一章:エピローグ・マリーと娼婦たち
――フッと、意識が戻る。
(…………ん?)
ほとんど無意識の内に瞼を開けて、視界いっぱいに飛び込んできた光に目を瞑る。ズキズキと走る網膜の疼きが、稲妻のように鋭く脳髄に突き刺さった。
職業柄、ある程度の痛みには慣れたマリーであっても、その痛みは思わず呻き声をあげる程に酷かった。
……おまけに、とても喉が渇いている。
軽く口内で舌を動かしてみるも、まるで唾液の感触が伝わってこない。肺を膨らませるたびに喉奥がひりついて、酷い不快感を覚える。今、目の前にジョッキ一杯の水が出されようものなら、ものの数秒で飲み干せるだろうと、マリーは思った。
ゆっくりと、瞼を開く。途端、溢れんばかりの光の暴流に視界が眩んだが、何度も瞬きを繰り返して、どうにか網膜を慣らす。そうして初めてマリーは、はっきりと周囲を見回すことが出来た。
そこは、全く見覚えの無い部屋であった。部屋自体はそこまで広くは無く、せいぜい一人用といったところだろうか。全体的に殺風景な色合いの室内には、マリー以外の気配が残照のように残っていた。おそらくそれは、この部屋の主の物だろうと、マリーは検討を付けた。
(……なんで、俺はベッドで寝ているんだ?)
妙に重い手足をどうにか動かして、身体を起こす。身を包んでいた毛布を見て、首を傾げた。記憶が正しければ、自分は確かダンジョンに入っていたはず――!?
(そうだ、サララは!?)
そのことを思い出した瞬間、マリーの意識は一気に鮮明になった。慌てて飛び起きる様にしてベッドを下りようとする……が、それは気持ちの中だけであった。あっ、とマリーが思った瞬間、ぐらりと視界が揺れる。気づいたとき、マリーの頭は枕の上に鎮座していた。
上手く、身体に力が入らない。それを理解したマリーは、一瞬、焦りを覚える……が、すぐに息を吐いて気を落ち着かせると、ころりと仰向けになった。
焦りは、何も生み出さない。それに、今の状態で焦ったところで、どうしようもない。それを今までの経験から理解していたマリーは、静かに己の状態を把握することに勤めた。
すう、はあ。深く、深く。この際、渇きを訴える喉は無視する。それよりも今は、魔力コントロールを行えるかどうかが重要だ。
万が一、今の己が危険な立場に置かれていたとしても、魔力コントロールによる身体強化を行えば、どうとでもなるからだ。
じわり、じわりと、身体の中で淀んでいた魔力が動き始める。そうして、マリーは改めて把握した己の状態に、舌打ちする。
(……身体には力が入らないだけで、特別強い痛み等は感じない。しかし、やばいな……体内にある魔力がほとんど無いぜ……これじゃあ、逃げるだけで精一杯かもしれん)
幸い、さすってみた手足から痛み等は伝わってこない。これで負傷までしていたら、もう目も当てられない状況であった。なにせ、魔力による身体強化をしなければ、貧弱なマリーは同じ背丈の女子相手にすら勝てないからだ。
走ればすぐに息切れを起こすし、腕なんて、細いを通り越して華奢なぐらいだ。枯れ枝……とまではいい過ぎだが、少女のように華奢な手足が、非力であることを雄弁に物語っているのは事実。魔力が無ければ、マリーは全くの無力なのだ。
顔を横に傾ければ、ところどころ塗装や装飾が剥がれた化粧台が置かれているのが見える。化粧台の上にはいくつかの化粧道具が置かれているだけで、椅子の上には主の姿は見受けられない。
(それにしても、ここはどこだ?)
おそらくこの部屋は誰かの寝所なのだろう。今、マリーが身を預けているそこは、天蓋が取り付けられた、とても豪勢な代物だ。掛けられた布団はキッチリと洗濯されているのか、白くてきれいで、ともすればこのまま目を瞑りたくなってしまう。クッションも実に柔らかく、それでいて程よく固い……おまけに、シーツから漂う香りは、とても甘い。なんとも、安心できる香りであった。
俺は、いったい……。
そう、マリーは声を発したつもりであったが、それが言葉になることは無かった。渇きに張り付いた喉が、まともに震えてくれなかったのである。鳥のさえずりよりも小さな囁き声に、マリーは思わず己の喉に手を当てる。げほ、と掠れた咳を数回した後、マリーはゆっくりと呼吸を行う。
口内の至る所に舌を押し当てて、必死に唾液を生み出す。ごくりと、鋭く走る痛みに涙が出そうになるも、十分な湿り気を喉に与える為に、ひたすら唾を飲み込む。唾液が喉を濡らしてくたび、徐々に喉の痛みは和らいでいった。
「……ぁ、ぁ、ぁ……よし、なんとか声は出せるな」
酷い、掠れ声だ。普段とは別の意味で力が感じられない。普段でさえ見た目相応の軽やかなものだと言うのに、これでは子猫ですら怯えてはくれないだろう。
力の入らない身体を動かして、どうにか身を起こす……途端、ぐらりと視界が歪む。強い倦怠感に、身体がベッドの中へと吸い込まれそうになる……のだが、マリーは大きく息を吐いて、それを堪えた。
「とにかく、ここがどこかを知らないと駄目だな……」
ベッドから足を下ろし、音を立てないように降りる。ふらりと頼りない四肢を動かして、部屋の出口であるドアへ……歩き出したと同時に、扉のノブが、かちゃりと回って内側に開かれた。
(あ、やばい)
そう、マリーが思うと同時に、扉の奥から一人の女性が、水の入った桶とタオルを乗せたトレーを持って入ってきた。エプロンを身に纏った、温和な顔立ちの女性だ。マリーにとって見覚えの無い女性は、視線をマリーに向けて……ギョッと、目を見開いた。
「あの……」
そう、マリーが声を掛けるよりも前に、女性はトレーを持ったまま振り返ると、声を張り上げた。
「マリアー! サララちゃーん! シャラー! マリー君が起きましたよーーー!!」
(……んん? あれ、その名前が出るってことは、ここってもしかして娼婦館?)
