番外編: ある少女の半生・後編

※センシティブな内容です、注意要



 ……。


 ……。


 …………そうした日々を送るに当たって、外の世界へ助けを呼びに行こうと考えたことはある。


 来る日も来る日も変わることのない畜生のような光景に、私はほとほと嫌気を差していたのだろう。


 だが、13歳のその時を迎えるまで、私はあいつらの指示以外で外に出ようとはしなかった。



 それは何故か……決まっている。



 孤児院の決まりを無視して外に出る行為に、距離や時間は何の関係もない。勝手に外に出る、それは、脱走以外の何ものでもなかったからだ。


 脱走は、一言で言えば『賭け』だ。何故なら、仮に脱走した先で通報されて捕らえられたら、待っているのは破滅だ。


 当時(今も、そこまで変わらないが)、私を含めた孤児に対する目は非常に冷たいモノが多かった。端的に言えば、孤児は基本的に嫌われ者であったからだ。



 ……色々と理由はある。その中でも一番多く言われるのが……窃盗を働くからだと私は思っている。



 何せ、施孤児になる経緯は様々だが、孤児になって施設に入ってからは、だいたいは心が更に荒み、そのまま年齢制限が来て施設を出れば……だいたいは、ろくでもない道を進む事になる。


 つまり、悪さを働くようになるのだ。何せ、当時の私もそうだったが、あまりに虐げられていたせいで、その辺の感覚がかなり鈍っていた。


 なので、人々の孤児に対する視線というのは、だいたいにして厳しく冷たいモノが多かった。それは、孤児を捕まえる警官たちも同様であった。


 温情が与えられれば元の孤児院か、あるいは別の孤児院に移されるが、だいたいは適当に憂さ晴らしをされた後で路上に放り捨てられ……浮浪児となる。



 ――そうなれば、力も知恵も無い子供は性質の悪い大人たちにとっては、魅力的な餌でしかない。



 中には運よく探究者として一端の生活を送れるようになった子もいるが、大半の子供は性質の悪い奴らに捕獲され、使い潰されるまで安宿の消耗品としての日々が待っている。


 実際、『東京』にはそういう子たちが働かされている宿はある。当然、違法だ。だが、次から次へと潰されては生まれるというのを繰り返している……というのが、『東京』の現状なのだ。



 ……言っておくが、まだ『東京』はマシな方だ。



 その『東京』ですら、路上に生きる浮浪児は庇護の外だ。彼らに手を出すことは禁じられてはいるが、だからといって彼らが市民に危害や損害を与えたとなれば、話は別。


 良くて殴られる程度で、悪ければ囚人として捕らえられる。運が良ければ短い期間で終わるが、大半は国から回された危険な仕事を強制されて……そのままだ。



 ……という話を、私たちは院長から、嫌というほどに聞かされた。ほとんどの子供たちはその話を聞いて青ざめ、出る事を諦めていたが……私は、むしろ逆だった。



 いや、逆という言い方も変だ。その時の私は、何というか、今でもはっきりと言葉には言い表せられない、複雑な感情を抱いていた。


 もしかしたら、動揺という言葉が一番近いのかもしれない。


 このままでは駄目だ。

 このままでは駄目だ。

 このままでは駄目だ。


 ただ、その言葉だけが脳裏をグルグルと這い回る。


 今の私たちと、使い潰される子供たち。いったい、何が違うというのだろうか……それが分からなかった当時の私は、とにかく焦燥感だけが胸の奥で燻っていたのを覚えている。


 あれは……実に嫌な感覚だった。今でもはっきりと、思い出せる。


 けれども、いくら焦ったところで当時の私は幼い子供でしかない。


 しかも、まともな教育を受ける前に孤児となったので、文字の書き方はもちろん、看板一つまともに読めなかった私に出来ることなど、何もなかった。


 そうして日々募り続ける焦りにヤキモキするしかなかった私の身に、父の死から続いて二回目となる忘れられない出来事が起こったのは、私が13歳の時であった。


 この頃になると、私はあいつらの指示で年長者が受けられる清掃業務を任されるようになり、それに伴って孤児院内の身分……という言い方も変だが、私の立場も上がってきていた。


