第五話: その感情の意味を、彼女は知らない

 



 並べられたパンや蒸かした芋を、片っ端から口の中に放り込み、それをスープごと喉奥に流し込む。


 次いで、帰る途中で捉えた鶏の丸焼きにかぶりつき、骨ごと噛み砕いて飲み込む。


 頬張っていた頬が少しばかり引き攣ったが、私は構わず私用に盛られた蒸かし芋に手を伸ばした。



 とにかく、腹が減っていた。



 今の時間が夜であるという点と、一日中動き回った点と、この三日間の食事の量が少なかったことなどが理由であった。



(うむ、やはり血肉が一番良い。身体に力が染み渡っていくようだ)



 ここ三日間はほとんど動き回らずにいたおかげで、食べる量も人間と同じぐらいで我慢することが出来ていた。だが、やはり絶対的に食べる量が少なかったということを、身を持って痛感させられた。



 ……まあ、以前の、死にかけていた時ほどの飢えではないのでまだ楽ではある。



 けれども私は、こみ上げてくる欲求に流されるがまま、今しがた焼いて貰ったイノシシの肉をこれまた骨ごと噛み砕き、腹の中へ押し込み続けた。


 腹の中に押し込められたそれらが、片っ端から血肉へと変わっていくのが分かる。極度の空腹を満たした時だけに感じる、特有の感覚。


 カーッと腹の奥が燃え上がってしまいそうな感覚と共に、全身へと力が送り込まれていく何とも言えない心地よさに、私は大きく息を吐いて一息ついた。


 ……ふと顔を上げれば、ぽかん、と大口を開けたままの和人たちの様子に気づく。中にはスプーンを持ったまま動きを止めている子もおり、誰も彼もが呆気に取られた様子であった。



(……今日も、覆面は取らないのか)



 いや、少し違う。只一人、ナナシだけが我関せずと言わんばかりに黙々と食事を取っていた。


 食事の時であっても素顔を見せたくないらしく、口に物を運ぶたびに口元の布を緩め、口に入れるたびに締め直しているのが見えた。


 何ともまあ、器用な……いや、不器用というべきか。


 面倒くさいとしか言いようがない食い方をするやつだ……そう、私はナナシを見て思った。



「……いやあ、驚いたよ。ナナシに言われて大きな鍋二つ分を用意したけど、これならきれいさっぱり無くなるだろうね」

「食べない方が良かったのか?」

「いやいや、むしろ食べて貰わないと困るよ。私たちだけではどう頑張ったところで、幾らかを腐らせてしまうだけだからね」



 ハワードの笑い声に耳を傾けながら、新しく用意されたスープを皿ごと傾けて、一気に飲み干す。「そんなに慌てなくても、まだあるから」リンダの呆れた様子が、見なくてもよく分かった。



「――それで一人で10人分の薪を抱えて運び終えた後、そのまま『東京』の外へと向かった。そこで仕留めた猪を市場の顔見知りに、肉の一部と引き換えに処理をしてもらった。次いで、ここへ帰る途中で頭上を飛んでいた鳥をジャンプして捕まえた……っていうことでいいのかい?」



