第七話: 見えない棘、止まない雨
……。
……。
…………目が覚めた。
寝起き一番でマリーが感じたのは、頭全体を包み込む暑苦しさ。一晩で元通りとなり、爆発したかのようにぐしゃぐしゃとなった己の寝癖であった。
寝ぼけ眼で、部屋に備え付けられた時計を見やる。時刻はまだ5時半を回ってすぐで、室内の至る所から寝息が聞こえてくる。
……漂ってくる、様々な意味合いの甘い匂いが、今いる場所がどういうところなのかを教えてくれた。
「…………」
むくりと、マリーは身体を起こす。欠伸を零しながら室内を見回せば、やはり全員が眠っている。
隣に目をやれば、素裸のイシュタリアが土下座の姿勢で寝息を立てていた。相も変わらず、ダイナミックで器用な寝相である。
反対に目を向ければ、サララが可愛らしい寝顔をと可愛らしい寝息を披露していた。普段はマリーよりも前に起きるのが当たり前なので、中々珍しい光景だ。
そのまま、その奥のベッドで寝ているナタリアに目を向ける。
何か良い夢を見ているのだろうか……少しばかりセクシーな寝間着に袖を通したナタリアは、枕を抱きしめながらにやにやと締まりのない笑みを浮かべていた。
おもむろに、ベッドから降りる。女たち……特にサララを起こさないように気配を消しながら、静かにナタリアの傍に立つ。薄暗がりの中でも目立つ金髪の髪を、そっと梳いてやる。
…………。
指の間から抜けて行くそれらは、一本一本が絹のように滑らかで、心地よい肌触りだ。軽く指先で抓んでやれば、枝毛一つ無いそれがパラパラと零れ落ちた。
「どうした? まだ朝には早いぞ」
――突如掛けられた声に驚かなかったのは、半ば幸運に等しかった。
平静を装って視線をやると、部屋の隅で丸まって寝ていたドラコがのそりと身体を起こしているところであった。
「……お前、またベッドで寝なかったのか。何度も言っているが、破いても最後に弁償すればいいんだから、構わないんだぞ」
寝ている皆を起こさないように声を潜める。マリーの視線が、使用された形跡の無い一つのベッドへと向けられた。
「申し出は有り難いが、あいにくと人間の寝床は私にとって柔らか過ぎる。ここの床位の固さがちょうどいいのだ」
立ち上がったドラコは、そのまま大きく伸びをする。ただでさえ張りのある膨らみがさらに強調され、サラシ布から乳肌が今にも零れそう。
その下に盛り上がっている割れた腹部が、取り込んだ空気を一気に押し出した。
「それはそれとして、お前がこの時間に起きるなんて珍しいことだな。何か嫌な夢でも見たのか?」
「……まあ、そんなところだな」
そっと、マリーは網戸越しに外を見やる。思い出したようにふわりと入ってくる風は、どこまでも生温い。まるで、マリーの内心を表しているかのよう。
深夜まで降り続いていた雨は、依然として止む気配は無い。どんよりと曇る空は砂鉄を振りまいたかのように黒く、湿気が重くて鬱陶しい。今日も、蒸し暑くなりそうだ。
「……少し、散歩に行ってくる」
「……雨が降っているぞ」
不思議そうに首を傾げるドラコに、マリーは……苦笑を見せた。
「そういう気分なんだ」
その言葉に、ドラコは「……そうか」ただ、それだけを返した。
「……一人で行くのか?」
「しばらく、一人になりたいんだ」
「……傘は?」
「いらん……少し、雨に当たっていたいんだ」
そう言うと、マリーは出入り口へと歩き出す。背中に感じる、ドラコの視線を意識的に無視しながら……。
……。
……。
…………降りしきる雨、じっとりと纏わりつく湿気。
築数十年という年月によって、いつの間にか外壁に繁茂している蔦。4階建てのそこは、他の建物とは少しばかり違う雰囲気を漂わせていた。
独特の緊張感……と言えばいいのだろうか。その警察署の待合室にて、担当者が来るのを待っているマリーたちは、仕方がないこととはいえ場違いであった。
通り過ぎる職員、一般人から向けられる好奇の視線。
マリーたち全員が、上に美が付く見た目であり、一人が亜人だからなのか。そんな中、イシュタリアが今朝から何回目となるため息を深々と吐いた。
「暇つぶしの為に雨が止んでいる内に散歩に行ったはいいが、帰る途中で雨に降られてずぶ濡れ……お主、お嬢ちゃんに要らぬ心配をさせてどうするのじゃ」
「イシュタリア、私は気にしていないし、マリーも謝らなくていい。マリーがしたいようにしただけで、私に遠慮する必要なんてどこにも無い」
