第10話 帰るまでがダンジョン

※グロテスク描写あり、注意









 ―――――地下六階―――――






 二人がダンジョンに潜ってから、さらに幾ばくかの時間が流れた。


 マリーの監視の元、着々とモンスターとの戦い方を実践して学びながら、地下へ進み続けることしばらく。


 数字にすればたったの三つではあるが、さすがに地下五階にも達すれば、出現するモンスターは皆しぶとく、固い。この時点で、サララの槍術では致命傷を与えにくくなっていた。


 モーヴァを一撃で仕留めたサララの槍術を持ってしても、臓腑を貫くには骨が折れ、表皮を切り裂くには体重をしっかり乗せなければならず、生半可な力では逆に危険な状態に陥ってしまう。


 その為、いやがおうにも一切一突に気力を込める必要があり、それがサララの心身に多大な負担を強いていた。


 四階に到達した辺りから、ほとんどマリーがモンスターの相手をしている状態であったにも関わらず、六階へと続く階段に到着した時には、疲労困憊のあまりその場にへたり込んでしまい、まともに動くことすら出来ない状態であった。


 けれども、だ。幸いにも、地下六階へと続く階段からは、階段の途中で小さな踊り場が出現する。


 他の探究者が居ないことを確認したマリーが、へたり込んでいるサララのビッグ・ポケットから『ファイア・マント』を取り出すと、それをサララに装備する。次いで、同じように自分のからマントを取り出して身に着けると、自らをクッションにしてサララを横たわらせた。


 それは申し訳ないと離れようとするサララであったが、マリーはむりやりサララの身体を抱きしめて、その体勢を維持する。最初はなんとか離れようとしていたが……すぐに寝息を立てたのを確認したマリーは、安堵のため息を零した。


 ファイア・マントとは、冷たく固い地面の上でも心地よく眠れるようにと設計された道具の一つである。


 外部の冷気を吸収して、内側にほんのりと熱気を生み出す機能を有している、探究者必需品の装備だ。着用と仮眠用の2種類があり、薄くてふわふわとした弾力がある分、少し重みがあるのが特徴。地面が平面であれば、多少の違和感があっても眠れる程度に凸凹感を緩和してくれる優れものだ。


 体力を消耗した時は、極力身体を楽に出来る状態で休んだ方がいい。無理をして熱でも出されれば、一切の行動がとれなくなる。特に、ダンジョン内のような、精神的にも肉体的にも回復しにくい状況では、無理は禁物である。


 それを分かっているマリーは、例えサララからどれだけ強く、「大丈夫だから、先に進もう」と懇願されても、決して首を縦に振らなかった。


 生きて二人で帰ると約束したのだ。それを破るわけにはいかないし、何より、サララが居ると居ないとでは、マリーに掛かる負担は大きく変わる。一概に、サララが足手まといということは、決してないのだ。


 いくらサララの力では一撃でモンスターを殺せなくなったとはいえ、仕留められないわけではない。10体のモンスターで負担を計算すれば、8体はマリーが仕留めて、残り2体はサララが仕留めてくれる。それだけでも、マリーにかかる負担は小さくなる。


 加えて、単純に考えても索敵範囲は一人の時の2倍だ。ここでサララを失うということは、そういった面に置いてもマリーにとって不利にしかならない。だからこそマリーは、貴重な時間を消費してでもサララを休ませることを選んだ。


 悔しさに涙を零すサララの背中を撫でながら、マリーはその日一日、ずっとサララに語りかけ続けた。無力感に苛まれて、言葉すら無くしたサララの身体を抱きしめ、擦り切れてぼろぼろになったサララの手を、優しく摩り続けた。






 ……そうして、地下六階。


 さらりと、上階よりもいくらか低い大気の感触に、サララは眉根をしかめ……眼前に広がる光景に、大きく目を見開く。地下五階とは全く異なる世界を前に、サララはぽかんと口を開けて眺めていた。



 見たままを表すのであれば、そこはレンガと石版で造られた世界であった。



 どこまでも広がっていた土壁は大小様々な形のレンガに取って代わり、歪な形で歪んだ隙間には、泥のようなもので塞がれている。


 地面は一面が石版に変わっていて、地面よりもずっと平面で、滑らかだ。ところどころ石版をぶち抜いて繁茂しているウィッチ・ローザの姿が無ければ、圧迫感のあまり息苦しさすら覚えていただろう。


 地下六階は、土壁が続いていた景色よりもずっと寒々しい世界。それが、サララの抱いた感想であった。



「……凄い」



 ポツリと呟かれたサララの言葉に、マリーは振り返らずに笑みを零した。



「驚いただろ。ダンジョンは一定の階数から、こんな風に形態が変わるのさ。なんでこうなっているかなんて、俺に聞くなよ?」



 マリーの言葉に頷いたサララは、軽く槍の柄で、地面の変わりをしている石版を叩いた。こつ、こつ、と硬質な感触が伝わってくる。同じように、近くの壁をいてみても、感触は似たようなものだ。ただの地面とは、雲泥の堅さだ。これでは、不用意に転がるだけでもどこかしら怪我をしてしまいそうだ。



「……今までと、少し戦い方を変えなくてはならない、ということ?」

「気づいたか。まあ、そういうことだ。ところどころ柔らかいところもあった地面とは違い、ここは固いところしかないからな。迂闊に飛んで避けるわけにもいかないし、上階以上に戦闘が難しくなる」