 それは単純に年齢が上がったのもそうだが、他の子たちと私とで決定的な違いが現れるようになったのが大きな要因だったのだと思う。



 ……何が違ったかと問われれば、最も明確に現れたのは『力』と『体力』だった。



 私よりも背の高い男の子よりも早く走れることから始まり、どれだけ動いても息一つ乱れない。年長の子が二人掛りで持つ道具も私一人で抱えることができ、時には年長者二人分の仕事をこなすこともあった。


 その時は理解出来ていなかったが、おそらくはこの時点で無意識のうちに気功を操っていたのだろう。


 シャラさんに類まれな才能があると言われた私だが、こうして過去を文字に起こしてみて、何となくソレを実感する。ああ、あれはそうだったのかと、納得する。



 ……今にして思えば、実に下手くそな気の扱い方だったなあ、とも思うのだけれども。


 基本のきの字もない。ただ、そうであろうと思ってそうしていた、ただそれだけ。独学以前の、感覚的にそれが楽だと思っていたから、そうしただけ。


 それでも、お腹いっぱいご飯を食べられることが出来る様になったのは、その下手くそな気功術のおかげなのも事実だった。


 沢山ご飯が食べられれば、その分だけ私は大きくなった。端的にいえば、孤児院の子供たちは誰一人勝てなくなった。


 気功術のおかげか、あるいは成長期だったおかげなのかは分からない。結果的に、私は13歳になった段階で、ある程度の自由を認められるようになった。



 まあ……そのおかげで妬みは受けた。



 当時の時点で(今も、あまり愛想が良いとは思えないが)お世辞にも愛想の悪かった私は、はっきり言って同じ子供たち(年長、年少、問わず)の間からは物凄く嫌われていた。



 けれども、私は気にも留めなかった。



 彼ら彼女らがかつての私を気にも留めなかったように、私も同じであった。そんなことよりもいっぱいご飯を食べて、一日でも早くこんな場所を出たいと思っていた。だから、彼らのことなんて微塵も考えていなかった。


 ……そんなだから、なのだろう。


 13歳になって一ヵ月後の、運命の夜。私は、同室の子たち全員に襲われた。いや、同室だけではまい。私以外の全員の子たちに、私は無理やり押さえ込まれたのだ。


 最初は、何が起きたのか分からなかった。気功の力に目覚めてから、彼らは私を心なしか恐れるようになっていたから、なおさらだった。


 全身をクッションで押さえられ、呼吸すらまともに出来ない。


 わけが分からずに動揺する私は……酷く乱暴に下着を破られたのを感じ取って、ようやく彼らの意図を察した。


 女子たちが行っていた行為、それをこっそり覗いていた男子たち。


 こいつらは、女子たちがしていたことを、男子たちがしていたことを、そのまま私にするつもりだ。私で、溜め込んでいたうっぷんを晴らすつもりだ。


 両足を広げられる……それを理解した瞬間、私は……頭の中で何かが千切れる音を聞いて……無我夢中で暴れた。


 正しく、間一髪だった。本当に、ぎりぎりだった。男子たちの身体が両足の間に滑り込む前に脱出出来たのは、まぎれも無く気功の力のおかげだった。


 拘束を振り解いた後は、もう手加減なんて考えなかったし、あまり記憶に残ってはいない。


 残っているのは、骨が折れたのかと思う程に痛む両手と、真っ赤に染まった拳。そして、蹲った彼ら彼女らの顔から滴る血の臭いだけであった。



 ……どれぐらい、そうしていたのかは分からない。



 部屋に入ってきたあいつらが、私と地面を転がる彼らの惨状に絶句している内に……我に返った私は、あいつらを押しのけて、外へと飛び出した。


 身に着けていたのは、古ぼけて、薄汚れて、所々伸びて破けてしまった寝間着だけ。下着は彼らに破られて履いていなかったが、私は気にせず無我夢中で走った。



 ――孤児院の子供たちは、院長の許可なくして外に出てはならない。



 嫌気を覚えるほどに聞かされた、その言葉。一度もでも外に出れば、もうそこは庇護の外。二度と戻れない世界、立ち止まるには今しかない……けれども、私は立ち止まらなかった。



