第六話: 秘められた一端
意味が……目の前の現実を受け止められない。
まるで初めての狩りに挑む幼子に戻ったかのような感覚。
腹の奥からせり上がってくる熱に、私は何も言うことが出来なかった。
「さて、と。驚くのも、無理はないかな」
そう言って、混乱のあまり、その場から全く身動きが出来ない私を他所に、ナナシは……マリーと同じ顔をしたナナシが、笑みを浮かべた。
(こいつは、いったい何者だ? 何故、私の前に現れたのだ?)
その態度に、幾ばくか冷静さを取り戻した頭が、新たな疑問を私に伝えてくれる。それは、これまで幾度となく頭に浮かんでいた疑問だった。
「――お前は、何だ? お前の目的は何だ?」
とにかく、それだけでも答えてもらおう。
それに思い至った私は、余計な事を考えるよりも前に尋ねていた。
「僕は何、か。うーん、改めて尋ねられると、どう答えればいいか迷うね。人間、って答えるのも返答にならないし……」
「答えられない、と?」
「いやいや、そういうつもりはないよ。上手い言葉が思いつかないだけ」
そう、ナナシは首と手を横に振った。言葉無く唇を動かして言葉を探っている辺り、本当に頭を悩ませているのだろう。
……その言葉に、嘘は感じられなかった。
……。
……。
…………まあ、いい。こいつが何であれ、重要なのは敵か、あるいはそれ以外か、だ。
そう判断した私は、後者の質問を再度ぶつけた。
「そっちは、そうだなあ……」
考え込む様に、ナナシの視線が上を向いた。
私としては、そちらが本命。
そして、おそらくはナナシが答え難い質問だろう……と考えていたが、何故かナナシはさらに笑みを深めた。
「強いて言うなら、『伝えること』。それが、それそのものが、僕の目的になるのかな」
……曖昧で、意味の分からない言い回しだ。
「やはり、あっさりとは教えてはくれないか」
微笑みながらの答えに私が目を細めると、「いや、別にからかっているわけじゃないよ」ナナシは困ったように首を傾げた。
「でも、嘘は言ってない。僕は彼女から与えられた役目を……彼女から授けられた真実の一端を伝えること。それが、今のところの僕の目的ってところかな」
……今の所?
「ほう、そうか。それはまた、簡潔な目的だな」
ずいぶんと勿体ぶった言い方だ……私を煙に撒くつもりなのだろうか。だが、『彼女』という言葉から推測する限りでは、仲間が居るようだな……何者だろうか。
「では、尋ねよう。『ただ、伝えること』。その目的が真実であったとして、何故、私になのだ? 見ての通り私は亜人で、おおよそ無知な方だ。お前が何を私に伝えたいのかは知らないが、相手を間違えているぞ」
周囲の気配を探りながら、用心深くナナシの動きを注視する。
ほんの一瞬の不審な動きであっても対処できるよう、警戒の意識を広げた。
「そこまで大そうな理由ではないよ。定められた条件を満たした者を前にすれば、僕はそいつが誰であれ伝えなければならない。強いて言うなら、ただ、それだけのことだから」
――例えその相手が、何も知らないであろう亜人の姫であっても。
――知ったところで理解も出来ない無知な娘であっても……ね。
そう続けられたナナシの言葉に……私は、しばし何も言えなかった。
「……その条件とは何だ?」
何とかその言葉だけを絞り出す。うーん、とナナシは困ったように首を傾げた。
「あいにくと、条件の中身は言えない。でも、一つだけ答えられるとしたら、それは『僕の前に来る』ということぐらいかな」
「お前の前に?」
「実はけっこう難しいし、凄い事なんだよ。僕の元にたどり着くのってさ」
気になる言葉に目を向ける。と思ったら、教えられると口にした通り、「ただ、お姉さんの場合は例外だけどね」ナナシはあっさりした様子で説明を続けた。
「お姉さんに関しては、事前に『彼女』からも幾らか言われていたからね。そういう意味では、別に君のお母さんが全てってわけじゃないよ」
――あ、先に言っておくけど、『彼女』に関しては答えられないから。
遮るようにそう言って困ったように頬を掻くナナシ。嘘を付いているようには見えないし、私を騙そうとしているようにも見えない。
だが、全て本当のことを言っているようにも思えない。
つまり、全てを話すつもりはないし、『彼女』と呼ぶ誰かの命令にも逆らうつもりはない……ということなのだろうか。
(畏怖しつつも、心からの敬愛を向けるに足る存在……か?)
