第3話 娼婦を名乗る娼婦らしくないやつ





 ―――地下一階―――





 地下一階の光景は、地上階とそう変わりは無い。違いをあげるとすれば、若干、群生しているウィッチ・ローザの数が多いように感じられるぐらいだろうか。


 相も変わらず続いているむき出しの壁は、迷路のように広がっている。地面にはもちろんのこと、天井にも生えるウィッチ・ローザが、地下一階の世界を照らしていた。


 慎重に、周囲の気配を探る。アリの巣のように広がった通路の奥に見える明かりは、今のところ遮られた様子は見られない。少なくとも、マリーの視界には、モンスターの影は見当たらなかった。



「……とりあえず、モンスターは見当たらないな」



 キョロキョロと周囲の状況を見回したマリーは、そう呟いた。



 ふと、地表に出現している鉱石を探してみる……やはりというべきか、見つからなかった。セオリー通り、地中か、岩を掘って探し出すしか方法はないようだ。


 あらかじめ袋から取り出しておいた採掘用のスコップとハンマーを両手に持って、周囲の地面を見下ろす。注意深く光が漏れていないか、舐める様に視線を注ぐも、それらしい光は見当たらなかった。



(まあ、そう幸運に恵まれるわけもないか……普通にやるしかないか)



 零れそうになるため息を呑み込んだマリーは、一旦、階段の中へ避難すると、己の中に渦巻く魔力を練り上げ始めた。少しでも効率を上げる為に、魔力の力を借りるのである。


 魔力総量もそうだが、魔力コントロールに関しても、決して上手いとは言えない。でも、無いよりはマシだ。使えるものは何でも使う、使いにくいものは工夫して使う。マリーが、経験的に学んだことだ。


 同時に、マリーは鉱石を採掘する際の注意事項を、一つ一つ思い浮かべた。モンスターを獲物とする探究者たちとは別に、鉱石を狙う探究者たちの間にも、いくつかルールは存在する。


 その内の一つ、探究者たちの間にある暗黙のルールの一つに、階段前を掘ってはいけないというのがある。これは探究者たちがモンスターから逃げる際、安全地帯となる階段へ、少しでも早くたどり着けるよう作られたルールだ。


 明確な罰則は無いが、もし階段前で掘っているところを見られれば、他の探究者たちから総スカンを食らうのは間違いない。安全地帯への道を塞ぐ行為は、それだけ探究者に影響を与える。場合によっては、殺されても文句を言えないぐらいなのだ。


 他にも、他人が見つけた鉱石を奪ってはいけないという暗黙のルールもある。一言でいえば、早い者勝ちということだ。その場を離れざるをえなかった等の明確な理由が無い限り、最初に見つけた人のものということだ。


 ただ、当然のことながら、他者の見つけた鉱石を横取りしようとする探究者もいる。そういった事態を適当に対処する能力も、探究者は必要であり……まあ、自己責任というやつだ。



 ……とりあえず、この二つを守ればいざこざは起きないだろう。



 そう考えをまとめたマリーは、腹の奥から湧き上がってくる魔力を、全身に行き届かせるイメージをおこなった。臍の内側にジワリと熱が生まれる。熱は渦を描くように腹の中で蠢き、血管の筋に合わせて全身へと広がっていく……体温が上がったような感覚を、マリーは覚えた。


 魔力コントロールと想像力は、相関関係にあるとされている……とはいえ、想像力だけではどうにもならない部分はある。しかし、どうにかなる部分ならば、マリーでもなんとか扱うことが出来る。


 拙い魔力コントロールではあるが、なんとか魔力を練り上げることに成功したマリーは、溜めていた息を、ほう、と吐いた。



(とにもかくにも、穴を掘らねばなあ……さて、どこを掘ろうか)



 あまり階段から離れるわけにはいかない。かといって、あまり階段に近すぎるわけにもいかない。


 天秤を右に左に傾けながら周囲を見回したマリーは、階段から真横にいくらか離れた場所に群生している、ウィッチ・ローザに目を向けた。


 他の探究者の邪魔にならなさそうな、よさそうな場所だ。周囲に隠れられそうな障害物は何もなく、素早いモンスターに見つかっても、何とか階段へと逃げ切れそうなギリギリの距離であった。


 静かに、足音を忍ばせてそこへ向かう。はた目から見れば挙動不審そのものの動きで到着したマリーは、そっとその場に膝をついた。右手のスコップを持ち直すと、勢いよく振り下ろした。



「――おっ?」



 さくっ、とスコップは軽々と地面に突き刺さった。まるで綿あめの中に突き刺したかのような手ごたえのなさに、マリーは思わず目を瞬かせた。グリップから手を離して確認する。グリップから先の二等辺三角形が、土の中に埋没していた。


 軽くグリップを突いてみるだけで、ぐらぐらとスコップが動いた。グリップを掴んで倒すと、音も無く地面にヒビが入り、てこの原理で土が盛り上がった。そのままグリップを引き上げると、固い地表はあっけなく崩れた。



(ダンジョンの土って、こんなに柔らかいものなのか?)



