第6話 何事も準備は大事




 翌朝、マリーはむくりとベッドから身体を起こした。寝ぼけ眼を擦りながら、欠伸を零す。寝癖一つ無い頭をがりがりと掻くと、白銀色の髪がさらさらと揺れた。



 部屋にある唯一の窓から差し込む朝日の明かりが、目に眩しい。マリーは眩しさに目を細めながら、枕元に置かれた小型照明スタンドのスイッチを切った。ほんの僅かだけ、室内が暗くなった。


 自宅のベッドとは違う感触と部屋の内装に、視線をキョロキョロと彷徨わせる。物が所狭しに置かれているせいで、スペースこそ狭くは感じるものの、部屋の大きさは自室の倍以上はあった。


 けれども、だ。大して物を置いていない殺風景な自室とは違い、物だらけの部屋は古ぼけていて、年月を感じさせる。壁紙や、床に張られたカーペットのどれも、見覚えは無い。



 ……ここはどこだろうか?



 寝ぼけた頭が徐々に動き始め、そう首を傾げるマリーは、数秒ほどしてから「ああ、そういえばサララのところに泊まったんだなあ」と現在の状況を思い出した。

 次いでに言えば、ここは物置部屋なんだよなあ、と。


 昨夜ぶりにその事実を思い出したマリーは、大欠伸を零す。直後、物置部屋なのに自室より広いという事実までも思い出してしまい、軽く項垂れる。


 最初は自宅に帰ろうかと思っていたマリーではあったが『少しでも時間を節約した方が、効率がいいでしょ』というのはマリアの言葉だ。



 その、マリアの部屋に泊まる方向で話が進んでいたのを知ったときは、驚きに言葉が出なかったことも、マリーは思い出した。



 しかも、寝床は床でもなければソファーでもなく、マリアのベッド。つまり、同じベッドで寝泊まりすればいいという話であり、もう色々と大変なことになりかけたのだ。


 空いている部屋は無いのかと尋ねても『全部埋まっている』の一点張り。寝られればどこでもいいと言っても『マリー君をそんな場所で寝泊まりさせるわけにはいかない』という強い反論。


 さすがにそれは色々な意味で危ないと思ったマリーは、折衷案として、物置部屋にて寝泊まりすることとした。ブーイングがマリアとサララの二人からあがったが、マリーは黙殺した。


 とはいえ、物置部屋と言っても元は普通に使っていた部屋らしく、中身はそんなに悪くは無い。荷物があると言っても、元々売れる物は全て処分した後なので、物の絶対数そのものは少ない。


 ベッドシーツを取り替えて、簡単な掃除をすれば、寝床としては十分すぎる。そこに、マリーが自宅から必要なものをある程度持ち込んだところで、特に不便を感じるようなことはなかった。


 ぐう、とマリーの腹が音を立てた。とにもかくにも、腹ごしらえをしなくてはどうしようもない。大きな欠伸を噛み殺しながら、身体に掛かった毛布を捲り上げて……露わになった裸身に、視線を落とした



「……あれ、おれって裸で寝たっけかな?」



 マリーは首を傾げた。元々寝るときは裸と決めているマリーではあるが、さすがに他人の家でそのようなことをするつもりは無い。着替え等は全部自宅から持ってきており、枕元には昨夜用意しておいた着替えがそのままとなっていた。



 ……昨夜の記憶を、振り返ってみる。



 『とりあえず仲直りはしましょうか』というマリアの一言で、シャラともいちおうは仲直りし、その日、たまたま帰って来たラビアン・ローズの住人と挨拶を交わしたのは覚えている。


 マリアの選別を潜り抜けた女性だけあって、文句なしの美女であった。その後食事をして、一番風呂を進めてくるマリアたちに遠慮して最後に入り、早めに布団の中に入ったのも覚えている。



 問題は、その後だ。マリーは記憶の引き出しを漁った。



 確か、そのときは服を着ていたはず……と思うのだが、実際は下着すら身に纏っていない。なんだか妙に身体が重くて、濡れている身体をそこそこにベッドに倒れ込んだ……までは、はっきり覚えているが、どうもその後があやふやだ。



(女に囲まれた環境に気疲れしたのか? それとも、出されたワインのせいか……だとしたら、風邪引かなくて良かった……いくら何でも、風邪引いて行けなくなったとかだったら、目も当てられない)



