最終話: 探究大都市のマリー




 『東京』の街並みを、高々と照らしている太陽。青々と冴えわたった空から降り注ぐ光の下に広がる、作物が実る畑。


 その、青空以上に青々と繁茂する草木の中から……つばの広い帽子を被った女が、片手にザルを抱えたまま、にゅい、と姿を見せた。



 女は、客観的に見ても美しかった。



 お世辞にもお洒落とは言い難い長袖と長ズボンに長靴という出で立ちながら、一目で美人だと分かるぐらいの美貌であり、野暮な恰好では隠しきれない。草木に囲まれた畑よりも、光輝く世界の方にこそ相応しい。


 はた目から見れば、誰しもがそう考えるであろう美貌の女だ。


 ある種の強烈な違和感を自らが放っていることに気づきもせず、またその場に腰を下ろして、青い瞳を程よく太った作物へと向けていた……と。


 その背中に近づく三つ編みの女が一つ。名は、エイミーと言う。


 腰を下ろしている女と似たような恰好のエイミーは、遠目からでも大きいのが分かる胸の膨らみと、それ以上に大きく張り出した腹を揺らしながら、のしのしと畑の中を進んでいく。


 その温和な顔には、珍しく怒りの色が滲んでいる。


 それもそのはずで、エイミーと彼女は昼食に使う食材を取りに来たのである。なのに、その食材を取らずに延々と実った作物と睨めっこをしていたら……エイミーでなくても怒るだろう。


 雑草処理も兼ねているので最初は様子見していたエイミーだが、何時まで経ってもその場から動こうとしない彼女に痺れを切らしたわけである。


 さすがに、これ以上は昼食の準備に支障が出ると判断したのもあって、その歩調は些か荒くなっていた。



「――何時まで悩んでいるのよ、マリア」



 ついでに、口調も少し荒くなっていて、腰を下ろしている女……マリアに、エイミーは幾らか苛立ちを込めて声を掛けた。



「いいかげんにしないと、シャラたちも怒り出すわよ」

「ん~、分かってはいるんだけどねえ~」



 当然と言えば当然なエイミーの怒りに、「甲乙つけがたいというか……」マリアは振り返ることなく唸り声をあげた。マリアの視線の先にあるのは辺りに実っている中でもひと際大きいナスであった。



「私の前には二つあって、どちらも同じぐらいで、どちらも同じぐらいに美味しそうなのよ。どっちがいいかなあって考えると……ねえ?」



 そう言って再び唸り声を上げるマリアに……エイミーは、呆れたと言わんばかりにため息を零した。



「ねえ、じゃないわよ。そんなのあの子たちに違いなんて分かるわけないでしょ。質より量、味より量よ」

「いやあ、でもさ、もうすぐ生まれるんだし、ちょっとでも良い方を食べて貰いたいじゃない……ていうか、妊婦なんだからこんなところに来ちゃ駄目でしょ。転んだらどうするつもりよ」

「それぐらい大丈夫よ。それに、少しぐらい動いていないと逆に辛いのよ……前にも話したはずよ」

「分かってはいるけど……決めた、こっちにしよう」



 そう言うとマリアは一つをあっさり切り落とした。


 その顔には全く悪びれた様子はなく、むしろ誇らし気なのを見て、「あなた、ねえ……」エイミーは怒りも忘れて苦笑すると、そっと命が宿っている自らの腹を摩った。



 ――もうすぐ、エイミーから赤子が生まれる。



 それはマリアの言うとおりだが、医者の見立てではまだ少し先の事だ。


 サララの時のようにきっかり十か月で生まれるようなことはないだろうし、今日にでも生まれないとは言えないことだが、気負い過ぎかな、というのがエイミーの率直な気持ちであった。


 というのも、マリアのこのお節介は今に始まったことではないのだ。


 サララの時もそうだが、とにかくこういう時のマリアは人の話を聞かないし、普段以上に心配性だ。


 ラビアン・ローズに住む皆の内、妊娠が発覚した者はすべからくマリアのお節介の餌食になっているのだから、その強引さはエイミーも身に沁みて理解していた……なにせ。



「……気持ちはありがたいけど、まだ生まれてもいないの。ていうか、あなた顔を会わせる度にそれするの止めてちょうだい、くすぐったいのよ」

「いいじゃない、ちゃーんと元気に育っているのか気になるんだもの。サララの時は皆もこうしていたでしょ?」

「あの時とコレとでは状況が違うでしょ、お馬鹿」



 大きくせり出した腹に耳を当てているマリアの頭を、軽く叩く。


 現在進行形でそれに近いことをされている身として、エイミーはもう嫌がる気力もなく苦笑する以外なかった……と。



「――マリアおばちゃん! エイミーおばちゃん!」



 不意に名を呼ばれた二人は、その声に顔を上げて辺りを見回す。


 館の正面入り口、僅かに開かれた扉の隙間から抜き出るようにして飛び出した三つの影を見付けた二人は、駆け寄って来る小さなその姿に思わず破顔した。


 それは、何とも対照的な小さな男の子と女の子と、そして、その二人よりも頭一つ分は小さい男の子。マリアとエイミーの名前を呼んだであろう男女は、小さな手足を振り回して駆け寄って来た。



 男の子の方は、褐色の肌に黒い髪と黒い瞳。


 女の子の方は、真っ白な肌に銀白色の髪と赤い瞳。



 まるで表と裏、正反対なイメージをそのまま振り分けたかのような二人は、覚束ない足取りの幼児をはるか後方に置き去りにすると、マリアたちの前で勢いよく立ち止まった。



「薪の片付け、終わった。後、部屋のお掃除も」

「……が、頑張った! 私、超頑張った!」

「まあ、出来たの? ちゃんとお仕事出来たのは偉いわね、アルフ、メネイ」



 先に話し出したのは、アルフと呼ばれた男の子の方であった。


 小さくとも体力はあるようで、メネイと呼ばれた女の子の方は軽く息切れしているのに平然としている。


 ああ、これは母親譲りだな……と。


 変なところで納得(ちなみに、これで341回目である)しつつ、マリアは笑みを浮かべて二人に視線を合わせた。



「でも、走って来てどうしたの? 今夜のお楽しみの準備はまだのはずでしょ?」

「ああ、それは僕じゃなくて、メネイが……」



 ちらり、とアルフが双子の妹を指差す。


 それでだいたいを察したマリアは、「メネイ、いったいどうしたの?」未だ息を整え切れていないメネイへ向き直ると、それを待っていたかのようにメネイが満面の笑みで胸を反らした。



