第二十話: 君の名は

※グロテスク&暴力的なシーンあり、注意








 たった今、脳を削り取られて絶命したはずの大男が……ボタボタと口と右瞳孔から粘液を垂れ流しながら、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。



 ――驚異的。いや、もはや驚異などという言葉で言い表せられるレベルではない……悪魔的な異常事態。



 鮮血が噴きだしている手首を迷うことなく支えに使い、頭部の負傷という竜人ですら致命傷となる攻撃を受けても立ち上がる。


 正しく、悪夢としか言い表しようがない現実が、目の前にて起こっていた。



「――っぉぉ」



 しかし、だ。垂れ流される涎の奥から零れる、大男の呻き声。その声に思わず肩をびくつかせるマリーたちはまだ、気付いていなかった。


 悪夢のような現実は、今から起こるということに。



「おおっ……ぐぅぅ……」



 ボコボコと、消失した手首から泡を噴き始める。


 と、思ったら、噴き出していた鮮血があっという間に止まり、中から鮮血の塊が飛び出す。ぬちゃ、と糸を引く塊が分かれて手へと形を変える……再生したのだ。


 ごきり、と大男の身体が異音を立てる……骨だ。


 大男の体内にある骨と筋肉と内臓が、擦れ合うようにして蠕動を起こしているのだ。異音は徐々に激しくなって、ビクビクと大男の身体が痙攣を起こし――。



「――っぉぉ」



 ぶしゅっ、と皮膚を突き破って、大男の肩から細い腕が新たに生えた。合わせて痙攣が激しくなり、徐々に骨格そのものが完全に別物へと変質し……化け物へと、姿を変えていく。


 細い腕は見る間に太くて強靭なモノへと変質し、末端となる手足は岩のように硬質化していく。


 体格は三メートルに達するかと思われる程に巨大化し、失われていた右瞳孔が内側から肉が盛り上がって塞がり、再生した瞳がぎょろぎょろと動き回っていた。


 さらに眉の上に二つ、こめかみに二つが新たに形成され、六個となった瞳がぎょろりとマリーたちを捉える。


 ビクッ、と。おぞましい光景を前に肩を震わせるマリーたちをしり目に、大男の体表に浮かぶ血管が脈動し、隆起した筋肉が蠕動しているのが、皮膚の上からでもはっきり分かる。



 そして……時間にして一分程だろうか。



 瞬く間に原型を失った『大男だったナニカ』は、かはぁ……と生臭いため息を吐く。ゆっくりと顔を上げて……六つの瞳で、マリーたちを見つめた。



「――っ!」



 その場の誰よりも先に地を蹴ったのは、ドラコであった。


 大きく息を吸って胸を膨らませていたドラコは、一瞬にして化け物と成り果てた大男との距離を詰めると……叩きつけるように轟炎を吹いた。



 ――ごう、と。辺りが山吹色に明るくなった。



 放たれた轟炎は瞬時に大男を火だるまへと変えるだけでなく、足元の地面すら焼き尽くす。肉の焼ける臭いと、ガス特有の臭いが混ざり合ってたちのぼった。


 炎の勢いは凄まじく、跳ね返った熱風に思わずマリーが顔を隠す程だ。常人であれば即死し、モンスターであっても数秒で絶命する程の一吹き……しかし――。



「――っ!?」


 驚愕に目を見開いたドラコは、炎を吐くのを中断してその場から飛び退く。直後、火だるまの中から伸ばされた鉤爪が、地面を抉り取った。


 呆然と立ち竦むマリーたちを他所に、熱気と悪臭で覆われた煙を振り払って姿を見せたのは……ほとんど堪えた様子のない、大男であった。



「不死身かこいつは……」



 ドラコの言葉がむなしく消え入る中……実際、負傷らしき様子は見られない。


 各所を残り火に焦がされながらも、六つの眼光は変わらずにマリーたちを見つめている。そして、しばしの間六つの目を瞬かせていたと思ったら……焼けただれた唇が、ニヤリと弧を描いた。