 自らの軽率な行いに恥じを覚えながらも、マリーはそっとベッドから身体を起こした。枕元に置かれた下着を手に取り、履く。次いで、シャツを着ようと手を伸ばし……ふと、鼻腔をくすぐった臭いに手を止めた。



 汗の臭いとは、少し違う。汗の臭いに近いのだが、どうも違う。



 けれども、どこかで嗅いだことのある臭いだとは分かる。鼻先に二の腕を押し付けて、すんすんと鳴らす。自らの汗の臭い……とは違う、何かの臭いをわずかに感じ取った。



(なんだ、こりゃ? 香水の匂い……では、なさそうだな)



 昨日、マリアたちが見に纏っていた淡い香りとは違うソレに、マリーは首を傾げた。手早く着替えを済ませてから、改めて臭いを確かめる。やはり、気のせいではなかった。


 嫌な臭いというわけではない。されど、良い匂いというわけでもない。出所を探そうと、部屋中にくんくんと鼻先を向ける。その鼻先が、今しがた眠っていたベッドで動きを止めた。



「…………」



 おそるおそる、今しがたまで身に掛けていた毛布を捲り上げる。途端、むせ返るような臭いが立ち上る。軽く手を当てると、ところどころ湿った感触が指先から伝わってくる。毛布全体をくまなく観察したマリーは、捲り上げた毛布を戻した。



(毛布自体は古いやつだし、もしかしなくても原因はこれだな……まあ、売れる物は片っ端から売ったらしいから、予備が無いのは仕方ないとして……しかし、古い毛布ってこんな臭い出すもんなんだな)



 毛布を変えて貰おうかな、とも思ったが、そんなものがあればそっちを出しているだろう。わざわざ古いのを使わせるなどという嫌がらせ……とも考えたが、マリーはすぐさま首を横に振った。


 見た所、古いだけで特に汚れているわけでもないし、カビなどが生えているわけでもない。大方、汗による湿気で臭いが出ているのだろうな、とマリーは結論付けた。



(さすがに、こんな臭いさせて外出るわけにも行かないだろ。朝食の前に、シャワーでも浴びるか……その後は、色々と買い物をしないとな)



 枕元に置いた財布を手に取り、残金を確認する。十分に金銭が入っているのを確認したマリーは、部屋の隅に置かれた大きな鞄に歩み寄ると、着替えを取り出した。財布と着替えを片手に持って、部屋の扉を開ける。



「あっ」

「おっ」



 ばったり。髪にタオルを当てたサララと鉢合わせた。これから風呂に入るので、シャツと短パンという身軽な姿のマリーであったが、サララは薄手のタンクトップと下着一枚という、それ以上に身軽な姿であった。


 タンクトップを優しく押し上げる、両端の膨らみの先端。ぽつん、と存在を主張するそれもそうだが、なにより、すべすべとした肌触りを予想させる、シミ一つ無い太もも。廊下の窓から差し込む朝日に照らされている、桃色下着と褐色肌のコントラストは、非常に目のやりどころに困る光景であった。



(……なんとなく気づいてはいたけど、サララの肌って本当に綺麗なもんだなあ、おい。俺が見てきた女性の中でも、トップクラスに入りそうだ)



 思わず、マリーはサララの全身へ舐める様に視線を上下させる。分かってはいても止められない、悲しい男の性。視線が、浮き出た二つの先端とデルタ地帯に集中してしまう。


 なかなか失礼な反応……というより張り倒されてもおかしくないマリーの対応であったが、サララは気にした様子も無くマリーへ笑顔を向けた。マリーの胸中に、軽い痛みが走った。


 サララは、わずかに寝癖の付いた黒髪を、撫でつける様に掻いた。



「おはよう、マリー。昨日はよく眠れた?」

「え、あ、ああ、眠れたよ」

「それは良かった。朝食なら、もうすぐ出来るらしいから、ゆっくりしていて」



 サララの笑顔が、深まった。毒気も何もない笑みを前に、マリーは気まずそうに頬を掻いた。


 これは、怒ってないと捉えていいのだろうか。それとも、気づいていないと捉えればいいのだろうか……いまいち、マリーには判断が付かなかった。


 とりあえずマリーは、何か言われる前にその場を離れようと会話もそこそこに、サララの横を通り過ぎようとして「んん、待って」とサララに腕を掴まれた。



(やっぱり気を悪くしたか?)