「そんなの決まっているじゃないの! 今日は、ドラコ姉ちゃんと母さんが早めに帰ってくる日でしょ!」

「そうだけど……まさか、あなた……」

「へっへーん、今度こそ負けないもんね!」

「……その諦めの悪さと負けん気は、果たしてどちらに似たのかしらね」



 何故か勝ち誇った顔で胸を張るメネイの姿に、マリアとエイミーは堪らず苦笑する。



 ……負けない、とはどういうことかというと、一言でいえば組手の勝負である。



 前にお願いして組手をしてもらったときに手も足も出せずに負けたのが、よほど悔しかったのだろう。その時からメネイは三日に一度はこうやって再戦を申し込むのである。


 相手はドラコであったりイアリスであったり母親であったりその時々によって違うが……今のメネイは6歳。対して、相手はそのどれもが一流の戦士である。


 ……メネイに、母親譲りの天賦の才……それを幾らか受け継いでいるのは確かだ。鍛えれば良い所にまで行けると、一流の戦士たちの誰もが認めている。


 しかし、天賦に恵まれたとしても、今はまだ6歳の子供だ。勝ち目など無いに等しいどころか無茶苦茶な話なのだが、メネイは何故か勝てるつもりでいるようだった……と。



「――あら、そういえば槍はどうしたの? アレがないと組手なんて出来ないでしょ」



 今更ながら、メネイが丸腰であることにマリアが気づく。


 その後ろで、とてとてと危なっかしい走り方で、アルフとメネイに送れてようやく到着した男の子を「あら、言われてみればそうね」抱き上げながら、エイミーも首を傾げた。


 ……なのだが。


 どうしてか、気まずそうにそっぽを向いているアルフを見て、しばし目を不思議そうに眼を瞬かせていた二人は……まさか、とメネイを見やった。



「素手でやるつもりだったの!?」

「槍なんていらない! この両手があればいいの!」

「そんなの勝てるわけないでしょ、槍があっても一度も勝ててないのに……」

「今日の私は調子がいいの! いけるいける、やればいける!」



 呆れた、と言わんばかりに言葉を失くすマリアとエイミーをしり目に、メネイはふんふん、と小さな腕を振るった。


 加えて素早くその場にステップを踏むが……はた目から見れば、それはへんてこな踊りを踊っているようにしか見えなかった。



 ……重心を絶えず移動させつつ、あらゆる状況に応じて素早く飛ぶことを可能にする技。



 それを今、メネイは実際にやっているのだろうが……何度見ても、子供がちょこちょこと手足をばたつかせているようにしか見えない。


 何とも可愛らしい動きに、マリアとエイミーは噴き出そうになる笑みを堪えつつ、微笑む。


 ……我慢するのは、下手に笑い声でもあげようものなら臍をまげてしまうのが分かっているからだ。


 以前、似たようなことで臍を曲げた時は、母親が戻って来るまで機嫌が直らなかったこともあり、こういう時のメネイを笑ってはいけないというのが館の中での鉄則であった。


 まあ、シャラから基礎を、母親から指導を受けているとはいえ、まだメネイは6歳。何度も言うが、まだ6歳だ。


 その年で歩術を覚えろというのに無理があるのだが、少々意固地になっている部分もあるのだろう。チラリと、マリアは心配そうに眉根に皺を寄せているアルフを見やった。


 ……メネイがどこか意固地になっているのは、双子の兄であるアルフの存在が大きい。


 というのも、頭の出来は今の所同じくらいだが、運動能力という点から見ればメネイは何一つアルフに勝てていないのだ。



 ――つまり、母親の天賦を色濃く受け継いでいるのはメネイではなく、アルフの方なのだ。



 実際……アルフは、メネイにはまだ出来ない歩術を、チグハグとはいえ出来ているのだ。大人であるマリアから見ればそんなことでしかないことでも、子供であるメネイにとっては重要なことなのだろう。


 幼いながらも悔しいと感じているようで、こういう時だけはアルフのいう事を良く聞くメネイも、全く耳を傾けなくなるぐらいに聞き分けが悪くなる。



(アルフは母親似で、メネイは父親似なのでしょうね……メネイは魔力が凄いって話だし……まだ、それを言うつもりはないけど)



 毎度毎度、母親から、ドラコから、イアリスから、あっさり捻られて大泣きしても翌日には復活して再戦だと騒ぐ根性がある子である。


 自分にその力があると分かれば、絶対に今以上に調子づいて、教えろと騒ぎ出す。しかも、わけの分からない自信と共に。


 その光景をありありと思い浮かべたマリアとエイミーは、はてさてどうしたものかと頭を悩ませる。


 下手に誤魔化しても面倒なことになるから、正直母親を召喚するべきかと二人は考えている……と。



「――宴会はまだのはずだが、随分と騒がしいな」



 不意に、背後から掛けられた声に、マリアとエイミーは振り返った。遅れてそちらに目をやった子供二人は……特にメネイはその姿に目を止めた瞬間に歓声をあげる。


 そのまま飛び掛かろうとしたメネイを寸でのところで押さえたアルフを他所に、マリアは手早く泥を払って……ドラコへと駆け寄った。



「思っていたよりもずいぶんと早いわね。確か孤児院に寄った後に戻るから、御昼過ぎぐらいになるって聞いていたけど?」

「私もそのつもりだったのだが、今日はこいつを捕らえてな……調理に時間が掛かるらしいから、速めに戻って来たんだ」



 遠目からでも分かる角と、美しい顔立ち。首から下をすっぽりローブで覆ったドラコは、背中に背負った袋をマリアに見せる。



「開けるわよ?」



 ドラコが首を縦に振ったのを確認してから、マリアはそっと袋を開けて……「まあ、これって!」思わず歓声をあげた。


 袋の中にあったのは、布で包まれた塊であった。


 しかし、布越しでも分かる赤みと立ち籠る独特の臭い、そして、くるまった塊の形状を見て、それが鳥の肉ではないことが一目で分かった。



「『牙ブタ』かしら?」

「『タラウン・モフ』という名前らしい」

「まあ、高級食材じゃないの。よく片腕でそんな大物を仕留められたわね」



 想定していたモノよりも数十倍は価値のある代物だったことに、マリアは驚きに手を叩いた。


 『タラウン・モフ』は、高級食用肉とされている『ラドム』よりもはるかに高級品であり、滅多なことでは手に入らない希少な肉である。


 市場に売れば、それだけでひと月ぐらいはのんびり遊んで暮らせるだけの大金になる獲物である。


 普通ならギルドが全て買い取ろうと動くはずなのだが……そう思っていると、静かに……ドラコは目を細めた。



「今日は、あいつらの誕生日だ。せっかくの祝いの席に、少しでも良いものを持っていこうと考えても不思議ではあるまい」



 揉みくちゃになっているアルフとメネイの二人を見やりながら、ドラコはそう呟く。


 それを見て、マリアはしばしの間、ドラコを見つめた後……「ええ、そうよね」ドラコ以上に優しい瞳で、喧嘩に発展している二人を見つめると。



「サララも……今日は早めに帰ってくるって話よ」



 ポツリと、二人の母親の名を呟いたのであった。








 ……。


 ……。


 …………千人単位での死者を出し、『東京』の街並みを破壊し尽くした『生物兵器』の襲来から、早7年。



 それは、『災害獣』と名付けられた亡骸の解体と、各施設の復旧や住居の再建にひとまずの目処が立つまで掛かった年月であった。


 倒壊して跡形もなくなった瓦礫も、7年の間にすっかり撤去された。


 死体と土砂で埋め尽くされた街路地も整備され、懸念されていた伝染病が発症することもなく、『東京』の街並みは以前まではいかなくとも、かつての賑わいを想像させるぐらいにまでは復興していた。



 ――しかし、だ。



 まだまだ傷が癒えたとは言い難いのが実情であり、その証左となっているのが、以前以上に『東京』の街中の至るところで見掛けるようになった、厳つい武装をしている人たち。


 いわゆる、『探究者』と呼ばれる職業に就く者たちである。それらは、今の『東京』ではごく当たり前の光景であった。



 『探究者』。



 それは、探究大都市『東京』に存在する、“自然発生的に出現した、地下へと続く迷宮”に潜り、燃料資源である『エネルギー』を回収して生計を立てる者を差す言葉である。


 今でこそ隣の家に住む人が探究者というのがごく普通に見られるようになったが、かつて……7年前より以前は、そうではなかった。


 『探究者』という仕事は、かつて誰にでも成れる程度の職業として、社会的信用の薄いものであった。


 食いはぐれた者や、田舎からやってきた3男坊4男坊、学を修められなかった者、元孤児であり身元が分からない者などがやる仕事として、一部からははっきりと見下されていた仕事であった。


 しかし、今は少し違う。


 実際に失ってみるまでその存在の必要性が認識出来なかったのは皮肉としか言いようがないが、7年前の『災害獣』の襲来による壊滅的被害を境目に探究者の存在価値が改めて根本から見直されるようになった。


 その結果、以前よりも『国』から補助を受けられるようになり、探究者の数が激増したのである。


 雇用の消失に加え、『ダンジョン』から採取できる『エネルギー』量の減少、孤児の増大など、それまで騙し騙しで誤魔化していた様々な問題が一気に噴き出した反動を緩和する為との見方もあるらしいのだが……そんなことは『東京』に住む大多数には関係のないことであった……何故ならば――。



「――んだよ! こんな糞不味いモノ売っておいて金払えとか、ふざけてんじゃねえぞ!」

「――ふざけてるのはお前だバカ女! 食ったなら、食った分だけは払え!」



 行き交う通行人でごった返す『東京』の市場。ここだけは7年前とそう変わらないぐらいにまで賑やかさを取り戻していたその場所に、甲高い女の罵声と、野太い男の怒声が響き渡った。


 大声の中心地には、人だかりが集まっていた。「喧嘩だ、喧嘩が起こっているぞ!」老若男女を問わず見物に集まった人だかりのざわめきの中心……そこには、男と女が唾を飛ばして言い争っていた。



 片方は、果物を売っている商人の男。


 身なりは良いというわけではないが、探せばどこにでもいそうな風貌。商人としては中堅より下というぐらいの腕前の男であった。



 もう片方は……一言でいえば、碌でもないという評価が当てはまる。


 身なりこそ気を使ってはいるものの、その所作は粗暴という他ない。風貌も相まってゴロツキの女か、その手の者と付き合いがある女、と言われたら納得してしまうような女であった。