私の中の直感が、ナナシの様子を見て『彼女』をそう判断する。
同時に、内心がどうであれ、あくまで余裕の振る舞いを崩さないナナシの姿に――
「まあ、安心していいよ。僕の役割はあくまで伝えるだけ。僕は別に君に対しても、あなたの新しい家族に対しても危害を加えるつもりはない……それだけは、信じてもらえるかな?」
――私は、確かにマリーの面影を見た。
「……っ!」
唇を噛み締めていたことを、舌から伝わる痛みで実感する。
お願い、そう言って困ったように手を合わせるその姿が、あまりに被って見えたからなのかもしれない。
「……まあ、いいだろう。ただし、怪しい真似をした瞬間、私は即座にお前の首をはねるぞ」
自分でそう言葉に出した途端、驚くほどに四肢の緊張が解けてゆくのを実感する。その理由が、ナナシの安堵の笑みだということが、少々癇に障った。
「――さて、それじゃあ話を戻すけど……どうしたらいいかなっていうのが、僕の今の正直な本音かな」
私が落ち着いたのを見計らったかのように、ナナシは朗らかな声で話を、空気を切り替えた。
「ある程度考えていたけど、お姉さんには何から話すべきか……まず、そこから考えないと駄目なんだよなあ」
ナナシは大きくため息を吐いた。「これまで探りは入れてきたけど、思っていたよりも面倒な感じになりそうだから」そこには、先ほどまであったある種の重苦しさ……そういうものが、既に無くなっていた。
「よりにもよって役割を果たさなければならない相手が、何も知らないお姉さんだからねえ……どう説明したらいいか、正直思いつかない」
「――待て、それはどういう意味だ?」
私自身、無知であることは重々承知している。だが、改めて無知であると言われると、少々頭に来るものがある。
少しばかり語気を強めると、途端にナナシは手を振って頭を下げた。
「ん~、別にお姉さんが悪いとか、そういう意味じゃないよ。というよりも、こうして『伝える者』としての役割を果たすこと自体が初めてのことだから、僕が勝手に戸惑っているだけ」
「『伝える者』?」
そういえば、先ほどこいつは『伝えること』が目的と言ったな。
「言葉通りさ。僕は彼女から歴史の一端を語る役割を与えられた、無数の内の一人。同時に、『受け継ぐ者』である彼の、無数にいる兄弟の内の一人でもある」
……『受け継ぐ者』? また、聞き慣れない言葉だ。
「あ、やっぱりそれも知らないか。『受け継ぐ者』っていうのは、君のお気に入りであるマリー・アレクサンドリアのことさ」
――なに?