 と、思って振り返ると、目と鼻の先にサララの顔があった。驚きに目を見開くマリーを他所に、サララは形の良い小さな鼻先をマリーの首もとへ近づけた。


 すんすん、すんすん。サララの鼻が、音を立てた。


 臭いを嗅がれているのだということを悟った瞬間、マリーの脳裏に羞恥心が生まれた。静かに距離を離したサララの顔を見た瞬間、それは爆発的に広がった。



「ねえ、昨日、誰か部屋に尋ねてこなかった?」

「…………」



 マリーは、答えられなかった。けれども、なんとかサララの質問に、首を横に振った。マリーの返事に、サララははっきり苦笑すると「今の時間帯はお風呂空いているから、入るなら今の内だよ」とだけをマリーに告げると、さっさと身をひるがえして、廊下の向こうへと歩いて行った。


 ……その後ろ姿を、マリーは黙って見つめる。


 サララの姿が見えなくなったと同時に、マリーは我知らずひそめていた息を、深々と吐いた。今更ながら、心臓が激しく鼓動していることに、マリーは気づく。下腹部から感じる熱に、マリーは思わず腰を引いた。



(ははは……自分で言うのも何だが、元気だな)



 いくら何でもあれだけでと、情けない気持ちになる。幸いにも、気づかれてはいないようではある。もしもバレていたらと思うと……そこまで考えて、マリーは泣きたくなった。



「分かった。あれは怒っているわけでもなけりゃあ、気づいていないわけでもねえ……あれは、俺を男として見ていないだけだ。へへへ……なんか、空しくなるなあ、おい……」


 誰も居ない廊下で、あはは、とマリーは肩を落とした。











「探究者登録は、昨日の内に済ませた」


 そう、サララが興奮気味にマリーに話したのは、朝食を終えてすぐのことであった。目の前のテーブルに置かれたコーヒーを眺めて、予定を考えていたマリーは、サララへと顔を向けた。


 じっくりと、靴下に包まれた両足から、視線を上げていく。初めて見る長ズボン姿に新鮮な気持ちになりながらも、しっかりと確認したマリーは、うん、と頷いた。



「用意が早いな」



 そうマリーが言うと、サララは軽く胸を張った。


 少し襟元が皺になっているシャツの上を纏うプレートと前腕を覆う手甲が、窓から差し込む日差しによって鈍い輝きを見せる。両方とも、プレートの中でも一番軽量で安価な、胸周りだけを覆うタイプのものであった。



「時間が無いから。少しでも時間を節約できるときに節約しないと、後々困るでしょ」



 サララは、右手に持った槍の柄を、どん、と音を立てて誇示する。何だ、と首を傾げながらもマリーは槍に目を向けて……一目で業物であることが分かるそれを見て、なるほど、と思った。


 装飾の施された柄もそうだが、若干、紫掛かった刃先を見れば、それが普通の『鉄製』の槍ではないことが見て取れる。売れば、かなりの大金になりそうだ。



「その槍はどうした?」



 その言葉を待っていましたと言わんばかりに、サララはさらに胸を張った。



「シャラさんから譲ってもらった。怪我する前に使っていたやつで、もう自分には扱えない代物だって……今まで何度か売ろうとしたみたいだけど、その都度マリア姉さんに反対されて、埃被っていたのを私が譲り受けた」



 えっへん、とサララは仁王立ちする。意外と子供っぽいその後方、サララの向こうにいる、シャラの苦笑がマリーの目に止まる。


 その手には、今サララが手にしている者とは雲泥の差がありそうな、普通の鉄槍が握られている.シャラから貰った餞別が、よっぽど嬉しいのだろう……マリーは、そう思った。



「ちょっと後ろ見せて貰えるか?」

「うん、いいよ」



 くるりと、サララはマリーに背中を見せる。上にばかり気を取られて気づかなかったが、長ズボンに包まれた臀部の形が、はっきりと見えていた。



「おい、ワイヤーサポーターは付けていないのか?」

「なにそれ?」



 上半身だけ振り返ったサララが、首を傾げた。


 ……もしやと思ってシャラへと視線を向けると、シャラは両手を合わせているのが見えた。申し訳なさそうに頭を下げているシャラの姿に、マリーはため息を吐いた。



(まあ、売れる物は片っ端から売っているだろうし、サポーターもそうだけど、ワイヤーショーツになると、基本その人に合わせたオーダーメイドだしな。持っていなくても、不思議じゃないか)



