第七話: 深緑熱帯




 ……ダンジョンの中では、実は基本的に臭いというものがない。


 いや、正確に言い直すのであれば、臭いが無いのではなく、それ以外の臭いが少なく……いつも同じ臭いしかしない、という方が正しい。



 そのわけは、クリア・フラワー(別名:空気清浄)を始めとしたダンジョン内の環境を維持し、保全する役割を持つモノたちの存在だ。



 彼らの存在があるからこそ、ダンジョンの環境は常に一定に保たれていると言っても過言ではない。



 血臭や腐臭を始めとした悪臭はクリア・フラワー。


 血潮や糞尿などの汚物はジャイアント・ワーム(掃除人)。


 そして、生物が生きる上で不可欠な空気は、オキシゲン・ピアニー(命の吐息)。



 それぞれの存在が、それぞれの役割を全うすることで、ダンジョンは人間が活動出来る状態が、常に保たれていた……はずであった。



 ――ふと、鼻腔を満たしたのは、嗅ぎ慣れたようで、嗅ぎ慣れない臭い。



 濃厚な……悪臭とすら捉えかねないぐらいの、濃厚な緑の臭い。どこかで嗅いだ覚えのあるそれにマリーの意識が浮上する……その、直後。



 ――大気を震わせる何かが、爆音の如く鳴り響いた。



 腹の奥まで響いてくる野太い何かに、ぎゃあぎゃあと喧しく騒ぐ何かの声と、それらが一斉に離れていく気配。


 覚醒の縁をさ迷っていた意識が一気に浮上し、ハッとマリーは目を覚ました。


 その途端、マリーの目に飛び込んできたのは、天井に届かんばかりに生い茂る木々と、その合間に見え隠れしているウィッチ・ローザの光。


 そして、己を見下ろす……毛むくじゃらの何かであった。



「――っ!?」



 瞬間、飛び起きたマリーは転がる様にしてソイツから距離を取り、構える。


 と、同時に、サララたちのことを思いだし……そいつの後方にてまだ横たわっているのを見て、ひとまず安堵する。次いで、内心舌打ちをした。


 どうする……やるか。


 己の倍はある巨体な毛むくじゃらを見つめながら、マリーは迷う。それが危険を伴う手……迷わずにはいられなかった。



(身体も腕も足も太い。掴まれたら、重傷は必至……目は……毛に紛れて分かり難いが、ある。はっきりと、こちらを捉えている……敵意は、感じられないが……)



 そいつは、マリーにとって始めて応対するモンスターだった。



 『はぐれ者』か、あるいはこの階層に出現するモンスターか。


 『鬼聖踏破伝』には確か、このようなモンスターの話は乗っていなかった……つまり、『はぐれ者』……か?



 思考を巡らせながらも、マリーは己の状態も確認する。


 目覚めた直後だが、幸いにも肉体強化は解除されていない。拳に嵌めているナックル・サックもそのままだ。全力ではないが、戦おうと思えば十二分に戦える……と。



 ――不意に、毛むくじゃらの視線が動いた。



 それを見て、思わず身構えるマリー。だが、毛むくじゃらはそんなマリーに気づいているのかいないのか、チラリとマリーを見やると、のそのそと動き出した。


 その動きには、まるで速さと敵意が感じられなかった。


 付け加えるなら、警戒心すら感じられない。そいつは飛び退くように道を開けたマリーを一瞥することもなく、のそのそとマリーが立っていた場所を通り過ぎる。


 その足は、壁から噴き出している水流の下にある、泉の前で止まる。


 階段状に削り取られた岩にぶち当たった水流は、飛沫をあげながらも段を下がるごとに勢いを弱め、一番下へと降りた頃には……綺麗な泉を形成していた。



 ……何だか分からんが、今のうちだ。



 そろそろとサララたちの元へ駆け寄りながら、マリーは毛むくじゃらの様子を伺う。


 池の縁に視線を下ろし、何かを探すように首を左右に振っているのが後ろからでも分かるが……いったい、何をしているのだろうか。



(……いや、今はサララたちの方が先だ)