思わず、私は息を止める。やはり……マリーの名前を聞いて、私は最初にその言葉を思い浮かべた。
そして、同時に、私は今しがたのナナシの言葉に思い至り、思わず驚きを手で隠した。
(『受け継ぐ者』の兄弟が、『伝える者』。ということは、つまり、ナナシはマリーの――)
「うーん、少し違う。限りなく近いけど、ちょっと違う存在だと思ってくれたらいいよ。ちなみに、双子とかじゃないからね」
――また、私は息を呑んだ。
こいつ、私の心を読めるのか……そう思って睨みつけると、「お姉さんって、隠し事下手でしょ」逆に呆れた眼差しを向けてきた。次いで、かりかりとナナシは頭を掻いた。
「あんまりそこは考えなくていいよ。それに関しては伝えろとは言われてないから伝えるつもりはないし、僕も今の生活を気に入っているからね。彼に巻き込まれてとばっちりを被るのは勘弁願いたいのさ」
「とばっちり?」
「おっと、今のは忘れてくれ。僕自身の力なんて大したもんじゃないし、いずれの時はモニカさんたちを守るだけで手一杯だからね」
その名前に、私は今更にして彼女たちの顔を思い浮かべた。
「――そういえば、モニカたちはお前とは……」
「このこととは無関係で、彼女たちは普通の人間。だから、巻き込みたくないの……分かってくれるなら、この話はこれ以上掘り下げるのを止めていいかな?」
「……分かった」
私としても、マリアたちのことがある。ナナシからそう言われてしまえば、私から無理強いは出来なかった。
(しかし、『受け継ぐ者』と、『伝える者』……か)
改めて考えてみるが、やはりどちらも……特に、『受け継ぐ者』ということの真意が掴めない。
辛うじて言葉の雰囲気から、その中身を推測することは出来るが……しかし、本当はどういう意味が含まれているのだろうか。
疑問は次々にわいてきたが、ナナシは「とにかく、その部分は理解してくれなくてもいいよ。僕の役目じゃないし、お姉さんの頭には難しすぎるから」そう言って完全に話を閉め括ってしまった。
……どうやら、これに関してはもう答えてくれないようだ。
私の混乱を他所に、ナナシは考え込む様に腕を組んで唸った……先ほどの言葉を信じるならば、次の説明に頭を悩ませている……といったところだろうか。
「――お姉さんは」
名無しの声に一瞬ばかり遅れて、私は顔をあげる。見れば、ナナシの視線は、いつの間にか『東京』の街並みへと向けられていた。
「マリーのことを……『受け継ぐ者』であるあの人のことを、どれだけ知っているのかな?」
マリーのこと……?
「それはどういう意味で、だ?」
そうだな……そう言って、ナナシは首を傾げた。
「例えば、彼の過去についてとか」
「マリーの過去……」
言われて、私はこれまでの日々のことを思い返す。
直後、私は思わず目を瞬かせてしまう。
私とマリーが出会ってから、まだ数か月……季節が一巡すらしていない短い期間であったことに思い至ったからだ。
始まりがアレで、その後は同胞と戦い、地下の世界でおぞましい化け物と争い、今はこうして得体のしれない何かと会話をしている。
改めて考えてみれば、自分はずいぶんと濃密な時間というか、数奇な運命を辿っているような気がして――いや、待て。
(――そういえば)
ふと、私の中で何かが止まった。
(――私は……あいつの何を知っているのだ?)
改めて、考えてみる。
だが、何も出てこない。
純粋にマリーとの時間が少ないのも理由の一つだが、それにしてもあいつのことを全く知らないということを、私は今更ながらに思い至った。
「まあ、そうなるだろうなあとは思っていたよ」
マリーと同じ顔をしたナナシは、そんな私の反応を分かっていたかのように私に完全に背を向けると、先ほどの場所にまた腰を下ろした。
(双子ではないとは言ったが……やはり、似ている)
その後ろ姿に……私は軽く目を細める。
なぜなら、その何気ない所作が……あいつの仕草そのものだったから。まるで、あいつが今ここにいるかのような気分にさせられたから。
髪の色と、瞳の色、そして、口調。はっきりと違う部分といえば、そこだけだろう。
言い換えれば、違うのはその三つだけ。むしろ、それだけを意図的に変えた、マリーの悪ふざけにすら思えてきてしまう。
仮に、目の前のナナシが『ちょっとした悪ふざけだ』と言って、己がマリーであると明かしたとしたら。
(私は……いや、確実に……その言葉を疑いすらしなかった……)
そして、私はマリーが扮した『ナナシ』に、館への帰還を促していただろう。髪や瞳の色の違いに気づいても、それが別人である可能性も考えずに。
(……こいつは、なんだ?)
