第十五話: 少なくとも、大人より基礎体力は低い

※流血描写と下ネタ的な描写があります。人によっては下品に思う可能性があるので、苦手な方は注意









「……やれやれ、結局こやつはいったい何者だったのかのう」



 念入りに獣を凍らせ終えたイシュタリアは、ため息と共に魔法術を解除すると、マリーの傍に飛び降りた。真白になっていた両腕に赤みが差し、いつもの色合いへと姿を戻ろうとしていた。


 ……ジッと、マリーはイシュタリアの腕を見つめる。


 当然、イシュタリアがその視線に気づかないわけがなく、「……なんじゃ?」と尋ねられ……しばしの間口籠っていたマリーは、「いや、な……」首を傾げた。



「やっぱ魔法術って便利だよな」

「……ほほう、お主もようやく魔法術の利便性に気づいたようじゃな」



 にやり、と唇をつり上げるイシュタリアに、いやいやとマリーは手を横に振った。



「利便性ならとっくの昔に気づいているし、知っていたぞ」

「……だったらなぜ覚えぬのじゃ? 覚えておくに越したことはないのじゃ」



 イシュタリアは不思議そうに首を傾げた。



「魔法術士が見れば嫉妬に我を失う量の魔力を常時垂れ流しているお主なら、覚えようと思えばいつでも覚えられるはずじゃぞ」

「いや、だって覚える為に必要な『教本』って、アホみたいな値段するだろ。いくら覚えられるからって言われても、『教本』なんて早々買えるもんじゃねえってば」



 憮然とした様子で言いかえしたマリーであったが、それは事実である。


 魔法術の習得には、ダンジョンから手に入る『魔本』と呼ばれるアイテムか、あるいは『魔本』を解析して複製した『教本』と呼ばれる道具を使用する必要がある。


 どちらの本も、『記された魔法術の使用方法を、術者の脳に直接刻み込む魔法術が組み込まれた本』であり、使用すれば誰であっても魔法術を習得できる優れ物である。



 ……だが、そこに一つ、落とし穴があった。



 どちらの本も貴重であることや、使用する為の前準備に時間が掛かるというのもそうだが、何よりも……本そのものの値段が高いのだ。


 値段はピンキリで、平均で、だいたい平均年収分。戦闘用の魔法術にもなれば、今のマリーですらおいそれと手が伸ばせない金額なのである。



 ……しかし、安く済ませる方法が無いと言うわけではない。



 数は少ないが、幾つか方法が存在している。そして、その方法の内、実はマリーも安く『教本』を使用することが出来る手段があったりする……が。



「何を言うか、私はしっかり知っておる。ユーヴァルダン学園には確か、生徒を対象にした『教本』の貸出制度が有るという話があるということをのう」



 そのものずばりをあっさりイシュタリアは言い放った。



「うぐっ」



 思わず胸を押さえるマリーに、イシュタリアはため息を吐いた。



「お主が魔法術を覚えようとしないのは、単に魔法術に対する苦手意識が邪魔をしているに過ぎん。何事も挑戦しないままに『無理だ』と諦めるのは、男のすることではないのじゃ」

「むむむ……」

「唸ったところで現実は変わらんのう。仕事を終えたら、すぐにでも学園に行って『教本』の使用申請を行うのじゃな……まあ、金が無いのであれば、私も融通を利かせてやるつもりじゃから、金の件は心配無用じゃな」



 からからと笑うイシュタリアの言葉に、マリーは軽く肩を落とした。


 イシュタリアの言うことの全てが、ものの見事にマリーの内心を言い当てていたからである。


 イシュタリアの言うとおり、魔法術を覚えられるのであれば、覚えて置いて損はないだろう。


 今みたいに唯一の武器である物理攻撃が効かない相手と戦った後ともなれば、その必要性が身に沁みて理解出来てしまった。



(……不安はあるが、またダンジョンに入るしかないのかねえ)