 ……どうやら、まだまだ元気いっぱいのようだ。



 反面、マリーの身体はすこぶる調子が悪く、装備一つまともな物がない。不調は無いドラコには、決めてとなる攻撃力が無い。これだけでも、涙が出てきそうな状況である。



「……ははは、マジかよ」



 乾いた笑いを、マリーは零した。しかし、そうしながらもマリーの手は、しゅるりと帯を解いて肌を晒すと、一息に浴衣を傍らに放り投げる。


 陶磁器のように滑らかな肌が、地面に散らばっている炎の残骸に照らされる。うっすらと表面を濡らす汗によってか、光り輝いているように見えた。



 ……これで、邪魔な浴衣は無くなって、多少は身動きしやすくはなっただろう。



 背筋を走る悪寒に肩を震わせながら、マリーは大きく息を整える。己の盾となって構えているドラコの背中を見やりながら、マリーは決断しなければならないことを実感していた。


 手足を粉砕しても、堪えない。火だるまにしても、怯まない。胴体を破壊しても、死なない。頭を削り取っても、立ち上がってくる。


 殺しても生き返る存在を前に、いったいどう立ち向かえばいいというのか。



(あの時と同じように、立ち上がれなくなるまでダメージを与える……無理だな。かといって、ドラコ一人ではやつを仕留めきれんだろうし……)



 やはり、撤退が一番無難な手か。



(こんなときサララたちが加勢してくれたら……せめてここのやつらが顔を出してくれたら、そいつらを囮にして逃げられるっていうのに……こういう時に限って、誰も姿を見せねえし……ああ、夜だから皆寝ているのか)



 大男に聞こえないように小声で撤退することをドラコに伝える。振り返ることなく頷いたドラコはゆっくりと翼を広げながら、一歩、また一歩、後ずさる。



 少しずつ。


 少しずつ。


 少しずつ。


 少しずつ……今だ!



 奇声を発して飛び掛って来た大男と、背を向けたドラコが、マリーを抱えて空へと逃げるのはほぼ同時であった。「――つっ!?」左足から伝わる鋭い痛みに顔をしかめながらも、ドラコは一瞬にして天井付近にまで上昇し、その場に静止した。