 市場の喧騒にも負けない強さの罵声と怒声が、辺りに響く。



 眉をひそめる者もいたが、以前の『東京』ならいざ知らず、今の『東京』ではこれぐらいのことは日常茶飯事。


 人通りの多い所では、こっそり賭け事として利用されるのも珍しくはないことであった。



「――ツケなんてきかねえよ! 金が無いのなら詰所にでも行くか、その右手の指にハマった指輪を出せ!」

「はあ!? たかだか5、6個持ち出しただけじゃん! あんた、この指輪がいくらすると思ってんの!?」



 しかし、今回のコレはそうならなかった。何故なら、二人の喧嘩の原因が単に女側にあったからだ。


 確かに、女側の言い分も分かる。置いている果物の質はお世辞にも言い難いし、そのまま食べるには不味く、値段も高めだ。


 だが、商人である男は、ちゃんと値札を見える位置に置いていた。それも、商品として並べている果物の、すぐ隣に。


 知らなかった、分からなかった、で通せる話ではない。


 だからこそ今回は賭けも行われずに野次馬ばかりが集まっていたのだが……二人が言い合いを始めてから、かれこれ数十分。


 さすがに成り行きを見ていた野次馬たちの間にも飽きる者が出始め、一人、また一人と人だかりから離れていく。



 ――どうせ、このまま言い争っていれば、そのうち警備の者が来て女は捕まって終わりだろう。



 辺りに散らばって駄目になった商品を見れば店主である商人は気の毒だが、よくある話として諦めるしかない。



「――あ、何だおまっ!?」



 そう、誰もが思っていた……人だかりを突き飛ばすようにして女の前に割り込んだ……体格の良い男が、商人を殴りつけるまでは。


 体格が小さいわけではないが、突然のことに踏ん張ることも出来ずに商品棚へと倒れ込む商人。


 その身体に、男は駄目押しの蹴りを見舞う。「もう、遅いわよ!」歓声をあげて男の腕に抱き着く女を他所に、辺りは騒然となった。



 ……理由は何であれ、手を上げる。



 それは、『東京』では行ってはいけない暗黙のルールであった。相手側に非があったとしても、手を上げるのは極力避ける……そういうことになっている。


 それは、『東京』に住む者なら、『東京』に来てそれなりに経つ者なら知っていて当然のルールであったのだが……どうやら、この男女は余所者だったらしい。



「うわぁ! やりやがったぞ!」「ちょっと、警備の人はまだ来ないの!」「既に呼びに行っているよ!」「あらら、もう知らねえぞ」「今日の警備のやつらは誰だ?」



 しかし、ついに起こってしまった事態に、集まった野次馬からざわめきが起こる。彼ら彼女らとて、騒動を楽しむだけで実際に怪我人が出て欲しいわけではない。


 だからこそ、いち早く警備を呼びに行った者がおり、タイムリミットまで、もう間もなくだったのだが……商人の男を殴り倒して気分が高揚した男女は知る由も無かった。



「おらぁ、退け!」



 素行が顔に表れているその男が、怒声をあげて人だかりを散らす。さすがに巻き込まれては堪らないと男を恐れた人だかりが、一斉に散っていく。


 そのタイミングを逃すことなく男女は素早く商品棚の奥に隠してあった金を奪い取り、周囲を睨みつける。


 行動には何の迷いもなく、以前から似たような騒動を起こしているのが分かる動きであった。



 ……その動きを見て、人だかりたちもようやく気付く。初めから、仕組まれていたのだ。女が注意を引き付け、男が期を見て犯行に及んだのだということを。



 この人通りの多さでは、警備の者もすぐに来られまいという浅はかな打算の後には、手早くこの場を離れて、手に入れた金で遊んで、夜を楽しむ。


 そんなことを想像しているであろう男女の顔には罪悪感は全くなく、成功して逃げ延びていることを信じて疑っていない表情をしていた……のだが。



「――やれやれ、最近はお前みたいな輩が増えて本当に疲れる。夜よりはマシとはいえ、警備も楽ではないな」



 それも、昨日までの話であった。人混みの向こうへと逃げようとした男の前に、一人の女が面倒くさそうに姿を見せる。


 所々傷ついてはいるものの身に纏う鎧は美しく、それ以上に輝く金髪に青い瞳を持った……今でも『妖精』の二つ名が轟く、ロベルタ・イアリスの登場であった。


 齢20の半ばに達したことで得る成熟し始めた色気。その腕に巻かれた『警備員』の証であるそれが無ければ、もうしばらくこの場の時間が止まっていただろう。逃げようとしていた男女も、様子を伺っていた人だかりも動きを止めてポカンと大口を開けるしか出来なかった。



「――さて、お前。この騒動の発端は、そこの男女で良いのだな?」

「え、あ、は、はい、そうです」

「協力ご苦労、感謝する」

「あ、い、え、こちらこそ……」



 ただ成り行きを見ていた近くの男は、唐突にイアリスから尋ねられて思わず肩を竦める。


 始めて近くで拝見するイアリスの横顔、滅多にお目に掛かれるレベルではない美貌に気後れしている……それも、致し方がないことであった。



 ――『妖精』のイアリスは、この市場では二大有名人の一人である。



 なにせ、給料が良いとはいえ、素人より幾らか腕が立つ程度の者ばかりがなる臨時の『委託業務』でしかない『警備員』の仕事に、探究者として二つ名を得ている者が就く……はっきり言って、それは不思議な話であった。


 『委託業務』とは通称であり、言うなれば日雇いのようなもの。


 基本的に賃金は安めであり、普通なら底辺……あるいは資格等を持たない者や、時間的制約がある人が受けるものだ。


 負傷から自制しているならまだしも、少なくともイアリス程の実力があるなら探究者の仕事をするか、あるいは狩猟をした方がはるかに稼げるし、その方がずっと効率が良い……はずなのだが。



「それでは、お仕事を済ませるとしよう。大人しくするなら、痛いことはしないさ」



 はっきり言ってしまえば、物好きとしか言われないようなことをしている『妖精』の登場に、場の空気が一変するのはある意味当然の結果であった。そして、それは同時に――。



「な、なんだてめえは!? すっこんでろ!」

「何だって、この腕章を見て理解出来ないか? 『警備員』だよ、『警備員』。分かったら、大人しく捕まれ。指の一本、手足の骨、切られたり折られたりしたくはないだろ?」

「け、警備員だとぉ?」



 ――強盗を働いた男女にとって、これ以上ないぐらいに運が悪いということに等しかった。そしてその事実を、現行犯である男女……特に、男の方は嫌でも実感させられていた。



(な、なんだコイツ――っ!?)



 暢気に「さっさとやっちゃってよ!」命令する女を睨みつけて黙らせながら、男は唇を噛み締めてイアリスを見つめる。


 それは別に彼女の美貌に見惚れていたからではなく……別の意味で彼女から目を離せられないからであった。



 ――力の差、実力の差、というやつなのだろう。ただ立っているだけで感じ取れる振る舞い、放たれる圧力にも似た何か。



 長年こういった行為に手を染めていたからこそ分かる絶対的な差を認識してしまった男は……自らが、どうしようもない状況に陥っていることを今更ながらに自覚し、そしてそれが事実であることが嫌でも思い知らされた。


 その証拠に……男は、イアリスから注意を逸らさないように気を付けながら、慎重に左右を見回す。


 あれほど男を恐れていた人だかりも、イアリスの登場を機にすっかり落ち着きを取り戻している。誰も、もう男のことを危険と捉えていない。


 それはつまり、イアリスの実力が……それ程のものであるということを、男に知らしめているということ。それを理解出来る程度に賢しい男は、怒りに顔を歪ませながらも、とにかく思考を巡らせる。



「ほら、どうした? 私が怖いか? デカい図体している割には、その拳を向けることが出来るのは自分より弱い者だけか?」

「――て、てめぇ……!」



 イアリスの明け透けな言い回しに、男は怒りを隠さずに舌打ちする。だが、向かってはいかない。


 ここで向かっていけば確実に返り討ちになる……それが分かっているからこそ、男は耐えた。そして、機会を待つ。


 不意打ちをする……無理だ。この状況で、しかもはっきりと分かるぐらいの実力差のある相手に不意打ちなど通用しない。


 正面から一気に……自殺行為だ。まず間違いなく一撃で昏倒させられるか、本当に手足の一本ぐらい折られて連行されるのがオチだろう。


 ならば、どうする。「言い分があるなら、今の内に聞いておくが?」静かに様子見を続けているイアリスを、男は見つめる。


 このままでは結局取り押さえられて、檻の中に放り込まれるのは確実。イアリスから逃げ切る……いや、いきなり逃げ切らなくてもいい。人混みの中に紛れさえすれば――そうすれば――っ!。



「――きゃあ!?」

「――むっ!」



 そこまで考えた瞬間、男の決断は早かった。


 なんと、男は自らの腕に縋っていた女を、あろうことかイアリスへと突き飛ばしたのである。


 悲鳴と罵声が聞こえたが、構うことはない。男はイアリスへ背を向けて、驚きに硬直する人だかりを蹴飛ばす勢いで怒声を――。



「っれ?」



 ――ぶつけようとした瞬間、男の視界が一瞬ばかりブレた。直後、男の身体から重力が消える。その事に疑問を抱いた時には既に、強かに地面を転がった後だった。



 何が、起こった?