 ――考えるのは後だ。



 そう判断したマリーは、仰向けになっているサララのプレートを外すと、胸に耳を当てて唇に指を宛がう。


 その身体が(自分自身も含めて)全く濡れていないことに違和感を覚えた……が、しかし、伝わって来る鼓動と確かな呼吸に、その違和感も吹っ飛ぶ。


 ……生きている。


 その事実が、マリーの心を軽くする。と、同時に、「――目、目が回ったぞ」むくりと身体を起こしたドラコの姿が目に入り……マリーは心から安堵のため息を零した。



「大丈夫か?」

「――ん? ああ、このぐらいならっ!?」



 顔をしかめながら振り返ったドラコの頬が、ピクリと引き攣った。


 ん、と首を傾げるマリーを他所に、ドラコは必死の形相でマリーの元へと駆け寄り……二人を守るかのように広げた翼で囲ってしまった。



「気を付けろ、敵がすぐ後ろにいたぞ」



 声色は平坦。だが、背中が語っている。不用意な行動を取っていたマリーを、叱っていた。



 ……まあ無理もないな。



 己も、同じことをしたのだ。


 マリーはあえて反論はしたりせず、「落ち着け」そっと視界を覆う翼を叩いた。



「そいつなら放っておけ。今のところ、そいつは俺たちに何の興味も無いようだからな」

「しかし……何時、襲い掛かって来るか……」

「いいから、翼を引っ込めろ。お前の心配は最もだが、今は下手に刺激をしない方がいいだろ」



 そう言われて、ドラコの顔に納得が半分、不満が半分。


 頬を軽く膨らませながらも、言われた通り翼を畳んでくれたが、その目は油断なく毛むくじゃらを捉えている。



「……サララ、おいサララ、起きろ」



 とりあえずの警戒はドラコに任せて、そっとサララの身体を揺する……うっすらと開かれた黒い瞳が、マリーを捉えた。



「……マリー?」

「ああ、俺だ。何とか危機は脱したようだが……立てるか?」

「……あと、ちょっとだけ。目の前が、ぐるぐるしてる……」



 一呼吸の間を入れてから、サララはそう言い残して目を瞑る。顔色は悪いが、声色と調子ははっきりしていた。



「……逆立ちして踊ったみたいな気分よ」



 辛そうだが、軽口を叩ける余裕があることにマリーは安堵の笑みを零す。次いで、改めて辺りを見回し……ため息が出た。



 ――目に見える周囲全てが、緑の世界であった。



 葉の形、幹の太さ、背丈の高さ、その全てがバラバラの木々が、どこまでも連なっている。


 それだけでも言葉を失くすには十分だったのに、その緑の先にあるのは、高く、高くそびえ立つ木々のはるか先にある……広大な天井。


 その天井までは、優に十数メートルはあるであろう木々が5倍……いや、10倍以上は背を伸ばさないと届かないだろうという高さにあった……と。



 ――ぴうぴう、と。



 掌に収まる程度の小鳥がマリーの視界を遮った。「えっ!?」思わず目を見開くマリーが見た物は、幾重もの小さな影。


 ぴうぴうと、暢気な声をあげながら森の向こうへと飛んで行く、大小様々な鳥たちの姿であった。


 ……一目で、マリーは分かった。今の小鳥は、モンスターではない。その事実が、マリーを驚愕させる。


 ここには存在しないはずの生物……そして、存在しないはずの植物。ダンジョンで生息できるのはモンスターを始めとした特定の種だけであるという根底を覆す……信じがたい光景。



「…………は?」



 ――呆然、唖然。


 顔を上げれば、連なる森の向こうのそのまた向こうに、天井の一部から流れ落ちている滝の水流が見える。


 ……あまりに高い位置から落ちているせいだろう。


 本来ならマリーが両手を伸ばしたよりも太い水流は、空気の壁にぶつかって弾け、まるで飛沫のように散らばりながらもやもやと白い霧を生み出していた。



(もしかして、これが本に載っていた、巨大な滝……?)



