第5話 白と黒の即席チーム





 マリーの予感は、的中した。



「クソ娼婦共! 取り立てに来てやったぞ!」



 一声聞いただけで胸糞が悪くなってくる。そんな罵声がマリーたちの元に飛び込んできたのは、休憩も終わろうとしていた頃であった。


 そろそろ本来の用事を済ませようかな、という具合に椅子から立ち上がったマリーが、驚きに振り返る。再度聞こえてきた罵声に、マリーは声の主が外にいることを悟った。



「なんだ、どうしたんだ、いったい?」



 困惑に首を傾げるマリーが、事情を求めて席に座る3人へと視線を向けて……動きを止めた。見れば、一緒に席についていたマリア、サララ、シャラの三人の顔色が、わずかに強張っていた。



「……ど、どうした?」



 おずおずと、マリーは3人へと声を掛ける。ハッと我に返った3人は、互いの顔を見合わせると、無言のまま椅子から腰をあげた。厳しい眼差しでマリーの横を通り過ぎて、廊下へと出ていく。


 当然のことながら、誰が尋ねてきたのか、それをマリーは知らない。


 知らないのだが、3人の顔色を見た限り、声の主が招かれざる客であることは推測できる。しかも、女性陣全員の顔色を悪くさせる程の、嫌な客であるということが……。



「ちょ、おい」

「マリー、駄目」



 二人の後を追わんとしていたマリーの手を、サララが掴んだ。自らの手とそう変わらないサイズの、少しまめが出来た手の感触に、マリーの足がピタリと動きを止めた。軽く力を入れるも、それ以上の力で引っ張られる。


 振り返ったマリーの目を見つめたサララが、静かに首を横に振った。サララからの、無言の意志に、マリーはしばらくサララを見つめた後、深々とため息を吐いた。



「……あまり立ち入ってほしくない事情か?」

「そう」



 サララは頷いた。味気ない返答に、マリーの目じりが吊り上った。



「なあ、俺らって、友達だよな?」

「友達だからこそ、だよ」



 サララは、わずかに声を荒げた。初めて見るサララの苛立ちに、喉元までせり上がっていた言葉を、マリーは飲み込んだ。



「友達だからこそ……友達だから、言いたくないし、頼りたくない。マリーには、関わってほしくない……分かってほしい」

「……それじゃあ、俺のこの憤りはどうすれはいい?」



 そうマリーが尋ねると、サララは顔を伏せた。そして、静かに首を左右に振った。マリーは、握られたサララの手を両手で握り返し、サララの頭を見た。



「さっきのやつも、取り立てって言っていたけど、金がいるのか?」

「…………」



 サララは、答えなかった。顔をあげようとしないサララに構わず、マリーは唇を開いた。



「いるんだな、金が……いくら必要なんだ?」

「…………」

「なあ、サララ……教えてくれ、いくら必要なんだ?」

「…………」



 ギュッと、サララの手を握りしめる。か細い声で「痛い」と零したサララの言葉に「す、すまん」マリーは慌てて手を離す。そして、今度は優しくサララの手を両手で包む。


 マリアとシャラが戻ってくるまでの間、マリーは黙ってサララの手を摩っていた。少しでも、サララの胸中に宿る何かが薄れてくれるように……。











 ――戻ってきた2人はしばらくの間、口を閉ざしたまま何も語ろうとはしなかった。



『サララの知り合いとはいえ、部外者に話すことではない』



 それだけをマリーに伝え、言外に退室を促す2人を前に、マリーは意地でもその場を動こうとはしなかった。怒ったシャラが力づくでマリーを叩き出そうとするも、マリーは魔力コントロールを行って、全力で抵抗した。


 シャラだけに留まらず、マリアとサララからも『帰ってほしい』と怒鳴られ、懇願されても、迷惑を掛けていることを自覚しながらも、マリーは決して諦めなかった。何度も事情の説明と、助力の申し出を強く訴えた。


 訴えるたびに苦い顔をする3人を前に、マリーは何度も何度も訴えて……空の色がわずかに赤色を帯び始める頃「負けたわ」とマリアが深々とため息を吐いた。



「そこまで聞きたいのなら、話してあげる。ただし、聞いた以上は無関係を許さない。やっぱり知りませんとか口にしようものなら、私はあんたを絶対許さない……それでも、マリー君は聞きたいのかしら?」