「大丈夫か!?」



 ギュッと己を抱きしめる力に、マリーは言われずともドラコが負傷したことを察していた。


 ドラコの柔らかくて大きな膨らみを掻き分ける様にして身体を上り、傷跡を確認しようとするが「――この程度、すぐに塞がる!」ドラコが、それをさせなかった。



「……それに、どうやら気づいてくれていたようだ」

「えっ?」



 首を傾げるマリーを見て、ドラコはフッと優しく微笑む。スッと、伸ばされたドラコの指先が示す先に目をやったマリーは……喜びに表情を綻ばせた。


 視線の先には、ナタリアに引っ張られる形で空を飛ぶサララとイシュタリアの姿があった。



「マリーーーーっ!!!!」

「ちょ、ちょっとサララ、いきなり大声出さないでほしいわ」

「おー二人ともーまだ死んではおらんかったようじゃなー」



 サララの歓声に眉根をしかめるナタリアに、イシュタリアの暢気な声がマリーとドラコの耳に届いた。


 三人ともがしっかりと装備を整えており、ナタリアはマリーの物と思われるビッグ・ポケットを背負っていた。







 ドラコの手を借りながら、空中で着替えるという離れ業をマリーが行った後。


 マリーたちが居る真下の地点から動こうとしないのを見て、まずは簡潔に状況を……と話を切り出した途端。



「あ、そうそう。あの男に関しては、私もお嬢ちゃんもナタリアもドラコもある程度は知っておるのじゃ」

「…………っ!?」



 あっけらかんと言い放ったイシュタリアの一言に、マリーはしばしの間呆気に取られることとなった。


 そして……ようやく頭の整理が付いた頃。自然と険しい顔つきになったマリーは、四人の顔を順々に睨みつけた。



「……なんで、お前らあの男のこと知ってんだよ」

「私は、イシュタリアに教えて貰った」

「私もだが……安心しろ。私は誰にも話していないぞ」

「…………」

「そんなの簡単じゃよ。お主が隠し事出来ない性格しておるからじゃ。それに、そんなこといちいち隠す必要がどこにあるのじゃ」

「……ああ、うん、そう言われたらそうなんだが……なんか、凄い納得がいかねえ……」



 しかし、堪えたのはサララ一人だけであった。「ごめんなさい」と頭を下げてしゅん、と落ち込むサララを慌てて慰めながら、マリーは深々とため息を吐いた。ナタリアとドラコは仕方がないという部分が多々あるのでどうでもいいが……。



「というか、今はそんなことよりも、あの四本腕の化け物と、お主の身体の状態の方が心配じゃな」



 うっ、とマリーは息を詰まらせて、ドラコの首筋に肩を埋める。「隠したところで、熱で耳が真っ赤なのがバレバレじゃぞ」と駄目押しされたマリーは渋々サララたちの前に赤くなった顔を晒す。ナタリアから「ほっぺた真っかっか」と指摘されたマリーは、そっとサララたちから顔を逸らした。



 ……ドレスに着替えたおかげだろうか。あるいは、仲間が来てくれた安心感のおかげだろうか。



 背筋を震えさせていた悪寒が、多少はマシになってきている。頭は上手く動いてくれないうえに、手足の節々に痛みが走るが、それでも先ほどよりもかなり楽にはなっていた。



「ああ、ちなみに言っておくのじゃが、それはピークが過ぎたわけではないからのう。強い寒気を覚えるのは熱が上がっているときだけで、熱が上がりきったら寒気はある程度治まるのじゃ……当然、後は治るだけというわけではないから、そこのところ勘違いするでないぞ」



 とりあえずピークは過ぎたと反論しようと思っていたマリーは、そっと口を噤む。それを見たサララは、力強く頷いてマリーを見つめた。



「……マリー、今すぐ私にソレを……風邪を移して。そうすれば治るから」

「あ、それと誰かに移せば治るというのは迷信じゃからな。例えこの場にいる全員に移したところで、治癒が早まることは無いのじゃ」

「……やってみなければ、わから――」

「やらなくても分かることはある。お主の二十倍は生きてきた婆ちゃんの知恵を馬鹿にせんことじゃな」



 そう言われれば、サララとしても信じるほかない。



「……ごめんなさい、マリー。私にもっと力があれば……!」

「い、いや、気にするな」

「遠慮しなくていい。私は、マリーの為なら喜んで風邪を移されたいだけだから……むしろ、マリーの身体の中に入った風邪が私の中に入ることに、仄暗い喜びが……」

「さ、さすがの俺もそこまでされるとドン引きだぞ……」

「お主らこんな場所で何をいちゃついておるのじゃ。いちゃつくのは布団の中かベッドの中だけにしておくのじゃな」



 そう言って、やれやれとため息を吐いたイシュタリアは、そっと視線を眼下に向ける。先ほどと同じく、こちらが下りてくるのを待っている大男の姿があった。


 隣から「そうしたいのは山々だけど、マリーが最後までしてくれないのはあなたも知っているでしょ」と呟いているサララにもう一度イシュタリアはため息を吐くと、ふむ、と顔をあげた。



「それで、お主らはあやつに如何ほどの攻撃を試みたのじゃ? 私たちは今さっき騒音に文字通り飛び起きて来たばかりじゃからな。略さずにしっかり教えるのじゃ」



 真面目な質問に、マリーはもちろん、サララたちも気持ちのスイッチを切り替える。無駄口を叩いてはいたが、やるときはちゃんとやる。



「……えっと、とりあえず普通のモンスターなら10回は死んでいるぐらいの攻撃は重ねたぞ……それで、何をしてもすぐに傷を治してしまうから、攻めあぐねているところだ……ああ、くそ、考えて喋ると声が頭に響くぜ……」

