、そのままの勢いでその隣の家に飛びつき、中を覗きこむ。そこからさらに通りを挟んで反対側の家へと駆けより、中を覗きこみ……胸中の警戒アラームが、喧しくマリーに警報を鳴らした。



「そんな体で動き回るんじゃない……なんだ、何か見つけたのか?」



 遅れて来たドラコが、マリーの後を追い掛ける様に中を覗きこむ。しかし、ドラコの目には不審な点が映らないのか、顔中に疑問符を浮かべていた。



(……変だ、これは、おかしい)



 しかし、マリーは捉えていた。



(どうして、どこの家にも生活の跡が全く見られないんだ?)



 花瓶から枯れ落ちたウィッチ・ローザの残骸と、机や畳に降り積もっている埃……そして、生き物特有の臭いが一切感じられないことを!



(空き家なら、どうして布団がいつまでも敷かれたままなんだ? それに、花瓶の枯れた花……この家は、いったいどれぐらいの間空けられているんだ?)



 屋敷から便所までの道中には、家々の数は決して多くない。しかし、『地下街』入口から屋敷までの道中には、様々な気配……はっきり言えば、亜人の気配が至る所から感じられた。


 その気配がこの家からは……いや、この辺りからは全く感じられない。


 ただの空き家にしては捨て置かれた物の量が多すぎるし、閉鎖された世界でもあるココで、わざわざ住居を変える理由などあるのだろうか……わざわざ真新しい家を捨ててまで。



「……マリー、気配を感じる」



 声を掛けられて、マリーはハッと顔をあげる。見れば、先ほどまで心配そうにやきもきしていたドラコが、鋭い眼差しを道中の向こう……先ほどまで自分たちがいた、トイレの方向へ向けていた。



「……亜人か? それともサララたちか?」



 庇われる形でドラコの背中に隠れたマリーが、そう尋ねる。



「どちらとも違う。初めて嗅ぐ臭い……酷く、嫌な臭いだ」



 ドラコは、首を横に振った。スンスンと鳴らした鼻が感知する気配に、ドラコの手足の爪がメキメキと隆起し、武器へと変わる。


 ぼぅ、と吐かれた灼熱の吐息がむわっと熱気を振りまくと同時に、ばさっと背中の翼が雄大に広がった。


 竜人の体内には、体内で生成したガスを詰め込んでいる火炎袋と呼ばれる臓器がある。『ラステーラ』にてあっという間に火が燃え広がったのも、このガスを使って行われる火炎放射によるものである。



「強い敵意を感じる。あの、路地の向こうからだ」



 スッと、ドラコが指差した先。そちらに目をやったマリーの瞳が、時を同じくしてぬうっと姿を見せた来訪者によって「――っ!?」大きく見開かれた。



 ……あいつだ。



 見覚えのある姿を前に、マリーは魔力コントロールを行う。


 視線の先には、あの時の……あの試験の時に死闘を繰り広げた、大男がいる。あの時と同じ恰好のその男は、あの時と同じ巨大な剣をずずずと引きずっていた。



 ――遠目からでも分かる巨大な筋肉の塊が、ゆっくりとマリーたちへと向けられる。



 ボサボサの長髪の下に浮かぶ狂気に満たされた眼光が、ギョロリとマリーたちを捉える。一気にフルパワー状態になったマリーに、ドラコは再びぼぅ、と灼熱の吐息を吐き出した。



「マリー、その身体で無茶をするな」

「残念だが、そんなこと言える余裕がある相手じゃねえのさ……くそっ、こんなことならドレスに着替えるだけでもしておくべきだったぜ」



 どす、どす、大男が、マリーたちへと近づいてくる。その胸には、かつてマリーが付けた傷など一つも残っていない。



「ドラコ、あいつを人間だと思うな。イシュタリア並みの再生能力を持つ化け物だ。全身全霊を持って、殺しきることだけを考えろ。後始末のことを考えたら、お前が殺されるぞ」

「……面白い。竜人の力をやつに刻み付けてやろうぞ」

「余計なことは考えるな。俺のことも、今は忘れろ。やつを肉塊に変えるまで、絶対に気を緩めるな……!」



 そう、マリーが最後の忠告をした直後。



「――がぁあああ!!」



 咆哮と共に、大男は大剣を振り上げた!











