第十五話: 待ち続けていた者




 新たなドレスに着替えたマリーと、洗って綺麗になった鎧を装備したイアリスは、眼前のベルに視線を向ける。



「もういいな?」



 そう尋ねれば、イアリスは頷いた。なので、マリーはベルを手に取り……鳴らした。静まり返った浴室に、りんりん、と軽やかに鐘の音が響いた。


 ……扉を開けているとはいえ、果たして気づいてくれているだろうか。


 そう考えたのは、何もマリーだけではなかったようだ。思いのほか小さかった音色に、「……呼びに行った方がいいんじゃないのか?」イアリスは首を傾げた。



「――お待たせしました。それでは、ご主人様の元へ案内致します」



 しかし、心配は杞憂であった。


 女は、鐘の音が鳴り終わった直後に部屋に入って来て、深々と頭を下げた。そして、「――では、こちらです」マリーたちに背中を向けて一方的に移動を始めた。慌てて後を追いかけるマリーたちに、驚く暇は無かった。


 こつ、こつ、こつ……夜も深まった廊下に、三人の足音が響く。薄らと足元が確認出来る程度の照明しか灯されてないのは、節約のためだろう。


 慣れているのだろうが、それでも蹴躓くことなく歩けるのはたいしたものだ。明かりも持たずに先々進んでいく女の背中に、「あ、あのさ……」マリーは恐る恐る声を掛けた。



「なんで、ございましょうか?」



 女は立ち止まることはおろか、振り返ることもしなかった。



「その、もしかしてここの主人さん、かなり怒っていたりする……よな?」

「いいえ、怒ってはおりません」



 女の返答は、清々しいと思える程に簡潔であった。



「むしろ、久方ぶりの客人に喜んでおられるぐらいです。入浴の件に関しては主人から許しが出ております。どうか、お気になさらず」

「そ、そうか、そう言って貰えるとありがたい」



 なんて太っ腹な主人だろうか。よほどの金持ちか、よほどの善人か……あるいは、悪意か。判断は出来ないが、只者でないのは分かる。


 ……まあ、素直に厚意と受け取っておこう。


 そう判断したマリーは、まだ見ぬ主人に心の中で礼を述べる。この後すぐに対面するだろうが、どうしても今、思わずにはいられなかった。



「失礼だが、私からもいいだろうか?」



 二人の問答を見て、イアリスも尋ねた。



「どうぞ、ご自由に。私が許可されている範囲でしたら、お答えできます」

「いや、そこまで大そうなものでもないんだが……その、私たちはまだあなたに自己紹介をしていないことに気づいたんだが……」



 あ、そういえば……マリーは手を叩いた。


 言われてみれば、確かに互いに自己紹介をしていない。


 そう思ってマリーが顔をあげると、暗がりの中でイアリスが頭を掻くのが分かった。



「その、使用人であるあなたが先に名を名乗るのは作法に反するのかもしれないが、差し支えなければ名を教えてもらいたいのだが……」

「申し訳ありません。それに関してはお答えできません」



 暗がりの中で、女は前を向いたまま頭を下げる。


 それを見て、「あ、いや、不躾な質問だった」イアリスが慌てて頭を下げる……が「いえ、そういうわけではありません」女はそれを否定した。



「私には名乗る名前が無いので、答えられないだけです」



 え……イアリスとマリーが驚愕に顔をあげるが、女の声には微塵の揺らぎも無かった。



「製造番号か、あるいは製品名でしたらお答えできますが、いかがいたしましょうか?」



 ……この女は、何を言っているのだろうか。



 マリーとイアリスは互いに顔を見合わせる。


 新手の冗談なのだろうと思ったが、女の声や仕草にはそんなそぶりは見られない。「冗談……だよな?」マリーが聞き返すが、「冗談ではありません」女の声はやはり平坦であった。



(……前言撤回だな。ここの主人には悪いが、こりゃあ、雨が上がり次第、ここを出た方がいいかもしれんな)