そして、今朝から何度目かとなるサララの返答。二人の会話にマリーはそっと目を逸らす。クイッと、軽く髪を引っ張られる感触に、己の銀白色の髪を弄っているナタリアに声を掛けた。
「どうだ、ナタリア。上手に出来ているかい?」
「――今は、話しかけないで……!」
何やら真剣な様子で指先を動かすナタリア。ちょこちょこと、慣れない手つきでマリーの髪を一生懸命に弄っている。頭皮に感じられるスプレーの清涼感に、マリーは視線をさまよわせる。
最近になって、どうやら化粧というものを覚えたらしい……というよりも、化粧というよりは髪遊びというやつだろうか。
ここしばらくは暇とタイミングさえあれば、今のようにずっとマリーの髪で遊んでいる。
切っ掛けが何なのかマリーは知らないが、マリアたちからいくつか髪の結い方を教えてもらったらしい。
それから暇を見つけては誰かの髪を借りようとするのだが……髪は女の命であり、同性にもあまり触らせたりはしない部分である。
いくらナタリアのお願いとはいえ、館の女たちも二度目、三度目は嫌がるのも仕方がない。
イシュタリアも嫌がり、ドラコは角が邪魔をして結い難く、サララは短すぎる……ナタリアの両手が、マリーの頭にたどり着いたのはある意味自然の流れだったのかもしれない。
試されるマリーからすれば鬱陶しいことこの上ないが、完成した後の、誇らし気なナタリアの顔を思うと……結局されるがままになっているのが、ここ最近のマリーであった。
……そんなマリーたちの前に、一人の警察官が姿を見せたのは、ナタリアがマリーの髪遊びを始めてから15分程後のこと。
「お待たせしました、ご案内致します」
と、開口一番にそう言ったのは、まだ二十後半にしか見えない男。初々しいという言葉がこれでもかと当てはまる青年であった。
その青年はといえば、美少女&美女としか言いようがないマリーたちの視線に、何を考えたのやら。にやけた頬を思い出したように引き締めると、「こちらです」とマリーたちを案内した。
(……ああ、なるほど。よく考えたら、ドラコの恰好って亜人だから見逃される部分があるけど、人間だったら普通に痴女として見られる恰好だったな)
途中、振り返ったマリーはドラコの恰好を見やって、納得に頷いた。見慣れてしまったから気にも留めていなかったが、今時、娼婦でもここまであからさまに肌を晒す者も少ないだろう。
道理で周囲から異様に視線が集まるわけだ、と内心ため息を吐く。
建物の中を進み、階段を下りて進むこと暫く。案内された留置所の檻には幾人かの客で埋まっており、全員がマリーたちを……特に、ドラコの恰好を見た途端に嫌らしく顔を歪めた。
口さがない者の中に、ズボンを下ろして意図的に性器を露出する者までいる。当然、案内の青年が怒鳴るが、その程度で引き下がる……というか、怖気づくような者は一人もいなかった。
「――すみません。ここに居るのは馬鹿というか、そういうやつらでして……」
青年は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いいよ、見慣れていたから」
そうマリーが言うと、途端に客たちは歓声をあげた。何かを想像したのか、青年は少しばかり顔を赤らめて前方へと向き直る。
それを確認した瞬間、マリーは素早くナタリアの後ろに回り、スカートを一息に捲り上げ――。
「おお――っ!?」
客たちの顔が喜色で染まる――一息に、下着を下ろす――ナタリアの神獣が、ぼろん、と姿を見せた。
「――おおっ、お、お…………」
一言で、暗転。
客たちの顔色が、文字通り喜びの赤色から絶望の青色へと変わる。性器を露出していた男に至っては、己のブツとナタリアのブツを見比べて、隠れる様にしてズボンを上げていた。
「……?」
突如おかしな反応を見せた客たちを見て、首を傾げる青年。「ろ、露出もけっこう気持ちいいかも」というナタリアの発言は、幸いなことに耳に届いていないようであった。
「ちょっと大人げないよ」
そしてマリーは、サララのやんわりとしたお叱りを、右から左に聞き流し……そっと、尖がり帽子で目元を隠した。
そうして、案内された先で……意外な人物と遭遇した。
「あれ、源? なんでお前がここにいんの?」
「それは、僕たちも一応は関係あることだからだよ……悲しいことにね。まあ、もう関係があった、の方が正しいんだろうけど」
案内された部屋に入って開口一番。『犯人』が留置されているという檻の前には、学園で教鞭を振るっているはずの源がおり。その腰には相も変わらずテトラがへばりついていた。