 砕けた土片を抓むと、土片はそれだけでぽろぽろと細かく砕けていった。そのまま指先を擦り合わせていると、湿気のせいか、指先が茶色に染まった。臭いを嗅いでみるが、特に変な臭いはしない。嗅ぎ慣れた、土の臭いだ。



 ……もしかして、意外とダンジョンの土って柔らかいものなのだろうか。



 マリーの脳裏に、地上階にて採掘を行う探究者たちの姿が蘇ってくる。思い返せば、歳若い少年や女性も採掘しているのだ。彼等、彼女らが出来るぐらいなのだから、相応の堅さなのかもしれない……そう、マリーは思った。



 まあ、たまたま、ここだけが柔らかいのかもしれない……が、いいか。どちらにしても、嬉しい誤算であることには変わりない。



 それならばと言わんばかりに、マリーはやる気に任せてスコップを動かした。片手用の小さなやつなので、大きくは掘れないが、その分だけ素早く動かすことが出来た。



「あ、あった」



 山盛りの土を掘り出したマリーは、土の中から零れ出る光に声をあげた。スコップの先で土を退けると、中から淡い光を放つ鉱石の一部が姿を見せた。



「……呆気ないもんだなあ」



 思いのほかあっさりとした発見に、マリーは頬を掻いた。もう少し時間が掛かるモノだとばかり思っていたが、どうやら幸先は良いようだ。鉱石から放たれる淡い光を見つめながら、マリーは首を傾げた。



「どうやって取り出そうか……」



 適当に鉱石を掘り起こしながら、マリーは思案する。まだ先端を出したばかりなので何とも言えないが、おそらく鉱石は30センチ以上に及ぶ大きなものだろうと推測する。


 事実、どんどん鉱石の周りにある土を掘り起こしているというのに、一向に鉱石の最下部らしい部分は見当たらなかった。全長は、50センチはくだらないだろうか。


 いっそ、スコップで叩き割った方が早いかもしれない。そう、思わないわけでも無かったが、スコップを振り上げようとは思わなかった。


 万が一スコップが壊れたら、この後は素手で掘らなければならなくなる。まだ全くエネルギーを回収できていないのに、それだけは避けなくてはならない。



「うーん、どうしたも……うん?」



 何気なくプレート版で覆われた拳で叩いた瞬間、鉱石にヒビが走ったのを、マリーは見とめた。


 疑問に思ったマリーは、続けて2度、3度、拳を打ち付ける。そのたびに広がっていくヒビと、衝撃によって僅かに動く鉱石に、マリーはぽかんと口を開けて……笑みを浮かべた。


 スコップを傍に置いて、グッと穴の奥へと身を乗り出す。振り上げた拳を強く握りしめて、拳を放つ。かつん、と鈍い音を立てて、プレートで守られた拳が鉱石に突き刺さる。スナック菓子のように柔らかいそれは、瞬く間に光を失い始めた。



「……ははは」



 目の前に浮かび上がり始めた光球を前に、マリーは今度こそはっきりと笑みを浮かべると、急いでビック・ポケットの中からオーブを取り出した。鉱石の中に宿っていたエネルギーが完全に光球へと形を変えたのを確認したマリーは、その光球へ、そっとオーブを近づけた。


 オーブは、音も無くエネルギーを吸収する。ほのかに光を放つオーブを、マリーは満面の笑みで見つめた。そのまま、耐えきれないと言わんばかりにオーブに頬擦りする。ひんやりとした冷たい感触が頬を冷やすのも構わず、マリーは何度も頬擦りをした。涙が、オーブを濡らした。



「へへへ、何だよ、まだやれるじゃん」



 マリーはオーブから顔を離して、涙を拭った。



「こんな身体でも、まだなんとかいけるじゃねえか」



 オーブに、口づける。100万回行っても足りないぐらいに、マリーの心は晴れ晴れとしていた。まだたった一回、エネルギーを取り出しただけだ。


 だが、そのたった一回が、マリーの心を元気づける。不安で押し潰れそうな未来に、確かな勇気を与えてくれた。



「……おっと、いけね。このままジッとしているのは危ないな」



 ぼうっとオーブを見つめていたマリーは、ビッグ・ポケットの中にオーブを入れた。いつまでも感動に浸っているわけにもいかない。何時、モンスターに襲われるか分からない危険な場所なのだ。


 掘り出した土は……埋め直した方がよさそうだ。邪魔にならない場所を掘っているとはいえ、何がどう作用するかは分からない。


 産めることを決めたマリーは、スコップはどこだろうと周囲を見回し、背後にあったのを見つけた。それを拾おうとして、何気なく視線を前方へと向けた。



 ――あっ。



 瞬間、声が出なかったのはマリーにとって幸運であった。顔をあげた、視線の先。そこに、マリーの怖れていたモンスター『ランターウルフ』がいたからだ。


 その姿は、一言でいえば黒い狼、だ。艶の無い体毛が、ウィッチ・ローザの光に鈍く照らされている……数は二頭。何かを探しているのか、鼻先を地面に近づけて、しきりに臭いを嗅いでいた。


 己を探しているのだと、マリーは瞬時に理解した。獲物の臭いを探っているのだということを理解したマリーは、ランターウルフの向こうにある階段へと視線を向けた。



(――やべぇ!)



 ランターウルフに気づいたマリーは、すぐに息を潜めた。ランターウルフは、あまり視力が良くない。近くであろうとも、対象物が動かなければまともに視認することが出来ないぐらいに。


 しかし、ランターウルフの脅威は、優れた嗅覚と、些細な音を聞き分ける優れた聴覚……そして、獲物の首を容易く噛み千切る牙だ。また、相手がだれであろうと襲い掛かる凶暴性も持っている、注意すべきモンスターだ。



(しまった。よりにもよって階段前を陣取られるとは……)



 何時の間に接近されたのだろうか。油断しているつもりはなかったが、ここまでの接近を許してしまった以上、アドバンテージは無いに等しい……いや、それどころか、両ひざをついた今の体勢は、むしろアドバンテージを取られたに等しい状況であった。


 極力、呼吸音を漏らさないようにする。どんどん激しくなる心臓に怒りすら感じながら、マリーは黙ってランターウルフから視線を外さない。わずかな身じろぎに擦れる銀白色の頭髪に苛立ちを覚える。


 すんすん、と臭いを確認しているランターウルフたちは、ときおい思い出したように顔をあげて、また鼻先を地面へと下ろしていた。ぴくり、ぴくり、と三角形の両耳が、動いていた。


 まだ、ランターウルフはマリーの居場所を見つけていないのか、ぐるぐると一定の範囲から動こうとしない。しかしマリーが居ることに気づいているのか、二頭の両耳が、忙しそうに周囲の雑音を拾っていた。