 ワイヤーサポーターとは、ショーツなどの下着の上に身に纏う、加工した繊維を材料にして作られる防御服のことだ。


 サポーター自体は様々なタイプがあるので、一概に一括りは出来ないうえに値段によって性能は変わるが、ダンジョン地下を目指すのであれば装備して損は無い防具である。


 ズボン越しでも分かる、サララのむっちりと張り出した臀部の形は実に目の保養だ。サララが軽く身じろぎするたびに形が変わるのが、いい。いや、見えない分、余計にそう感じるのかもしれない。



「……やる気十分の所に悪いけど、今日はそこまで潜らんよ」

「えっ」



 くるりと、サララは振り返った。その顔には、驚愕の二文字が浮かんでいた。大方、今すぐダンジョンに潜っていくつもりであったのだろう。ぷく、とサララの不満げな頬を見て、マリーは苦笑した。



「何の準備も無しに、いきなりそこまで潜るわけがないだろ」

「でも、時間が無い」

「時間が無いからこそ、確実に金を稼ぐ方法を取るべきなのさ」



 唇を尖らすサララの頭を、マリーは叩いた。本当は頭を撫でたいところだが、それをするにはマリー背丈が少しばかり足りないので、諦める。不格好な体勢で撫でるのは、やる方も辛いのだ。


 そんなマリーの他愛無い意地を他所に、サララは不機嫌そうに、ふんすと鼻息を吹いた。納得がいかないのか、何とも粘着質な眼差しをマリーへと向けた。



「それじゃあ、今日は何をする? 特訓でもする?」

「まずは買い物だな。槍は……今回は邪魔だな。プレートは付けたままでいいか。ビッグ・ポケットも必要だから、忘れるなよ」

「えっ?」



 呆気に取られたサララを前にして、マリーは、ぱちん、とウインクした。



 ……。


 ……。


 …………少しばかり、離れた場所。どうするのかと未だに様子を伺っていたシャラの「こいつ、本当に男なのか? 男のフリをした女じゃないのか?」という言葉がマリーの耳に届いていたが、黙殺した。













 ――人、人、人、人の群れ。まるで、渦を巻く熱気が形を持っているかのよう。



 寄せては引いて、引いては寄せてくる人の波から逃れる様に、マリーとサララは流れから飛び出した。はぐれないよう、二人はしっかりと手を繋ぐ。慌ただしく二人は壁に背中を預けると、ふう、と一息ついた。



 『センター』の中にある、探究者御用達の店舗が立ち並ぶ一角。そこに今、マリーたちはいる。



 視線を向ければ、およそ一般家庭では見かけない形状の刃物が、当たり前のように店頭に並んでいる。『岩すら切れます!』と書かれたナイフが立てかけられたケースの前で、店員が声高に商品を宣伝していた。


 その横で、また別の店員が、真新しい鎧を指差して叫んでいる。照明の光を浴びて輝いているそれは、サララが着ているものよりもずっと立派で、値が張りそうだ。店員に呼び止められた人々が、チラリと鎧の傍に置かれた値札を見て、首を振って通り過ぎて行く。ここでは、当たり前の光景であった。


 探究者ならば、一度は行くことになる場所であるセンター……そこに、マリーとサララが到着したのは少し前。目的は、ただ一つ。ダンジョン地下を目指す為に必要な、最低限の装備を購入することであった。


 探究者御用達の店ばかりが並んでいるので、当然ながら、この一角に来る人たちは、必然的に探究者がほとんどを占める。時折女性の姿も確認することが出来るが、どちらかといえば男性の方が多い。それも、比較的屈強な男性ばかりだ。


 そのせいか、いつもこの辺りは妙な暑苦しさというべきか、他の場所には無い、ある種の圧迫感があった。それが、マリーには殊の外堪えてしまう。かつては、平気であった暑苦しさも、小さくなった今の身体には辛いものであった。



(ああ、もう、本当にどうにかならないのか、これ)



 そう吐き捨てたい思いを呑み込みながら、マリーは深々とため息を吐いた。前に己の装備を買う為に来た時にも体感したことだが、何度来ても慣れない。


 経験済みのマリーでさえこうなのだから、こういった場所に不慣れな……というより、初めての経験であるサララは、マリー以上に堪えているようであった。


 もしかしたら、プレートを身に着けることすら初めてなのかもしれない。胸を覆うプレートが思いのほか蒸れるのか、首に掛けたビッグ・ポケットの位置も直しながら、サララは身動ぎしていた。