 こんな辺鄙な場所に館を構える主人に召し使えるぐらいだ。


 もしかしたら、眼前の女はかなり変な性根なのかもしれない。



 加えて、そんな女を雇っているぐらいだから、おそらくはその主人も似たようなものだろう。


 ……淡々と先を行く女の背中を見て、マリーとイアリスは同じことを考える。


 二人から要注意人物としてマークされてしまったことに気づいているのか、いないのか。女の足が、ある扉の前でピタリと止まる。


 直後、女は軍人のようにきっちり90度、右方向に身体の向きを変える。


 異様とも言えるその動きに頬を引き攣らせるマリーたちを他所に、「ご主人様、お連れ致しました」女は扉を軽くノックすると、返事が返ってくる前に女は扉を開いた。


 開かれた中は真っ暗で、何も見えないぐらいであった。


 明かり一つ、点いていない。思わず目を瞬かせるマリーたちを見て、満開になった扉の脇で静かに女は頭を下げる……中に入れ、ということなのだろう。



 ……これは、罠なのだろうか。



 警戒の意味を込めて、イアリスの腹を軽く叩く。言われずとも察したイアリスが瞬時に意識を切り替えたのを感じ取って空、マリーはスルリと中へ入る。


 ……室内に入っても、やはり真っ暗だ。足元はおろか、手元すら確認出来ない。そんな暗闇の中、遅れてイアリスが入って来たのが気配と足音で分かった。



「あっ……」



 二人が完全に室内に入ったと同時に、扉が閉じられる。イアリスが振り返ったのが分かったが、マリーは構わず全方向からの襲撃に備えた。


 魔力を纏い、意識を完全に戦闘モードへと切り替える。どの角度、どの位置から攻撃されても反撃できるように、ゆるやかに脱力もしていた。



『……あの子からの報告通り、その見た目で話すのは日本語なのね……何だか意外だわ』



 しかし――そんな時であった。


 暗闇の奥から、温和な雰囲気が感じ取れる声が聞こえてきたのは。


 反射的に剣を抜こうとしたイアリスを、手で制しながら……マリーは、おそらく声がしたであろう方向へと視線を向けた。



「風呂の件でお礼を言う前に無遠慮で申し訳ないが、危害を加えるつもりが無いなら、明かりを点けてくれないか。お互いに顔も見られない状況で、どうしろっていうんだい?」



 マリーたちからすれば、それは当然の要望であった。


 館の中に入れてくれるばかりか、風呂まで貸してくれたという大恩があるとはいえ、こんな異質な対応をされれば態度が硬質化するのも致し方ない話であった。



『あら、あなた達は明かりなんて必要なの?』

「……意味が分からんな。あいにくと、俺たちに気の利いた冗談を返せというのは無理だぞ……期待には応えられんと思うぞ」



 とはいえ、それでも声の主……ご主人であろう人物の返答は、マリーを困惑させるには十分。イアリスも、質問の意図を欠片も察することが出来なかった。



『いいえ、この質問は私にとってはとても重要なことなの……あなた達二人を見極める為には、ね』



 しかし、主人にそのつもりはなく、冗談ではなさそうであった。



『もう一度聞くわ。あなた達は、明かりが無いと全く見えないのね?』

「……ああ、そうだ。はっきり言って、あんたが今どこにいるのかも分からん」



 それは、偽りの無い本音というか、マリーたちからすればいちいち言葉にする必要がないぐらいの、当たり前の話でしかなかった。



『……そう、それじゃあ、少し待ちなさい』



 そんなマリーの返事に何を思ったのか、ごそごそと暗闇の奥で何かをしている物音が聞こえてくる。


 警戒しながらも、暗闇の中で首を傾げるしかない二人を他所に、暗闇の奥から……カチリ、と音が室内に響いた。



 ――途端、廊下の方から重苦しい異音が響いた。



 重い何かが倒れたかのような……まるで、人一人が倒れたかのような異音に、ギョッとマリーたちは目を見開いた。



『停止スイッチに微塵も反応しない辺りを見ると、どうやら生身の人間のようね』



 そんな中、暗闇の奥から、うふふふ、と囀るような笑い声が聞こえてきた。新しい玩具を与えられた子供のような軽やかな声に、マリーとイアリスが振り返った直後……カッ、と室内に明かりが灯った。


