第4話 娼婦館「ラビアン・ローズ」
それから、ちょくちょくマリーとサララは一緒にお茶をするようになった。
だいたい、30分少々。それが、二人のお喋りの時間。待ち合わせや、約束などはしなかった。
再会したときに予定が無ければ、という暗黙の了解と思いがあったからなのだが、不思議と予定が重なるようなことは無かった。
毎回の支払いは、決まってマリーが行った。サララは「折半、折半」と何度も提案したが、マリーは絶対に首を縦に振らなかった。事情がどうあれ、年下のサララに奢られるのが、我慢ならなかったからだ。
1,2歳ぐらい離れている程度であれば、たまには……という気持ちもあった。しかし、サララがまだ十代であることを知った以上、マリーの選択肢は一つしかなかった。
6度目となるお茶会にて、サララの口から「年齢、教えない方がよかった」とジト目で睨まれても考えを改めないのだから、もはや頭が固いとかそういう問題ではないだろう。
奢られることに抵抗を覚えているらしいサララではあったが、さすがに11度目となる頃には、『この人は、こういう人だ』という具合に、自分なりの折り合いをつけたようであった。
「――ふと、思うことがある」
カップをソーサーの上に置いたサララが、唇に付いたクリームを舐めとりながら、ポツリと呟いた。
湯気を立てているカフェモカから、甘い匂いが立ち上っている。15度目となるお茶会は、通りから少し離れた所にある、小さな喫茶店であった。
「マリーは、探究者。前に聞いた……っと、前に教えて貰ったけど、実力としてはどれぐらいの位置になるのかな?」
最近になってマリーが気づいたことであり、その後でサララから実はねという感じで教えて貰ったことだが、サララは会話をする際、単語だけで話す癖があった。
本人もそれは分かっているようで、矯正に努力しているらしいのだが、ふとした拍子で癖が出てしまうらしい。中性的な話し方も、矯正による影響だとか……。
サララの問いかけに、ゆっくりとカップを傾けていたマリーは、静かにカップの縁から顔をあげる。眉根を困惑に寄せた、サララの顔を見つめた。
「位置にも色々あるけど、そうだな……単純に戦闘能力だけを考えれば、マリーはどれくらいの位置になるのか……最近、気になっている」
「……位置、ねえ……」
マリーはソーサーの上にカップを置く。かちん、とカップが音を立てた。
「……『俺は強い』とか公言しているやつは、たいてい弱かったりするから一概にそうとは言えないけど、二つ名とか付いているやつは、たいてい強い。そんで、俺には二つ名は無い。それが答えだよ」
「……そう、探究者の世界って、けっこう広いんだね……ああ、そうそう……」
だいたい、二人の会話はこのようなものであった。片方が質問をしたり、されたり、また片方が一方的に話したり、あるいは逆だったり……特別なことは何も無かった。もちろん、色っぽい話も。
サララの話す内容は、いつもとりとめのないものばかりだった。
いつも決まって『客を取ることを許されていない』というようなことを、愚痴交じりに話した。客を取ることを許されない娼婦とはなんだろうかとマリーは思ったが、尋ねようとはしなかった。
サララは、あまり表情を変える少女ではなかった。無感動というわけではない、少なくともマリーが見た限りでは……おそらく、そういう性格なのだろう。
けれども、とても楽しそうに話をしてくれるので、マリーは毎回退屈することはなかった。マリー自身は、そのことに気づいてはいなかったが、むしろ、そんなサララの話にいつしか夢中になってすらいた。
けれども、一つだけ、二人の間にタブーがあった。それは、サララが決して自らの交友関係を話そうとはしないということ。
槍術を習っている話とか、気功術の話とか、そういったサララ自身のことはあっさり話してくれる。けれども、サララの交友関係にまで話が及び始めようものなら、頑ななまでにサララは口を噤んだ。
疑問を覚えなかったと言えば、嘘になる。
言動や素振りが少年のようなサララの身の上話に、興味を抱かなかったかと問われれば、抱いているとマリーは答えるだろう。しかし、それを尋ねるだけの度胸と勢いは、マリーには無かった。
そこまでして話したくないのであれば、話さなくていい。