 ハッと、マリーは我に返る。次いで、マリーは思考を巡らせる。



(それが確かなら、俺たちは階層を降りてきたことになるが……)



 きらきらと、枝の隙間から零れ出る光を、マリーは手で遮る。地上に繁茂しているウィッチ・ローザの光は、これまでのものと同じ。


 だが、天井に繁茂するウィッチ・ローザの光はモノが違う。


 とにかく放たれる光が強く、辺りはまるで晴天の真下にいるかのような明るさであった。


 冗談のような光景だ……そう、マリーは率直に思う。


 これまでの常識……マリーが知っている『ダンジョンの常識』には載っていない、有り得ない光景。マリーは、乾いた笑みを浮かべるしかなかった。



「まるで、森をそのままこの場所に移したみたいだな」



 ポツリと零れたドラコの呟きに、(そのものズバリの表現かもな)マリーは内心頷く。


 ドラコの言うとおり、ここはまるで森の中だ。ダンジョン特有の気配と言うか、寒々しさもここでは感じられない。


 毛むくじゃらのそいつが居なかったら、ここがダンジョンの外だと勘違いしてしまいそうなぐらいに、この階は……何というか、ダンジョン特有の空気が感じられなかった。



「……ドラコ、ちょっと上から辺りを見てくれないか? 俺たちの真下から離れないで、見える範囲で階段を探してくれ」



 だが、何時までも気を抜いているわけにはいかない。現状、マリーたちは現在地を見失ったに等しい。何をするにしても、まずは向かうべき方向の目星を付けておかなければならない。


 それに思い至ったマリーは、すぐにドラコへ指示をする。ドラコもそれを理解していようで、毛むくじゃらを一瞥しただけで何もせず、素直に翼をはためかせて浮上していった。



 ……それにしても、コイツは何なのだろうか。



 改めて、マリーは毛むくじゃらのそいつを見やる。そいつは相も変わらず階段状の泉に目を凝らし、波打ち際にてジッと立ち尽くしている……いったい、何をしているのだろうか。



 ……視線が、水源の根元へと向けられる。



 水流は、天井に開かれた穴から放物線を描いて流れ落ち、岩石の階段に当たって飛沫をあげている。


 穴の大きさは3~4人が優に通れる程に広く……おそらく、自分たちはあそこから落ちて来たのではないかと、マリーは推測する。



(……岩にぶち当たる前に、あの手が……あいつが、助けてくれたってことか?)



 可能性の話だが、その可能性は高いように思われる。


 でなければ、ドラコは別として、マリーとサララは岩肌に叩きつけられて確実に負傷している。


 よしんば負傷を免れたとしても、三人とも泉の中で目を覚ますか、縁の辺りで気絶しているはず。


 そのどれでもないということは、すなわち……そういうことなのだろう。



 ……本当に、ワケが分からない。ココに来てから、こんなことばかりだ。



 ヤツの思惑が働いているのは、間違いない。しかし、悪戯にえげつないことをしてきたかと思ったら、今みたいに助けの手を差し伸べる。


 その意図が……行動が、読めない。


 これではまるで、自分が何をしているのかすら分からなくなっている気狂いではないか……そう疑問を抱くと同時に、マリーはそっと……己が頭に手を当てる。



 ――鍵は、開けておく。



 その言葉が、脳裏を過る。


 あの時の彼女の言葉が確かなら、マリーが知りたいと願っていた記憶は時期に思い出す……らしい。


 現時点では、実際に何かを思い出したわけでもないから確証は得られないが……とりあえずの目的は達した、ということになるのだろう。



 ……しかし、引き返すことは出来ない。



 それは単純にその選択肢が困難というのもあるが、あのはぐれ者……巨獣の言葉が確かなら、既に入口は閉ざされている。


 たとえ無事に戻れたとしても、地上に出ることは……出来ない。


 今のマリーたちに出来ることは、ただひたすら……最下層を目指して進むことのみ……そうするしかないのだ……!