そうマリーが首を傾げた直後、どこからともなくマリーを呼ぶ声が聞こえてきたのを、マリーはズキリと痛みが走る頭に手を当てながら聞いた。
そうして、誰よりもいち早く駆け付けたサララが起こした、少しばかりの騒動が過ぎ去った後。
「そんな状態で動き回るやつがあるか」と、軽くお叱りを受けた後、マリーは再びベッドの中に戻された。そっとサララが差し出した水差しに、力無く口づける。流れ込んでくる甘酸っぱい果汁水をゆっくりと飲み込みながら、ぼんやりと天蓋を見つめた。
急激な魔力の消耗から来る発熱。それが、今のマリーの状態であった。
どうりで喉は痛いし、頭痛はするし、身体が気怠いわけだ。そう納得したマリーは、無言のままリンゴを剥いているサララと、部屋の隅で壁にもたれ掛る様にして俯いているシャラを横目で見やりつつ、ベッド横の椅子に座って見つめてくるマリアへ、視線を向けた。
マリアからの説明では、どうやら今日は借金の期日から三日後であり、マリーはかれこれ四日程、眠りつづけていたらしい。らしいというのは、マリー自身にはそれらの記憶が曖昧で、どうやってここに戻って来られたのかが分からないからであった。
マリーが覚えている限りでは、地下6階でラビットバームと交戦していた辺りが最後である。確かあの時、いつもは半分程度に抑えていた魔力コントロールによる身体強化を、最大限にまで高めた……はずであるのだが、その後の記憶が思い出せない。
まるで霧のように確信を引っ張り出せない。脳裏をすり抜けて行く記憶に四苦八苦していると、「それは私の方が覚えている」サララの方から教えてくれた。
「あくまで、私の主観だから」
そう最初に注意を述べてから、サララはその時の事を話し始めた。
それは、一言でいえば縦横無尽。あるいは、一切合財。マリーの活躍は、言葉にすればそれが近しいのかもしれない。それほどまでに、その時のマリーは何人たりとも止めることは出来なかったと、サララは語った。
押し寄せる大群を正拳の一発で押し止め、繰り出した蹴りは、軌道線上にいる数体のラビットバームの胴体を、空圧だけで切り裂く。ただ振り回しただけの槍はモンスターの手足をバターのように切り裂き、生まれた空気の刃が、モンスターの身体を両断する。
手足が当たろうものなら例外なく粉みじんに砕かれ、鬼神が如き連撃によって、サララの居る後方には、結局生きているモンスターは一人も突破出来なかった。
そのあまりの惨劇によって、地下6階の通路は瞬く間に赤く染まり、マリーの身体は降りかかるモンスターの体液で、すぐに人の風体では無くなった。けれども、急激な魔力コントロールによって、途中から理性を失っているようであった……そういうふうに、サララは見えたらしい。
実際、途中からの記憶を失っているマリーはそれを聞いて納得した。マリーは、全身血だらけという、探究者であっても思わずギョッと目を見開く姿のまま、上階へと昇った。
そして、再び修羅が如き暴力によって、襲い掛かるモンスターたちを皆殺しにすると、そのままの勢いでさらに上へと昇り……地上に出るまでそれを繰り返した……というのが、あの時の出来事であったと、サララは剥き終えたリンゴを切り分けながら言った。
「結局、その足で換金所まで行って、館に着いた途端、意識を失って倒れた。それが、事の詳細」
サララは、切り分けたリンゴを、すりおろし器を用いて順々に摩り下ろしていく。その隣にある、山のように積まれたリンゴにマリーの頬が引き攣っていうるのを知る由も無いサララは、摩り下ろしたリンゴを器に盛ると、それをマリアへと手渡した。
「おかげで、道中は大変だった。私が見ても酷い有様だったぐらいだから、他人からすれば、もっと酷く感じたと思う。おかげで、酷いあだ名を付けられていた」
「……あだ名?」
喋ると喉が痛んで上手く声が出せないので、囁くようにしか話せない。けれども室内には、せいぜいサララがリンゴを再び剥きだした音しか無いので、囁くような声でも十分に聞き取れた。
「『ブラッディ・マリー』」
答えたのは、マリアであった。
チラリとマリーがそちらへ視線を向けると、笑顔と共にスプーンを差し出された。食べろということなのだろう……マリーは、胡乱げな眼差しをスプーンに乗せられた磨り下ろしリンゴへ向けた。
正直、マリーには食欲なんて全く無かった。しかし、黙ったままでいると無言のままスプーンが唇をふにふにと押す。
「食べなきゃ駄目よ。かれこれ4日間、まともに食事をしていないんだから」
そうマリアに言われて仕方なくマリーは口を開けると、するりと口内に放り込まれた……しゃりしゃりと、特有の甘酸っぱさを感じながら、マリーはゆっくりと飲み込んだ。
――途端、ごほ、ごほ、とマリーは咳き込んだ。
摩り下ろしたとはいえ、熱で消耗しているうえに、4日ぶりに入る食物は、胃を驚かせたようだ。マリアは「ごめんなさいね」と優しくマリーの口元を拭うと、再びスプーンをマリーの口元へ差し出した。