「聞きたくなかったら、俺はとっくのむかしに帰っているよ。まあ、大方察しは付いているけどな」



 即座に返したマリーの言葉に、マリアは再度深々とため息を吐いて、苦笑した。傍で聞いていたシャラも同様の表情を浮かべる。唯一、サララだけは無表情のままで、マリーを見つめながらも、どこか遠くを眺めているような、そんな眼差しをしていた。



 ……一言でいえば、『借金』。それが、マリアを初めとしたラビアン・ローズが抱えている重大な問題の正体であった。



 シャラが1セクトでも金が欲しいと言ったのも、返済期日が迫っていることから零した愚痴であり、脚立なんぞ買っている場合ではないというのも、そこから来ていたのであった。


 借金が出来た理由……それは様々な原因が積み重なって出来ていたが、一番の原因は、現当主であるマリアの先代……高齢の男性だが、その人が囲っていた娼婦の一人が秘密裏に作った借金が原因であった。


 娼婦がどのような手段を取ったかは、マリアも把握していない。しかし、ラビアン・ローズが窮地に立っている原因は、間違いなくそれであると、マリアは告げた。



「……金が無いんだったら、客を取ればいいんじゃねえの? いや、縄張りとかそういうのがあるのかは知らんけど、マリアぐらいの美貌なら、固定客の10人や20人はいるだろ?」



 話を聞いたマリーは、そうマリアに尋ねたが、マリアは静かに首を横に振った。マリーの指摘通り、確かにマリアには固定客が居る。それも、10人、20人どころではない。少なくとも、50人以上は居る……のではあるが。



「確かに固定客は大勢いるけど、毎日来てくれるってわけでもないし、来るか来ないかは向こうの勝手。連絡先なんて知るわけも無いし、それに、いくら私が美人だからって言っても、所詮は娼婦だもの。娼婦の為に男が金を払うのは、気持ちよくなりたいからであって、それ以上もそれ以下も無いの」



 ああ、それは確かにそうかもしれない。マリアの言葉に納得してしまったマリーは、ふと、首を傾げた。さらりと、銀白色の髪が揺れた。



「そういえば聞いていなかったけど、借金の総額はいくらなんだ?」



 何気なく、本当に何気なく聞いただけであった。しかし、質問の直後、3人の動きが同時に止まったのを見て、マリーは思わず頬を引き攣らせた。



「……そんなにすげえの?」

「えっと、ちょっとマリー君、こっち来て」



 ちょい、ちょい、とマリアが手招きをする。言われるがままに傍へ寄ると、マリアは口元を両手で囲った。


 ……嫌な予感を覚えながらも、髪を掻き上げて晒した耳をマリアへ向ける。顔を近づけたマリアの両手が、そっとマリーの耳元を覆い隠した。


 ……こしょこしょ、とマリアが呟いた。


 数秒ぐらい、ぽかんと唇を開けたままにしていたマリーの表情が、目に見えて引き攣っていく。静かに身体を離したマリアへ、マリーは見開いた眼を向けた。



「ど、どうやったらそんな借金作れるんだよ……この館を一回潰して、同じ豪邸を建てられるぐらいの金額じゃないのか、それ……」



 本当、どうやってこんな借金を作ったのやら。マリアは、ほう、とため息を吐いた。



「これでも頑張って、少しは借金を減らしたのよ。役所や相談所や専門家の力を借りて一本化して、どうにかこうにかこの金額まで抑えたのよ。今伝えた金額分だけは、公正な契約での借金だから、絶対返さないと駄目なのよねえ、これが……まあ、最低限の利息分を支払い終えはしたから、後はこの元金だけなんだけど……」