「ま、マリー……」

「――っ、どうした?」



 か細い声、サララの声に、マリーは我に返る。


 視線を向ければ、先ほどよりも少しばかり顔色が良くなったサララが、何かを探すように辺りを見回していた。



「槍を、知らない?」

「槍?」

「私の槍……どこにも見当たらないの」



 言われて、マリーは今更ながらに『グングニル』がサララの傍から無くなっていることに気づく。「そっちには?」サララに言われてマリーも辺りを探るが……無い、どこにも見当たらない。



 まさか……落とした?


 ――それは、まずい。



「ここで待ってろ、いいか、無理に動くなよ」



 そうサララに念押ししてから、マリーは急いで泉へと走る。傍の毛むくじゃらがチラリと視線を向けてきたのが分かったが、構うことなく泉の中に飛び入ると、水の向こうを凝視した。


 泉自体は広大で階段状になっているが、川のように大海へと通じているわけではない、行き止まり。手間は掛かるが、時間さえ掛ければ探せないこともない。


 只でさえ何が起こるか分からないこの状況、サララが戦闘不能に陥るのは、あまりに致命的。たとえ半日……いや、最悪、明日の朝まで掛かってでも、探さなければならない。



「――どうした?」



 異変に気づいたドラコが、作業を中断して下りてくる。「槍を探している。お前はサララを見ていてくれ」必死の形相に、ドラコは「わ、分かった」少し狼狽えながらもサララの元へ向かう。



 それを見送ったマリーは、再び泉へと視線を落とし――。



『……あまり、手荒にしないで貰えますかな。せっかくの結晶に傷が入りますので』



 ――不意に掛けられた声に、ハッと動きを止める。


 振り返ったマリーの視線の先にいたのは……毛むくじゃらのそいつであった。



「お前……やっぱり話せたのか?」



 ――予感はしていたが、実際に人語を話されるのには慣れていない。



 思わず目を瞬かせるマリーを他所に、『お探しの物は、こちらですかな?』そいつは体毛の中から引きずり出すように『グングニル』を取り出した。「あっ!」思わずマリーは大口を開けて、子供のように槍を指差した。



『これ以上、無下に泉を荒らさないでくだされ。そう、約束して貰えるのであれば、これはお返ししましょう』



 そう言われて、マリーは急いで……気を付けながら泉から出る。一瞬、罠を疑ったが、それではお返し致します、と、あっさりと槍を渡された。



 ……あまりに素直に返されて拍子抜けするマリーに気づいているのか、いないのか。



 そいつは新たな注文を付けることもなく、また泉の中へと視線を落とし……。



『――お察しの通り、ここはあなた達が言う『ダンジョン』と呼ばれる場所。階数で言えば地下21から25階に該当し、それが丸ごと一つの階になっております』



 唐突に、毛むくじゃらがそう言った。



『森を行くなら、昼のうちに行きなさい。動物たちの大半は夜行性……昼間の間なら、あやつも騒ぐだけで何もしない。そして、夜の間は火を消して大人しく隠れていなさい……死にたくなければな』

「……? 火を焚くなって、何でだよ」

『いいから、夜に火を焚くのはやめなされ。あやつは夜に動き出し、昼は泣き喚く。夜のあやつにとって、火は目印のようなもの……死にたくなければ、絶対に火を焚くのはやめなされ』

「わ、分かった、分かったから、そう迫るなよ……ん、ちょっと待て」



 くれぐれも、『夜に火を焚くな』と、毛むくじゃらは念を押す。


 そりゃあ、夜に火を焚けば動物たちを呼び寄せることになるのは知っていたが……マリーが目を向けたのは、その点ではなかった。



「昼と夜って、何のことだ? ここはダンジョンだぞ。ここに昼夜なんてあるわけが――」



 マリーが口を挟もうとした、その瞬間……大気を震わせる何かが遠くの方から響いた。


 それは、これまで聞いて来たどの獣のモノとも違う……どこかで聞いた覚えのある遠吠えであった。


 まるで、声の爆弾が破裂したかのような大音量。


 あっ、とマリーが、サララが、ドラコが、そちらに目をやる。


 巣を突かれた蜂のように飛び交う鳥たちの下には何も見えなかったが……鳥達が、何かに怯えるかのように飛び回っているのだけは分かった。



『……この階は、小鳥や動物たちが暢気に暮らしているだけの……ただっぴろい、平穏な場所。私が望むのは、どうか無用な争い事は止めて欲しいということ、ただそれだけ……ここは、静かなのが一番良い』