 石版で覆われた床は、上手く利用すれば戦闘を有利に運べるかもしれない。けれども、逆に考えれば自らを不利に招いてしまう危険性を含んでいる。


 はっきり答えにくい程度の違いしかないが、そのわずかな違いが大きく結果を左右する。


 かつん、とマリーは両手に嵌めたナックルサックを打ち鳴らす。ハッと我に返ったサララは、今しがた考えていた悲観的な事実を、頭の隅に追いやった。何事も、楽観的に考えるのは重要なことだ。



「さて、サララ。ここから先に出現するモンスターは、今までのモンスターが子供に見える程に凶暴で、強い。その力は人間の防御など一撃で叩き伏せ、並みの武器では表皮を傷つけるのも一苦労だ」

「うん。もう、私の槍では力不足」

「だから、ここから先、モンスターが出た際、全ての攻撃は俺が行う。サララは、極力防御に徹し、周囲の索敵に集中するだけでいいし、俺をアシストしようと思っても、攻撃はするな。恥じることなく、敵が来たら全部俺にまかせろ……分かったな?」

「……うん、分かっている。私は、攻撃しない」



 サララにとって、それは辛い宣言であった。言外に戦力外だと通告されたに等しいマリーの指示に、サララは静かに俯いて……軽く頷いた。悔しいと思うが、サララは納得するしかなかった。


 マリーの指示は、正しい。いくらかはマリーの負担を軽減出来ていたとはいえ、地下五階の時点で、サララの攻撃が通じないモンスターがちらほら出現している。


 消耗による思考力の低下が招いた危機は一度や二度ではなく、その都度マリーの手助けによって事なきを得たのは、記憶に新しい。もしマリーの手助けが遅ければ、サララは片手に足りない回数だけ命を落としていただろう。


 わざわざマリーの口から『防御に徹し、自分からの攻撃は極力避けろ』と指示をされるということは、おそらく……地下六階に出現するモンスターを相手に、サララの槍は届かない。


 そればかりか、下手に攻撃して危機に陥れば……最悪、マリーが負傷してしまう可能性すらあるのだろうと、サララは思う。


 現状、サララがこの階に降り立つことが出来ているのは全て、マリーのおかげだ。仮に、マリーをここで失えば……サララも、間違いなくここで命を落とす。それだけは、初心者であるサララでもはっきりと理解出来た。


 それならば、いっそサララは自身の防御と周囲の索敵に集中し、攻撃は全てマリーに任せた方がいい。それを分かっていったサララは「マリー……不甲斐ないけれども、後はお願い」とマリーに頭を下げた。



 マリーにとっては意外なサララの言葉に、マリーは目を瞬かせる。



 けれども、すぐに気持ちを切り替えたマリーは、頬をつり上げて不敵な笑みを浮かべると、振り返る。「納得して頂いたところで、これからの方針を決めようか」グッと拳をサララに突きだした。



「いよいよこの階から、当初の目的である『高エネルギーが凝縮されているアイテム』を探すことになる。そのアイテムがある場所は、昨日教えたと思うが、言えるか?」

「場所は不特定。『不自然な場所に扉がある』と、『不自然な通路が出現している』と、『モンスターが守護している』というのが最も多いが、中には地面を掘って出たという報告もある。アイテムの造形も不特定であり、見た目がガラクタであっても、実際は超高エネルギーを溜め込んでいるアイテムだということも、珍しくは無い」



 よし、覚えているな。マリーは深々と頷いた。



「今回はエネルギー検査器であるサーチキットを持ってきているので、それでエネルギーの総量を確認することが可能。なので、本当にガラクタだった、というような事態は心配しなくていい」

「そうだ。そして、今回狙うのは、より高額を狙える前者二つだ。壁でも天上でも床でもどこでもいい。『扉』や『入口』を見つけたら、俺に教えてくれ。その先に、アイテムがある」



 力強く、サララは頷く。そして、突き出されたマリーの拳に、己の拳を合わせる。これ以上、何も尋ねる必要は無い。サララから伝わってくる無言の覚悟を感じ取ったマリーは、これ以上、何も言う必要は無いと判断し、改めてサララに背中を向けた。


 その視線の先にあるのは……モンスターの影。



「必ず生きて帰るぞ!」

「うん!」



 何時でも攻撃を受けられるようにサララが構えるのと、影がマリーたちへと走り出すのは、ほぼ同時であった。










 それから肝心の『扉』や『入口』を見つけるまで、サララはただただマリーの戦いを見つめ、『扉』と『入口』を探すことに徹し……マリーは、いくつもの命を薙ぎ払い、打ち砕き、踏みつぶし、確実に前進を続けた。


 本気になったマリーの実力は、サララの想像をはるかに超えていた。


 サララが傷つけるのに苦労したモンスターを当たり前のように切り裂き、仕留めるのに時間が掛かったモンスターを一瞬にして即死させる。サララの目の前には、圧倒的な力が、あった。これが、マリーの本気なのだと、サララは強く思い知った。



「ふん!」



 のたのたと、床を這うようにして突進してきたエイオウトカゲの脳天に、マリーは膝をついて拳を叩きこむ。全長は一メートルにも達する愚鈍なモンスターの牙が、衝撃に耐えきれず砕ける。噴水のように噴き出した鮮血が、体液で濡れたマリーの頬にぽたた、と跡を付けた。