 これがまた、莫大なのよねえ……と。


 マリアは、参ったと朗らかな笑顔で頭を掻いた。どう見ても参ったようには見えないが、その笑顔は痛々しい。実際、笑うしかないのだろう。



「もしかして、その総額って、この館を売ったうえでの金額?」

「ええ、そうなの」

「……もう、全娼婦を動員しての物量作戦ぐらいしか手がねえだろ、それ」



 マリーの提案に、マリアは首を横に振った。



「それが、そうもいかないのよ。確かにここは娼婦館で、私を含めてここに所属する女性は21人いるけど……実際に客を取っているのは、片手に収まるもの」



 その言葉に、マリーは首を傾げた。何を言っているのか分からないと顔に書いてあるマリーを見て、マリアは「実はね……」と説明を続けた。


 その説明を聞いたマリーは、理解の色を深めていくと同時に、借金が減らない理由を悟った。



 ――というのも、だ。



 娼婦館ラビアン・ローズとは、あくまで表向きの姿。実際の中身は、娼婦として働く女性と、それ以外の女性が住まう、いわば共同住宅というのが、この館の正体であった。



 ……多感な時期から娼婦として働かざるをえなかったマリアにとって、かつての己と同じ境遇に陥ろうとしている女性を、放っておくことはできない!



 そのような思いから、先代から娼婦館を受け継いだ際、その時に所属していた同僚を全て解雇し、マリアは己が思い描いていた、ラビアン・ローズを作り上げた。


 館の維持費等を稼ぐ為に、己は娼婦を辞めることは出来なかったが、せめて、他の女性だけは……自分のようになってほしくない。


 その一念のもと、マリアは少しずつ、窮地に立たされていたかつての己に手を差し伸べていった。もちろん、ただ無差別に手を差し伸べれば、いずれ共倒れは必至。助ける相手を、選ばなければならなかった。


 こんな場所で終わるには、あまりにもったいない。

 機会さえ有れば、表の世界で生きられる女性。


 それが、最低基準だ。容姿、知識、技量……それらに優れ『この世界から足を洗いたい』、『この世界から抜け出したい』と本気で願っていること。


 なにより、そうならざるをえなかった女性たちに対して、マリアはラビアン・ローズという超格安の家を用意し、手を差し伸べた。


 反対に、安易な気持ちでこの世界に身を落とした人、自らの自業自得でそうなった人たちには、絶対に手を差し伸べなかった。


 そのような選定基準をクリアし、マリアの御目金に叶った有望な女性たち……それが、ここラビアン・ローズに住まう女性たちの正体であった。


 なので、実際の実動員は意外なほどに少なく、マリアを含めて、娼婦は片手で足りる人数しかいない。だから、ラビアン・ローズに所属する娼婦たちをフル稼働させたところで、そこまで意味は無いのであった。



 それに、マリアが娼婦をさせようとはしなかった。



 例外もいるが、娼婦の世界から足を洗い、表の世界で生きられるようになった女性たちばかりだ。今更、この世界に戻らせたくはないというのがマリアの考えであり、例え女性たちが『娼婦として金を稼ぐ』とマリアに懇願したところで、マリアは絶対に首を横に振らなかった。


 『独断で娼婦の世界に戻ろうものなら、私は絶対にあなた達を許さない!』


 それが、マリアがラビアン・ローズに所属している女性たちへ言い放った言葉である。


 今の館にはマリア・シャラ・サララを除いて、帰ってくる女性は一日に一人、二人ぐらいだ。それ以外の人達は皆、寝る間も惜しんで働き続けているらしく、他の女性たちの姿が見えないのも、それが理由であった。


 また、女性たちにそれほど強く厳命するマリアが、どうして、館の体裁を『娼婦館』のままにしていたのかといえば、それにも理由があった。


 この世界にある暗黙の了解を守る為、娼婦館と名乗らざるをえなかったというだけ。女性たちに申し訳ないことだが、そればかりはマリアの一存ではどうにもならなかったのである。



「色々話したけど、まあ、だいたいの状況は理解出来たんじゃないかしら」



 ようやく事のあらましを話終えたのだろうマリアは、「これだけ長々と話し続けるのは疲れるわあ」と、深いため息を吐いた。黄金のようにきらめく金髪を手櫛で整えながら、マリアは苦笑した。



「ちょうど、部屋が全部埋まった頃かしらねえ……借用書を持った男が、家を訪ねてきたのは。あの時は驚いたわ……夢を見ているのかと思って、何度も頬を抓った記憶があるぐらいにね」

「それが、つまり先ほどの借金……?」



 マリーが尋ねると、マリアは頷いた。



「古い諺にある『寝耳に水』ってやつね。身に覚えのない話に耳を疑ったけど、役所を通して確認してみたら、借用書は確かに本物で、しかも法に乗っ取った正式な物。おまけに返済期日が100日を切っていたとか、もう笑い話以外の何ものでも無いでしょ」