ふと、頭の中で何度目かとなる同じ疑問がまた、よぎる。
(双子ではないと言ったが、それにしてはあまりに似すぎている……しかし、違うとするなら先ほどの言い回しはおかしいことになるし……)
それに、疑問なのはコイツの姿形だけではない。
見過ごしてはならないこと、捨てたはずの名を知るコイツの口から出た、私の母から教えてもらったという部分。
それも、私の勘違いでなければ……こいつは今さっき、死した母から教えてもらったと口にした。
(ありえない……我が母は、確かに死んだ。私の胸が膨らみ始めた頃にその生を終え、天に名前を返し、大地に帰った。その身体が炎の中で朽ちていくのも見届け、母の墓標も私が立てたのだ)
既にこの世にいない母から、捨てた我が名を聞く……そんなことが、本当に可能なのだろうか。死した者の声を聞き留めることが出来る者など……存在するのだろうか。
(だが、先ほどのアレは確かに母の教えだ。私を除けば我が弟ぐらいしか知らないはずのそれを、こいつは知っている。となれば、弟が口を滑らしたか……いや、それもありえない)
私が知る限り、弟はかつての私以上に強い憎悪を人間に対して抱いていた。
私以上に人間を軽蔑し、私以上に我ら以外を見下し、狩り以外では絶対に村の外へ出ようとはしなかった弟が……人間と接触を図ろうとするだろうか?
「言っておくけど、お姉さんのかつてのお仲間と僕が通じ合っていたとか、そういうことはないからね」
――一瞬、また心を読まれたのかと身構えてしまった。
「お姉さん、本当に分かりやすいね……見てないのに、驚いているのが伝わって来るよ」
けれども、ナナシからそう笑われて……私は……ため息と共に、肩の力を抜いた。目の前の状況を呑み込めなさすぎるせいか、それとも今のからかいのおかげなのかは、分からない。
ただ、こいつを相手に気を張ったところで仕方がないということだけは、何となく分かる。
分かるからこそ、私は「先ほどの母から教えてもらったという話……経緯を教えろ」臆することなく目の前の何かに尋ねていた。
すると、ナナシはそら来たと言わんばかりに笑みを深めた。
けれども、私の望むものではなく、それどころかナナシは実に楽しげに含む様に笑い声を零した。
それがまた……私の心を悪戯に逆立てる。
けれども私は、あえて何も言わなかった。私なりのせめてもの意地なのだが、そのせいか、ナナシはすぐにその笑みを引っ込めた。
「――自分というものがどこにあるか、それを考えたことはあるかい?」
ポツリと、ナナシの声が私の耳に届いた。
「……なに?」
考え込んでいたせいか、少しばかり返事が遅れてしまった。
「お姉さんが、お姉さんであると確定させる根本的な部分。それが自分のどこを差すものだと……お姉さんは考えたことはあるかい?」
「む……んん?」
――いきなりなんだ、お前は。
その言葉を、寸でのところで呑み込む。不覚にも、ナナシの質問に呆気にとられてしまい、母のことについて追及する流れでは無くなってしまった。
……仕方なく「……謎掛けか?」返事は返せたが、ナナシの言わんとしていることがまるで分からなかった。
正直、そういった謎掛けというか、(哲学と、イシュタリアは言っていたが)考え事は苦手だ。
我が母も生前はよく私にそういう考えを教えてはくれたが、当時の私には難しすぎて全然分からなかった思い出しかないから、余計に。
「――それじゃあ、さ。こうやってお姉さんが色々と考えたり出来るのは、身体のどの部分が動いているおかげなのかは……知っているかな?」
ああ、それなら答えられる。それは確か……。
「頭、か?」
「うん、正解」
ふわりと、ナナシは柔らかな笑みを浮かべた。
「もっと細かく言えば、その頭の中にある『大脳』って部分がそれに当たるんだけど……それは、誰に教えてもらったの?」
「うむ……昔、母から教えられた。ただ、『大脳』という言葉を聞くのは初めてだがな」
見なくても私の困惑が伝わったのか、ナナシは質問を変えた。そのことが少しばかり癪に障る。
けれども、どうにか答えられそうな質問に少し安心したのも事実だったので、あえて口に出すことはしなかった。
「そう、お姉さんが今そうやって思考を巡らせたり出来るのは、その頭の中に納まったモノのおかげ……それは、事実だ」
でもね、本当は……そう言って、ナナシは言葉を続けた。
「僕たちを本当の意味で識別する中枢は……もっと別の場所。大脳とは、器を制御する為の肉の司令塔でしかないんだ」
別の……場所?