 そんな中、毛むくじゃらのそいつの言葉だけが、酷く暢気であった。


 あまりに暢気すぎて、『死にたくないのなら、夜に火を焚くのは止めなされ』そう言って木々の向こうへあっさり消えていく後ろ姿に、ああそう、とマリーが普通に返事を返したぐらいであった。



 ……。


 ……。


 …………いや、待て。



「――ていうか、お前はいったい何なんだよ」



 今更ながらの問いかけ。


 ポツリと零したマリーに、返事など返ってくるはずもなく……呆然と、マリー、ドラコ、サララの3人は立ち尽くすしかなかった。



 ……そして、『昼』と『夜』。



 毛むくじゃらのあいつが口にしていたその事は、数時間後に訪れた『夕暮れ』を前に、はっきりと理解させられることとなった。








 ……。


 ……。


 ……そして、時は流れて数時間後。



「まさか、ダンジョンで昼と夜を見ることになるとはな」



 世界が闇に包まれ、鳥達の声も聞こえなくなった『夜』。


 パシャパシャと小気味よく聞こえて来る泉の飛沫が辺りに響く中、ポツリと呟かれたマリーの声は思いのほかよく響く。


 ドラコもサララも特に返事はしなかったが、雰囲気で肯定したのが分かり……へくち、とマリーはクシャミをした。


 『夜のダンジョン』は、思いのほか冷える。サララと肩を寄せ合うようにしてマントを被っていたマリーは、スリスリとサララにすり寄る。


 とくん、とくん、と伝わって来る鼓動と温もりに耳を澄ませながら、ぼんやりと天井に見える夜空を見上げた。


 地上の時刻に合わせて、ウィッチ・ローザの明るさや色合いが変化していることに気づいたのは、辺りが薄らと山吹色に包まれた頃。


 まさか、と思っている間にどんどん光は赤く、弱くなる。


 はっきりと辺りが薄暗くなった辺りで、マリーたちはようやくこれが毛むくじゃらが言っていた『夜』なのだということを理解した。



 ……そうして、現在。



 火の代わりに明かりを担っているのは、日が完全に暮れる前に集めて置いた、地面に咲いていたウィッチ・ローザの束。


 温かくはないが、明かりの代わりにはなるそれを手にして座り込むマリーとサララ、ドラコの3人の影が、ふわりと真っ暗な世界に伸びていた。


 本音を言えば、火を使いたい。ファイア・マントで暖を取れるとはいえ、暗闇の中での活動は嫌でも気力を萎えさせ、神経を使う。



 だが、『火を焚くな』とあれほど忠告されたのだ。



 一方的な話に従うのにも抵抗はある……が、そこまで念押しする理由が分からない以上、無暗にそれを無視するのは危険だ。


 それに、毛むくじゃらが口にしていた『あやつ』のことが気にかかる。


 確認して仮に何事も無ければいいが、まず無用な戦いになるのは必至。それを薄々だが直感したマリーたちは、内心の不満を抑えながらも素直に火を使うのを自重した。


 そんなこんなで、あれやこれやと準備に追われるがまま、天井に煌めく光が星のように小さくか弱くなった頃。


 この階全域に虫の鳴き声が響き渡るようになり、空を飛び交っていた鳥達も姿を消し、世界が闇に閉ざされて……『ダンジョン』に、夜がやってきた……というわけであった。







 ……。


 ……。


 …………静かだった。



 いや、正確に言うなら、虫の声やら、獣たちの遠吠えがどこからともなく聞こえてきており、辺りは決して静かではない。


 静かなのは、マリーたちの間に漂う空気……不思議と、マリーたちの間には沈黙が続いていた。


 それは、ダンジョンで体感する暗闇に押し込まれたから……が、理由ではない。


 『夜』という環境がそうさせるのか、もっと別の、マリーたち自身がまだ理解出来ない……根深い何かが、彼らから言葉を奪っている。それが、彼らの間に漂っている空気の正体なのかもしれない。



