第二十九話: 破滅する快楽、支払われる理性
※グロテスク&暴力的なシーン有り、苦手な方は注意
……。
……。
…………とても、静かであった。
……先ほどまであったどよめきが、嘘のように静まり返っていた。
誰も彼もが、俯いている。バルドクも、かぐちも、住人たちも、全員が口を閉じている。誰も、何も言おうとはしない……誰も、前に出ようとする者はいなかった。
「――み、みなさん、どうしたのですか!?」
沈黙に耐えきれなくなった焔が、斑の腕の中で叫んでいた。
「これは私からのお願いでもあります! お願いです、『穏健派』と『急進派』は、前に出てください! 大丈夫、私も先ほど使った薬です! 何ら怪しいものではありません!」
…………。
「バルドク! かぐち! 前に出てきてください! 私を、斑を、安心させてください! どうか……こ、これは命令ですよ!」
……返事を返す者は、いない。
焔の甲高い声が、空しく通路の中を反響していく。そして、焔の何度目かとなる懇願が終わった後……笑い声が、どこからともなく聞こえてきた。
ふふ、ふふふ、ふふ……。
最初は、女の声であった。
くすくす、くすくすくす、くすくす……。
次に聞こえてきたのは、男の声。
うふふ、あはは、あはははは……。
くくく、くふふふ、くくくく……。
そして、ついにバルドクとかぐちが笑い出した辺りで……もう、誰のモノかすら分からなくなった。
噛み殺した笑い声は、徐々に、徐々に、大きくなっていく。最初は耳を澄ませていなければ聞こえていなかった声が、徐々に、徐々に、はっきりしたものへとなっていく。
広がっていく笑い声はまるで病気のように伝染し、一人、また一人、数を増やしていく。そして、5分も経った頃には……バルドクとかぐちを始め、その後ろに立ち尽くしている住人全員が、笑い声をあげていた。
「……おい、おい、まさか……そんな……!」
背筋を走る悪寒に片手剣を構えた無憎は、冷や汗を流しながら『外』を睨みつける。異様な空気が立ち籠る中、おもむろに台から降りたマリーは、サララたちに合わせて構えた。
そして、木霊のように響く笑い声が、喧しいと思えるまでに大きくなったとき……ピタリと、笑い声は止まった。まるで、全員が申し合わせていたかのように、ピタリと彼らは動きを止めた。
……沈黙が、辺りを包んだ。
冷静に、彼らの挙動を見据えるマリーたち。俯いたまま動こうとしない彼ら。そして、信じがたい現実に声も出せない『三貴人』……嫌な風が、流れた。
「……あーあ、なんでこうなっちゃうのかなあ」
ポツリと、呟かれたその声。ピクン、と肩を震わせたマリーたちは……その声の主であるバルドクを、睨みつけた。
「マリーさんが大人しくしていれば、斑様も、焔様も、幸せに生きられたのに……九丈様の下で幸せになれたのに……全部、マリーさんのせいですよ」
それが、全ての答えであった。
「……何を、何を言っているのですか!? バルドク……嘘だと言ってください! あんな薬、あなたたちは知らないはずですよね!? そうなんですよね!? かぐちも、そうですよね!?」
俯いたままのバルドクに、焔は声を張り上げた。今にも零れそうな涙が、目尻に大粒の玉となっている。震える唇が、唾を飛ばしてバルドクを、かぐちを、呼ぶ。
「……やっぱり出まかせなんかじゃなくて、薬の正体、お二人とも知っていたんですか」
「……だったら、もう隠す必要なんて無いですね」
「ひっ――」
しかし、二人には届かなかった。まさしく能面と呼ぶに相応しい、形作られた笑みを浮かべた二人を前に、焔は息を呑む。
