第七話: 暗闇の奥から現れる者

※ この話では、下の世話(失禁など)と、グロテスクな描写と残酷な描写があります。苦手な方はご注意ください








 ―――――地下一階―――――



 腸に響く鈍い音が、ずどん、とダンジョン内を木霊した。



 外よりもいくらか薄暗い地下一階の世界。


 幾人もの探究者たちの喉笛を噛み千切り、その命を食らってきた『ランター・ウルフ』たちが、黒い体毛に覆われた頭を静かにあげた。


 ジッと暗闇の向こうを見つめる赤い瞳は、おおよそまともに光を映してはいない。その代りに発達した優れた嗅覚と聴覚が、暗闇の向こうから漂ってくる同族の血臭と悲鳴を捉えた。



 直後、二度目の爆音がダンジョン内を木霊した。



 ぴくり、ぴくり、と。耳を震わせたランター・ウルフたちが、唸り声を上げながら立ち上がる。人の皮膚など容易く切り裂く強靭な足爪が、ガリガリと地面を削った。


 四方を形作る土壁に繁茂するウィッチ・ローザが、静かに彼らを照らし出す。一つ一つはそれほど大きくなくとも、その数が十を超え、百を超えれば、炎をも超える強い明かりと成り得るには十分であった。



 そして、三度目となる振動が、ランター・ウルフたちの鼓膜を震わせる。



 ただでさえ膨れ上がっていた警戒心がピークに達し、彼らの胸中にて僅かな迷いが生まれる……だが、その迷いは微かに聞こえてきた同族の悲鳴を聞くまでであった。


 ピクリと、彼らが身体を震わせた瞬間。野太くも鋭い雄叫びを、ランター・ウルフたちはあげた。


 大気を震わす激しい雄叫びが、響いて伝わってくる音をかき消す。群れの中では最も体格のあるリーダーが、先陣を切って駆けだす。一拍遅れて、彼の部下たちも走り出した。



 ハッハッハッハッ。



 ランター・ウルフたちの呼吸がリズムを刻み始める。照らし出された明かりの下に、いくつもの黒い影が、赤い閃光を走らせながら暗闇の中へと駆けて行く。


 瞬く間にトップスピードに達した彼らは凄まじい速度で通路を曲がり、広場を通って、同族を殺した怨敵へと迫る。


 敵と定めた相手への執念……たったそれだけの思考が、黒い弾丸と化した彼らの脳裏を埋め尽くしていた。



 そして、いくつもの通路を通り過ぎた後。



 今まで通り過ぎて来た中でも特に明るい広場に出た彼らは、直後に鼻腔を埋め尽くした濃厚な血臭に、我を忘れた。


 目が見えなくても、ランター・ウルフたちは理解する。


 今、この広場に転がっている血臭の塊は、つい今しがたまで生きていた同族たちの成れの果てだということを。


 発達した嗅覚が、グズグズと溶けてゆく同族から立ちのぼる臭いを捉える。そしてまた一体の同族が断末魔の悲鳴をあげたのを、駆け付けたランター・ウルフらは聞いた。



 聞いて、理解した瞬間。



 駆け付けたランター・ウルフたちは、怒りに埋め尽くされた思考をそのままに同族を殺した相手へと走り出す。発達した嗅覚が『正確な敵の位置』をランター・ウルフたちに伝え……ギラリと殺気が動いた。


 ダンジョンに住まうモンスターであり、ランター・ウルフと人間から名付けられた彼らには、おおよそ知性というものが薄い。本能的に行動する彼らにとって、この地にやって来る獲物を二つに分けて考えていた。



 臭いが固い方は、雄。


 臭いが柔らかい方は、雌。



 ランター・ウルフにとって、ダンジョンに来る人間は全て、そのどちらかとしか考えていなかった。


 視力が弱く、それ以外の感覚でしか状況を把握出来ない彼らにとって、まず真っ先に確認したのは……敵の臭いであった。



 ――雄と雌だ!


 ――雄と雌が、一つずついる! 



 言い換えれば、獣でしかない彼らはそれだけしか状況を知る術は無く、それだけしか理解出来ない知能であった。


 ドッ、と砂煙をまき上げて、群れが二つに分かれる。数にして、八頭の内の三頭。一頭でも十分に脅威となるランター・ウルフが三頭、リーダーの命令によって、『雌』へとその牙を研ぎ澄ませた。



「ひゃぁぁああ!」



 接近するランター・ウルフに気づいて逃げ出そうとした雌が、無様にも尻餅をつく。視力と知識の無い彼らにとって、それが尻餅という行為であることを確認出来なかったが……転倒したのは理解出来た。



 ――柔らかい肉だ!

 ――美味そうな肉だ!

 ――噛み砕いてやる!