 ……そして、そんな時であった。



 束ねた光が届かない草むらの向こうにある草むらが、ほんの僅かに音を立てたのは。突然に鳴り響いたそれに、マリーが、サララが、ドラコが、同時に顔をあげる。



 ……地上のような光景が広がっているとはいえ、だ。



 この場所には、風というものがない。だからこそ草花を揺らすのは自然のものではなく……申し合わせたかのようにさ迷わせた3人の視線が、暗闇の向こう……カサカサと揺らぐ草の動きを捉えた。


 それを見つけた瞬間、マリーたちは一斉に首を傾げ、いちおうは思い思いに武器を構えた。


 何故、そうしたのかと言えば……その草木の揺らぎの先から、感情が伝わってこなかったからであった。


 基本的に生き物というものはその所作に感情を乗せてしまう性質を持ち、生き物はその感情を察知する能力を有している。


 それは本能的なものであり、『探究者』としての経験から常人よりも優れたセンサーをマリーたちは持っている……はずなのだが。



「……?」



 ガサガサと、何かが近づいて来ているのは分かる。


 だが、敵意を感じない。


 殺気も、感じない。


 恐怖も伝わってこないし、怒気も伝わってこない。


 自然に揺らされているかの如きそれを前に、マリーたちはどうしていいか分からず……にゅい、と飛び出したソイツを前に不覚にも、「あっ!」驚きの声を上げるしか出来なかった。



「……あ、『アメーバ』ちゃん?」



 武器を下ろしたサララの声が、ポツリと零れる。


 草むらから姿を見せたのは、ダンジョンの儚いアイドル、『アメーバ』であった。


 その数は見た所10数体……押し合いへし合いしながら飛び出して来た全てがそれであり、ウィッチ・ローザの光に照らされたアメーバたちが、七色に輝きながらその身を震わせていた。



 ――何だ、アメーバちゃんか。



 そんな言葉と共にため息を吐くマリーに釣られて、サララもそっと息を吐く。(ドラコは二人を見て、肩の力を抜いた)油断でしかない行為だが、そうして気を抜いても知らぬ間に勝手に自滅するのが『アメーバ』なのだ。



 むしろ、(アメーバ自体は轟炎の産声では厄介な敵ではあったが)活動している色とりどりのアメーバを見られたこと自体、ある意味幸運な出来事なのかもしれない……だが、しかし。



「――いや、待て。変だぞこいつら」



 完全に気を抜きかけたマリーの注意が、寸でのところで止まる。



「え、どこが?」



 それが分からず首を傾げる二人を他所に、しばし違和感を堪えるかのように顔をしかめていたマリーの目が、「……分かった!」にわかに開かれた。



「自滅してないんだ、こいつら」

「えっ?」

「熱気と冷気、赤と青。本来なら互いに触れ合った時点で自滅しているはずの2体が、くっついても蒸発していないんだ……見ろ、他のやつらも同じだ」



 マリーの指差した2体を見やったサララは、納得に頷く。確かにマリーの言うとおり、以前に見た時は蒸発した2つの色に変化は見られない……と。



 ――あれ?



