第9話 残酷なれど、これもまた掟なり
※ 残酷な描写があります。虫が苦手な方は、注意
―――――地下二階階へと続く階段―――――
繁茂するウィッチ・ローザに、遠目にも分厚さが分かる土の壁。そして、遠目に確認出来る、地下への入口。地下二階へと続く階段は、地下一階とそう変わらない作りであった。
……拍子抜けしたと言えば、嘘になる。
反面、代わり映えのない光景に不思議な安堵感も覚えていたサララは、ひとまず到着できた安全地帯に、ほう、とため息を吐いて……階段を降りた向こうにいる人影に、身を固くさせた。
「……マリー、誰か居る」
「サララ、俺の傍を離れるなよ」
わざわざ言われなくても、先を歩いているマリーは分かっていた。
視線の先にいる5人の男たち……その内の一人が、マリーとサララに気づく。己の身体で隠すようにサララを移動させるのと、その男が口笛を吹くのとは同時であった。
「へへへ、見ろよ、ずいぶんと可愛らしいのが降りてきやがったぜ」
男の言葉に、仲間らしき4人が振り返る。途端、4人の目じり下がった。静かなおかげで、男たちの囁き声がうっすらと聞こえてくる。その内容はお世辞にも友好的なモノではなく、親しみを全く感じられない視線が、マリーとサララへと突き刺さる。
横目で確認してやりたかったが、目が合ってしまうとそれだけで騒動を招きそうなので、あえてマリーは男たちを居ない者として扱うことに決めた。
(ああ、うん、こういう類のやつらか……まあ、まだ地下一階だから、珍しいことでもねえか)
ギュッと、サララが槍を握りしめたのを、マリーは横目で見やる。さすがに構えてこそいないものの、敵意に近い感情をサララが抱いているのは、見なくても分かった。
……というより、ポツリと聞こえた『鬱陶しい……玉に穴開けてやろうか』というサララの言葉が、マリーにはちょっと怖かった。
ぶっちゃけ、マリーにとっては慣れた視線である。今更この程度のことで乱される心臓ではないし、そもそも男たちが襲い掛かって来たとしても、返り討ちにする自信がある。その強い自信が、マリーを平静にさせていた。
マリーは、だいたい3分の1程降りたあたりで足を止めた。サララの足音も合わせて止まったのを確認してから、くるりと、マリーはサララへと振り返る。見れば、サララは決して男たちに視線を向けようとはせず、頑なに前方だけを向いていた。
マリーの対応から察して行っているのか、それとも反応するのも嫌なのか、それはマリーには分からない。ただ、少しだけマリーはサララの頭を撫でたいと思った。
「サララ、武器を洗浄するぞ」
「え……あ、うん」
チラリと、サララはほんの一瞬だけ、男たちへ視線を向けかけて……しかし、すぐにサララは軽く首を横に振る。関わらないというマリーの対応を、察したからだ。
サララは槍を階段の壁に立てかけると、自らが背負ったビッグ・ポケットを下ろした。いくら錆びにくいとはいえ、洗浄は早ければ早い程良い。錆びてからでは、遅いのだ。
ビッグ・ポケットからアクア・ボトルを取り出しているサララの横で、マリーはゴソゴソと自分のビッグ・ポケットから時計を取り出した。昼夜が分かりにくいダンジョン内で使用する為に開発された、なかなか頑丈な時計である。
「……うん、だいたい、予定通りの時間だな」
「本当? 遅れてない?」
くるりと、サララはマリーへ振り返った。マリーは頷いて肯定すると、装備していたナックルサックを外して階段に置くと、首に掛けていたビッグ・ポケットをその横に下ろした。
「少し食事を取ってから行こう。まだまだ先は長いし、しっかり栄養を取らないとな」
マリーは自分用のビッグ・ポケットから『ライター・セット』を取り出す。コンロの噴射口をそのまま切り取って、折り畳み式の四本足を取り付けた外見のそれは、マリーの両手よりも少し大きかった。
続けて、専用のエネルギー・ボトルをビッグ・ポケットから取り出すと、それを手早く噴射口の裏側に差し込む。カチッ、としっかり接続したのを確認してから、足を立てる。サララの邪魔にならないよう、また、誤って蹴飛ばさないよう位置と角度に気を付けながら、段の1つに設置すると、マリーはその横に腰を下ろした。
「……なに、それ?」
始めて見る物体に、サララはキョトン、と首を傾げる。それでも手元だけは滞りは無く、アクア・ボトルを取り出して洗浄の用意を始めているのは、さすがである。
「何って、ライター・セット」
「らいたー、せっと?」
「……あれ、説明していなかったか? もしかして、見るのも聞くのも初めて?」
困った様子で首を傾げるサララに尋ねると、サララは首を縦に振った。「ああ、すまん。説明したと勘違いしていたよ」マリーは頭をカリカリと掻くと、ライター・セットを指差した。