そう思っていたマリーは、サララの交友関係を無理に尋ねるようなことはしなかった。何か訳があるのか、申し訳なさそうな素振りをサララが見せたから、尋ねようとは思わなかったかもしれない。
……そのタブーが、あっさり解禁されたのは、あの夜からしばらくの時間が過ぎた頃。切っ掛けは些細なもので、マリーが買い物をするために外に出ているある日のことであった。
……陽気な日差しが実に心地よい。
ここしばらく、懐にかなりの余裕があった彼は、保存食等の買い物も兼ねて、市場の中を散歩していた。人の波でごった返す中を、マリーはするりと通り抜ける。
多少は人通りの少なくなった辺りになって、伸びてくるスリの指先をへし折ったりしながら歩みを進める。売り子たちの、威勢の良い呼び掛けに視線を向ける。漂ってくる臭いは、実にマリーの食欲をそそった。
買い物をする前に、腹ごしらえでもしようかな。そう思って人の波を抜けて店の前に立った……マリーの視線が、数点の出店の先に居た、サララの横顔を捉えた。
「あ、サララだ」
思わず、ポツリとマリーは呟いた。別段、名前を呼ぶつもりは無かったので、マリーの出した声は小さい。市場の喧騒は相当なもので、耳を澄ましても聞こえない程であった……が、サララはまるでマリーの声が聞こえたかのように、くるりと振り向いた。
――サララと、目が合った。
そうマリーが思ったと同時に、サララはほんのわずかに唇の端で笑みを作ると、大きく手を振った。誰に振っているのかは、考えるまでも無かったので、マリーも応える様に手を振った。
それがよほど嬉しかったのか、サララは抱える様に持った鞄を強く抱きしめると、小走りに移動を始めた。ちらちらと視線を投げかけられているのに気づいて、マリーは苦笑しながら市場から少し離れた場所に生えている樹木を指差した。
視線を向けたサララが、右手をあげて大きく振った。
伝わったのが分かったマリーは、人の波を掻い潜って樹木へと急ぐ。距離的にマリーの方がはるかに近いというのに、いざ人の波を抜けて顔をあげると、樹木の下でサララが手を振っているのが見えた。
今日のサララの出で立ちは、わずかに水色が混じった長袖のシャツと、脛のあたりまであるズボンであった。相変わらず、ボーイッシュな格好だ。ぴったりとしたサイズのシャツは、身体のラインを分かりやすくマリーに教えてくれる。
うむ、大きくもなく、小さくも無い、手ごろなサイズだ。眼前に立つサララの全身を見やったマリーは「おいすー」と軽く手を振りかえした。脳裏に浮かんだ感想は、億尾も出さなかった。
「こんにちは、マリー。買い物? 散歩?」
そう尋ねるサララに、マリーは頷いて答えた。
「買い物だよ。家に置いてある保存食が少なくなってきたからな……サララは?」
「私は、マリア姉さんと買い物」
マリーは目を瞬かせた「へえ、姉さんが居たのか」気になったマリーはサララの背後に視線を向けると、少し離れた所を流れていた人波から、一人の女性が出てくるのが見えた。
ゆったりとしたシャツとスカートを身に纏った女性は、誰かを探すかのように周囲を見回した後……マリーへと顔を向けて、目じりをつり上げた。機嫌を損ねているのが、遠目からでも分かった。
「サララ、お姉さんってのは、あの人か?」
マリーが女性を指差すと、サララは顔色を変えて振り返った。小走りで迫ってくる女性の姿を見て、サララは跳び上がる様にマリーの背後へと隠れた。
「お、おい」
「ごめん、今だけ、姉さんに怒られるから」
どうやら、女性の正体はサララが言った姉のマリアのようだ。それだけをマリーに告げると、サララは縮こまってしまった。
そんなに、怖い人なのだろうか。わけもわからずマリーが狼狽していると、マリアはマリーの姿に視線を和らげて……マリーの前で、静かに立ち止まった。
率直な感想を述べるのであれば、実に美しい女性であった。
陽光にきらめく金色の髪が、女性の青い瞳によく合っている。顔立ちはもちろんのこと、衣服の胸元を押し上げる膨らみは、サララとは比べ物にならない程に素晴らしい。スタイルを強調する衣服ではないのに分かる谷間と腰のくびれは、如何にマリアのプロポーションが素晴らしいものであるのかを物語っていた。