 確認をするかのようにモニカから尋ねられたので、私は素直に首を縦に振った。途端、モニカは困った様子で頬を掻くと、調理場に置かれた肉の山を見て……苦笑いを浮かべた。



「最初にアレを見た時、半分以上は他所さまにくれてやろうかと思っていたけど……この調子だったら、明日の夜には無くなりそうだよ」

「食べたいのであれば、好きに食べろ。私に遠慮など無用だ」



 ……もしかして、迷惑だったのだろうか。



 そう思って尋ねてみれば、モニカどころかナナシを除いた全員から首を横に振られた。ただ、「有り難いことだけど、置き場所に困る」と言われてしまった。



 ……そこまで考えが至っていなかったのは、私の落ち度だ。



 私としては明後日ぐらいには無くなりそうな量でしかないのだが、モニカ曰く、全員でも食べきれない量だったらしい。


 いちおう、『肉なんてたまにしか食えないから、嬉しい事には変わりないさね』と言ってはくれたのだが……まあ、良しとしよう。



「あ、そういえば――」



 そう思って私が自分を納得させると、今まで黙っていた子供の一人が話を始めた。


 見れば、この中では一番のお喋り好きなその子が、傍に居た男の子に話しかけていた。


 それにつられて、リンダが話しに加わり、レイモンドが茶化し、他の子供たちが思い思いに話し始めた。


 それを見たモニカとハワードも、笑みを浮かべて食事を取り始めた――と、思ったら女の子に話し掛けられて手が止まり、粗相の悪い子を叱りつけ……うむ。


 何とも忙しない光景の始まりに、私は思わず目を瞬かせることしか出来なかった。


 それまで私のせいで静まり返っていたのが、嘘のような騒がしさだ。

 けれども、それは決して煩いわけではない。聞いていて嫌にならない、むしろ楽しさだけが胸に残る……何とも気持ちの良い騒音。



 『家族』



 その言葉が自然と頭に浮かぶ。傍に置かれたタオルで口元を拭った私は、自分でも分かるぐらいにぼんやりとした気持ちで、目の前の彼らを眺めていた。



(まだ母が生きていた頃は……私もこの中の一人だったのかもしれないな)



 幼い頃の自分。思い返そうとしてみても、頭に浮かんでくるのは母の悲しげな顔ばかり。


 私と弟にこそ笑みを向けてはくれていたが、村の者にはほとんど笑顔を見せなかった……そう、私は覚えている。


 だからなのか、それとも別の思惑が有ったのか……それは、今でも分からない。


 ただ、母は仲間から汚名を受けてでも、私と弟を決してあの狂乱の場に連れて行かなかったし、そこへ行くことを強く禁じた。


 時には、私と弟に声を掛けてきた仲間に牙を向けたことすらあった。



(……あの頃の母は、何を望んでいたのだろうか)



 ふと、そんな考えが頭を過るのは、目の前の光景に昔を思い出したからなのかもしれない。不思議と、母と話がしたくて仕方がなかった。



 ……なんだか、腹が膨れてしまったようだ。



 すっかり食欲が失せてしまった私は、何をするでもなくスープをスプーンで掻き回していると……カタン、と視界の端で一人の子供が椅子から降りた。



「おや、ナナシ。もういいのかい?」

「うん、ごちそう様。今日はあんまりお腹が空いていないんだ」



 ――降りたのは、ナナシだ。言葉通り食欲が無いのか、ナナシの食器にはまだ半分以上が残されたままであった。



(また、こいつは地下の部屋に引きこもるのだろうか)



 そう思いつつ、今日もまたナナシの後ろ姿を見送る。実際に中を見たことは無いが、他の者たち曰く、『物置代わりにも使われている』部屋らしい。


 お世辞にも寝心地の良い場所ではないらしいが、なぜかナナシは好んで自分の部屋にしているという……ん?


 何時もならそのままこの部屋を出て行くはずの後ろ姿が、一向に出て行こうとしない。


 何をしているのだろう……そう思って首を傾げると、これまでとは違ってナナシが私の方へと振り返った。



「お姉さん、この後は空いているかな?」



 ――瞬間、反射的に立ち上がらなかった自分を褒め称えたかった。



「……ああ、空いているが、それがどうした?」

「前に言ったでしょ。お姉さんと、話がしたいって……」



 そう言うと、ナナシはハワードとモニカの二人に視線を向けた。


 それだけで、二人は何かを察したのか、「あんまり遅くならないように」それ以上は何も言わなかった。何となく、ナナシとハワードたちとの間にある信頼を見せつけられたような気がした。



「行こうか」



 そして、するりと暗闇の向こうへと消えていくその背中を見て。



「……ああ」



 私は、椅子から腰を上げた。








(……すっかり夜も更けたか)



 日が落ちた、通り道。柔らかく降り注ぐ月明かりに照らされた、小さなナナシの後ろ姿。沈黙を保ち続けるその小さな背中を見つめながら、未だ私は黙ってその背中の後に続いていた。



 ――少し、歩こうか。



 そう言って『キルステン孤児院』を出発してから、かれこれ小一時間は過ぎただろうか。今では辛うじて見覚えがあった街並みもすっかり消え果て、周囲全てが初めての光景ばかりが広がっている。