 理解出来てしまうからこそ……マリーは軽くため息を吐いた。マリーの脳裏に浮かぶのは、あの試験の日に現れた謎の男のことであった。



 ……自然と、マリーは己の表情に不安の色が滲み出てしまうのを抑えられなかった。



 それを見やったイシュタリアは仕方がないと苦笑を浮かべる……と、カタン、と車体そのものが揺れた。


 ハッ、と。我に返ったサララがとっさにマリーの身体を支えるのと同時に、もう一度車体がカタン、と揺れた。



「おっとっと……」



 思わずたたらを踏む三人を他所に、ただでさえ亀のように鈍足であった車体の動きがさらに遅くなり……ついには完全に動きを止めてしまった。



「……なんだ、壊れたのか?」

「いや、いくら何でもこの程度で壊れるとは思わんのじゃ」



 互いに顔を見合わせたマリーたちが身を乗り出して下を覗くと、窓から身を乗り出していたナタリアと目が合った。「無事だったのね」と安堵のため息を吐くナタリアに頷いて、マリーが状況を尋ねると、ナタリアは困ったように首を傾げた。



「なんか、燃料切れだってさ」

「……ああ、なるほど。まあ、こんなデカい荷物背負ったら燃料も切れるよな」



 マリーたちの視線が、凍りついた獣へと向けられる。死んでからも厄介事を残す、本当に鬱陶しいやつである。



「ああ、それと、かぐちがイシュタリアを呼んでいるわよ。バルドクを治療してほしいってさ……あと、ドラコの治療もお願いね」



 そう言うと、ナタリアは車内に引っ込んでしまった。おそらく、ドラコの傍に向かったのだろう。いまだ顔を見せないことを考えると、まだ気を失っているのかもしれない。



「……ふむ。お呼ばれされたことじゃし、さっさと行くとするかのう」



 イシュタリアは軽く伸びをした。そして、ふわりと身軽な動きで車外に飛び降りてから、開いている窓枠に手を掛けて上ると……ふと、顔をあげた。



「私もこの後着替えるが、お主もその恰好をどうにかするのじゃな。けっこう酷い臭いをしておるぞ」



 そう言い残すと、イシュタリアはするりと車内に戻って行った。残されたマリーはぶるりと身体を震わせると、使命感に熱意を燃やしているサララを見やり……疲れたようにため息を吐いた。



「サララ……とりあえず、俺のビッグ・ポケットを持ってきてくれ。降りて身体を洗いたい」

「うん、分かった」



 槍を持ったまま、器用にもするりと身体を滑らせて車内に戻るサララ。その姿を見送ったマリーは、降りる前にもう一度獣を見上げ……べーっ、と舌を出した。







 ……ウィッチ・ローザの淡い光が点在する、洞窟の中。






 凍りついた獣を乗せたモノレールすぐ横のスペースに降り立ったマリーたちは、『とりあえずなんか腹に入れておこう』というマリーの提案の元に軽食を取ることにした。


 監視員である源は……傍観者に徹するつもりなのか、一人離れた所で見ているだけであった。


 いちおうは誘ったのだが、首を縦に振ることはなかった。そして、いつものお手軽スープを啜り始めてから、少しばかりの時間が過ぎた頃。


 全員が食べ終わって場の緊張も緩んだ辺りで、「ところで……」と話を切り出したのは、かなり疲れた様子のかぐちであった。



「休んでいるところ申し訳ないのだけれども、マリーさんたちに協力してほしいことがあるのです」



 コレ……とかぐちが指差したのは、先ほどの猛攻でボロボロになった『モノレール』であった。


 燃料切れを起こして止まってはいるが、燃料さえあればまた走れるらしい。そう説明したかぐちは、さらに話を続けた。



「上に乗っているこの化け物にしても、このままだと悪臭を放ってしまいます。ここからもう少し進んだところに、そういったモノを捨てる場所があります」



 このまま『地下街』まで運ぶのは無理だから、せめてそこまでコレを動かしたいのです。


 そう懇願するかぐちに、マリーたちは互いに顔を見合わせた。



「協力するのは構わんけど……」



 かぐちの話に、マリーは心底不思議そうに首を傾げた。それはマリーだけでなく、イシュタリアたちも同様であり、傍観者の立ち位置に戻っている源も、離れた所で同様に首を傾げていた。


