第六話: 轟く産声




 ――ふと、目が覚める。




 けれどもそれは、目が覚めたことを自覚しただけである。


 たった今、目が覚めた……ということを認識したマリーは次いで、鉛のように重い己の四肢を実感した。


 身体はもちろん、頭も重い。思考も鈍く、目を開けることすら億劫で仕方がない。だからなのか、手足の先が氷のように冷たく思えてならない。


 まともに動かない頭でそれを理解したマリーは、少しでも温もりを得ようと手を伸ばし……ぱしゃり、と突っ込んだ水の感触に。



「――っ!?」



 ハッと、目を見開いた。自分が何に触れたのかを理解するよりも早くその場から飛び退き――えっ、と息を呑む。次いで、慌てて辺りを見回し――言葉を失くした。



 そこは、マリーの感性で言うならば、だ。光り輝くガラスと、鉄のような無機質な何かで構成された世界であった。



 鏡のように滑らかな床、デコボコとしながらも汚れ一つ無い壁、昼間のように強い光を放つ天井。


 氷のような冷たさすら感じられるそれらを前に、マリーは呻くようにして後ずさり……腕の中にあったはずの温もりが無くなっていることに、目を見開いた。



 ――サララ!?



 確かにあったはずの温もりが、無い。


 その事実に怖気にも似た戦慄が、背筋を走る。「サララ!?」気づけばマリーはその名を叫びながら辺りを見回し……そして、頬を引き攣らせた。



 ――ここは、まさか……あそこか!?



 イアリスと共に閉じ込められた、過去の世界。そこで見せつけられた、地獄すら生温いと思える程のおぞましい光景。


 強烈なまでに記憶の片隅を抉るそれらを思い出させられたマリーは、改めて辺りを見回す。



 ……だが、どこにもサララの姿が見当たらない。



 もしかしたら、寝ている間に離された……その可能性に思い至ったマリーは、一刻も早くサララを見付けようと踵を翻し――たたらを踏んで、立ち止まった。


 マリーの眼前には、ともすれば見落としてしまいそうなぐらいに透明な、ガラスケースがあった。


 その大きさは、だいたい4メートル四方ぐらいだろうか。ぶつかる寸前で立ち止まれたのは、天井の照明によるわずかな光の反射と、ケースの中に収められた、大量の……砂のようなもののおかげであった。



「……なんだ、これ?」



 今さっきまで、こんなものは無かった……はず。


 振り返った時も、辺りを見回した時も、こんなものは無かったはず……そう、無かったはずなのに、何故こんなものが?


 赤色、青色、緑色、黒色。


 様々な光が、ガラスの表面を這い回っているかのように光が動いている。右に左に、上に下に……文字とも取れなくもないそれらは、まるで生きているかのように常に変化し続けていた。


 ……あまりに異様な状況に、マリーは逃げることも忘れてその光と、ガラスケースの中にある砂の山を見つめる。


 照明に照らされたその砂の山は、どこから眺めても砂にしか見えない。もしかしたらと思って目を凝らすが、やはり何も――。



『――、――』



 ――その瞬間、声がマリーの鼓膜を震わせた。


 次いで、視界の端に映ったのは、真っ白な袖口から伸びる指先。それは音も無くマリーの視界から外れ……それっきりとなった。



 ――あまりに気配が無く、あまりに突然過ぎて、反応が遅れた。



 ハッと我に返ったマリーが、状況が呑み込めないまま迂闊にも振り返って……ぽかん、と大口を開けた。



 ――そこには、大勢の人達がいた。



 いったい、何時の間に現れたのだろうか。今の今まで気配も何も感じなかったし、先ほど辺りを確認した時には影も形もなかったはずなのに。


 老若男女の全員が白衣に袖を通し、思い思いの場所で、その人たちは何かの作業に没頭していた。と、同時に、会話……のような声が至る所からマリーの耳に届いたが、何一つマリーは理解出来なかった。