 全身に響く痛みよりも前に、背後からぶつけられる女の怒声よりも前に、まずその疑問が男の脳裏を過った。ぐらぐらと揺れ続ける視界の中で、とにかくがむしゃらに手足を……動かそうとするが、まるで手足が他人の物になったかのように言う事を聞いてくれない。


 それでも、捕まるわけにはいかない。その一心で男は毛虫のように地面をのたくる……が、その願いが叶うことはなかった。横腹に叩き込まれた衝撃に呻く間もなく仰向けに転がされた男は……己を見下ろしている女を見て、ようやく事態を呑み込めたのであった。


 そこには美しい褐色肌を持つ、長身の女がいた。


 太すぎず、細すぎない絶妙な足のライン。前からでも形の良さが分かる腰と尻のバランスに、胸部を覆うプレート越しでも分かる膨らみと、腕に巻かれた腕章。そして、見ているだけで背筋に震えが走ってしまいそうな……目つきの鋭い、その女の名を――。



「おお、サララ。良い所に来てくれたな」



 逃げ出そうとする女を引っ張ってきたイアリスが、呼んだ。彼女こそ、この市場ではイアリスと対を成す有名人であり、市場では知らぬ者などいないとすら言われる、もう一人の物好きであった。


 『え、サララって、あの!?』


 思わぬ二大有名人の登場に、にわかに沸き立つ野次馬たち。けどもサララはそんな野次馬たちの歓声を他所に、呻いている男をチラリと見下ろし……持っている槍の柄で男の腹を突く。


 「ぐぇ!?」と、悲鳴をあげる男から、ジト目をイアリスに向けた。



「何でさっさと捕まえないの? 危うく取り逃がすところだった」

「いや、お前が到着したのが分かったから、つい、な。それに、まさか連れの女を囮にして逃げ出すとは思わなかった」

「こういう目をしているやつは、仲間だろうと恋人だろうと自分の為なら平気な顔で差し出すものよ……さて、もうそろそろね」



 人混みの向こうから近づいてくる幾人かの気配を感じ取ったサララは、そう言って男から槍の柄を下ろした。


 途端、青ざめた顔で咳き込む男を冷めた目で見やると、サララはイアリスに背を向けた……当然、それを見逃すイアリスではない。



「どこへ行くんだ?」



 噛みついて逃げようとする女の腹に拳を入れて大人しくさせながら、イアリスが尋ねる。



「これ以上『警備員』が二人居てもしょうがないでしょ。もうすぐ応援が来るから、私は違うところを見回るだけよ」



 サララの言い分は最もであった。事実、人混みの向こうからそれらしい声が近づいているのがイアリスの耳にもようやく届く。この混雑の中で汗一つ掻かずに判別するその技量に、イアリスは今更ながら苦笑した。



「相変わらず、常人離れしているな。それだけで食って行けるんじゃないか?」

「それは無理。最低でも二人、似たようなことが出来る亜人と若作りの婆がいるから……それに、あなただって似たようなことは出来るでしょ?」

「無茶を言うな。こんな騒がしい場所で判別など出来るわけがないだろう。せめて、もう少し静かなら別だがな」



 そう言って少しばかり悔しそうに笑みを浮かべるイアリスに、サララも笑みを浮かべる。「大丈夫、あなたなら出来るよ」次いで、手を振りながら人混みの向こうへと仕事に――。



「あ、待て、サララ」

「――なに?」



 戻ろうとした手前で、呼び止められた。訝しんで振り返るサララを前に、イアリスは気にした様子も無く、「いや、今日の夜のことなんだが」今朝方にて言い忘れていたことを伝えた。



「急遽、上からお呼びが掛かった。そっちに行くのは夜か、翌日になるだろう」

「あ、そうなの?」

「そして、マーティとカズマの二人だが、今日は行けなくなったそうだ」

「何かあったの?」

「子供が熱を出した。だから今回は見送って、回復したら後日挨拶に行くとのことだ」



 別に急いで来なくても……首を傾げるサララに、イアリスは申し訳なさそうに手を合わせた



「あなた達には随分とお世話になったのもあるから、申し訳ない……だ、そうだ」

「……それは、残念ね。うちの子も会うのを楽しみにしていたのに……」



 記憶が正しければ、あの二人の子供はまだ4歳かそこらだったはず。自分もそうだったが、子供が熱を出すと本当にそれだけで頭がいっぱいになってしまうから……まあ、仕方がないことだ。


 そう言って目を伏せるサララに、「まあ、小さいうちは仕方がないさ」特に気にしていないことを察したイアリスは、安堵の笑みを浮かべた。



「ああそれと、源講師はテトラを説得次第向かうんだとさ。説得出来なかったら御免、その時は別の日に行くってさ」

「そう、わざわざありがとう。あの子たちにはそのことを伝えておくわね」



 それじゃあ、そろそろ行くわね。そう言い終えて話を切り上げるに合わせて、応援の『警備員』が到着する。手早く処理を始めるイアリスと彼らを見て、サララはもう安心だと判断して人混みの向こうへと――。



「――あいつは、呼ばないのか?」



 ――行こうとして、足を止める……手を、掴まれている。


 振り返ったサララの目に映ったのは、些か気まずそうに眼を逸らしているイアリスの困った顔と、その向こうで忙しなく処理を行っている応援の人達の姿であった。



「……すまない、突然。出過ぎた真似だったな」

「…………」



 幾ばくかの沈黙の後、イアリスは静かに頭を下げる。それを見て、サララは何も言わなかった。


 けれども、心は乱れていた。


 しばし黙ってイアリスを見下ろしていたサララは、少々乱雑にイアリスの手を振り払って背を向けて歩き出し……けして、振り返らなかった。



「…………」



 そして、イアリスは……黙って、その背中を見送るしか出来なかった。







 ……。


 ……。


 …………それは、本当に楽しい一時であり、主役であるアルフとメネイにとっては一年で一番幸せな一日でもあった。



 出来上がっていくお菓子やケーキに胸をときめかせ、一つ一つ形作られて幾誕生日会の雰囲気に落ち着かなくなる。


 徐々に集まってくる人影を見るだけでどうにもならなくなり、母親のサララが帰って来たことで二人のテンションは一気に有頂天へと跳ね上がる。


 それだけで嬉しくて堪らないのに、日が落ちると同時に始まる誕生日会。次々に渡される贈り物にはしゃいではサララに窘められるが、機嫌が最高潮に至っている二人の耳には届かない。


 テーブル一杯に並べられた料理に目を輝かせ、お腹が膨れるまで食べて、眠くなるまで遊んで、最愛の母の子守歌で最高の日を終えた後に始まる……大人たちのパーティも、大賑わいとなった。