「無理に話さなくていい。私が代わりに答えよう」



 とはいえ、今のマリーが気持ちを切り替えたところで、熱が邪魔をして上手く頭が回らないのは仕方がないことだ。優しくマリーの唇を手で押さえたドラコは、マリーに代わって唇を開いた。



「マリーの拳による打撃が数回、私の抜き手による頭への攻撃を一回と、火炎による攻撃が一回だ。マリーの攻撃はほとんど通じず、頭への攻撃では多少動きを止めることは出来た」

「火炎? ……ああ、そういえば竜人は炎を……それで、結果は?」

「てんで堪えた様子は見られない。おそらく、今私が吐けるだけの炎を全てぶつけたとしても、やつを仕留めることは不可能だろう……まるで手応えが無かった」

「なるほど、お主の拳でも駄目なら、正面突破は難しいのう。この人数じゃから、攻撃の物量で押し切ろうかと思っておったのじゃが……」



 ドラコの話しに、イシュタリアは思案顔になって唸り声をあげる。


 さすがにサララもそこまでは知り得ていなかったので、イシュタリアと一緒に頭を悩ませる。


 あまりそういったややこしい事を考えないドラコも、マリーの身体を温めながら懸命に思考を回転させる。


 物理的攻撃は効果が薄く、生命の動力はおろか、知性の中枢である頭を破壊しても無理。かといって、熱による攻撃も駄目。


 さて……ここから導き出される有効な攻撃は、何だろうか?



「……話を聞く限りだと、まるでイシュタリアみたいな再生能力を持つのね」

「――っ!?」



 サララたち三人が頭を悩ませる中……首を傾げていたナタリアの一言が、意外な方向から突破口を導き出した。



「ナタリア、今何と言ったのじゃ?」

「――あ、ごめんなさい。失言だったわね」

「違う、私が言いたいのはそうではないのじゃ!」



 けれども、当のナタリアはそう捉えてはいなかった。化け物のアイツとイシュタリアを同一視する言い方に、ナタリアはすぐに頭を下げる……が、イシュタリアは真剣な眼差しでそれを止めた。


 困惑に首を傾げるナタリアに、イシュタリアはもう一度同じことを尋ねる。ますます疑問符を頭上に飛ばすナタリアであったが、素直に一字一句、同じ言葉を復唱した。



「……試してみる価値はあるのじゃ」

「何か思いついたの?」



 見る間に瞳に光を灯したイシュタリアに、サララが尋ねる。けれどもイシュタリアは「――まあ、少し見ているのじゃ」と質問に答えないまま、ドラコを見やった。



「ドラコ、お嬢ちゃんを抱えてしばらく飛行することは出来るかのう?」

「それぐらいなら容易いことだ。サララ、お前も私と一緒にマリーを温める作業を始めよう」

「ちょっと待って、いまプレートの留め具を緩めているところだから」



 ナタリアの手からドラコの身体へとサララは移る。ドラコの恵まれた果実と、サララの年齢相応の弾力に挟まれたマリーの呻き声が、空しく籠る。


 ……不本意ではあろうが、それはそれでマリーもようやく気が抜けたのだろう。


 抵抗出来ないまま、ぐったりと力を抜いているマリーを見て、ドラコとサララは安堵のため息を零し、さらにマリーを抱き締めた。



「……程々にしておくんじゃぞ」



 イシュタリアの言葉が耳に届いているのか居ないのか……ドラコとサララは、むにゅむにゅとマリーの全身を温める作業を行い始めた。



「……ちょっと、惜しい事したと思った?」



 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるナタリアに、イシュタリアはふん、と鼻息を吹いた。「そう思える程私には胸が無いのじゃ」という返事に困る返しに、ナタリアは言葉を無くす。