その小さな体を包み込む様に抱えた斑は……今までで最も鋭い眼差しをバルドクたちへ向けた。
「お前たち! それがどういう薬なのか、分かっているのか!」
「分かっておりますよ……こんな幸せな気分になれる薬、知らないわけがない……!」
びくん、と、バルドクの身体が痙攣した。それは、一目でまともではないと思い知らされる、異常な動きであった。
ギョッと目を見開く斑を他所に、もう一度身体を痙攣させたバルドクは……締まりのない笑みを浮かべた。
「さあ、お二人とも……こっちに来てください。俺たちは九丈様から受けている使命は、マリーさんたちを始末することだけ。お二人は、無傷のまま連れて帰るように言われておりますので……九丈様が待っております」
「ほら……こっちへ。お二人も、アレを使えばすぐに分かりますよ……あんな素晴らしいことを、今まで隠していてすみませんでした。九丈様より固く禁じられておりまして……ですが、もういいそうです。私たちと一緒に、幸せになりましょう」
「――貴様らは、ずっと俺を騙していたのか!」
勝手な事を言う二人に、無憎が怒りを爆発させた。
真っ赤な顔で獣耳を立たせた無憎は、ズンズンと足音を立てながらマリーの横を通り、サララたちを通り過ぎ、イシュタリアたちの前に出て……ゴーレム越しに、バルドクたちの前に立った。
「答えろ! 貴様らは何時から九丈と……!」
「そんなの、無憎が九丈様と仲良くなるずっと前からに決まっているじゃないか」
「……なぜ、九丈は『強硬派』の俺に近づいた。俺と一緒に行動した方が、何かを成し遂げるのに動きやすかったからか?」
「え、いや、違う、違うぞ。全然違う……もしかして無憎、お前何か勘違いしていないか?」
グイッと、バルドクはゴーレムの隙間に身体を押し込み、顔を無憎に近づけた。
「九丈様もそうだが、俺たちは別に強硬派だとか、急進派だとか、穏健派だとか、そんなのはどうでもいいんだ。今までそれで色々と争ってきたフリはしてきたが、そんなのは正直、どうでもよかった」
「なに!?」
「そりゃあ、確かにお前の名前は役立った。お前の下に就くやつは軒並み腕が立つし、さすがに全面戦争にでもなったら面倒だからな。九丈様も、そこら辺りは助かったと仰っていたぞ」
でもな……そう、言葉が続けられた。
「ソレとは別に、強硬・急進・穏健、この3派の数なんてなあ……初めから、そう大した数じゃなかったんだ」
にやりと、バルドクは笑みを浮かべた。
「正直、笑いを堪えるのが大変だったぞ。九丈様の命令で仕方なく仕えてやっているあの二人が、穏健派だ、急進派だ、そう言って代表面しているのが……滑稽で、滑稽で、もう毎日が大変――」
そこで、バルドクの口上は止まった。なぜならば、咆哮と共に振り下ろされた斬撃が、ゴーレムごとバルドクの身体を切り裂いたからだ。
――パッ、と、砂埃が舞った。
飛び散った鮮血が周囲に花びらを広げ、無憎の身体を真っ赤に染める。焔の甲高い悲鳴が通路に響いてすぐに……切り落とされた首が、どすん、と床を転がった。
「……俺も人のことを言えた義理ではないが」
サラサラと崩れ果てていくゴーレムに、剣から振り払われた血が吸い込まれていく。「おお……ゴーレムごと一刀両断とは、やるもんじゃな」と感心の声を背中に浴びながら、無憎は……物となったバルドクの首を、睨みつけた。
「貴様のようなやつを、友と思っていた日々を恥じ入るばかりだ……馬鹿野郎」
地下街一の猛者と呼ばれた男の、全力の一刀。
その威力は土人形程度で止められるわけがない。そして、薬によって全盛期の肉体を維持したその身から放たれる威圧感は、言葉無くとも他を圧倒させるモノがあった。
しかし――。