 すっかり鍛冶師らしくなったシャラも

 夫と肩を並べるエイミーも

 遅れて来たイアリスも

 こっそり来ていた龍成・トミー・クリストの三人も

 既に酔っ払っていた海松も

 黙々と食べていたドラコも

 笑顔を浮かべっぱなしなマリアも


 ……そして、主役の母であるサララも、この一時ばかりは子供のように語り合い、お酒を飲み、腹いっぱい食べた。


 そして、夜も更け……まるで小さな市場のように賑やかながらに騒がしかった食堂も、すっかり静かになっていた。


 片付けは翌日ということでお開きとなり、酔っ払って転がっている客の一人ひとりに毛布を被せ、一人、また一人と女たちは部屋に戻り、館の至る所から寝息が聞こえ始めた頃。



「――お疲れ様」



 ふと、隣から掛けられた声にサララは我に返った。振り返れば、両手にグラスを持ったマリアが微笑んでいた。



「マリア姉さん、まだ飲むの?」

「飲みたいのよ、今日みたいな気分の時にはね」



 ほんのり香るアルコールと、焼けた香辛料の臭いと、ケーキの甘い匂いが漂う食堂の隅。


 僅かに開いた窓からぼんやりと夜空を眺めていたサララは、笑顔と共に差し出されたグラスを受け取って、口づける。


 火照った体に冷えた水は、乾いた紙に沁み込むがの如く勢いで胃の奥へと吸い込まれていった。



「星を見ていたの? 私にも見せて」



 そう言いながら、片手にグラスを持ったマリアも、サララの見ていた先を覗き込む様に隣に立つ。その横顔を見下ろしながら、ふと、サララは7年間の月日を実感する。


 けれども、近すぎず、遠すぎない。そこだけは7年前と全く変わらない、人を安心させる笑みを浮かべているマリアに……サララは、静かに笑みを浮かべて首を横に振った。



「星なんて見ていないわ。ただ、ぼんやりしていただけ」

「考え事?」

「そんな大そうなものじゃないわ……ちょっと、思い出していただけよ」



 そう言うと、サララは再び夜空を見上げた。マリアもそれに倣って夜空を見上げる。二日前から晴天が続いているおかげか、今日の夜空には雲一つ見当たらず、星々の輝きが見事なまでに広がっていた……と。



「そういえばドラコちゃんが見当たらないけど、知らないかしら?」



 不意に、マリアが呟いた。「さっきアルフたちの所を見に行ったけど、いなかったの」言われてみて初めて気配が消えていることに気づいたサララは、「ちょっと待って」静かに周囲に点在する気配を判別していく。酒が入っているからいつものようにはいかなかったが、目当ての気配はすぐに見つかった。



「裏のお墓の所に居る……たぶん、ナタリアにジュースを持って行ったんじゃないかしら?」

「……そう、ありがとう。なんとなくそんな気はしていたけど、邪魔にならなくて済んだわ」



 そう言ってマリアは寂しそうに微笑むと、静かに自らのグラスを傾ける。「あんまり飲むと明日に響くよ」いちおうの忠告の後、サララもグラスに残っているのを呑み欲し……ほう、と熱の籠ったため息を零した。



「――あれから、もう7年になるのね」



 直後、そのタイミングを見計らったかのようにマリアは呟いた。その視線は所狭しに残された空の皿から……部屋の隅に用意された、小さなテーブルへと向けられた。


 正方形の、小さなテーブルであった。


 その上に置かれた皿には布が置かれ、用意された二人分のグラスは逆さま、まるでその場所だけ時間が止められたかのよう。ボトルクーラーに浸かったままのワインだけが、時間の経過を露わにしていた。



「7年前のあの日、帰って来たあなたたちを見た時は……本当に、心の臓が止まるかと思ったわ」



 7年前から……サララたちが館に帰ってきてから続いている『予約席』を眺めながら、マリアは寂しそうに眼を細めた。



「ドレスに包まれたあなた、息絶えているナタリアちゃん、涙を流しているイシュタリアちゃん、片腕が無くなっていたドラコちゃん……そして、姿が無かったマリー君」

「…………」

「あの光景だけは、今も時々夢に見るの。ほんと、7年経っても消えてくれない……こういう湿っぽい気分の日にはね、よく見るのよ」



 だから、飲んで頭から嫌な事を追い出すの。


 そう言って、マリアはこくり、と喉を鳴らす。度数が高いわけではないが、既にけっこうの量を呑んでいるマリアの頬は……炎のように色づいていた。



「ほんと、驚いたわ。あなたったら、目覚めた途端に奇声をあげてイシュタリアちゃんに殴り掛かるんですもの。イシュタリアちゃんはイシュタリアちゃんで抵抗しないから……人が目の前で粉々になっていくのを見るの、あれが初めてなのよ」

「……他の人の話だと、あの時一番冷静だったのはマリア姉さんだったって聞いているけど?」

「冷静なものですか! もう、頭の中は真っ白よ」



 くぴり、とまたマリアはグラスを傾けた。



「真っ赤になった手で包丁を持って来たあなたの前に立ち塞がった時、私がどういうことになっていたか分からないでしょう? どっばーって、オシッコ漏らしたのよ、私。子供みたいに垂れ流したの」

「そうだったかしら?」

「そうよ、凄く怖かったんだから。ほんと、あの時はドラコちゃんがいなかったらどうなっていたかと思うと……しばらく、包丁見るだけで身体が震えた仕方がなかったんだから」



 そう言うと、マリアはグラスを傾け……最後の一滴まで胃袋に流し込むと、熱の籠った酒臭い息を吐き出した。


 目尻に浮かんでいるソレは涙か、それとも生理現象か……マリアも、サララも、それに気づかないフリをした。



「……まだ、許せない? イシュタリアちゃんのこと」

「…………」



 何が、とは尋ねなかった。


 そんなこと尋ねなくても、サララにはマリアの言いたいことは分かっていた。


 何せ、マリア以外にも……遠まわしではあるものの、シャラやドラコからも言われているから。



「『ダンジョン』で何があったのかは知らないけど……そろそろ、許してあげてもいいんじゃないの?」

「……知らないのに、そう言うの?」

「知らないけど、分かることもある。本当にイシュタリアちゃんが元凶だったら、今頃あなたはこんな場所にいないで……イシュタリアちゃんを殺しに行っているでしょ?」



 ――瞬間、初めてサララの視線と、マリアの視線が交差した。


 『東京』では最強と揶揄されることもあるサララの眼光と、たかが住宅の管理人でしかないマリアの眼光が、ぶつかり合う……そして。



「……別に、許していないってわけじゃない」



 先に目を逸らしたのは……サララの方であった。「ずいぶんと、曖昧ね」それどころか、マリアから向けられる視線から逃れるように顔を背け……再び、夜空を見上げた。



「自分でも、分かっている。アレは『仕方がなかったこと』で、『どうにも出来ないこと』だった。あの女も私と同じ気持ちで……私は自らの気持ちを優先して、あの女はあの人の気持ちを優先した。ただ、それだけの違いでしかない」

「それだけって……、――っ!?」



 その事実に思い至ったマリアが思わず口に手を当てて言葉を呑み込む。けれどもそれで察した「ええ、そうよ」サララは苦笑して……自らを侮蔑した。



「結局は、ただの嫉妬なの。あの人の意志に従うって御大層なことを言いながら、最後の最後で私は……自らの想いを優先して、あの人の覚悟と願いを蔑ろにしてしまった」


 それなのに――。


「あの女は、最後の最後で自らを抑えた。私よりもずっと前にそうなると分かっていてもなお、あの女は想いを胸に秘めた。私はそれが……羨ましかった。そして、それ以上に……妬んだ」

「…………」

「許す、許さないの問題ではないの、マリア姉さん。私は、自らの醜さとおこがましさから目を逸らす為にあの女に拳を、刃を、怒りを向けた……ただ、それだけの話なの」



 そう言うと、サララは喉を潤そうとグラスを傾け……既に無くなっていることを思いだし、舌打ちをする。



「――いいわ、別に無くても話せるから」



 慌てて取りに行こうとするマリアをその場に押し留めると、サララは何かを思い出すかのように……星々を見つめた。



「結局はね、マリア姉さん。私が、意気地なしなだけなの。謝ることも出来ないだけの……ただの、大馬鹿者でしかないの。そして、あの女は私よりもずっと強かだった……ただ、それだけ」

「サララ……」



 何て言葉を掛けていいのか、マリアは思いつかなかった。


 そして、そんなマリアの想いを他所に、サララは部屋の隅にある小さなテーブルを見やり……寂しそうにため息を吐いた。



「もし、今日あの女が……イシュタリアが来たら、謝ろうと思っていた。でも、やっぱり来なかった。最後の最後まで悪者でいるつもりなのか、それとも別の思惑があるのかは知らないけど……結局、私は何一つあの女には勝てなかった」



 そう言い終えると、それ以上サララは何も語らなかった。


 マリアも、何も話せなかった。


 昼間の余韻が漂う食堂に、重苦しい沈黙が下りる。もしかすればこのまま夜があけるまで――そうマリアが思った、その瞬間。



「――湿っぽい話は、もうやめよう」



 まるでマリアの心を読んだかのように、サララはわざとらしくそう言った。開いていた窓を閉め、鍵を掛ける。そして、もう一度時を止めているテーブルを見つめると……わずかに、頬を綻ばせた。