男が望む欲望が、そのまま形を取ったかのようなマリアを前に、マリーは振り返って、サララの頭頂部を見つめた。マリアが傍に来ていることは分かっているのだろう。わずかに震えているのが、掴まれたシャツから分かった。
「おーい、お前の姉さんが目の前に来ているけど、いつまでそこにいるつもりだ?」
そうマリーが尋ねると、サララの頭がぴくりと震えた。マリアもサララの様子には気づいているようで、先ほどとは打って変わって頬を緩ませると、マリーの身体越しにサララを覗きこんだ。むにゅ、とマリーの頬が柔らかい膨らみに押された。
(……この世全ては儚く、無常なり)
言葉には到底表すことの出来ない、天上の柔らかさであった。今まで触れてきた何よりも柔らかく、何よりも優しい……マリーの全神経が、膨らみに触れた左頬に集中する。わずかに香るマリアの匂いに、マリーの意識は涅槃へと旅立った。
「も、もう少し……」
「何が、もう少しなの?」
「ま、マリア姉さん」
「いつまでも友達の後ろに隠れていないで、私に何か言うことがあるんじゃないかしら?」
「……ご、ごめんなさい」
「よろしい。それと、次からは一声掛けてから行きなさい」
……頬に触れていた幸せが離れる。ハッとマリーが現実世界に帰って来たときには、マリアの隣にサララの姿があった。
「あなたが、マリー……くん、と言った方がいいのかしら?」
悪い意味の無い、困惑の眼差しを向けられて、マリーはサララを見やった。申し訳なさそうにマリアの後ろに隠れようとするのを見て、マリーは察する。前にお茶をしたときに己は男であると告げた記憶がよみがえる。
……信じて貰えるのに苦労したが、そういえば、黙っていて欲しいとかは言っていなかったような覚えがあった。
マリーの視線から逃れようとするサララの様子に、マリーは苦笑した。おおかた、友達の秘密を不用意に話してしまったことに対して、引け目を感じているのだろう。別段、秘密にしてくれなどと言った覚えがないというのに……生真面目な性格をしている。
「チャンでも、クンでも、好きなように呼べばいい。自分で言うのも何だが、俺はどこから見ても美少女だからな……今更ちゃん付けで呼ばれるぐらい、どうってことはないぞ」
そう、マリーは答えた。見た目美少女のマリーの口から飛び出した男口調に、マリアは呆気に取られた。異様な者を見るかのような視線をマリーに向けた後、我に返って軽く頭を振った。
次いで、目を伏せると、マリーへと頭を下げた。
「ごめんなさい。失礼だったわね」
「あんたも大概生真面目な性格をしているな」
マリアは頭をあげた。
「えっ?」
「いや、こっちの話……ところで、名前を教えてくれないか? あいにく、あんたのことはサララから何も聞いていないんだ」
「あら、サララからは何も聞いていないの?」
マリアが振り返ってサララを見やる。サララは静かに首を横に振ると、ポツリと呟いた。
「誰のことも、言ってない。不用意に伝えない、皆との約束だから」
「……友達には話しても良いものよ」
その言葉にマリアは眉をしかめた。
はあ、とため息を吐く。呆れから来るアンニュイな仕草が、マリアには良く似合った。本当の美人は、何をしても美人なのだと、マリーは彼女を見て思った。
気を取り直したマリアは、マリーへと向き直った。
「遅くなったけど、自己紹介しておくわね。私の名前はマリア・トルバーナ。サララの友達なら、だいたい察しがつくでしょうけど……」
そこでマリアは背を屈めて、マリーの耳元へと唇を近づけた。ふう、と熱っぽくも湿った吐息が、耳をくすぐった。
「わたくし、娼婦よ。これでも『ラビアン・ローズ』っていう娼婦館を経営しているのよ」
実にエロチックな声色だ。ふっ、ふっ、と女の吐息が鼓膜を振動させる。鼻腔に広がる甘い香りと共に走る、背筋の痺れ。体中の力が抜けていくような錯覚に、マリーは頭をくらりとさせる。初心な反応に気を良くしたマリアは笑みを浮かべながら身を離した。
直後、後頭部に走った痛みに、マリーは振り返った。そこには、そっぽを向いて口笛を吹いているサララの後ろ姿があった。これ以上ないぐらいのわざとらしさだ。
「……お前、本当に娼婦だったんだな。今の今まで冗談だとばかり思っていたぜ……」