 ――突然の光に、思わず二人は腕で目元を庇う。


 そして、しばしの沈黙の後……ようやく目が慣れたマリーたちが見たモノは。



「さて、まずは何から話しましょうか……迷うわねえ」



 沈み込んで抜けなくなりそうなソファーに座った、ブロンド髪の裸体の美女。衣服はおろか、下着すら身に着けていない抜群のスタイルをありのままに、麗しく足を組み替えていた。









「こんな辺境に人が訪れるなんて、幾月ぶりかしら……歓迎するわ」



 照明の光で露わになった互いの顔を見合わせてから、開口一番。女は、マリーたちを改めて受け入れると言葉にしてくれた。



「私の名前は……まあ、『ルリ』と呼んでちょうだい」



 とはいえ、明らかに偽名だと分かる言いぐさ。加えて、なんで裸なのだろうかとか、こんな場所で一人暮らしとか、先ほどの発言とか、色々と気になる点はあった。



「マリー君に、イアリスちゃんね。短い間だけど、ゆっくりと身体を休めていってね」



 しかし、ひとまずは隣の置いておくことにしたマリーたちは、自己紹介をした。すると、ルリと名乗った女主人は、にっこりと朗らかな笑みを浮かべた。



「さあ、立ったまま話をするのも何でしょう……まずは座りなさいな」



 マリーとイアリスは館の主人に促されるがまま、テーブルを挟んだ向かい側のソファーに腰を下ろし――何だこれ?