 聞いたこともない、言語であったからだ。


 そして不意に……彼ら彼女らの視線が、マリーの方へと向けられる。一斉に向けられたソレに思わず肩をびくつかせるマリーだが、すぐにソレが違うということを理解した。



「……これを、見ているのか?」



 振り返ったマリーは、ジッとガラスケースを見つめる。


 向けられる視線……それは、マリーに向けられたものではない。


 まるでマリーが見えていないかのように、その全てがマリーの向こうにある……このケースへと向けられている。


 ……いったい、この砂にしか見えない物体が何だと言うのだろうか。



「なあ、ちょっと聞きたいんだが――」



 それが気になったマリーは、たまたま隣に来た男に声を掛けた……のだが。



「……なあ?」



 男は、マリーの声など届いていないかのように何の反応も示さなかった。その視線はあくまでケースの向こうへと向けられており、意識すらマリーの方へ向けていなかった。


 ……首を傾げながらも、もう一度声を掛ける。


 だが、やはり男は反応しない……もしかして、声を掛けられているということが分かっていないのだろうか。


 ……ありえるかもしれない。何やら言葉が違うようだし、自分もこいつらが何を話しているのかが分からないし。


 そう己を納得させたマリーは、「なあ、ちょっといいかい」そっと白衣の裾を掴もうと手を伸ばした――瞬間、するりと指先が空気を抓んだ。



「あれ?」



 今、確かに抓んだはず……そう思いながら、もう一度手を伸ばす。


 だが、指先は変わらず虚空を掴む。え、と目を見開きながらも今度は掴もうと……したが、手はするりと男の身体を突き抜けた。



「は?」



 呆然と、男の顔と男の胴体を貫いている己の腕を交互に見つめる。男は相変わらず気づいた様子はない。


 初めからマリーなど存在しないかのように振り返り――ふわりと、マリーの身体をすり抜けて、そのまま人混みの向こうへと行ってしまった。





 ……。


 ……。


 …………理解出来ない……というか、理解が追い付かない状況に、マリーは立ち尽くすことしか出来なかった。


 しかし、何時までも呆然とはしていられない。「二人は……」今更ながらに、サララとドラコのことを思い出して出入り口を――。



『――ようこそ、我が故郷へ』



 ――探そうとしたマリーの足が、その場で止まった。


 背後から掛けられた声に、弾かれるようにして振り返り……構えた。



『――待っていた』



 そこには一人の、不思議な出で立ちの少女が立っていた。



『――受け継ぐ者よ』



 ワンピース系の真っ白な服の下から伸びる手足は、それ以上に白くて細い。


 深緑を思わせる長い髪を背中に流し、それ以上に透き通った色合いの緑の瞳。


 穢れを想起させない無垢な雰囲気に似合う、整った顔立ち。その顔は、マリーにとって初めて見るものであった。



「……『オドム』、それがお前の素顔か……けっこう、拍子抜けだな……俺はてっきり、腐ったリンゴのような顔をしているのかとばっかり思っていたぜ」



 だが、マリーは眼前の少女が誰なのかが、すぐに分かった。


 雰囲気……直感……言葉には出来ない何かが、目の前の少女がそうであると教えてくれたからであった。


 だが、同時に。



(……違う)



 内心、マリーは首を傾げていた。



(同じだが、違う。あいつだが、あいつじゃない)



 何故、そう思うのか……それについて、マリーは答えらしい答えが思いつかなかったが、何故かそうマリーは思った。と、同時に……ふと、気になることを思い出す。



(そういえば、夢の中で出てきたあいつは、よくわからん言い回しをしていたな……自分は良いけど、自分は駄目……みたいな言い回しだったか?)