「一言で言い表せば、探究者用の小型コンロだよ。ほら、上に物が載せられるよう、鉄棒で加工されているだろ?」
ほら、とマリーは噴射口の四隅、上下左右に取り付けられた、小さな鉄棒を指差した。上に乗せる物が、直接噴射口を塞がないように配慮されている作りだ。
「……言われてみれば、そんな形をしている」
「小さいからその分火力も弱いけれど、けっこうダンジョン内では重宝するんだぜ。これが有るか無いかだけで、今後の負担が驚くほど軽くなるんだからな……本当だぞ」
「…………」
こころなしか、サララからの視線に呆れの色を覚えたマリーは、慌ててそう弁明する。
実際のところ、食事というのは、体力を回復させるだけでなく、精神的負担も和らげてくれる、貴重な機会だ。
その貴重な機会をより良い状態にするのは、ベテラン探究者の間ではもはや常識であり、それだけ重要なことなのである。
どれだけ腕に自信がある探究者でも、四六時中、常に気を張り続けることは出来ない。休めるときに休み、回復出来るときに回復することが、探究者の間にある鉄則の1つである。
(……まあ、マリーの言うことだから、きっと正しい)
だから、というのも変だが、マリーが言うのだから。そんな気持ちでサララは気持ちを切り替えると、遅毒槍の刃先に水を振りかけた。
「何を、作るの?」
視線を刃先に向けたまま、サララはマリーに尋ねる。こんな状況で作れるものなど、限られている。材料も持ち込んだ物しかないし、マリーの腕前がどんなものかサララは知らないから、余計にそれが気になった。
「うーん、色々あるけど、とりあえず今回はスープだな」
ライター・セットの上に乗せた小鍋の中に、とぽぽ、と水を入れながら、マリーはそう答える。だいたいの量まで水を注ぎ終えると、今度は皮が付いたままの、小さな玉ねぎと布を取り出した。
「ビスケットとかは、食べないの?」
取り出した専用の布で、サララは落としきれなかった油気と水気をふき取る。
「2、3枚ぐらいなら食べていいぞ。俺は胃袋が小さいから、これだけで事足りるだけだ」
カチッ、とマリーは、ライター・セットのスイッチを入れる。次いで、調理用の特注はさみを取り出すと、玉ねぎの根に当たる部分を切り落とした。
「ふーん……それなら、私もマリーと同じでいい」
「別に、無理に合わせなくてもいいぞ」
「ううん、違う、そういうわけじゃない」
納得できる程度に洗浄を終えたサララは、改めてマリーへ振り返る。
「単純に、沢山食べた後に動き回ると、お腹痛くなりそうだから」
「……別にビスケットの2、3枚ぐらいじゃあ、変わらんと思うけどなあ……まあ、サララがそういうんなら、俺は何も言わないぜ」
ぺりぺりと皮を捲り取り、剥き身になった玉ねぎの中心へ、ぐさりと片方の刃を突きたてる。そのまま力任せに柄を握り締めると、ぽとりとマリーの膝の上に落ちる。手に取って、砂などが付いていないのを確認してから、マリーははさみをのこぎりのように動かして、玉ねぎを二つに切り分けた。
「……ナイフや包丁は使わないの?」
首を傾げるサララの前で、マリーは手早く鍋の中に玉ねぎを切り落としていく。その手順は実に手慣れたもので、清流のように淀みなく作業を進めていた。
「特別固いものを切るわけじゃないし、これぐらいならコレで十分だよ……ていうか、そもそも俺が面倒くさがりだ、っていう話だけどな、結局は。気になるなら、次からそっちを使うぞ」
サララは、首を横に振った。
「別に気にしないから、やりやすい方でいい。それよりも、そのはさみの切れ味に、興味がある」
「あ、これか? これは探究者用に開発された、『調理用はさみ』だよ」
玉ねぎを全て切り落とし終えたマリーは、はさみをサララに向かって見せる。ウィッチ・ローザの光にきらめく刀身には、玉ねぎの汁がうっすらと反射して見えていた。
「普通の調理用はさみなんかよりも、切れ味と耐久性を向上させた優れものさ……サララ、終わったなら、ついでにこれを洗っておいてくれ。下手な包丁よりも切れるから、刃の方には触れるなよ」
「うん、分かった」
忠告された通り、慎重にはさみを受け取ったサララは、そっとはさみに水を掛ける。手で擦ってやろうかとも思ったが、皮どころか皮膚ごと切り裂きそうなはさみの刃を見て、それは断念……マリーが用意した布で、拭うくらいはやった。
そうこうしている内に、くつくつと鍋が音を立て始める。マリーは同じく取り出した小さなお玉で、泡立ちを掬い取って隅の方へと放り捨てると、ビッグ・ポケットから子袋と小瓶を取り出した。
「それは?」
「瓶の方は、塩と胡椒を混ぜ合わせた物で、その名もずばり塩胡椒瓶。こっちの袋は、言うなれば乾燥出汁みたいなもんだ。外で食べたら少し塩辛い味付けだが、意外とこれがダンジョン内だと、癖になるんだよなあ」