(どうにか、このままやり過ごすことが出来れば……せめて、階段前から離れてくれれば。俺が逃げ切られる距離まで離れてくれれば……)



 ――気づくな、気づかないでくれ。



 その願いが届いたのか、二頭は静かに頭をあげると、低く唸った。そして、ゆっくりと尻尾をひるがえして、階段から、マリーのいる場所とは反対方向へと歩き出した。少しずつ遠くなり始めた二頭の姿に、マリーは心の中で安堵のため息を吐いた。



(……た、助かった……)



 体の力が一気に抜ける。ため息が出そうになるのを抑えつつ、マリーは安心して二頭から視線を下ろした。


 かつん、と何かが割れたような音がしたのは、その直後であった。瞬間、マリーは閉じていた瞼を開いた。信じられない現実に、おそるおそる顔をあげた。



 先ほどよりも小さく映る二頭が、確かにマリーの方へと振り返っていた。



 血のように充血した四つの瞳が、マリーへと向いていた。静かに唸り声をあげると同時に、吊り上った唇の端から鋭い牙が覗く。滲み出る様にあふれ出した唾液が、音を立てて顎を伝わった。



 ぱきん、と先ほどよりも大きな音が、マリーの背後から聞こえてきた。



 ぱきん、ぱきん、ぱきん。次第に増していく音量を聞き取ったマリーは、それの正体は、先ほど自らが叩き割った鉱石であることを悟った。今になって、鉱石が自重と蓄積したダメージに耐え切れず、崩壊しているのだと悟った。



 ――やばい!



 そうマリーが思った瞬間、二頭はその身を地面すれすれまで下げた。手さぐりに探ったマリーの右手が、地面に転がっていた石を拾うのと、爆発的瞬発力を見せて、ランターウルフが加速したのは、ほぼ同時であった。



「――っ!!」



 なぜ、そうしようと思ったのか、マリーは分からなかった。瞬きをするたびに大きく映る死を前にして、本能がせめてもの抵抗を見せたのだろうか。それともパニックを起こした精神が、偶発的に取った行動がそれだったのだろうか。


 そんなもの、何の抵抗にも目くらましにもならないことは、内から湧き出る凶暴性を隠そうともしない二頭のモンスターを見て、すぐに分かった。爛々と輝く血色の瞳は、確実に命を奪える首を狙っているのだということは、言葉にされなくても分かってしまった。



 けれども、マリーは無意識の中で、その行動を取っていた。



 迫り来る確実な死を予感したマリーは、砂埃を立てて接近する二頭の怪物を前に……右手を、背後へ振りかぶった。


 胴体はほぼ90度真横、右手はそこからさらに後ろへ90度。その手には、今しがた拾った石が、優しく握りしめられていた。


 ぴたり、とマリーの身体が動きを止めた。その姿はまるで、千切れるギリギリまで張り詰めた弓のよう……溜めに溜めた力が解放された、その瞬間。


 マリーの右腕が姿を消して、空気を切り裂き、今の肉体が持っている柔軟性を全て活用した一投が、大口を開けたランターウルフの頭部へと放たれた。



 ――ぐぎゃん。



 光線のごとく待機を貫いた一撃は、腹に響く爆音と共にランターウルフの上半身を消し飛ばした。その破壊力はそこだけに留まらず、残った下半身をその場に停止させた。


 周囲に飛び散った血飛沫が、隣を走っていたランターウルフの全身に降りかかる。体液だらけの石はあらぬ方向へと軌道を変え、水面を跳ねる平石のように地面を跳ねてどこかへと飛んで行った。


 砂埃を巻き上げて、ランターウルフが地を蹴った。数十キロにまで加速したその身体は、残り数メートルの距離を一瞬で0にした。涎を空に流しながら、人の首など一撃でかみ砕きそうな凶悪な牙が露わになった。



(――っ)



 迫り来る牙を前に、マリーは冷静にその動きを目で追った。凄く、不思議な気分であった。


 どんどん近づいてくる牙を前に、マリーの意識は、ランターウルフの動きをスローモーションで感じ取れる程に、研ぎ澄まされていた。


 膝立ちのまま、落ち着いて左拳を作る。そして、振り上げるようにして、ランターウルフの首もとへとアッパーを叩き込んだ。



(あ、柔らかい)



 そう、マリーが思うと同時に、ランターウルフの身体は真上に軌道を変えた。凄まじい速度で激突した天井に血飛沫をまき散らしたそれは、重力によって地面へと叩きつけられた。もはや肉の塊といっていいそれは、原型を留めていなかった。



「…………」



 振り上げた左拳をそのままに、マリーは呆然と目の前の光景を眺めていた。天井にこびり付いた血が、土と一緒に零れ落ちている。


 4回、血を吸った泥が、肉塊の上に落ちたのを見てから、ようやくマリーは我に返って、左腕を下ろした。



「……えっ?」



 おそるおそる、マリーは己の両手に視線を落とした。何の変哲も無い、小さな手だ。武骨で所々ささくれた、かつての拳とは似ても似つかない、可愛らしい手だ。見ているだけで情けなさを覚える、頼りない両手だ。


 その手が、眼前の光景を作りだした。その事実を、マリー自身、素直に受け入れられなかった。無我夢中で投げた石が一頭の上半身を消し飛ばし、無我夢中で繰り出した拳が、一頭の肉体を粉々に打ち砕いた……信じろという方が、無理な話だ。



 マリーは、改めて二頭の死骸へと視線を向ける。



 モンスターは確かに死亡しているようで、その肉体が凄まじい速度で腐敗していく。まるで肉が溶けて蒸発していくかのような進行の速さ。腐敗臭はおろか、血臭すら瞬く間に薄く消えていく。消滅する寸前、死骸の一部から、ほわん、と光球が空中へと飛び出した。