「相変わらずここは何時来ても混んでいるなあ。ここに毎日やってくるやつの気がしれないぜ。どうだ、サララ? 人の波に酔ったりしてねえか?」



 軽く、マリーは繋いだ手を振る。ぎゅっと、サララはマリーの手を握り返して、動きを止めた。



「……そこらへんは大丈夫だけど、なんだか居るだけで疲れてきそう」



 何だかんだ言いつつもマリーは平気な顔をしているが、サララはことさら疲れ切った顔をしていた。きそう、というのが強がりであるのは、明白であった。



「初めて来るやつは、皆サララと同じ顔しているから、気にするな。俺も平気な顔しているが、正直色々面倒な気持ちになってきているぐらいだ」



 その言葉に、サララはもたれ掛る様にマリーに身体を預ける。プレートの堅い感触が二の腕から伝わって来るが、マリーは何も言わず、されるがままでいた。



「なんでこの一角だけ、こんなに人が多いの? ここに来るまでは、ここまで混んでいなかったのに……」

「ここは一番品ぞろえが良いし、安いからな。多少の混雑を我慢してでも、みんな良い物が欲しいってわけだ。ほらほら、これからが本来の目的なんだ、のんびりしていても、事態は進まないぞ」



 マリーの言うとおり、何時までも疲れた顔のままでいるわけにもいかない。サララは体中に沁みついた疲れを吐き出すような、重苦しくため息を吐くと、顔をあげた。先ほどよりも、いくらか顔色が良くなっていた。



「ありがとう、もう大丈夫」

「なんか飲むか?」

「いらない。それよりも、早く済ませてここを出たい……息が詰まりそう」

「同意見だ。それじゃあまず、必需品となる道具を買いに行こうか」



 そうマリーが言うと、サララと繋がっていた手に、ぎゅっと力が入った。センターに入ってから、長時間手を繋ぎっぱなしにしているので、互いの手は、互いの汗でべとべとであったが……今更の話か。


 マリーの記憶を頼りに、再び二人は人の波に潜り込んだ。途端、むせ返る暑苦しさに辟易しつつも、流れに逆らわないよう気を付けながら歩き続ける。



 ……時間にして、5分少々だろうか。



 ちらりと目当ての看板を見つけたマリーは、サララに向かって「目的地に着いたから、ちょっとむりやり行くぞ」と振り返らずに声を掛ける。


 返事は無かったが、握り返される体温を感じたマリーは「ちょっと通るよ!」と流れを横断した。時折舌打ちと共に罵声を浴びせられるが、二人は構わず突き進み、目的の店の中へ足を踏み入れた。


 そこは、様々な道具が並べられた雑貨屋であった。武器や防具などは取り扱っていないが、ダンジョンに潜る為に必要な道具を専門に販売している店だ。


 入口から向かって右奥に支払所が設置されており、左側には手前から奥に向かって並んだ棚には、様々な道具が並べられ、収められている。店の中には探究者とは別に、一般人らしき人たちの姿も見受けられた。


 他と比べていくらか大きい店舗の広さもそうだが、単純に人口密度が減ったおかげだろうか。店の中にも客は居るものの、先ほどまで感じていた圧迫感が、いくらか和らいでいた。



「――さて、と。それじゃあ、さっそく必要な道具を探そうか。サララ、カゴを取って来てくれ」



 マリーの言葉に頷いたサララが、離れた所に置かれているカゴへ走っていく。さて、何から買おうかと思案を巡らせるマリーは、パタパタと、襟元を開けて空気を入れ替える。


 傍を通った男性の邪な視線がそこへ突き刺さるが、気が緩んでいるのか、マリーが気づく様子はない。それどころか、マリーは首に掛けていたビッグ・ポケットを外し、着ているシャツの裾を捲り上げてしまうと、臍を外気に晒している姿には、奇妙なエロスが見え隠れしていた。



「はあ、蒸し暑かったぜ……」



 突如出現したサービスシーンに、マリーの姿を見とめた男の視線が集中する。裸を見なければ分からないが、マリーは10人中10人が美少女だと判断する見た目だ。


 当然、はた目からは、早々お目に掛かることの無い美少女が無邪気に素肌を晒しているようにしか見えない。そういう趣味が無くても、ついつい見てしまうのは仕方のないことであった。