ぱっぱっ、と3回瓶を振って塩胡椒を振りまくと、マリーは子袋から親指大の乾燥ブロックを取り出して、鍋に投入する。ジッと、子袋に視線を注いでいるサララに袋を手渡すと、サララは袋の口を軽く開き、そこへ鼻先を近づけた。
「……なんか、美味しそうな匂いがする」
「そりゃあ、不味そうな匂いしていたら、誰も買わないだろ」
サララの感想に、マリーは思わずといった調子で笑みを零した。サララもそれは同じだったようで、二人はくすくすと互いに笑い合った。
「――っと、危ねえ」
サララに向けていた視線を鍋に戻す。焦げないよう注意しながら、マリーは手早く取り出した調味料と、サララから受け取ったはさみをビッグ・ポケットに収納すると、鍋に立てかけて置いたお玉でスープをかき回した。
「もう少しで出来上がるぞ」
「マリー、カップとフォークはこれでいい?」
「おう、助かる」
乾燥出汁が十分に溶けきったのを確認したマリーは、日を止めると、サララが用意したカップにスープを注いだ。途端、何とも言えない匂いが、二人の鼻腔をくすぐった。
「なんか、美味しそうな匂いがする」
スンスン、と鼻を鳴らしたサララが、微笑みながら呟いた。くくくっ、とマリーも思わず笑みを浮かべた。
「そりゃあ、不味くないようにしているんだから、不味い匂いだったら食欲無くすだろ」
「それもそうね」
最後の一滴までスープを注ぎいれた後、マリーは手早く鍋の中を布で拭う。それを鍋の中に入れてビッグ・ポケットの中に入れると、サララからカップとフォークを受け取った。
「ありがとう、マリー。それと、全部任せきりでごめん」
「いやいや、気にするな。そもそも、乾燥出汁って味付け間違うと悲惨なことになるから、最初から俺が作るつもりで買った物だし……そんなことより、食おうぜ。スープは温かいうちに食べてこそ、だろ」
マリーの言葉に、サララははにかむ様な笑顔で頷いた。マリーとサララは「いただきます」と声をそろえると、カップに軽く息を吹きかける。静かに唇を付けてカップを傾け……ずずず、と音を立てた。
そして、ゆっくりとカップを下ろし……二人は、互いの顔を見合わせて、微笑んだ。
「ちょっと、塩辛いな」
ポツリと、マリーは言った。
「でも、美味しい」
ポツリと、サララは言い返した。
えへへ、と笑みを浮かべるサララに、マリーは照れ臭そうに頭を掻いた。
ダンジョン内とは思えない、和やかな空気が二人の間を流れていた。多少なりとも空気を読める人間であれば、まず話しかけないであろう雰囲気だ。
「へっへっへ、お嬢ちゃん方、ずいぶん美味そうなのを食べているじゃねえか」
けれども、どこでもそういった空気が読めない人間……いや、あえて読まない人間はいるものだ。例えそこが、ダンジョンという危険地帯であったとしても。
塩辛いスープに舌鼓を打っている二人の前に、防具に身を包んだ男が下方から声を掛けてきた。
……とはいえ、マリーとサララは階段を椅子替わりにして腰を下ろしていたし、男は二人よりも頭二つ分以上背丈があるのだから、実際は二人が若干見下ろされている状態であった。
心休まるひと時に無粋に割り込んできただけあって、自然とマリーとサララの視線は厳しくなる。しかし、男は一切気にすることなく、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながら、身体を二人へ近づけた。
「どんな味付けしているのか、ちょっとご教授してくれないか?」
言葉だけは下手に出てはいるものの、男の態度は、お世辞にも話を請う態度ではない。その証拠に、男の表情には微塵も断れる可能性が現れていなかった。
チラリと、サララは横目でマリーを見やる。さすがに表情に嫌悪感が出てくるのを抑えられないサララと違って、マリーは上手に笑みを保っていた。
(……マリーは、さすがだなあ)
それを見たサララは、とりあえず何時でも槍を取れるように注意だけはしておくことにした。何をするにも、マリーの邪魔にはなりたくなかったから。
男に構わず、ずずず、とスープを啜っていたマリーは、ゆっくりとカップから口を離した。
「乾燥出汁と、塩胡椒」
ポツリと、呟かれた言葉に、男の目じりがピクリと震えた。
「味付けは、ただそれだけ。具は、玉ねぎのみ。ただ、それだけ。玉ねぎを最初に煮て、塩胡椒、乾燥出汁の順に入れただけの、簡単なものさ」
それだけを言うと、マリーは再びカップに口づけた。様子を見ているサララも同様にカップに口づけると、ずずず、とスープを啜る音が響く。
……少しの間を置いて。マリーたちの下方……階段をいくらか降りたところで固まっていた男たちが、堪えられないと言わんばかりに笑い声をあげた。