「これだから年寄りは嫌なんだよ。ちょっと挑発しただけで、すぐコレだ」
今しがた落としたはずの首が、目を開けて喋り出す。そんな現実を前に、歴戦の猛者としての、武人としての威圧感など、何の意味もなかった。
「――なにっ!?」
さしものの猛者も、驚きにたたらを踏んで飛び退く。首を落とした相手から話しかけられるなんて、そんな、ありえない。
驚愕に目を見開く無憎たちをしり目に、首から上を失った胴体が、転がっている頭へと手を伸ばす。血の気が無くなった顔はいとも容易く掴みあげられ……げらげらげら、と笑っていた。
「き、貴様、首を落とされても……!」
「残念だなあーぜんぜーん痛くないんだー」
ふざけた態度でそう言うと、バルドクはおもむろに首を持ち上げると、ぐちゃりと、切断面をくっ付けた。
そして、そのまま角度を合わせるかのように左右に位置を合わせ……手を離した時には、すっかり繋がっていた。
……もはや、無憎は言葉が出なかった。
今、目の前にいる存在は本当に自分が見知っていた相手なのか……それすらも信じられなくなりそうな現実を前に、無憎はこみ上げる恐怖を前に、剣を向けることしか出来ない。
けれども、バルドクたちは別だった。
「九丈様から頂いた薬のおかげでな……むしろ、気持ちいいんだ。物凄く気持ちいいんだ……首を切り落とされる快感って、すげえなあ」
涎を垂らして恍惚の笑みを浮かべるバルドクに、思わず無憎たちは一歩退く。だが、バルドクの隣に立っていたかぐちは違った。
「本当? そんなに凄いものなの?」
まるで、目の前で宝石を見せられたかのように、その瞳を輝かせていた。
「ああ、凄いなんてもんじゃねえ……首から直接快感が頭に響くっていうのかなあ。身体が繋がっていたら、下を汚しているところだったぞ」
「ええ、そんなに……いいなあ」
バルドクの袖を、かぐちが羨ましそうに引っ張る。その姿はまるで恋人同士と言ってもいいぐらいに親密なのに……無憎たちは誰一人、その姿をそう捉えなかった。
「……貴様らは、『化け物』になってしまったようだな」
「ん~、いや、それは少し違うぞ」
自然と無増の口から飛び出したその言葉に、バルドクは笑顔で首を横に振った。
「今から、『化け物』になるんだ……おおおっ?」
瞬間、バルドクの身体が一気に膨れた……ただ膨れたわけではない。肉体を内側から押し上げたのは、他でもない。外からでも確認出来るぐらいに蠕動を起こしている、筋肉の塊であった。
絶句してさらに飛び退いた無憎の前で、変化が始まった。
ボコボコと、バルドクの皮膚が盛り上がっては引っ込む。まるで全身の血液が沸騰を起こしたかのように脈動を繰り返すバルドクの身体が、一回り大きくなる。
急激な変化に全身の骨が砕けて変形し、筋肉は断裂して隆起を繰り返し、膨張に耐えきれずに裂けた断面から、また新たな皮膚が形成される。
全身の至る所に出来た裂傷から、夥しい量の鮮血を垂れ流しながら、バルドクが最初にあげた声は。
「ぎ、ぎもぢいいいいいい!!!」
恐ろしいことに、快楽の雄叫びであった。もはや元の面影が無くなった顔に浮かぶのは……押し寄せる快感に歪む、化け物の顔であった。
「すげええぎもぢいいいぞおおおぉぉぉぉ……なんでがいがんなんだぁぁぁぁぁぁ……」
「そ、そんなに凄いの?」
徐々に『大男』へと成っていくバルドクに、かぐちは頬を真っ赤にする。モジモジと何かを我慢するかのように太ももを擦り合わせている彼女に耳に、「すげええぇぇぇぇ……ごんなにぎもぢいいなら、もうもどれなぐでもじあわぜだぁぁぁぁ……」亜人ですら無くなっていくバルドクの声が届く。