意味が分からずに首を傾げると、ナナシは私へと振り返った。
「例えば、お姉さんが今ここで死んだとしたら、お姉さんはどうなると思う?」
「……いきなりだな」
唐突に、ナナシはそう言って私に質問を投げかけてきた。
意図が読めないままに「いいから、答えてみて」返答を促されたので、私はただ思うがままに「死者になるだけだ」答える。
すると、ナナシは嬉しそうに頬を緩めた。
「うん、正解。でもね、誰も知らないことだけど、実は少し違うんだ」
――違う?
首を傾げると、ナナシは言った。
「実はね、生き物がその生を終えた時……肉体から、『魂』と呼ばれるものが解き放たれる。解き放たれた『魂』は『膨大な力』と共に大気に飛び散り、放たれた力の放流と共に世界を巡り、そして、新しい器に宿るんだ」
……それはつまり。
「生まれ変わる、ということか?」
「おおむね、そう思ってもらっていいよ」
ふわりとそよぐ夜風が止まって、幾しばらく。
「……ところで、いちおう聞いておきたいけど、お姉さんは母親からこれらの話を聞いたことはある?」
何とも言えない沈黙を打ち破る様に語り掛けられた質問に、私は首を傾げて答えた。
「お前の言う『魂』と同じ物なのかは知らない。ただ、『生きとし生ける者の中には生命の結晶が宿っている』と教えられたことはある」
なにぶん、子供の時の話だから、細かな言い回しは違うと思う。
そう私が付け加えると「言葉は違うけど、間違ってないのが凄い」ナナシは苦笑して手を下ろした。
「そのとおり、『魂』とは、言うなれば生命の結晶。生きとし生ける全ての者に宿り、その者を表す根本的かつ普遍的な原初の形……それが、『魂』なのさ」
そう言うと、ナナシは両手を組んで祈る様に目を瞑る。
――途端、ナナシの胸元にふわりと光が灯った。
柔らかい色合いをしているそれは、不思議と見覚えがあるような気がした。
「それが、『魂』なのか?」
尋ねれば、ナナシは静かに頷いた。「この光は、僕の魂から放たれた力のほんの一部だよ」それはまるで暗がりに浮かぶ光虫のようで、決して強くは無い淡い光に、私は一瞬ばかり魅せられた。
「ここには、僕の全てが収められている。僕がこの地に産声を上げる前の記憶も、僕自身が忘れてしまった記憶も、全てがここに詰まっている……そう、これこそが、誰しもが持つ、その人だけの形なのさ」
その人だけの形……私だけの形……つまり……なんだ?