 あまりに柔らかすぎて、マリーの身体が沈み込んでしまう……そんな一幕もあったが、とにかく最初の不穏な気配は無くなっていた。



「お待たせいたしました」



 そう言って女がマリーたちの前に出したのは、今まで嗅いだことのない香りを放つ飲み物であった。


 湯気立つそれを見た瞬間、マリーはもちろん、イアリスも頬を引き攣らせた。



「み、緑色の飲み物……だと?」



 始めて見る色合いのそれに、マリーはそれ以上の感想が出なかった。


 隣に腰を下ろしたイアリスに至っては、毒と勘違いしたのか、仰け反るようにして湯気から顔を背けてしまった。


 それを見た主人は、思わず「え、知らないの?」と目を瞬かせた。


 けれども、すぐに「ごめんなさい」軽く頭を下げると、己の前に出された飲み物を手に取った。



「毒ではないわよ。これは、『玉露』と呼ばれる高級なお茶よ」

「ぎょ、ギョクロ……へ、変な名前だな」



 正直なマリーの感想に、「本当に知らないのね」ルリは軽く小首を傾げた。



「苦味もあるけど、ほんのり甘くて美味しいから、騙されたと思って飲んでみなさい」



 毒ではないことを示す為か、ルリは音を立ててお茶を啜る。ごくり、とわざとらしく喉を鳴らすと、大丈夫だから、と言いたげに微笑んだ。


 ……だ、大丈夫だよな。


 しばしの迷いの後、マリーはルリと同じく啜り呑む。ギョッと目を見開くイアリスを他所に、マリーの喉がゴクリと音を立てる……と、フワッとマリーの目が見開かれた。



「美味いな……これ」

「だから言ったでしょ、美味しいって」

「えっ!?」



 嘘でしょ、と言いたげなイアリスの視線が、マリーへと向けられた。



「ああ、見た目とは裏腹の美味さ……ギョクロ、っていう名前だったか?」

「ええ、そうよ。気に入って貰えてうれしいわ……イアリスちゃんも、どうぞ」

「えっ!? あ、はあ、い、いや、その……」



 冷や汗と脂汗が滲んだ顔で、実に困ったように視線が虚空をさまよう。はた目にも追い詰められているイアリスを見て、ルリは苦笑すると……改めて、マリーへと視線を映した。



「さて、と。幾つか聞きたいことがある……って顔をしているわね」

「あれ、分かる?」

「分かるわよ……あなた、感情がとっても素直に顔に出るんだもの……それで、何を聞きたいのかしら?」



 ルリの言葉に、マリーはもう一度玉露を啜って唇を湿らせると……それじゃあ、と話を切り出した。



「いきなりで悪いんだが、『東京』への行き方を教えて欲しいんだ」

「……東京へ?」



 ピクリと、ルリの肩が震えた。その事に気づいたマリーは、そうだ、と頷いた……が、困惑に眉をひそめるルリを見て、マリーの方も眉をひそめた。


 ……『東京』は、数ある都市の中でも有数の大都市だ。おまけに『ダンジョン』があることで、その名前は辺境にも知られ、『東京』の場所を知っている人も多い。



 ――ここがどこかは知らないが、まさか『東京』を知らないわけがないだろう。



 何せ、田舎の子供ですらその名が知られているぐらいには、有名なのだから……そう思ってマリーが首を傾げると、ルリはハッと我に返り……困ったように微笑んだ。



「ねえ、あなたの質問に答える前に、こちらから質問していいかしら?」

「……? ああ、いいけど……」



 マナー違反で申し訳ないわね。そう言った後、ルリはジッとマリーの目を見つめた。



「マリー君は、ココがどこかは分かっているかしら?」

「いや、あんたには悪いが、あいにくと全く分からん」



 素直にマリーが答えると、ルリはまた、ニッコリと微笑んだ。



「ここはね、『アメリカ』よ」

「へえ、アメリカっていうのか」



 聞き覚えの無い地名に、マリーはそう答える……途端、ルリの顔にまたしても困惑の色が浮かんだ。



「……アメリカ・テキサス州ダラスの郊外……この地名に覚えは?」



 言われて、マリーはイアリスと顔を見合わせる。首を横に振ったイアリスを見て、お手上げだと言わんばかりにマリーも首を横に振った。



「悪いが、聞いたことがないんだ。気を悪くしたら、すまない」



 その言葉に、曖昧な笑みをルリは浮かべると。



「いえ、気にしてないわ。でも、それだったらどうやってここへ……」



 おもむろに、考え始めた。「……どうかしたのかい?」マリーが様子の変化に気づいたときには、もう遅かった。



「……しかし……ありえない……だが……可能性は……」

「おい、おーい、聞こえてる?」

「やはり……しかし……これが……」

「おい、もしもし、無視するのは止めてくれないかい?」



 マリーの言葉が聞こえない程に思考を巡らせているのか、ルリは顎に手を当てたまま何事かを呟き、その目は虚空へと向けられていた。


 ……何を、考えているのだろうか。


 只事ではない雰囲気を醸し出し始めたルリを眺めて……すぐ。それは閃光のように一瞬で、マリーの脳裏に天啓が如き直感の雷鳴が鳴り響いた。



(もしかして、こいつも……あそこから?)



 そう考えれば、目の前の女の異常な格好にも納得が出来そうな……気がする。マリーたちと同じように脱出出来て……そして、精神に異常をきたしたのだろうか。


 そんな考えを巡らせながら、マリーはしばし視線をさまよわせた後……イアリスを見上げる。


 マリーと同じように迷いを見せながらも頷いたのを見て、マリーは……迷いに迷ってから、「実は」と、話を切り出した。



「……ここから徒歩で二十日間ぐらいの場所に、白い建物があるのは知っているかい?」



 ぼかした言い方ではあったが、変化は劇的であった。



「――っ!?」



 置かれたお茶が、立ち上がった拍子で倒れる。ポタポタト零れて行く玉露の匂いが立ちのぼる中、驚愕に見開かれたルリの視線が二人を見つめていた。予想が的中したことを、マリーとイアリスは理解した。