「そ、そんなに……そんなに凄いの……!」
息を荒げ、衝動の赴くままに己の胸を揉みしだくその姿は、明らかに性的な興奮を覚えていた。
その瞳が、うっとりと官能の色に染まりかけた時……かぐちの後ろに居た亜人の男の身体が、一回り膨張した。
「うぁぁぁあああああ、すげえぇぇぇぇ!!!! これすげぇぇぇよぉぉぉぉ!!!」
バルドクと同じように肉体を変質させていく男の嬌声が、辺りに響き渡る。
よほど強い快感が押し寄せているのか、はだけて露わになった股間から大量の白濁液を垂れ流しながら、変形した顔で咽び泣き始めた。
……そして、一人が暴発すれば、もう、手遅れであった。
「――お、俺ももう我慢出来ねえ……ぐぉぉ!?」
「わ、私も……ぁぁぁあああ、なにこれぇぇぇぇ!!」
「なんて、なんて快感なんだぁぁぁぁ!!!」
「く、くるしぃぃぃ、も、もっとだぁぁぁぁ……」
次々に、住人たちの姿が変わり始めた。皺が目立つ亜人も、角を生やした亜人も、足が四本の亜人も、みんな、みんな、みんな、人ならざる者へと成り果てていく。
おぞましい、心からおぞましいと言える光景であった。
もはや、彼ら、彼女らは、亜人ですらない。正真正銘の、『化け物』へと成ろうとしている。その身を襲う快楽を求めて、もう二度と元には戻れないと分かっていても……彼ら、彼女らは、躊躇することはない。
「――かぐちぃぃぃ!!」
そして、ついに残された亜人が、かぐちただ一人になった時、焔は叫んでいた。
涙と嗚咽でべとべとになった顔を拭おうともせずに、焔は斑の腕を飛び出して、かぐちの名前を叫んでいた。
「かぐち! 止めなさい!」
「はあ、はあ、はあ……焔、様……」
胸を覆っていた胸布は取り払われ、濡れた恥草や亀裂を必死に摩っている。背筋を走る快感に瞳を蕩かせていたかぐちの視線が……焔の方を向いた。
「止めなさい、コレは命令です! 私の最後の命令です!」
「……残念です。もう、コレは止められません。こうしている今も、私の中でどんどん欲望が膨れ上がって来ているのです」
「それでも! それでも止めなさい!」
「無理を言わないでください……ぁああっ!?」
瞬間、かぐちの肌に血管の線が走った。脈動する血液の循環が、外からでもはっきり分かるぐらいに盛り上がっている。「……ぁぁぁ」それが、堪らないのだろう……かぐちの唇から、一筋の涎が伝って流れ――。
「――お姉ちゃん」
「――か、かぐちゃん!?」
その瞳に理性が戻り、焔の目に希望が一瞬だけ戻った瞬間――
「――バイバイ」
ぐるりと瞳が反転した直後、かぐちの身体は筋肉の塊へと姿を変えた。その中から聞こえてくる、快楽の呻き声を確かに聞いた焔は――。
「……ぁぁぁ」
――その瞬間、これ以上ないぐらいに大きく見開かれた瞳から、大粒の涙がいくつも零れた。
同時に、老体である斑が焔の身体を後ろから抱え上げると、一気に走り出して、一番後ろへと駆け戻った。その後ろを護衛するように、マリーとドラコも下がった。
遅れて最後に、イシュタリアとナタリアが後方へと下がる。新たなゴーレムを生み出して『内』と『外』の境界を分厚くしながら、素早く中央へ……マリーの傍へと駆け戻った。
「いちおう聞いておくが、無事だな?」
マリーの問いかけに、サララたちは力強く頷いた。
「当然じゃろう……しかし、これはまたとんでもないことになったのじゃ」
「俺もさすがにコレは予想外だった……ちくしょう、逃げ場がねえぞ」
集まった全員の顔を見回し、マリーは唸り声を上げる。戦力が圧倒的に足りない状況に、地団太を踏みたくなった。
涙を流して呻いている焔と、それを宥めている斑は戦闘員ではないので除外する。