 脳裏を埋め尽くしていた怒りを、さらに埋め尽くしていく食欲。瞬時に染まった意識に操られるがまま、彼らは地面を蹴って獲物へと飛び、大口を開けた。



 ――直後、彼らの意識は暗転した。



 何が起こったのかを考える暇も無い、凄まじい衝撃。腹部から下に何かが通り過ぎたのを彼らが理解すると同時に、彼らは本能的に悟ってしまった。


 自分たちの死が、確約してしまったことを。



「なんで潜る前にトイレに行かなかったんだよ! 行けって言っただろ!頼むから漏らすなら小便だけにしろよ!」

「だ、だってぇ!」



 着地姿勢を取れずに地面を転がっているのが理解出来るのに、不思議なほどに痛みを感じない。


 薄れゆく意識の中、獲物の声を最後に聞いた三頭の彼らは、呻き声一つ上げる間もなく絶命した。



「てめえ、無駄にデカくて邪魔なんだよ! おかげで海松子が漏らしたじゃねえか!」

「そんなこと大声で言うな! ばか!」



 直後、その声の主によって彼らのリーダーが断末魔の呻き声をあげたことに、既に息絶えた彼らが知ることは出来なかった。


 幾人もの敵を噛み砕いてきた自慢の牙が、柔らかい雌の肌に届くことは無く……最後の一頭となったリーダーが、息絶えた。







 ―――――地下二階へと続く階段の途中―――――






 ……ダンジョンに赴く探究者たち。


 そこに、老若男女の区別は無い。様々な人たちが日夜探究者としてダンジョン内を探究しているわけだが、彼ら彼女の、一流と二流とを分ける明確な違い……基準があると言われている。



 装備している武具の質?

 常に平静を保てる精神力?

 豊富な知識と経験?



 確かに、そのどれもが一流と二流を仕分けるにふさわしい判断基準だ。


 だが、そのどれもが違うことを、一流と呼ばれる人たちだけが本当の意味で理解している。理解出来ていない者こそが二流であると……一流となって初めて分かることがあった。



 一流の探究者が口を揃える、明確な違い……それは、他でもない。



 迫りくる外敵を何よりも早く察知し、周囲の状況へ常に意識を向けていられることの出来る危機察知能力。


 それこそが、一流と二流を仕分ける違いであった。



「……という話をこの前知り合いから聞いたんだけど、それについて君はどう思う?」

「間違ってはいないさ。さて、無駄話してねえで、さっさとその汚れたズボンとパンツから手を放せ」



 頬を真っ赤にしながら海松子が捻り出した質問を、マリーは一言で終わらせる。


 途端、海松子の額からは大粒の汗が滲み、海松子は金魚のように唇を震わせながら、嫌々と首を横に振った。



 ……それを見たマリーは、深々とため息を吐いた。



 視線を落としたマリーの目が、他の部分よりもいくらか色濃くなった海松子のズボンを捉える。股から内モモに掛けてべったりと水分を吸っているそこからは、嫌な臭いがモワッと立ちのぼり始めていた。


 ……まあ、何が起こったのかと言えば、そう複雑な話ではない。


 跳びかかってくるランター・ウルフの迫力と、応戦したマリーとの戦闘を間近で見て、海松子は膀胱に残されていた黄色い水を吐き出してしまっただけである。


 ……何度かダンジョンに入った経験があるのに……と事情を知らない人からすれば、思ってしまいそうものだろう。


 だが、臓物と血潮が吹き荒れ、目の前で次々と断末魔の悲鳴を上げて息絶えるモンスターの死体が積み上がっていく光景を見せられれば……本職ではない海松子が耐えられなくなるのは、致し方がないことであった。


 おかげで、ズボンを黄色く汚したまま、海松子はマリーに手を引かれて逃げることしばらく。


 鼻水と涙を垂れ流し、命辛々地下二階へと続く階段へとたどり着いた海松子は、安堵のあまりそのまま腰を抜かしてしまったというわけであった。



「別に漏らしたぐらいどうってことねえだろ。ここをどこだと思っているんだ? ダンジョンだぞ。穴掘って垂れ流すのがここでは当たり前なのは、お前も知っているだろ?」

「知っているけど、そういう問題じゃないでしょ! そりゃあ僕だって見られるのは多少覚悟していたけど、だからって下の世話されるのは別問題でしょ!」



 唾を飛ばして断固拒否の姿勢を取る海松子。けれども、マリーには無意味であった。



「しかしさあ、実際問題早く着替えないと臭いにつられたモンスターがどんどん集まって来るぞ。現に、漏らしたお前がここに逃げ込むまで、どれだけのモンスターに襲われたと思っているんだ」