理解が追い付かないままに話が続けられる。正直、途中から何を言われているのかが分からなくなってきている。
(なんとなく、うっすらとは分かる……ような気もするし、分からないような気もする)
そう口に出すと、ナナシは「難しく考える必要なんて、ないよ」私を見て言った。
「この世に生きる全ての生命は、死を迎えると共に『魂』へと形を変える……いや、戻る。人間であれ亜人であれ、それに例外はなく、お姉さんも死ねば『魂』へと姿を戻す。僕が今話していることは、それだけのこと」
「私も、か?」
思わず、私は己を指差した。「不死身じゃない限りは、ね」ナナシからはっきりとそう言われて、私は不思議と何とも言えない気分になった。
それが何なのかが分からないことが、余計に私をそんな気分にさせる。
……ナナシは私の混乱を他所に話を続けた。
『魂』の旅路に終わりはなく、増えることも減ることも無いそれらは、全てが一つの流れに沿って循環している、と。
どれだけ細分化され、どれだけ回り道をしようとも、最終的にはまた元の形に戻るのだと……ナナシは言った。
死した肉体から解き放たれた『魂』は大地を離れ、風と共に世界を巡り、雨と共に大地へと降り立ち、様々な器へと宿る。
それが、この世界の仕組みなんだよ……そう、ナナシは言った。
……正直、あまりに漠然とした話過ぎて訳が分からないとしか私には思えなかった。
だがしかし、それと同時に。
(いちおうは、母の件に関しての説明には……なるのか)
ゆっくりと、私はナナシの言葉を呑み込んだ。
こいつの話が事実であるのならば、だ。
我が母もその命が果てたと同時に『魂』へと姿を変え、世界を巡ったということになる。
それならば、先ほどの発言。死した母と会話をし、私の名前を聞いたという話……いちおうではあるが、説明にはなる。
だが、そうなると今度はどういう経緯で我が母はナナシと出会い、私のことを教えたのか……その意味が分からなくなってくる。
(『死は、終わりではない。この世を巡る大いなる流れの一つになるだけ。生まれる前の本来の形に戻るだけ』……か)
ふと、母の言葉が頭を過る。
それは運命にも等しい偶然が成したことか、あるいは明確な意志の元に行われた奇跡か。
そして、死の病に伏した母の、今際の遺言……果たして、その真意はどこにあったのだろうか。
存命の時に尋ねていれば……いや、無駄か。尋ねたところで、おそらく私の頭では理解出来なかっただろう。
短慮な方である己では、母の思慮を読み解くことはおろか、うかがい知ることすら出来なかったと思うから。
「――さて、と」
はるか過去の思い出に飛ばしていた私の意識が、ナナシのそんなため息と共に現実に戻る。
「それじゃあ本題に入るよ。重要なのはここからだから、分からなくてもいいからしっかり聞いておくように」
「ちょっと待て」
気付いたら、私はナナシを制止していた。不思議そうに首を傾げられたが、それはこっちがやるべきことだろうと私は率直に思った。
「今からが本題ならば、今まで私に語っていたことは何なんだ?」
「ああ、それはお姉さんが聞きたがっていたことだよ」
「え?」
思わず目を瞬かせると、「いや、え、じゃなくてさ」ナナシは呆れたようにため息を吐いた。
「どうやってお姉さんのことを知ったのか……お姉さんが知りたかったことは、これで分かったでしょ?」
言われて、私は「あっ――」目を見開き……ため息が出た。些か回りくどいやり方に文句を言うと、「回りくどいも何も」逆に、ナナシは大きくため息を吐いた。
「『君のお母さんは死ぬと同時に『魂』となって大空へと舞い上がり、僕の元に伝言やら何やらを残しました』……っていきなり言ったら、君は信じるかい? 信じたとしても、かなりの割合で僕の話そのものを疑ったでしょ?」
そう言われてしまえば、私は何も答えられなかった。
実際、回りくどい説明を受けた後ですら疑念があるのだから、なおさら否定出来なかった。
「まあ、仕方がないことだけどね。いきなりこんな話をされて、理解しろっていうこと自体が無理な話だし……」
それを見たナナシは、これみよがしにまたため息を吐いた――。
「だから、お姉さんにはお姉さんが理解出来る範囲で、最低限のことだけを伝えるようにしているのさ……っと、それじゃあ話を戻すよ」
――と、思ったら、ナナシはいきなり私の前に手を差し出した。
思わず目を瞬かせた私は、眼前に差し出された手に仰け反ってしまったが、ナナシは気にした様子も無く話を続けた。
「この掌の上に、何かがある……それが何か、分かるかい?」
「掌の上……だと?」
言われて、ジッと目を凝らす。けれども、私が見た限り、そこには何も無かった。
「からかっているのか?」
――いいや、ちっとも。