 さらに思い返せば、最初に夢で出会った時も似たような言い回しをしていたような……あれはいったい……。



「それで、今度は何のようだ?」

『――何の用、とは?』



 その言葉を返された瞬間、マリーは反射的に舌打ちをした。



「お前の望み通り、お前の思惑通り、俺は『ダンジョン』に来た。そして、最下層へ向かっている……これ以上、お前は俺に何をさせようっていうんだ?」



 敵意を隠さず、怒りを向けて、油断なくオドムを見据えながらマリーは瞬時に距離を取る。


 眼前の少女が何者なのか……それをマリーはまだ知らない。


 時には苦難を与え、時には手助けし、時には助言めいた予言を残し……そして、己のことを知っていると思われる、唯一の存在。



「この際だ、全て話して貰おうか、オドム。お前が何者なのかを……俺の過去を……俺がいったい何者なのか……」



 それを前に、マリーは初めて……敵意とは別の理由で拳を固めた。


 張りつめた緊迫感とは無縁の白衣の人々が、マリーとオドムの間を通り過ぎては、すり抜けて行く。



 ……それは、実に異様で奇妙な光景であった。



 今にでも殺し合いが始まりそうな程の張り詰めた空気だというのに、その中を行き交う人々の顔には些かの緊張もない。


 誰も彼もがオドムに……マリーに目をくれることなく、一心不乱に何かの作業を続けている。


 その光景は、傍目から見れば滑稽とも取れる不思議なものであった。



『――異な事を言う、受け継ぐ者よ』



 その滑稽さすら振り払う、荘厳な気配。顔色一つ……瞬き一つすら見せないオドムの唇が、その言葉を紡いだ。



『――私が何であるかも、お前の過去も、お前が何者なのかも、全ては些事。それら全ては、いずれお前が知ることとなる既定事項に過ぎない』



 唇だけが僅かに動いている。それが、逆におかしく思える程に、オドムの身体は微動だにしていなかった。



『――重要なのは、お前がここに来たということ。そしてお前が『受け継ぐ者』であるということ。それだけが必要であり、大切なことなのだ』

「……また、ソレかよ」



 うんざりと……マリーは、深々とため息を吐いた。



「毎度毎度、いいかげんキレるぞ……」



 次いで苛立ちを隠そうともせずに頭を掻き毟ると――何の前触れもなく懐へと踏み込んだマリーの拳が、オドムの腹部を貫いた。



「――やっぱり、無駄か」

『――そうだな、無駄だ』



 だが、拳はオドムの身体をすり抜けた。


 それに対して、オドムの顔は変わらず無表情であった。



『――今ここにいる私はただの影であり実体にあらず。実体だったとしても、それは外界との接続を行うための、骨の肉と血と臓腑で構成されたインターフェイスに過ぎない』

「……?」

『故に、仮にお前が私を殺めたとしても、その行為がもたらすものは何もない。全ては徒労、無駄に終わる』

「……お、おう?」



 また良く分からないことを……それが、正直な感想であった。


 マリーは大して驚くこともなく、素早くオドムから距離を取る……そっと、構えを解いた。



「いいかげん、はぐらかすのは止めろ。何度も何度も、人を嘲笑うかのように色々しやがって……」

『――急げ、受け継ぐ者よ。間に合わなくなる前に』

「……は?」



 一瞬、マリーはオドムが何を言っているのかが理解出来なかった。


 それぐらいオドムの言葉は唐突であり、わざとかと思うぐらいに言葉が足りなかった。



『――決断の時は近い。急げ、受け継ぐ者よ……もう、時間がない』



 ぽかん、と大口を開けるマリーに、オドムは無表情のままに答えた――その瞬間、「あのさあ……!」ぶちりとマリーの中にある何かが切れて……顔が強張った。



(抑えろ……今更こいつに何を言ったところで意味はねえんだ……既に分かっていたことだろ……!)



 ギリギリギリギリ……噛み締めた奥歯が軋む。握りしめた拳に爪が食い込み……滲み出た鮮血が、ぽたりと床に跡を残す。爆発寸前の怒りが罵声となって――飛び出すのを、マリーは大きく息を吸って堪える。


 ……これまで遭遇してきた様々な苦難のおかげか……不思議と、再起動を果たすのは容易であった。



(澄ました顔しやがって……これが現実なら、てめえの顔面に拳を叩き込んでいるところだぞ!)



 その怒りを胸に、目覚める前のことを思い返しながら、マリーは思考を巡らせる。


 考えるのだ、とにかく考えなければならない。


 これまで彼女がマリーに伝えてきた断片的な情報を必死に思い出しながら、マリーはオドムを睨みつける、睨みつける、睨みつける。



(……ん、あれ?)



 睨みつけて睨みつけて睨みつけて……ふと、マリーの脳裏に何かが過った。


 それは、閃光が如き瞬間の光景であり、何を思い浮かべたのかすらマリーには分からなかった……が。


 それがどうにも気になったマリーは、ジッと『オドム』の顔を見やる。


 目元、鼻筋、耳、首、頬、顔立ち、胸、腹、顔、鼻筋、顔立ち。


 何度も何度も、不躾と言われても仕方がないぐらいにマリーは視線を行き来させる。


 ……いったい自分は、何を思い浮かべたのだろうか。


 それが思い出せず、マリーは自然と苛立ちに唇を噛み締める。だが、その直後、虚空へと向けられていたオドムの視線が動いた。



「――あっ!」



 脳裏の片隅にて埃を被っていた記憶が、想起する。その瞬間、思わずマリーは声に出して指差していた。



(思い出した、こいつ、この顔! 『地下街』で俺たちを見ていた、緑髪の子供と同じ顔じゃねえか!? そ、それに――)



 一つ思い出せば、連鎖的に他のことも思い出す。


 今まで気にも留めなかった違和感……いや、違和感と呼ぶことすら出来ない程の些細なことに、初めて意識が向けられた。



(――い、いた! いたぞ、こいつ! 『ダンジョン』の地上階でも、街中でも、『ラステーラ』でも……ずっと、俺たちの行く先に居たじゃねえか!)