「一昨日辺りから呼ばれ始めた、あなたのあだ名よ。最初は『ベルセルク』とか言われていたみたいだけど、今はブラッディ・マリーっていうあだ名が優勢みたい。このまま行くと、ブラッディ・マリーが定着するんじゃないかしら?」
(……どっちが良いかは置いておいて、これまた酷いあだ名だな)
しゃりしゃりと噛み締める甘みを無理やり腹の中に流し込みながら、チラリとサララを見つめる。ぱちりと交差した視線に、サララは分かっていますと言わんばかりに、むふう、と鼻息を噴いた。嫌な予感を、マリーは覚えた。
「安心してほしい、マリー。マリーの気持ちは、私が、分かっている。大丈夫、しっかり広めておいた。ベルセルクは格好悪い。ブラッディ・マリーの方が、格好いい」
妙に誇らしげに胸を張るサララとは裏腹の、なんとも言えない沈黙が、室内に訪れる。
(こいつって、こんな性格だったか?)と、内心首を傾げるマリーがマリアへ視線を向けると、マリアは静かに視線を逸らした。
「……元々、身内相手にはこういう感じなのよ。ここしばらくは借金の問題もあったし、マリー君相手に限らず、他所では大なり小なり我を抑えて振る舞うから、マリー君が知らなかったのも無理は無いわね……でも、ごめんなさい。この子に、悪気は無いの」
言いづらそうに、ぼそぼそと話すマリアから、壁にもたれ掛っているシャラに視線を移す。向けられた視線を前に、シャラもマリアと同様に顔を逸らす。どうやら、気づいていなかったのはマリーだけのようだ。
あの極限状態の中でも、己に対して壁を作っていたのかということに少し思うところがある反面、少しだけ、心がむず痒い。どうしてか、胸中の奥で何かが蠢いたような気がした。
(そういえば、最初の頃はもっと堅苦しい話し方していたっけ……言われてみれば、最初の頃よりもずっと物を言うようになったというか、心を見せるようになった気がする……)
当初と比べて人懐っこくなったというべきか、あるいは遠慮が無くなったとうべきか……いまいち判断が付かない。けれども、決して悪いことではないと思ったマリーは、ふう、と笑みを零した。
(……まあ、それだけサララが本当の意味で俺を受け入れてくれた……って、思ってもいいってことなのかなあ……そう考えると、まあ、変なあだ名ぐらい……いいのかなあ?)
俄然やる気を出して今まで以上の速さでリンゴの皮を剥いているサララを見やる。
さすがに五つ目となるリンゴに手を伸ばした辺りで、シャラが無言のままにナイフを取り上げ、後ろ手に伸ばしたマリアの手がサララの頬を抓っているのが見えて……マリーは笑みを苦笑へと変えた。
「――ところで、借金の件は結局どうなったんだ?」
なんとか一個分のリンゴを胃に収めたマリーは、マリアへ尋ねた。「ジャムにすれば、少ない量で沢山食べられる」と鼻息荒く立ち上がるサララを物理的に止めているシャラを横目で見ていたマリアは、マリーの言葉に「ああ、私ったら、肝心のことを言っていなかったわ」と手を叩いた。
「マリー君とサララのおかげで、きれいさっぱり、借金は返すことが出来たわ……ありがとう、マリー君。この恩を、私は生涯忘れないわ」
深々と、マリアはマリーへ頭を下げた。それにならって、サララの脳天に拳を落としていたシャラも、深々と頭を腰の位置まで下げた。
ありがとう……小さくもはっきりと伝えられたその声に、マリーはふう、とため息を吐く。
……痛みに頭を抱えているサララのことは、あえて見なかったことにする。
別段、頭なぞ下げなくても良いと思っていたマリーであったが、訂正させるのは面倒だったので、黙って感謝の念を受け取る。
元々一方的に首を突っ込んで、たまたま運が味方しただけの話でしかない……それが、マリーの気持ちであったが、それは言わないことにした。
「ところで、返した借金はこの館を入れて全額? それとも、館抜きで全額?」
そのかわり、マリーは別の気になっている事で話を変えた。様々な人たちと肉体的にも精神的にも接した経験が豊富なマリアは、すぐにマリーの意図を察して顔をあげた。
「この館は、売る必要が無くなったわ。二人が持ち帰ったお金と、槍を売ったお金で、どうにか事足りたわ」
「槍……?」
布団の中で疑問符を脳裏に浮かべているマリーの耳に、そっとサララが唇を近づける。「私が使っていた、遅毒槍のこと」ポツリと告げられたそれに、マリーはサララを見やった。
……あまり記憶が無いマリーではあるが、業物であるあの槍でも、さすがにボロボロになっているのは想像がつく。なにせ、全力を出したマリーの腕力で振り回されたのだ。おそらく、もう武器としてはナマクラになっていてもおかしくない状態だろう。
「……売れたのか?」
俺だったら、むしろ金寄越せっていう状態だったはずだが……そう言いたげなマリーの声色に、サララは小さく頷いた。
「何故かは知らないけど、けっこう高く売れた。買ったのは、私と同じぐらいの、綺麗な服を着たお嬢様みたいな子だった」
「……まあ、刃がボロボロで、血でべっとり汚れていたとしても、遅毒槍はそれなりに希少価値の高い武器だからな。コレクションとして集めているやつを私は何人か知っているし、折れてさえいなければ欲しいってやつは居るからな」