 鮮血が、飛び散る。血で赤く染まった大地を、さらに新たな血で汚し、その上から新たな死骸を積み重ねていく。マリーの戦闘スタイルは、良い意味で捉えれば実直で単純な……悪い意味で捉えれば、酷く心を抉る残酷な殺し方であった。


 とん、と気配が動く。ぞぞぞ、と背筋を走り抜ける感覚に促されるがまま、マリーは突き刺した腕を引き抜き、その勢いのまま身体を捻って正面を蹴り上げた。


 重い衝撃が、足先から伝わる。ぐぎぃ、と悲鳴をあげて頭部を砕かれたランターウルフが、体液の雨を降らせながら宙を舞う……索敵を行い続けているサララを油断なく避けると、別のモンスターの内臓を抉り出しているマリーに向かって、声を張り上げた。サララの視線の先、地下一階に出現していたやつよりも一回り以上大きいモーヴァの姿を発見したからであった。



「マリー! 前方からモーヴァが3体こっちに向かってきている! 私の後ろから二体接近! こっちはランターウルフ!」

「お任せあれ!」



 サララの報告に、マリーは力強く床を蹴る。凄まじい破壊音と共に陥没して砕けた石床の破片を素早く手に取ると「サララ! 伏せろ!」こちらへ走り出したランターウルフへとぶん投げた。


 風を切り裂くどころか、貫くようにして放たれた石弾が、サララの頭上を通り過ぎる。「よし、立ち上がっても大丈夫だ!」とマリーが言うのと同時に、ランターウルフが居た方向から、何かが破裂したかのような音が聞こえた。立ち上がって振り返ったサララの視線の先には、見るも無残な姿となった死骸が横たわっていた。



「サララ、それらしいものは見つかったか!?」



 突進してきたモーヴァを受け止めているマリーの背中に、サララは首を横に振った。



「くまなく探したが、それらしいものは何もない!」

「よし! それじゃあ血の臭いにやつらがつられる前に、先へ進むぞ!」

「うん!」



 そうして、二人は先へと進む。地下六階に足を踏み入れてから、通算100のモンスターを返り討ちにした頃だろうか……マリーの着ていたドレスは赤黒く染まり、見るも無残な姿となっていた。


 降りかかったモンスターの血液が酸化し、その身を黒く変えたのだ。突き出した拳はあらゆる敵を粉砕し、一切の例外を許さない。銀色の光沢があったナックルサックは、塗り重なった血糊によって、もはや外観からは身に着けているのかどうかですら、分からない有様となっていた。







 漂ってくる血の臭いから逃れる様に、二人は小走りになる……とはいっても、マリーは全身血まみれだ。サララだって汚れてはいないまでも、その全身にわずかながら、血の臭いを漂わせている。いくら血だまりから距離を取ったところで、いずれは鼻の利くモンスターが追いかけてくるだろう。


 けれども、一時とはいえ、気を休める時間は必要であるし、あのままあの場所に留まっても意味は無い。


 モンスターはどこからともなく、それこそ無尽蔵に湧いて来るし、目当てがアイテムである以上、無駄にモンスターを相手取る必要は、無い。


 ひやりと冷たい地下六階の空気は、高揚していた二人の意識を冷やし、高ぶっていた心を平静にさせるのに、一役買っていた。


 とっとっと、と先へと進む二人は、いくつもの曲がり道を抜けていく。一体の少女の石像が姿を見せたのは、4回程通路を抜けた頃であった。


 少女の石像は初めからそこにあったかのように、ポツン、と通路の途中、壁に背中を向けるような形で鎮座していた。


 石像が置かれている台座の周りは、まるで石像を称えるかのようにウィッチ・ローザが繁茂している。天然のスポットライトを浴びた石像は、そこだけが別世界のように明るかった。


 少女の石像に視線をやったマリーは、ハッと目を見開いた。



「おお、やったぜ。安全地帯だ」

「……安全地帯?」



 石像の前で足を止めたマリーの後ろに、サララは数歩分遅れて立ち止まる。息一つ乱れていないマリーを他所に、呼吸が多少乱れているサララは、マリーの背後から様子を伺うように石像を見上げた。



「……これが?」



 石像を乗せる台から両足を放り出すようにして座っている、愛らしい少女。言葉にすれば、そういう造形な、ソレ。見えない何かを蹴飛ばすかのように振り上がった片足は、今にも動き出しそうだ。



 ……近くで見て初めて分かるその精巧さに、サララは息を呑んだ。



 細部まで入念に掘られた少女の石像は、まるで生きている少女の身体をそのまま石像に変えたかのような、繊細な作りだ。身に纏っている衣服の、いたる所には細やかな刺繍が掘られており、何気なく膝に置かれた指には指輪がはめられている。実に、芸が細かい。



 ただし、一つ欠点を付けるとするならば……サララは、台座の横に立てかけられている剣に目を止めた。



 鞘に納められた剣は、だいぶ泥を被ったのだろう。柄どころか鞘全体が土埃で黒ずんでおり、全体的に古ぼけた印象を覚える。大の男が使うであろうサイズで、サララのような小柄な体格には扱いにくいものであった。


 そっとマリーの背中を突いて、剣を指差す。促されたマリーは軽く首を傾げた後「たぶん、俺たちの前に来た誰かが置いて行ったんじゃねえか?」とだけ答えると、改めて石像を見上げた。



(……なんだろう、とても、落ち着かない)