 ――何故、今まで気づかなかったのだろうか。



 そのことに、マリーの背筋に怖気が走る。緑髪と緑色の瞳に、美しい顔立ち……そんな目立つ風貌があれば、嫌でも目に留まるし、記憶に残る。


 たとえマリーが気付かなくても、常にマリーの傍にいた誰かが気付いているはずだ。


 なのに、それがない。今の今まで、マリーは気づかなかった。


 そして、それは他のやつらもたぶん気づいていない。気づいていれば一声ぐらい……特に、サララが絶対黙っていないはずだ。



(ということは、こいつ……まさか、ずっと俺たちを……俺を監視していたってことなのか? 俺たちに気づかせることなく……いや、俺たちどころか誰にも気づかせることなく、ずっと俺たちを?)



 脳裏を過る可能性に、マリーの頬が引き攣る。あくまで憶測の域を出ないが、『地下街』にすらマリーたちよりも前にいたのだ。


 どうやったのかは知らないが、彼女なら……マリーの知らない何かを知る『オドム』なら、可能なのかもしれない……と。



(……あれ、でも待てよ)



 ふと、マリーの脳裏に疑問が過る。



(仮にこいつがずっと俺たちを見ていたとするなら、どうしてこいつは今になって俺に顔を見せたんだ?)



 それが、腑に落ちない。



(何故、今なんだ? 俺はてっきり……)



 これまでの経緯と言葉を思い返しても、このタイミングで隠し続けていたことを止める理由が思いつかない。


 しかし、相手は暇つぶしで半死半生の修羅場を提供する狂人のような何かだ。


 暴露するにしても最も面白いタイミングではないだろうし、気が変わっただけ……という理由も考えられるが、それにしては些か気が早すぎるように思える。


 気が変わったわけではない。かといって、我慢しきれずに先走ったようには感じられないし、このタイミングを狙ったわけでもない。


 けれども、このタイミングで無ければならない理由が――。





 “――私の終焉――”