 まあ、俺としては好都合だったけどな。その言葉を、マリーは飲み込んだ。


 そんなマリーの思惑を知る由も無い海松子は、うう、と言葉を詰まらせる。それは、海松子自身も分かっていることであった。


 それを理解しているのに、どうして頑なに拒否をするのか……マリーは困ったように首を傾げた。



「腰が抜けて動けないんだろ? 別にそれは恥ずかしいことじゃないし、どっちもここでは誰もが一度は経験することなのさ。俺なんてルームで漏らしたこともあるんだぞ」

「そ、そりゃあ、マリー君は男だからだよ。いくら見た目が可愛いからって言っても、マリー君は男の子だもの……だから……その……」



 けれども、そこまで言った海松子は視線を伏せた。


 海松子自身、それがココでは如何に自分勝手な主張であるかは自覚しているのだろう。言葉尻が随分と弱弱しかった。


 ……海松子が実は、シャラが弟子入りした鍛冶屋の娘であることをマリーが知ったのは、最初のランター・ウルフとの遭遇前のことである。


 だから海松子は初対面の時に君付けし、歴代最低点を取った相手とチームを組んだのだと、少し前のマリーは納得に頷いたのだった。



 ちなみに、『世間は狭いんだな』というのがマリーの正直な感想であった。



「……まあ、異性に着替えさせてもらうのは恥ずかしいものがあるのは俺も分かっている。だが、そんな我が儘言っていられる状況じゃないってのはお前も分かっているだろ? 俺にだって万が一はあるし、無駄にリスクを増やすのはそれこそバカだぞ」

「……分かっている。それは、僕も十分理解している……理解……しているんだけど……」



 しかし、分かっていても、どうしても折り合いが付けられないことがある。それが、海松子の首を縦に振らせてくれなかった。


 かれこれ十五分程になる問答は、もうすぐ十六分になろうとしている。刻々と強くなっていく臭いに、マリーは思わず鼻を鳴らす。それを見た海松子は、真っ赤になった顔で俯くとモゴモゴと唇を震わせた。


 しかし、それでも固く身を縮こませてズボンから手を放そうとしない海松子……マリーは、ふむ、と思考を働かせた。



(何をそこまで嫌がっているのやら……サララの時は申し訳なさそうな顔をしたぐらいで、世話されること自体は全然嫌がらなかったのになあ……)



 ジッと、マリーは海松子を見つめた。失禁して汚した下の世話をされるなんて、そりゃあマリーだって嫌だ。


 だが、そんな我が儘を言える状況ではnいことは、海松子も重々承知……理解しているはずだ。


 理解していても嫌がる理由……それは、いったいなんだろうか。


 この前負ったとされる傷の痕……はたまたそれ以外にコンプレックスがあるのか……あるいは、見せられない事情があるのか……いったい、何が海松子をそこまで頑なに――。





 ――あっ。





 フッと脳裏を過った閃光に、マリーは思わず声を上げそうになった。幸い、海松子は気づいていないようで未だ俯いたままだが……どうしよう。



「……なあ、海松子。一つだけ質問する……えっと、お前には付き合った男が……いや、そうじゃなくて、なんて言えばいいか……」



 顔をあげた海松子と目が合って、どう話を切り出そうかと……マリーは少しの間、迷いを見せる。


 しかし、どっちにしても無駄な時間を使っている場合ではないことを考えたマリーは、素直に尋ねることにした。



「お前、もしかして処女か?」

「――っ!?」



 海松子の反応は劇的であった。息を呑んでいる海松子の赤みは全身まで広がり、ぶわっと顔中に汗が噴き出る。


 それを見て、やっぱり……とマリーはため息を吐いた。



「ということは、お前自分の裸を家族以外に……男に見せたことないわけか。そうなると、男とキスもしたことも無いし、抱き合ったことも無い……てことだな」

「…………」



 どうやら図星のようで、ズボンを掴む海松この指先は力が込められ過ぎて白くなっていた。


 真っ赤になった顔で俯く海松子の指先は、一瞬たりとも力を抜くつもりはないようで……マリーはガリガリと頭を掻いた。



「大怪我負ってもまだダンジョンに潜る度胸があるのに、なんでアソコを見られるぐらいで恥ずかしがっているんだか……」

「い、いいじゃん! 僕だって女の子だよ! 恥ずかしがって何か悪い事でもあるわけ!?」



 唾を飛ばして怒鳴る海松子……逆切れもいいところだ。



「悪いことだから何度も脱げと言ってんだろ、ばかたれ」

「うっ……」



 しかし、マリーには通じない。


 マリーはさっさと海松子のズボンに手を伸ばす。先ほどまであった労りと遠慮がまるで無くなったその動きに、海松子が慌てて力を込めるが、強化されたマリーの力の前には……無意味であった。


 あっ、と海松子が抵抗した時には遅かった。


 露わになったそこには一切の陰りが無い、子供のようにつるりとした亀裂。暖められた異臭がモワッと立ちのぼり、何とも言えない空気が漂った。



「……お前、思ったよりも足細いんだな……ほら、とりあえずこれで洗ってそれを巻いていろ。どうせ着替えなんて持ってきてねえだろ。俺が適当な着替えを貸してやるから、ちょっと待ってろ」



 思考を停止させてしまっている海松子の傍にアクア・ボトルを、頭にタオルを掛けてやる。灰色の下着ごとズボンを半ば無理やり海松子の両足から脱がし終えると、ゴソゴソと己のビッグ・ポケットを漁り始めた。