つまり、戦力は、マリー、サララ、イシュタリア、ドラコ、ナタリア、無憎、源、テトラの8名であり、マリーは万全とは言い難い状態だから、実質7名半といったところだろうか。
「おい、イシュタリア。お前のあの凍らせる魔法術で、一度にどれぐらいのアレを倒せる?」
チラリと、『大男』へと姿を変えて行く彼ら、彼女らを見やったイシュタリアは、厳しい眼差しで首を横に振った。
「まともに直撃すれば十数体ぐらいなら一瞬じゃな。ただし、球数は一発限りで、当たる角度によっては2、3体しか仕留められないかもしれぬ」
「サララ、ナタリア、ドラコ」
3人の名前を呼べば、3人はしばし考えを巡らせた後……一様に首を横に振った。
「実際に戦って見ないと分からないけど、おそらく仕留められるのは最初の1体が限界。その後は致命傷を与えるのは難しい」
「私の息吹でも、即死させるのは厳しいと思うわ。足止めぐらいには出来るかもしれないけど……」
「……残念だが、私の力でもやつを一撃では殺せぬ。しかも今回は乱戦……まず殺しきれないだろう」
――やはり、か。
舌打ちしそうになったマリーは、寸でのところで頭を振って堪える。そして、隣にて短剣を構える源と、その腰に抱き着いているテトラを見やり……源の方から、静かに首を横に振られた。
予想はしていたが、やはりそこまで大そうな装備はされていないようだ。仕方がないことだ、と軽く慰めを入れてから……マリーは、最後の戦力である無憎を見上げた。
「お前さんは、どこまでいける?」
「この命、尽きるその時まで戦い続けるつもりだ……だが、断言しよう。アレは、俺よりも強い……おそらく、俺はアレを一人仕留める前に殺されるだろう」
冷や汗を流しながら、黙って『大男』へと姿を変えて行く元仲間たちを見つめていた無増は、ゴクリと唾を呑み込む。
そのまま、しばし何かを考える様に視線を彷徨わせた後……マリーへと視線を移した。
「お前たちは逃げろ」
それは、突然の提案であった。
「は?」
「逃げるんだ。元々お前たちは騙されてここに来たんだ。逃げて当たり前……いや、逃げるべきなんだ」
「逃げるったって、どこへ逃げろっていうんだ。後ろは壁で、前はあいつらが今にも飛び掛ってきそうなんだぞ」
「俺が少しでも時間を稼ぐ。だから、お前たちは少しでも逃げるんだ!」
片手剣が、壁を指し示す。無憎の言わんとしていることを察したマリーは、深々とため息を吐いた。
話を聞いていたサララたちも呆れ、テトラに至っては「――死ぬために後退するのと、実質同じ事です」とはっきり否定された。
だが、実際の所それしか方法は無いのかもしれない。後数分と経たない内に彼ら、彼女らは『大男』へと姿を変えて、こちらになだれ込んでくるだろう。
そうなれば、ゴーレムの壁なんぞ何の役にも立ちはしない。瞬く間に破壊されて、ここは戦場になるだろう。しかも、1体がこちらの一人分に相当するというのに、相手の方がずっと数は多い。
見えているだけが敵戦力の全てではないだろうが、バルドクとかぐちの証言から推測する限りでは……おそらく、『地下街』の至る所に『大男』を既に配備しているのかもしれない。
もし、そうであるならば……逃げ道は、後ろの土砂を突き進むしか方法は無い。可能性は限りなく……本当にこれ以上無いぐらいに小さな可能性だが、それしかないのかもしれない。
「マリーさん」
呼ばれて、振り返る。悲壮な決意に満ちた斑と、目が合った。
「九丈はワシと焔を殺さずに何かをするつもりです。ならば、ワシがこの命と引き換えにしても九丈に――」