 その言葉が不意に、マリーの脳裏を過った。



 ――冷や汗が、首筋を伝った。



 なぜ、俺は動揺しているのだろうか……それが、マリー自身、不思議に思う。落ち着け、とマリーは己に強く言い聞かせながら、絞り出すようにして尋ねた。


 己を知るであろう存在へ、己を今まで導いた存在へ、マリーは尋ねた。



「……目的は何だ?」

『――受け継ぐ者に、全てを託す。ただ、それだけのこと……今更、それを聞くのか?』



 ……いちいち癇に障る言い方だな。


 その言葉を、グッとマリーは呑み込む。



「受け継ぐ者とは何だ? 何を託すっていうんだ?」

『――その名の通り、全てを受け継ぐ者だ。託すものは、私が築いてきたモノ全て』



 要領を得ない、あやふやな言い回し。わざとやっているのか、それを理解していないのか。



 ……普通に尋ねるのは駄目……もっと具体的に、整然としなければならないのだろうか。



 だが、具体的にと言っても、何をどう具体的にすればいいのかがマリーには分からない。


 そもそも、根本的な部分をマリーは全く知らないのだ。


 この場にイシュタリアがいれば多少なりとも会話になったのかもしれないが……不貞腐れていても仕方がない。



「それじゃあ、お前はいったい何者なんだ?」



 数を撃てば当たる。そのどれかがもしかしたら、何かの琴線に触れるかもしれない。


 その可能性に掛けて、とにかく畳み掛けるしかない。



『――私は、オドム。全ての始まりであり――』

「全てを終わらせた者だろ? 俺が聞きたいのは、そんな抽象的なことじゃない。お前が何者なのかを教えろって言っているんだ」

『――発言の内容が理解出来ない』

「私は、私は、私は……以前、お前と会った時にも同じような言い回しをしたな……それはいったい、どういう意味なんだ?」

『――そのままの意味だ。私は、私だ』

「夢の中でお前が……お前たちが話していた『私』って、いったい誰を差しているんだ? いったい何人のお前が居て、何人の『私』がいるんだ?」

『――誰、とは? 私は、私だ。それ以上でも、それ以下でもない』

「たとえお前にとっては些事なのだとしても、俺にとっては重要なことなんだ。頼む、教えてくれ……何も知らないままでいるのは、もう嫌なんだ」




 これを逃せば次は無い。そう、マリーは思った。




「教えてくれ……俺は、本当に俺なのか? 俺の知っている、俺なのか?」




 そう、マリーが最後に言葉を畳み掛けた時。『――っ」』一瞬ばかりオドムの視線が動いた……ような気がした。



『――そうか、そういうことか』



 だがそれは、気のせいとも取れる一瞬の出来事であって。



『――あの子は、ずっとこれに怯え続けてきたのか』

「……それはどういう――」



 意味だ、とマリーが首を傾げた時には、『――お前の疑問に、答えよう』オドムの唇が静かに動いていた。



『――まず、誰か、という問いに私は答えられない。なぜならば、お前に語りかけてきたこれまでの私は、まぎれも無く全てが私だからだ』

「……また、はぐらかすつもりか?」

『――はぐらかすつもりはない、そして、はぐらかす理由が私にはない。私はありのままに答えている。それを理解出来るだけの知識がお前にはないからこそ、そう感じるだけなのだ』



 マリーの不満を一言で切り伏せ、オドムは言葉を被せた。



『――全員がお前であり、全員が私であり、全員が誰かである。故に、私の答えは“全てが私だ”、である……つまり、全員が手足であると同時に思考する頭脳であるということだ』



 ……意味が分からず首を傾げるマリーを見て、オドムは補足するように言葉を足した。



『――“個にして群、群にして個”。ソレが私であり、私がソレだ。私は無数に存在する群としての自我であり、個として分かれた自我の一つでもある。それすなわち、私は無数に存在するということであり、全てで一つの存在でもある』


『――だが、同時に』


『――群として存在する私も、個として存在する私も、ここにはいない。私たちは常に同一であると同時に、独立した存在。それ故に私はここにいて、ここにいない。一つが全でありながら全が一つであるが故に、私は滅びない存在であると共に、この世界を生きる何者よりも脆い存在でもある』


『――なればこそ、仮に、私という存在をカテゴライズするのなら』



 長々と話しながらも、声色は常に平坦で。



『――私という存在を表し示す、最も近しい言葉を選ぶのであれば』



 それでいて、どこまでも冷たく、どこまでも熱い……緑色の瞳が、ジッとマリーを見据えた、その瞬間。



『――『神』――』



 無表情のままにポツリと放たれたその言葉は。



『――それこそが私を表し示す、最も近しい言葉であろう』



 目に見えない何かとなって、マリーの胸を貫いた。


 だがそれは、あまりに壮大で意味不明な独り言の濁流。


 ぽかん、と大口を開けたまま固まってしまう己を、マリーは律することが出来なかった。


 ……油断も糞もない。思考の外……限りない、思慮の外。


 知識がどうとか、そういうレベルの話ではない。全く理解出来ない異次元の戯言……マリーにとって、オドムが語った言葉はそれでしかなかった。



「……は、はは……何だそりゃ」



 呆然としていたマリーの頬がようやく、辛うじて引き攣った。



「散々勿体ぶってややこしくして……挙句が、『神』だと? 笑えねえ冗談だ……それじゃあ今の俺は神様と話をしているってわけか?」

『――勘違いをするな、受け継ぐ者よ』



 震える声で皮肉にもならない皮肉を零したマリーの動揺を、オドムは一言で否定した。



『――私は『神』ではない。あくまで概念という意味で『神』が近しいと言ったまで。この世界に存在するあまねく者が真の意味で『神』になれることはなく、それは私とて例外ではない』



