第五章: エピローグ・あるいは誰かのプロローグ

※最後の辺りで性的な描写があります

削るか迷ったのですが、この作品において、この二人の行為は絶対に切り離せない部分であり、テーマの一つでもあるので、最小限の描写に留めております






 ――かん、かん、かん、かん。



『東京』の空に響く、甲高い金槌の打突音。それに伴って見え隠れする、瓦礫の撤去に勤しむ住民たちの慌ただしい姿と、家々から漏れだしてくる様々な匂い。



 ……動き始めた日常を、マリーはラビアン・ローズの屋根の上から、ぼんやりと眺めていた。



 朝の陽ざしに暖められた風が、ゆるゆるとマリーの頬を掠めてゆく。昨日の雨が、洗い流してくれたのだろうか。


 むせ返る程に『東京』中を満たしていた異臭もすっかり消えていて、嗅ぎ慣れた『東京』の臭いがマリーの鼻腔をくすぐっていた。


 ……何をするでもなく、農作業に勤しむエイミーたちをマリーは見下ろす。『エネルギー・ボトルが前よりも値上がりしている』とぼやいていたのは、誰だったか。



 そのままマリーの視線が動いて、庭の外れにて転がっている3体の『牙ブタ』の亡骸にて止まる。



 それは、日も昇らぬうちに『東京』から北に向かったところにある森で仕留めてきた、ドラコの獲物であった。


 地上に住む『モンスター』は、基本的に縄張りを変えることはないが、生息域はその個体によって様々で、場所によっては凶悪な『モンスター』と出くわすのもザラである。


 様々な危険性を考えれば、『ラステーラ』から、さらに南に向かった場所にある、調査の進んだ『南の森』へ行くべきなのだが……気にせず北を狙う辺り、さすがは竜人というべきか。


 ドラコがやったのか、既に『牙ブタ』は解体し終えているようで、内臓等はどこにも見当たらない。傍にはマリアたち数名が集まっているのが見え、食べる分と市場に持っていく分とを分けているようだ。



 その作業をしている女たちの中、当たり前のようにドラコが紛れているのを見て、思わずマリーは笑みを零す。



 いつの間にか違和感を覚えなくなっているな……そう笑いつつ、また、街並みへと視線を戻した。




 ……街が破壊されまくったあの日から、幾ばくかの時間が流れた。




 息絶えた子供を抱きしめる人、変わり果てた我が家を前に立ち尽くす人、亡骸となった両親に縋りつく子供……あちらこちらから聞こえていた悲しみの声も、少しばかりではあるが、鳴りを潜めていた。


 運よく被害を免れた人たちが協力して行った、被害者への手助け。率先的に行われた復旧作業。


 そして、おのずと目の前に差し迫る『明日』……一時的にではあるが、彼ら彼女らに考える時間を与えなかったのがよかったのかもしれない。


 それでも、夜になればあちらこちらで泣き声が聞こえて来る。その原因など、数え上げればキリがない。到底、この短い期間で受け入れられることではない。



 だからなのか、その泣き声に対する苦情の声はどこからも聞こえてはこなかった……けれども、だ。



 泣いている暇も余裕も彼ら彼女らにはなかった。今回の被害で失われた物はあまりに大きく、それでいてあまりに多過ぎたから。


 家族を失った者、恋人を失った者、連れ添った相手を失った者……彼ら彼女らは、朝日が昇る度に悲しみを笑顔の奥に隠す。


 そして、自分だけではないのだ、と己を奮い立たせる。



 ……受け入れたわけでも、忘れたわけでもない。



 今日を生きる為に、明日を迎える為に、皆が無理をして、皆が我慢をして、『東京』を少しずつ元へ戻そうと、歯を食いしばって皆は顔をあげていた。



「――ああ、よかった。今日はここに居た」



 ふと、掛けられた声に振り返る。視線の先に居たのは、バスケットを片手に佇むサララだった。



「今朝、どこかへ出かけていたようだけど、どこへ行ってたの?」

「ぶらり散歩の旅」

「へえ……あ、これ?」



 自然と、そのバスケットへと向けられた視線に気づいたのか、様子を伺うようにサララはバスケットを抱え直した。



「……サンドイッチ作って来たけど」



 朝食、食べていないようだったから……心配で。


 消え入るように囁かれたその言葉は、ともすれば耳を澄ませても聞こえなかったぐらいの、小さなもの。しかも、視線をさ迷わせながらのことだったから、普通ならまず届くはずがなかった……のだが。



「わざわざスマンな……いただくよ」

「――うん!」



 聞こえていなくとも、マリーには十二分に届いていた。「隣、いい?」パッと表情を明るくしたサララに頷けば、さらにサララは喜んでマリーの隣に腰を下ろす。


 手慣れた様子で、バスケットから蓋付きのポットを取り出す。「さっき淹れたばかりだから、温かいよ」湯気立つそれを受け取ったマリーは、早速お茶とサンドイッチを一口……思わず、マリーの頬が緩んだ。


 サララにとっては、それだけで十分だったし、嬉しかった。次々にバスケットへ手を伸ばすマリーの姿に微笑むばかりで、けしてそれ以上は求めなかった。


 ただ、その視線がマリーから外れた時。『東京』の街並みへと向けられた時……静かに、目を伏せた。


 天へと高く昇る白煙が、街並みの至る所から昇っている……それの意味するところを、思い浮かべてしまったからだった。



「……マージィさんのこと、気にしているの?」



 ポツリと、サララのその言葉が二人の間に響いたのは、マリーが食べ終わって少し経った頃であった。



「……マリーが責任を感じることじゃ、ないよ」



 静かに、サララの手がマリーの手を握る。マリーは握り返さなかったが、サララは構わずマリーの手を摩る様に撫でた。



「ナタリアが関わっているって決まったわけじゃないし……だから――」

「分かっているさ、それぐらい」



 サララの言葉を遮る様に、マリーは言った。別段、怒ったわけではなかったのだが、「ご、ごめん」サララはそう受け取らなかったようだ。



「……怒っちゃいねえよ。ただ、考え事をしていただけだ」



 目に見えて落ち込むその姿に、マリーは苦笑して手を握り返す。


 それだけで安心したのか、「考え事?」サララの顔にも明るさが戻る。



「マージィのおっさんのことだよ」



 マリーもそれに安堵のため息を零すと、ポケットをまさぐり……中から、古ぼけたペンダントを取り出した。



「それって……確か、マージィさんが持っていたペンダント……あれ、でも、それって大五郎さんが預かっていたはずだよね?」



 首を傾げるサララを他所に、マリーは不器用な手付きでペンダントを開く。中に収められている女の写真が露わになった。「わざわざ預かってきたんだ」不思議そうにサララは、首を傾げた。