 信じようが、信じなかろうが、現実は摩訶不思議。二頭を仕留めたのは確かに己だと、目の前の光景が訴えていた。


 何が起こったのか、あるいは何かをしたのか。とりあえずはビッグ・ポケットからオーブを取り出してエネルギーを回収する。それを元に戻してから、マリーは頭を掻き毟った。



「……お、おれの身体に、何が起こったんだ?」



 何も、変わったことはしてない。せいぜい、しているとすれば、魔力コントロールぐらいだ。脳裏に思い浮かんだ仮説に対して、マリーは首を横に振った。


 魔力による身体能力と機能のブースト効果は、確かにある。だが、記憶にある情報が正しければ、魔力によるブーストは非常に微弱であったはずだ。そういったブースト効果は、気功術の方が優れている。



 脳裏の片隅に眠っていた知識を叩き起こしながら、マリーは首を傾げた。



 気功術など、学んだ覚えもなければ、修行したこともない。それは、はっきりと分かる。


 無能をひけらかすなとバカにされそうだが、そもそも、そういった方面はからっきしであったから、かつての己は肉体を鍛えてカバーしてきた経緯がある。


 転がっていたスコップを拾い、ビッグ・ポケットの中に放り入れて、立ち上がる。泥だらけの膝をそのままに、マリーは足元にあった石を拾いあげた。


 何の変哲も無い、普通の石だ。見た感じ、特に変わった様子は無い。握った感触にも、これといった違和感は無い。


 しかし、だ。マリーはその石を軽く握りしめる。大した力は籠めていないのに、ぱきん、と掌の中に収まっていた石か砕ける衝撃が伝わってきた。ゆっくり掌を開く。途端、5つに砕け別れた小石の1つが、ぽろりと掌から零れ落ちた。



 同じように、マリーはもう一つ石を拾い、今度は体内を循環している魔力を抑えるようにコントロールした。言うなれば、いつもの状態だ。


 そのままの状態で、精一杯力を込めて石を握りしめる……何時まで経っても、ヒビすら入る気配が感じられなかった。



 ……マリーは確信した。間違いない。何故なのかは分からないが、魔力によって力が増している……と。



 再び魔力コントロールを行い、全身へと循環させ始める。全身を巡る魔力を感じ取ることは出来るが……やはり、特別な何かを感じるようなことはない。


 いつものように、ただ潜在している魔力を引き出して、全身へと循環させているだけ……探究者としては、お粗末といっていいレベルの魔力コントロールだ。


 ……ふと、マリーは脳裏に走った考えに意識を向けた。



「……ということは」



 掌に残っている4つの小石を優しく握りしめると、マリーはすぐ傍の壁へと向き直る。眼前にて群生しているウィッチ・ローザが、ぼんやりと壁を照らしていた。



 ぐっ、と右腕を振りかぶって……投げた。



 ちゅん、と光線のように繰り出された4つの弾丸は、砂柱を立てて壁の中にめり込み、あるいは四散した。走り寄って着弾した個所を確認していくも、小石は例外なく奥深くにめり込んでおり、その姿を確認することは出来なかった。



 ……にんまりと、マリーの顔にいやらしい笑みが浮かんだのは、その直後であった。







 それからしばらくして、探究者の間で噂が流れるようになった。


 噂の程度は時々によって変わり、尾ひれ背ひれが付いて、どうしようもないものも多くある。しかし、噂に共通していることが一つ、あった。



 銀白色の長髪をなびかせた、小さな少女。血のように赤い瞳を持つ、美しい探究者の少女がいる。そう、探究者の間で話題にのぼるようになった。








『換金所』と書かれた看板の中に入る。中には大勢の探究者たちがごった返しており、男も女も例外なく実に騒がしい。


 マリーがそこに入って最初に感じたのは、むせ返るような熱気と泥臭い汗の臭いと……消毒液の臭いであった。



 コンクリートと木造が合わさった色合いの室内は、取り付けられた照明によって照らされていた。



 窓から見える空はうっすらと黒色が滲んでおり、点々と見えるわずかな星粒は、まるで室内の明かりを吸い取っているように見える。4つの敷居板に分けられた受付には人の姿が絶えず、休憩スペースに用意された椅子のほとんどが埋まっていた。


 ダンジョンから出てきて、まっすぐにここにやってきたのだろう。探究者らしき人たちが身に纏っている防具のほとんどに、傷や擦れた跡が見られ、少なくない割合で、身体のどこかに包帯を巻いている。


 笑顔を浮かべている者、悲痛な表情を隠そうともしない者、様々な人たちがいたが、男も、女も、例外なく疲れた顔をしていた。


 ぶつからないよう人の波を潜り抜けながら、マリーは整理番号の札を取る。43と書かれたそれを持って、座る場所を探す。空いている椅子を一席見つけて駆け寄ろうとしたが……思いとどまった。


(まあ、特に疲れているわけでもないし、のんびり立って待つか)


 そうマリーが思うと同時に、その椅子に初老の男性がどっしりと腰を下ろした。男ははた目にも分かる程に疲れた溜息を吐くと、背もたれにぐったりと背中を預けた。かつての己も同じようなことをしていたので、男の気持ちが痛い程分かった。



 ここ、換金所は、エネルギー・オーブを現金に交換してくれる探究者御用達の施設だ。当然のことだが、エネルギーの入ったオーブでなくてはならない。



 また、オーブの交換もやっており、持ち帰ったオーブに機能的な損傷が無ければ、基本的には無料で同サイズのものと交換してもらえる。ただし、故意、過失、見た目に関係なく、機能に支障をきたす状態ならば有料で交換となっている。


 悲痛な表情になっている人たちは、おそらくオーブを傷つけてしまったか、あるいは収支が赤字になってしまったのではないだろうか。


 オーブを見つめている人たちを横目にしながら、マリーはそう思った。


 柱にもたれ掛りながら、マリーはぼんやりと順番を待つ。先ほど『39番の方!』という職員の声が聞こえたので、もうすぐだろう。内ポケットに入れてある櫛を取り出して、のんびりと手で銀白色の髪を梳かし始める。