「まずはアレを見てほしい」
そう言われて、マリーたちの視線が源たちから外れ、鉄格子の向こう……留置所の中で膝を抱える様にして虚空を眺めている一人の男へと向けられた。
……初見の印象は、みすぼらしい、の一言であった。
髪がぼさぼさになっているせいなのかは、分からない。ただ、よくある衣服にすり減って汚れた靴、そして、男の背中から漂う何か……それら全てが混ざり合った結果の感想なのは間違いなかった。
「彼の名前は、トーマス。君たちにとっては記憶に留めていないだろうが、君と同じく大規模採取を受けていた学園の生徒だ」
「ふーん、そうなのか」
言い辛そうに言葉を選んだ源に対しての、マリーの正直な感想がそれであった。「……え、いや、それだけ?」驚いたように目を白黒させる源を見て、「それだけ、と言われても」マリーは苦笑するしかなかった。
「こいつを殺したって、館は元には戻らんし、ここに居る以上俺たちは手を出せん。それを考えるぐらいなら、こいつから取り上げた財産でどれだけがうちに回されるかということを考えた方が楽だろ」
「……まあ、そうかもしれないね」
実際の所、そうなのだ。
保障などというモノの考えが薄い『東京』では、犯人を捕まえたところで全額補填される保証は全く無い。
没収した財産はまず捜査費用としていくらか徴収され、余分が出ればマリーたちに回ってくるのが関の山なのである。
「ところで、警察の兄ちゃん。どうしてこやつが犯人だと分かったのじゃ?」
思い出したように尋ねたイシュタリアの質問に、青年は「物的証拠が見つかったんですよ」はっきりと答えた。
「館の焼け跡から、この男の所持品が見つかりましてね。確認してみたところ、この男の物であると確定しました。他にも源先生や生徒たちからいくつか興味深い証言を確認出来まして……」
「証言……」
「一言で言えば、マリー君への嫉妬かな」
答えたのは、源であった。
「僕も聞かされるまで知らなかったんだけど、大規模採取初日の時、君たちが帰った後に泣き喚いたらしいんだよ……このトーマスという男はね」
「へ? そんなやつ居たの?」
「君たちが帰った後だから、知らないのも無理はないよ。わざわざ教えることでもないし……とりあえず、動機はあるみたいなんだ」
「ついでに言えば、こいつはどうもメルフォナ中毒でしてね。今でこそ薬の副作用であんなふうになっていますが、最初は錯乱状態で随分と暴れたんですよ……どうも、十数回分の量を一度に使用してしまったようでして……」
「……ほっほう、メルフォナか。溜まりに溜まった恨み妬みが、麻薬の力によって後押しされたというわけか。なるほど、蓋を開けてみればそう珍しくは無い話じゃのう」
二人の説明に、イシュタリアたちは神妙な顔で頷いた。「心中、お察しします」という青年の言葉に、イシュタリアたちは苦々しい思いを呑み込むしかなかった。
――メルフォナとは、数ある麻薬の中でも比較的入手が用意な部類に入る、ポピュラーな麻薬だ。強力な陶酔感と万能感を与え、『怖くなくなる薬』という別名がある禁止薬物の一つである。
「また、この男の自宅に女の遺体が発見されましてね。薬の売人か、あるいはこいつの恋人かどうかは分かりませんが、その女もメルフォナを所持していましたから、関係者なのは間違いないでしょう」
「女……」
「女に関しては、残念ながら何とも。全身の至るところが傷だらけなうえに、首から上が切断されて持ち去られてしまい、身元を確認出来る物も無くて……生きていたら、魔力波動で身元の確認が取れるんですけど」
女の一言に反応を見せたマリーに、青年はわざわざ細かく説明してくれた。「あの、そんなに話しても大丈夫なの?」とサララから心配されたりもしたが。
「ああ、大丈夫ですよ。本人が中毒のうえに、これだけ証拠が揃っていれば。事実、もうそいつは薬のせいでまともに会話も出来ませんし、おそらく自分がどういう状況なのかも理解出来ていないでしょうね」
ということらしい。
実際に様子を観察してみれば、なるほど。
男は虚空に視線を向けたまま微動だにせず、ブツブツと意味不明な何かを呟いているのが、辛うじて聞き取れるぐらいであった。
……ただ、そこでサララとイシュタリアは首を傾げた。
既に証拠が出揃っているのは分かったが、何の為に自分たちを呼び寄せたのかが分からない。そう思って尋ねてみると……。