「その人、確かマージィさんの死んだ奥さんだよね。名前はたしか……えっと……」

「ミシェルだ」

「あ、そうそう、ミシェルさん……その人が、どうかしたの?」

「別に、どうもしないさ……ところで、お前はマージィに子供がいたって、知っているか?」



 えっ、サララは驚きに目を瞬かせた。



「それって、人さらいに攫われたって言っていた子供のこと?」

「ああ」

「それって確か、金持ちに買われて行った……んじゃなかったっけ?」

「そうだ、それで合っているぞ」

「……それと、そのペンダントと、何の関係が?」



 マリーの思惑を理解しようと思考を巡らせる……が、上手くいかない。悔しさ交じりで首を傾げるサララに、「気にするな、ただの独り言だ」マリーはそう言って腰をあげる……と。



「――マリー君、お客さんよー!」



 眼下からの呼びかけに、マリーは視線を向ける。そこに居たのは手を振るマリア(他、数名)と、見慣れない男が一人。探究者程ではないが、けっこう体格の良い男たちであった。



 ……はて、誰だろうか。



 見覚えのある彼に首を傾げたが、「――ああ、あいつか」意外とすぐに、何時ぞや訪ねてきた警察の人であることを思い出した。


 そういえば、そういう話もあったな……あぶねえ、マリアたちに呆れられるところだった。


 そう思ってしまうのは、それが霞んでしまう程の衝撃的な出来事が次々に押し寄せ、無理やり体験させられたから……なのだろうか。


 それが悪い事なのか良い事なのかはマリーには分からなかったが、図太くなったのは確かなのかもしれない。


 そう己を納得させながら、マリーは降りようと腰をあげ……「向かう手間が省けたぜ」マリアたちの後ろから近づいてくる人物を見て、頭を掻いた。



「これもまた、あいつの……あるいは、運命ってやつなのかねえ」

「……?」



 いよいよマリーの言わんとしていることが理解出来ない。


 そう顔に書いてあるサララを他所に、マリーはベッドに飛び込むような調子で空へと身を躍らせる。


 慌てたサララの声が後方へと遠ざかって、すぐ。


 驚くマリアたちを飛び越えて、たん、と軽やかにマリーは着地をした……訪ねてきたイアリスの前で、だ。


 まん丸に見開かれたイアリスの目が、驚愕に何度も瞬きを繰り返す。


 それは偶然に目撃してしまった女たちも同様で、「ま、マリー君、お願いだから無暗に危ないことはしないでね」心配そうに駆け寄って来たマリアたちに手を振って誤魔化すと、マリーはイアリスへと向き直った。



「用件は……ソレか?」



 魔法剣『アルテミス』を指し示せば、イアリスは無言のままに頷いてマリーにそれを差し出した。


 その目には、前には無かった『落ち着き』のようなものが感じ取れた。



「どうしろと?」

「受け取ってほしい。私にはもう、必要がないから」



 返答は短く、迷いは微塵も感じ取れなかった。



「……大事なもんじゃなかったのか?」



 何故、自分に……とは、あえて尋ねなかった。



「…………」



 イアリスは、何も答えなかった。ただ、『アルテミス』をマリーに差し出した……けれどもマリーはそれを受け取ることをしなかった。


 俯くばかりのイアリスに「まあ、なんだ」背を向けると、顎で警察の男と、館を順に指し示した。



「先客がある」

「……だったら、後日改めて――」

「いや、それはいい。その前に、お前には幾つか話しておかねばならんことがある……急で悪いが、俺の部屋で少し待っていてくれ」



 イアリスの言葉を遮って、マリーはそう言った。次いで、「それじゃあ、次はあんただな」マリーの視線は男へ……警察の人へと向けられた。





 ……。


 ……。


 …………この話はこの館に住む全員が関係することだから……ということで、マリーは食堂としても使われる広間に通すことにした。


 ぞろぞろと2人の後ろを美女たちが付いてくる光景に、男は居心地悪そうにしていたが……まあ、諦めて貰おう。



「――わざわざご足労ありがとうございます。これで、喉を潤してくださいな」



 席に着いて、しばらく。


 その言葉と共に、ことり、とテーブルの上に優しく置かれたのは、湯気立つ紅茶が一つ。そして、盆を抱えたマリアの、特上の微笑みが一つ。



「あ、い、いえ、お構いなく」



 給仕をするマリアの美貌に緊張したのか、それとも見惚れてしまったのか、あるいは女ばかりに囲まれる状況に慣れていないのか。


 前にも訪れたはずなのに、男は傍目からでも分かるぐらい恐縮しており、落ち着きが見られなかった。



(あ~らら、見惚れちゃってまあ……)



 先ほどサララが淹れてくれた紅茶の生温さに唇を湿らせながら、マリーはこっそり苦笑する。まあ、無理もないか、というのがマリーの正直な感想であった。


 なにせ、マリアの美貌は(身体を含めて)そんじゃそこらの女では太刀打ち出来ないレベルだ。


 加えて、広間にはエイミーを始めとした、目のやりどころに困る女ばかりが集まっている。全く動揺するなというのも……けっこう酷な話だろう。



「それで?」



 だからマリーは、男が彼女たちの全身へ視線を向けているのは分かっていたが、マリアたちが気にする素振りを見せなかったので、あえてそれを口にすることはしなかった。



「今日はいったい何の御用で? あんたらがここに来るってことは、捜査に何かしらの進展があったと思っていいのかい?」



 このままだと、日が暮れるまで縮こまっているだろう。そう思ってマリーの方から促してやれば、「――そ、率直にお伝えします」これ幸いと言わんばかりに男は口を開いた。



「件の犯人……と、思われる容疑者を、数日前に捕まえました」


 ――瞬間、広間の空気がガラリと変わった。



 女たち全員が驚きに目を剥く中、「ほ、本当ですか!?」最も早く反応したのはやはりというか、マリアであった。



「はい……ですが、その件について少々お話が――あ、ちょ」



 男の言葉をマリアが聞いたのは、そこまでだった。


 怒りで我を忘れたマリアは、御盆を放り投げて走り出した……のだが、「――サララ、マリアを押さとけ」それを予測していたマリーによって、マリアの暴走は寸でのところで未遂に終わった。


 獣の如き瞬発力で飛び出したサララのタックルによって、マリアはびたん、と地面を転がった。「放しなさい! 私は、落とし前をつけに行くのよ!」それでも鼻息荒くほふく前進するマリアを、「落ち着いて、ね、落ち着くべき」サララは圧し掛かって手早く動きを止める。



「お、落ち着けマリア!」「そ、そうよ、とりあえず話を聞いてからでも」「あなたが行ったところで、何も変わらないでしょ」「ていうか、鼻血出てる! 鼻血が出てるってば!」「誰か、ハンカチか何か持ってない?」



 華やかで良い匂いが漂っていた広間が、にわかに騒がしくなった。けれども、怒髪天を突いているマリアを見て、怒るタイミングを逃したのだろう。不思議とマリア以外は冷静で、シャラを含めた全員がマリアを宥める方向で気持ちが一致した。