下品な笑い方であった。相手を慮るような色合いが全く感じられない、嘲笑の色合いが強い声。知り合いであっても、聞いていて不快に感じるであろう、その声に、二人の前で立ち尽くしていた男は、見る間に顔色を紅潮させた。
「へ、へえ、そうか……だが、ちょっと味が想像出来なくてなあ……ちょっと、俺の分も作ってくれねえかな」
「自分で作れ」
おおよそ、怒りを堪えたうえでの対応。それを、マリーは一言で一蹴する。ピクリと、男の唇が痙攣した。
「……ざ、材料を切らしているんだ……悪いが、ちょっとばかし俺らの分も作ってくれねえか、な、この通り」
ぱちん、と、男は手を合わせて頭を下げた。いくらお願いする立場とはいえ、年端もいかない少女に頭を下げる男の姿に、サララは軽く目を瞬かせる。
……何のつもりなのだろうか、この男は。
男の態度とは裏腹に、湧き上がってくる疑念と警戒心を抑えつつ、サララは黙ってマリーの行動を見守る……そのマリーは、男に向かって……静かに、それでいて穏やかに、微笑みを向けた。
(うわ……きれい)
見慣れたサララですら、思わず息を呑んでしまう美しさだった。サララですらそうなのだから、おそるおそる顔を上げていた男はもちろん、下方に居る男たちは、マリーの笑みに完全に心を奪われた。
マリーの、美しい形をした唇が、ゆるやかに開かれた。
「諦めろ」
……直後、その場の空気が凍った。入れてはならないヒビが、確かに入ったのを、その場に居る全員が聞いた……ような気がした。
くっくっく。
一瞬だけ訪れた沈黙を破ったのは、下方に居る、男の仲間たちであった。彼らは、まるで何かを抑えるかのように暗く嗤い……欲望が、全員の瞳に灯った。
「……調子にのるなよ……糞女が……!」
腸に響く、重低音。それは、マリーの目の前にいる男が発した声であった。先ほどの、少し高めであったソレとは全く違う声色は、男の心の中で、如何に激情が溢れだしそうになっているかが分かる。
敵意……いや、それは怒気であった。はっきりと怒りを視線に滲ませた男の、笑顔で塗り固められていた仮面が剥がれる。嫌らしく弧を描いていた唇が、激情に強張っている。男の顔は瞬く間に憤怒へと変わった。
反射的に、サララは槍を取ろうと手を伸ばす。けれども、サララが槍を掴むことは無かった。サララの手が槍を掴むよりも早く、マリーがサララの太ももに手を置いたからであった。
(――っ、マリー?)
驚きに目を見開くサララに向かって、マリーは笑みを保ったまま横目で指示を送る。受け取ったサララは、一瞬、迷った。けれども結局は、マリーの指示に従うことに決めて、肩の力を抜いた。
「あんたも探究者なら、分かっているだろ。ここじゃあ、ケツを拭くのは自分の仕事さ……他人にてめえのケツを拭いて貰おうなんて、それ相応の見返りも無しにすることじゃねえなあ、おい?」
サララの動きが止まったのを横目で確認したマリーは、目の前に佇む男に、あえてそう尋ねる。見た目の可憐さとは裏腹の口汚さだ。蝶も花よを地で行くような姿で、この口調……違和感どころではない。
ほんの少しだけ、男はマリーの口調に面食らう。きつくなっていた男の眼差しが、一瞬だけ緩む。それを、マリーは見逃さなかった。
「まあ、結局のところ、俺が何を言いたいかっていうとな……」
ふわりと、マリーはもう一度微笑みを男へ向けた。
「てめえのきたねえケツなんて、拭きたくねえってことですわよ」
(……マリー、女の子の口調を真似するのはいいけど、女の子はケツなんて言わな……あ、けっこう言うかも)
そんなツッコミが出かかるのを、サララは寸でのところで呑み込んだ。
ぶちりと、何かが切れる音を、その場にいる全員が聞いた……ような気がした。(それにしても、女の子口調が似合ってはいるんだけど、どうしてか気持ち悪い)と内心、マリーの口調に鳥肌を立てているサララを他所に、呆然としていた男の顔が、見る間に紅潮し始めた。
「へ、へへへ、へへへへ……お嬢ちゃん、覚悟は、出来ているんだろうな。人がせっかく穏便に事を済ませようっていうつもりだったのに、荒立てたのはそっちだぜ」
ゆらりと、男は腰に取り付けた止め具を外し、両刃剣を抜いた。ぎらりと、男の感情を表すかのように、刃がウィッチ・ローザの光にきらめいた。
「大人しく素直にしていりゃあ、お互い楽しくやれたはずなんだがなあ……駄目だぜえ、女の子は素直じゃねえとなあ」
「おい、ジャック! あんまりやり過ぎんなよ! ズタズタにされちゃあ、立つもんも立たねえからよ!」
下方にいた男たちの怒声が、階段内に響き渡る。
男たちの狙いは初めからそれであったのだろう。今にも切りかかろうとする仲間を止めることはおろか、言外に『上手にやれ』と言うぐらいなのだ。