 きらりとアメーバの中で煌めいた何かに、サララの目が留まる。



「――どうした?」



 首を傾げるマリーを余所目に、サララは『グングニル』をそっと一番近くのアメーバへと向け……そっと、先端を突き入れた。


 手応えは全くないが、仕留めたという感覚が伝わって来た。


 びくん、と痙攣した赤い身体は瞬く間に蒸発を始めている中、サララは軽く刃先で感触を確かめながら……こつん、と自らへと弾いたソレを手に取ると……はて、と首を傾げた。


 サララの掌より少し大きいそれは、鮮やかな赤色の半透明な塊であった。


 ほんのりと熱を持っているそれは、一見するばかりではただの石ころにしか見えない。だが、注意深く見てみれば……マリーたちには見覚えがあった。



「……もしかして、『結晶火石』か?」



 ポツリと零したマリーの推測に、「え、まさか」サララは首を横に振って否定した。



「だって、結晶火石ってけっこうなアイテムでしょ。アメーバの身体から出てくるなんて、聞いたことないよ」

「聞いたことが無いなんて、今更の話だろ」

「う、うーん」



 言われてみれば……そう言いよどむサララを他所に、覗き込んでいたマリーの目が静かに細くなる。



「ちょっと、貸してくれ」



 サララから受け取ったマリーは、それをビッグ・ポケットから取り出した布で包んでから、軽く息を吹きかける。


 ほうっ、と淡くも赤い光は素手で触るには些か危なく……結果は、黒。



 ――本物の結晶火石だ。



 その事実に、マリーとサララは互いに顔を見合わせた。しかも、この結晶は中々に大きい。これを市場に持ち込んで上手くやれば、一月はのんびり暮らせる金が手に入るだろう。



 ……もしかすると。



 そう思って、二人は確認する。結果は……大きさの違いこそあるものの、一体につき一つを体内に含んでいるのが見える。


 ということはつまり、『ダンジョン』で見つかる結晶はアメーバが……?



「――結晶って、アメーバが作っていたのか」



 まるで最高級だと思っていた嗜好品の原材料が、猫の糞だったかのような驚き。


 しみじみと、マリーは己の手に収まった結晶へと視線を落とし――。



「――いいえ、違います。彼らはただ、安定基準にまで硬化した結晶を各階の適当な場所に運んでいるだけでございます」



 ――暗がりの向こうから掛けられた声に、マリーは反射的に飛び退く。素早く反転して声がした方へと身構えるマリーたち。


 ぼんやりと照らされた明かりの先にいたのは、給仕服という場違いな恰好に身を包んだショートカットの女であった。



「探究者、と呼ばれる方ですね。驚かせて申し訳ありません。私は、この階の環境保全の為の監視役を任されている者です。敵ではありませんので、どうかご容赦を」



 そう言うと、女は深々と頭を下げた……見間違いではない、給仕服である。『ドレス』とは違う、何の変哲もない作業着である。


 こんな場所……特に、地下20階よりも下の『ダンジョン』という危険地帯ではまず絶対に見かけることはないだろう。


 あまりに場違いすぎる出で立ちでの登場に、サララとドラコは厳しくその女を睨みつける……のだが。



(……おい、待てよ。なんでお前がここに居るんだ?)



 ただ一人、マリーだけは二人とは別の理由から驚愕の眼差しをその女に向けていた。


 何故、マリーがそんな眼差しを向けてしまうのかと言えば、目の前にて姿を見せたその女の顔には見覚えがあるからだ。


 正確に言うなら、つい最近にも顔を会わせたばかりであったからで……どこで会ったのかと言えば、それは。



「……お前、ルリのところにいたやつか?」

「――私の注意を引くには十分過ぎますが、それでもその質問は漠然とし過ぎていて、私には答えかねます。現時点で私があなたに返答する内容は、『さあね』、でございます」



 恐る恐る尋ねたマリーの問いかけに対して、女……『テトラ(とある、アンドロイド)』と似た顔をしているその女は、間髪入れず無表情のままにそう返した。


 ぽかん……と呆気に取られるサララとドラコを他所に、女は無表情のままに言葉を続けた。



「あなたの質問に対してより正確な返答を行う為に、整合性を図りましょう。その為にはまず、あなたが発した『ルリ』という固有名詞が、私が保持している『ルリ』という名を一致させる必要が――」