 アンニュイな面持ちで、吐き捨てるようにマリアは言った。黙って話を聞いていたシャラとサララも同様の思いなのか、二人の表情も苦々しいものになっていた。


 ちらりとマリーがサララへ視線を向ける。気づいたサララは、勢いよくマリーに背中を向けた。


 マリーは、何も言わなかった。というより、言えなかった。


 今、マリアたちが求めているのは、慰めの言葉でも無ければ、希望を匂わせる励ましではない。安易な言葉は、嫌味にしかならない。己の行った行為を、マリーは強く恥じた。


 彼女たちは分かっていたのだ。誰かに話したところで、相談したところで、事態は好転することは決して無いということを。


 話した分だけ、相手の心に余計な負担を掛けてしまうことを。理解していたからこそ、彼女たちは口を閉ざしたのだ。他の誰でも無い、マリーのことを思って。


 彼女たちが本当に求めているのは、絶望的な状況をひっくり返す希望、ただ、それだけ。慰めが決して希望に繋がらないことを、彼女たちは知っているのだ。


 サララが、なぜあれほど娼婦になろうとしているのかが、ようやく分かった。そして、なぜ娼婦であることを止められているのかも、分かった。全て、これに繋がっていたのであった。


 マリーは強く唇を噛み締める。現在マリーが預けている貯金を全て出したとしても、一割にも達しない。この館を売ったとしても足りないだろうし、なにより館を売り払ったら、本末転倒もいいところだろう。



「マリア姉さん」



 居心地の悪い沈黙を破ったのは、サララであった。全員の視線がサララへと向けられるも、当のサララは気にした様子も無く、マリアへと視線を向けていた。



「娼婦になるのだけは駄目よ。それに、あなたが娼婦になったところで、今更意味は無いわ。自己満足の為に身体を汚そうとすることを、良案とは言わない。それは、愚策というものよ」



 サララが何かを言う前に、マリアはそう忠告する。しかし、サララは分かっていると言わんばかりに首を縦に振った。それは、サララも分かっていた。


 意外な反応に、マリアは目をまんまると見開いた。予想と違う反応を示したサララを前に、マリアは改めてサララへと向き直った。



「それじゃあ、なんなのかしら?」

「私、探究者になる」



 その瞬間、空気が凍った。突然の宣言を前に、呆気の取られている3人を他所に、サララは力強く右腕を振り上げた。



「ダンジョンには、お金になるものがある。だから、探究者になってお金を稼いで、借金を返す。これならいいでしょ、マリア姉さん」



 ……ふんす、と鼻息荒く言い切ったサララの顔には、自信しか無かった。気持ちのいいぐらいの笑顔を浮かべているサララを見て、マリアは痛みでも覚えたのか、静かに己の額へ手を当てた。



「……ごめんなさい。もう、なんて言ったらいいか分からないわ……シャラ、とりあえず、あなたの口から言ってやって頂戴」

「ああ、分かった」



 マリアからバトンタッチされたシャラが、一歩サララへと近づいた。びくん、とサララの肩が跳ねるとすぐに、距離を取り……マリーの背後へと隠れた。


 ……どうしようもない沈黙が、再び訪れる。マリーが振り返ると、サララは視線から逃れる様に縮こまっていた。広場の時と、同じ状態だ。


 とりあえず「……あの、さ?」マリーは声を掛けた。直後、サララはあの時と同じように、俯いたまま声を張り上げた。



「シャ、シャラさんだって、この前言った。そこらへんの探究者じゃ、手も足も出せないぐらいに強いって! だから、行ける! ちょっと行って、戻ってくるだけだから! これっきりだから!」



 ぶちり。サララが言い切った直後、何かが切れる音を、マリーは聞いたような気がした。



「こ、の……あほっ!」



 シャラの怒声が――室内を反響した。


 あまりの迫力に、窓ガラスがびりびりと振動する。耳鳴りに眉根をしかめているマリーを他所に、シャラは湧き出る怒りを抑える様に息を吐くと、ぎらりと鋭い視線をマリー……の背後へいるサララへ向けた。