  

 第十二話「もう全部あいつに任せればいいんじゃないかな?」





 ――横殴りに繰り出された、大振りの一振り。



 迫り来る赤黒い鉄塊は、驚異的な動体視力を持った竜人ですら、息を呑む程の速度。竜人の中では最強と称しても過言でないドラコですら、初撃は避けることに徹する他なかった。



「がぁあああっ!」

「――っ!?」



 咆哮と共に放たれた斬撃が、ドラコの頭上を掠める。脳裏を過った死の影に震える間もなく、ドラコは地面を蹴った。ほとんど四つん這いの姿勢から跳び上がったドラコの身体が、音も無く宙を舞った。


 そのすぐ後を、ずどん、と鉄塊が追いかける。


 衝撃に陥没した地面から起こした大剣を、大男は構える。ニヤリと、別の意味で表情の無い大男の顔に、初めて笑みが浮かぶ。



 ――しかし、その笑みは直後に歪んだ。



 何故かといえば、大男の背後に回っていた、マリーの渾身の右フックによってであった。



「せやぁ!」



 鈍い破裂音が、静寂に覆われた『地下街』に響く。


 ごぁあ、と胃液を吐きだして苦悶の表情を浮かべる大男。しかし、このときマリーの顔に浮かんだのは……驚愕の二文字であった。



(――前よりも固い!?)



 拳から伝わって来た感触に、マリーはゾッと背筋を震わせた。


 衝撃を堪えきれずにたたらを踏む大男の苦し紛れの斬撃を、総身を逸らして避ける。ウィッチ・ローザの明かりに煌めく白銀色の髪がふわりと靡き、マリーはそのままの勢いで回し蹴りを放った。



 ――再び響いた、破裂音。



 強靭な皮膚を持つ竜人をも即死させる一撃をまともに食らった大男の身体が、くの字に曲がる。懐に潜り込んだマリーは、全身のバネを使って、跳んだ。



 ――ふわりと円を描いて放たれる一撃。



 三度目の破裂音と共に、血と唾液がこびり付いた歯がいくつも飛び散る。あまりの衝撃に大男の身体が地面から離れ、住宅の壁をぶちこわしながら室内へと転がっていく。くるりと反転してその場に着地したマリーは、チッ、と舌打ちをした。



(しかも、重いときた!)



 ……わずかに痺れの残る両手を見やる。


 そこには、大した量の血痕が付着していない。その事実に、もう一度舌打ちする。厳しい眼差しを大男が開けた穴へ向けると、隣に着地したドラコが、降りかかる埃を翼でなぎ払っていた。


 装備無しとはいえ、マリーの拳はモンスターの固い皮膚を容易く貫く。不死身じみた耐久力を持つ大男であろうと、マリーの攻撃にはダメージを受ける……はずであった。



 ――唐突に、ぼん、と空気が爆発した。



 舞い上がる土埃、放物線を描いて飛び散る木片。瓦礫と化す家屋の、その奥からぬうっと姿を見せた大男の身体には……やはり、出血の痕は見られない。ダメージを、ほとんど受けていない。



「やっぱり堪えた様子はない……か」



 ポツリと零したマリーのため息に、大男のため息が重なる。けれども、そのため息に込められた思いは、全く違っていた。


 砕いたはずの大男の歯が、綺麗に生え揃っている。それを抜け目なく確認したマリーは、一歩大男から距離を取った。



「がぁあああ!!」



 それを好機と捉えたのか、それはマリーには分からない。


 しかし、鉄塊を振り上げた大男は雄叫びと共に飛び出す。その瞬発力は常人の域を超え、瞬時にマリーの前へと肉薄した。



(そして、速さもか……!)