 ただ闇雲に歩き回っている……いや、それは違う。


 ナナシの足取りには何の迷いも見られない。加えて、孤児院を出発する際に見たナナシの瞳には……何か、確固たる意志が見受けられた。



 ――いったい、私に何を見せたいのだろうか。



 ナナシの思惑を思いながら、そのまましばらく歩き続けると……その足が、ある建物の前で止まる。


 それは、様々な建物がある『東京』の中でもひと際高く、館からでもその天辺を眺めることが出来た……確か、マリアたちが『観測塔』と呼んでいた建物であった。


 『東京』の中央に立ち、町全体を見渡せるそれは、火事などの災害をいち早く察知する為に建てられた……と、教えられた記憶がある。


 その塔の上の部分にわずかな光が見え隠れしているのは、おそらく監視員のものだろうか。私の位置からは、そこまで詳しくは見えなかった。



「それじゃあ、お姉さん」



 ――建物の大きさに気を取られていたせいか、一瞬ばかりナナシの声に反応が遅れた。



「監視の人に見つからないように気を付けてね」



 そう言うと、ナナシの身体からわずかに光が灯ったと思ったら、音も無く浮き上がる。


 次の瞬間、その身体は流星のように空へと駆け上がり、ふわりと……塔の頂点に着地したのが見えた。



 ……見上げれば、こちらに手を振っているナナシがいる。



 人間の目には到底見えない距離のはずだが、それでも手を振るということは……私が見えていることを理解したうえでのことだろう。



(やはり、ただの子供ではなかったか……!)



 あれは……魔法術なのだろうか。だとしたら、ますますもって不可解なやつだ。


 そう思いながらも、私もあいつの後を追いかけて夜空へと飛ぶ。ひゅう、と横殴りの夜風に体勢が崩れたが、勢いを殺さずに体勢を立て直し……静かに、ナナシの後ろに立った。


 塔の頂点は、はっきり言って狭くて何も無かった。


 まだ人の姿が確認出来た下層とは違い、鉄骨が少しばかり飛び出した、足場としか言いようがない場所。そこに腰を下ろしたナナシは、ぶらぶらと足を遊ばせていた。



「問答をするつもりはない……いいかげんに話して貰おうか」



 そして、私の我慢も限界であった。未だこちらに振り返る様子を見せないその小さな背中の後ろに、「お前はあの時――」私は尋ねていた。



「どうして、私の……捨てたはずの我が名を口にしたのかということをな」



 ひゅう、再び吹いた夜風が、私の疑問を後押ししてくれた。



 ……。


 ……。


 …………沈黙が続いてから、どれぐらいの時間が流れたのかは分からない。ただ、ナナシからの反応はこれまでと同じく突然で、また、それ以外の素振りすら見せなかった。



「――教えてくれたからだよ」



 これまでと同じく、ナナシは『東京』の街並みに視線を落としながら、ポツリと私の疑問に答えた。



「誰にだ?」



 大人しく、はぐらかされるつもりはない。そう思って、私は少しばかり強めに詰め寄った。



「あなたの、良く知る人だよ」

「そいつは誰だ? どこに居る?」

「さあ、誰だろうね。まあ、ココには居ないってことだけは確かさ」



 ……こいつ、この期に及んではぐらかすつもりなのだろうか。だとしたら、随分となめられたものだ。



 同時に、そこまで生温いやつだと思われていることに、ただでさえ熱を持っていた怒りに、さらなる火がくべられたのを実感した。



 ……どうしてだろうか。自分でも分からないが、なぜかコイツの言動に苛立ちを覚えてしまう。



 いつもなら取るに足らないからかいだというのに、なぜかコイツに言われると……無性に癇に障る。コイツのことを考えれば考える程、知ろうと思えば思う程……どうしようもなく腹が立ってしまう。