 これじゃあ小さい、これだと合わない、漁りながらブツブツと呟いているマリーの隣で、海松子は股を開いたまま呆然と虚空を見つめている。


 まあ、よほどのショックなのは伺うまでもない。そうして、その瞳の焦点が、徐々に合わさっていく……ピタリと、意識と焦点が噛み合った瞬間。



「――っ!!」



 海松子は声なき悲鳴をあげて、股を閉じた。頭に掛けられたタオルを股に挟むようにしてマリーに背中を向け……思わずバランスを崩しそうになって、慌てて段差にもたれかかる。


 どうにか、ずり落ちないように姿勢を確保した海松子は、舌をもつれさせながら唇を開いた。



「……み、見た!?」

「あ、何が? 着替えならもうちょっと待てよ」

「と、とぼけないで! 見たんでしょ! わ、私の……」



 マリーは、ふむ、と手を止めた。



「見たよ。お前そんだけ胸がでけえのに、全然生えてなかったんだな」

「――そ、そういう時は嘘でも見ていないって言ってよ……」



 ぐじぐじと海松子は鼻を啜り始める。よっぽど見られたことがショックだったのか、出会った時のような元気溌剌とした様子はまるでなく、放たれている気配が萎れていくのが分かった。


 ……ああ、もう、面倒だなあ。マリーは疲れたように海松子を見やった。



「あのなあ、俺はお前に感謝しているし、お前のおかげで試験を受けられたからこんなこと言いたくないんだけどさ……」

「え、あ、やだ!」



 いい加減苛立ちを覚えそうになったマリーが、階段を数段駆け上がって海松子の前に立つ。「ちょ、やだ、見ないでよ!」と、慌ててマリーに背中を向けようとする海松子の肩を……マリーは掴む。


 ピタリと動けなくなった海松子の顔に、再び血流が送られ始め――。



「反応しないと言えば嘘になるが、ぶっちゃけ、もう見飽きてんだよ」



 ――る、と同時に、海松子はしばしの間、意識を止めた。



 赤くなった頬熱の上昇が、ピタリと止まる。「……えっ?」と、目を瞬かせる海松子を他所に、マリーは深々と……それはもう深いため息を吐いた。



「お前は、俺が住んでいる場所についてはどう聞いてる?」

「え、えっと、女所帯に男はマリー君一人だって……」

「そうだ。俺以外全員女という空間に、俺は住んでいる。そして、まずは『俺の周りに女がいる』のではなくて、『女たちの間に俺がいる』ということを前提に考えてほしい」

「え……あっ……」



 何となく察した海松子に、マリーは静かに俯くと、そっと……視線を海松子から外した。



「多種多様の乳、尻、ふとももを十数人分……それらを百日ぐらい毎日毎日朝昼晩と見続けてみろ。俺じゃなくても飽きる。お前だって、それだけの間毎日のように男の物を拝んでみろ。五十日を過ぎた頃には隣でブラブラしていても飯食えるようになるぞ」

「……ごめん」



 何だか触れてはならない部分に触れてしまったような気がする。そんな思いで海松子は頭を下げると、マリーは苦笑した。



「気にしているなら言っておくが、その女所帯にも生えてないやつはいるからな。別にお前だけが特別じゃないし、俺だって生えてねえのは一緒だからな」

「……うん、何か、本当にごめん……」

「謝るぐらいなら、さっさと股を洗え。無理なら、俺が洗ってやるから」

「え、あ、ちょ、ちょっと待って」



 そう言われて、海松子は立ち上がろうとする。いまだ海松子の羞恥心に変化はないが、さすがにここまで言われて我が儘を言える程、海松子は厚顔ではない。見えるのを構わずに、立ち上がろうと気合を入れた。



 ……だが、やはり先ほどのスプラッタ的な光景を見せつけられた影響が残っているようで、腰から下にまるで力が入っていない。



 階段の段差を利用して立とうかとも思ったが、下手に立ち上がろうとすれば、そのままバランスを崩してしまいそうで身動きが取れない。というか、お尻がまともに上がってくれない。


 おそらくは危機的状況から脱したことによる、安堵感も影響しているのだろう。道理で、先ほども抵抗が弱弱しかったわけだ。


 困ったように海松子が振り返ると、マリーはさっさとアクア・ボトルを手に取って海松子の後ろに立つ。ちょうど、マリーの眼前に海松子がお尻を突き出している形となった。


 ぷるん、と張り出した瑞々しい尻房を前に、マリーは無言のままにボトルの水を掛けた。突然の冷たさに「ひゃん!?」、と尻房をぷるんと震わせたが、マリーは構わず片手で押さえつけると、掌全部を使って股全体を万遍なく洗い流してやった。


 段差に顔を埋める様にして真っ赤な顔を隠していた海松子が、ううう、と堪えきれない羞恥心を零した。ぴくぴくと痙攣する太ももが、如何に海松子が緊張しているのかを露わにしていた。