 マリーたちとしても、バルドクの言うことは無視できない話であったので、頼まれなくても協力できることは協力するつもりである。


 しかし……マリーたちの頭には当然の疑問が浮かんでいた。



「動かすと言っても、あいにく俺たちは誰一人エネルギー・ボトルなんて持ってないぞ」



 ――そう、それであった。



 うんうん、と頷くサララたち。彼女たちの後ろで思いっきり苦笑いを浮かべているイシュタリアの姿があったが……誰も彼女の様子に気づいた者はいなかった。



「必要なのはエネルギー・ボトルではありません」



 マリーたちの疑問に、かぐちは困ったように首を傾げた。「こうしてあれこれ説明するより、実物を見た方が分かりやすいでしょう」とかぐちが振り返る。


 つられてそちらに視線を向ければ、額から大粒の汗を流しているバルドクが、大きな鉄箱を抱えてこちらに歩いてくるのが見えた。



「……今更だけど、ごめんなさい。治った直後にそんなことをさせてしまって……」



 駆け寄ったかぐちをバルドクは目で制すると、苦しそうにしながらもニヤッと笑みを浮かべた。



「お、お前にコレを抱えるだけの力はない。適材適所というやつだ」



 マリーたちの前に、ずどん、と音を立てて鉄箱を下ろすと、バルドクは大きく息を吐いた。


 鉄箱の大きさは、おおよそ50センチ四方。上面には取手らしき持ち手が付いており、良く見れば蓋のように容易に開けられる構造になっていた。


 バルドクの額から滴り落ちた汗が、ポツポツと地面に跡を作っている。下ろした音から考えても、鉄箱は相当の重さなのだろう。


 次々に地面へと跡を残していくバルドクを見やったかぐちは、申し訳なさそうにバルドクの背中に顔を近づけ――。



「……それで、これはいったいなんだ? 俺の目には、ただの鉄箱にしか見えないんだけど?」

「――あ、ご、ごめんなさい、説明の途中でしたね」



 途端、我に返ったかぐちは、驚いたように身体を引いた。(あ、やっちまった)とマリーが思った時には遅く、イシュタリアから脇腹を軽く肘打ちされた。



 ――空気を読め!


 ――すまん。



 イシュタリアからの無言の叱責に、マリーは心の中で頭を下げる。


 そんな二人の考えなど知る由もないかぐちは、些か赤らんだ顔を誤魔化すように顔を横に振ると、「これはですね」と鉄箱を指差した。



「一言で言えば、あの乗り物の燃料です」



 ……思わず、マリーたちは訝しげな眼差しをかぐちへと向けた。


 しかし、かぐちの方はある程度予想していたのだろう。気にした様子も無く取手を掴んで引っ張りあげ、くるりと回転させる。カチン、と鉄箱の開錠を確認すると、そのままさらに引っ張り上げた。


 そして蓋が完全に開いた瞬間……何とも言えない臭気と共に、籠った熱気がムッと立ち上った。


 正直、好んで嗅ぎたくはない臭いだ。一瞬だけ顔をしかめたマリーたちであったが、気を取り直して中を覗き……一様に、首を傾げた。



「これって、もしかして……」



 中に入っていたのは赤黒くなった土であった。鉄箱の中には土がこれでもかと詰め込まれており、どこから見ても、どう贔屓目に考えても、見間違えようが無く、土一色であった。



「……土?」



 ポツリと呟いたナタリアに、かぐちは「ええ、そうよ」と、はっきりと頷いた。



「この乗り物を動かす燃料はずばり、ここの『土』です」

「……えっと、冗談で言っているわけではないんだよな?」

「この状況で冗談を言える度胸なんて、私は持ち合わせていません」



 当然と言えば当然のマリーからの質問に、かぐちはもう一度はっきりと頷いた。



「より正確に言えば、この『土』にある物……はっきり言えば、『血液』を入れることで、この乗り物……『モノレール』を動かす燃料へと変わります」

「……えっと、つまり、二人が俺たちに協力してほしいってことは、つまりその燃料となる『血液』を分けてくれってことかい?」

「はい、そうです……これはもう古くなってしまったから、新しいものと入れ替える必要があるので……少し待っていてください」



 そう言うと、かぐちとバルドクは一緒になって鉄箱を倒すと、中の『土』を入れ替え始めた。もちろん、代わりに詰め込むのは、そこら中に無尽蔵に広がっている、何の変哲も無い『土』であった。