 ふわりと、オドムの身体が静止したまま動く。「――っ!?」慌てて飛び退いたマリーへとスーッと突き進んだオドムの身体は……砂が納まったガラスケースの前で止まった。



 ……気づけば、あれだけ鬱陶しくうろちょろしていた人影たちが一人も居なくなっていることにマリーは気づく。



 虹のように輝く光と、照らし出されたガラスケース。そして、オドムとマリーだけが、この場に残されていた。



『――受け継ぐ者よ……お前は、コレが何か分かるか?』

「分からねえよ。ただの砂にしか見えんし、そんな御大層に守られた砂のことなんて、知るわけねえだろ」

『――事実をありのままに伝えるのであれば、これが私だ』



 一瞬、奇妙な間が空いた。



『――付け加えるなら、お前たちは常日頃から私を見ている。私はずっと、隠れもしないし逃げもしていない……ずっと、お前たちの傍にいた』



 一拍遅れて、これまでで一番大きな舌打ちが辺りに響いた。



「おちょくっているのか、てめえ……人を馬鹿にするのも大概にしろよ」



 吐き捨てるように、マリーはオドムの背中を睨みつける。『――馬鹿になど、していない』けれども、オドムは全く堪えた様子もなく、視線は前を向いていた。



『――ただ、気付いていないだけなのだ』

「は?」

『――この地に……この星に生きる者ならば、必ず私に触れ、私の恩恵を受け、私の庇護下によって生かされている。お前を含めて全ての生き物は、それに気づいていないだけなのだ』

「……なにを、言っているんだ?」

『――そう、気付いていないだけなのだ。そして、目を背け続けてきた。目先の欲に囚われ、己が快楽の為だけに動き、他の生命を次々と飲み込み食らい続けてきた』



 背中を向けられているマリーには、オドムの表情を伺うことは出来ない。だが、淡々と紡がれる彼女の言葉を前に……マリーはなんとなく、彼女が泣いているような気がしてならなかった。




『――かつて、自らの行いによってこの星に致命的な傷を負わせ、おぞましい猛毒を垂れ流し、死に至らしめる煙を世界に撒き散らし、私以上に『神』へと近づいた種族がいた』


『――彼らは、とても頭が良かった。この星に生まれて消えた数多の種の中でも最上位に位置し、命を自らの手で操作し、作り変えることすら可能にした程の、優れた頭脳を持った種族だった』


『――だが同時に彼らは愚かで、それでいてどこまでも動物としての本能に逆らえなかった。万物の掟である生存競争という名の鎖から抜け出すことが出来ず、彼らは生き残る為に同種族をも食らい続け、繁栄を続けようとした』


『――その力はこの星すら呑み込まんばかりに増長し、膨張し続けた。星が悲鳴をあげ、数多の亡骸が地を埋め尽くし、空は暗黒に覆われてもなお……彼らは生き延びようともがき続けた。だが、結局は自らが生み出した仮初めの希望に牙を向けられ……自らの英知が生み出した力によって、彼らは破滅を迎えた』


『――しかし、彼らは滅びなかった。最後の最後に彼らは、偶発的とはいえ生み出すことに成功したのだ。世界を修復させ、律する力を持つ存在を彼らはこの世界に具現化させた。それは、まさしく彼らに取っては救世主であった』


『――救世主は見る間にその手を広げた。垂れ流された毒を浄化し、不毛の大地に緑を与え、淀んだ空を青空に変えること、幾百年。それによって滅びを免れた彼らは再びこの地上を跋扈し始め、その優れた頭脳によって繁栄を遂げようとしている……だが、もう遅い』




 そう言い終えたと同時に、オドムは振り返った。その瞬間、マリーは息を呑んだ。



『――もう、この星は死に絶えている。全ては、手遅れだったのだ』



 オドムの顔にあったのは、『無』であった。


 怒りも、悲しみも、何も無い。触れれば永久の闇へと引きずり込まれてしまいそうになる……氷のように冷たい『無』が、そこには浮かんでいた。




『――あの子は望んだ。汚れきったこの星の再生と、滅びゆく定めにあった世界の保護を。だが、もう遅かった。既に、この星はあまりに傷つき過ぎていた。自力ではどうにもならない程に疲弊しきっていて、ただ死を待つだけであった』


『――偶然か、あるいは必然か。成さなければならない私の役目と、あの子の望みは奇妙なまでに合致していた。今にして思えば、それ自体が本当の『神』が仕組み用意した運命の出会いだったのかもしれない』


『――唯一無二の友となり共同体となった私とあの子は、考えた。ずっと、考えた。今にも息絶えようとしているこの星を救う為に、何をしなければならないのかを、ずっと考え……そして、見付けた』


『――その為には、あの子は『私』に成って、私は『あの子』になる必要があった。自らを『聖女』に変え世界に息吹を、私は『鬼人』となりて世界に秩序を作り……そして――』