「殺さないようにする理由があるのかも分からんが、無駄だろう。ここまで大掛かりなことをしたんだ……本命は俺の命だろうな」
ギリギリと、噛み締めた奥歯が軋んだ
「後ろに逃げるのは無理だ……突破するしかない」
それが、マリーの選択であった。「掘っている途中で追いつかれたら、確実に生き埋めになる」逃げるという選択肢など、初めから選べるわけが無かった。
ギュッと、マリーはサックを握り締める。一肌に暖められたはずのそれが、ひんやりと冷たい。怯えているのだと、マリーは自覚する。こんなに絶望的な状況になったのは、閉じ込められた時以来だろうか。
(どうせ死ぬならベッドの上が良かったぜ)
思わずマリーは苦笑をして顔をあげ……目を瞬かせた。
そこに有ったのは、サララたちの……女たちの、力強い眼差しであった。誰も彼もが死を覚悟しているというのに、何一つ悲観の色は見られない。イシュタリアですら、覚悟を決めた目をしていた。
「……お前ら、怖くは無いのか?」
怖いに決まっている。
そう彼女たちは口を揃えた。けれども、それ以上は何も言わなかった。この仕事を受けることに決めたマリーを責める言葉も、何一つ無かった。
「……俺と一緒に、最後まで諦めないで来られるか?」
死ぬときは、一緒。
そう口を揃えた彼女たちに、マリーは固く目を瞑った後……目じりを擦ってから、『地下街』の住人である3人を見やる。もう、焔は涙を止められるまでには平静になっていた。
「ここ以外にどこか出口へと繋がる場所を知っているか?」
「……いや、ここ以外には何も……」
「何でもいい。お前らがまだ行ったことがない場所でも、禁忌として近寄らなくなった場所でも、どこでもいい。どこか、ないのか?」
再度尋ねられて、3人は思い思いに首を傾げた。思考を巡らせ、記憶の彼方のそのまた先まで探り続け……「あっ」と声を上げたのは、焔であった。
「一つだけありました。『清められし祭壇』と呼ばれる場所の先に有る、階段の向こうです」
「『祭壇』!? あそこに人間を連れて……いや、この際仕方がない」
ギョッと目を見開いた無憎が、思わず声を荒げる。だが、すぐに事態の深刻さを思い出すと、苦虫を噛み締めたかのように表情を歪ませる。
それを納得したと判断した焔は、「――『祭壇』とはですね」そのまま話を続けた。
「かつてここを作った『女神』が用意した物と言い伝えられています。そこから続く地下へと続く階段の先は『この先には死が待ち受けている』と言い伝えられており、未だ誰も真実を確かめたことがない場所です」
「その『祭壇』の場所は?」
「……本当に、行くつもりなのですか? 行き止まりの可能性だってあるんですよ」
「行かなければ、俺たちは全員ここで殺される。行き止まりだったとしても、まだ諦めるわけにはいかねえのさ」
ごくりと、焔は唾を呑み込んだ。しかし、躊躇は一瞬であった。
「……マリーさんたちが泊まっていた屋敷の、地下にある階段を下りた先。そこにある洞窟を進んだ向こうにある、『祭壇』の奥にある階段を下りた先です」
「よし! お前ら、今の聞いたな!」
顔をあげたマリーが、サララたちの顔を見まわした。全員がしっかりと頷くのを確認したマリーは、大きく息を吸い込み……ふと、隣に佇む源を見やった。
「ん、なんだ?」
「……いや、なに。あんたもこんなことに巻き込まれるなんて、運が悪いやつだなあ……って思っていただけだ」
そう言われた源は、キョトンとした様子で目を瞬かせた後……ははは、と笑みを浮かべた。
監視員としての笑顔ではない、初めて見る、源の心からの笑顔であった。
それを見て、マリーも思わず笑みを零す。数秒ほど、マリーと源は互いに笑みを交わした後……ふと、真面目な顔になった。