「俺とイアリスはダンジョンから……おそらくは魔法術の力で、そこへ飛ばされた。そして、俺たちはそこから脱出してきたんだ……命からがらな」



 零れんかぎりに大きく見開かれた瞳を、マリーとイアリスは見返す。


 そして、ルリも、マリーとイアリスを見つめた。



 ……その姿勢のまま、どれぐらいの時間が流れただろうか。



 いつの間にかテーブルを片付けた女が、新しいお茶をテーブルに並べる。「――失礼致しました」、扉が閉まる音で、ようやく意識が時間を取り戻したルリは……ため息と共にソファーへ腰を下ろした。



「……あなた達、あの場所から生きて出られたのね……それは物凄く幸運なことよ」



 それは、ルリがマリーたちの身に起こったことを、全て知っていると答えたに等しい言い方であった。



「その言い方から察するに、あの場所がどういうところなのか知っているんだな」

「ええ、まあ、知っているわよ」

「というと、あんたもあそこから逃げ出すことが出来た一人かい? それとも、あそこで行われていることを知っているだけの一般人かい?」



 マリーの率直な物言いに、ルリはこれまででとは打って変わって、「……少し、違うわね」表情を苦々しく歪めた。



「あそこから逃げ出したっていうのは正解。あそこで何が行われているかということを知っている一般人というのも正解。でも、一つだけ足りないことがある」



 一つ……ルリは、指を立てた。



「私はね、あの建物……昔、あの場所で働いていた職員の一人なのよ」



 瞬間、空気が凍りついた。







 果たして、反応したのはどちらが早かったのか、誰にも分からない。



「――っ!?」



 素早くソファーの後ろへ飛んだ二人は、拳を、剣を、油断なく構える。


 あいつらの仲間と判断したのだろう……それを二人の表情から察したルリは、「落ち着きなさいな」そう、二人を見つめた後……マリーへと視線を移した。



「とにかく、座って。あなたに、伝えなければならないことがあるの」

「てめえ、あいつらの仲間だったのか!」

「昔はそうだったけど、今は違うわ」



 その言葉に、マリーとイアリスの頬が怒りに歪む。



「……俺たちにしたことを考えたら、風呂の件なんざ何の意味にもならんぜ」



 魔力を練り上げ、何時でも迎撃できるように拳を握りしめる。イアリスも同様のようで、魔法剣『アルテミス』を握り締める手に力が入る。噛み締めた奥歯が、ギリギリと音を立てた。



「答えろ……お前は、一体何者だ?」



 マリーの問いに、場の空気が一気に重くなる。一触即発の、空気。ルリが少しでも不審な態度を取れば、即座に拳が、魔法剣の刃が、ルリの身体を切り裂き、砕くだろう。


 常人であれば、恐怖で腰を抜かし失禁してもおかしくない威圧感。僅かに光を放ち始めた『アルテミス』を前に、ルリはしばし目を瞑った後……また、マリーを見つめた。



「それを説明する為にも、落ち着きなさい。私をどうするかは、話を聞いてからゆっくり考えなさい。逃げも隠れもするつもりはないから――」



 そう言うと、ルリは深々とため息を吐いた。



「……『オドム』という名前に、聞き覚えはないかしら?」



 ポツリと飛び出た聞き捨てならない名前に。



「――なに?」



 マリーの顔から、怒りが消えた。


 それは隣に立っていたイアリスが困惑する程に顕著で、「……マリー?」イアリスにとってはあまりに突然な反応であった。



「……どうやら、あなたが彼女の言っていた『受け継ぐ者』のようね。だったら、これで調べた方が手っ取り早いわ」



 マリーの反応を見て確信を得たルリは、ソファーから立ち上がる。反射的に身構える二人を前に、ルリは颯爽と歩み寄る……と、その手が、カシュン、と音を立てて変形した。


 その見た目は、頭をすっぽり掴める、金属で出来た三本指の手、と言ったところだろうか。「う、腕が――」息を呑むイアリスを他所に、ルリは……そっと、マリーの肩に変形していない方の手を置いた。