 沸々と湧き上がってくる激情を押さえながら、そっと、ナナシの背後に立つ。己が腕の爪を研ぎ澄ませ、その先端で……優しく、ナナシの背中を摩ってやった。



「あいにくと、背中は痒くないよ」



 それでも振り返らないナナシに……ギリッと歯ぎしりをしてしまった。気づいたとき、「その気になれば、私は何時でも貴様の首をへし折れる」私はそうナナシを脅していた。



「今、ここで貴様を殺すのは簡単だ……ほんの一瞬ばかり、この腕を前に付き出せばいい」

「…………」

「少しばかり腕に力を込めるだけで……貴様は死ぬ。岩をも切り裂く我が刃が、貴様の小さな身体に風穴を開ける……それは、私にとってはあまりに容易いことだ」

「…………」

「選べ……私に全てを教えるか、それとも、ここでその生を終えるか。どちらか一つを選べ……!」



 そう言って、私は少しばかり腕に力を込める。服越しに感じるナナシの弾力。


 こみ上げてくる嫌悪感を舌打ちして誤魔化すと、私は「考える時間は、そう無いぞ」ふう、とナナシの首もとに熱気を吹きかけた。



 ……そして、幾ばくかの沈黙。ひっきりなしに吹く夜風が、私とナナシの身体とぶつかって、流れて行く。



 はるか彼方に浮かぶ月が、三度ほど雲の陰に隠れた後……暗闇の中で、その声がポツリと私の耳に届いた。



「ワーグナー……もう、自分を責めなくてもいいんだよ」



 ふわりと、生暖かさすら覚えそうな月の光が、私たちを照らした。



「……なに?」



 ――一瞬、私は言われたことを理解出来なかった。



「ここには、心優しい君を責めるものなんて何も無い。君はもう、自由に生きていい……君が背負うものは、何も無いんだ」



 けれども、何故か……ナナシの命に突きつけた指先から、力が抜けて行くのを実感した。それが、何よりも私の心を乱した。



「牙を研ぎ澄まし、爪を剥き出し、言葉にすら出して己を奮い立たせた。そこまでしないと刃を向けられない優しい君を責める者なんて、この場にはいない」

「……お前は何を言っているんだ?」

「忘れることも時には大事なことなのさ、ワーグナー。そんなものを背負ったところで誰もあなたを褒めてくれはしないし、何も変わりはしないよ」

「……命乞いの、つもりか?」



 頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出すと、何故かナナシが笑い出した。背丈相応の子供っぽい笑い声……それを聞いて、こいつも普通の子供なのだな、と私は安堵のため息を零した。



(……待て、今、私は、なんで安心したのだ?)