「……それで、話って何だ?」

「へ?」

「回りくどい言い回しをするぐらいだ。何かが、あったんだろう?」



 少しばかり腰が引けている男二人に、マリーは続きを促した。この混乱した状況で話すべきか悩んでいる素振りを見せたが、「あいつらなら、その内静かになるから」主であるマリーにそう言われて……おもむろに、続きを話し始めた。



「実は、その犯人と思われる容疑者なのですが、その本人が自首してきたんですよ。さっきも言った通り、数日前のことなんですけど、『俺が○○をやった』、みたいな言い回しで」

「……ふーん」

「その男は、自分のことを『イルスン』と名乗っておりました」

「――え?」



 その名前は、たしか……。



「そして昨日、そのイルスンという男なんですが……自ら鉄格子に頭を打ちつけて、自殺しました」

「――は?」



 思わず、マリーは目を見開いた。それはサララも同様で、マリアたちは思い出せないようであったが、『自殺』の言葉に、ピタリと広間の中が静まり返った。


 そのあまりの変化に思わず言葉を止めた男であった……のだが。



「――ちょっと待て、いったい何がどうなって自殺することになったんだ?」



 そう、マリーから再度続きを促されて……静かに、唇を開いた。



「その、何というか……その男……あ、自首してきたイルスンなんですけど、どうもイルスンは、かなり長期に渡って特殊な暴行を受けた痕跡があるんですよ」



 ……特殊な暴行、ねえ。



 その言い回しに引っ掛かりを覚えないわけでも無かったが、「それで?」ひとまずマリーは話を続けさせた。



「その暴力の影響か、それとも元々そうだったのかは分かりませんが、頭がすっかり駄目になっておりまして……まともに会話をすることすら困難な状態なのです」

「ふむ……で?」

「ただ、関係者しか知り得ないはずのことを幾つか知っていたので、限りなく黒に近い黒として捕らえていました……が、それが昨日、証拠を固める前に自殺を図り……そのまま……」



 それ以上、男は言葉を続けなかった。それは、当然だろう。


 警察側からすれば、留置している最中に容疑者が自殺してしまうことなんて、不祥事以外の何者でもないのだから。


 マリーを含めたマリア側からしても、到底納得がいく話ではない。なにせ、容疑者はあくまで容疑者なのだ。


 それが仮に犯人(犯人であると、既にマリアたちの中では決まっていることだが)だとしても、結局はあやふやなままだ。


 何とも、すっきりしない終わり方だ。少なくとも、マリーも、サララも、マリアたちも、全員が求めていた結果でないことだけは、確かであった。


 ほう、と深々とため息を吐いたのは誰が最初だったか。



「本日は、それだけをお伝えに参りました。賠償金等の話についてはまた別の者が来るでしょう。それでは私はこれで……」



 けれども、男はそう言って腰を上げた。それを見て、マリーたちは……男の言わんとしていることを察した。



 ――要は、これ以上この件を捜査するつもりはないぞという、報告だ。



 警察はもう『イルスン=犯人』だと断定している。その犯人が死んだ以上は、捜査するだけ無駄。根底から覆る証拠が出たならまだしも、それを調べるつもりもない……だから、賠償金の事を口にした。


 要は、そういうことなのだ……もう、認める他あるまい。諦めたマリアたちは、見送りの為に男を玄関まで案内する……それを、見つめながら。



「――ところで、一つ聞いていいかい?」



 気付けば、マリーは男の背中に声を掛けていた。



「はい、なんでしょう?」



 振り返った男を見て、一瞬ばかり、姿事ではと自らの発言に後悔する。だが、わざわざ足を止めさせたのだ。


 この際いいかと己を納得させると、マリーは「答えられないのなら、それでいいんだが……」はっきりと尋ねた。



「イルスンが受けたという特殊な暴行って、具体的にはどんなの?」



 マリーの質問に、マリアたちも目に好奇心を浮かべる。納得出来ない結果な分、犯人(容疑者)の現状を知りたいというのは、ごく自然なことであった。



「……その、いちおうは捜査内容のことですので、他言するわけにもいきません……ですが、だからといって素直に納得できる話でもありませんよね」



 チラリと、マリアたちを見やった男は……困ったように苦笑した。


 そして、「ああ、これは他言してはならない、ただの独り言なんですが――」わざとらしく全員に聞こえるようにそう告げると。



「一言でいえば、イルスンが受けた特殊な暴行とはすなわち、性的暴行です」



 誰に言うでもなく、マリーたちに教えてくれた。



「特に性器周辺が酷く……はっきり言いますと、長期間に渡って強姦されていたようで……加えて、身体検査をした時には既に陰茎はもぎり取られて一部が消失し、全身も傷痕だらけだったと、私は報告を受けております……あ、そうそう。これは一般からの目撃証言であり、かつ人伝で聞いた話なんで、本当かどうかは分かりませんがね」



 男は思い出したように、独り言を続けた。



「自首してきた時、たまたま近くを通った子供……特に、金髪の女の子に対して異常なまでに恐怖していたそうです。他にも緑色の物を見ると、酷く錯乱したらしいです」



 それだけを言うと、男はマリアたちの顔色を確認する。


 次いで、「他言しないでくださいね」再度念を押すと、「お見送りはけっこうです」足早に広間を出て行った。


 その後ろを、我に返ったマリアたちが追いかけていった……のを見送りながら、マリーはしばしの間呆然と目を瞬かせた後……深々とため息を吐いた。



「女の尊厳を売る館を焼き払った結果、男の尊厳を徹底的に壊される……か。皮肉としか言いようがない結末だな」

「……そうだね。かわいそうだとは思わないけど……言葉に出来ないよ」



 マリーの言葉に、神妙な顔でサララも頷く。因果応報とは、こういうことを差すのだろうか。


 天秤の如く釣り合わされたイルスンの末路に、マリーはもはや怒りを通り越して、憐れみを覚えずにはいられなかった。


 そうまでされる恨みを買っていたのか、それとも不運にも狙われた結果なのか。


 それはマリーにも、おそらくは警察にも分からない。


 ただ、現時点ではっきりしているのは……イルスンはもうこの世にはいない、ということだけであった。



(……まあ、憐れむだけ無駄か。さっきの話が事実なら、もうあいつはこの世にはいないわけだし)



 ――思い返せば今に至るまで紆余曲折な道のりであったが、とりあえずはこれにてお終いにしよう。



 そう、マリーは結論付けると、「――さて、と」椅子から腰をあげて伸びをした。



(さて、こっちの方も終わらせるとするか)