真剣な眼差しでそう言われた私は再び目を細めると、しばしの間、ジッと目を凝らしていたが……それらしいものは何も無かったので、首を横に振った。
「実はね、この掌の上には、君の母親の『魂』から放たれた力の一片があったりするんだよね」
「――えっ!?」
思わずその手を掴んで顔を近づける。
掌にある皺の隅々にまで目を通すが見当たらず、「見ることはもちろん、捕まえることなんて絶対に出来ないよ」それどころかナナシはその言葉と共に手を引いた。
「正確に言えば、その一部は何もこの掌の上だけでなく……お姉さんの身の回りにも漂っている」
――思わず、私は周囲を見回す。次いで、母の名を呼ぶ。
「お姉さん、そんなことをしても意味は無いよ」
けれどもナナシから呼ばれて、母はすでに死んでいることを改めて思い出した私は、ナナシへと視線を戻した。
「母に会わせろ。私は、母に伝えねばならないことがある」
気づいたら、私はそう言っていた。
「無理だよ」
だからなのか、首を横に振ったナナシの悲しみの笑みに、私は食って掛かっていた。ナナシの小さな肩を掴み、爪を立てていた。
「何故だ? お前には分かるのだろう? 何故、出来ないのだ?」
「さっき答えたでしょ。ココにあるのは、魂から放たれた力のほんの一部。お姉さんが会いたいと願ったニーベルンクは、ココにはいない……あと、痛いから力を緩めて」
言われて、私は慌ててナナシの肩から手を離す。苦痛に顔をしかめていたナナシは、軽く肩を回した後……改めて私を見上げた。
「あいにくと、僕がニーベルンクと会ったのはかなり前のことだし、行方は僕も知らない。おそらく、『彼女』だって詳しくは知らないかもね。だから、僕にはどうすることも出来ない……ごめんね」
「……いや、すまない。お前は別に悪くないし、私も熱くなりすぎた……謝るのはこちらの方だ」
頭を下げようとするナナシを抑えて、話の続きを促す。ナナシもこれ以上この話を続けたくないのか、「それじゃあ、話を戻すね」また私に掌を向ける。
今度は、先ほどとは違う。私の目にも、見える。最初に見せてもらった『魂』とは違う色合いの、淡い輝きが掌に浮かんでいた。
……やはり、見覚えがあるような気がする。どこで見たのかは思い出せないが、比較的最近のことかもしれない。
「それは、母の『魂』から放たれた力の一部なのか?」
「うん、そうだよ、お姉さんにも見えるようにした。最初の時と同じように……そして、僕が言いたくて、同時に重要なのは、コレが今もここにあるっていうことなんだ」
……意味が分からない。
そう思って首を傾げると、「つまり――」私の言葉に軽く首を横に振ったナナシは、ジッとその光に視線を向けた。
「一部とはいえ、ここにあるのは数年も前に放たれた力の一片。しかも、放たれた場所はここから遠く離れた森の奥。なのに、今も消えずにこの場所に残っている……これって、凄いことだと思わないかい?」
「……?」
「分からない? 『魂』から放たれる力は、それだけ膨大だってことなの。目には見えないし触れられなくても、数年という月日が経過しても完全には消えないぐらいの力があるってことなんだよ。これって、凄い事実だと思わない?」
「…………?」
意味深な雰囲気を漂わせた瞳でこちらを覗くナナシに、私は頷けなかった。
なぜなら、ナナシの言わんとしていることが分からなかったから。
その言葉の裏を察することが出来なかったから、私は曖昧に首を傾げることしか出来なかった。
……その私の態度が良手だったのか、悪手だったのか、それは分からない。
ただ、特別表情や態度を変えることなくその光をフッとかき消したナナシに、私は何も言えないまま見つめることしか出来なかった。
そして、そんな私の反応をどう思ったのか、ナナシは「まあ、仕方ないんだけどね」私にまた背を向けると、しばしの間ジッと辺りを見回す。
次いで、深々とため息を吐くと。
「これで僕からのお話は終わり。こんな夜更けに付きあわせてごめんね」
『東京』の暗闇へと視線を落としながら、そう、言い切って話を終わらせてしまった。
「えっ?」
この時、何度目かとなる驚きに目を瞬かせる。
すると、ナナシは「えっ、って、驚くところじゃないよ」そんな私の反応が気に障ったのか、少しばかり苛立ったように顔をしかめた。
「最初に言わなかったっけ? 僕は無数に居る内の一人だってことを」
「――っ! まさか……!」
うん、そうだよ。ナナシは頷いた。
「『伝える者』は、僕一人じゃない。真実を知る為には、僕以外の『伝える者』も見つけ出さなければならない。ただ、それだけのことだよ」
……その言葉に、私は何も言えずに呆然とする他なかった。あれだけ勿体ぶった態度や言い回しをしておいて、コレ……だと……?