「全く、ちょっと私より大きくなったからといって……さて、ナタリア。お主は私を抱えたまま、あやつの注意を惹きつけられるように少し高度を下げるのじゃ」

「……まっかせろい」



 イシュタリアの胴を抱えるようにして後ろから持ち直すと、ナタリアはゆっくりと高度を下げて行く。


 ジッとマリーだけを見つめていた大男の視線が、イシュタリアへと向けられたのを見て、今度は方向を下から横へと変えた。


 ……ナタリアの動きに対して、のそのそと大男が動き出す。


 どすん、どすん、と巨体が動く様を上から観察していたナタリア、ある程度マリーたちから離れた地点で「ここじゃな」動きを止めた。



「さて、いっちょぶっぱなしてやるかのう……」



 大男の位置を確認したイシュタリアは魔力を練り上げながら両手を伸ばし……ポツリと、魔法術を行使した。



「“ギルティ・ロック”」



 その言葉と共に、大男の足元がずるりと崩れた。その様はまるで、突如として現れた落とし穴に足を突っ込んだかのようであった。


 思わず体勢を崩す大男を他所に、凄まじい勢いで砂粒が盛り上がり、凹み、流れ、瞬く間に大男を囲うように土の壁が形成され始める。



「ごぁあああ!!」



 異変に気づいた大男は、急いで壁の外へと逃げようとしたが、遅かった。それよりも、イシュタリアの方が速い。


 大男が端にたどり着いたときには、既に十メートルに達する巨大な土の檻が完成していた。



「この魔法術は見ての通り、対象者を閉じ込める魔法術でな。内側の部分は脆くて崩れやすく、壁そのものも半端な分厚さでない上に、壊された部分はすぐに元通り……ほれ、重い巨体のせいで、まともに登ることも出来ぬようじゃ」

「あ、本当だ。へえ……好みじゃないけど、こうしてみると何だか可愛いわね」



 あ、でも、あいつマリーにちょっかいかけたみたいだし、そう見ると全然可愛くないわ。


 そう唇を尖らせるナタリアに、「その点については、同感じゃな」とイシュタリアは頷くと、暴れている大男に向かって、再び両手を向ける。



 ――途端、イシュタリアの両手が、塗料を塗ったかのように白く色が変わった……色が変わっただけではない、凍りつき始めたのだ。



 ぱきぱきと、両腕に触れた外気の水気すらも、凍りつく。


 しかし、凝縮されてゆく冷気は止まらない。最初は麦粒のように小さかったソレは、瞬く間にボール大へと大きくなった。


 それはまるで、掌の中に凝縮された冬の塊。イシュタリアはそれを静かに土檻の中へと向けると、ゆっくりと狙いを定めた。



「ほれ、急いでここから離れるのじゃ」

「おっけー」



 言われるがまま、ナタリアはイシュタリアを抱えて土檻から高度を取る。十分に、己の魔法術が及ばない位置にまで来た辺りで……そっと、冷気の塊を落とした。


 しゅるしゅるしゅる……奇妙な音を立てながら落ちた冷気の塊が、静かに土檻の中へ姿を消した直後。凄まじい爆音が、『地下街』全域まで響き渡った。



「うひゃあ!?」



 想定外の爆音に、ナタリアは思わず肩をびくつかせる。辛うじてイシュタリアを落とすようなまねはしなかったが、あまりに大きい爆発音に、離れた所にいたドラコとサララはもちろん、寝入っていた『地下街』の住人たちを叩き起こすには十分であった。



「――え、ええ、何アレ?」



 振り返ったナタリアは、思わず目を瞬かせた。ナタリアの目に飛び込んできたのは、冷気によって生まれた白い煙が、土檻の中からゆるやかに噴き上がる光景であった。



「{コキュートス・ボム}。極低温……というにはかなり温度は高いのじゃが、まあ言ってしまえば冷気の爆弾じゃな」

「……それって、どれぐらい冷たいの?」



 ナタリアの質問に、イシュタリアはふむ、と首を傾げた。



「ナタリアがあの土檻の中に入れば、五分と耐えられずに骨の芯まで凍り付く冷たさじゃな。おそらく、この世界でアレをまともに食らって生きていられる生物はまずおらんじゃろうな」