「俺は、『受け継ぐ者』だ」



 ポツリと呟かれたマリーのその一言に、女はピタリと言葉を止めた。


 ……静かに、ガラス玉のような瞳でマリーを見つめる。


 二人には分からないことでも、マリーにだけは何となく分かった。


 彼女が今、猛烈な勢いでマリーのことを思い出そうとしているということを。



「……マリー?」

「大丈夫だ、敵じゃない。今はただ、こいつの中の『俺』と、目の前の俺を一致させようとしているだけだろうさ」



 少しばかりの不安と警戒を抱いたサララとドラコが立ち塞がろうとするのをマリーは制しながら、ただ黙ってその時を待つ。


 その時間は、マリーたちにとって十数分にも感じる長さだったが、実際に過ぎたのはせいぜいが2,3分程度であった……と。



「――情報整合の再確認を致します」


 ――不意に、女がそう呟いた。



 首を傾げる二人を他所に、女は無造作に腕を上げた……かと思ったら、その腕はカシュンと音を立てて変形し、マリーにとっては見覚えのある金属で出来た三本指のアレに形を変えた。



「えっ!?」

「大丈夫だ、アレは俺を傷つけるものじゃない。ただ、俺の中にある記憶を読み取るだけだ……ドラコ、お前も敵意を剥き出すな」



 慌てるサララを押し留め、ドラコを宥めながら、マリーは女の前に歩み寄る。



「――失礼致します」



 女は無表情のままに三本の指でマリーの頭を包み込む。瞬間、マリーは「いいから動くな! 俺は大丈夫だ!」反射的に刃を向けようとしたサララを怒鳴ると……静かに、目を閉じる。


 ……。


 ……。


 …………虫の鳴き声が、暢気に響く。


 緊張感を孕んだ空気の中で、無言のままに佇んでいるマリーの頭から三本指が外されたのは、思いのほかすぐ。カシュン、と三本指を引っ込めた女は、しばしの間手の状態を確認した後。



「――合致を確認。あなたを、『受け継ぐ者』であると確定しました」



 次いで、女はまた深々と頭を下げた。



「お待ちしておりました。あなたがこの地に下りてくる日を……ずっと、ずっと、お待ちしておりました」

「俺を?」

「はい。ご主人様も、あなたと再び会える日を心から待ち望んでおられました」

「……は?」



 思わずマリーは目を瞬かせ……はて、と首を傾げる。


 待つって、確かルリが居た時代は今よりも数百年も前では……ていうか、よく考えたら何でこいつは平然とここに……?



「来てください、お時間は取らせません。ご主人様も、きっとお喜びになりますでしょう」



 マリーの疑問を遮ってそう言うと、女は呆気に取られるマリーを他所に踵を翻した。


 その歩調はゆっくりでありながらも有無を言わさない速さであり、少し離れた場所で立ち止まると、おもむろに振り返り……ジッと、無機質な瞳を向けて動きを止めた。



 ……拒否はさせない、ということなのだろう。



 首を傾げながらもマリーがサララたちに視線をやれば、二人は黙って頷いた。判断は任せる……と解釈したマリーは、さて、と脳裏の天秤を傾ける。



 ……案内付きとはいえ、何もかもが未知の夜の森を進むのは危険だ。



 人間よりもはるかに夜目が利くドラコがいるとはいえ、毛むくじゃらが口にしていた『あいつ』の件もある。


 しかし、『ルリ』とまた会えるのであれば……今度こそ聞き出せるのかもしれない。


 彼女があの時語りきれなかった……確信とも言えるかもしれない、その部分を。



「……俺は行くが、二人はどうする?」

「行く以外の理由が、私にはない」

「右に同じく」



 天秤は、傾いた。


 行き先を定めたマリーたちは、おもむろに女の後を追いかけるのであった。





 現在、地下21~25階。

 マリー:体力回復、微傷

 サララ:体力回復、微傷

 ドラコ:体力回復

 『鬼人』と『聖女』の最終到達階:地下54階(非公式)

 マリーたちが目指す最下層まで、後――。


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