サララの説明を、シャラが補足する。なるほどねえ、とマリーは納得した。
あまり理解出来ない趣味だが、他人の趣味にあれこれケチを付けるつもりは無い。どうせガラクタとして処分するはずだった物が、借金の一部になったのだ。サララたちからすれば、願ったり叶ったりでしかない。
「それじゃあ、意気揚々とやってきた借金取りは、肩を落として帰ったってわけか……ちくしょう、俺も見たかったぜ」
本気で惜しいことをしたとマリーは思う。
「あれは見ていて胸がスカッとした。おかげで、疲れが吹き飛んだ」
そう答えたサララの顔は、実に晴れ晴れとしていた。それは、マリアもシャラも同じ気持ちなのか、二人ともサララと似たような顔になっていた。
くすくすと、耐え切れないと言わんばかりに、マリアは片手で口元を隠して笑みを零した。
「実に見物だったわ、あのローマンの凍りついた顔。あれから3日経っているのに、いまだに思い出しただけで笑っちゃうわ」
今日はとてもラフな格好をしているせいか、ぷるん、とマリアの胸の膨らみが揺れるのが、見て取れた。
「立会人を連れてきたのが仇になったようね。たぶん、言い逃れや踏み倒しが出来ないようにするのが狙いだったのでしょうけどね。おかげでこっちとしては、借金を確かに返したっていう証拠を公人に示すことが出来たし、さすがのローマンも、一方的に額を増やすことも出来なかったようね」
ローマン。その名前に、マリーの内心は、驚愕に停止した。マリーの知っている金貸しでローマンと言えば、一人しか思いつかなかった。
……ダムストリ・ローマン。別名、『金貸しのローマン』と呼ばれている、この男。
どんな相手でも一定の金を貸すが、その取り立ては苛烈を極め、時には家族どころか親族まで巻き込んで取り立てを行うことで恐れられている。
傍には必ず護衛である探究者くずれを雇っており、一種のマフィアと化している、裏社会ではそれなりに名が通っている人物だ……なるほど、ローマン相手に借金していたのであれば、これだけの借金になるのも頷ける。
(一端の娼婦が、それだけ金を借りられるわけだ)
おそらく、今回の原因となった娼婦は、様々なところに借金をしていたのだろう。そして、案の定金を返せなくなり、借金の取り立てでいよいよ首が回らなくなった頃、偶然を装ったローマンと出会う。
大方、『私はあなたが気に入った。金利は無しでいいから、私たちのところで借りた金で、とりあえず当面の金利だけでも返せばいい』と囁いたのだろう。
元々身の丈に合わない借金をするぐらいなのだから、頭もそこまで良くは無いだろうその娼婦は、天の助けだと思ってローマンのところから金を借りたのだろう……それが、ローマンの策略だと知らずに。
金銭感覚などとっくに崩壊していたその娼婦は、最低限の金利だけを払うと、再び借金を繰り返すようになった。もしかしたら、その間はローマンの愛人気分だったのかもしれない。
そうしていつしか借金は莫大な金額に上り、いよいよ館どころかその土地を含め、所属していた娼婦全員を足しても返せない額にまで借金が膨らんだ辺りで……本性を見せた。
だいたい、そんなところだろうと、マリーは検討を付けた。
「借金を返した直後は、色々脅しを掛けてきたけど、マリー君の名前を出した途端、あっという間にいなくなっちゃったし、これで本当に肩の荷が下りたわ……でも、ごめんなさい。事後承諾になるけど、勝手に名前を使わせてもらったわ」
そう言って、再度頭を下げたマリアに、マリーは苦笑して首を横に振った。
ローマンは残忍な性格で有名である反面、無用な面倒を嫌うことでも有名だ。おそらく、マリーの名前を聞いて手を引いたのだろう。『ベルセルク』とかあだ名が付けられそうになったぐらいだ。下手にちょっかいを掛けて、狂戦士とか名付けられた相手に殴り込みを掛けられたら、目も当てられない。
「いいよ、別に。この際だ……利用できるなら利用してもいいよ……どうせ一人身だ。自分の身は、自分で守れるさ」
「……マリー君、ありがとう」
目じりに涙を滲ませたマリアは、指先で軽く涙を拭うと、成り行きを見守っていたシャラに声を掛けた。
「それじゃあ、マリー君も納得してくれたみたいだから、今日からマリー君は家族の仲間入りね。シャラ、部屋の片づけは終わっているかしら?」
……んん?
聞き捨ててはならない単語に、マリーは瞑ろうとしていた眼を、ぱちりと見開いた。
「さっき終わらせてきたよ。と言っても、使わない荷物を引っ張り出して、庭に放っただけだけどね。後は、中の誇りやら何やらを掃除したら終わりだよ」
「さすがシャラ、仕事が早いわ。マリー君、もうちょっとだけ我慢してね。今、急いでマリー君の部屋を用意しているから。同じ部屋だけど、元々あの部屋はお得意様専用の部屋として使われていたものだし、中は前よりもずっと綺麗になっているから、居心地は前よりもずっと良くなっているはずよ」
……んん!?