「ダンジョンがどういう場所か分かって言っているのか、お前は!」

「分かってる!」

「いや、分かっていない。サララはあそこの恐ろしさを少しも理解しちゃいない。あそこは、サララにはまだ早い。後1年は鍛錬を重ねてから、徐々に身体を慣らしていっても遅くは無い」

「それじゃあ遅いよ! それじゃあ、マリア姉さんがあいつらに連れて行かれる! それは駄目!」

「だからといって、今のお前に何が出来る。経験も無いお前が、ソロでダンジョンに挑むっていうのか……自殺以外の何ものでも無いよ、それは」

「だ、だったら……」

「チームを組むか? 誰と組む? 実績も何もない、ド素人のお前と、誰がチームを組んでくれる? せいぜい、利用されるだけ利用されて、最後は盾にされて食われるのがオチだな」

「で、でも!」

「何度も言わせるな!」



 一喝。食い下がろうとするサララの抵抗を、シャラは一言で切って捨てた。直接言われたわけでもないのに、思わず身を固くするほどの迫力。マリーでさえそうなのだから、サララの苦しみはもっとだろう。


 ぐすぐすと、鼻を啜る音が背後から聞こえてくる。掴まれた袖から引っ張られる感覚が伝わってくると同時に、背中に押し付けられた体温から、わずかに湿り気を感じる。


 ……さすがにこれ以上は、と思ったマリーが両手を前に出して静止した。



「ま、まあ、待てよ。何もそこまで言う必要はねえだろ。サララも反省……」

「部外者は黙ってろ!」



 マリーの静止は、最後まで言えなかった。部外者、確かに、マリーは部外者だ。


 だが、たとえ部外者だとしても、その人はサララの友人だ。いくら何でも、言い方というのがある。表情を強張らせているマリーの姿に気づきもしないシャラは、苛立ち気味に頭を掻き毟った。



「サララ、確かにお前の才能は凄い。全盛期の私など、すぐに追い越していくだけの潜在能力を、お前は持っている。それは認める。それだけの力があることは、はっきり認める……でも、今はまだ、早い」



 そう言うと、シャラは視線を和らげた。ぽん、とシャラは、融通の利かない己の足を軽く叩いた。



「私はこれでも、昔はそれなりに名の売れた探究者だったのはお前も知っているだろ。その私が、一瞬の油断と判断の過ちでこれだ。それも、モンスターにやられたからじゃない……同業のやつに騙された末に、こうなった」



 すりすりと、シャラは己の足を摩る。わずかに傷の痕が見えるそこは、左足と比べて、若干柔らかい。どうしても力を込められない分だけ、筋肉が衰えてしまうからだ。


 体幹のバランスが崩れないよう、普段からままならない足をなんとか動かし、衰えの進行を抑えてはいる。だが、どうしても筋力に違いが出てしまう。今はまだ大丈夫だが、いずれは見た目にも表れていくだろう。


 サララには、そうなってほしくない。それが、シャラの本心であった。サララの将来に口出しするつもりは無いが、今はまだ、己の下にいる。今はまだ、口出しできる権利があると、シャラは思う。


 探究者の世界とは、単純にモンスターだけに気を付ければいいわけではない……そのことを、シャラは身を持って体感した。


 もし、サララが自らと同じ結果になってしまったら……己を殺してやりたくなるのを抑えられそうにない。それが、シャラには分かっていた。



「で、でも……」



 泣いたことで鼻声になっているサララが、ポツリと呟いた。



「それしか、もう方法がない……私は嫌だ……何もしないまま終わるなんて……」



 自らを振り返っていたシャラが、顔をあげる。


 その視線に、ふたたび厳しさが戻り始める……が、先ほどよりもいくらか柔らかなものであった。シャラも、サララの気持ちが、狂おしい程に分かっていたからだ。


 かりかりと、シャラは頭を掻いた。どうやって諦めさせようか、思案するも、良案が浮かんでこない。冷静に考えれば、サララの言い分は最もだからだ。



 一攫千金。ダンジョンにて発見される、超高エネルギーが凝縮されたアイテムを手に入れることが出来れば……換金した金で、借金を返すことは出来る。いや、それどころか、お釣りで建物を建て替えることも可能かもしれない。確率の低いことではあるが、その可能性は否定できない。