 いや、それは、立ち止まれなかった、いう方が正しいのだと思う。



 あいつらにとって、子供たちは商売道具であり、性欲処理の道具。


 彼ら彼女らにとって、自らの身体は商売道具であり、寵愛を受ける為の道具。


 襲われたとはいえ、それらを無残に壊してしまった私。


 例えあいつらが私を恐れて許しても、だ。彼ら彼女らは、けして私を許しはしなかっただろう。



 そうして、13歳を迎えてから、一か月後の夜。



 私は、第二の故郷という名の家畜小屋を捨てて、浮浪児となった。







 ……。


 ……。


 …………浮浪児となった私が言われずとも最初に理解させられたのは、浮浪者というものの生き難さだった。


 次いで理解させられたのは、路上に生きるからこそ求められた、『暗黙のルール』ともいうべき沈黙の掟の存在であった。


 経験があるからこそ分かることなのだろうけれども、帰る場所が無いというのは本当に心を締め付ける。


 帰る場所が無いというのは、心を休める場所が無いということに他ならず。


 心を休められないというのは、常に独りであることを思い知らされるということ。


 搾取されるだけのあの場所ですら、飛び出すのではなかったと後悔するぐらいに……私は路上をさ迷い、ただただ不安に押し潰されていた。



 ……あの時の感覚は、今も忘れていない。



 今でも時々夢に見てしまうぐらいに辛く、そういう時は後できまってうなされていたと教えてもらうが……まあ、今はいい。


 盗みを働く度胸(正確には、父を裏切ってしまう気がして)がなかった私は、路上を彷徨い続け……ある日、橋の下を寝床としていたお爺さんに声を掛けられた。



 ……危険であるとは、思った。



 路上をさ迷った私はそれまで、幾度となく……数日分の食費と引き換えに、男の上で腰を振り、あるいは腰を叩き付けられている浮浪児たちを目撃していたから、余計に。


 でも、その頃の私は既に、限界を迎えていた。


 空腹と寒気でまともに考えることも出来ず、言われるがままお爺さんに付いて行き……そこで、久しぶりの温かい食事を御馳走してもらった。



 ――だから、見返りとして私は最初自分の身体を差し出そうと思った。



 いや、実際にしようとした。知識だけは、無駄にあったから。当時の私にとって、それが当たり前の事だと思っていたし、お爺さんもそれが目当てだと思っていた。


 本心は、吐き気を覚える程に嫌悪感を訴えていた。だが、出された物を食べた以上は仕方がない、ここで逃げれば浮浪児としての居場所すら失いかねない…私は半ば、強引に己を納得させていた。



 ……だが、しかし。



 覚悟を決めて、薄汚れた寝間着を脱いだ瞬間……私は、お爺さんに怒鳴られた。なんで怒鳴られたのかも分からず困惑していた私に、お爺さんは言い聞かせるように私にこう言った。



 ――俺はそんなことの為にお前に情けを掛けたわけではない。お前をかわいそうと思ったわけでもない。俺は、お前を助けたいと思ったから助けただけだ。




 ……お爺さんにそう言われた、その時の私は……変な話だが、大泣きしてしまった。


 なんで泣いてしまったのか、今でも私には分からない。愛情に飢えていたのか、それとも父の面影を見たからなのか……本当に、今でも分からない。


 ただ、お爺さんの言葉が本当に嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて……これまでの日々が、頭の中をぐるぐると回ったことは覚えていた。