 それじゃあ、部屋に行くか……そう思うと同時に振り返って……いつの間にか後ろに立っていたサララと目が合った。



「……部屋にイアリスを待たせている。ちょっと話をしに行くだけだ」

「私も――」



 言外に込められたその意志を、マリーは首を横に振って答えた。



「あいにくと、これはあいつ以外に話していい内容じゃなくてな……お前は下で待っていな」

「……うん、分かった。でも――」

「大丈夫。次に離れる時は、お前に一声掛けるさ」

「……うん!」



 嬉しさと、寂しさと、申し訳なさ。それらを混ぜ合わせた複雑な笑みを浮かべながら、サララはマリーに背を向けて駆けて行った。


 ……多分、マリアたちの手伝いにでも行ったのだろう。



「……悪いな、サララ。さすがにこれは、お前にも話すわけにはいかないのさ」



 その後ろ姿を見送ったマリーは、一つ、ため息を吐くと……ポケットの中に入れているペンダントを、握りしめた。






 ……自分の部屋に入る為にノックをする。



 この館に住む様になって……いや、もしかしたら生涯で初となる己の行為に苦笑してしまう。次いで周囲を見回し、扉を開ける。途端、室内を見回していたイアリスが振り返り……バツが悪そうに、目を逸らした。



「……失礼だとは思ったが、部屋の中を見回っていた」



 何だ、そんなことか……思わず、マリーは笑みを浮かべる。



「いや、気にするな。こちらこそ、待たせて悪かったな……っと」


 ――お前、意外と良い育ちしているんだな。



 その言葉を寸でのところで呑み込んだマリーは、イアリスを椅子に座らせると、自身はベッドに腰を下ろした。



 ……。


 ……。


 …………沈黙が、二人の間を通り過ぎた。重苦しい程ではないが、けして和やかでもない。



 梅雨の湿気のように纏わりつくそれを感じながらも、先に沈黙を破ったのは「……先に、謝っておく」マリーの方であった。


 マリーは、困惑するイアリスを他所に、するりとイアリスの前に膝をつくと。



「すまない、イアリス。この通りだ」

「――っ!?」



 そう言って、深々と額を地面にこすり付けた。これに面食らったのは、他でもないイアリスであった。



「ま、待て、何故私に頭を下げるのだ。謝られる覚えが私にはないのだが……」

「俺が、これからお前に不躾で意地の悪いことを言うからだ」



 マリーの頭を上げさせようとしたイアリスの手が、ピタリと止まった。と、同時に、マリーは顔を上げて……イアリスの目を見つめた。



「それに対して、お前は俺に怒りをぶつけてもいいし、俺を罵倒してもいい。何だったら、俺に唾を吐きかけてもいい……そのかわり、嘘偽りなく答えてくれ」



 ……また、沈黙が二人の間を訪れた。



 しかし、今度のは先ほどとは比べ物にならない程重く、それでいて鋭い。互いが互いを見つめたまま、イアリスはしばらくの間マリーの真剣な眼差しを受け止めた後。



「……分かった。だから、まずは立ってくれ。命の恩人に頭を下げられっぱなしでは、話が頭に入って来ないではないか」



 根負けしたイアリスは、苦笑と共に了承した。それを受けてマリーは立ち上がりベッドに戻る。


 そして、イアリスもまた椅子に腰を下ろし……きっかり5秒経ってから、マリーは質問を始めた。



「イアリス……お前は、お前を産んだ両親に会いたいと今も思っているか?」

「……そんなもの、会いたいに決まっているではないか。その為に私はこれまで頑張って来たのだぞ」



 何をまた改まって……そう言いたげに首を傾げるイアリスを前に、マリーはしばし沈黙を保った後……おもむろに唇を開いた。



「仮に、お前の実の父親が……お前の居場所を知っていたのに、会いに来なかったとしたら……お前は、その父親を恨むか?」



 ――その瞬間、室内の空気が止まった。



「……なるほど、頭を下げるだけの理由がある質問だな」



 深々と、イアリスはため息を吐いた。



「殴りたいのなら、殴れ。怒るのなら、怒れ。だが、答えてほしい……それ次第で、次の俺の言葉が変わるから」

「……あいにく、殴るつもりもないし、怒っているわけじゃない。ただ、驚いただけだ」



 それを見て続けたマリーの言葉を……イアリスは、首を横に振って答えた。そして、もう一度深々とため息を吐いた後……困ったように、マリーを見やった。



「正直、分からん……というのが、私の答えだ」

「……探し続けて来たんだろう? それでも、分からない、が、答えなのか?」

「ああ、そうだ。探し続けて来たのに……いや、違うな。探し続けてきたからこそ、分からないんだ。私は今日まで、分からないままに探し続けてきたのかもしれないな」



 どこか他人事な言い回しと共に、はあ、と零したそのため息には、どんな思いが込められていたのだろうか。



「実は、あの戦いが終わってから今日まで……改まって、考え続けていたことなんだ」



 それは、けしてマリーには分からず、イアリスにしか分からないことであった。



「強いて一言あるとするなら……それは実の両親よりも、私を育ててくれた父と母の方だな。初めてこの話を聞いた時……正直なところ、何故そんなことを私に話したのかと、父と母を恨んでいたよ」



 マリーから視線を外し、ぼんやりと天井を見上げながら、語り始める。その目は今ではなく、遠い過去を見つめていた。



「何故、胸の奥に仕舞っておかなかったのか。何故、私にそれを打ち明けたのか。何故、今際の時になって……はっきり言おう。当時の私は、実の両親のことなんて興味すら抱いていなかった」

「……それじゃあ、何で探そうと思ったんだ?」

「さあ、何故かな。さっきから思い出そうとしてはいるんだが、思い出せないんだ。多分、その程度の切っ掛けだったんだろう……考えてみれば、私もその程度のことでよくもまあ頑張って来たものだな」



 ――可笑しくてたまらない。



 そう言いたげに、イアリスは苦笑……いや、自嘲の笑みを浮かべた。



「今にして思えば……もしかしたら私は、両親云々など本当はどうでもよかったのかもしれないな」

「なぜ、そう思うんだ?」

「さあ……自分で口にして何だが、それは私にも上手く説明が出来ん。ただ……一つだけ言えるとするなら、当時の私は……何と言うか、区切りを付けたかったのかもしれない」



 ふう、とイアリスは息をついた。



「元々、長くは生きられなかったらしい。私は、成人する前に一人になった。父と母は、私引き取った責任だとして私に遺産を残した……それこそ、この館を建てられるだけの金だ」

「へえ、そりゃあ凄いな」

「惰性として静かに生きるも良し。遊んで享楽に生きるも良し。私には運よく幸福な人生がいくつも用意されていた……ああ、そうだ」



 そこまで話した辺りで、「――一つ、理由を思い出した」ふと、イアリスは目を細めた。



「使い道のない金は山ほどあった。それならば、顔も知らない実の両親がどういう者なのか。どう今後を生きるにせよ、死ぬ前に会っておきたい……当時の私は、確かそう思ったんだ」