「ああ、それは単純に犯人の顔に見覚えがあるかどうかの確認と顔見せ……後は、厳罰を望むか否かの確認ですよ。まあ、今回に関して言えば被害者側が減刑を望んだとしても、厳罰は免れないでしょうけど……なにせ、放火ですから」
青年の……というか、警察側の率直な返事が、それであった。
青年から念のため「見たことはありますか?」と尋ねられたが、マリーたちは一様に首を横に振った。
実際、トーマスという名前は、マリーたちの記憶の片隅にすら残っていなかった。会話はおろか、まともに顔すら突き合わせたこともないのだから、当然であった。
(……ふむ)
しかし、だ。それは、直感にも似た違和感であった。どうしても消せない違和感……見えない棘に、マリーの目はトーマスから離れなかった。
「……イシュタリア、相手を自白させる魔法術はあるか?」
その言葉に、イシュタリアたち全員が振り向いた。
「んん、いや、さすがにそんなものは……」
「あ、それなら私の{チャーム}を使えばいけるわよ。ただ、頭が駄目になっていたらどうにもならないけど」
ナタリアが、手を上げる。ならばと、マリーは早速青年に牢を開けるようにお願いした。
当然、青年は駄目だと突っぱねたが、「あ、別に目線さえ合えば大丈夫よ」ということだった。
「何か気になることでも?」
首を傾げながら尋ねてきたイシュタリアに、マリーは苦笑して首を横に振った……そうこうしている内に、{チャーム}を掛け終えたのだろう。
ナタリアの指示を受けて、のっそりと力無く立ち上がったトーマスが、死者が如き足取りでマリーたちの前に歩み寄って来た。
生気の無い瞳、顎を伝って垂れ流される唾液。一目で正気でないことが分かる。「頭が無事なら、聞けば答えてくれるわよ」その言葉に、マリーは軽く頷いた。
「トーマス。俺の言葉は聞こえているな?」
「……ああ」
掠れて力の無い声ではあったが、返事はあった。
「いいか、お前の記憶にある限りを全て答えろ」
「……ああ」
「よし、それじゃあまずは、お前が館を放火したときのことだが……」
ジッと、マリーはトーマスを見つめた。
「放火は、お前がやったんだな?」
「……ああ、俺がやった」
「燃やす為の道具も、お前が用意したのか?」
「……ああ、家にあったトーチを、使った」
「お前は、俺を恨んでいたか? 妬んでいたか?」
「……ああ、殺したいと思う程に、妬んでいた」
トーマスの言葉に、青年がやれやれとため息を吐いた。
サララたちも同様に思っているのか、不思議そうにマリーを見つめる……しかし、その視線は質問が続くにしたがって一変していった。
「それじゃあ、お前が館を燃やす前……誰かに会わなかったか?」
「……ああ、会った」
「誰に会った?」
「……仮面を付けた、男だ」
「そいつは、お前に何をした? いや、何を言った?」
「……燃やせと、言った」
「何をだい?」
「……館を燃やせ、お前なら出来る、正義の鉄槌、館を燃やせ、正義の鉄槌、義賊の英雄、館を燃やせ、義賊の英雄、正義の鉄槌、お前なら出来る、正義の……」
ブツブツと、トーマスはそれらの言葉を繰り返す。あまりに異様な光景と、トーマスの口から飛び出した事実に、警官である青年は完全に言葉を無くし……サララたちの目じりが吊り上った。
それは、トーマスとはまた別の……共犯者の存在を示唆する発言であったからだ。
「お前が館を燃やす時……いや、前でもいい。傍に親しい女がいたはずだが、そいつとはどういう関係だ?」
「……あいつは、少し前に馴染みのバーで知り合った……俺のことを理解してくれる、いい女だ……元々は、娼婦だったらしい……」
「そのいい女の特徴を、覚えている限り答えろ」
「……右の胸と腰に、蝶のタトゥー。お尻に、花のタトゥーがあった……顔は……綺麗で、泣きホクロが……」
「ああ、それで十分だ……おい兄ちゃん、その女の遺体にこいつの言っているタトゥーはあったか?」
「……いや、私が聞いた話では無かった」
事の深刻さを理解し始めたのだろう。「そいつが言ったどの部位も、切り取られて消失していたから」徐々に厳しくなり始める表情を見て、マリーは青年から視線を外した。
「よし、それじゃあ、これが最後の質問だ」
「……ああ」
「お前は、麻薬を……メルフォナをやっているな?」
「……ああ」
「それは、無理やり誰かにやらされたのか? それとも、興味本位でやったのか? あるいはその女から誘われてやったのか……どっちだい?」