 そこまで、言い終えた瞬間だった。


 オドムの瞳がわずかに揺れて『無』が消える。直後、その視線がマリーの後ろへと向けられて……振り返ったマリーは、身構えると同時に目を瞬かせた。



 そこには、もう一人の緑髪の少女がいた。



 今しがた話をしていたオドムと全く同じ、写し鏡のように寸分まで同じ顔立ち、同じ瞳、同じ髪をした少女が立っていた。


 だが、浮かべている表情が違う。


 新たに姿を見せた『オドム』の顔には、憤怒……その二文字をそのまま形にしたかのような面持ちで、マリーを……否、マリーの後ろに居る、オドムを睨みつけていた。



『――どうやら、あの子を怒らせてしまったようだ。少々名残惜しいが、お前とは一旦お別れだ』

「――えっ?」

『――まあ、無理もない、受け継ぐ者よ。お前が驚き慌てるという、あの子の楽しみを一つ奪ってしまったのだからな』



 横から聞こえた声に、思わず振り返った……直後、マリーの身体から力が抜ける。


 そのまま呆気なくその場に崩れ落ちたマリーは……自らを守るかのように立ち塞がっているオドムの背中を見上げた。



『――元々、無理な話だったのだ。どれだけ常人離れした崇高なる精神を持つとしても、根本は人のソレ。数百年という孤独と忘却の恐怖に耐えられるわけがなかった……見落としていた、私とは違うのだということを。あの子もまた、人間なのだということを』



 オドムの声が、ほとんど動きを止めたマリーの頭をすり抜けて行く。


 何かを言おうとしたが、マリーの唇はピクリとも動くことはなく、ぼんやりとオドムを見上げることしか出来なかった。



『――あの子が受け継ぐ者を生み出そうと言い出した時に、気付くべきだった。そして、その時に私の手で終わらせるべきだった。あの子はこんな暗がりの中ではなく、広い世界……この世界で生きるべきだったのだ』



 意識が、途切れる。どんどん、どんどん、どんどん……暗闇の向こうへと……。



『――マリー・アレクサンドリア。私は結果がどうあろうとも、お前の決断に全てを託そう。全ては、本来の形に戻るだけ……それで、良かったのだ。それが、定めだったのかもしれない』