「ちょっと待て、どういうことだ?」
見知らぬところで進んでいく話に、マリーは嫌な予感を覚えた。寝ている場合じゃないと億劫な身体を起こすと、手を上げて二人を静止した。
「こら、寝ていないと駄目じゃないの」
途端、マリアの手がこつん、とマリーの頭を叩いた。「さっきも言ったけど、まだ安静にしていないと駄目よ。今は、私たちに甘えて頂戴」もはや思い出すのも難しい久方ぶりの愛ある言葉に、マリーは「お、おう」おずおずとベッドの中へ逆戻りした。
「あ、いや、そうじゃない」
直後、マリーは毛布から顔を出した。マリアとサララの眼差しが厳しくなったことに気づかないフリをしつつ、マリーは思った疑問を尋ねた。
「俺の勝手な勘違いなのかもしれないが、なんだろう……二人の会話を聞いていると、どうにも俺が館に住まうことを前提に話が進んでいるように思えるんだが――」
「聞き間違いじゃないわ。マリー君の家は、今日からこの館よ」
パチパチと、マリーは目を瞬かせた。この人は何を言っているのだろう……そんな思いでマリアを見つめるが、返って来たのは美しい微笑みだけであった。
「あら、何かご不満でも?」
「いや、不満も何も、何で俺がここに住まうことになっているんだ? 俺の家はちゃんと別に――」
「この館のオーナーであるマリー君が、自身が所有している家に住まうことの、何がおかしいのかしら?」
「……え?」
マリーの言葉に覆いかぶさるようなマリアの返答に、マリーは、ぎくりと表情を硬直させた。聞き捨てならない……という以前に、はっきりと聞き取ってしまった単語を前に、マリーは硬直させた顔を、ぐぎぎ、と傾げた。
「……オーナー?」
ピクピクと震える指先で、マリーは自身を指差す。すると、マリアはにっこりと笑みを浮かべて頷いた。
「……え、誰が?」
無言のまま、マリアは前方を指差す……指差されたマリーは、無言のまま残った片手で自身を指差した。
「……お、俺?」
今までで最高の笑みを、マリアは浮かべる。ひゅっ、とマリーは息を呑む。引き攣った頬と、瞳孔の開いた瞳……そして、滲みだした冷や汗。
はた目にも動揺しているのが分かるマリーを他所に、マリアは何が嬉しいのか、ぱん、と手を合わせた。
「だって、この館を売っても返せない莫大な借金のほとんどを、マリー君が出してくれた。言い換えれば、それだけのお金を出資したってことでしょ?」
「え、い、いや、それは……」
確かに、見方を変えればそうとも取れる。
「ということは、マリー君がこのラビアン・ローズの実質的な主……ってことよね。だったら、出資者であるマリー君が、所有している家に住むのは当然の話でしょ?」
いや、その理屈はおかしい。
そう、マリーは言いたかったが、言葉が喉奥で空転するばかりで、いっこうに外へ出てくれない。驚きのあまり、唇をぱくぱくと魚のように震わせることしか出来ないマリーを見て、マリアは「あ、そうそう……」と言葉を続けた。
「もう、役所に届けを出しちゃったから、今更変更することは出来ないわよ」
「いや、ほんとあんた何やってんの?」
「あらあら、そう凄まれても困っちゃうわ」
思わず、口調が粗雑になる。けれども、その程度で怯むマリアでは無かった。
「さっき話したじゃないの。マリー君の名前を使わせてもらったって……」
「それとこれとは話が……って、まさか、名前を使ったって――!?」
ガバッと毛布を跳ね飛ばす勢いでマリーは身体を起こす。「御名答。だいたいそれで合っているわよ」ぱちん、とマリアはウインクをすると、スッと腰をベッドへと移すと、そっと細い指先をマリーの唇へ当てた。
「だってぇ、よくよく考えたら、また何時ローマン以外の物好きな狼ちゃんがここを狙ってくるか、分からないじゃない。だったら、名前の売れた頼もしいボディガードが居てくれたら、あいつらもここを狙ってはこないでしょ」
チンピラぐらいならシャラやサララで十分対応できるしね、とマリアは続けると、ふう、とため息を吐いた。
「……それに、私も色々考えたのよ。この一件は、遅かれ早かれ起こるべくして起こった問題じゃないのかな……てね」
ぷにぷにと、マリアの指先が、マリーの唇を押す。極上の美人であると自覚しているマリアですら、思わず(まあ、なんて柔らかくて肌触りのいい唇なのかしら)と心の中で称賛してしまうぐらいに滑らかな唇の上を、するすると指先が滑っていく。
「この館に必要なのは、最低限この館を守るために必要となる安定的な資金の供給と、土台であり、皆の精神的支えとなる柱。それを考えた時、私は思ったの。マリー君が、打って付けじゃないかってね」
(……それだったら、あんたが立派に務めていたじゃねえか)
そう、目線で訴えるも、マリアは寂しそうに瞳を伏せて、首を横に振った。
「私じゃ、無理よ。今回の件で、それをつくづく痛感したわ。算盤を弾いたり、書類を書いたりするのは私の領分だけど、根本的に必要となる、お金を用意する力が、私には足りないの。娼婦っていう仕事を続ける以上、必ず身体にガタが来てしまうし、消費期限だって限られてくる。いつかはパドロンを見つけないと、今回のような件は、また起きてしまうのよ」
「……………」
「それに、ね……思ったの。やっぱり、女所帯だと色々不安だなあ……頼りになる男の子が居てくれたら、大助かりだなあ……って」
「……………」
唇を這う指先に気が散ってしまって(理由はそれだけでは無かったのだが)、マリーは何も言うことが出来なかった。
構わず口を開けばいいだけなのだが、マリアから漂ってくる濃厚な色気と香りに、マリーは衣服の裾から見える深い谷間から目が離せなかった。
ついでに言うならば、マリアとは反対の頬を突いてくるサララの指が、色々な意味で邪魔であった。
「今回のように、マリー君が何らかのときに体調を崩したら、私たちが看病出来るし、美味しいご飯だって毎日用意してあげられるし、なんだったら、私がうんと頑張ってサービスしちゃう。マリー君だったら、全部無料よ」
チラリと、マリーは谷間から顔をあげる。そこには、溢れんばかりに涙を溜めた、マリアの淫靡な笑みがあった。