「――まさか男にお股を洗われる日が来るなんて思わなかった……私、まだ誰かとお付き合いしたこともないのに……」

「ダンジョンに潜った以上、男も女も関係ないのさ。恨みたければ、漏らした自分自身を恨むんだな。ほら、もうちょっと足開け」

「……分かってるよ、それぐらい」



 正論を言われて、海松子はぐうの音も出ない。しかも、意外なほどに優しい手付きで洗われて、気持ちいいとちょっとだけ思ってしまったのだから、余計に何も言えない。


 そうして、結局は最後まで綺麗にされた後。


 すっかり臭いも取れて、タオルで優しく水気を拭き取られる感触に身震いしていると、くっ、とこみ上げてきた感覚に、海松子はハッと顔をあげた。



「どうした? これ以外にお前の身体に合いそうなのはないぞ。嫌でもコレで我慢しとけ」

「え、いや、そっちじゃなくて、あの、その……」



 ビッグ・ポケットから大きめの包帯を取り出していたマリーに、海松子はこの日何度目かとなる火照った顔を見せると……申し訳なさそうに俯いた。



「……また、おトイレ、行きたくなっちゃった」



 ……どうしようもない沈黙が、二人の間を通り過ぎた。



「え、また?」

「も、元々、おトイレが近いというか、中途半端だったというか……」

「……お前、俺を下の世話をする介護人か何かだと思ってないよな?」



 内心を隠そうともしないマリーのため息に、海松子は縮こまってしまう。それを見たマリーは、もう一度ため息を吐くと、包帯を脇に置いた。



「上に戻るまで我慢出来そうか?」

「……無理。その、もちそうにない」

「だったら、ちょっと上の階……はランター・ウルフが居るだろうから、地下二階に下りて出すか?」



 マリーにとっては当たり前の提案をしたつもりであった。しかし、今にも破裂しそうな程に顔を真っ赤にした海松子に気づいたマリーは、胸中にて苦笑した。


 特別に明記されているわけではないが、各階を行き来する階段内にて排泄等を行うのはマナー違反とされている。その理由としては、各階を移動出来る唯一の通路であるからだ。


 もちろん、どうしようもない場合もあるだろう。命からがら階段まで逃げ戻って、気が抜けて垂れ流してしまうこともある。


 というか、探究者ならば誰もが一度は経験する事だ。故に、何が何でも絶対に駄目……というわけでもない。


 だからこそ、『マナー』である。『マナー』を破る者に対しては、同じ探究者からは厳しい対応を取られる。それは、生娘であろうが関係はなかった。



「……スコップ借りるぞ。準備するから、少しだけ我慢して待て」



 先ほど外した海松子のベルトからスコップを取り出し、片手で壁と地面の境目の辺りを殴りつける。どこん、と亀裂の入ったそこにスコップを差しこみ、黙々と穴を掘り始める。


 さすがに、階段にて垂れ流すわけにはいかない。苦肉の策だが、壁際に掘った穴の中に出せば……まあ、バレテも大目に見ては貰えるだろう。マナー違反なのは重々承知だが、仕方がない。



「か、重ね重ね申し訳ありません……」

「……まあ、いいさ。よくよく考えたら、お前の専門が鍛冶だってこと忘れていた俺にも非があるしな」



 マリーが何をしようとしているのかを察した海松子が顔を伏せると、マリーは手を振って苦笑した。


 どの道、今の海松子は自力で動けないのだし、下りたところでマリーの介助が必要となる。


 ……それならば、もうマナー違反を覚悟でこうするのが一番なのかもしれない。







 ……。


 ……。


 …………そうして、準備を終えた後。幼子を相手にするように海松子を後ろから支えて、その小さな穴に体を向けてやる。


 当然といえば当然だが、海松子の顔は真っ赤だ。今にも鼻血を噴き出しそうなぐらいに緊張し、四肢がカチコチに硬直しているのが見て取れる。



 ……無言のままに、マリーは剥き出しになっている海松子の瑞々しくぷりんとしている尻を叩いた。



 途端、うぎゃあ、と。女とは思えない悲鳴を上げた海松子が涙目で振り返ったが、構う事なくマリーは二度、三度と尻を叩く。


 女に向かって何と乱暴なやつだと憤慨する者もいるだろうが、ダンジョンの中は真の意味で男女平等である。美女だろうが不細工だろうが、何の意味もない。


 女相手でも必要なら殴るマリーにとっても、それは同意見で。何時までも子供のように駄々をこねているやつに甘い顔をするほど、マリーは優しくなかった。



 ……まあ、ぶっちゃけ、相手をするのが面倒になったのが本音だが……まあいい。



 傍目からみれば、こいつら何やってんだと怒られそうな光景だが……当人たちは本気である。いや、まあ、マリー自身も似たようなことを思っていたが……まあいい。


 伝わってくる海松子の焦りを掌から感じ取りながら、5度目の張り手の後。シュー、と立ちのぼる生暖かい臭いに、ようやくかと、マリーは心から溜息を零したくなった。



 おそらくは――これが、普通の……一般的な反応なのだろう。



 比較対象にするにはあまりに酷な相手(まあ、サララだけれども)だなと、マリーは思った。



(……まあ、何だかんだ言いつつつも、初めてサララがダンジョンに潜った時も――っ!?)