「だって今日はあの子たちの誕生日だもの。せっかくの祝いの席を、私の愚痴で締め括るなんて……無粋なことでしょ?」

「――っ!」



 その言葉と共に、にっこりと笑みを浮かべるサララに、マリアは思わずこみ上げた涙を拭う。


 次いで、マリアもサララに負けず劣らずの満面の笑みを浮かべると、「それじゃあ、飲みましょう!」ひったくるようにしてサララの持っていたグラスを奪い取った。


 さすがにそれにはサララも驚いて、慌ててマリアを止めた。



「ちょっと、マリア姉さん。私は明日も仕事が……それに、マリア姉さんも明日は役所に用事があるって……」

「祝いの席で、明日のことを考えるのも無粋よ! さあ、飲みましょう! 実はね、まだ冷やしているとっておきが残っているの。それを持ってくるから、ちょっと待ちなさい!」



 機嫌の良くなった酔っ払いに、サララの制止などまるで耳に届くはずもなく。「いいわね、そこを動くんじゃないわよ!」どたどたとはしたなくスカートをひるがえして食堂を飛び出して行った……後には、呆気に取られたサララだけが残された。



「……明日は、お休みかしらね」



 苦笑交じりのサララのため息が、食道に空しく零れる。あの調子だと、酔い潰れるまでかなりの量を呑まされるだろう。


 さすがに泥酔するまでにはマリアの方が潰れるだろうが……おそらく、明日は仕事なんて出来る状態ではないだろう。



「……まあ、いいか」



 けれども、サララの顔には笑みがあった。マリアの言うとおり、祝いの席に明日のことを考えるのは無粋だ。ここはマリアに甘えて、冷やしている『とっておき』を楽しみに待つとしよう……ん?



「……?」



 戻って来るまでに軽く片づけをしようとしていたサララの足が、ふと、止まる。


 それは、床を這う油虫を見つけたからでもなければ、気分を悪くしたからでもない。


 今しがた閉めた窓の向こう……館の正面にある建物の屋上に、光る何かを視界の端に収めたからであった。



「……何かしら?」



 既に光は消えていて、窓の向こうの大半は闇に包まれている。気のせいかと思いつつも、興味を引かれたサララは窓に顔を近づけて目を凝らす。視界の端に捉えた光の位置を思い出しつつ、その辺りを見つめる……と。



 ――あっ。



 驚きの声を、サララは寸でのところで呑み込む。光は、あった。


 チカチカと、まるで何かを知らせるかのように暗闇の中で点滅を繰り返している。


 いったい、こんな夜更けに誰が。


 呆れながらも、サララはさらに目を凝らす。どこぞの馬鹿がふざけてやっているなら良いが、窃盗団などが行う合図であったなら、警戒しておくに越したことはない……だが、しかし。



「……イシュタリア?」



 点滅の瞬間に捉えた、光の主の正体にサララは目を瞬かせる。光っている間はごく一瞬なので分かり難いが、確かにそうだ。


 意味深な笑みを浮かべているイシュタリアが、まるで誰かに気づかれるのを恐れるかのように光を胸の辺りに隠しながら点滅させている。



(何年かぶりに顔を見たかと思ったら……何をしているのかしら?)



 イシュタリアの意図が読めないサララは、注意深く観察を続けながら首を傾げる。しかし、それなら何故館に来ないのだろうか……それが分からない。


 もし何かに襲われているのなら、イシュタリア程の実力者なら返り討ちにするだろう。あるいは館に危機が迫っているなら……いや、それなら事前にマリアたちに話をしているはずだから、それも違う。


 では、いったい何を……何を、伝えようとしているのだろう。見当もつかない何かにサララは思考を巡らせる……次の瞬間。



 ――サララは……確かに、捉えた。



 瞬きよりも短い刹那の一瞬、ただの一度きり。それまで以上の輝きを見せる光に照らされた……イシュタリアのすぐ後ろに見えた……その姿を視界に収めた瞬間。



「お待たせ、さあ飲みま――った!?」



 食堂に戻って来たマリアが驚きに仰け反って転んだのにも目をくれず、サララは食堂を飛び出していた。酔いも、疑問も、全てを吹き飛ばして……走って、館の外へと走り出していた。









 7年前よりも静けさを増した『東京』の夜は、7年前よりも暗闇の色合いが濃い。ひゅう、とそよぐ夜風を受けながら……暗闇の中に佇んでいた『影』は、黙ってラビアン・ローズを見下ろしていた。


 ラビアン・ローズの正面向かいにある、建物の屋上。『影』がその場所に到着してから、かれこれ一時間になる。耳を澄ませば感じ取れそうな賑わいが終わってから、もう一時間。『影』は、何を言うでもなく宴を眺めていた。


 そう、『影』は、何も語らなかったし、何もしなかった。ただ、静かに。ただ、遠くから。一人、また一人、館の住人が夢の世界に入って行くのを感じ取っていた『影』は……ほう、とため息を零した。


 『影』の、目的は果たした。まだ気になる者が二人起きていて何かを話しているようだが、あんまり長居をして万が一気づかれたら目も当てられない……そう思って帰ろうとしたが、どうにも『影』は迷った。



 もう少し……もう少しだけ、見ておきたい。せめて、あの二人が眠るまでは……あの子たちの寝顔も含めて、見ておきたい。



 おろかな判断だとは思ったが、『影』は我慢など出来なかった。後少し、後少し、そうやって甘い言い訳を重ね続け……『影』は、そいつの接近に気づけなかった。


 けれども、それも致し方がないことであった。


 何せ、『影』に気づきそうな者は三人いるが、その内の一人は幸いにも死角である館の裏側にいて、一人は酒が入って酔っている。残った最後は一番警戒していたが、館にいないと言うことは既に確認済みだ。


 だから、『影』は気を緩めていた。今まで見つからなかったのだから、今日も見つかることがないだろう。確証もない自信の中で、『影』はそう己を納得させていた……だからこそ。



「――やれやれ、ようやく捉えたのじゃ」

『――っ!?』



 『影』は、声を掛けられるその瞬間まで気づけなかった。「――逃げても無駄じゃぞ、もうお主の魔力は捕捉したからのう」同時に、声を掛けられた瞬間にはもう手遅れなのだと言う事を理解し……『影』は、ガリガリと頭を掻き毟りながら振り返った。



「おや、思いのほか諦めが早いのう。お主のことじゃから、死にもの狂いで逃げようとするかと思っていたのじゃが」



 そこには、淡い光を放つ光球を携え、勝ち誇った笑みを浮かべる少女がいた。夜の闇よりも黒い髪と黒いドレスをふわりと夜風になびかせた……『永久少女』の二つ名を持つ、イシュタリアが悠然と『影』を見つめていた。



「逃げても良いのじゃぞ。今なら十秒待ってやるが……どうする?」

『既に補足したんだろ? だったら逃げたって無駄だろ』



 『影』に歩み寄りながら、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべるイシュタリア。7年前と変わらないその笑みに……『影』は諦めたかのように肩を落とし……ため息を吐いた。だが、まだその目には力が残っていた。


 予期していた事態になった。だが、ただそれだけのことだ。まだ、最悪の事態にはなっていない。『影』が想定していた最悪の事態には……そう己を鼓舞しつつ、『影』はどうやって逃げれば良いのかと思考を巡らせる……だが、しかし。



「逃げたら、サララに私が目にしたことをそのまま伝えるつもりじゃが、それでも逃げるつもりかのう?」

『すみません、止めてください、もう逃げませんから』



 イシュタリアから掛けられた脅しの前に、『影』が行える自由な選択肢は一つも無かった。「全く、初めからそうすれば良いのじゃ」呆れたようにイシュタリアはため息を吐くと、『影』の傍を通り過ぎ……おもむろに、ラビアン・ローズを見下ろした。



 ――その瞬間、ふわりと雲が途切れた。


 降り注ぐ月の光は『東京』の闇を照らし、降り積もっていた暗闇をわずかに払う。そしてそれは……二人の居る建物の屋上とて、例外ではなかった。


 月の光を浴びて露わになったのは、銀白色の輝き。吹いた夜風を淀みなく受け流した銀白色の髪が、ふわりと煌めく。けれども、その光の中で最も力強い輝きを見せたのは……その両の目に収まっている、赤い光。