「私も頑張って稼ぐつもりだから……ねえ、悪い話じゃあ無いでしょ?」
あっ、と反応するよりも早く、するりと肩に回された手に引っ張られたマリーは、マリアの胸にぷにょん、と顔を埋めた。寝癖でぼさぼさに跳ねた白銀色の髪が、ふわりと踊る。
今までの人生で、これほど柔らかくも温かい膨らみに、顔を埋めたことがあるだろうか。髪を梳いていく優しい指先の感覚は、そう己に問いかけてしまうぐらいに気持ちいい。
……だが、マリーは静かに顔を左右に振ると、ゆっくりと深遠の谷間から顔を起こした。
むせ返る程に濃厚な世界から、フッと意識が戻る。目を瞬かせたマリーは、軽く目じりをつり上げる。力の入らない手を伸ばして、マリアの頬を……抓った。
「……あ、あの、マリー君?」
頬を抓られたまま、困ったようにマリアは視線を彷徨わせた。自分が今、何かしらの不評を買ったことは分かるのだが、何が不評を買ったのかが分からない。
むにむにと擦り合うように揉まれる頬からの感覚に、それほど痛みは感じない。痛みがそれ程である以上、振り払うことが出来なかったマリアは、黙ってマリーの仕打ちを受けるしかなかった。
「痛いか?」
不機嫌な表情を隠そうともせず、マリーはポツリと尋ねる。正直に答えるべきかどうか、マリアは一瞬頭を悩ませたが、隠しても仕方がないと思い、素直に首を横に振った。もちろん、頬を抓るマリーの手が外れないように、小さくだ。
「よし、それじゃあ、もっと痛くしてやろう」
「えっ」
ふん、とマリーは力を入れる。直後、マリアは頬から伝わってくる痛みが強くなったのを実感した……とはいえ、魔力を使わなければ、同じ背丈の女の子よりも非力なマリーだ。
おまけに今は本調子ではないうえに、拳一つ分以上の体格の違いがある。例えマリーが歯を食いしばって力を込めたとしても、許容範囲内の痛みであることには変わりなかった。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ、い、いかん、気が遠くなりそうだ……」
おまけに、体力も相応以下だ。あっという間に息切れを起こしたマリーは、はあはあと息を荒げながらマリアの頬から手を放した。
その背中を、サララが優しく撫でる……一連の行動が理解出来ずに呆然としているマリアの顔を、マリーは身上げた。
「てめえ……まさか、館の維持費の為に、この期に及んでまだ娼婦で居続けるつもりか?」
「――っ!? それは――っ」
痛いところを突かれた。そう言わんばかりに一瞬だけ表情を強張らせたマリアであったが、すぐにそれを正す。しかし、否定しようと口を開いたマリアは、続けた放たれた言葉の弾丸によって、固く唇を噛み締めることとなった。
「それじゃあ、この館の住人にはなんて伝えるつもりだ? 借金は返せたけど、館の維持をする為に、私は娼婦で居続けますとでもいうつもりか?」
「――っ!」
無意識に、マリアはベッドのシーツを握りしめた。
「そんなんで、他の奴らが納得するとでも思っているのか、お前は……俺だったら、それを知った瞬間に拳を顔面に叩き込むぞ」
「……で、でも」
「でも、じゃねえよ。このバカ。さっきから聞いていれば、お前はアレか、皆の母親にでもなったつもりか? ここの奴らは、みんな抱っこして貰わないと生きられない赤ちゃんだとでも、お前は思っているのか?」
「――っ、そ、そんなことない!」
部屋どころか、廊下にまで響くだろう怒声と共に、マリアは椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。がたん、と床を転がった椅子が、ごろごろと壁にもたれ掛っていたシャラの足元まで転がっていく。サララは驚きのあまり、音も無くマリーの背後に隠れた。
「みんなは、立派にやっているわ! 館の為に、皆死にもの狂いで頑張ってきた! 私の……私が愛している、大切な家族よ! それを、それを例えマリー君であろうとも、バカにすることを許しはしないわ!」
その顔には、先ほどまでの慈愛に満ちた笑顔は無い。頬を紅潮させ、怒りに鼻息を荒くした一人の女の姿があった。
普段が落ち着いた雰囲気を漂わせているせいか、それとも容姿が整っているからなのか、妙な迫力がそこにはある。伊達に娼婦としての裏世界を生きてきたわけでは、ないというとなのだろう。
「……はは、家族……ねえ」
けれども、マリーは笑った。それは相手を楽しませる笑みでは無い……相手を蔑む、侮蔑に満ちた笑みであった。もちろん、怒りに頭が上せたマリアが、反応しないわけが無かった。
「何が可笑しいのよ!」
年頃の少女であれば、思わず肩を震わせる程の怒声。事実、直接受けたわけでもないのに、サララはビクビクと肩を震わせていたが……中身はオッサンなマリーにとって、その程度の威圧など、そよ風にしか感じなかった。
「何が可笑しいって……こんなふざけた話はねえよ……なあ、シャラ?」
「――っ、えっ!?」
くるりと、マリアはシャラへと振り返る。シャラの名前が出たことが、予想外だったのだろう。浮かべている怒りの形相の中に、少しだけ、困惑の色が滲んでいた。
視線を向けられたシャラは、相変わらず壁にもたれ掛っている。何を思っていたのかは、俯いていて表情を伺うことが出来ないので、知ることは出来ない。組まれた腕に押し出された膨らみが、吐き出されるため息と共に動いた。
「……残念だけど、こればっかりはマリーの言うとおりだよ。私も、マリーと同じことを思った。ふざけた話だ……ってね」
「そんな……シャラ、あなたまで……」
消え入りそうなマリアの声には、すっかり力が無い。言わないで、と首を横に振るマリアの目じりには、大粒の涙が浮かんでいる。唇は、はっきりと強張っていた。
「悪いね。でも、こればかりはしょうがないと、私じゃなくても思うよ……いや、私だけじゃない。みんなに聞いても、同じことを答えるだろうね」
――まさか、シャラにまで同じことを言われるとは。
驚愕のあまり、瞬く間に意気消沈したマリアは、その場に尻餅をついた。紅潮していた頬が嘘のように青ざめたマリアは、静かに俯いた……と思ったら、ポツポツと涙の水滴を落とし始めた。