 もともと髪型にそこまで気を使うような男では無かったのだが、最近は気づいたら髪を梳くようになった。


 最初は手持無沙汰なとき、暇つぶし程度に髪を手で梳いていたぐらいであった。しかし、いつの間にかそれが癖になってしまったのか、今では定期的に髪を梳かないと、気分的に落ち着かない。


 ふと、周囲の視線が自らに集まっていることに気づいた。ぼそぼそと囁き声が聞こえてきて、マリーは我知らず眉根をしかめた。



(また、か)



 意識した途端、妙に不躾な視線が気になってくる。今の己が人の目を引きやすいことは、とっくに受け入れている。ただ、だからといって注目されることには、まだ慣れていなかった。


 少しでも目立たないように、身に着ける衣服を地味なものにしてはいるのだが……どうやら、その程度でマリーの美貌を誤魔化せないようだ。


 いちいち相手にしても意味は無いので、最近では気づかないフリをしている。正直、鬱陶しいというのが本音だ。


 いっそ女の恰好をすればマシになるのではなかろうかと思って、試したこともある。結果、余計に視線を集めるだけで悪化してしまったので、今はもっぱら中性的な衣服に統一している。



 ちなみに、が、しまった。何度剃っても元に戻るうえに、原因も分からなかったので、それからは面倒になって髪型はそのままにしている。



「まあ、色々な意味でむさ苦しい場所にいるんだから、見られても仕方がないか……」



 ほう、とマリーはため息を吐いて、櫛を仕舞った。美しい顔立ちと血色の瞳も相まって、その仕草はまるで絵本から抜け出したお姫様のようだ。周囲の視線がさらにマリーへと集まる。


 皆の衣服が泥やら汗やらで汚れているのに対し、マリーの衣服にまったく汚れが見当たらない。そのうえ、マリーの衣服は冒険者には見えない軽装であったことが周りからの注視に影響していることに、マリーは気づいていなかった。



『43番の札をお持ちの方、どうぞー!』



 耳に届いた職員の声に、マリーは顔をあげた。声がした方へと首を向けると、そこには片手をあげて『43番の方は、いらっしゃいますかー!』と呼び掛けている、男性職員の姿があった。



(やれやれ、ようやくか)



 首に掛けたビッグ・ポケットの位置を直しつつ、マリーは男性職員の元へ駆け寄った。男性職員は、マリーの姿を目に留めると、にこやかな笑みを浮かべた。



「本日はご足労ありがとうございます。現金との交換でしょうか?」

「ああ、全部現金に換えてくれ」



 机を挟んだ向かい側に座ったマリーは、ビッグ・ポケットの中からオーブを取り出して、男性職員の前に置いた。最初はマリーの言葉づかいに面食らった職員たちだが、今では慣れたのか、マリーがどれだけ言葉づかいが汚くても、何事も無く受け流すまでになっていた。



 職員は一礼した後「それでは、失礼致します」と告げてからオーブを手に取って、調べ始めた。じっくりとオーブの状態を確認している男性職員を、マリーは固唾をのんで見つめる。



 しばらくして職員は、うん、と頷いた。



「特に破損は見られませんね……機能自体にも支障が出ていないみたいですね」

「そうかい、それじゃあ、特に交換は必要ないみたいだな」



 男性職員の言葉に、マリーは安堵のため息を零した。サイズによって値段がかなり変わるオーブだが、そもそもオーブは一番小さなものでもかなり高額なのだ。


 昔ならいざ知らず、今なら別にオーブ代ぐらいはどうってことはないが、払わないでいいのなら、払わないに越したことはない。



「それでは、オーブ内に保有されているエネルギー総量を量りますので、こちらに手を置いて貰えますか?」

「はいよ」



 男性職員に促されるがまま、マリーは魔力波動識別装置の上に手を置いた。ジッと、机の下を見ていた職員は、うん、と頷くと「認証できましたので、もう離しても結構です」と言った。



「毎回のことですけど、本当に凄いですね。私、この仕事についてそれなりに経ちますが、毎回オーブを満量にして持ち込んでくる探究者は、あなたが初めてですよ」



 書類に鉛筆を走らせながら、男性職員は笑顔を浮かべた。本当に凄いと思っているのだろう。自らよりも頭一つ分以上小さいマリーに向かって、尊敬の眼差しを向けていた。



「よせよ、そう言われると照れるだろ。それに、持って帰るエネルギーの量だけなら、俺以上のやつなんて大勢いるだろ?」



 そうマリーが顔の前で手を振ったが、男性職員は首を横に振って否定した。



「確かにいらっしゃいますが、全体的の総量からいえば、あなたも引けをとっていませんよ。いえ、むしろ、コンスタントに成果を出しているだけ、我々共からは重宝されているのですよ……知りませんでしたか?」

「知るわけねえだろ。俺にとっては、金さえ貰えれば、後の処理がどうなっていようとどうでもいいからな」



 偽りの無いマリーの本音に、男性職員は苦笑する。これで言葉づかいが可愛ければなあ、と職員は思いつつも「どかん、と一度に出されるよりも、多少は少なくとも、常に一定量供給してくれた方が色々と都合が良いんですよ」と話を続けた。



「おかげで、溜まりに溜まっていたエネルギー所望依頼を順次消化することが出来まして……。あんまり遅れると、依頼主から苦情やら何やらが雨あられのように来ますもので……こっちとしても、面倒な雑務が無くなる分、嬉しいことなのですよ」

「ふ~ん、まあ、褒められるのは嫌いじゃないから、どんどん褒めてくれ。俺がどんどん喜ぶから」



 そのマリーの言葉がよほどツボに入ったのか、男性職員は小さく笑い声を零すと、小さな用紙にさらさらと数字を書き込んだ。それを、他の人が覗きこめないように手で隠しながら、マリーの方へと差し出した。