 石像を見ていると、なぜか、心が震えてしまう。芸術というものに疎く、興味の無いサララではあったが、どうしてか、眼前の石像には良い印象を覚えなかった。



「ダンジョン内に存在する、いくつかある安全地点の1つが、この石像だ。なぜかは知らんが、この石像の周囲には、モンスターは一切寄ってこないのさ。階段と違うところは、この石像は時々場所を変えるから、いつも同じ場所にあるとは限らないってことかな」



 だから、だろうか。無意識の内に、サララはマリーの背後に隠れる。それはまるで、物言わぬ少女の視線に怯えているかのようで……気にした様子も無く安堵のため息を零しているマリーへ、サララは不安の眼差しを向ける。


 そのマリーはというと、血でべったりと汚れた自身の身体を見下ろし、ため息を吐いていた。



「ひでえもんだ。さすがにあれだけモンスターを相手にすれば、こうなるだろうけれど……血の臭いで鼻が曲がりそうだぜ……一度、腕を洗わないと駄目だな」

「……トローシュソープを使う?」

「もう、それしかないな、これじゃあ」



 軽く、マリーは手を振る。たったそれだけのことで、ぽたぽたと血飛沫が居暮れにも床に血痕を残す。ナックルサック自体は、そう簡単に外れないように工夫されて作られているが、さすがにこうも血で汚れてしまうと意味は無い。


 ぬるぬると滑る指に舌打ちをしながら、マリーはゆっくりとナックルサックを外して、それを床に放った。からん、と音を立てて転がったそれに、サララはビッグ・ポケットを漁りながら横目をやった。



「マリー、その武器はどうする?」



 タオルとアクア・ボトルとトローシュソープを取り出して、マリーの手にソープを振り掛ける。トローシュソープとは、肌についた血を落とすのを目的とした専用の洗剤のことであり、少量の水で洗い流すことが出来る優れものだ。


 ただし、洗剤が強すぎるので連続して使うと肌がボロボロに荒れてしまう、金属等に反応して表面を溶かしてしまう為、刃物の洗浄にはあまり利用されていないのが特徴だ。



「少し変形しているから、それは捨てて新しいのを出すよ。持ち帰ったって大した値にはならないし、どうせ血で痛むからな。洗浄する手間とか考えると、持って帰っても足しにはならんよ」



 こしゅこしゅと赤黒い泡を立たせながら、マリーは肘の辺りまで泡を広げていく。あんまりしつこくするとアレなので、ある程度泡を付けたところで、マリーは両手をサララの前に差し出した。



「……それじゃあ、私が持っていてもいい?」

「んん? 別に構わないけど……なんだ、槍以外にも獲物が使いたくなったのか?」

「違う。私は槍一筋……とにかく、それは譲らせてもらうから」



 サララは、首を横に振る。とぽとぽと手に降りかかる水流に、マリーは急いで泡を落としていく。少しでも無駄を防ぐために、最中は無言だ。十分に泡を落としたのを実感したマリーは、そのまま手でボトルの角度をあげる。それに合わせて差し出されたタオルを、マリーは礼と共に受け取った。



 その横で、床に放った千濡れのナックルサックに水を振り掛けているサララの後ろ姿に、マリーは視線を下ろす。勿体無いことをするな、とも思ったが、させておくことにした。



(……何がそんなに心を引きつけるのやら……年頃の女の子の機微は、良く分からんな)



 そう思うマリーの見た目はどこから見ても年頃の女の子なのだが、それを指摘するものはこの場にはいない。油断なく周囲を見回しながら濡れた手をタオルで拭っていたマリーは……何気なく石像に目をやった瞬間、あれ、と首を傾げて……気のせいか、と首を振った。



「……それにしても、今日は一段と敵の数が多いな」



 ポツリと聞こえたマリーの声に、サララは手を止める。くるりとしゃがんだ姿勢のまま振り返った。



「どうしたの?」

「ああ、聞こえたか」



 手を止めたマリーは、己の指先を眼前にて広げる。爪の間に残るモンスターの血液の跡を見て、軽く目を細めた。



「いや、大したことじゃないんだが……さっきまで考えてもみなかったが、なんか今日は敵の数が多いように思えるんだよな」

「えっ?」



 ポツリと呟いたマリーの言葉に、サララは首を傾げた。



「そんな気がするんだよ。前にここに来たときには、こんなにモンスターは出なかった。それこそ、両手の指……とまではいい過ぎだが、多くても手足の指の分で事足りる数しか遭遇しなかった。それが、今日は入ってすぐにモンスターと遭遇したと思ったら、怒涛のラッシュと来たもんだ」

「たまたま……ということでは?」



 そうサララが口にした答えにマリーは「まあ、そんなところだろ」と返す。けれども……マリーはビッグ・ポケットを下ろして、新しいナックルサックを取り出した。

 どうしてだろう……マリーは、素直にサララの言葉に頷けなかった。


 銀色に輝くナックルサックを装着し、強く握りしめる。戦闘でわずかながら火照りが残る身体には、銀色の感触は実に冷たく、心地よいものであった。



(なんだろうね……この感覚……)



 胸中をざわめかせる何かが、姿を見せない。まるで見えない棘がチクチクと総身をくすぐっているかのような、捉えどころのない違和感。


 ベテラン……とまではいかなくとも、マリーとて経験値は中堅レベルだ。一人で生き抜いてきたという自負が、マリーの中で警報を鳴らしているのかもしれない。



「う~ん」



 ガリガリと、マリーは頭を掻き毟った。苛立ちに吊り上る目が、チラリと石像へと向かう。石像の全身を舐めるように視線が行き来し、違和感の正体を探る。


 仮に……石像の少女が生きて言葉を話せたのならば、羞恥と嫌悪に頬を歪める程に不躾な視線を、マリーはあらゆる角度から向けた。



「……マリー?」



 何をしているのだろうか、と首を傾げるサララを他所に、マリーは顔を近づけて、じっくりと石像を見回す。それどころか自ら台に上って、石像の背後も入念にチェックする。



(……何も無いな。やはり、ただの気のせいか……にしては、何で俺はこんなに躍起になって、不安の正体を探しているんだ?)