 そこまで考えたあたりで、唐突にソレは来た。直感とも言うべき何かが、カチリとマリーの中にあるスイッチを入れ替えた。


 背筋を走った悪寒。マリーは、視線を地下二階へと続く下方へと向け……次いで、息を呑んだ。


 マリーの視線の先。階段を下りた所、地下二階入り口にて、佇んでいる一人の男がいた。


 ボサボサの長髪と、マリーの立ち位置、当人が俯いているせいで顔色をうかがうことは出来なかったが……その姿は、異様の一言であった。



 身の丈は、2メートルを優に超えている大男だ。



 筋肉隆々の胸板は、まるで女の尻を並べたかのように盛り上がっており、腹筋に至っては今にも破裂しそうな程に膨れている。思わず見惚れてしまう程の、鋼のような筋肉で覆われた肉体であった。


 身に纏っているのはズボンだけ。ブーツはおろか、靴すら履いていない裸足だ。分厚い筋肉に覆われた上半身には、本人のものか、それともモンスターのものか、真っ赤な液体でべったりと汚れている。



 ……異様としか思えない姿だ。



 だが、本当の意味で男を異様とさせたのは、それではない。


 右手に持っている、剣というにはあまりに巨大な鉄塊と、左手が掴んでいる髪の束からぶら下がっている……数個の首が原因であった。


 ぽたぽたと赤い滴が滴り落ちている数個の首からは、ぷん、と血の臭いが漂ってくる……マリーの目が警戒に鋭くなる。


 姿だけが理由ではない。言葉は無くとも、男より放たれる禍々しい気配を前に、これはヤバい、とマリーは即座に判断した。



「…………」

「え、あ、あの、マリー君? なんでいきなり離れるのっていうか、汚れちゃう! 転んじゃうってば! 足に力が入らないから、ヤバい、ヤバいってば!」



 無言のままに海松子から離れると、海松子から抗議の声が上がった。恥ずかしさを通り越して、開き直っていたようだ。


 男から放たれる気配に気づいていない海松子からすれば、ここまでしておいて、あっさり放って置かれた……みたいな感じなのだろう。


 とはいえ、その事をいちいち説明する余裕は、ない。マリーは振り返ることもせず、ナックル・サックを装備した。



「海松子、そこを動くなよ。後、絶対に振り返るな。特に下を見るな……いいな?」

「え、あ、あの……ヒッ!?」

「バカ、見るなと言っただろ」



 振り返った海松子が、男の存在に気づいた瞬間。その禍々しさを認識し、息を呑んでのけ反ってしまった。


 傍目からは軽く背筋を伸ばしたようにしか見えなかったが……これで、またしばらく海松子は動けないだろうな、とマリーは海松子の状態を察する。


 まあ、そんな事よりも……階段を下りて、少しばかり男との距離を詰める。


 合わせて、魔力コントロールを行って身体能力を強化する。何時でも反応出来る様に、全身の神経を研ぎ澄ませながら……ジッと、男が手にしている首に視線を向けた。



(あの首、二人ほど見覚えがある……確か、ここに入る前に俺のことをお荷物と言っていた男と、その隣に居た男だ。ということは、他の首は、あの時のメンバーか……)



 頭の中で情報を整理していると、フッと男が顔をあげた。瞬間、マリーはらしくもなく、びくりと身体を震わせた。背後の方で、海松子がグズグズと鼻を啜り始めたのが分かったが、無理もなかった。


 なにせ、男の形相は……おおよそ、人が浮かべていいものではなかったからだ。



「はぁぁぁぁ…………」



 男の口から、大きくため息が吐かれる。無造作に放り投げられた首束の一つが、踏み出した男の足にぐちゃりと潰された。


 見た目通り、体重もある。ベキベキと聞くに堪えないおぞましい異音と共に、二つ目、三つ目の首が血みどろのゴミへと変わり果てていく。


 もはや……正気とは思えない行動。最後の首を踏み潰し、脳髄と体液まみれになった足を拭うこともせず……静かに、男がマリーを見上げた。


 その瞬間、マリーは考えるよりも前に行動を始めていた。


 魔力で強化された身体が、階段を蹴ったことで弾丸と化す。戦うには不向きな地形をものともせずに男との距離を一気に詰めさせた。



 ――あ、駄目だ。



 だが、その直後。マリーは己が悪手を選んでしまったことを痛感した。



「がぁあ!!!」



 雄叫びと共に、男は剣を振り上げる。その速さは常人のソレではなく、疾風が如き速度で接近するマリーよりも前に迎撃の体勢を取っていた。男の実力を見誤っていたことを、マリーが悟った瞬間であった。


 振り下ろされる巨大な剣。マリーの胴回りよりも太い剣は、階段上部の土壁をぶち破り……なんと、そのまま振り下ろされた!