 血のように赤い両の目が、月の光を浴びてもなお暗闇に溶け込もうとするイシュタリアを、見つめる。その視線は、言われずとも感じ取れる程に強かったのだろう。



「7年前と、全く変わっておらんのう……マリー・アレクサンドリア殿」

「お前も、7年前と一緒だな……イシュタリア」



 次の言葉を待っていた『影』の……マリーの耳に届いたのは、皮肉交じりのイシュタリアの笑い声。ふわりと光球を消したイシュタリアは、笑みを浮かべてマリーへ歩み寄った。



「7年ぶりの再会じゃというのに、つれない言葉じゃのう。それでは女子の心を掴めはせぬぞ」

「掴む必要なんてねえよ。ていうか、そんなこと微塵も気にしてないんだが――」



 マリーが反論出来たのは、そこまでであった。何故かと言えば。



「自ら男でも作って幸せになれと送り出した。けれども、美しく成長した恋人の傍に男の影がないかと気が気でない」

「――んん!」



 イシュタリアの口から放たれた不可視の刃が、寸分の狂いも無くマリーの心を貫いたからであった。



「このヘタレめ! お主がサララの前に顔を見せないのは、大方それが理由じゃろ?」

「――む、むむむ……!」

「今生の別れじゃと思っておったら、思いのほか早く片付いた。分身とはいえ会いに行くことは出来るが、美しかった蕾は実に見事な花を咲かせた」

「うむむむ……!」

「既に新たな家庭を作っておったなら諦めもつく。しかし男の影はなく、されど戻ったところで……もう、己なんて相手にしてもらえないかもしれぬ」

「ぐぎ、ぎぎぎ……!」

「愛する女も、己の子も本音を言えば抱きしめたい。しかし、万が一……お客様扱いされようものなら……そう考えてしまって、今まで逃げ続けて来たのじゃろ?」



 マリーの隠していた内心とつまらぬ意地を、イシュタリアはばっさり切り捨てた。「ぬ、ぐ、ぐぬぬ……!」ものの見事に図星を付いたのか、目に見えて顔を引き攣らせているマリーへと振り返ったイシュタリアは深々とため息を吐くと。



「それで、本格的に地上へ出て来られるようになったのは何時からじゃ?」



 かねてよりイシュタリアの中にあった疑問を、マリーにぶつけていた。


 それでマリーも思考を切り替えたのか、「つい最近だよ」些か居心地が悪そうに答える……のを見て、「最初からそうやって素直におるがよい」イシュタリアもようやく目じりを下げた。



「改めて確認したが、その身体……やっぱり分身じゃな? その状態では、どれぐらいの間地上にいられるのじゃ?」

「んん~、今のこの身体なら時々『本体』に戻るだけで、それ以外はずっと地上にいられるぜ……ていうか、見ただけで分かるんだな、お前」



「伊達に長生きはしておらぬ。これでも魔法術士として幾白年は現役を続けておるのじゃからな」



 驚きに目を瞬かせるマリーに、イシュタリアは胸を張って答える。だが、「『本体』は……やはり、あそこと考えてよいのか?」すぐに悲しそうに顔を伏せた。



「少しぐらい、地上には出て来られぬのか?」

「無理だな。下手にあそこを離れたら、今度は7年ではすまねえ。ここまで戻すだけで7年……今、あそこを離れたら次は10年20年ではきかないかもな」



 マリーは、一切の希望を持たすことなくイシュタリアの願いを切り捨てた。


 次いで、「しかしまあ、ここまで早く回復したのも人間のおかげなのは皮肉だぜ」疲れたと言わんばかりに頭を掻くと……ばたりと、その場に仰向けになる。その隣に、イシュタリアも静かに横たわった。



「……それは、どういう意味じゃ?」



 降り注ぐ月明かりの中で、そっと……イシュタリアは尋ねた。



「説明しなくても、検討は付いているだろ? あの時は結局有耶無耶にしてしまった部分もあるし、答え合わせしてやってもいいぞ」

「……笑わぬか? おそらく荒唐無稽な解釈になっておるぞ」

「お前はずっと、『ダンジョン』とは何か、を考え続けてきたんだろ?」



 それなのに、答えだけ教えられても、つまらないだろ。そう言われて、しばしの沈黙が流れる。ふっ、と思い出したように月の光が遮られ、辺りは暗闇に閉ざされる中で……ぽつりと、イシュタリアは答えた。



「『ダンジョン』とはずばり、ある種のろ過装置とあらゆる万物を変換させる機能を備えた巨大な生命体。かつてこの世界を覆っていた汚染物質を無毒に変換させたのも『ダンジョン』……と考えて良いのじゃ」


「何をろ過するかと言えば、それすなわち『魂から放たれている力』じゃな。数ある生物のなかでも莫大な力を秘めた、『人間の魂から発せられる力』をろ過し、そこから使える部分を吸収して活動する生き物……それが『ダンジョン』なのじゃ」


「『エネルギー』とは、吸収しきれなかった、あるいは吸収した後の消化物……言うなれば、『絞りかす』じゃな。そして、『モンスター』とはすなわちその力を吸収する為の胃液であり、体内に入り込んだ異物を除去する免疫の役目も担っている」


「そして、何ゆえ『ダンジョン』が多段層になっているのか。それは、『魂から放出されるエネルギーを、より効率よく吸収する為』であり、より深い階層に行けば行くほど、その分だけ層を厚く出来るからより多くの力を吸収できる。言い換えれば、『魂から発せられる力』はそれだけ吸収が難しく、吸収には『放出される力が最低ライン』に達していなければならないからじゃ」


「魂の力が最も多く放出されるのは死を迎えた瞬間じゃ。その瞬間だけ、初めて『オドム』が吸収できる最低ラインを大幅に超える。しかし、放出される方向にはムラがあり、必ずしも下方に向かって放たれてくれるものでもない。全く吸収できない場合も、もちろん出てくる」


「じゃから、『オドム』は考えた。より多くの力を吸収する為には、より吸収しやすい場所を用意しなければならない。その果てに思いついたのが、自らの体内におびき寄せる手法……すなわち、現在まで続いている『ダンジョン』のことじゃな」


「地下に向かえば向かう程手に入る『エネルギー』が多いのは、より深い階層で死ねば、より多くの力を無駄にすることなく吸収できるからじゃ。逆に言えば、地上に近ければ近い程無駄にしてしまう力が多いから、『絞りかす』も少ない」


「それらの点を踏まえて『ダンジョン』内にて見つかる『アイテム』や結晶は、言うなれば撒き餌であり褒美じゃな。莫大な金は、人間の判断を誤らせる。臆病な者でも、一攫千金が掛かるとなれば……多少の危険は覚悟する」


「結論を述べる。『ダンジョン』とは、言うなれば巨大な罠じゃ。餌さえ用意すれば自らの意志で入ってくる、罠。それが、この世界の……『ダンジョン』の、真の顔なのじゃ」



 ……全てを言い終えると、イシュタリアは深々とため息を吐いた。


 次いで、身体を起こして屋上の縁に……ラビアン・ローズがはっきりと見える辺りで立ち止まると、「私の仮説は如何かのう?」マリーへと尋ねる。むくりと身体を起こしたマリーは……呆れたようにイシュタリアの背中へ拍手を送った。



「仮説も何も、大正解も大正解。外れている部分を探す方が難しいぐらいだぜ。よく、自力でそこまでたどり着いたもんだ」

「自力ではない。8割は『イヴ』から、残りの1割はあの時のお主の言動から……私が自力で導き出したモノなんぞ、1割にも届いてはおらぬのじゃ」

「それでも、お前はおそらくこの世界で誰よりも真実に近づいていたことには他ならない」

「見え透いた世辞じゃな。慣れぬことはするものではないぞ」



 ふん、とイシュタリアは鼻を鳴らした。けれども……纏う空気に、怒りは感じられなかった。それが照れ隠しであるのは明白で、マリーも笑みを堪えてイシュタリアを見やった……と。



「――一つ、分からぬことがあるのじゃ」



 不意に、イシュタリアが呟いた。「――なんだ?」その声色の変化に気づいたマリーは、ドレスの土埃を払いつつ立ち上がった。



「何故、『オドム』はもっと効率的な方法を取らなかったのじゃ? これだけ大掛かりなシステムを構築しておるのに、何ゆえこんな回りくどい方法を取ったのじゃ?」

「と、いうと?」

「言い方は悪いが、『人間牧場』でも作って片端から放り込めば良いではないか。あるいはお偉方と秘密裏に結託でもして安定して供給すれば、『東京』はもっと……今よりも50年、いや、100年は技術を前に進められたかもしれぬではないか」