 ため息を吐いた唇を、反射的に押さえる。しかし、それで何かがどうなるわけでもなく……本当に、わけの分からない気分になってきてしまった。


 そう、本当にわけが分からない。


 安堵してしまう自分も、ナナシに苛立ってしまう自分も……ただ、一つだけ。ナナシの言った『忘れる』という言葉に、胸の奥が少しばかり……軽くなったのだけは分かった。



「――ナナシ、お前は……人間なのか?」



 私はその小さな背中に問いかけていた。


 何故、そんなことを聞こうと思ったのか、それも分からない。


 ただ、気付いた時には、胸の奥から出てきた言葉をそのまま口走っていた。



「何に見える?」

「なに?」

「人間なのか尋ねるってことは、僕が人間以外の何者かだと思ったからでしょ? だったら、君の目から見て……僕は、何に見える?」



 それは、想像すらしてなかった質問であった。意図を探ろうとして混乱してしまった私は、自然とナナシの背中から……完全に手を下ろしていた。



「お前は、我らと同じ亜人なのか?」



 思わず声を強めるが、「さあ、どうだろうね」ナナシははぐらかした。



「何でもいいよ。心の中に思いつくことを、当てずっぽうに言えばいい。別に制限があるわけじゃないし、当たるまで繰り返してもいいよ」

「ならば、お前は人間か?」

「少し、違うね」

「ならば、亜人か?」

「それも少し違う……一つ、ヒントをあげよう」



 そう言うと、ナナシは振り返った。


 黒い瞳が……あの、心をざわつかせる視線が、私を見つめた。



「難しく考える必要なんてないんだ。君はもう、答えと出会っているのさ」


 ……それは、いったいどういう――。


「さあ、そこからは自分で考えてね」



 言い終えると、ナナシは再び『東京』の街並みに視線を落として黙ってしまった。びゅう、と吹いた夜風が通り過ぎた後……待っていたのは、あまりに静かな静寂だった。



 ……答えるまで、沈黙を保つつもりなのだろう。



 そして、正解を引き当てるまで決して自分からは答えを言わないだろう。


 それを言われずとも分かった私は、改めてナナシの後ろに腰を下ろした。


 そして、そのまま私は……静かに記憶を探る。そうしろと、私の中の何かが教えてくれる。そう、答えはおのずと私の中に――。



「……マリー」



 無意識の合間にその名を零した瞬間、私の中で何かが……今まで胸中の奥で滞っていた何かが噛み合った気がした。


 次いで、何故それを口走ったのかを考えるよりも前に……私は、「……いや、違う」そのまま無意識を零し続けた。



「お前は、マリーじゃない」



 そう続けた瞬間、眼前の小さな背中がわずかに震えたのが見えた。



「でも、似ている」

「……その、マリーって人と?」

「いや、違う。私が似ていると思ったのは――」



 その瞬間、私の中で……その言葉がふいに出てきた。



「かつての我が同胞たちだ」

「……どこが?」



 聞き返されて、私は反射的に手で目元を覆い隠した。



 ――そうだ。そうだった。



 噛み締めた唇から血が滲むのを感じながらも、私はこみ上げてくる激情を悟られないよう必死に堪えた。


 私がコイツを見た時に覚えた感覚。コイツの目を見るたびに覚えたあの感覚。苛立って、悲しくなって、どうしようもない気分にさせられたのは――。



「絶望の中でもがきながらも、過去に囚われたまま動くことも出来ず、全てを諦めてしまっている……かつての同胞たちと、同じ目の輝きをしているところだ」



 そう、同じだったのだ。コイツを見た瞬間、私は同じだと思って……無意識の内に、考えないようにしていたんだ。



「お前は、人間じゃない」



 でも、もう気づいてしまった。



「そして、亜人でもない」



 気づいてしまった以上、もう私は……答えなければならなかった。



「ナナシ、お前は……死者だ。心を殺してしまった、生きている死者だ」



 だからこそ、私はナナシにそれを突きつけた。



「生きながらにして心が死んでしまっている生き物。それが、お前だ……ナナシ」



 言ってほしかったであろう答えを、突きつけて欲しかったであろう答えを……その背中に、叩きつけてやった。







 ……フッと、辺りが暗闇に包まれた。もう何度目になるかも分からない暗闇の中、私は黙ってナナシの反応を待つ。日が昇るまで、待つつもりだった。



(急かしてはならない。ナナシは今、己と戦っているのだ)



 不思議と、ナナシの心の気持ちが伝わって来るような気がした。


 かってにそう思っているだけなのだろうが、疑問を挟む余地もないぐらいに、確信を持ってそう思える。


 だからこそ、凍り付いてしまったかのような背中を見守り続けることを、私は選んだ。



「――お姉さんは、自分の過去を……自分の生まれる前のことを知ろうと考えたことはある?」



 暗闇の中で、ナナシの背中が動いたのが分かった。



「考えたことが無いといえば、嘘にはなる。だが、わざわざ調べようとまでは思ったことはない」

「それは何故?」

「知ったところで、所詮は過去の出来事。私自身が変わることなど、何も無いからだ」

「……じゃあさ、仮に、仮にだよ。もし自分が……誰かの予備として生まれ、そして破棄された存在だと分かったら……お姉さんなら、どう思う?」



 暗闇の向こうから聞こえてくる声は、震えてはいなかった。


 けれども、それはただ震えていないだけだということは、すぐに分かった。



「どうも思わんさ。必要が無いと捨てられたのなら、後は私の自由だ。好きな場所に行き、好きなように暮らし、好きなように朽ち果てる。何も変わりはしない」

「……お姉さんは、強いね。僕も、そう考えられたら良かった」



 ふわりと、月の光が世界を照らした。私の目に飛び込んできたのは、黒い髪を夜風にたなびかせたナナシの後ろ姿だった。



「……そういえば、答えてなかったね」



 パタパタと、ナナシの右手に握りしめられた覆面がはためいた。



「僕がお姉さんの名前を知っていた理由はね……君のお母さんに教えてもらったからなんだよ」




 ……なに?




「ああ、でも勘違いしないで。教えてもらったのはつい最近で……正確にいえば、君の母親が死んだ後だから」

「……な、何を言って……」

「おや、忘れちゃったのかい? 君がまだ幼い頃、君の母親がよく君に話をしてくれただろ?」



 そう言うと、ナナシは立ち上がった。混乱する私をしり目に、ナナシはこともなげに言い放った。



「『死は、終わりではない。この世を巡る大いなる流れの一つになるだけ。生まれる前の本来の形に戻るだけ』……賢者と称えられたあなたの母親である、ニーベルンクの言葉だよ」

「――そ、そんなこと……!」



 そんなこと、知っている。何故ならそれは、私だけが知っている……母の最期の言葉だから。



 そして、言葉無く呆然とするしかない私を前に……初めて、ナナシが振り返った。



(――えっ)



 瞬間、私は不覚にも……己の息が止まるのを実感した。


 なぜなら、そこに姿を見せたのは――。



「……マリー?」

「違うよ。僕はナナシさ。名前の無い破棄された大勢の『名無し』の内の、一人なのさ」



 あいつと全く同じ顔をした、黒い髪と黒い瞳を携えたナナシだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る