ポツリと呟いたマリーの一言に、マリアが思わずといった調子で、あはは、と笑い声をあげた。しばらくして、ごめんなさい、とマリアは一言詫びを入れた後、マリーへ唇を開いた。
「ねえ、買い物っていうのは今日中に済ませないと駄目なのかしら? それとも、買い物以外に何か予定でもいれていたりする?」
「えっ?」
マリアの言葉に、マリーは再びマリアへと向き直った。反射的に家に保管している保存食の在庫を数える……三日後に無くなるのを計算したマリーは、首を横に振った。
「それじゃあ、お昼はこっちが奢るから、ちょっと付き合ってくれないかしら?」
朗らかに提案するマリアの姿に、マリーは「いいよ」と気安く了承し……少しだけ、邪な妄想を脳内に浮かべた。その彼の頭を、サララが軽いチョップが襲ったのは、そのすぐ後であった。
3人がラビアン・ローズに到着した時、既に太陽は西の方へと傾いていた。
「……つかぬ事をお聞きするが、俺の目の前にあるこれは、娼婦館なんだよな? 実は娼婦館という別名の付いた廃墟じゃねえよな?」
思わず、といった調子で漏らしてしまったマリーの本音に、マリアは苦みのある笑い声を零した。その横で、サララは無表情に首を傾げていた。
「素敵な感想をありがとう。嬉しいことに、マリーくんの目の前にそびえ立っている建物は、廃墟でも無ければ捨てられた館でもないわ……まあ、マリーくんの感想は私自身最もだと思っているから、それは不問にしておくわね」
「そりゃあ、どうも……それにしても、広さだけはかなりのもんだなあ」
「マリーも、そう思う? 凄く、家は広いよ」
マリーの言葉に、サララが喜びに表情を綻ばせた。マリーの頬が引き攣った。
「……ごめん」
なんで謝るの、と言わんばかりに首を傾げるサララの姿に、マリーはもう一度頭を下げた。
……表通りを抜け、裏通りを進むこと数十分。見覚えのない通りを進み、見覚えのない橋を渡り、見覚えのない風景を横目にする。両手で抱えた袋に、すっかり手汗がしみ込んだ頃……ようやく足を止めた二人に倣って立ち止まり、顔をあげた。そして、飛び出した言葉が『つかぬ事~』であった。
それなりにこの町のことを知り尽くしていたと自負していたマリーは、目の前に佇む館を前に、ため息を零した。視線の先にある建物は、少なくともマリーの少ない語彙では擁護出来ない程に酷いものであった。
すっかり塗装の剥がれた、錆びてない部分が見当たらない格子門。そこを抜けてすぐに広がる中庭は雑草で埋め尽くされており、地面がまるで見えない有様だ。辛うじて、館に繋がる通路だけは手を入れているが分かるが、それが逆に全体の粗末さを表しているようで、見ていて気の毒な思いすら覚える。
建物の至る所にはヒビらしきものが見られ、外壁の至る所が変色していた。塗料が剥がれているからなのだろうが、剥がれている部分が多すぎて、もはやどっちが剥がれた跡なのか分からなかった。場合によっては、もはやそれが模様にすら見えた。
館の設計者は、おそらく洋館をベースにイメージしたのだろう。漢字の『山』のような形をした3階建てのそれは、『昔は』さぞかし豪華絢爛だったのだろうと思わせる状態であった。
マリアが、格子に手を掛ける。ぎい、と耳障りな音に鳥肌を立てるマリーを他所に、マリアはくるりと振り返った。
「まあ、何はともあれ荷物持ちありがとう。マリー君が力持ちで助かったわ……やっぱり見た目はそうでも、中身は立派な男なのね」
マリアの賞賛に、マリーは苦笑して答えた。残念な話だが、今のマリーは見た目相応の力しか出せない。魔力コントロールによって、身体能力を底上げしている状態であることは、黙っておくことにした。
さっさと中へ入っていく二人を見つめる。マリーはもう一度館全体を眺めた後、荷物を抱え直し、二人の後に続いた。格子門を足で閉めると共に発生する異音に、二度目となる鳥肌を立てた。
館の広さに合わせて設計された玄関は、おおよそ数十組の靴を並べても余裕がある程に広かった。
正面に続く階段は上階に繋がっており、年月によって古ぼけた絨毯が段に合わせて敷き詰められていた。壁に等間隔で設置された照明は、細微まで装飾が行き届いたガラス製だ。
玄関を上がって、左右に伸びた廊下の奥を見やる。玄関向かって右側に伸びた通路には、大きな扉が一つ。左側には、いくつかの扉が確認出来、用途不明の台が等間隔で設置されているのが見えた。