「……それで見つかれば、お前の中では区切りがつくのかい?」

「さあ、どうだろう……ただ、生きる目的が一つ減るのは確かだろう」



 そう言って、イアリスは弱弱しく頭を振った……全て、語り終えたということなのだろう。それっきり何かを話す様子はなく、沈黙が二人の間を通り過ぎた。


 ……無言のままに、マリーは腕を組んで考え込む。その姿を、イアリスは黙って見つめる。


 そのままの状態で、机に置かれた時計の長針がきっかり一周した頃……おもむろにマリーはポケットからペンダントを取り出すと、それをイアリスに手渡した。



「これは?」

「そのペンダントは、マージィという男の持ち物だった……つい先日、というには少し経っているが……そいつは、マージィが死ぬ間際まで気にかけていたものらしい」



 はて、マージィ……その名前に聞き覚えがあったイアリスは、不思議そうに眼を瞬かせた。



「その名は確か、あの時井戸の中に飛び込む前に、お前が口走っていた謎の人物のものだな……何故、今になってその名を?」

「開けてみろ。中に、その男の妻であるミシェルという女性の写真が入っている。その人は昔、子供を産んですぐに流行病で亡くなったらしくてな。その写真は、唯一といっていいマージィの遺品だそうだ」

「……? よく分からんが、とにかく開ければいいんだな?」



 意図が分からずに首を傾げながらも、イアリスは言われた通りにペンダントを開く。中に収められている女性の写真を見て、「綺麗な人だが、どうかしたのか?」また首を傾げた。



「……マージィとミシェルには、子供が一人いた。だが、マージィは子供を育てることが出来なかった。なぜならば……」



 そこで、マリーは一旦言葉を止めた。その顔には迷いが滲み出ていた……だが、マリーは迷いを振り払った。



「その子供がある日、人攫いに連れ去られたからだ」

「……なに?」

「だが、マージィはそこで諦めなかった。どうやったかは知らんが、その子供がどうやら裕福な家庭に買われて行ったことを突き止めた」



 ――瞬間、ひゅう、とイアリスの喉が鳴った。



「……待て、待て、待ってくれ」



 震える唇から零れた言葉は……あまりにも頼りなく思える程に、力が無かった。



「だが、マージィはそこで追跡を止めた……いや、本当に止めたのかは俺にも分からん。ただ、俺が連れ帰して育てるよりも幸せにはなれるだろう……そう思ったらしい」

「マリー、待ってくれ。頼む、待ってくれ」



 見れば、イアリスの顔は真っ青になっており、今にも倒れそうなほどに狼狽えている。けれども、マリーは構わず話し続けた。



「月日が流れた。そして、マージィは俺に……おそらくは俺だけに伝えた。その子供の名を、俺だけに……残してくれた」

「そんな、そんなことが……そんな……」

「その子供の名は……『アイリス』。マージィの古い友人である大五郎から聞いたのだが、もし今も生きているのなら……イアリス、お前と同じぐらいの年頃だということだ」



 そこで、イアリスは限界だったようだ。かくん、とその場に崩れ落ちて膝を付いたイアリスは……呆然と、自らの手が掴んでいるペンダントに目をやる。そして……乾いた笑い声を零した。


 その笑い声は最初こそ大きかったものの、次第に小さく緩やかになっていく。


 そして、遂には聞き取れないほどに微かなものになり、その青い瞳から、大粒の涙が一つ、滴り落ちた瞬間――。


 ばきん、と室内に異音が響いた。


 驚いたマリーがそちらへ目を向ければ……根元から砕けて鞘から抜け落ちた、魔法剣『アルテミス』の残骸であった。



「……思い、だした……!」



 何故、突然に砕け散った。驚きに呆然としているマリーの耳に、イアリスの声が届いた。「思い、出した!」振り返れば、歯を食いしばって幾重もの涙を零す……イアリスの姿があった。



「なんで、私は忘れていたんだ……!」



 ペンダントに、いくつもの涙が滴り落ちた。



「私は、ただ、父と母に伝えたかったんだ。二人が気に病むことなどない、と。私は十二分に幸せだった、と……!」

「イアリス……」

「でも、伝える前に父も母も逝ってしまった。だから私は、探したんだ。それがどれだけ酷い事だと分かっていても、代わりに伝えられる相手を……血の繋がった、実の父と母を探したんだ」

「…………」

「でも、その実の父も母も死んだ……ならば、私は誰に伝えたらいい!? なあ、マリー、私は誰に伝えたらいいんだ!? ずっとずっと、これを伝える為だけに必死になってきた私は……私の、この思いは……!」



 直後、イアリスはマリーの胸に飛び込み……引き攣ったような呻き声と共に泣き始めた。それはあまりに、不器用な泣き方だった。



「……多分、もう伝わっているさ」



 ギリギリと食い込むイアリスの両腕。思わず顔をしかめながらも、マリーは優しくイアリスの頭を抱き締め返した。



「夢の中で、頭を撫でられたんだろう? あの時、お前は二人と言ったな。だが、それは本当に二人だったのか? よくは分からんが、思い出した今のお前なら……多分、さらにもう二人居たんじゃないか?」

「――、――っ、――っ!」



 果たして、その言葉が届いたのか、イアリスは何も言わなかった。だが、顔を上げたその顔に驚愕が生まれ、期待へと変わり、そして、それまで以上の悲哀へと移った辺り……届いたのだろう。


 己の胸に顔を埋めたイアリスの頭を撫でながら、そうマリーは思う。


 剣が壊れたり思い出したと言ったり、自ら招いておきながら、いまいちこの状況が理解出来ないマリーであったが……ひとまず、一つのケリがついたのだけは分かった。



(そういえば、ルリのやつもあの剣を使うのは止めとけって言っていたが……もしかして、記憶に作用する何かでもあるのか?)



 だが、そんな呪い染みた何かがある武器など、聞いたことがない。


 いや、それどころか、記憶に作用する何かがあるのだとしたら、何故そんな機能を付けたのだろうか。



 ……理由が、思いつかない。



 強度を上げる為、切れ味を良くする為、軽量化をする為……幾つか候補が浮かぶが、その代りとしてそんな機能を付ける理由が思い至らない。そもそも、これを作った人物とは、いったい……。



(……まさか、あいつが……いや、まさか、な)



 一瞬、脳裏に浮かんだその者の姿を、マリーは頭を振ってかき消す……まあ、何だとしても、だ。


 その手のことに詳しいわけではないマリーが、考えたところで分かるわけがない。


 イシュタリアがいればまた別だったかもしれないが、居ないやつを当てにしてもしょうがないだろう。



(……家族、か)



 痛みすら、というか、痛みしか感じないぐらいの力で抱き締められながら……マリーはイアリスが落ち着くまで、その頭を撫で続けた。



 ……。


 ……。


 ……しかし、マリーは気づいていなかった。部屋から出た、すぐ傍で。俯いたまま、静かにその場を後にした……褐色の少女のことに。



「…………」



 その目に宿る決意に、マリーはまだ気づいていなかった。







 泣き腫らした目をそのままに、何処となく憑き物が落ちたように見えたイアリスが館を後にして、それから幾しばらく。すっかり夜も深まり、寝息が一つ二つと館の中にて増え始めた頃。