「大丈夫、マリー君を傷つける為のものじゃないから」



 その手はどこまでも優しく、温かい。そして、ルリの顔に浮かんでいるのは……母を夢想させる、慈愛に満ちた笑みであった。それを真正面から見たマリーは……自然と、拳を下ろしていた。



 ――なぜ、俺は拳を下ろしているんだ。



 そんな言葉が脳裏を過ると同時に、マリーは……抱き締められていた。我に返ったマリーが目を瞬かせた時には、ルリの膨らみが胸板に潰れ、背中に回された彼女の手が、労わるように筋を摩っていた。



「いきなりのことで、困惑しているでしょう。でも、分かってちょうだい……私は、あなた達を傷つけるつもりもなければ、危害を加えるつもりもない……だから、あなたも剣を仕舞ってちょうだいな」

「う、うむ、むう……」



 警戒心を解いて脱力するマリーと、母が如く微笑を浮かべてマリーを抱きしめるルリ。


 その二人の姿にどうしていいか分からず、イアリスはしばし迷いを見せたが……ゆっくりと、剣を鞘に戻した。



「ありがとう」



 ニッコリと、ルリはイアリスに笑みを向ける。次いで、ルリはマリーから身を離すと……変形した金属腕で、マリーの頭を掴んだ。その力加減は実に優しく、ある種の心地よさすら覚える程であった。



「今から、あなたの中にある記憶を覗くわ。痛みも無いし、傷も残らないし、すぐに終わる。楽にしてくれていていいから」



 そう言い終わった直後、金属腕の一部分から光が放たれる。途端、青白い光がマリーの頭を包み込み、幾つもの光の線がマリーの頭を透過していく。異様な光景に、イアリスはもちろん、マリーも言葉が出なかった。



(……変な気分だぜ)



 それは不思議としか言いようがない感覚だと、マリーは思った。まるで頭の中を風が通り過ぎてゆくかのような気分で、ルリの言うとおり痛みは無く、そして……処置はすぐに終わった。



「……『東京』、魔法術、ダンジョン……あなた達の暮らしてきた世界は、人があっさり死んでしまう、とても厳しいものなのね」



 そっと金属腕を外したルリが、ポツリと感想を零した。



「あんた、俺の何を知っているんだい?」



 金属腕が宛がわれていた辺り摩りながら、マリーはルリを見上げる。変形した時と同じく、カシュン、と人間の腕に形を戻したルリは、軽く状態を確認しながら、「全てを知っているわけじゃないわ」ニッコリと……寂しそうに微笑んだ。



「ただ、私は果たさなければならない約束がある。『受け継ぐ者』であるあなたに、私の知り得ていることを全て伝える義務がある」



 そう言うと、ルリはそっと二人に今しがた変形をしていた腕を見せた。元の形に戻ったそれは、どこから見ても女性の腕にしか見えなかったが、イアリスの方は若干腰が引けてしまっていた。