「――っ!」



 間一髪、マリーは階段を踏み砕く勢いで再び蹴って、方向を変えた。凄まじい激震と共に粉々に砕かれた階段から、いくつもの破片が飛び散る。


 びりびりと、空間そのものが震えた。壁に着地したマリーは、男が反応するよりも前に壁を蹴って、男に跳び蹴りを放っていた。



 ――ずどん、と。



 男の首もとに蹴りがめり込むと同時に、その巨体は勢いを殺せずに横方向に飛んだ。衝撃であらぬ方向へと飛んで行った剣が、地面に深々と突き刺さった。


 接近戦は一旦避けなければ……土煙をまきあげながら地面を滑る男から離れようと――した瞬間。



 男の手が、己を蹴ったマリーの足を掴んだ。



 ――ギョッ、と。



 思わず、マリーは目を見開いた。その赤い瞳が、口と首もとから夥しい量の血液を噴き出している男の顔を捉え……視界が、ブレた。無意識の間に、マリーは衝撃に備えた。



「があああ!!!」



 その行動が、マリーを助けた。男が雄叫びと共に、マリーをまるでタオルのように……地面へと叩きつけたからであった。



「――っ!!」



 ズドン、と心身に響いた衝撃に、マリーは凄まじい激痛を堪えた。地下二階全体に届くのではないかと思える程の打突音。ぶん、と男は腕を振り上げ、二度目の打突音を響かせた。


 そうして、三度目、四度目、五度目。


 繰り返される攻撃に、マリーは胸中の奥から血の臭いが込み上げてくるのが分かった。


 状況は、圧倒的に不利。体格においては圧倒的に不利でしかないマリーは、このまま息絶えるまで叩きつけられる運命――いや、違う!



 ――なめんな!



 七度目となる浮遊感を覚えた瞬間、マリーは魔力コントロールを行い、一気にフルパワー状態へと成った。


 そうなれば、後はもうマリーの独壇場である。


 男が腕を振り下ろすよりも前に、マリーは瞬時に身体を丸めて腕を伸ばすと……男の腕に、己の腕を深々と突き刺したのだ!


 びくん、と男が反応するよりも前に、マリーは掌に掴んだ男の骨と筋肉を、力いっぱい握りしめた。ブチブチと、掌の中で千切れていく音を、マリーは知覚した。



「がぁあああ!?」



 男の口から悲鳴があがる。さすがに内部から筋肉を引きちぎられる激痛に耐えかねたのか、マリーを拘束していた手から力が抜ける。


 その瞬間、二人の戦いは決着していた。



「はぁああ!!」



 気合と共に掴んだ肉と骨ごと腕を抜き取り、素早くマリーは男の懐に潜り込む。血みどろになった手を鉤爪のごとく形作ると、撫でる様に全力で横殴りした。



「せやぁ!」



 綿飴で出来た大地を削るかの如き一撃に、血飛沫がマリーの頬にぽつぽつと点を作った。四つの溝から噴き出した血がマリーのドレスを濡らし、男の口から苦悶の声が上がる。


 だが、その程度でマリーの攻撃は終わらない。皮膚表面を削り取られる激痛に思わず膝をついた男の股間を、マリーは全力でもって蹴り上げた!



 ――瞬間、ぱん、と何かが破裂したかのような音が響いた。



「ごあああ!?」



 男に取って最大の急所、赤く染まった股間を押さえた男に、マリーは抜き手を放って男の喉仏を抉り取る。開かれた穴から噴き出した鮮血が、マリーの全身へと降り注いだ。



「――っ!」


 だが、しかし。


「がぁあああ!!」



 男の殺意はまるで衰えていなかった。金的を潰され、喉を破壊されてもなお衰えない闘志が拳を握りしめ、マリーへと放たれた。


 その速度、常人なら反応すら出来ずに直撃するタイミング。よしんばガード出来ていたとしても、確実にガードした腕ごと重傷を負うであろう一撃。



 ――しかし、それでも。フルパワー状態になっているマリーには、あまりに遅すぎた。



 片手だけで、攻撃の軌道をするり、と。繰り出した拳が遅く見える程の速度で、必殺の一撃を捌いたマリーは、大きく腕を振りかぶった。



 ――一瞬の間が、生まれた。



 戦っているマリーと、男しか知覚し得ない刹那の一瞬。


 瞬きよりも早く、ともすれば錯覚だったのではないかと思えてしまう程の一瞬。

 その一瞬が終わると同時にマリーは、準備を終えていた。


 噛み締めた奥歯が軋む。腰を捻り、重心を捻り、足を地面へ打ち込む程の強さで踏み込んで放つ、全身のバネを利用した全力の……一撃!



「――だっ!」



 直撃音は、意外なほどに静かであった。ずむ、と鈍い音を立てて、マリーの腕が根元まで食い込んだ。


 大きく見開かれた男の目が裏返ると同時に、男の背中が弾けた。骨肉と臓腑交じりの血飛沫が、パッとウィッチ・ローザの光を赤く色づかせた。


 ……無言のままに、マリーは腕を抜いた。


 ぽかりと開かれた大穴から、数回程思い出したように血流が飛ぶと……男は、言葉無くその場に崩れ落ち……それ以上、動く様子は見せなかった。





 ……。


 ……。


 …………倒れ伏した男の身体から、ジワジワと血の池が広がっていく。突然の凶行を見せた男の最後を見つめたマリーは……大きく息を吐くと、男に背を向けた。


 後片付けは、モンスターを始めとした、ダンジョンそのものがやってくれる……今はそんなことよりも、だ。


 とりあえずは一旦着替えを済まさなければいかんなあ……と。己の酷い姿に苦笑したマリーは、ふと、足を止めて振り返る。


 血だまりの中に沈んでいる亡骸を見て……マリーは首を傾げると、今度こそ背を向けて海松子の元へと歩き出した。



(こいつは一体誰だったんだろうかねえ……誰かは分からんが、大したやつだよ。この体になる前の俺だったら、最初の一撃で死んでいただろうな……)