 マリーは背後の人達から見られないように身を乗り出す……数字を確認してから頷くと、男性職員はそれをすぐさま細かく千切ると、椅子の隣に置いてある専用のごみ箱に捨てた。中には特殊な水溶液が入っており、時間が経過すれば自動的に復元不可能になるのだ。



「それでは少々お待ちください」



 男性職員員は椅子から腰をあげると、オーブを持って職員スペースの奥にある部屋の中へ入って行った。換金所内に設置されている、大型オーブにエネルギーを移しに行ったのだろう。男性職員が戻って来るまで暇になったマリーは、ぼんやりと天井を見つめた。












 換金所を出た頃には、すっかり夜空に星々が輝いていた。センターから零れる明かりが、ぼんやりとマリーを背後から照らしている。エネルギーの節約の為、街灯が落とされた通りは閑散としていた。



 首に掛けて服の中に入れている財布の重さに、踊り出しそうな気分だ。軽く手でそこを摩ると、ずっしりと固い感触が伝わってくる。ダンジョンでの苦労が報われる瞬間である。


 特に急ぐ用事も無いマリーは、のんびりとセンターを出て、飲食街へと向かうことにした。レンガを敷き詰めて整備した歩道を通り、月明かり以外の照明が存在しない裏通りを通る。時々感じる気配に足を止めて、視線を向ける。かすかに感じ取れた人影は、散らすように姿を隠していった。


 前はよくゴロツキどもに絡まれたものだが、今では顔を見るだけで逃げ出すようになった。まあ、片手で大の大人をボールのように放り投げる様を見てしまえば、彼らの反応も頷けるというものだ。完全に気配が離れたのを確認したマリーは、再び歩き始めた。


 夜空を見上げれば、宝石のように輝く星の輝きが目に留まる(確かあれは、天の川っていうんだっけ……何百年前の言葉だったかな)子供の頃、学校で習った言葉をマリーは思い出した。


 この身体になってから、よく夜空を見上げるようになった。裏通りから見える夜空も、自宅から見える夜空もあまり変わらない……やっぱり、あの時に見た夜空が一番美しい。そう、マリーは何時も思う。


 裏通りの世界は、あれだけ騒がしかったセンターの喧騒が夢のような静けさだ。レンガを踏み歩く革靴の音と、マリーが吐き出す吐息の音だけが、静寂の中に響いていた。


 どれくらい歩いた頃だろうか。お世辞にも良い匂いとはいえない場所に香る、肉の焼ける匂いに、マリーの腹が音を立てた。


 思わず腹に手を当てて、こみ上げてくる唾を飲み込んだ。囁くように聞こえていた声は次第に大きくなっていく。強くなっていく食べ物の匂いと共に、増していく特有の煩さは、いつしかセンター内とそう変わらないものとなっていた。


 迷路のような暗がりを抜けて、十字路を7つ曲がった後。遠くの方に見える夜店や出店の明かりに、マリーは、ほう、とため息を吐いた。同時に、マリーのお腹が盛大に空腹を訴えた。



「何を食おうかな……また肉にしようか。でも、なんとなく野菜も食いたい気分だしなあ」



 裏通りから出た途端、マリーの身体を喧騒の波が包んだ。顔をあげれば、臭ってくるのは食べ物の焼ける匂いと、酒の臭いと……大勢の人達であった。死の恐怖と戦うダンジョンの世界が滑稽に思えるぐらいに、陽気な空気がそこに漂っていた。


 静けさの霧に覆われた場所に居たせいだろうか。マリーは少しの間、聞こえてくる喧騒に眉根をしかめていたが……すぐに慣れて、緊張を解いた。途端、自己主張し始める腹音に苦笑しつつ、マリーはとりあえず適当に当たりをぶらつくことにした。


 てくてくと、人の波をすり抜けながら周囲の出店や夜店に視線を向ける。


 どれもこれも実に美味しそうで、傍に寄らなくても漂ってくる香ばしさに、マリーは溢れてくる涎を堪えることが出来なかった。我慢できなくなったマリーは、ふと目に留まった『焼き串肉』の、のぼりを掛けた出店へと吸い寄せられた。


 出店の大きさ自体は小さなものであった。店主であろう目じりに皺の寄った男が、額の汗を拭いながら団扇を仰いでいた。網の上におかれた赤み肉から滴り落ちる肉汁が、じゅう、と音を立てる。より濃厚に嗅ぎ取れる香りに、マリーの胃袋が音を立てた。つられて、店主の視線がマリーを捉えた。


 店主が無言のまま、肉汁が滲み出ている串肉をマリーへと差し出した。30センチ近い串には、焼けた肉が5つ突き刺さっている。肉の1つ1つが、マリーの一口には些か収まらないサイズであった。


 思わず串肉と店主の顔を交互に見つめる。早く受け取れと言わんばかりに店主は櫛を揺らした。



「……貰っていいのか?」



 そう、マリーが尋ねると、店主は無言のまま頷いた。



 まあ、貰ってもいいと思っているんだから、貰っても文句は言われないだろう。そんな気持ちで串肉を受け取ったマリーは、軽く息を吹きかけてから、串肉に噛り付いた。ぷつりと、思いのほか軽い力で噛み千切れたことを意外に思いつつ、頬張ったことで汚れた唇を指で拭った。


 ……咀嚼している間、マリーは無言のまま味を噛み締めて、ごくりと飲み込んだ。ほわっとマリーの顔に驚きの色が浮かぶとすぐに、マリーは再び肉に噛り付く。口内に広がる肉汁の味わいに、マリーの頬が喜びに緩んだ。



「美味いなあ」



 ポツリと呟いたその言葉に、無表情だった店主の唇が、わずかに弧を描いた。店主は無言のままマリーの前に、メニューを差しだした。何気なく受け取ったマリーは、そこに書かれていた文字を見て、思わず咀嚼を止めた。




『  焼き串肉 餞別した肉だけを使用しています

 秘伝のタレに浸けてじっくりと焼いたラドムの胸肉と

 餞別した特選塩を使って味付けした豚肉が美味い!