 そうマリーが考えた瞬間、ハッとマリーは目を見開いた。不安……その言葉を脳裏に浮かべた途端、マリーは、己の胸中に広がっている感情の正体を、悟った。


 戦闘によるものではない、心臓の高鳴りが耳に響く。異常を感じたサララの呼び声がマリーの耳に届くが、マリーの脳は、それを処理する余裕が無かった。



 “……思い出すな!”


 その言葉が、痛みとなって閃光のように脳裏を駆け抜けた。



 思わず頭に手を当てると、サララの声に焦燥感が混じる。マリーは手を振って駆け寄ろうとするサララを留めた。



(俺は、何を見て違和感を覚えた?)



 残った手で、石像の首筋を撫でる。丹念に磨かれたと思われるそれは、見た目相応の柔肌を連想させる程に滑らかだ。取っ掛かり一つなく、這わせた指先には何一つ凹凸を感じない。



“忘れていろ!”


 再び、痛みが走る。けれども、マリーは構わず思考を働かせる。



 ――違和感の正体を確かめよう。



 高鳴り続ける鼓動に促されるがまま、マリーは台から飛び降りて、先ほどの位置へと立ち止まる。「マリー……大丈夫? 冷や汗が凄く出ている」と心配げにタオルで汗を拭ってくれるサララには悪いが、マリーは黙って石像を見つめた。


 ……そして、その視線が、何気なく傍に置かれた剣へと向けられる。最初は分からなかったが、「――あっ!」しばしの間を置いてから脳裏を走った電流に、マリーは目を見開いた。



(おいおい……嘘だろ――っ!)



 ゆっくりと、マリーは立てかけられた剣へと歩み寄る。そして、不安を覚える程に震える指先を伸ばし、泥と埃まみれの柄を掴む。


 カタカタと刀身を痙攣させながら、マリーはゆっくりと剣を鞘から引き揚げ……赤茶色に寂びた刀身に、マリーは息を呑む。



 ――ばくん、と心臓が強く跳ねた。



 全身の血液が逆流したかのように、一瞬で血の気が引いたマリーの顔色は青くなる。様子を伺っていたサララが驚きのあまり声を張り上げるが、マリーの耳には届いていなかった。



「これは……この剣は――っ!」



 握りしめた鞘が、握力に堪えきれなくなって砕けて……そこまでであった。マリーは衝動のままに剣を投げ捨てる。赤茶色の軌道を残して、剣は石像の真横の、レンガの壁に突き刺さった。


 魔力コントロールを行った状態による、一投だ。剣は多大な威力と衝撃を生み出し、爆音と共にレンガの壁に大穴を開けた。


 ふわりと、白銀色の長髪が爆風に流れる。今まで一度も乱れていなかったマリーの呼吸が、ぜえ、ぜえ、とはっきり分かる程に乱れている。緊張のあまりに腰の力が抜けたマリーは、その場にへたり込む。その背中に、慌ててサララは駆け寄った。



「マリー、大丈夫!?」



 覗き込んだマリーの、あまりに青ざめた顔色に、サララは言葉を無くす。その場に槍を放り捨てて、俯いているマリーの前に膝をつく。無我夢中でサララはマリーの頭を胸に抱え込むと、そのまま力いっぱい抱きしめた。







 ……しばらく、マリーはそのまま動かなかった。



「……マリー、どうしたの?」



 優しく、サララの手がマリーの頭を摩る。掌に広がるマリーの体温が、震えている。いったい、なぜここまで怯えているのだろうか?


 チラリと、サララはマリーによって壊された壁の辺りに目を向ける。


 サララが見た限りでは、台に立てかけられていた剣を手に取ったあたりから、マリーの様子がおかしくなったように思えた。


 マリーのようにはっきり見ていないので何とも言えないが、剣自体が、そこらの安物ではないことは、素人のサララでもなんとなく想像できる。


 けれども……そこから先が、分からない。答えが、出てこない。目を凝らして崩れた壁の奥に目をやり……壁?