 当然、それはあの良く分からん化け物も同様なのじゃ。そう続けたイシュタリアの言葉に、ナタリアはぶるりと背筋を震わせる。


 あの化け物がどうなったかはしばらく確認出来そうにないが、これではひとたまりもないだろう。



「そ、そんな切り札を隠し持っていたのね……ていうか、ちょっと待って。それ使えば、『ラステーラ』の時に現れた神獣だって一発で仕留められたんじゃないの?」

「無理じゃな。この魔法術は拡散型だから、外で使えば冷気が逃げてしまう……というか、あいつは冷気にも耐性があったはずじゃから、そこまでダメージは与えられなかったと思うのじゃ」



 はあ……と。ため息を吐いたイシュタリアは、チラリと視線をマリーへと向ける。



(……風邪にしては症状が重いような……薬草で熱が下がれば良いのじゃが)



 熱で意識が朦朧としているのか、先ほどの爆発音にも反応している様子はなく、ドラコとサララに身体を預けたままなのが見えた。



「……ちなみに、べらぼうに魔力を食う魔法術の一つじゃ。おかげで今の私は魔力切れ一歩手前で、身体を動かすのがとても億劫なのじゃ……明日はマリーと一緒に、部屋でゴロゴロさせてもらうとするかのう」

「ふーん……私はそれで構わないけど、バルドクとかぐちの二人はなんて言うかしら?」

「言わせておけばいいのじゃ」



 きっぱりと言い切ったイシュタリアに、ナタリアはそうよね、と頷いた。











 ……。


 ……。


 …………どれほど、眠っていたのだろうか。ふと、マリーは己の意識が覚醒したのを自覚する。



 と、同時に、鼻腔を埋め尽くす濃厚な花の香りに……ハッと目を見開いて……とりあえず、身体を起こす。


 遅れて飛び散った花びらが身体に降りかかるのを見たマリーは……ゆっくりと、顔をあげた。



「……は?」



 辺り一面が、花で埋め尽くされていた。文字通り、様々な大きさの花々が七色に咲き乱れ、隙間なくみっちりとマリーの視界に広がっている。



 ……何処だ、ここは?