 眼前まで迫った大男を前に……マリーは、ふっ、と息を止めた。


 振り下ろされた閃光を、避ける。衝撃で地面を陥没させる鉄塊が、土埃をまきあげる。


 返すように振り払われた薙ぎ払いを、捻ってかわす。ふわっと舞い上がる銀白色の髪が、ウィッチ・ローザの明かりに煌めいた。


 そのままの勢いで放たれる薙ぎ払いをしゃがんで避ける。逃げ遅れた幾本の髪が、パッと虚空へと飛び散る。


 大人二人掛りでも振ることすら難しい鉄塊が、空気を切り裂きながら振り回される。そのたびに舞い上がる土埃が周囲へと飛び散り、散弾のようにパラパラと家々の外壁にぶつかって跳ねる。



 マリーの身体が、ぶれる。


 遅れて、鉄塊が通る。


 またマリーの身体がぶれて、鉄塊が通り過ぎる。



 ぶれて、通り、ぶれて、通り、ぶれて、通り、ぶれて、通り、ぶれて、通り……瞬く間に三十へと達した必死の斬撃を、時には鉄塊の腹を殴りつけて軌道を変えながら、マリーは冷静にかわしつづけた。



 ――けして、マリーから攻撃はしない。



 マリーの拳を何十発食らおうとも立ち上がる大男と違い、マリーの場合は一撃でも大男の攻撃を食らえば負傷は必至。


 ドレスの補助が無い以上、当たり所によっては一発で致命傷に至ってしまう。いや、それだけでなく、最悪即死する危険性すらある。


 しかも、隙を見つけて攻撃したところで今のマリーでは怯ませるのが精いっぱい。与えるダメージでは膝をつかせることすら難しいだけでなく、瞬く間に傷を修復してしまう。


 そんな状況の中では……マリーは、おのずと逃げの一手を選ばざるを得なかった。



(――ああ、くそったれ! この浴衣ってやつはすげえ動きにくいぜ!)



 加えて、マリーの服装はお世辞にも戦闘に適したものではない。普段の装備であればもう少し容易く避けられる斬撃も、今は冷や汗ものだ。


 おまけに、体調は最悪の一言。積み重なった不調が高熱になり、頭をクラクラさせる……そのせいで、いつものように身体が働いてくれない。


 足に纏わりつく無駄に長い裾に、何度唾を吐きかけたくなったか……マリーの中で、浴衣に対する評価が地に落ちた瞬間でもあった。



「ぐぁああああ!!」



 常人なら振り回された斬撃の回数分切り刻まれている死地の中、大男の咆哮が辺りの静寂を震わせる。


 大男に感情があるのかは分からないが、頭上高くまで振り上げた鉄塊を見て、マリーは固く歯を食いしばった。



 ――好機!