なんだろうかとマリーが首を傾げるそれは、せいぜいマリーの腹部ぐらいの高さしかなく、そのどれもが床と一体になっているのが分かった。不用意に動かせないようにしているようだ。
これで上に『綺麗』が付けば、さぞ見ものであったのだが……チラリと、マリーは照明に被った埃を見つめた。さすがに、広すぎて掃除が行き届かないのだろう。普通の館なら気にならない程度の汚れだが、こういう建物の場合、そうはいかなかった。
「ただいま帰ったわよー」
左側の廊下を進みながら、マリアは大声で帰宅を告げた。その横で「ただいま」と小さく発したサララの言葉がかき消されるぐらいに大きかった。
(そっち側に行くのか……)
抱え直した荷物が、音を立てる。二人の後を追いかけながら、背後へと振り返る……と、通路の奥にある大扉がかちゃりと開いた。扉の奥から、ぬっと赤い髪の女性が顔を覗かせた。あっ、とマリーが立ち止まると同時に、女性の顔がくるりとマリーへと向いた。
女性の顔に、驚きの色が浮かび、すぐに笑顔を形作った。声を掛けるべきかどうか悩んでいるマリーに向かって、手をひらひらと振ると、するりと扉の陰から姿を出した。
(うわっ、でけぇ……ていうか、エロい恰好だな、おい)
女性の全身を見たマリーは思わず、心の中で呟いた。遠目からでも分かるぐらいに立派な胸部の膨らみが、シャツを押し上げている。程よく脂肪の乗った四肢が、すらりと伸びており、四肢の長さが強調されている。
シャツとショーツだけという恰好のせいで、色々と目のやりどころに困る姿だ。何をしていたのかは知らないが、シャツやらショーツやらの色が濃くなっているのが分かった。
鼻の下が伸びてしまいそうな光景に、マリーはどうしていいか分からず、女性から視線を逸らせない。けれども、女性が歩き出したのを見た瞬間、マリーの興奮は瞬く間に静まった。
(この女……足が……)
マリーの視線が、女性の右足に向けられる。引きずるとまではいかなくても、不自然な右足の運び……右足に力が入っていないのが見て取れる。不自然ながらも、よどみない足の動きを見る限り、満足に動かせなくなってから、長いのだろう。うっすらと、太ももに傷跡があるのが見えた。
(すげえ美人……可愛いっていうか、格好いい系の美人だな)
そう、マリーは女性を評価する。ゆっくりと、マリーの前までやってきた女性は、ふう、と息を吐いて立ち止まった。改めて対面する女性は、マリーよりも二つ分は頭の位置が高い。へたな男性よりも背丈がある。
張り付いたシャツによって浮き出た肉体のライン……膨らみの先端に浮き出た二つの存在を、マリーは見て見ぬフリをした。
「こんにちは。私の名前はシャラ・ミース。もしかして、あんたがサララの言っていたマリーって男の子かい?」
女性にしては低い、ハスキーボイス。とりあえず、マリーは女性……シャラの問いかけに頷いた。シャラの笑顔が、さらに深まった。
「ああ、やっぱり。あんたのことはサララから聞いているよ。良くしてくれているみたいだね……サララはどうしたの?」
「あっ……」
シャラの言葉に、マリーは振り返る。一番手前の扉が開きっぱなしになっているのを見て、マリーはため息を吐いた。置いて行かれたのかと思ったが、行き先が分かったので安堵する。
振り返って、マリーはシャラを見上げた。
「なんでそんな恰好してんだ?」
「ああ、これかい?」
シャラは自らの肌に張り付いたシャツをつまんで、引っ張った。そのせいで、さらに目のやりどころに困る部分が浮き出た。
「風呂掃除していたんだけど、うっかり石鹸を踏んでしまってねえ。桶をひっくり返して、このざまってわけさ。散々な気分だったけど、少しは気が晴れたよ……どうだい、目の保養にはなっているかい?」
そう言うと、シャラは両手をあげて胸を反らし、ポーズを取った。実に目に優しい光景に、マリーは素直に頷いて、若干腰を引いた。途端、シャラは声を出して笑った。
「あはは、素直な子は好きだよ。見た目がそうでも、中身は立派な男の子なんだな……ちょっと安心したよ」
ぐしゃぐしゃと、シャラの手がマリーの銀白色の髪を掻き毟った。抵抗を覚えたマリーがさっとその場を引くと、シャラはまた笑い声をあげた。ぐさりと、己のプライドに笑顔が突き刺さる音を、マリーは聞いた。