「……サララ、痛い」

「え……あ、ご、ごめんなさい!」



 ポツリと囁かれたマリーの声に、サララは跳び上がるように手を放す。そのまま一歩分だけ距離を取ってマリーを見下ろす。



「いくら年頃の柔肌といっても、プレート越しは痛いぜ」



 ぼやいたマリーは、ゆっくりとその場に立ち上がった。青ざめてはいるが、先ほどよりもいくらか血の気が戻ったマリーの顔は、苦笑を形作っていた。



「すまん、サララ。情けないところを見せたな」



 サララは、静かに首を横に振った。けれども、視線ではマリーに尋ねていた。当然のことながら、その視線の意味を理解していたマリーは、自然な様子を装ってサララに背を向けた。


 けれども、ぎゅう、と背後から回されたサララの両腕が、マリーの意志を寸でのところで抱き留めた。


 ぬるりと、血で汚れたドレスから伝わってくる気持ち悪い感触を無視して、サララはぎゅっと力を込める。


 こんな状況でも痛み一つ無い、柔らかくも甘い香りがする白銀色の後ろ髪に、サララは鼻先を埋めた。



「……血で汚れるぞ?」



 その言葉に、サララはぐりぐりと鼻先を擦りつけた。



「構わない……何が、あった?」

「………………」

「マリー……お願い、教えて。何が、あった?」



 耳をくすぐるサララの吐息には、懇願の色が込められていた。マリーも話さないわけにはいかないということは、分かっていた。


 けれども、それはマリーにとって耐えがたい苦痛を伴う行為だ。


 今しがた脳裏にフラッシュバックした出来事を、全て話すことは出来ない。あの時のことを思い出すのは、夢の中だけで十分なのだ。


 なぜならば、マリーにとって、それは思い出したくもない、堪えがたい苦痛の記憶なのだから。



「すまない、こればかりは……」

「……そう。わかった」



 マリーの言葉に、サララは静かにマリーを解放する。



「でも、ね?」



 ゆっくりと、申し訳なさそうに振り返ったマリーが顔を上げると同時に……サララの両手が、マリーの頬を叩いた。


 パァン、と木霊する痛みに目を白黒させているマリーの鼻先に、サララはグッと鼻先を近づけた。互いの視線が、交差した。



「いつか、話せるようになったら……教えて」

「……ああ、いつか、必ず話すよ」



 その言葉に、サララはふわりと笑みを浮かべると……そっと、押さえつけていた手でマリーの頬を撫でる。


 ほんのり赤くなったそこを指先がくすぐる感覚に、マリーは身をよじるようにサララの手から逃れると、慌ててサララに背中を向けた。


「そ、そういえば、石像を壊さなくなってよかったぜ。万が一ぶっ壊したりしたら、貴重な安全地帯を一つ失っていたところだな」

「……ええ、そうね」



 わずかに見える耳が赤くなっているのを見て、サララはフフフッと笑みを零す……ふと、サララは自分が先ほど見ていた壊れた壁のことを思い出した。



「ねえ、マリー、その壁のことなんだけど、壁の奥に瓦礫以外の何かが見える。アレは、いったい何なの?」

「んん、壁?」



 サララの言葉に、マリーは壊れた壁に視線を向けた。確かにそこにはサララの言うとおり、壁の奥には赤茶色い突起のようなものが土と瓦礫によって埋もれているのが見えた。


 おそらく、そのあたりには元々わずかな空洞が存在していたのかもしれない。


 もし内部までぎっしりレンガと土が詰まっているのであれば、降りかかった瓦礫の量はあまりに少なすぎる。放った槍を拾いに行くようサララに指示をしつつ、マリーはおそるおそる開かれた穴へと身体を近づけた。



「ん~?」



 ちょん、と指先で突起を突く。特に痺れることもないし、反応も見せない。万が一モンスターだった場合を想定しつつ、マリーは慎重に瓦礫を退かしていき……露わになったそれを引っ張り出したマリーは、首を傾げた。



「なんだこれ? なんかの食器……にしては、片方の持ち手は反対に向いているし……変な形で使いにくそうだなあ、おい」



 それは、奇妙な物体であった。花瓶とも取れるそれは底が丸くなっており、まともに置くことは出来ない。左右に取り付けられた持ち手は、片方が上、片方が下で、いまひとつ持ちにくいうえに、表面には合計3つの丸穴が逆三角形の位置でくりぬかれており、支えを使ったとしても、水を途中までしか注ぎ込めない構造になっていた。



「花瓶……にしては、底が丸いな。おまけに穴が開いているし……アイテム……なんだろうけど、これは何のアイテムなんだ?」



 マリーの記憶には無い、不思議な造形だ。似ている形は何かと思い出してみるが……そのどれもがこんな場所では間違っても使わない物ばかりだ。



「……それは、『ハニワ』というやつでは?」



 いつの間にか傍に来て覗き込んでいたサララが、ポツリと呟いた。「えっ」とマリーがサララに視線を向けると、サララは眉根をしかめて首を傾げた。



「ずっと昔、子供の頃に図鑑で見たことがある。確かこれは、このようにして置く」



 マリーから手渡された奇妙な物体……ハニワと呼んだそれを、サララはくるりと反転させて床に置いた。ちょうど、底だと思っていたところが頭の位置になり……マリーは、おお、と手を合わせた。



「記憶が正しければ、何千年も前に使用されていた道具だった……と思う。死者が眠る棺桶と共に埋葬されるもので、これが身代わりとなって、地獄からやって来る悪鬼の盾となる……というものだったはず。実在しているとは、思わなかった」

「へえ、そいつはすげえアイテムじゃねえか。死んだ後に作用するアイテムなんて、聞いたことねえな」



 キラキラと、マリーの瞳が興奮に輝く。解説していたサララの頬も、ほんのりと赤くなる。マリーでさえこうなのだから、サララが興奮しないわけがなかった。


 サララの話が本当であるならば、目の前にあるアイテムは、物凄い物だということになる。


 なにせ、死者に対して効果のあるアイテムが実在しているなど、噂でも聞いたことも無いのだ。そんなものが目の前に実在している……実際にそんな事態に直面して、興奮するなというのが無理なのだ。