「……マリー、ちょっとはしたない……てい」

「あいたっ!」



 仕方がないことではあるが、許容するかどうかはまた別の問題。カゴを持って来たサララは、不用心なマリーの後頭部をチョップした。



「いっぱい見られている。もう少し、恥じらいを持つべきだと思う」



 そう忠告しつつ、サララは乱れたマリーの身だしなみを手早く整えた。ボーイッシュな美少女が追加されたことで、さらに周囲の視線が集まる。四方から向けられる視線を察したサララは、頭を押さえているマリーの背中を押した。


 慌てふためくマリーの悲鳴を、サララは黙って無視した。









「それじゃあ、まずはアクア・ボトルを買うぞ。代金は気にしなくていいからな……それでも気になるなら、全部終わってから気にすればいい。必要経費だから、変なところでケチろうなんて思うなよ」



 多種多様のボトルが並んだ棚を前にして、マリーは言った。


 『アクア・ボトル』とは、『魔術文字式』と呼ばれる特殊な技術を使用して製造される道具の1つである。言うなれば体積以上の水を大量に保存できる、魔法の水筒なのである。


 そして、魔術文字式とは、魔法術を文字に置き換えたもののことで、魔法術以上に使用を簡単にし、誰でも使えるように開発された技術である。


 さて、アクアボトルの説明に戻ろう。アクアボトルには、様々なサイズが存在する。


 縦30センチ・横5センチ・奥行5センチの小さなものでも、最大30リットル保存できるボトルなんかも売られており、保存できる量と大きさは、値段によってまちまちである。



 どうしてそんな物が必要になるのかといえば、だ。



 基本的に、ダンジョン内で手に入る可食物がほとんど無いからだ。特に手に入り難いのが、水だ。食料もそうだが、ダンジョンではなにより水を失うのが命取りである。


 比較的浅い階層であれば、まだ我慢(というより、耐えられる)は出来るだろう。だが、限界はある。深い階層を潜ろうとするのであれば、大容量のアクア・ボトルは必須である。


 そんなマリーの説明を傍で頷いていたサララが、あれ、と、思い出したように首を傾げた。



「マリーの持っているアクア・ボトルは使えないの? ほら、昨日持って来た白いやつ……それがあれば、一つ買えば済むんじゃないかな?」



 マリーは首を横に振った。



「あれだけだと、持ち込める量が少なすぎて駄目だ。最低でも、あれの倍を溜めることが出来るものじゃないとな……我慢するとか、アホみたいなことを言うなよ」

「……言わないよ」

「それなら、こっち見ろよ」



 そっぽを向くサララを半眼で睨みつつ、マリーは手早くボトルをカゴに放り込む。ことん、ことん、と、思いのほか軽い音に、サララの視線がカゴに引き寄せられる。



「なんだか重さを感じない」



 そう口にしつつ、サララは何気なくボトルの一本を手に取り「あ、軽い」意外な発見に、驚きの声をあげた。



「感動しているところ悪いけど、それは模型だからな。本物は金を払った後、支払所で交換だよ。といっても、本物も大して重くは無いけどな」

「そうなんだ」



 サララは、左腕に掛けたカゴを揺らす。カラカラと、カゴの中でボトルが転がり合った。



「サララが今持っているやつの倍入るやつで、鳥の羽よりも軽いボトルもあるが、そっちは高すぎて手が出ねえ。悪いが、道具の選別はこっちでやらせてもらうぞ」

「うん、分かった」



 サララは、頷いた。金を払うのはマリーだし、何よりサララは素人だ。経験者であるマリーの意見に逆らうつもりは毛頭なく、サララは初めからマリーに任せるつもりであった。


 ふと、サララは手持無沙汰となっている右手を見つめる。左手はカゴがあるのでしょうがないが、右手が妙に寂しく感じる。先ほどまであった、マリーの体温と汗の感触は、嘘のように冷えて無くなっている。



(槍は、家に置いてきちゃったものね……)



 槍があったならば、まだ気を紛らわせることが出来たのかもしれない。そう思いつつ、マリーに顔を向けて……差し出されていた左手に、目を瞬かせた。思わず、と言った様子で顔をあげると、マリーの横顔がサララの視界に映った。