 ――分かってくれたなら、それでいい。お前はまだ若い。自分を切り売りするには、まだ早いぞ。



 しばらくして、ようやく泣き止んだ私にそう言い聞かせたお爺さんは……歯が半分ほど欠けていて変な笑い方をするが、とっても穏やかで優しい皺くちゃのお爺さんだった。


 ……懐いたからなのか、それ以外の理由が当時の私にあったのかは、今の私には分からない。


 ただ、私は自然と、お爺さんと一緒に行動するようになった。


 お爺さんも、それを止めようとも振り払おうともしなかった。


 ただ、時間を掛けて私に色々なことを一つ一つゆっくりと教えてくれた。




 一つ、他人の寝床(と決めている場所)を奪わない。

 二つ、他人の縄張りに手を出さない、不用意に立ち入らない。

 三つ、どんな時でも身綺麗を心がけて置くこと。




 いくつかあるルールの中で、それら三つが最も重要であると。


 これは日の当たる場所も暗闇の向こうでも同じことだと……最初から最後まで、お爺さんが念入りに私へ言い聞かせて教えてくれたのが、その三つであった。


 次に教えられたのが、文字の書き方読み方計算。最低でも看板ぐらいは読めるようになれと、お爺さんは何度も何度も、私に言い聞かせた。


 だから、私は頑張った。何度も何度も地面に書いては消して、私は教えられたことの全てを頭に叩き込んでいった。



 ……この頃になると私は、半ば片言でしか言葉を発せなくなっていた。



 父から教えられた、『例の祈り』を思い浮かべても前ほど効果は無くなってきており、当時の私はとても困っていた覚えがある。


 それが精神的なものなのか、長年まともに声を発しなかったからなのかは分からない。


 ただ、お爺さんが珍しく、『浮浪者として生きるのなら、特別困ることはないだろう』と慰めてくれたのだけは、今もはっきり私の頭に残っている。



 ……残念なことに、お爺さんの名前は今も知らない。お爺さんもそれだけは頑なに教えてはくれなかった。



 今でも、それだけは心残りだ。けれども、お爺さんは私に浮浪者としての心得と、生き長らえる方法を授けてくれた。



 ……なぜ、私を助けてくれるのだろうか。



 少しばかり月日が流れた頃、一度、それを疑問に思って尋ねたことがある。そうしたら、めっきり寝床から動かなくなっていたお爺さんは、数回程咳をしてから私にこう言った。





 ――お前には、他とは違う何かがある。きっと、神様はお前を助けてくれるだろう。




 それを聞いたとき、正直言って私は複雑な気分であった。


 その神様に祈りを捧げた父は死に、私の祈りに耳を貸してはくれなかった神は、私をあんな場所に押し込んだ。そうして、私は……路上をさ迷う浮浪児として、ここにいる。


 ――今更、何の用だ。


 それが、その時の私が抱いた、正直な気持ちでもあった。なので、私はそれらの気持ちを包み隠さず、正直にお爺さんへ伝えた。


 そんな私を……けして急かすようなことはせず、ゆっくりと時間を掛けて全てを聞き終えたお爺さんは、私にこう言った。





 ――お前は神様という存在を勘違いしている。





 神様というのは心底意地悪で、心底ひねくれた存在だ。どれだけ祈りを捧げたところで、神様は態度を変えてはくれないし、機嫌を良くしてもくれない。


 施しを願う者には絶対に手を差し伸べてはくれず、望んでいない者には勝手に手を差し伸べる。神様っていうのは、そういう自分勝手な存在なんだ。


 教会のやつらが言うとおり、神様は確かにいつも傍で見守ってくださっているのは事実なのだろう。