「……女から、誘われた。量さえ使わなければ大丈夫だと言って……途中からは、俺の方から催促した……おかげで――」
「そこまでで十分だ。ナタリア、もう解いてもいいぞ」
マリーが聞いたのは、そこまでであった。
魔法術が解けてその場に座り込んだトーマスをしり目に、マリーは颯爽と出口へと向かう。
慌てて後を付いて行くサララたちを他所に……くるりと、マリーは青年へと振り返った。
「そういえば、答えていなかったな」
「えっ?」
「厳罰を与えてやってくれ。ただし、出来ることならこいつの家族や親族への刑罰は、減刑してやってくれ。俺が言うことは、ただそれだけだ」
それだけを伝えると、マリーささっさと留置所を出て行った。ぽかん、と大口を開けた青年と源……そして、テトラを残して。
「……本当に、あれで良かったのじゃな?」
警察署を離れて、幾しばらく。降り注ぐ霧雨のせいか、普段なら人通りの多い大通りでも、人影は少ない。そんな中、前を歩くマリーへ、イシュタリアがポツリと呟いた。
「いくら本人も心の中で望んでいたとはいえ、何者かに利用されたのは確実じゃぞ」
「だからどうした。利用されたのは事実だが、麻薬に手を出したのは本人の意志だ。その時点で、俺の言うことは何も変わらん」
痛烈な言葉であった。イシュタリアたちの視線を一身に浴びていることは、察しているはずだ。
けれども、マリーは振り返ることなく、前を向いたままであった。
「それに、俺たちが出来ることなんて何も無い。仮に犯人を先に見つけ出して見ろ……何を言われるか分かったもんじゃない」
「……まあ、それはそうじゃが……やられっぱなしというのは癪に障るのじゃ。のう、お嬢さんもそう思わぬか?」
「思うけど、マリーが特に何かをしようと思わないなら、私はそれでいい」
「……うむ、そうじゃな。お主の答えはそうじゃろうな」
――尋ねた私が馬鹿だったのじゃ。
そう言って苦虫を噛んだかのように、イシュタリアは顔をしかめる……が。
「何を言っているんだ、サララ。別に何もしないわけじゃないんだぞ」
足を止めて振り返ったマリーに、イシュタリアたち全員が目を瞬かせた。「いや、今しがた出来ることなんて無いと言ったじゃろ」と首を傾げるイシュタリアに、マリーは目を細めた。
「今まで通り、俺たちは金を稼ぐんだ。そして、館建設の為に頑張っている大五郎のオッサンたちに、夜間の見回りも兼ねてもらう。これで、二度目の放火は防げるだろう」
「むう、まあ、それが現実的な考えじゃが、いくら何でも働かせ過ぎな気がするのじゃが」
「その点に関しては、マージィを中継して応援を呼んでもらえばいい。マージィが来るのは、確か7日後……それまでは辛抱してもらう。今回の一件に関して気になるのは当然だが、何時までも構っていても仕方ねえだろ」
言い終えると、マリーは歩き出す。イシュタリアたちは、互いに顔を見合わせながらも、その後ろを付いて行く。
普段よりもいくらか強引なその姿勢……イシュタリアたちは、不思議そうに首を傾げた。
別段、サララたちの目から見て、マリーにおかしなところはない。
なのに、どうしてだろうか……マリーの背中から感じられるのは……わずかな焦りと、もう一つ。
それが、何なのかは分からない。それを語ってくれないということは、大男の件の時みたいに、話したくない事柄なのかもしれない。
それを考えると、サララたちは迂闊に尋ねることも出来なかった。
「……ナタリア」
「なぁに?」
だから、なのかもしれない。
「お前は今……幸せか? 楽しいか? 地上に出て来られて良かったか?」
「……? 急にどうしたの?」
「いいから……幸せか?」
マリーの顔を見なくとも、サララたちには分かることがある。
「……うん! 毎日楽しいし、お菓子だって美味しいし、皆がいるもの。とっても幸せよ!」
「そうか……それはよかった」
声は震えていない。調子だって、何時も通り。歩調に変化だって見られないし、辛うじて見える頬に涙の伝った後は無い。
「そうか、幸せか」
けれども、マリーは泣いている。心が張り裂けそうな何かを抱えている。それを、マリーはまだ伝えるつもりはないのだろう。
「それは……良かったぜ」
帽子で静かに目元を隠すマリーを見て……サララたちは、そう思えてならなかった。
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