彼らにとって、二人の身体のことなど、己の欲望を満たす道具にしか考えていないのは考えるまでもなく、今の発言からも明白であった。
それを察したサララの視線は、極寒のごとき冷気が宿る。怒りを耐え切れず、槍を手にしようと腕を伸ばす。「サララ、ちょっとこれを持っていてくれ」だが、それをするよりも早く、サララの目の前にカップが差しだされた。
「えっ?」
反射的に受け取ったサララは、立ち上がったマリーを見上げた。
ぽんぽん、と臀部に付いた砂を払いつつ立ち上がったその姿は、まるで公園のベンチから立ち上がったかのような自然体であった。
男……ジャックという名の彼と、マリーが対峙する。
段差のおかげで、マリーの頭の位置は、いくらかジャックよりも高い。しかし、言い換えれば、それだけジャックとマリーの体格に違いがあるということであった。
「へへへ、座っていた時も小さいが、立っても似たようなもんだな……さぞ、締まりが良さそうだぜ」
剣の腹を摩りながら、ジャックを舌なめずりをした。それだけで、ジャックが何を考えているのかがよく分かる。
黙って、ジャックを見つめていたマリーは……深々とため息を吐いた。そして、面倒くさそうに顔をあげた。
「言いたいことは、それだけかい?」
「あん?」
「いや、だからさ」
ガリガリと、マリーは頭を掻いた。
「死ぬ前の言葉が、それじゃあ嫌だろ?」
ピクリと、男の頬が痙攣する。真顔になるジャックを前に、マリーは淡々と続けた。
「せっかく今日まで生きてきたんだ……何か、言い残したいことでもあるだろ。言ってみろよ……忘れるまでは覚えておくか」
そこで、マリーの言葉は途切れた。最後まで口にする前に、両刃剣を振りかぶったジャックが、マリーへと切りかかったからであった。
「うらぁ!」
命を奪うきらめきが、空気を切り裂いてマリーへと迫る。
時間にすれば、コンマ何秒という、瞬きすら惜しい一瞬。
切りかかったジャックを含め、仲間たち全員が『殺した!』と確信した一瞬。人間の皮膚など、濡れた紙切れのように切り裂いてしまう刃が、マリーの白い肌へと迫った一瞬。
沁み一つ無い、手荒れ一つ無い小さな手が、刃の軌道をピタリと静止させた。
「――っあ、えっ?」
呆気に取られたジャックの声が、空しく響く。刃が途中で止まるということ自体は、今までにも経験はある。けれども、それは全て相手の肉体、あるいは防具や武器に食い込んだ後の話だ。
繰り出した刃が、素手で止められること事態が初めてで……想定外の現実に、ジャックは言葉を無くした。
反射的に手元に戻そうと力を込めるも、刃はびくともしない。呆然と、止められた刃とマリーの顔を交互に見ることしか出来なかった。
「『うらぁ』、が、最後の言葉だな」
ドレスの肩口に見える、むき出しの肌より少し手前。その位置にて刃に肌が触れないよう、指で剣の腹を抑えたマリーは、ジロリとジャックを見やる。
グッと指に力を込めて、マリーはジャックを己へと引っ張る。腕を振りかぶったマリーを見た瞬間、ジャックの顔色が変わった。紅潮していた頬が、瞬時に青ざめた。
「――っ、まっ」
「それじゃあ、いつか地獄で会おうぜ」
振りかぶった腕が、消えた。音よりも早く繰り出された平手が、ジャックの頬を打ちぬく。ばちん、と、重苦しい打突音が響いた。
「てふっ」と奇妙な呻き声と共に、首から上だけを真後ろへ向けたジャックの身体が、崩れ落ちる様に膝をついた。
軽く、マリーは蹴りを入れる。握りしめた手から剣が外れて、ジャックの身体はボールのように階段を数段程転がった……沈黙が、階段内を木霊した。
「や、やろう……!」
ジャックの仲間の一人が、立ち上がる。食いしばった歯に、彼の怒りが透けて見えるが……震える語尾が、彼の感情を物語っていた。
チラリと、マリーは立ち上がった彼を見つめる。途端、彼は気の毒に思えてしまう程に肩を震わせる……けれども彼は、それに声を震わせて、叫んだ。
「て、てめえ、ぶっ殺してや――」
瞬間、「うぐぇ」彼の「おごぉ」横「んぃ」を、閃光が通り過ぎた。傍から聞こえた声と共に、ぴしゃりと足に掛かった生暖かい感触に、視線を下げる。
おびただしい量の血液によって染められた、右下半身が彼の視界に広がっていた。
「――っ!?」
喉が引き攣ってしまって、虫の吐息よりも小さな悲鳴をあげながら、彼はぐるりと仲間たちへと振り返り「ひゃああ!」こみ上げた恐怖に足をもつれさせて、強かに腰を階段に打ち付けた。
一人は、頭がU字の形にくり抜かれ、噴水のように血を噴き出して絶命していた。その後ろにいたロンゲの男は、胸に巨大な空洞が空いており、口と穴から夥しい量の血液が垂れ流されていた。一番後ろに居た男にいたっては、貼り付けになるような形で、壁に剣で固定されていた。