――ふざけるな。
そう、私は思った。
結局分かったことは、ほとんど無いじゃないか。
せいぜい、『魂』だとか、『伝える者』だとか、『受け継ぐ者』だとか、意味深なことばかり。正直、どうでもいいと思える程度のことばかりだ。
……必然と、握りしめた拳に力がこもるのを知覚する。
しかし、それは怒りからではない。拳に込められたのは、どうしようもない違和感と……どうして、という疑問であった。
「――お前の話が終わったのなら、次は私の番だ」
「えっ?」
私が知りたかったことを、ナナシは何一つ答えていない。
その事実が、引き下がるという選択肢を私に与えなかった。
「答えろ、ナナシ。お前は……何だ?」
「えっ、それはさっきも――」
全力の殺意を、初めてナナシに向かって放つ。途端、ナナシの身体が強張ったのが分かった。
「次は無い。はぐらかさず、私の質問に答えろ」
目に見えて緊張するナナシを前に、私はさらに睨みつけた。
「ナナシ……お前は、何故私を選んだ?」
「……何故って――」
「何故、私なのだ? お前にとって、『伝える』という役目とやらを果たすことは初めてのこと。なのに、何故私のような事情を知らないうえに知識も無い阿呆を選んだ?」
「それは、さっきも言ったけど――」
「いいや、違う。おそらく私は、お前の言う条件とやらを満たしていない……いや、これも違う。そもそも、条件なんてものは最初から無いのだろう?」
「――っ!?」
瞬間、ナナシの目が大きく見開かれるのが見えた。どうして、と、その唇が動いたのを見て……私は、ナナシへと歩み寄った。
「仮にそうだとしたら、何故私に嘘を付いた。それは、分からない。何故、そんな回りくどいことをしたのか、それも分からない。そもそも初めから全てデタラメの悪戯だったのか、それも分からない。しかし、一つだけ分かることはある」
「あっ――」
「今のお前が見せている、その目だ。しみったれて、ウジウジとして、見ていて苛立ってしょうがない。この期に及んで尻込みしている馬鹿野郎の目を、お前は今、している」
下がろうとしたナナシの肩を掴む。そして、ナナシの目線に合わせる為に、私はその場に屈んだ。
「お前が私を選んだのは、純然たるお前の意志。だが、重要なのは誰がそうしたか、ではない。何故私を選んだか、それこそが重要なのだ」
グイッと、顔を近づける。黒い瞳と目が合い、鼻先が触れ合うほどに近づければ……マリーとは違う、ナナシの臭いが胸いっぱいに広がった。
「答えろ、ナナシ。お前が本当に伝えたかったことは、何だ?」
そして、私は改めて尋ねた。
「お前が私に話したかったことは……私に聞いてほしかったこととは、いったい何だ?」
ひゅう、とナナシの喉が鳴るのを、私は聞いた。
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