 ――唖然。マリーたちの思考を埋め尽くしたのは、唖然の二文字であった。



 あまりにも予想とは掛け離れていた答えに、マリーたちは困惑に互いの顔を見合わせるしか出来ない。


 自然と、視線がこの場では一番の知識人であるイシュタリアへと向けられるが……そのイシュタリアですら、困惑するしかなかった。



「なあ、昔は『土』であんなデカい鉄の塊を動かすことが出来たのか?」

「そんなわけが無かろう!」



 思わず尋ねてしまったマリーの質問を、イシュタリアは一言で切って捨てた。



「そんなことが出来ていたら、あの戦争なんぞ起こらなかったのじゃ」



 そう……イシュタリアの記憶では、そのような事実は全くない。



「いや、でも、実は一部でそういうのが有ったとか……」

「ありえん。絶対にありえんのじゃ。いくらあの時代の技術を持ってしても、土に血を混ぜただけでそんな芸当は出来ぬ……!」



 マリーの再三の質問を、イシュタリアは力いっぱい否定した。


 しかし、現に目の前の機械はそれで動くとバルドクとかぐちは言っている。


 はっきり言って……イシュタリアは、わけが分からなかった。



「――さて、これで準備が出来ました」


 そうこうしている内にさっさと鉄箱の中身を入れ替え終えた二人は、お互いに懐から小さなナイフを取り出すと、それを全員に見える様に掲げた。


 ……やはり、冗談ではない。何から何まで本気のようだ。



「それじゃあ、まずは私からやります」



 そう言い終えた、直後。


 かぐちはまるで食後の歯を磨くのと同じように、実に慣れた手つきでナイフの刃を取り出すと……細くて白い腕に、スッと刃先を滑らせた。



「――あっ」



 そう、ため息を零したのは、サララであった。白い肌を伝う赤い滴が、ポタポタと音を立てて鉄箱の中に吸い込まれていく。


 ……ふと、血が落ちた部分に視線を向ければ、ほんの僅かではあるが、その部分の色が明るくなっているのが見て取れた。



「色が明るくなればなるほど、燃料が蓄えられた証らしいですよ」



 ……何とも奇妙な光景に、マリーたちはしばし時を忘れて見入ってしまう。「とりあえず、こんなところでしょうか」とかぐちが腕を上げた後、ようやくマリーたちは我に返った。



「……本当に血を入れるんだな」

「……? さっきからそう言っているではありませんか」



 マリーのため息交じりの感想に、かぐちは不思議そうに首を傾げる。治癒速度は人間のそれではないのか、その腕に出来ていた傷口が塞がろうとしていた。


 新たに血を注いでいるバルドクが、かぐちと同じようにそっと腕をあげる。ナイフに付着した血を軽く拭ってから、マリーたちへと差し出す。ナイフを受け取ったマリーは、ジッと刃先を見つめた。



 ……痛そうだな。



 痛いのには慣れているが、好んではいない。血を拭われたナイフは、ずいぶんと切れ味が良さそうで、ウィッチ・ローザの光をキラリと反射させていた。



「……とりあえず、俺から――」

「いやいや、お主は後じゃろ」



 渋々と構えたナイフが、イシュタリアによってスルリと盗み取られた。驚いたように目を瞬かせるマリーに、ナイフを逆手に持ち直したイシュタリアは深々とため息を吐いた。



「お主の貧弱っぷりは並みのレベルではないからのう」



 うぐっ……と顔をしかめるマリーを見やったイシュタリアは、そのナイフを己の腕へと突き刺した。一息に、ナイフの柄がイシュタリアの肌に触れた。



「あ、突き抜けてしまったのじゃ」



 勢い余って反対側から突き抜けた刃先から、夥しい量の血液が滝のように鉄箱の中へ流れ落ちて行く。


 離れた所からそれを見ていた源もそうであったが、ギョッ、とバルドクとかぐちの目がこれ以上ないぐらいに見開かれた。



「――えっ!? あ、あの、そこまでしていかなくとも!?」

「……ああ、いやいや、気にする必要は無いのじゃ。この程度の出血でどうこうなる身体ではないし、抜いたらすぐ治るのじゃ」



 蒼白の顔で狼狽する二人を、イシュタリアは暢気な様子で宥める。しかし、二人が動揺するのも無理はない。というか、普通は動揺して当たり前だ。


 なにせ、イシュタリアの腕から噴き出す鮮血の勢いときたら……どう考えても、安心する要素がない。例え、イシュタリアが平気な顔をしていようとも、だ。



(……なんか、新鮮な気分になるのう)