 だが、神様がしてくれるのは転機を与えてくれることだけ。己の人生を変える為の転機を与えてくれるだけ。


 しかも、神様というものは誰しもにその平等を与えてはくれない。神様だって贔屓をするから、誰しもが同じ回数の転機を与えられるわけではない。


 そして、勘違いしてはいけない。転機というのは目に見える物に限った話でも無ければ、大金が舞い込むといった幸運というわけでもない。


 良い方向へと向かう転機もあれば、悪い方向へと向かう転機もある。


 そればっかりは、その時にならないと分からないが……重要なのは、そこじゃない。



 大事なのは、訪れた転機を、転機だと理解すること。


 そして、訪れた転機を前に、どう行動するか。



 それが、大事なのだ。それこそが、生きる上で何よりも重要なのだ。


 お前の生い立ちは確かに不幸だ。お前のような浮浪者になるやつは珍しい話ではないが、かといってありふれた話でもない。



 けれども、きっとそれには何かしらの意味があるのだと俺は思っている。



 大きな……俺たちの目では捉えきれない、大きな歯車を動かす為の、その一つの役割なのだと思っている。


 俺があの日、あの場でお前に出会ったのも、そうだ。きっと、お前との出会いには意味があった。何か、大きな役割が与えられていた。


 お前とこうして出会えたのも、神様が授けてくれた転機の一つなのだ。あの日、あの時、俺はおそらく、正しい選択を取れたのだと思っている。



 いいか……重要なのは……しっかり頭に叩き込んでおけ。




 いずれ訪れる転機を待つのではない。

 神様の施しに期待をするのでもない。

 大切なのは、その時、何をするかだ。

 何を考え、何を選択し、何を成し、何を受け入れるか。




 神様が我らを見守る理由があるのだとすれば……おそらく、それを見届ける為ではないか。俺は、そう考えている。






 ……私の頭に残っている、お爺さんの言葉。



 今では私の芯となっている、その言葉を残して……お爺さんはそれから三日後に……眠る様にして、苦しむことなく静かに息を引き取った。


 私は……まだ、温もりが残っていたお爺さんの身体を背負って、『東京』の外れにある野原に埋めた。人通りのほとんどない、野花が咲き乱れた場所だった。


 お爺さんが昔に住んでいたと言っていた場所。


 死んだ奥さんと子供の三人で幸せに暮らしていた場所。私以外の全てから忘れ去られていた……そこにあった小さな墓の隣に、埋めてあげた。



 ……その後、私は橋の下に戻らずに『東京』を歩き回った。



 そして、様々な世界を見た。昼に生きる者たちの世界と、夜に生きる者たちの世界を見た。それはとても小さく狭いモノだけれども、私にとってはとても大きかった。



 ……お爺さんとの日々は、時間にすれば一年も無かっただろう。



 けれども、私がマリア姉さんたちに拾われるまで生き長らえられたのは、間違いなくこのお爺さんのおかげだった。



 ……ありがとう、お爺さん。



 それから私は――







 ぽーん、ぽーん、ぽーん……。


 突如鳴り響いた三時を知らせる時計の音に、私の意識はフッと現実へと舞い戻った。


 ……夢から覚めた直後のように目を瞬かせ、次にノートに書かれた過去の思い出に視線を下ろし……苦笑した。



 どうやら、夢中になるあまり時間を忘れてしまっていたようだ。



 凝り固まった肩を解しながら、椅子から降りる。パキパキと音を立てる身体に奇妙な心地よさを覚えながら、ノートを閉じる。次いで、傍に置いてある専用の箱に仕舞うと、厳重に鍵を掛ける。