  ・ラドムの胸肉: 1本 100セクタ

  ・豚肉 : 1本 40セクタ 』




(た、高いなあ、おい……いや、でも、この美味さと量を考えれば妥当かもしれないか……ラドムの肉使っているし、やっぱり妥当なのかねえ、これ)



 止めていた咀嚼を再開しながら、マリーはそこに書かれた文字を読み返す。何度見ても変わらないそれを見て、そっと店主へと返すと、店主は無言のまま受け取った。



「どうだい、お嬢ちゃん、美味いかい」

「うわ、オッサン話せたのかよっていうか、意外と渋い声しているなあ、オッサン」



 失礼なことを口走るマリーを他所に、店主は微笑を浮かべてマリーを見やった。



「今なら5本で480セクタにするよ、どうだい?」



 その言葉に、マリーはキョトンとした様子で店主を見つめる。そして、嬉しそうにしながらも、首を横に振った。



「いや、オッサンの厚意は有り難いんだけど、そんなに食えねえよ。見ての通り、俺の身体は相応に小さくてね……しかも、胃袋は見た目以上に小さいんだ。5本も食ったら胃袋が破裂しちまうよ」



 チラリ、と店主はマリーの全身に視線を流して……納得に頷いた。



「確かに小さいな。というより、お嬢ちゃんはちょっと痩せすぎじゃないかな。服の上からでも分かるぐらいに腰が細いってことは……男勝りの元気は見止めるけど、もう少し食べないと力が付かないぞ」

「ほっとけ。食べても太らないんだから仕方ないだろ。半月ほど食べて寝るだけの生活をしても体重が変動しないんだぜ。もう俺は色々諦めているよ」

「それは大変だな。せめて要所に肉が付いていたら、理想的なんだがな……そううまくはいかないか」

「うるさいよ。ああ、もう、分かった、分かったってば……買うよ。5本は食えそうにないから……そうだな、3本。ラドムの方を3本買うよ。そのかわり、持って帰るのが面倒だからここで食べていくからな」



 これ以上説教されることを面倒に思ったマリーは、首に掛けた財布を襟元から引っ張り出した。中から紙幣を取り出し、それを店主へと差し出した。


 店主は笑いながら紙幣を受け取ると、少量の硬貨をマリーへと返す……受け取ったマリーは、店主の断りも無いまま勝手に出店の中に入ると、立てかけて置いてあった折り畳みの椅子を引っ張り出して、そこに腰を下ろした。


 ぽかん、と呆然とした様子でマリーの行動を見ていた店主は、ハッと我に返った直後、堪えきれないと言わんばかりに笑い声を零した。くくく、と苦しそうにしながらも、店主の手に狂いが無いのは、さすがであった。



「ああ、いいよ。食べ終わるまでそこにいるがいいさ……ところで、1本目はタレ、塩、どっちにする?」

「さっき俺が食べたやつは、タレ?」

「タレだよ。塩にするならすぐに用意できるけど、今度は塩にするかい?」

「そうだな、塩にしてくれ」

「あいよ」



 店主が串肉を網の上でひっくり返す。肉から滴り落ちた肉汁が、じゅう、と音を立てた。網の横に設置された小さな調理台の上に置かれた果実を手に取ると、それをマリーへと見せた。



「いるか?」

「いらんよ。塩だけでいい」



 そう、マリーが言うと、店主は果実を調理台に戻した。そして、焼けた串肉の一本を手に取って軽く肉汁を落とすと、マリーへと差し出した。



「焼けたよ。熱いから気を付けろよ」

「早いな」



 と、言いながら、落とさないように両手で受け取る。湯気立つそれに息を吹きかけながら、先端の肉をかじる。


 ちょうどよい塩加減に、マリーの頬は力無く緩んだ「塩味も美味い」と舌鼓を打ちつつ、何気なく視線を横にやって……視界いっぱいに広がる少女の顔に、マリーの動きが止まった。



「…………っ」



 今にも唇が触れんばかりに顔を近づけていた黒髪の少女と、目が合った。少女のシミ一つ無い褐色の肌が、出店の明かりに照らされていた。



「うぉわ!?」



 突然、眼前に出現した少女の存在に、マリーは面食らった。のけ反る様に距離を取り……自分が椅子に座っていることを思い出したと同時に、重心がぐらりと傾いた。



「う、ああっ」



 踏ん張ろうと両足に力を入れるも、悲しいかな、マリーの筋力では倒れる速度を緩めることすら出来ない。なすすべも無く倒れそうになったマリーが、思わず前に両手を突きだした。


 その手を、少女が掴んだ。あっとマリーが反応するよりも早く、少女はマリーの身体を引っ張って立たせた。マリーの背後で、椅子が転がった。



「…………」

「…………」



 マリーは呆気に取られたまま、少女の全身を観察した。襟首が伸びた野暮ったいシャツと、膝までの長さのハーフパンツに覆われた四肢は細い。だが、細すぎると言うことは無く、健康的な細さだ。



 向かい合って立ったことで、マリーは相手の少女が自らとそう変わりない背丈であることが分かった。



 年齢は……14~6といったところだろうか。キリッと顔立ちの整った、冷たさを匂わせる美少女だ。短めに切りそろえられた黒髪が、少女の褐色肌に似合っていた。


 いまだ掴まれたままの両腕に視線を落とす。白い腕を掴む少女の腕は、細いながらも筋肉質だ。わずかに筋肉の盛り上がった線が、腕のラインにそって伸びていた。



「ごめんなさい」



 少女の唇から、謝罪の言葉が零れた。顔をあげて表情を見れば、少女の顔には懺悔の色が滲んでいた。



「怪我は、ない?」



 染み入るように静かな少女の声が、マリーの脳裏を素通りする。どうやら、驚かしてしまったことを謝っているのだということにマリーが思い至ったのは、少女がマリーの顔の前で手を振ったときであった。