 けれども、そこまで考えて、シャラは首を横に振った。



「確かに、サララの言うとおり、現状を打破できる唯一の手段と言えば、それぐらいだろうな。けどな……サララの言うお金になるモノって言うのは、最低でも地下5階以下……地下10階以下にまで下らないと、手に入らないものだぞ」



 しかし、リスクがあまりに大きすぎた。ダンジョンには、地下に下りれば降りる程、出現するモンスターの凶悪性が増すという特徴がある。


 出現するモンスターの数や種類も増し、中には剣などの刃物を通さない冗談のようなモンスターすら存在する。


 しかも、出現するモンスターは皆、一階降りるたびに一段階ずつ強くなるわけではない。同じ外見のモンスターであっても、地下1階と地下3階では大きな差があるのだ。地下1階ではほぼ無傷で降りることが出来る探究者でも、地下2階では歯が立たないという話も、別段珍しいわけではない。


 あまつさえ、地下5階にもなれば、とてもではないが素人同然のサララが降り立てる場所ではない。


 ましてや、地下10階ともなれば、もはやサララは、モンスターにとって肉袋が歩いているも同然だ。最悪、襲われたことすら気づかずに絶命することになっても、不思議ではないのだ。



 ちらりと、シャラは泣いているサララを見やった。



 蹲る様にしてマリーの背後に隠れている姿は、非常に情けない。けれども、その身に宿る力は、誰よりもシャラは知っている。知ったうえで、シャラは首を横に振らざるをえなかった。


 熟練のソロ探究者でも、地下5階まで自力で突破して戻ってこられるやつは多くない。地下10階ともなれば、新聞社から取材が来てもおかしくないぐらいに難易度が高く、危険性が跳ね上がる。


 それほどまでに、地下に行けば行くほど生存率が下がってしまうのだ。相応な装備を整えて、それ……金が無い現状、まともな装備を整えられないサララが、ダンジョンに向かえば……結果は想像するまでも無かった。


 ふう、とマリアがため息を吐いた。そして、困ったように笑みを浮かべた。



「ねえ、サララ。あなたがそこまで私のことを考えてくれているのは嬉しいけど、だからといって私は、あなたが危険な目に遭うのを良しとしないわよ」



 ……サララは、返事をしなかった。



 いや、もはや、出来ないのかもしれない。


 ただでさえ重苦しかった室内の空気が、さらに重量を増していく。もはやこの空間だけ、重力が違うのではなかろうかと錯覚してしまう程の重苦しさだ。


 その中で、唯一置いてけぼりを食らっていたマリーはというと……秒針が時を刻むと同時に増していく重力に、色々な意味で手持無沙汰であった。


 とりあえず、この場の空気を読んで気配を消してはいたが……サララのすすり泣く声が、二人の沈黙が、ことのほか胸に響いた。



(なんだろう、この圧倒的なシリアス空間……完全に俺の存在感が消えているぜ……! 離れようにも、サララが裾を掴んで動けないし、なにより今動くのは危険だ。絶対、矛先がこっちに来るぜ……!)



 すっかり存在を忘れ去られているマリーは、泣いているサララの気配を感じて、そう思った。顔をあげてマリアとシャラの両名を見やれば、二人とも悲痛な面持ちだ。


『打つ手はない』


 二人の顔に書かれている内心に、マリーは頬を掻いた。背後に意識を向ければ、いまだサララの涙が止まっていないのが分かる。よほどシャラの一言が身に染みたようだ。



(まあ、確かになあ……サララの言い分もそうだけど、シャラの言い分は最もなんだよなあ)



 シャラの言うとおり、いくら実力があろうとも、生半可な覚悟でダンジョンは潜れない。地上階であるのであれば別だが、地下一階よりも下層を狙おうと考えるのであれば、必要となる技能の数と質は一気に跳ね上がる。