 奇声と共に放たれた、最上段からの振り下ろし。


 それをこれまで同じように捌いて避けて、渾身の力を込めた手刀を……大男の手首に振り下ろした。


 瞬間、ぶちり、と大男の手首が音を立てて千切れ飛ぶ。


 合わせて、柄の部分がくの字に折れ曲がった鉄塊は、大男の血潮を撒き散らしながら虚空を切り裂いて……一軒の住宅に突き刺さった。



 ――血飛沫が、辺りを真っ赤に染める。



 夥しい量の鮮血が間欠泉のように手首から噴き出す中……大男の怒声が、マリーへと放たれる。腕から鮮血の雨を撒き散らしながら、大男は無事な方の腕をマリーへ伸ばし――。


 するりと、音も無く頭上から忍び寄っていたドラコの抜き手が、大男の右目の瞳孔に突き刺さった。岩石をも切り裂く竜人の爪が、白濁液と鮮血を押しのけた。



「――ぁ?」



 呆気にとられた大男の声が、思いのほか大きく響いた。ぐちゃりと、脳全体を振動させる異音に、大男の動きが止まった。


 大きく開いた唇から涎を垂らしながら、大男は無事な方の瞳で、逆さになったドラコへと視線を向ける。



「中をかき回してやろうかと思ったのだが……」



 ぐちゃりと、二度目となる異音が大男の頭を振動させる。


 ……ぶちり、と鈍い音を立てて、ドラコの指が引き抜かれた。



「思いのほか固く、抉り取るのが精いっぱいだ」



 灰色と赤色交じりの粘液で汚れた指先を、ドラコはそっと広げる。とろっ……と滴り落ちたマーブル色が、変わり果てた姿で地面に落ちた。


 ふわり、と。翼をはためかせて大男から離れると、大男は土埃を立ててその場に崩れ落ちた。




 ……抉られた瞳孔の奥から、どろりと粘液質の鮮血が滴り落ちて、地面を濡らしてゆく。



 びくんびくんと総身を痙攣させている大男を他所に、ドラコは静かにマリーの隣に着地する。そして、おもむろにマリーの全身に目をやると……そっと、汚れていない方の手でマリーの手を取った。



「――っ!」



 途端、マリーは顔をしかめてドラコの手を振り払った。けれども、ドラコは有無を言わさずにその手を追いかけて、再び捕まえた。



「マリー、この手は?」



 咎めるわけでも、怒るわけでもない。ただただ心配の二文字で覆われたドラコの声色に、マリーはそっと目を逸らした。



「……いくら強化しているとはいえ、素手で鉄の塊を何度も殴り付けたらこうもなるさ。まだ、骨が砕けていないだけマシだ」

「でも、皮がめくれて血が……顔も、さっきより赤くなっている。息も荒く、身体も震えている……」

「そりゃあ動き回ったからな。息だって切れるし、戦いの高揚ってやつも――」

「マリー」



 一言。


 たった一言、名前を呼ばれただけ。


 それだけで、マリーは言い訳を止める。


 マリーの目線に合わせて屈んだドラコの瞳が、マリーの視界にはっきりと映った。



「マリー」

「…………」

「……マリー」

「……ああ、もう、何度も呼ばなくても分かっているさ」



 根負けしたマリーは、お手上げ、と言わんばかりに両手を上げた。



「明日は事情を話して休む……これでいいか?」



 マリーからすれば、その提案は譲歩に譲歩を重ねた結果のソレであった。不満たらたらなのが一目で分かるぐらいに不機嫌となったマリーは、ふん、と鼻を鳴らした。


 しかし、ドラコは首を立てには振らなかった。


 これには、マリーも納得がいかない。「なんでだよ?」と少しばかりに苛立ち気味に目じりをつり上げるマリーに、ドラコはそれ以上に目じりをつり上げた。



「『明日』、だけでは駄目だ。熱が下がり、体力が戻るまでは休むべきだ」

「それじゃあ、仕事にならんだろ」

「私がいるし、サララたちもいる」



 きっぱりと言い切ったドラコに、マリーは目を瞬かせた。



「それに、逆の立場だったらお前は私と同じことを言っているはずだ……そうだろう?」



 その言葉に、マリーは呆然とドラコの顔を眺めつづけた後……深々と、ため息を吐いた。


 そして、「……分かった、俺の負けだ」ぶつぶつと愚痴を零しながら顔を上げたマリーは……大きく目を見開いた。


 マリーの視線は、ドラコの後ろに向いていた。当然ではあるが、ドラコがそれに気づかないわけがない。


 首を傾げながらも振り返り……状況を理解すると同時に、ドラコはマリーと同じく思考を止めてしまった。





 ――二人の視線の先。そこに倒れ伏していたはずのそいつが、身体を起こしていた。



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