 こんこん、と静まり返った室内に響いた、ノックの音。フッと我に返ったマリーは、ぼんやりと見上げていた天蓋から廊下へと続く扉へと視線を移した。



「開いてるぞ」



 そう言うと、遠慮がちにノブが回り……「まだ、起きてる?」そっと、サララが顔を覗かせた。


 何時もと違う様子に、おや、とマリーは首を傾げて……おもむろに身体を起こしてベッドから足を下ろした。


 それを見て、滑り込む様にサララが部屋に入ってくる。瞬間、マリーは目を瞬かせた。


 何時もならセクシー一直線なサララの寝間着が、今回は良く言えば清楚、悪く言えば地味とも取れるものであったからだ。


 加えて、今のサララが浮かべている表情は……何と言うか、どこかしおらしさが見られた。


 ……何時もとはあまりに違う雰囲気に、マリーは新鮮さを覚えるよりも前にそちらの方が気になった。



「どうした? 何かあったのか?」



 率直に尋ねてみる……が、サララは何も言わない。


 俯いたままそそくさと近寄って来たかと思ったら、無言のままにマリーの隣に腰を下ろす。そして、何かを言いたげな様子でマリーを見つめ……また、俯いてしまった。



 ……何かあったのだろうか。



 そう思って、褐色の手を握ってやれば、ゆるやかに握り返すが……やはり、普段と違う。何時もなら腕どころか身体に抱き着いてくるはず。


 ……こちらから行くべきか、それともサララから来てくれるのを待つべきか。


 沈黙の中、その二つの考えがマリーの中でせめぎ合う……と、不意に、サララが顔をあげた。



「ねえ、マリー」



 ……その目じりから滴った涙を見て、掛けようと思っていた言葉が霧散する。当たり障りのない慰めすら出てこなかった。



「……やっぱり、『ダンジョン』へ行くつもりなの?」

「――っ!」



 けれども、サララから飛び出したその問いかけに……頭が、冷えた。


 何故、それを……と、考えるよりも前に、マリーは……そっと、サララの肩を寄せた。



「ああ、近いうちにな……だが、よく分かったな。まだ誰にも話していなかったと思うが……正直、驚いたぞ」

「話してくれなくても、何となく分かるよ。マリーの目は、ここじゃない、ずっと遠いところを見ていたもの」



 寂しそうに頭を振るサララであったが、抵抗はしなかった。



「そう、見えたのか?」

「うん、見えた。そして、マリーが一人で行こうとしていることも……薄々だけど、分かってたよ」

「……っ!」

「私を置いて……皆に何も言わないで……隠したまま、行こうとしていたでしょ」



 ――しばしの間、マリーは何も言えなかった。



「……隠すつもりは、なかった。だが、結果的にはそうなってしまったな……悪かった」

「……一人で……一人で行くってところは、否定しないんだね」



 寂しそうに微笑むサララから、マリーは……視線を外すことで答えた。



「……今度のは、これまでよりもずっと深く潜るつもりだ」

「うん、何となく、そうなるんじゃないかなって、思ってた。ねえ、どうして私を置いて行こうと思ったの?」

「危険だからだ。だから、サララは俺が戻るまで館を……帰る場所を守っていてほしいんだ」

「うん、マリーなら、多分そう言うんじゃないかなって……それも、分かってた。だからこそ――」


 マリーは、誰にも話さなかったんでしょ?



 声色は、どこまでも穏やかに。けれども、どこを聞いても棘がある。言外に込められたその言葉に、マリーは罰が悪くなって頭を掻いた……と。



「……あなたがね、遠いの。今のあなたは、目を放したら遠くに行ってしまいそうで……怖いの」



 ぽたりと、マリーの手に涙が落ちた。驚いて顔をあげたマリーは……すぐに、顔を伏せた。



「身勝手な不安だと言い聞かせても駄目だった。ちょっと弱気になっているだけだって目を逸らしてもだった。こうしている今も……マリー、あなたが遠くに行ってしまいそうで、凄く不安になる」

「……今回だって、何事も無くお前の元に戻って――」

「嘘吐き。何事も無かったわけ、ないんでしょ?」



 マリーの弁論を遮って、サララはそっとマリーの頬を撫でる。「だって、本当に何も無かったら、何があったのかをマリーは話してくれるもの」その優しい温もりに……マリーはもう、何も言えなかった。



「でもね、マリー。あなたがちゃんと話そうと思うその日まで、私はけして聞いてあげないし、聞こうとすらしないから」



 ふわりと……その指が、マリーの頬を抓んだ。それは痛みを覚えるどころか、くすぐったさすら感じない優しい指先であったが……今まで受けてきた何よりも、マリーの心を深く捻じる。



「でもね、マリー。私は、イアリスさんのようにはなりたくないの」

「――っ! お前、聞いて――っ!?」

「お叱りなら後で受ける。でも、その前に聞いて。私の心を、見て」

「――っ、…………」



 だからこそ……マリーはサララの目を見つめた。涙で潤むその瞳に、胸が張り裂けた方がマシだと思える程の苦痛に苛まれながらも……マリーは、黙ってサララの言葉を、心を受け止めた。