 もし、仮に。自ら刃を貫通させたイシュタリアが、そう思ってほっこりとしているということを二人が知ることが出来れば……多少は、安心できただろう。


 しかし、心など読めない二人に、イシュタリアの内心を知る術はない。結局、二人は狼狽したまま、最後までイシュタリアの腕から噴き出す出血を見るしかなかった。


 ……続いてこの後も、ナタリア、ドラコと順番に血を注いでいく。


 二人とも、これまた痛みには耐性があるだけでなく、傷の治癒速度が常人(どころか、バルドクとかぐちが唖然とするほどに早い)とは比べ物にならない。


 案の定、イシュタリアと同じように腕にナイフを滑らせるのではなく、刃先からずぶりと突き刺していくせいで、バルドクとかぐちの肝を冷やすこととなった。


 監視員である源は最後ということになり、量にすればコップ4杯分の血液を注いだところだろうか。


 すっかり血生臭さを放つようになった鉄箱内の土は……うっすらと明るくなっている程度であった。



「……おかしいですね……いつもなら、これだけの量を注いだら、もっと明るい色に変わっているはずなのですが……」



 これに首を傾げたのは、かぐちとバルドクの二人であった。特にかぐちの方はしきりに「ああ、変だぞ」と口にしては鉄箱内の土に視線を向けている。



 ……これから血を注ぐマリーとしては、何とも不安を覚える光景であった。



「……ええい、今更やり直すわけにもいかんだろ。それじゃあ、次は俺がやるよ」



 そう己に言い聞かせるように呟きながら、ドラコから受け取ったナイフで、軽く腕を撫でる。スッと伸びた赤い線に眉をしかめると、これまでと同様に赤い滴がポタポタと鉄箱内に滴り落ち――。



「はい、おしまい。次は私」

「まあ、仕方が無い事じゃな」



 ――るとすぐに、ナイフをサララに取り上げられた。「……えっ?」と目を瞬かせるマリーの腕に、ナタリアが消毒液を振り掛けた。


 痛みに顔をしかめると同時に、背後からマリーを抱きしめたドラコが、濡れた腕を優しく拭った。


 そして、今しがた出来たばかりの傷口を包み込む、イシュタリアの魔法術。マリーの腕に有った赤い線はあっという間に塞がり、傷が有ったことすら分からないぐらいにまで完治した。


 ……事前に打ち合わせしていたかのような、鮮やかな対応だ。マリーが我に返った時には、既に諸々の治療道具の後片付けを済ませた後であった。



「……いや、お前ら、それはいくら何でもないだろ。贔屓されるのは好きだが、こういう贔屓は嫌いだぜ」



 これには、マリーも目に見えて不機嫌を露わにする。しかし、首筋に感じるドラコのぷにゅぷにゅとした弾力の前に、マリーの頬は自然と持ちあがってしまう。


 このままではと思って離れようとするが、思いの他がっちりと抱き締められているせいで、振り払えない。というか、柔らかくて良い匂いに、振り払う気力をそがれてしまう。



(ち、ちくしょう……な、なんて柔らかいんだ! サララのジト目が気にならないぐらいに気持ちいいぜ……!)



 巨乳だけが持つ特有の柔らかさに、マリーの怒りは瞬く間に鎮火してしまった。おまけにドラコの可愛らしい鳴き声まで聞こえる始末……もはや、マリーは抵抗する術を失っていた。



「……お前ら、俺がこういうのは嫌いだと知っているだろ? なんでそれを知っているうえでこんなことするんだ?」



 しかし、何も言わないというわけにはいかない。怒りを精一杯に振り絞ってサララたちを睨むが……返って来たのは、イシュタリアたちのため息であった。



「そうは言うが、お主はただでさえ回復が遅いからのう。これで万が一体調を崩されたら、迷惑を被るのはこっちじゃぞ」

「マリーは体力無いし、倒れたら戦力低下どころの話じゃなくなるし……というか、何かあるとサララが色々と怖くなるから……」

「ただでさえ細い体だ。今後負傷する可能性もある以上、わざわざ血を流す必要は無いし、その余裕もお前には無いだろう」



 ボロクソである。それはもう、ボロクソ。これ以上ないぐらいの、駄目出しである。



 ……あんまりと言えば、あんまりな三人の言い分に、マリーは奥歯を噛み締めた。


 しかし、否定できないだけの理由がマリーには有る。言い返すことなど、出来るはずもない。マリー自身、それには自覚があった。



(く、悔しい……言い返せない程度に当たっている分、余計に悔しい……!)