「よし、さっそくサーチキットで調べてみよう」



 ゴソゴソと自らのビッグ・ポケットからサーチキットを取り出したマリーは、くるくるとメーターと繋がっている二本のコードを伸ばすと、先端に付いている長針をハニワの両端にくっ付けた。


 くくく、とメーターの針が動き始める。


 円状の目盛りに浸けられた針が右側に傾き始め、そのままぐるんと左側へと進む。「おお、けっこう入っているじゃねえか」と喜ぶマリーを他所に、針はぐんぐんと上へと昇って行き……メーターの横側にある別の目盛りが『0』から『1』へと増えた。


 針の動きは全く緩む様子が無い……それどころか、針の動きは少しずつ速度を増していき、一週目の半分ぐらいの時間で一回転してしまった。それだけに留まらず針は『1』から『2』へ、『2』から『3』へとカウントを増やしても、その動きは遅くなることは無く、どんどん早くなっていく。



「……ところで、借金を返す為には、このメーターが、どれくらいの数字になれば間に合う?」



 ぐるぐると回転していく針を見つめながら、マリーの隣に腰を下ろしたサララはツイッと増えていくカウントを指差す。こうしている間にも、カウントは『6』へとなっていた。



「そうだな……まあ、三ケタぐらいだろうな。俺たちが持っているオーブにエネルギーを満タンまで詰め込んで、カウントが1増える計算での三ケタだから、まだまだ先は長いぞ」



 ぐんぐんカウントは増えていく。針の動きはさらに加速し、カウントは『26』を超えた。黙って目盛りを見つめていたマリーは、「まあ、二人ジッと見ていても意味はないだろ」と腰をあげた。



「サララ。悪いけど、ちょっと着替えたいが、いいか?」

「いい、構わない」



 サララは、視線をカウントから外さないまま頷く。その後ろ姿を見やったマリーは、ごそごそとビッグ・ポケットを漁る。


 取り出したタオルとドレスとアクア・ボトルをその上に置くと、マリーは身に纏っている血濡れのドレスを掴んで、一思いに頭から脱いだ。多少髪に付いてしまうが、この際仕方がない。


 はあ、とため息と共に、マリーの上半身が露わになった。白銀色の髪とはまた少し違う、別の意味でため息が出てしまう程に滑らかな白肌が、ウィッチ・ローザの明かりに照らされる。


 どこもかしこも細くて、小さく、それでいて柔らかそうで、無駄な脂肪一つ無い美しい裸身……とは言っても、痩せているというわけではない。


 必要な部分だけを残し、余計な部分だけを切り取ったかのようなマリーの上半身は、男も女も隔て無く『吸い付いきたい』と思わせてしまう程に、美しかった。


 取り出したタオルに水を振って、軽く絞る。軽く水滴が滴り落ちる程度に濡らしたそれを、マリーは己の胸板に擦り付ける。


 少しずつピンク色に染まっていくタオルにため息を吐きながら、そのまま上半身全体をタオルで擦る。一通り拭き終えると、ビッグ・ポケットの上に置いておいたドレスに袖を通す。



(さすがに、これは捨てるわけにはいかねえなあ……洗剤で落ちればいんだけどなあ……)



 べっとりと赤く汚れたドレスの状態に溜息を零しながら、用意した耐水性の特殊な袋に入れて、ビッグ・ポケットの中へ放り込む。


 手早く清拭を終えたマリーは、チラリと横目でサララを見やる。いまだ黙ってサーチキットを見つめているサララの後ろ姿が、そこにはあった。


 はて……マリーは首を傾げた。マリーの良そうであれば、もう止まっていてもいい頃だ。この階で出現するアイテムであれば『40』ぐらいだと思うのだが……もしかしたら、数値が止まるまで見ていたいのだろうか?


 カリカリと、マリーは頭を掻いた。しょうがないなあ、と思いつつ、マリーはそっとサララの後ろから覗きこむ。さて、と、マリーは上昇していた目盛りに視線をやる。



「おーい、数値はどれぐらいになっているん……だ」



 言葉が、出てこなくなった。なぜなら、マリーが向けていた視線の先……エネルギー量の目安を示すカウントが『131』になっていたからである。



「…………えっ?」



 思わず、マリーは傍のサララへ視線を向ける。そこで初めて、マリーはサララが息を止めて、硬直しているのが分かった。微動だにせず、瞬きすらしていない。そこだけ時間が止まったかのように停止していた……が、その瞳はカウントが増えるたびに、輝きを増していく。怖いぐらいに、カウントを凝視していた。



(……え、もしかして、これでもう終わりか? マジで? こんなあっけなく終わり? マジで?)