 出現するモンスターについての知識や、必需品となる道具の用意もそうだが、なによりも多大なストレスに耐えられる精神力が重要だ。


 ダンジョン内に置いて、探究者に降りかかるストレスは、ある意味暴力的といっていい程に重く、心身を蝕む。


 よほど精神的に鈍感であるのならば話は別だが、初めての人は、30分も居れば精神的ストレスで立てなくなるぐらいに消耗してしまうのが普通である。


 何時命を奪われるか分からない場所を突き進む為に必要な、精神的、肉体的タフネス……それが、サララには圧倒的に不足している。



 それをシャラは言いたいのではなかろうかと、マリーは思った。



 何故なら、マリーとて、初めてダンジョンの地下一階に降り立ったときは散々であったからだ。


 それまでに持っていた、薄っぺらな自信を粉々に打ち砕かれ、負傷しながらも命からがら逃げきったときは、安堵のあまり失禁してしまったぐらいだ。


 あのときは恥ずかしい思いでいっぱいであったが、誰も彼もマリーを咎めはしなかった。


 新人が、安堵のあまり失禁したり、気絶したりするのは特別珍しい話では無く、むしろ風物詩なのだとマリーが知ったのは、それからしばらく経ってのこと。


 他にも、ダンジョンを出たと同時に勃起してしまい、そのまま二時間以上部屋の隅で縮こまっていた男の話や、失禁どころか脱糞までしてしまった女性の話もあるぐらいだ。シャラの言い分は、実に最もなことなのであった。



(……でも)



 けれども、マリーは思った。



(……いいなあ)



 マリーは、首を横に振った。一つ、覚悟を決めた。顔をあげて、俯いているマリアとシャラを見つめた。



「それじゃあ、ソロが駄目なら俺とチームを組んで行くのはどうだ?」

「……え?」



 その声を漏らしたのは、はたして誰だったのだろうか。


 マリーの提案に、シャラとマリアが顔をあげる。先ほどまで聞こえていた鳴き声が止まっているのを確認したマリーは、精一杯、ニヒルな笑みを作った。



「俺はソロ探究者だし、地下5階までなら経験がある。サララの実力が確かなら、足手まといにはならないだろ」



 マリーの言葉に、呆気に取られるシャラとマリア……ハッといち早くシャラが我に返る。呆けて開きっぱなしにしていた唇を噛み締めると同時に、シャラの顔がどんどん紅潮していく。美人は怒っても美人というが、シャラも例を外れていなかった。


 あっという間もなく、シャラがマリーへと迫った。と、思ったら、シャラはマリーの胸元を掴むと、グイッと持ち上げた。いくらマリーの体重が軽いとはいえ、たいした腕力だ。


 マリーの背中に居たサララが、慌てて立ち上がる。激昂したシャラの姿に青ざめて止めようとするが、マリーはそれを手で制した。どうしたらいいか分からないサララがマリアへと視線を向けるが、マリアは険しい眼差しをマリーに向けていた。



「おい、糞ガキ……てめえ、何のつもりだ」



 大の男ですら裸足で逃げ出す怒声と共に、シャラは捻り上げた拳に力を入れる。息苦しさもそうだが、全体重が掛かる両脇に鋭い痛みを感じながらも、マリーは決して表情を変えなかった。



「何のつもりって、ただの提案だろ。ソロが駄目なら、チームだ。さすがに地下10階までは無理だが、地下7階ぐらいまではなんとか降りられる。金が、必要なんだろ?」



 そうマリーが言うと、シャラの奥歯がぎりりと音を立てた。直後、シャラの腕が風を切って、唸るようにマリーの頬を張った。ばん、と鈍くも重い音と共に、マリーの顔が威力に耐え切れず、真横を向く。


 悲鳴をあげて手を伸ばすサララを、マリーは片手で振り払う。ぐらぐらと揺れる視界に気持ち悪さと痛みを覚えながら、マリーはシャラへと顔を向けた。



「……さっきも、言ったよな……部外者は黙っていろって……」

「友達がピンチだっていうのに、部外者も何もねえだろ」



 再び振り上げられたシャラの拳が、マリーの頬を打った。陶磁器のように滑らかな白肌に、赤い腫れが滲む。つう、と流れ落ちる鼻血が、マリーの唇を伝って、シャラの手に滴った。



「……でもさ、それしかもう手はないんだろ?」



 赤い線を作っている血液を、舌で舐め取る。口内に広がる血の不味さを感じつつ、マリーは唇を開いた。



「借金の返済期日が何時なのかは知らないが、話を聞く限り、もうすぐそこまで来ているんだろ? だったら、もうやるしかないじゃん。賭けてみるのも、一つの手だぜ」

「…………」

「やってみたらいいじゃん。俺で良かったら、手を貸すぜ」

「…………」



 シャラは、何も言わなかった。けれども、聞き入っているのだとは、マリーは思わなかった。紅潮した頬をそのままに、激情を内側に溜めこんでいるのだとマリーは悟ったが、構わず続ける為に唇を開いた。