彼の仲間たちを亡き者にした剣は、二人分の肉体を貫いて威力が減退したのだろう。剣は完全に抜けきることなく鍔の部分によって押し出され、壁に突き刺さると同時に、男の身体に深々と食い込んでいた状態で止まっていた。
じわじわと滲み出ている血流と、紛れるようにして漂う糞尿の悪臭が無ければ、男はただ壁に背中を預けているようにしか見えない状態であった。
視線の先に居た、変わり果てた仲間たちの姿に、彼は己の息が止まるのを自覚した。
「……っ、……っ、……っ」
驚愕のあまり言葉が出てこない彼は、順々に仲間たちへと視線を巡らす。そして、最後方にいた仲間に突き刺さった剣を見て、彼は、仲間たちをこんな姿にさせた正体を知った。
――両刃剣。それは、彼の仲間であるジャックが愛用していた剣だ。
片手、両手、どちらでも兼用できるよう特別に特注されて作られたブレード。それが、仲間たちの命を一瞬にして奪った物の正体。
なぜ、そんなものが仲間の下腹部に突き刺さっているのだろうか……そんなこと、考えるまでもない。非常識な現実を作りだした人物は、彼の傍にいるのだ。
抑えようにも、どうにもできない恐怖が彼の全身を震わせ、カチカチと歯を鳴らす。
恐る恐る、彼は仲間たちから視線をマリーに向けて……ぐるぐると、柔軟をするかのように腕を回していたマリーと、目が合った。直後、遅れて発した悲鳴と共に失禁した彼は、涙で濡れた瞳を階段下へと向けた。
――止める間も、無かった。
(ありゃりゃ、よりにもよってそっちに行くのか)
解れた糸玉のように階段を転がり落ちて行く彼の姿に、マリーは頭を掻いた。
別段、怖がらせるつもりは無かったのだが、どうやら思いのほか彼には恐怖を与えてしまったようだ。遠目からでも分かるぐらいに全身を震わせていた彼の姿を思い浮かべ、苦笑する。
恐怖が、彼の四肢から力を奪うだけで飽き足らず、平静をも奪っている。でなければ、いくら階段とはいえ、途中で止まるぐらいは出来るはずだ。その証拠に、まともに考えることが出来なくなっている彼は、ただ縮こまることしか出来ないようだ。
血と、汗と、唾液が飛び散る。狂乱した精神状態で、しかも、そんな不自然な体勢で、止まれるはずもなかった。激しく段の角に身体を打ち付けるたび、彼の手足には新たな裂傷が刻まれ、失禁とは別の液体で染まっていった。
「おっ」
のんびりと結果を見守っていたマリーは、思わず声をあげた。
「ぐ、げぇ」
彼の口から、吐血交じりの苦悶が発せられる。けれども、偶然の天秤は彼の方へと傾いた。
地下二階まで後、数段。腕を伸ばせば、指先が辛うじて地下二階へ届かない、ギリギリの位置……そこで、彼の肉体は転がるのを止めた。
狙ってやったわけではない。無意識の内に行ったわけでもない。ただ、偶然に……やたらめったらに動かしていた手足が、奇跡的に彼の身体を静止させることに成功したのであった。
(……どうしようかな)
呻き声をあげている彼は、まだ死んではいないようだ。それを見たマリーは、迷った。それは、止めを刺すことが……ではない。彼を殺すことに対する面倒くささを嫌ったうえでの、迷いであった。
(やるにしても、ドレスが汚れたら嫌だしなあ……血液って、洗い落とすのに時間が掛かるんだよなあ……)
遠目から彼の怪我を見たところ、彼が、重傷であることが分かる。よほど無防備に身体を打ち付けたのだろう……もはや、マリーがわざわざ手を下す必要は無いのかもしれない。
「……マリー」
ポツリと、背後から掛けられた声に、マリーは振り返った。カップを両手に持って、手持無沙汰に立ち尽くすサララと、目が合った。
「マリー」
視線が交差したのを確認したサララは、再びマリーの名を呼んだ。両手に持ったカップから漂う匂いでは誤魔化しきれない濃厚な血の臭いに、サララは眉根をしかめる。
「なんで、殺したの?」
当然と言えば、当然の質問。その言葉にマリーは、弱ったなあ、と言いたげに頭を掻いた。
マリーにとって、ココでのやり方をいつも通りにやっただけの話である。
しかし、よくよく考えたら、サララは何もかもが初めてだ。当然のことながら、必然と知る様になる『暗黙の了解』というのを知らなくても無理は無い。
どうやってサララを納得させるべきだろうか。正直、男たちを葬ったときよりも頭を悩ませながら、マリーはもごもごと言葉を口の中で捏ねた。
「え、あ、う~ん……なんで、と言われてもなあ……あいつらは、俺たちに乱暴を働こうとしたから……っていうのが理由かな。ココじゃあ、殺されそうになったら殺せ、やられそうになったらやれ、が暗黙のルールだから」
「違う、私が言いたいのは、そこじゃない」