「……あなたが何を考え、何に悩み、何に怯え、何を秘めているのか」

「それは、私には分からない。あなた以外、きっと分からない」

「そりゃあ私にだって、あなたに話してない事、話せない事、あるよ」

「でも、あなただってそう。あなただって、私に話してないことがある」

「けれども、それは私があなたを信頼していないからではなくて」

「あなたが私を信頼していないから……でも、ないのでしょ」

「ただ、私を、私たちを、これ以上巻き込みたくないから」

「だから、話さない。決着をつけるその時まで口を閉ざすつもりでいる」

「そうでしょう、だって、マリー、あなたは意地っ張りで、強情な人だもの」

「私には、あなたが抱えているものが何なのかは分からない」

「あなたが感じている苦しみも、痛みも、悲しみも、何も分からない」

「でも、あなたが苦しみ、痛み、悲しみ、悩んでいるのは分かる」

「多分それは、私の想像を超えた先にある、凄く大きなことで」

「あなた自身が戸惑い、それを受け入れられずにいるぐらいに大きくて」

「それはきっと、あなたに課せられた宿命のようなものなのかもしれない」

「その宿命から逃れられないのなら、せめて誰も巻き込まないように」

「だからマリー、あなたは私を、私たちを置いて行こうとした」

「言わなくても、分かるよ。あなたを見ていれば、分かるよ」



「だって、私、あなたが好きだもの」



「世界中の誰よりも、私が一番あなたに恋している」

「これだけは、誰にも譲らない。誰にも、譲らせない」

「私は、あなたが好き。ううん、愛しているのよ、マリー」

「あなたが何であっても、あなたがどうあっても」

「愛している。うん、私、あなたのことを愛している」

「口下手で、上手い言葉なんて思いつかないけど」

「それが私の全て。あなたに贈る、私の想いなの」



 その言葉を言い終えた直後、耐え切れないと言わんばかりにサララは大粒の涙を零した。次いで、マリーの胸にそっと飛び込み、顔を埋めた――。



「連れて、行ってよ」



 静かな言葉が、室内に響いた。



「私も、連れてってよ……ねえ、一緒に居させてよ……!」



 じんわりと、熱い涙が浸みこんでくる。ぎゅう、と強く握り締められる痛みを……マリーは、甘んじて受け止めた。



「傍に居てよ……私を、置いて行かないで……最後まで、傍に居させてよ……!」

「……っ」



 抱きしめようとしたマリーの手が、途中で止まる。


 そのまま、しばし迷いを見せた後……震えるその身体を抱きしめる。


 途端、これまで以上に強く抱き締め返され……思わず、マリーはため息を吐いた。



「……何時から気付いていたんだ? 俺が、一人で行くつもりだってことを……いちおう、隠していたつもりなんだがな」



 何か、切っ掛けがあったんだろう。ある程度サララが落ち着くのを待ってから尋ねれば、サララはマリーの胸に顔を埋めたまま、「それは、ねえ」声を震わせながら答えた。



「前に、マリーがユーヴァルダン学園の広間で、集まった人たちに宣言したこと……覚えてる?」



 ああ、あれか。記憶に新しい光景を思いだし、マリーは素直に頷いた。



「あの時、マリーは『俺は』って言った。『俺たち』じゃなくて、『俺は』って……その時から、ずっと気になってたの」

「……は、冗談だろ?」



 そうとしか思えなかったが、胸中に抱えた頭が確かに頷いたのを感じ取って……しばしの間、マリーはそれ以上の言葉が出なかった。


 バレていたとしても、それは今回の騒動が終わった後。せいぜい、数日ぐらい前だろうと思っていたが、まさかそんな前からだとは思わなかった。


 しかも、マリー自身が自覚出来なかった、些細な部分からそれを予感していたとは……もう、マリーには笑うほかなかった……と。



「――お前の負けだな」



 不意に掛けられた声に、マリーは顔をあげる。何時の間に部屋に入って来ていたのか、扉のすぐ横、壁に背中を預ける形でドラコが立っていた。


 ニヤニヤと、妙に気に障る笑みを浮かべたドラコは、「まあ、なんだ、もう諦めろ」そう言ってマリーを見やった。



「女にそうまで言わせたんだ。大人しく、そいつも連れて行くのだな」

「……『も』?」



 首を傾げるマリーに、「奇遇な話だが――」ドラコはわざとらしくため息を吐いた。



「私にも、あそこへ行かなければならない理由があってな。一人で行くのもいいが、少しでも可能性とやらは上げといた方が良い。それは、お前にとっても同じだろう」



 ぽかん……大口を開けたまま、マリーは呆然とする。一拍おいてから、ハッと我に返ったマリーは……縋る様に首を横に振った。



「冗談……だろう?」

「あいにく、冗談は苦手でな。一から百まで本気だ」

「……生きて帰れる保証は、無いんだぞ。俺の力だけで、守り切れる保証も――」



 その瞬間、ごつん、と鈍い打突音が室内に響いた。突然の衝撃に驚いたサララは顔を上げ、「――ドラコ!」憤怒の表情でドラコへ掴みかかろうと――。



「止めろ、サララ」



 ――したが、止めたのは頬に痣を残したマリーであった。



 今にでも飛び掛かろうとするサララを片手で制しながら、「……馬鹿な事を、言ってしまったぜ」赤い瞳をドラコへ向ける。そして、サララへと振り返った後、静かに……俯いた。



「……私からの話は、これで終わりだ。」



 それを見て、ドラコはため息を吐いて踵をひるがえす……「一つ、言い忘れていた」扉が閉まりかける寸前に、スッと顔を覗かせた。



「例えお前が隠れて行ったとしても、そいつは必ず後を追いかけるぞ。それが明日か、それとも幾月かの先かは分からんがな」

「――っ!」

「何だ、そんなことすら気づいていなかったのか?」



 顔をあげたマリー……の顔に浮かぶ表情を見て、「それとも、気付かないフリをしていたか」ドラコはニヤリと笑みを浮かべた。



「共に生きて共に死ぬか、それともお前の知らぬところで死なせるか……どうするかは、お前が決めればいい」

「ドラコ、俺は……」

「だが、お前が背負う必要はないし、それは自惚れというやつだろう。お前がどちらを選ぼうが、サララはお前の後を追うし、私は私で勝手に潜る……だが、マリー、これだけは忘れるな」



 お前が望むから、行くのではない。私も、そいつも、自分の為に……そして、お前が好きだから、お前と共に行こうと思うのだ。



 その言葉を言い残して、ぱたん、と扉は閉められた。


 後に残されたのは、ドラコへの怒りが冷めやらぬサララと、呆然と肩を落とすマリーだけであった。



 ……。


 ……。


 …………それから、どれぐらいの時間が経っただろう。二人が思っている程時間は経っていないが、お互いに落ち着くには十分な時間が経っていた。


 何を言うでもなく、マリーとサララは互いに向き合う形で、互いを見つめていた。心地よい沈黙……とまではいかないが、静かで厳かな空気が二人を包んでいた。



「――なあ、サララ。お前の中での一番古い記憶って、何だ」



 その厳かな空気を和らげるかのように、マリーの声は静かに響いた。突然何を……と思わないこともなかったが、サララは素直に首を傾げ……「お父さんと手を繋いだこと」自信なさ気に答えた。



「それは、幾つの時のことだ?」



 次いで重ねられた質問に、サララは首を傾げた。「……よく分からない。たぶん、2歳か3歳ぐらいだと思うけど……どうして急にそんなことを?」それは、当然と言えば、当然な疑問であった。



「……俺はな、思い出せないんだ」

「え?」

「思い出せるんだが、思い出せないんだよ」

「……?」



 意味が分からずに目を瞬かせるサララに、マリーは笑みを浮かべる。次いでベッドから降りながら明かりを落とす。


 フッと薄暗くなった室内の中を進んで窓を開けたマリーは、飛び込んできた風にきらめく銀白色に見惚れるサララを他所に、「思い出すことは、出来るんだ」夜空を見上げた。



「俺には堅物な父と、少し気弱な母が居た。良くしてくれた近所のお姉さんも居て、病弱だった幼馴染の友達が居た。この友達がまた身体が弱いが、頭が良くてね。特に頭を使った遊びは俺を含めた同年代は誰もそいつに勝てなかった。ただ、俺は負けず嫌いな性質だったから、負けるたびに頭に来て、何度も勝負を挑んだ……結局一度もそいつに勝てた試しがなかった。一度イカサマを仕掛けたこともあったが、即座に見抜かれたっけかな」


「……そいつは確か、ちょうどサララぐらいの年の頃だ。流行病に掛かり、あっさり死んじまった。元々病弱だったのもあったが、それでも俺たちは悲しくて悲しくて、しばらくは落ち込んで遊ぶ気にもなれなかった。今にして思えば馬鹿な話だが、当時はそいつに対して何故か気が引けていたのさ。そいつの両親は悲しみを受け入れて立ち直ろうとしているのに、俺たちは何時までも同じ場所で立ち止まったままだった」