「うう……うう……ううう~~~……」
噛み締めた唇から、抑えきれない嗚咽が零れる。無意識の内にマリアは両手で顔を隠したが、その程度でどうにかなるようなものではない。
サララがひょっこりとマリーの背後から心配の眼差しを向けていることに気づきもしないマリアは、両手を涙でベトベトにしても嗚咽を漏らし続けた。
無言のまま成り行きを見守っている格好いい美女と、床に座って号泣している美女。そして、豪華なベッドの中で休んでいる白銀色の美少女と、いつの間にか潜り込んで寝息を立てている褐色の美少女。
何だろう、今にも何かが起こりそうな、明らかに何かがあると思わせる空間には、ようやく会話が出来る程度にまで落ち着いてきた美女の嗚咽だけが響いていた。
「……ううう、わ、私が間違っていたの?」
どれくらい、マリアは泣いていただろう……その声は、はっきりと掠れていた。
いちおう、部屋の中には時計があるのだが、誰も確認していなかったので、誰も分からなかった。
とはいえ、サララが剥いてしまったリンゴをシャラが全て処分した頃だろうか……消え入りそうな弱弱しい泣き声の間で、ポツリとマリアの声が聞こえたのは。
「間違っちゃいないよ」
サララの手を借りて、ベッドの中で静かにしていたマリーは、ゆっくりと瞼を開く。色々な意味で酷い顔になっているマリアへ、チラリと視線を向けた。
「けれども、一番肝心な部分で間違えている。ふざけた話だと評されたのは、そこが原因なのさ」
「なによぉ、それぇ……」
持ち上げて、落とす。理由が分からないマリアにとって、そこを暗に責められるのは非常に堪える。グズグズと、こみ上げてきた涙に堪えきれず、マリアは再び涙と鼻水で濡れた両手に顔を埋める。
それを見たマリーは、もう面倒だと言わんばかりに深々とため息を吐いた。
チラリと、横目でシャラに視線を送る。苦笑と共に頷いたのを確認したマリーは、隣で寝息を立てているサララの肩に軽く毛布を掛けてやると、ごろりとマリアへと横向きになった。
「マリア……本当に、分からないのか?」
「――っ、わ、分からないわよぅ……」
「部外者の俺ですら分かるぐらいだぞ……なんで分からないんだよ」
ひっ、ひっ、と呻いていたマリアは、力無く首を横に振った。それを見たマリーは、ふう、と二度目のため息を吐く。そして、落ちないように気を付けながら、グッと顔をマリアへ近づけた。
「そもそも、だ。最初の前提が違うんだよ」
「…………前提?」
マリアは、ゆっくりと顔をあげた。美しく化粧が施されていたそこは、見る影も無い。うっすらと塗られていた化粧はドロドロに溶け、涙と一緒に不気味なラインを描いている。つんと伸びていた鼻筋は赤くなっており、垂れた鼻水がべちゃりと鼻周りを汚していた。
――うわ、ひでえ。
思わず引きかけたが、マリーは寸でのところで我慢をすると、枕元に置かれていたタオルを手渡す。「……ぁりが、とぅ」と詰まりながらも、受け取ったタオルで顔を拭いているマリアを見やりつつ、マリーはマリアの背後……薄汚れた壁を見つめた。
「まず、お前は何を守ろうとした?」
「ふぇ、な、何って……」
尋ねられた言葉に、マリアは目を伏せる。すっぴんでも、そこらの女性が裸足で逃げ出すぐらいに綺麗だ……マリアは自信なさげに、ポツリと「ラビアン・ローズ」と答えた。
「そうだな、マリア……お前は、ラビアン・ローズを、この館を守ろうとした。みんなが帰る家を、守ろうとした……じゃあ、お前が守ろうとした『みんな』は、何を守ろうとしたと思う?」
マリーの問いかけに、マリアは困惑に眉をしかめた。「問答をするつもりはない」。そう言いたげなマリアの眼差しを受けたマリーは、苦笑した。
「単刀直入に言うとだな……マリアの言う『みんな』が守ろうとしたのは、ココじゃない」
「……えっ?」
マリアは、目を見開いた。
「守ろうとしたのは、お前だ。マリア……みんなは、お前を守ろうとしていたのさ」
「……えっ?」
ぽかん、と口を開けっ放しで呆けているマリアを見たマリーは、やれやれと頭を掻いた。
「よく考えて見ろよ。いくら館が無くなって、今のような生活が出来なくなったとしても、すぐに娼婦に戻らなくてはいけないわけじゃない。それこそ、いざとなったら有志で大きめな家を借りて、共同住宅として住むことも出来る。何人かは、職を持って表の世界で仕事をしているわけだし、最悪、みんなは、ここを離れて他所で一から生活を始めることも出来るわけだ。わざわざ居残って、ローマンの餌食になる必要なんてないだろうからな」
「…………」
「でも、みんなはそれをしなかった。それがなぜか、分かるか? このまま残っていても、危険しかないと分かっていても、ここを離れなかった理由が、分かるか? 間違っても、この館から離れたくないってわけじゃないぞ。こんな廃墟と間違われてもおかしくない建物に、そこまでの魅力はないだろうからな」
「…………」
静かに、マリアは首を横に振った。本当に分からないのだろう。その瞳にはただただ困惑の色が浮かんでおり、小さな声で「そういえば、なんで皆は逃げなかったの……」と呟いているのが、マリーの耳に届いた。
「みんな、お前のことが好きだったのさ」
「――っ、えっ」
「みんな、マリア・トルバーナのことが大好きなのさ。みんなは、ラビアン・ローズから離れたくなかったんじゃない……お前のことが大好きだから、お前の傍から離れたくなかったのさ」
「……ぅそ、ぅそ、うそ、うそ、うそ」
治まっていたマリアの涙が、再び瞳一杯に盛り上がる。タオルに鼻先を埋めたマリアは、強張る唇を隠して、聞きたくないと言わんばかりに首を横に振る。けれども、マリーは容赦をしなかった。
「あんたの言うとおり、みんなは無茶だと分かっていながらも、及ばないと分かっていながらも、死にもの狂いで稼げるだけの金を稼ぎ、あんたを助けようとした……そこまでした努力を、お前は知ってか知らずか、真っ向から否定したのさ」
「うそ、うそ、うそ、うそ、嘘よ、嘘よ、嘘よ」