 途切れ、途切れ、途切れ……。



『――出来うる限り、私も協力する。完全にとは言い難いが、多少は楽になるだろう……ああ、そうだ。そういえば、まだ私は答えていないことが一つあったな』



 途切れ……。



『――鍵は開けておく。完全に開放されるまでには時間が掛かるが、断片的に思い出せるようになるだろう……だから死ぬな、受け継ぐ者よ』



 ふわりと、頭に何かが触れる。途端、光のようなものが頭の中に入って来た……イメージを夢想した瞬間、マリーの意識は完全に途切れた。







 ……くぉん、くぉん、くぉん、くぉん。



 木霊のように反響するその音に、マリーは内心、首を傾げる。


 いったい、それは何の音なのだろうか……重たい思考の中で、ふとマリーはそれに耳を傾け。



「マリー、起きて!」

「――っ、は、あ」



 掛けられた声に、マリーの意識は一気に浮上した。視線を向ければ、焦燥感を隠しきれないサララの顔と、ドラコの後ろ姿が見える。


 今しがたの出来事を反芻する前に、急かされるがまま飛び起きるマリーは……絶句した。


 マリーの眼前には、真っ赤な川がうねっていた。粘土のように粘着質な赤い何かが、どろどろと地面を這うようにうねっている。


 それはまるで川岸に打ちつける波のように満ち引きを繰り返し、赤い飛沫を辺りに飛び散らしていた。



 ――いったい、何時の間にこんなものが出て来たのだろうか。



 川の勢いは凄まじく、その範囲はマリーの視界の大半を埋め尽くす程に広い。


 加えてどこからか噴き出しているのか、触手を伸ばすかのように赤い川は広がりを見せ……瞬く間に『清らかな癒しの池』へと迫って来ていた……と。



 くぉん、くぉん、くぉん、くぉん。



 反響するその音にふと、マリーは顔をあげる。


 瞬間、「――まさか、『轟炎の産声』!?」マリーは驚きに目を見開き……飛沫が繁茂する雑草に触れた途端に発火したのを見て、また絶句した。



「二人とも、赤いどろどろの飛沫には絶対触れるな! 信じられない程の熱気だ!」



 立ち尽くすマリーとサララをしり目に、二人を庇うようにして立ち塞がっていたドラコが声を荒げる。


 その顔にはこれまであった余裕などは微塵も感じられない。一目で、危険性を理解したのだろう……自身も、迫り来る赤い川から逃れる様に後ずさっていた。



「くそっ!」



 せめてもの抵抗と言わんばかりに、サララが事前に補充しておいたアクア・ボトルの水を振り掛ける。



 だが、それは儚い抵抗であった。



 降り注がれた水は、ばちゅん、と異音を立てたと同時に蒸発してしまう。触れるだけで発火する程の熱量の前では、足止めにもならなかった。


 何度も、何度も、水を振り掛ける。マリーも追随するが、結果は一緒。真っ白な蒸気を噴き上げるだけである。


 辛うじて水の触れた部分が一瞬だけ真っ黒な岩に戻ったが……すぐに赤い川に飲み込まれたかと思ったら、またどろりと液体の姿に戻った。



 ……マリーたちが知る由もないことであったが、ドラコが嗅ぎ取っていたあの異臭。



 あれは硫黄の臭いが混ざった『溶けた岩の赤い川』が姿を見せる前兆であった。


 そして、この川の正体とはずばり、『溶岩』であり、それから放たれる熱気はドラコですら命を落とす程の高温であった。



「――二人とも、私の肩に掴まれ! このまま空を飛んで、階段を目指す!」



 引く様子のない川を見て、ドラコは覚悟を決めた。


 ドラコは大きく息を吸って、翼を広げる。目指すは地下へと続く階段、ただ一つ……だが。



「馬鹿を言うな! お前、この外がどれだけの熱気で満ちていると思っているんだ! 俺たちはもちろん、お前だって5分と生きていられないぞ!」

「だが、このままでは全員ここで焼け死ぬぞ! 見ろ、辺り一面どころか目に見える全てがソレだ。どうせ死ぬなら、最後まで足掻いてから私は死を選ぶ!」

「阿呆! それは足掻くんじゃなくて、ヤケクソっていうんだよ! ていうか、お前二人も抱えて長時間飛べねえだろ!」



 慌てて止めに入るマリーを、逆にドラコが怒鳴り返す。それに怒って言い返すマリー、また怒鳴るドラコ。



「二人とも、喧嘩している場合じゃないでしょ!」



 それを仲裁しながらも、サララも声を荒げる……事態は、もう待ったなしであった。


 何せ、言い合っている間にもジリジリと、熱気が安全地帯である『清らかなる癒しの泉』に迫る。


 這うように迫る溶岩は、触れずとも池の周囲に繁茂していた植物を燃やし、灰へと変える。


 その効力のおかげか、マリーたちの頬に触れる熱気は耐えられる程度であったが、この勢い……これはもう、安全地帯とかそういうもので防げる類ではないだろう。



「二人とも、早く私に! 間に合わなくなる!」



 焦燥感に満ちたドラコの声が、辺りに響く。



「――マリー!」



 考える時間など、迷っている時間など、ない。


 覚悟を決めたサララがドラコの腰に捕まり、片手をマリーへと伸ばした。それを見て、これしかないと覚悟を決めたマリーがその手を取ろうと――。



(――いや、そっちじゃねえ!)



 ――手を伸ばす直前、不意にマリーは泉へと振り返った。「マリー、何しているの!?」驚いてさらに手を伸ばすサララをしり目に、マリーは泉の中央を見つめ……静かに水面へと姿を見せたソレを見た。



「――あっ」

「――えっ」



 その瞬間、マリーの身体は動いていた。



「俺に掴まれ!」



 呆気に取られたサララとドラコが、「大きく息を吸って、息を止めろ」その言葉に反射的に従う。



「目を瞑って、絶対に手を離すな!」



 手加減もなにもない全力の抱擁に痛みを堪えながら、マリーは雑草を跳ね飛ばして地を蹴って……水面から飛び出していた白い手を、両手で掴んだ。


 直後、水飛沫が舞った。


 マリーと、その身体にしがみ付く二人の身体が泉の中へと引きずり込まれる。幾重もの気泡が水面に浮かんでは消え、そして静まる。


 後に残されたのは、熱気と産声だけ。溶けた岩の赤い川……溶岩が、繁茂する雑草を燃やし尽くして泉をも呑み込んだのは、その直後であった。



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