「別段、俺のやったことは変じゃなくて……って、はい?」
「殺したことについて、聞きたいわけじゃない」
マリーの口上を、サララは首を横に振って遮った。目を瞬かせるマリーを他所に、サララは堪らないと言わんばかりに、ため息を吐いた。
「あんなふうにしたら臭いし、血だまりには蛆が湧くし、色々な意味で邪魔になる……なにより、あれはどうするの?」
あれ、と顎で示された先に目をやると、今しがたマリーが仕留めた男たちの死骸があった。「……ああ、そっちか」とマリーは胸をなど下ろすと同時に、頷いた。
「ああ、死体なら、適当に階段の外に放っておけばいい。モンスターが綺麗にしてくれるから、心配しなくても大丈夫だ」
「……そう……残った血痕は?」
そっと、サララは預かっていたカップをマリーへ差し出す。受け取ったマリーは、一口、スープを啜る。「……温い」冷めてはいないが、温かいとはいえない味に、頬を歪ませた。
「血痕なら、ほら、あれが片付けてくれるよ」
ビシッとマリーの指が差し示した先に、サララは目をやる。そこに繁茂している植物を見て、サララは首を傾げた。
「……ウィッチ・ローザ?」
マリーは、頷いた。
「ウィッチ・ローザは、人間の血液に反応して猛烈な勢いで根を伸ばす性質があってなあ……場所にもよるが、人間の二人や三人ぐらいの血量なら、あっという間に吸い尽くしてしまうのさ」
「へえ……意外な事実」
スープの具を口の中に放りながら、サララはぼんやりと視線の先に広がっているウィッチ・ローザを見つめる。ダンジョン内を照らしているそれを見た限りでは、とてもではないが、そんな恐ろしい性質があるようには思えない。
「とはいえ、人間を襲う力なんて無いし、せいぜい死骸から滴り落ちる血液を啜るぐらいだ。魔女の松明って最初に名付けたやつは、ずいぶんと詩人だったんだろうぜ」
そう、マリーは言い終えると、カップをグイッと傾けた。カツカツとフォークを鳴らして、残った具を一気に食べる。ただでさえ、若干塩辛い味付けだ。冷めてしまえば、飲めたものじゃない。
「……あ、マリー、あの人、起き上がろうとしている」
「えっ」
サララの言葉に、カップから顔を離したマリーは、視線を彼へと向ける。
ボロ雑巾のように変わり果てた姿となった彼が、苦悶の呻き声を零しながらのたうっているのが見えた。向いてはならない方向へ向いてしまった手足をばたつかせながら、彼は必死の形相でマリーから距離を取ろうとしていた。
顔を勢いよくぶつけたからなのか、彼の口からは、唾液交じりの血液が滴り落ちている。半分以上折れたり砕けたりしている歯を見る限り、口内はズタズタに切れているのだろう……まともに声が出せないようで、悲惨な状態になっていた。
そんな状態で安全地帯を出ればどうなるか、探究者である彼が、分からないはずがない。
けれども、あのまま上に言ったところで、『彼の主観からすれば』マリーに殺されていた。結果、彼の中では、下に逃げるしか選択肢が無かったのかもしれない。
それに、今の彼の状態では、たとえマリーが見逃したところで無事に地上階にたどり着ける可能性は、限りなく低い。どのみち、錯乱して下に逃げるという愚策を行ったうえに負傷してしまった以上、彼の末路は決まったも同然であった。
「……止め、刺してあげよう」
今後の彼のことを考えて、さすがに気の毒に思ったのだろう。サララはマリーに聞こえる様に呟くと、傍に立てかけた遅毒槍を手に取った。片手だけで、脇に挟むように槍を構えると、刃先を彼へと向けた。
これから一人の命を奪おうとしているのに、その刃先には何の躊躇も見受けられない。無表情を保っているサララの内心が、そのまま表れているようだ……ジッと、マリーはサララを見やった。
「なんか、妙に手慣れているな」
「……女ばかりの娼婦館には、色々な客が来る。時には、力づくで排除しなければならない問題も、やって来る。時には、この手を血に汚すこともあった……幻滅した?」
チラリと、視線だけを向けられたマリーは、静かに首を横に振った。けれども、サララの年齢で『他者の命を奪う』ことを経験していることに、思うところが無いと言えば嘘にはなる。
今しがた、4人の命をあっさり奪ったマリーですら、初めて他者の命を奪う経験をしたのは、成人してからだ。
その時ですら、マリーは初めての殺人に心を痛め、数日は眠れぬ夜を過ごした。『生きる為に』という理由でそれらを受け入れるまで、何日も何日も思い悩んだ。
サララの年齢のとき、俺は何をしていただろう。
ふと、マリーはそんなことを考えて……苦笑すると、階段を下りようとしているサララの肩を掴んだ。くるりと、首から上だけで振り返ったサララに、マリーは首を横に振った。