「マリー君」



 しかし、マリーが言葉を発するよりも早く、マリアの一声がそれを制した。不意を突かれた形となったマリーが、マリアへと視線を向ける。同様に、シャラも、サララも、マリアへと顔を向けた。


 静かに、マリアはマリーのすぐ傍まで近寄ると、そっとシャラへ言った。



「シャラ、マリー君を下ろしなさい」

「…………」



 シャラは、無言のままマリーをその場に下ろした。手に付着した鼻血をそのままに、シャラがその場から距離を取ると、代わりにサララがマリーを抱きしめ……マリーの肩口に顔を埋めた。


 それを見て、マリアはふっと表情を緩めた。そして、最初の頃のような、優しい笑みを浮かべると、その場に膝をついて、マリーと視線を合わせた。



「マリー君、一つ、聞いていいかしら?」

「…………」



 マリーは、マリアの瞳を見つめ返した。



「マリー君は、どうしてそこまでして私たちに……サララに、手を貸そうと思ったの? 目的を、教えてくれないかしら?」

「目的なんか、ねえよ」



 マリーはぶっきらぼうに言い放った。しかし、マリアはそれで納得しなかった。



「この期に及んで、そういうのは止めて頂戴。何故、マリー君はサララに手を貸そうと思ったのか……私は、それを知りたいの」



 マリアのその言葉に、マリーは押し黙った。


 今、ここで話をはぐらかしてはいけない。

 マリアは、真剣に聞いているのだ。


 だから、こちらも真剣に答えなくてはならない。


 そう思ったマリーは、苦々しい感情を抑えながらも、マリアから視線を外した。



「勿体ないって、思ったんだよ」

「えっ?」



 驚きの声が、マリアの他に二人からあげられた。



「だって、そうだろ。お前ら、それだけ互いを大事に思っていて、相手の為なら危険を承知で突っ込もうとして、嫌われるのを覚悟で否定するんだぜ……これを勿体ないって思って、何が悪い」

「え、いや、あの……」

「そんな関係、いくら金出したって買えねえ。金を出したって買えねえものを持っているのに、その金が原因で無くなるなんて、そんなの勿体ないだろ……なあ、俺の言っていることって、そんなに変か?」



 マリアは、目を瞬かせた。思いもよらない答えだったのか、何かを言いたげに唇を開くが、何も言うことが出来ない。シャラも同様なのか、呆然とマリーを見つめていた。



「…………はあ、もう、いいわ」



 先に我に返ったのは、マリアの方であった。マリアは深々とため息を吐くと、静かに立ち上がった。次いで、どこから取り出したのか、ハンカチを片手に持つと、そっとマリーの鼻血を拭い始めた。突然の対応にギョッと目を見開くマリーの頭を、マリアは優しく押さえた。



「17日」



 ポツリと、マリアは言った。マリーが顔をあげると、マリアはそっとマリーの鼻にハンカチを押し当てた。



「返済期日までの猶予期間よ……もう、私は止めたりしないわ。マリー君がそこまで言うのであれば、サララと一緒に頑張りなさい」



 それを聞いて、何かを言おうと口を開くシャラを、マリアは片手で制した。



「サララも、やりたいのであれば、頑張りなさい」



 呆然と、成り行きを見ていたサララが、ハッと我に返る。次いで、喜びに何度も頷いた。それを見て、さらに笑みを深めたマリアは、堪えきれないと言わんばかりにふふふと笑みを零すと「ただし」と言葉を続けた。



「無事に戻ってくること、絶対に帰ってくるって、約束して頂戴。私の事は考えず、マリー君も、サララも、自分の事だけを考えて……ね?」



 そう告げるマリアに、マリーは任せておけと言わんばかりに、自らの胸を叩いた「シャラも、そういうことでいいわよね?」納得がいかないと唇を尖らしているシャラであったが、マリアから念を押され、渋々と頷いた。






 返済期限まで、残り17日。即席チームが誕生した瞬間であった。


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