 花から視線を上に向ければ、はるか彼方へ続く地平線にまで、花々の海が続いているのが見えた。



 ……初めて見る光景に言葉を無くすしかない。



 しばしの間、呆然と辺りを見回していた後……ハッと我に返ると、勢いよくその場から立ち上がった。


 立ち上がっても、全く変化の無い景色。その事実を認識した直後、マリーは大きく息を吸って、声を張り上げた。



「サララー!!」



 ……マリーの声が、地平線の彼方へ溶け込むように離れて行く。いつもなら呼ばれなくても傍に来てくれるサララの姿は……どこにも現れなかった。



「イシュタリアー!」



 二度目となる、呼び声。一度目よりも大きいそれは、一度目と同じように地平線の彼方へ溶けて、離れて行った。



「ナタリア―! ドラコー! 居るのなら返事をしてくれー!」



 三度目、四度目の呼び掛け。けれども、結果は変わらなかった。どれだけ大きな声を出しても、空しく彼方へ消え行くだけ。



「――っ!」



 沸々と背筋を昇ってくる焦燥感に急かされるがまま、マリーは何度もサララたちの……館の女たちの名前を呼んだ。


 十回、二十回、三十回、四十回……いったい、どれだけの回数声を張り上げたか、マリーには分からなくなっていた。


 喉はとおの昔に痺れと痛みを訴え、唾を呑み込むたび、針で突かれたかのような感覚に何度目じりを涙で濡らしたか、それもマリーには分からなくなっていた。



「……くそっ」



 けれども、それが三桁に達した頃。ようやくこの場に誰もいないことを理解させられたマリーは、舌打ちと共にその場に腰を下ろした。


 ボサボサに乱れていた髪がふわりと肩に掛かり、柔らかい花びらが毛先の末端に絡み付いているのが見える。


 だが、取り除く気にもならず、マリーは大きくため息を吐くと、ゆっくりと花々に背中を預けて寝転がった。



 ……眼前に広がる空は、どこまでも青色であった。



 いまだかつて、これほど綺麗な青空を見たことあるだろうか……そう思わせるぐらいに、眼前に広がる光景は美しかった。



「綺麗な色しやがって……」



 ポツリと、マリーは感想を零す。別に、誰かに聞かせたかったわけではない。自然と、その言葉を口に出してしまっただけである。



「――あら、ありがとう。そう言っていただけると、こっちとしても嬉しい限りだわ」



 だからだろうか。頭上から聞こえてきた女の声に、マリーは飛び跳ねるようにして立ち上がる。反射的に拳を放てるように身構えたマリーは――。



「…………?」



 誰もいない眼前に、首を傾げた。



 気のせい……か。



 頭を掻いたマリーは、座ろうと腰を下ろし――。



「そんなに警戒しなくてもいいわよ。あなたをここに呼んだのは私だけど、別に取って食うつもりはないのだから……」

「――っ!?」



 かけた瞬間、またもや背後から掛けられた女の声に振り返る。けれども、目の前に広がる光景は先ほどと全く同じであった。


 どこまでも続く花々が有るばかりで、女の姿……先ほどから掛けられた声の色からして、相手は間違いなく女だ。


 それは、分かる。聞き間違うわけがない……しかし、その姿はどこにも見当たらない、捉えられない。



「だから、怖がらなくてもいいって言っているでしょ。あなたを殺すつもりなら、とっくに殺しているわよ……」



 ……しかし、だ。


 三度目となる声……隠しきれないと言わんばかりの笑い声が、背後から掛けられる。反射的に振り返り――そうになったが、マリーは止まった。



 ……それが、正解だったのかもしれない。



 振り返ってしまいそうになる己を、半ば強引に抑え込んだマリーの背中に「――あら、ようやく理解してくれたのね」女の無邪気な声が掛けられた。



 ……何者だ、こいつ。



 マリーは前を向いたまま、背後の何かに意識を集中した。全く聞き覚えのない、歳若い者特有の軽やかな声色であることは確かであった。



「……人に話しかける時は、ちゃんと目を見て話せってお母さんかお父さんに言われなかったのか?」

「残念。私に父と母はいないの。それに、今はあなたと顔を合わせるべき時じゃないから……しばらく、これで我慢してちょうだい」



 少し話をしたいから、腰を下ろして。



 そう背後の女から言われて、マリーは警戒しながら腰を下ろす。途端、背中に暖かな体温が圧し掛かったのが分かった。背中合わせに座っている……なんとなく、マリーはそう思った。



 ……おそらく、背後の女は、女ではあるが、女ではない。



 女と言うには些か早い、少女と言うべき年代の子供。触れる体温と重圧からそう推測したマリーは、ふわりと背中に掛かる感触に、ジッと目を細めた。



「色々と聞きたいことはあるが、まず聞いておきたいことがある」

「なぁに?」



 小首でも傾げているのか……可愛らしい返事に、マリーはますます警戒心を募らせた。



「お前の名は、何だ?」



 ……しばしの間、沈黙が辺りを包んだ。


 風も無く、こういった場所特有の耳鳴りすら覚えない中、「名前を誰かに言うのは、本当に久しぶりだわ」ポツリと呟かれた女の声に、マリーは思わず目を瞬かせた。



「『オドム』。私のことを知っていた人たちは、私のことを『オドム』と呼んでいたわね」



 けれども、疑問を口にする前に答えられてしまい……タイミングを逃してしまったことを、マリーは遅れて理解した。



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