「それを、笑わないでどうしろと言うんだ? 家族を愛していると言い放つお前が、他の誰よりも家族の力を信用していない……これをふざけた話としないで、何をふざけた話とするんだろうねえ?」
「そんな……そんな、私、そんなつもりなんて……私はただ、みんな守ろうと……みんなの帰る場所を守ろうと……」
ぽろぽろと、滝のように止めどない涙を流しながら、マリアはその場に蹲る。マリアにとって、マリーの言葉は、今までの人生において、最も堪える言葉であった。
この世界に足を踏み入れた時よりも、初めてこの身を見知らぬ男に捧げた夜よりも、ずっと胸の奥が痛む。
今までやってきたことは、結局ただの自己満足でしかなったのだろうか……実は、みんなの重みになっていたのだろうか……答えの出ない疑問が、胸中の奥をズキズキと抉る。答えは、出ない。
(やれやれ、この様子だと、マジで気づいていなかったんだな)
「……お疲れ様。そして、ありがとう」
はあ、と体の力を抜いたマリーに、蹲ったマリアの肩を、そっと撫でていたシャラが声を掛けた。
嫌々と逃れようと身を捩るマリアを、シャラは無理やり抱き締める。力で叶わないと理解したのかマリアは程なくして抵抗を止めると、強くシャラの胸に顔を埋めて……泣き声を上げ始めた。
「こういうのは、俺の役目じゃなくて、シャラというか、お前らの役目だろ。なんで俺にやらせるんだよ」
それは、当然の文句であった。それを重々承知しているシャラは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「私は比較的当初の頃にここへ来たからね。情が邪魔をして、どうしても言えなかったんだ……ごめんよ、損な役目をやらせてしまった」
「損な役目をやらせたと思うなら、さっさと廊下で耳を澄ませている他のやつらを入れてやるんだな」
「――っ、気づいて、いたのかい?」
驚きに目を見開くシャラの姿に、マリーはパッパッと追っ払うように手を振ると、一つ、欠伸を零す。それを見たシャラは、再び頭を下げると、「あんたらも入ってきな」と廊下へと繋ぐドアへ声を掛ける……直後、ドアがゆっくりと開いた。
「……マリア」
扉の奥から顔を覗かせたのは、最初にマリーが目覚めたのを確認した、温和な顔立ちの女性……エイミー・クリストンであった。
寝ぼけていたおかげで分からなかった、ゆったりとした膨らみが、セーター越しでも分かる。彼女は、シャラへ蹲って嗚咽を零しているマリアに目を伏せると、足早に部屋の中に入ってきた。
その後ろから、室内の様子を伺おうとしていた他の女性たちが、マリアの様子に気づいて一斉に部屋の中へと身体を滑り込ませた。
「マリア……」
ポツリと、エイミーが名前を呼ぶ。それまでずっと泣いていたマリアが、ゆっくりと顔をあげて振り返り……「みんなぁ……私、そんなつもりじゃあ……」集まった館の住人達を前に、ぽろぽろと涙を零す。
……強く、優しく、それでいて誰よりも美しい。
それが、エイミーを含む、館の総意である。しかし、今のマリアは、とてもではないがそんな形容詞が付く姿ではない……幼子のように涙を流しているマリアを前に、エイミーはそっとマリアの傍に膝をついた。
「……マリア、謝らないでちょうだい。あなたが謝ることなんて、何もないの。あなたの努力は、ここに居る皆が知っているわ。私を含めて、皆あなたに甘え過ぎていたの……あなたに、何もかもを背負わせ過ぎたわ」
「エイミー……私、私……」
言葉が出なくなっているマリアを、エイミーはシャラの胸から、そっと自身の胸元へと抱き寄せる。エイミーの目じりから、涙が頬を伝った。
「何も、言わなくていいの。私たちも、バカだったのよ。本当なら、私たちがあなたを支えないといけなかったのに……忙しさを理由にして、それを怠った」
エイミーの言葉に触発されて涙を滲ませた女性たちが、マリアの名を呼んで彼女の周りを囲む。ごめん、と誰かが口にしたのを皮切りに、少しずつ彼女たちが互いに謝り出して……いつしか、彼女たちは互いを支える様にして、嗚咽を漏らし始めた。
(……感動的なのは構わんが、傍でやられると気が散るのだけど……)
仰向けに戻ったマリーは、蹲って震えているマリアを横目で見やると、チラリと隣で寝息を立てているサララの寝顔を見やった。
「それにしても、サララはよく眠るな。こういうとき、サララは真っ先にマリアに駆け寄りそうな気がしたんだけどなあ……」
「ああ、そいつ、あんたが目覚めるまで寝ずに看病していたからな」
苦笑するマリーの呟きに答えたのは、いつの間にかマリアの傍を離れていたシャラであった。シャラは静かに微笑えむと、サララの寝ている側へと回って、そっとサララの頭を撫でた。
「なだめすかしてようやく仮眠を取らせようとしたところにあんたが目を覚ましたって報告が来た途端、『マリーの看病する!』って跳び起きてここに来たからな……体力の限界が来たんだろ。今は、寝かしておいてあげてくれ」
「ああ、なるほど。あの妙な距離感と言うか、テンションはそういうわけか」
「いや、それは元々の性格だよ。多少は大げさになっていたけどね」
「……ああ、そう」
ぼんやりと、マリーは天蓋を見つめる。隣で泣き喚いている集団は鬱陶しかったが、眠れないというわけではない。事実、少しずつではあるが、眠気がジワジワと意識を不明瞭にしてきているのが分かる。
「マリー」
ポツリと掛けられたシャラの呼び声に、マリーは目を瞑ったまま意識をそちらへ向けた。
「こんなこと、私が言えた義理じゃないけど……これからも、力を貸してくれるかい?」
……マリーは、ふう、と息を吐いた。
「俺は、オーナーなんだろ? だったら、やることをやるだけさ」
……返事は、返ってこなかった。
けれども、小さい声で「ありがとう」と口にしたシャラの声は、震えていた。嗚咽を堪える声が、シャラの方から聞こえてきたのを捉えたマリーは、グッと身体を毛布の中に滑り込ませて……体の力を抜いた。
……嗚咽が木霊する室内に、二つ目の寝息が生まれたのは、その直後であった。
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