「マリー君。今だからこそ言うけど、最初の頃、僕は君のことを正直……」
「おっと、それ以上はお互い様だぜ」
軽やかに、マリーはウインクをした。こんな状況にも関わらず、見る者の心を軽くさせる……太陽のような輝きがあった。
呆気にとられている源をしり目に、マリーは改めて全員を見回した。
「作戦は簡単だ。変身した俺が正面突破をするから、お前たちは俺の後ろに付いて来い。斑は無憎が背負って、焔はドラコが背負え」
「――いえ、私たちはこのまま捨て置いてください! 邪魔になるだけです」
焔が、マリーに懇願した。
「馬鹿を言え。さっきも言ったが、九丈にはお前らを殺さない理由がある。言い換えれば、お前ら二人が手元に来ないということが、九丈にとっては何かしらの痛手となるかもしれないんだぜ」
だが、マリーは取り合わない。ビッグ・ポケットから取り出したロープを無憎とドラコに手渡した。二人を途中で落とさない為の、万が一だ。
「それが分かっている以上、みすみす二人を捨て置いては行けないのさ。お前らがどう思ったとしてもな」
「し、しかし……」
「うるさいよ」
それ以上、マリーは取り合わなかった。サララたちも、取り合おうとはしなかった。「無理に戦おうとするな、飛び掛って来たやつは受け流して、攻撃する際は足を狙え」それ以上、マリーは問答をする余裕が無かったからだ。
「……マリー、またあの姿になるの?」
心から心配そうに瞳を伏せるサララへ、マリーは無言のままにビッグ・ポケットとサックを手渡す。同じように瞳を伏せるイシュタリアたちに、マリーは「大丈夫、また倒れるようなことはないさ」と満面の笑みを浮かべる。そして、サララたちから少し距離を置くと……大きく息を吸って、吐いた。
――途端、カッとマリーの身体が光を放った。
放たれた力が白い霧を生み出し、瞬く間にマリーの身体を覆い隠していく。むわっ、と立ちのぼる熱気がサララたちの頬をくすぐり、膨大としか言いようがない魔力が霧の中で凝縮されていく。
時間にして、数秒程ぐらいだろうか。立ち籠る白い霧が一回り以上大きくなった直後、中から飛び出した白い腕が霧を振り払う。
姿を見せた絶世の美しさ……男でなくとも一目で心を奪われる美女へと姿を変えたマリーは、大きく息を吐いた。
「――さて、と」
サララから受け取った一式を、少々の窮屈さを覚えながらも取り付ける。
衣服や靴は魔力でサイズをある程度合わせられるから良いとして、武器もこの姿用に用意しておかないと駄目かなあ……そんなことを冷静な部分で考えながら、マリーは顔をあげた。
身体が、軽い。どこまでも飛んで行けそうなぐらいに心が落ち着いている。変態を終えようとしている『大男』たちがこちらを見ているというのに……死の恐怖は微塵も無い。
もしかしたら、あいつらもこういう気持ちになっているのだろうか。
なんとなく、マリーは『大男』たちを見て考える……けれども、考えるだけであった。
「用意は終わったかい?」
先頭へと歩み出ながら、一人ずつ目を合わせながら確認していく。無憎に背負われた斑と、ドラコに抱き抱えられた焔は万が一離れないように縛られて固定され、何時でも行けるようになっていた。
「――行くぞ」
そう、マリーが宣言したと同時に。
ゴーレムを蹴散らして突入してきた『大男』たち。
もはや男でも女でも無い個体となった化け物を前に。
マリーは――。
「死にたくないやつは退きやがれ!」
迫り来る化け物へと、走り出した!
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