 軽く、室内を見回す……当たり前だが、誰もいない。それを、誰にも見られないようにベッドの下に押し込むと……深々とため息を吐いた。



 ――直後、部屋の扉がノックされた。



 思わず肩をビクつかせる私を他所に、扉の向こうから愛しいあの人の声が響く。途端、今日の予定を思い出した私は慌てた。



「ごめんなさい、今行くからちょっと待っていて!」



 申し訳ないと思いつつも、一言待つようにお願いしてから、急いで姿見の前に立って身だしなみを確認する。


 あの人はそんなこと気にも留めないだろうけど、それでもあの人の前だけは綺麗な私でいたい……それは、私のワガママだ。


 そうして……時間にして、数分程。


 まあまあ満足できた私は、テーブルの上に置いておいた花束を掴み、急いで扉を開けて……白銀色の髪がふわりと振り返る。赤い瞳の彼に、心からの笑みを浮かべた。



「お待たせ」

「おう……へえ、似合っているぜ」



 彼の視線が、私の全身を行き来する。何とも言い表し難い優越感と心地よさに足の力が抜けそうになったが、私はおくびにも出さずに「ありがとう、嬉しいな」と、頷く。



「ところで、その墓参り……部外者の俺が行ってもいいのかい?」



 隣を歩く彼の胸元、抱えた酒瓶からちゃぽちゃぽと音が鳴っている。それは、酒の種類など分からない私が事前にマリア姉さんたちにお願いして用意してもらった……お爺さんが好きだったお酒。


 お父さんは、酒好きだったのかが分からないから、無難に御花だ。


 事前に花屋に頼んでおいたやつで、とっておきだ。抱えているだけでむせ返るぐらいの花の香りが、想いと心を安らげてくれた。



「うん。無理を言ってごめんなさい。でも、どうしても来て欲しいの」



 彼の言うとおり、彼は確かに部外者だ。でも、私は彼に来て欲しかった。


 いつもは私一人で行くか、マリア姉さんたちを伴って行っていたけど、今日だけは彼について来て欲しかった。



 ……やっぱり嫌なのだろうか。



 当たり前のことだけど、わざわざ墓参りに誘うのも変な話だから。


 そんな私の不安を察してくれたのか、彼は言い辛そうに言葉尻を濁した後……内心を教えてくれた。



「あー、いや、別に嫌だってわけじゃねえけどさ……ただ、何で俺なんだい? 付き合い自体はマリアたちの方が俺よりも長いだろ?」

「……ううん、重要なのは時間じゃない」



 ――なんだ、そんなことか。



 安堵した私は、一抹の申し訳なさを隠しながら、彼に笑みを向けた。



「貴方だから。マリー、私は貴方だから、一緒に付いて来て欲しいの」



 そう言うと、マリーは首を傾げながらも……笑みを浮かべて頷いてくれた。






 さあ、お祈りを捧げよう。

 さあ、共に神へと祈ろう。

 神は、私たちを何時も見守っている。

 神は、いつも私たちの隣にいる。



 今では思い出すことも少なくなった、その言葉。


 神に祈りを捧げることは無くなったし、あなたに捧げる祈りなんて持ち合わせていないけど……一つだけ、あなたに伝えておきたいことがある。



 ありがとう、神様。


 あなたが授けてくれた転機。

 あなたが与えてくれた出会い。


 私のこれまでの半生に意味が有ったのだとしたら、きっと彼に出会い、彼の力になる為にあったのだと思う。


 彼と共に生き、彼の為に戦い、彼と共に朽ち果てる。

 それが、あなたの御意志なのかは私には分からない。


 けれども、今はそれが私の望み。


 例え、彼が茨の道を歩み、世界中の全てが彼の敵に回っても。

 私だけは、彼の隣に居ようと思います。


 それが、きっと、おそらく、たぶん。

 あなたが私に与え続けた、様々な転機の意味は、そこにある。


 そうなのだろうと、私は思っています。


 お父さんのことも、孤児院のことも、お爺さんとのことも。

 その全てに意味が有り、全てはこの為に続いていたのだと思っています。


 ありがとう、お父さん。

 私は、幸せです。


 ありがとう、お爺さん。

 私は、幸せです。


 ありがとう、神様。

 祈りなど捧げるつもりはございませんが……最後に一言だけ。




 ありがとう……私は、幸せです。



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