「驚かせてしまってごめんなさい。随分と、怖がらせてしまったようね」

「え、あ、い、いや……気にするな。もう、色々と慣れてきた……」



 気遣われたイアリスは、少しばかりマリーの後ろに隠れていた……が、剣呑な雰囲気は出さなくなっていた。



「そ、それよりも……そんなふうになって、痛くは無いのか? それに、風邪を引くから、服を着ることをお勧めする」

「……えっ?」



 イアリスの視線が、ルリの腕に向けられる。冷や汗を流し、狼狽しながらも、その言葉を絞り出したイアリスに、ルリは……「ええ、大丈夫よ」けらけらと、声を出して笑った。



「見ての通り、私は脳を移植した機械人間。寒さなんて感じないし、見た目なんていつでも換えられるし、裸でいる方が色々と生きていることを実感できるのよ」

「そ、そうか……何を言っているかさっぱりだ」

「うふふふ、そうね、分からなくて当然ね。私の説明の仕方が悪かったわ」



 耐えられないと言わんばかりにルリは笑う……そして、しばし後。ふと、笑みを引っ込めたルリは、真剣な眼差しをマリーへ向けた。



「マリー君、私は、ずっとあなたを待ち続けていた」

「――っ!」



 マリーは、息を呑んだ。



「君がココに来たのは、決して偶然じゃない。おそらくは彼女か……あるいは運命があなたをここへ導いたのよ」

「……運命、だと?」



 ポツリと繰り返したマリーに、ルリは寂しそうに微笑むと踵をひるがえして……ソファーに座る。次いで、マリーとイアリスも最初の時と同じようにソファーに腰を下ろした。



「お待たせしました」



 直後、部屋に入って来た先ほどの女が、お茶を並べる。「ごめんなさい、茶菓子は無いの」と頭を下げるルリに、二人は無言のままに首を横に振ると……ゆっくりと、ルリは顔をあげた。



「ところでイアリスちゃん、あなたはどうするの?」

「えっ?」

「ここからの話は、とても長くなるわ。そして、ここからの話は、イアリスちゃんが知っても意味の無い事。あなたの心に負担が掛かるだけだと思うけど……どうする?」



 ルリの申し出に、イアリスはマリーに視線を向ける。「どうこう言うつもりはない、好きにしな」マリーから許しが出たイアリスは……ルリへ、力強く頷いた。



「……そう、それじゃあ、辛くなったらいつでもいいから部屋を出なさい。無理をしちゃ、駄目よ」



 そう言うと、ルリは深く背もたれに体重を預ける。点灯している照明を見上げて……ポツリと、呟いた。



「――ついに、この時が来たわけか」



 そして、深々とため息を吐いた。



「『受け継ぐ者』が私の元へ来たということは、彼女は最後の最後で間に合ったわけか……滅びへと向かっていた人類の唯一の希望を、彼女はようやく生み出せたのね」



 虚空を見つめるその瞳、何が思い浮かべられているのだろうか。


 見当もつかないマリーとイアリスであったが、二人の想像を超える何かがあるのだろうということだけは、何となく想像は出来た。



「もっとも、そんなマリー君をあの場所に連れて行く辺り……永き時に苛まれ過ぎて、精神に異常でもきたしたのかしら……」


 ――だとしても、いくら何でもアレは酷過ぎるわよ。



 そう呟いたルリは、しばしの間何事かを呟いた後……「さて、と」グイッと、姿勢を正し――。



「全ての始まりが何だったのか、それは私も断言はできない」



 ――静かに、語り始めた。



「私たちが気付いたときには、全てが遅すぎた。それでいて、あまりに愚かで独善的で、馬鹿な選択を繰り返した」


「力を合わせて立ち向かえばいいのに、私たちは争った。仕方が無かったとはいえ、都合の良い未来だけを盲信して、都合の悪い事実から目を逸らし続けた」


「手柄を求めるがあまり、その後の覇権を求めるがあまり……私たちは、唯一最後のチャンスを……自ら潰してしまった」



 マリーたちは、何も口を挟まなかった。そして、ルリも……口を挟んでほしくなかった。



「少し、昔話を始めるわ……と言っても、二人からすれば昔話だけど、私からすれば……ほんの数十年程度前の話だけどね」



 ……どういう意味だ?



 そう思って首を傾げる二人を前に、ルリは……また、寂しそうに微笑んだ。



「その様子だと、やっぱりまだ気づいていないようね……今はね……いえ、今、二人が居るこの時代は――」





 ――あなた達が暮らしていた時代よりも、数百年も前の今なのよ。





 そう言ったルリは、どこまでも真実を語っている、澄んだ目をしていた。



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