見た目のせいで色々と侮られ、からかわれることが多いが、そういった雑言よりも、こういった悪気のない友好的な態度が一番堪えるとマリーは思った。
男と見られないのは、まあ、仕方がないことだと納得はしている。女と見られることも、嫌ではあるが理解はしている。自分ですらそう思うのだから、他人から見れば余計にそう思うだろう。
(やっぱり今の俺は、どこから見ても子供なんだろうなあ……)
だが、子供として見られることに関しては、今でも強い抵抗を覚えていた。
シャラに、そういった意図が無いことは、マリー自身も分かっていた……分かってはいたが、胸中の奥底に根付いている自尊心を鼻で笑われたかのような気分に陥ってしまうのを、マリーは抑えられなかった。
「マリー君、どうかした……あら?」
背後から掛けられた声に、伏せていた顔をあげる。振り返れば、困ったように苦笑するマリアの姿があった。
「……どうしたのよ、その恰好?」
シャラは頭を掻いた。
「風呂掃除だよ。今日は私が当番だからな。いっそ徹底的に綺麗にしてやろうと思って、朝から頑張っていたところだよ……まあ、もう終わったけどな」
「あら、朝から浴場に籠っているかと思ったら、掃除してくれていたの? ありがとう。でも、今日はシャラの当番じゃなかったはずだけど?」
目を細めるマリアの姿に、シャラは困ったように視線を逸らした。
「そうは言っても、交代で掃除しているっていっても、非力なやつらばかりだからな。普段掃除できない所とかは、手が空いている私が掃除するのが効率的だろ?」
「掃除してくれるのは有り難いけど、駄目よ、ちゃんとルールは厳守しないと……脚立が確か物置に無かったかしら?」
「脚立なら前に壊れたよ。ほら、窓を拭こうとしたときに……」
シャラの言葉に、マリアは首を傾げた。しばらくして、ああ、と頷いた「そういえば、そうだったわね。でも、脚立ぐらい買えば済む話でしょ」その言葉に、シャラは苦笑した。
「確かに、買えば済む話だけどさあ……今は、そんなもん買う余裕は無いだろ。1セクトでも金が欲しいっていうのに、脚立なんて買っている場合じゃねえよ」
そうシャラが口走った瞬間、マリアの顔色が変わった。
目に見えて強張った表情で「――っ、シャラ!」と叱責すると、シャラはハッと唇を閉じた。次いで、チラリとマリーへと視線を向けた後、申し訳なさそうにマリアへ頭を下げた。
「ごめん、余計なことを口走った……」
マリアは、何も答えなかった。ただ、マリアも同じような表情を浮かべて首を横に振った後、マリーへと視線を下ろした。何が何だか分からないマリーは、思わずシャラとマリアへ交互に視線を向けていた。
「……マリー君、荷物をこっちに持ってきてくれないかしら? それと、シャラの分のお茶も淹れるから、着替えたら来なさい……ほら、マリー君はこっちよ」
「え、あ、ああ、いいよ……」
先ほどまでにあったフレンドリーな笑顔はどこにいったのだろうか。幻であったのかと考えてしまうぐらいに顔をこわばらせたマリアは「ついてきて」とだけマリーに言うと、さっさとその場を離れ始めた。
……他所の家の事情に首を突っ込むのもどうかと思ったマリーは、とりあえずマリアの後を追うことにした。
けれども、マリーの中で、尋ねたい欲求がむくむくと湧き上がってくるのを抑えることが出来ない。しかし、どう考えても気軽に尋ねていい雰囲気ではなさそうで、もやもやとした感情が口の中に充満する。口を開くと我慢できなくなりそうなので、マリーが無言のままマリアの背中を見つめた。
(金が欲しい……ねえ。多少は融通してやってもいいんだけど、俺もそんなに余裕は無いしなあ……かといって、知らないフリをするというのもなあ……)
ふと、マリーは振り返った。シャラの背中が見える……握りしめられた手が、白くなっていた。遠目からでも分かるぐらいに、力が込められているのが見えた。
――なぜか、マリーの背筋に悪寒が走る。なにやら大変な事態が近づいているのではなかろうか……そんな予感をマリーは感じていた。
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