「残念だが、もう手遅れだ……階段下りたところの、上の辺りを見てみろ」
「……?」
促されるがまま、サララは示された辺りに視線を向ける。しかし、特に変わったところは見られない……首を傾げつつも、マリーの言うことだから、とよく目を凝らす。
「あれ?」
すると、ぱらぱらと、少量の土が、雨粒のように零れ落ちているのが見えた。
土が落ちていく場所は、ちょうど階段を出てすぐの地点……はいつくばっている彼の背中の上であった。逃げることに必死な彼は気付いていないようであったが、目を凝らせば、少量の土が彼の背中に降りかかっているのが分かった。
……何かが、いるのだろうか。
一瞬、サララの脳裏にはモーヴァの姿が思い浮かんだが、すぐに否定した。あの巨体で壁に張り付くこと事態もそうだが、何よりモーヴァの手足は、そのようなことが出来る作りにはなってなかった……はずだ。
いったい、何が……そうサララが思った瞬間、「あっ」小さな影が、彼の背中に向かって降り立った……と同時に、グズッ、と耳障りな音と共に黒い影の半身が、彼の背中に食い込んだ。
「む、虫?」
ポツリと呟かれたサララの声は、直後、彼の唇からあがった凄まじい悲鳴にかき消された。サララの肘から先までありそうなサイズの虫……昆虫にも似たそれのはさみが、彼の背中に突き刺さっていた。
食い込んだ部分から鮮血が噴き上がり、彼の背中から噴水のように飛び散る。いったい、どこにそんな力があったのか、彼は背中に突き刺さった虫を取ろうと、手を必死に背後へ伸ばしていた。
「で、デカい……な、なにあれ?」
「バロック・アントっていう、モンスターだよ」
鳥肌を立てているサララに、マリーは説明した。
「別名『待ち伏せアリ』って言ってなあ……その名の通り、今みたいに獲物が来るのを待ち伏せして、上から奇襲をかける巨大アリだよ」
「あ、あれもモンスターなの?」
「あれも、モンスターさ。倒せばちゃんとエネルギーが手に入る……っと、見ろ、先兵が攻撃して獲物の動きを止めたから、今度は本隊が一気に来るぞ」
「えっ、本隊って、なにをいっ!?」
そこで、サララは言葉を呑み込んだ。サララの視線の先で、黒い雨が降った。バロック・アントという黒い雨粒が、彼の足をハサミで引き裂いた。
新たに生まれた苦痛に、彼から悲鳴が発せられる。当然のことながら、雨粒は一粒ではなく……轟音と共に、夥しい数のアリが彼の身体に落ちてきた。
「ひぃ!?」
それなりに平気な者でも、怖気を覚える光景だ。鳥肌を立ててマリーの背後に隠れるサララを他所に、彼の身体はあっという間に黒い雨粒で覆い尽くされてしまった。
ぎゃぁぁあああああああああああーーーーーー!!!!
直後、何度目かになる彼の悲鳴が響いた。今度の悲鳴は、今までの比では無い……まさしく、彼の断末魔だった。
いだいだいだいだいだいだいだいだいだいだいいいだぃいだぃぃいぁぃぃぁ…ぃ……ぁ……ぁぁ……ぉ……ぁ……。
彼の最後の言葉は、瞬く間に小さくなっていく。黒く光るアントの体表が、カチャカチャと擦れ合っている。アリの鳴き声に興奮の色が混ざる頃には、すっかり途絶えた……ほんの、一瞬の出来事であった。
「………………」
サララは、言葉が出なかった。目の前で起こった惨たらしい惨劇を前に、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。けれども、別段、彼の死を思ったわけではない。
「……サララ」
ぽん、と再び肩を叩かれる感触に、サララは我に返った。ハッとマリーへ顔を向けると、マリーは小山になっているアリの群れを指差した。
「出番だぞ」
「えっ」
「バロック・アントは動きがのろまな上に、たいして固くない。あいつらは一度地面に落ちたら、もはや動かない的だからな。普通は手ごろな石か肉を投げておびき出すんだが、今回はあいつが代わりになった。このチャンスを生かすべきだと、俺は思うぞ」
「……えっ?」
思わず、槍と、マリーと、バロック・アントへ順番に視線を向ける。そして、ゆっくりとマリーへ視線を向けた。マリーは、笑顔のまま視線を逸らした。
「……頼む、あいつらの身体って、殴ると無茶苦茶気持ち悪い感触なんだ……体液もけっこう臭いし、見た目もなんか嫌だし、ほ、ほら、スープ作ってやっただろ、な、そう」
「マリーさん」
「あ、はい、なんでしょう」
最後まで、サララは言わせなかった。マリーも、諦めたように俯いた。
「手分けして、頑張ろう」
「……ダメかな?」
「……ダメだよ」
巨大な黒マリモと化した物体を前に、マリーとサララは、静かにため息を吐いた。
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