「だ、大丈夫だ、平気だ」



 近すぎる距離に身を引こうとするも、腕を掴まれているので身動きが取れない。軽く引っ張って催促するも、少女は一向に解放してくれる様子は見られなかった。



「ごめん。お肉、落としちゃった」



 そう言って、足元へ視線を下ろす少女に倣ってマリーもそこへ視線を向ける。そこには、先ほどまでマリーが噛り付いていた串肉が、砂と雑草にまみれていた。洗ったら食べられそうだが、味が損なわれているのは、想像するまでも無かった。


 少女はマリーへと顔を向けた「お肉、弁償するから」そう少女は言って、マリーの背後へと回った。呆然としているマリーを他所に、颯爽と倒れていた椅子を元に戻し、優しくマリーの肩に手を置いた。マリーは、促されるがまま椅子に腰を下ろした。



「店主、この子が買った串肉を一つ用意して欲しい」



 店主は振り返らずに少女に言った。



「格好つけているところ悪いが、お前、100セクタ持っているのか?」



 瞬間、マリーは己の肩に置かれた少女の手が、ピクリと動きを止めたことに気づいた。おそるおそる少女を見上げれば、美しい無表情に、ひとすじの汗が頬を伝っていた。



 ……まさか、こいつ。



 脳裏に浮かんだ疑問を尋ねるべきかマリーが判断に悩んだと同時に、背後にいる少女の腹が、盛大に鳴った。あまりに喧しいそれは、耳を澄まさなくても聞こえる程に大きかった。



「…………」



 どうしようもない沈黙が、二人の間を流れる。少女の頬を流れる汗はふたすじになり、褐色の頬が、見る見るうちに紅潮していく。チラリ、と少女の視線がマリーへと向けられ、目が合った途端、少女は素早く視線を逸らした。


 その直後、再び少女の腹が盛大に空腹を訴えた……少女も、マリーも、この空気をどうしたらいいのか、分からない状況になっていた。


 そんな二人を他所に、店主は無言のまま串肉に塩を振っていた。いっそ清々しさすら覚える程の対応だ。店主はひとつ頷くと、マリーへと肉の刺さった串を差しだした。



「ほら、二本目の肉だ。今度は落とさずに食えよ」

「え、あ、ああ」



 差し出された串肉を、マリーは受け取った。視線を横に向けると、少女の食い入るような視線が肉へと注がれているのが見えた。


 マリーの存在など、少女の頭からは完全に消え去っているのは手に取るように分かった。今にも唇の端から涎が零れ落ちそうな少女は、音を立てて唾を飲み込んだ……直後、少女の腹が鳴った。通算、3度目だ。


 ……ゆっくりと、口を開けて串肉へと顔を近づける。途端、少女の瞳が羨望に揺れた。ゆっくりと話すと、少女の瞳がつられて動いた。右に左に揺らせば、暗黒石の瞳も合わせて揺れた。



 た、食べにくい。マリーは思った。



「……欲しいなら、いるか?」



 そう、マリーが串肉を差しだすと、少女は我に返った。跳び上がる様に距離を取ると、手と首を横に振った。



「い、いらない。それに、まだ私は肉を弁償していない」

「それはもういいから……というより、100セクタ持っていないのに、どうやって弁償するつもりだよ」

「それなら大丈夫。私は娼婦、男の一人や二人を捕まえれば、すぐ」

「へえ、娼婦か。それなら100セクトぐらいはすぐに……いや、待て」



 納得しそうになったマリーは、寸でのところで少女へ掌を向けた。首を傾げている少女の全身に、マリーはじっくりと視線を上下させる。マリーの記憶にある娼婦たちと、目の前の少女を照らし合わせ……瞳を伏せた。


 どう見ても、眼前の少女は娼婦には思えなかった。少女の放つ、言葉には出来ない雰囲気というか、気配というか、そういうものが娼婦のそれではなかった。マリーはため息を吐いた。



「それじゃあ、肉は弁償しなくていいから、俺が食べ終わるまでの間、話し相手になってくれないか?」

「話し相手? 私と?」



 首を傾げた少女の疑問に、マリーは頷いた。



「なにぶん、あんたぐらいの子と……というか、普段女と話す機会は滅多にないからな。都合が悪いなら構わんが、しばらく付き合ってくれよ」

「……時間は大丈夫……そんなことでいいの?」

「十分だよ」



 困ったように佇んでいる少女に向かって、マリーは持っていた串肉を差しだした。受け取れないと拒否する少女に「一人だけ食べるのは気まずいから、一緒に食べてくれ」と言ってむりやり握らせると、マリーは店主へと声を掛けた。



「おっさん、ラドムの肉5本追加だ。話しながら食べるから、そこまで急いで焼かなくてもいいぞ」

「お嬢ちゃん、金は持っているのかい?」

「持っていなかったら注文しねえよ」

「そりゃあ、そうだ」



 マリーは首に掛けた財布から紙幣を数枚取り出して、店主へと差し出した。「多すぎだよ」と一枚を抜き取って返そうとする店主に「釣りはいらん。そのかわり、しばらくの間ここで好き勝手に飲み食いさせてもらうから」と、マリーは受け取りを拒否した。



 さて、と。マリーは改めて少女へと向き直ると、にこやかな笑みを浮かべた。



「それじゃあ、遅ればせながら自己紹介といこうか。俺の名前はマリー。探究者をやっている。あんたの名前は?」



 呆然と目を瞬かせた少女は、マリーの言葉にハッと我に返った。貰った肉とマリーを交互に見やって深々と一礼した。



「サララ。私の名前は、サララ。娼婦館『ラビアン・ローズ』に所属している、娼婦の一人」



 褐色の少女ははっきりとそう告げると、暗がりの中でも分かるぐらいに……朗らかな笑みを浮かべた。




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