 静まり返った世界に、マリーの足音が響く。その静けさも、もうすぐ終わることを考えたら、妙に寂しい気持ちになるなあ、とマリーは思った。


 しかし、あれだけ激しい戦闘をしたのだ。大量の血をまき散らしたし、騒音を立てすぎた。


 今から息を潜めたところで、もう無意味。すぐにでも、騒ぎと臭いを嗅ぎつけたモンスターが集まってくるだろう。



(こりゃあ、一旦上に戻って別ルートを探した方がいいな……)



 ならば、長居は無用。壊された階段を前に苦笑いを浮かべると、階段の途中で震えている海松子を見上げる。動けない状態でも何とか頑張ったのか、しっかりズボンを履いているようであった。


 はた目にも怯えているのが分かる海松子の目が、ふとマリーを捉える……ジワリと涙が滲む。青ざめていた頬が見る間に赤く染まり、クシャクシャに顔を歪めると、ポロポロと涙を零し始めた。



「ま、マリーくぅん……マリーくぅん……」

「はいはい、泣かなくても大丈夫、大丈夫」



 幼子のようにマリーへと腕を伸ばしている海松子の姿に、マリーは堪えきれずに笑みを浮かべた。


 あ、不味いかも……とマリーが慌てて笑みを隠したときには遅く、海松子の表情が怒りに変わった。



「――怖かったんだから! 凄く怖かったんだよ! 怖くて怖くて、もうどうしたらいいか、僕……全然分からなくて……怖かったんだからぁぁ……怖かったんだからぁぁ……」



 案の定、心細さと不安が限界に達していた海松子は、己の胸中を表すかのようにボサボサの頭をさらにボサボサに掻き毟ると、本格的に泣き始めてしまった。


 ああ、やっちまった……マリーは己の失言に頭を抱えたくなった。



「すまん、すまん。今のは、俺が悪かった。一人残されて怖かったろ? もう大丈夫だから、な」

「怖かったよぅ、凄く怖かったんだよぉ……」



 大粒の涙を幾つも零し、鼻水を垂らしている顔ははっきり言って酷い。百年の恋も冷める姿だが、まあ、状況が状況だから仕方がないのだが……マリーは頭を掻いた。



「大丈夫! もう大丈夫だから! だから泣き止めって! もう大丈夫だから! もうさっきのやつは大丈夫だから!」



 ほら、さっきの良く分からん男も俺がぶっ殺したから!


 そう言おうとして振り返ったマリーの笑みが……引き攣って、凍りつく。反射的に口元を手で覆ったのは正解であった。



(……うそ……だろ?)



 マリーの視線の先、つい今しがた見た時には血だまりの中にあった死体が……先ほどまで確かに転がっていた男の死体が……無くなっている!?


 信じがたい光景に、ゴクリと、マリーは唾を呑み込んだ。


 モンスターが持って行った……いや、違う。ランター・ウルフにしろ、何にしろ、それならばマリーの索敵センサーが反応する。今回は、それが全く反応を見せていないから、モンスターではないだろう。



 ――と、なれば、答えはただ一つ。



 ハッとあることを思い出したマリーは、血だまりの辺り一帯に隈なく視線を彷徨わせる。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も……探し終えたマリーは、思わず背筋を震わせた。



「あいつが落とした剣が……無い」



 まさか、あの状態で……生きているのか?


 その言葉が、ポツリと静まり返ったダンジョンに溶け込む。言い知れぬ寒気に襲われたマリーは、海松子を連れて急いでこの場を後にすることを決断した。



 今はただ、一秒たりともこの場所に居たくない。



 その思いで、マリーの頭はいっぱいであった。









 ……。


 ……。


 …………その後、マリーは海松子がダウンしてしまったから、『仕方が無くソロでの探究を行った』ということが正式に認められ、無事にトップの成績で試験を突破することに成功する。


 例年以上の死傷者数に青ざめる者もいたが、マリーに対してはこの結果に満足し、教師陣のマリーに対する態度も若干ではあるが、和らいだ。


 輝かしい結果を出したマリーには、学園長から賞状が授与されるという名誉ある副賞まで与えられることとなった。



 ……だが、トップで試験を通過したということが分かった時も、授与が決まった時にも、マリーの顔には全く笑顔が無かった。



 本人に、悪意はない。しかし、それが生徒たちの反感を買うことになるとは、学園側はもちろん、この時のマリーには知る由もなかった。





 ……そして、そんなマリーの思い悩む姿は、当然のことながらサララたちにバレバレであることに、マリーはまだ気づいていなかった。




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