 それは、7年間答えを出せなかったイシュタリアの疑問であった。


 この星そのものと同化し、新たな世界のシステムを構築するという大それたことをやってのけたのだから、気付いていなかったわけではないだろうが……。



「ああ、それか。そんなの、あいつがロマンチストだったからだよ」



 そんなイシュタリアの7年越しの疑問を、マリーはあっさり答えた。「意味が分からんのじゃが?」首を傾げるイシュタリアに、マリーは簡単な話さ、と言葉を続けた。



「要は、あいつは『人間の可能性』に賭けたんだよ。人間が自らの力で、『ダンジョン』が無くなっても生きてゆける。人間が自らの力でそれを可能にしてくれる日を、あいつは夢見ていたんだ」



 なるほど……イシュタリアは納得した。それを見てマリーは笑みを浮かべると、思い出したように「ところで――」話を切り出した。



「さっきからずっと館の方を見ているが、どう――」

「もう一つ聞いておきたかったのじゃが、よいか!?」

「――お、おう」



 突然、先ほどよりも少し声を大きくしたイシュタリアに、マリーは言葉を失くして面食らう。


 次いで、「ばっ、お、大きな声出すなよ」その可能性に思い至ったマリーは、声を潜めながらもイシュタリアを叱りつけた。



「聞こえたらどうするんだよ……!」

「大丈夫じゃ、この距離では聞こえん。それで、聞いておきたいことなのじゃが……ナタリアのことじゃ」

「ナタリア?」



 7年ぶりに聞く名前に、マリーは目を瞬かせた。



「ほれ、あの時、お主はナタリアを受け継いで産み落とすと言っておったじゃろ。もしかして、もう産んだのかなあ、と思ってのう」

「ああ、それはまだだよ。この7年間は『ダンジョン』の調整に手一杯だったからな……もう少し落ち着いたら産むつもりだ」



 それは、本当であった。ナタリアとの約束を反故にするつもりはないが、何分順序というものがある。


 どうせ産むのであれば、ちゃんと世界を見られるように環境を整えてからでも遅くはない……というのが、マリーの考えであった。



「……ところで、さっきもそうだが、館の方を見て――」

「もう一つ、聞いておきたいことがあるのじゃが!」

「――だあ! 分かったから大声出すなってば! 気づかれるだろ、馬鹿野郎!」



 二度目となる行為に、さすがにマリーも声を潜めながらも、声を荒げる。けれどもイシュタリアは気にした様子も無く、「いやあ、申し訳ない」相も変わらずマリーに背を向けたまま……おもむろに尋ねた。



「今日は、過ごし易い夜じゃな」

「……は?」



 一瞬、マリーは面食らった。何を尋ねられたのか、マリーは少々考えたぐらいであった。


 けれども、イシュタリアは気にした様子もなく、また再度同じ質問をした。



「ま、まあ過ごし易いんじゃねえの? 暑くもないし、寒くもないし……」

「過ごし易いから、星空が綺麗じゃな」

「まあ、今日の星は良く見えるけど……なあ、何を言っているんだ?」

「街も静かで、夜風が気持ちいいのう」



 ……沈黙が、二人の間を流れた。



「……イシュタリア、お前、そこで何をしている?」



 その沈黙を破ったのは、マリーの方からだった。



「なにって、なにも?」

「拳を叩き込まれたくなかったら、素直に吐け」



 ……再び、沈黙が流れる。おもむろに肩を回して、さあ拳を叩き込もうか……そうマリーが判断する直前。イシュタリアのため息が、この沈黙を破った。



「分かった、見せるのじゃ」



 まあ、バレては仕方がないのう。その言葉と共にフッとイシュタリアの胸元が輝いた……ように、マリーには見えた。



「ん、今なんか――」

「隠していたのは、これじゃ」



 直後、イシュタリアがマリーに見せたのは……掌に収まる程度の、小さな何かであった。


 見覚えがあるような、無いような……マリーが首を傾げて素直に尋ねれば、イシュタリアは軽く指を動かし……フッと、小さな何かに光が灯った。明かりの強さはそれほどではないが、スイッチの切り替え音は、全くしなかった



「……もしかして、トーチか?」



 見たことはないが、記憶に引っかかった名前を口に出す。イシュタリアは、笑みをもって回答した。



「エネルギー式の、な。私が持っている物の中では一番小型で、物音に反応するモンスターを刺激しない為に作られた優れものじゃぞ」



 道理でスイッチの切り替え音がしないわけだ……そう納得して頷くマリーは……次いで、はて、とまた首を傾げた。



「お前、そんなものを持って何してんの?」

「何って、こうしていただけじゃが?」



 フッ、フッ、フッ、フッ。イシュタリアの指の動きに合わせて点滅を繰り返すトーチ。「……?」その行為に何の意味があるのか分からず、マリーは反対側に首を傾げ――た直後、これ以上ないぐらいに大きく目を見開いた。



「おま、まさか――」



 それ以上、マリーは言えなかった。


 何故なら、イシュタリアの視線の先にある館の方から爆音が響いたからであった。


 あまりに突然のことに、ビクン、と背筋を伸ばしたマリーの視線が捉えたのは……ラビアン・ローズの正面玄関を蹴破って出てきた黒い影。


 その影が、ごそごそと何かをしているかと思った次の瞬間には、フッ、とランプの明かりに照らし出された……サララの姿があった。



 ――背筋が凍る、とは、このことを言うのだろう。



 ぶわっと一気に噴き出した冷や汗に、マリーはごくりと喉を鳴らす。


 ポツポツと館に光が灯り始めたのを見て、マリーは慌てて視線を低くする。このまま騒ぎに気づいたマリアたちが、サララを館の中に引っ張り――。


 そこまで考えた瞬間、マリーの頭上に光が灯った。イシュタリアだ……前触れもなく自らを照らし出す光を感じると同時に、その犯人を思い浮かべる。



「――お、おま、おお、おま、お前、何をっ!?」



 まだ、覚悟も何もしていないのに。怒りを覚えたマリーは反射的に身体を起こし――て、はるか視線の先。饒舌にし難い表情になっているサララと……目が、合ってしまった。


 声なき悲鳴を、マリーは寸でのところで堪える。しかし、もうその時には……一筋の弾丸と化したサララが、まっすぐマリーが居るこの建物へと駆けだした後であった。



 ――やばい、逃げないと。



 真っ先にそう判断したマリーは踵をひるがえ……そうとして、その場に転んだ。

 強かに打ちつけた身体を襲う痛みに悲鳴をあげながら、マリーは己の足を掴んでいるドレスの裾を見つけると、その主であるイシュタリアを睨みつけた。しかし、イシュタリアには効かなかった。



「お主は、何者でいたいのじゃ?」

「はあ!?」

「『マリー』でいたいのなら、あの子の傍に戻りたいのなら、しっかり責任を果たすのじゃな」

「――っ!」



 突き付けられた選択肢に、マリーは言葉を失くす。


 そして、マリーの眼光をあっさり受け流したイシュタリアは、「おお、早いのう。この調子じゃと、建物を垂直に駆けあがってくるかもしれんのう」眼下を見下ろしながら楽しそうに呟くと……「さて、問答を続けるつもりはない」マリーに決断を迫った。



「お主は、誰じゃ?」

「俺は……」

「お主は、何者でいたいのじゃ? マリーとしていたいのか、オドムとしていたいのか、そこをはっきりさせんとのう」

「俺は……俺は……!」



 ぎりり、とマリーは歯を食いしばる。その顔には葛藤の色が強く滲み、苦悶しているのが一目で分かる。けれども、イシュタリアは止めなかった。



「この期に及んで曖昧な態度を取るのは止めよ。あの子を無駄に苦しめるだけじゃぞ」

「……!」

「生まれ変わりを待つのも一つの手じゃが、あの子はせいぜい後50年60年そこそこの命。そうやってウジウジ悩んでいると、あっという間にお別れじゃぞ」

「――っ! 俺は、俺は――っ!」



 その瞬間、マリーは立ち上がった。



「俺は、俺だ! 探究大都市の、マリーだ!」



 イシュタリアから差し出された再三の問いかけにようやく覚悟を決めたのか、その顔には決意の色が滲んでいた……のを見て、「――えっ!?」イシュタリアは無造作にマリーを夜空へ……正確には、建物のすぐ下にまで到着しているサララの元へと、放り投げた。



「ちょ、おま――」

「7年間も待たせた罰じゃ」



 その言葉と共に重力に引っ張られたマリーの身体が、イシュタリアの視界から消える。その直後、にわかに騒がしくなった眼下の光景にイシュタリアは腹を抱えて笑うと。



「――さあ、明日から楽しくなりそうじゃな」



 そう言って、自らも飛び降りたのであった。



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探求大都市のマリー 葛城2号 @KATSURAGI2GOU

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