 思わず、マリーは目じりを擦って目元を解すと、改めて目盛りに目を向ける……『137』。さすがに針の勢いは落ちているが、まだまだ止まる様子は見られない。この調子だと、150近くまで上がるのかもしれない。



 ……そっと、マリーは己の頬を抓る。



 ぎりぎりと痛みが走るのを確認すると、手を放して、改めて目盛りを見つめる。夢なのだろうかと疑うも、頬から伝わってくる痛みが、これを現実のものであると教えてくれる。


 1000人の探究者に聞いたら、全員が『無理だ』と口を揃えるであろう、今回の目的。正直、地下10階まで潜ることを覚悟していたマリーにとって、この結果は……嬉しい反面、不安を覚えてしまう。


 ぞくりと、背筋を走る悪寒にマリーは身震いする。そっと、マリーは石像へ視線を向けた。



「なんか、嫌な予感がするなあ……」



 もしも、これでサーチキットが壊れていたら……その想像をした瞬間、マリーは慌てて首を横に振った。何事も、ポジティブに考えた方が楽なのである。





 ――そんなマリーの予感は、案の定的中した。





 総身が震えてしまう程におぞましい、聞くに堪えない奇声をあげながら、無数のモンスターが近づいてくる。


 生理的嫌悪を刺激するその姿は実に醜く、見ているだけで精神力を削られてしまうだろう、ダンジョン内にて生息している『ウサギ』を前に、マリーは迎撃の体勢を維持した。


 ウサギのような垂れた耳を持ち、特徴的な赤い瞳と真っ白な体毛から、その名が付けられたモンスター。通称『ウサギ』。ただし、その姿はどう見ても愛くるしい、ウサギのものではない。


 人間の心を和ませてくれる愛らしいはずの顔は、顔の骨に薄皮を張り付けたような造形で、おおよそ癒しなど与えてはくれない。目の窪みには幾本もの細い血管にて固定されたむき出しの眼球が、絶えず辺りを探るように蠢いており、ところどころ掛けた歯の隙間からは、唾液が絶えず滴を落としていた。


 それが、『ラビットバーム』と呼ばれるモンスターだ。移動速度こそ遅いものの、両腕のパワーはプレートごと骨を砕き、石などを掴んで投げる程度の知性を有している。ダンジョン地下6階から出現し、ランターウルフ以上に厄介とされているモンスターだ。


 しかし、ラビットバームの危険性は単純な力ではない。このモンスターのもっとも危険なところは……群れを成すということと、同種の仲間を呼ぶということであった。


 きぃぁあああ。


 黒板を金属で引っ掻いたよりも耳障りな音が、幾重にも重なって地下6階に響く。マリーの背後にて身構えていたサララの背筋が、堪らず伸びる。


 ぞくぞくぞくと、嫌な意味で総身を震わせるサララに、「――サララ、落ち着け!」マリーから叱責が飛んだ。



「サララ、いいか、ココから先、極力戦闘を避けて地上階を目指す。その間、俺は全力で敵を蹴散らすから、サララは絶対にハニワを傷つけないように注意していてくれ」

「わかった」



 ギュッと、ありったけのタオルで包まれたハニワを抱きしめるサララに笑みを向けたマリーは、改めて正面へ向き直る。視線は、油断なくラビットバームを捉えた。


 大小、多少の違いはあるものの、その数はあまりに多く、もはや押し寄せる土砂がごとし、だ。ラビットバームが邪魔をして、上階へと続いている通路の奥は、全く確認出来ない。


 ……時折見える隙間の奥にも、また別のラビットバームの姿があるあたり……おそらく、かなりの数が集まってきているのだろう。


 じりじりと後ずさりながら状況を把握したマリーは、苛立ち紛れに舌打ちをする。自分ひとりだけならば逃げ切れるが、背後にサララが居るこの状況、どう考えても楽観視は出来ない。



 びゅぁあああ!



 奇声と共にラビットバームから放たれた岩石を、マリーは拳で受け止める。ぱらぱらと拳大に砕け散った岩石を素早く広い、順次お返しする。けれども、それだけではすぐ弾切れとなった。



(……くそう、さすがにこの数だと、石ころだけでは突破口は開けないか……少数ならあれだけで制圧できるが、こうも物量で押し切られれば……)



 壁を壊したときに得た瓦礫は、もう、無い。既に全部やつらに放ったからだ。足元の石版をいくつか踏み砕いて放ってはいるものの、ラビットバームの数は一向に減る気配は無い。それどころか、若干増えているようにすら思える。


 時間は掛かるものの、このまま投てきで倒して行けば、いずれは敵の数も尽きる。だが、この状況で背後からも攻められたら、マリーもそうだが、サララはひとたまりもないだろう。


 いくらマリーといえど、背後からも物量で押し切られれば、逃げることすら難しくなる……で、あれば、答えは一つであった。



「よし……サララ、こっから先、俺を信じて付いてこられるか!?」

「死なばもろとも!」



 サララは、帰って来た答えに、マリーは一つ、覚悟を決めた。



「はあ……っ!」



 大きく、マリーは息を吐く。そして、吸う。体内で練り上げていた魔力をさらに循環、凝縮させ、今までよりもずっと大雑把な魔力コントロールを行う……静かに今の己が出せる力を解放した。



「よし! いくぞオラぁ!」



 その言葉と共に、マリーの拳が空を突く。


 その直後、ボッ、と空気に穴を開けたと思ったら、突き出した拳の延長線上にいたラビットバームの頭部が、ぼん、と砕け散る。片手には、サララから借りた一振りの槍。それで持って、前方の大群を薙ぎ払うように槍を水平に振り払う。


 瞬間、迫り来るラビットバームたちの、先頭に立っていた数体の身体から、一拍遅れて血飛沫が上がった。魔力コントロールによって生まれる圧倒的な腕力が生み出す、真空の刃……それは、酷く槍に負担を掛ける、乱暴な攻撃であった。


 いくら名前付きの槍とて、そう長くは持たないだろう……けれども、死ぬよりはマシだ。



「オラオラぁ! 出来る限り弱い奴から向かってきやがれ!」



 濁流のように放たれた奇声を前に、マリーはサララを庇うように槍を振り上げた。





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