 ん、と差し出された手を、サララは黙って見つめる。催促するように、ズイッと迫られたので、サララは慌ててその手を握りしめ……握り返されて、身体を硬直させた。



「ほら、行くぞ」



 軽く、引っ張られる。弱くも無く、強くも無い、その力加減に、サララはしばし言葉を無くし……小さな声で「うん」と返事をした。









 次にマリーとサララが立ち止まったのは、様々な食品が並び、無造作に置かれた棚の前であった。


 棚の端と中央付近に立札が設置されており、端の立札には『一般保存食』の文字が。中央の札には『探究者用保存食』という文字が、大きく書かれていた。



 ……どれを買うのだろうか、と。



 いまいち勝手が分からないサララは、首を傾げてマリーを見つめる。そのまま考えれば、探究者用を買うべきなのだろうが……視線に気づいたマリーは、ああ、と頷いて棚を指差した。



「次は食料だな。ダンジョンの中では可食出来るものは無いと思った方がいい。基本的に、食料は全て持ち込みになる。ビッグ・ポケットの中に入れられる量には限りがあるから、持っていく量も考えなければならん」

「沢山種類がある……あれ、こっちのやつは安いね」



 サララの視線が、一般用保存食と書かれた立札の傍にある、干し芋の写真が貼り付けられたカゴで止まった。カゴの中には数十枚程の紙切れが収められており、覗きこんで確認してみる。どうやら、注文用紙であるようであった。


 箱の上部に書かれた説明書きを信じる限り、常温でも保存が可能になっているようだ。写真の横には一食分の枚数が掛かれており、栄養素まで細かく記載されていた。



「これだったら沢山買えるし、値段も安い。マリー、これに」

「しねえよ」



 最後まで、マリーは言わせなかった。あれ、と目を瞬かせているサララにため息を吐くと、マリーはサララに向かって指を一本立てた。



「最初に俺が言ったことを復唱しろ」

「え、あの……」

「復唱」



 困惑に瞬きをしていたサララは、マリーの言葉に俯き……おずおずと「変なところでケチらない」と答えた。


 間違っていえる可能性を思い、おそるおそる顔をあげたサララの目に映ったのは、満足げに頷くマリーの姿であった。サララは、安堵のため息を吐いた。



「干しイモだけ持っていくとか、お前アレか、マゾか、自分を苦しめるのが好きなマゾなのか?」

「で、でも、安いから沢山買えるし、沢山持って行けるよ」

「それだけで行くと、途中で絶対に腹下すぞ、アホ。ダンジョン内に置いて数少ない楽しみを、苦行にしてどうするんだよ。潜っても最長15日しかならないんだから、多少は味を優先しておいた方がいいぞ」



 そう言うと、マリーは干し芋の注文用紙を6枚手に取ると、それをサララが持っているカゴの中に入れた。一枚一食分なので、合計6食分。二人で分けると、せいぜい一日分しか無い量であった。


 こんなに少ないの、と首を傾げているサララを他所に、マリーは手早く棚の前を右に左に動き回り、注文用紙を次々に手に取って、カゴの中へ放っていく。ふと、サララはカゴの中に入った一枚に目を向けた。



「ねえ、マリー。このカロリー・ビスケットっていうのは?」

「探究者御用達のビスケットだ。各種栄養を盛り込んだ特殊なビスケットで、味もまあ、悪くない。おやつ代わりに食べると色々捗るぞ」

「こっちの棚にある、カロリー・スティックと何が違うの?」

「味と触感と値段が多少変わるぐらいだな。個人的にはビスケットの方が美味いから、俺はビスケットにするが、サララはスティックの方が好きか?」

「ううん、私もビスケットにする」

「そうか……よし、食料はこれぐらいでいいだろ」



 数十枚ほどの紙で白くなったカゴを覗きこんだマリーが、そう頷く。せっせとカゴの中に散らばった用紙をまとめ終えたサララが、顔をあげる。マリーが手を差し出すと、サララは迷うことなくその手を握った。



「他にも買うものがあるから、もうちょっと頑張ってくれよ」



 マリーの言葉を聞いて、サララは笑顔で頷いた。



「買い物終わったらダンジョンに軽く潜るから、今の内に覚悟決めておいた方がいいぞ」

「えっ?」



 だが、続けられたその言葉に、ピタリとサララの笑みが凍りついた。

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