「立ち直った切っ掛けは、良くしてくれていたお姉さんが結婚したからだった。なんていうか言葉には出来ないけど、幸せそうに旦那と連れ添う姿を見て……いつまでも悲しんでいじけていても、何も始まらないな……って自然と思える様になったんだ」



 ……そこまで話した辺りで、マリーは言葉を止めた。「マリー?」首を傾げるサララの声に続きを促されたと思ったのか、マリーは一つ息を吐いた後……静かに、結論を述べた。



「でもな、不思議なんだ。俺の頭にはこれだけはっきりと思い出が残っているのに……顔が、思い出せないんだ。いや、顔だけじゃない。他の部分も靄がかかったように曖昧で、全く思い出せないんだ」



 けして、マリーの声は震えていなかった。


 けれども、そこに確かな感情が込められているように思えるのは、サララの気のせいなのだろうか。


 思わず立ち上がったサララの位置からは、その表情をうかがい知ることは出来なかった。



「そいつはどんな声をして、どんな話し方をしていたのか。そもそも俺はいつも何を食って、何をして遊んで、何を手伝って、どこで何を学んでいたのか……何一つ思い出せないのに、知識として頭の中にあるんだ」

「でも、それはマリーが今の身体になったせいかも――」

「せいかも、しれない。だが、そうじゃないかもしれない。そう思ったからこそ、俺は記憶を頼りに、とりあえず近場で確認出来るところを回って来た……今朝方の話さ」



 サララの声を遮る様に、マリーはそう言って……静かに俯いた。そこで何を見て、何を聞いたのか……サララに、それを聞く勇気は無かった。



「サララ、俺は怖いんだ。それを知ることが、たまらなく怖い。ダンジョンに行けば、そこに行けば、おそらく答えがある。例え俺が求めていなかった答えであっても、確かな真実がそこにある……『あいつ』が、それを知っている」

「マリー……」

「俺のこの記憶が、思い出が、紛い物ならば……じゃあ、俺はどこで生まれ、どこで育ち、どこで学び、どこで生きてきたんだ? この身体になる前の俺の記憶は、いったい何なんだ?」

「マリー、もう、話さなくていい」



 ふわりと、サララはマリーを後ろから抱きしめた。存在を確かめるかのように胸に回されたサララの手に……マリーは、そっと己の手を宛がった。


 ……高鳴っている鼓動は、果たしてどちらのモノなのか。


 静寂を突き破らんばかりに響いていたそれは、互いの鼓動を感じ取ると共に静かになっていく。


 ……無言のままに、二人の身体が動く。


 マリーは抱き留めるサララへ、サララは求めるマリーへ。


 まるで、初めから申し合わせたかのように二人は唇を傾け……薄暗がりの中で、ひそやかに啄む音が弾けて、溶けた。



「関係、ない。私は、あなたと共に生きたい。あなたと同じ景色を見て、あなたと同じ時を感じて、あなたと同じ世界を歩きたい」

「けれど……」

「あなたが何であっても、変わらない。私が好きになったのは、あなた。私は、あなたの傍で逝きたい……あなたの傍で、この命を終えたい。あの日、あなたが私たちを助けてくれた時から、ずっと……ずっと、そう思っていた」



 そうサララが想いを告げた……しばしの沈黙の後。



「どうして――」



 薄暗がりの中に、ひと筋の光。ともすれば見落としてしまいそうになるほどの、淡い滴がマリーの頬を伝った。



「どうして、お前はそこまで言ってくれるんだ?」



 そう言われたサララは、フッと頬を緩めると……触れ合うようなキスを送ると、「そんなの、決まっているじゃない」マリーの肩口に顔を埋める様にして両腕をきつく回した。



「私がそうしたいからだよ、マリー」

「……っ!」

「私が命を掛けるには、それで十分」

「…………」



 また、沈黙が流れた。だが、それは先ほどよりもずっと空気が軽く、マリーも、サララも、不思議に思うぐらいに……落ち着いている自分を自覚出来た。



「覚悟は――出来ているんだな?」



 だからなのか、その声はどこまでも厳かで……どこまでも、柔らかかった。



「それは、こっちの台詞」



 そうサララが答えた瞬間、今度はマリーの方から首を傾け……啄みながらも互いを啜り合う。互いに身をくねらせながら、右に左に押し付け合っていた唇が離れ……プツ、と途切れた銀色の橋が二人の寝間着に跡を残した。


 それは初めてかもしれない、マリーからの口づけ。


 ふと、そのことに思い至ったサララは……思わず、頬を染めた。次いで、何時もよりも強引に入って来るマリーの指先を反射的に掴み……直後に唇を啄まれた。


 それは初めてかもしれない、マリーからの求め。それを理解しただけ、もう、サララは十分だった。準備などするまでもなく、サララの女は染みが出来る程に濡れそぼっていた。


 そして、初めて自分から求める興奮に、マリーも止まらなかった。気づけば二人はもつれあうようにベッドへと飛び込み、破り捨てるかの強引さで互いの衣服を脱ぎ去り、ヘビのように互いの四肢を、唇を、男女を擦り合わせ、そして……。



「――あっ」



 ポツリと響くサララのため息、ふわりと開け放たれた窓から入り込む夜風。揺らめいたカーテンの向こうから照らされた月明かりに、天へと伸ばされたサララの足が映り、ゆるやかにマリーの腰へと回され……見えなくなった。


 暗がりの中に蠢く、黒と白の気配。くぐもった声が、ひそやかに乱れた二つの吐息の合間を縫うようにして響く。漂い始めた性の臭いの中で、白い影が現れては消え、現れては消える。



「サララ、サララ、サララ、サララ、サララ――」

「マリー、ああ、マリー、来て、来て、来て――」



 想いを叩きつけるマリーと、その全てを受け止めるサララ。


 高まり続ける熱気と共に、二人は痛みすら覚えるほどに互いを抱きしめ――。



「――っ」

「――っ」



 ――同時に、二人は四肢を硬直させた。降りてきていた女袋の奥へと流し込もうとするマリーと、腰をくねらせながら回した両足に力を込めるサララ。声なき声をあげながら二人は言葉もなく唇を合わせ、激しく互いを吸い合った後……静かに、唇を離した。


 はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……乱れた二人の吐息が、淫靡な香りが立ち籠る室内に響く。互いの表情を確認することすら難しい暗がりの中、けれども、マリーとサララは確かに……互いの瞳を見つめ合っていた。



「サララ」

「はい」



 互いの鼻先が触れ合いそうになる。



「好きだ」

「はい」



 どちらともなく、二人は腰を蠢かせる。



「ずっと、俺の傍にいてくれ」

「ずっと、あなたの傍にいます」

「ずっとだぞ」

「はい、ずっと、ずーっと……」



 ゆるやかに、互いの唇が再び重なる。その言葉を最後に、二人は朝日が差し込むその時まで、互いを求め続けたのであった。



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