 魔力で身体能力を強化しているとはいえ、元が貧弱ボディだ。我ながら、子供と比べたら体力は有る方だ……と、思ってしまう辺り、現実というものを良く知っている。


 はっきり言ってしまえば、サララたちの言い分を何一つ否定出来ない。


 この中では最も回復が遅いのは事実だし、先ほどの化け物の件もある。この中では一番体重が軽いマリーは出血を避けるべきという意見も、理解出来なくはない。


 ……とはいえ、だ。


 だからといって、マリーも素直に納得は出来ない。そして、その感情が顔に出ていたのだろう。そっとマリーの手を握ったサララが、「――大丈夫だよ」とマリーの手にキスをした。



「私がマリーの分まで注ぐから……!」

「いや、俺としてはそれが一番嫌なんだけど」



 決意に目を輝かせているサララの言葉を、マリーは一刀両断した。「えっ?」と首を傾げるサララに、マリーは深々と……それはもう深々とため息を吐いた。



「そりゃあ、さあ。俺もサララも探究者だし、怪我なんて当たり前のことだ。それについては俺もどうこう言うつもりはない……だけども」



 グッと、マリーはサララに顔を近づけた。大きく見開かれたサララの目が、驚いたように瞬いていた。



「だからといって、傷つかないでいてほしいと思わないわけじゃない。俺はけっこうサララのこと……気に入っているんだぞ」



 ……沈黙が、マリーたちの間を包み込んだ。


 呆然と佇むサララに、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべるイシュタリアとナタリアの視線が注がれる。遠くから様子を見ていた源も、ほんの僅かではあるが唇が吊り上っていた。


 少しばかり顔を赤らめるかぐちと、気まずそうにそっぽを向くバルドク。そして「……ここで交尾は止めておくべきだと思うぞ」というドラコの斜め上な発言。


 たっぷり、一分ほど後。それらによって、ようやく我に返ったサララは……くにゃりと、表情を蕩けさせた。



「分かった」

「ああ、そうしてくれ」

「これを使って注ぐのは止める」

「そうだな……んん、これを?」



 持っていたナイフを、サララはかぐちへと手渡す。何をするつもりなのかと首を傾げるマリーを他所に、サララは鉄箱を跨いでから再び鉄箱から降りる。次いで、腹部に手を当てたかと思ったら、大きく深呼吸を始めた。



 ……本当に何をするつもりなのだろうか?



「何をするつもりだ?」

「私には、肌を傷つけなくても血を出す手段が一つある」


 マリーが尋ねると、返って来た答えは、それであった。マリーはもちろん、「……謎掛けか?」と首を傾げるバルドクや、離れた所で成り行きを見ている源も、訳が分からないと顎に手を当てて思案顔になっていた。



「……まさか、その血を出す手段というのは」

「多分、あなたの頭の中に浮かんだ答えで合っている」



 ……しかし、イシュタリアとかぐちは答えに思い至ったのだろう。「い、いや、しかし、確かお主のアレは半月前に終わった覚えがあるのじゃが……」恐る恐る声を掛けたイシュタリアに……サララは、はっきりと答えた。



「マリーの為なら、周期を早めるぐらいは余裕」

「お、おう……」



 力強いサララの言葉に、イシュタリアとかぐちは一様に顔を引き攣らせた。


 ……その表情ときたら、マリーですら思わず声を掛けるのを躊躇ってしまうぐらいであった。


 そして、そんな不思議な空気を作り出したサララは、ごくマイペースに「準備は整った……!」軽く頷くと、マリーたち……正確に言えば、この場に居る男たちへと振り返った。



「これから血を注ぐから、私が良いと言うまで、私の方を見ないようにしてほしい」

「……? ああ、わかった」

「後、少し離れて欲しい」

「……あいよ」



 頭上に大量の疑問符を飛ばしまくっているマリーたちは、言われるがままサララから背を向けて、少しばかり距離を開ける。


 当然のことながら、監視員である源もそれに付き従う。さすがの彼も、仕事とはいえ見て良い場面ではない事を察したようだ。



 そして、そのまま待つこと十数秒程。



 ゴソゴソ……と。何かをしている気配と音が聞こえてきた。マリーたちは、黙ってサララの作業が終わるのを待つしかなかった。



「おおう、本当に周期を早めるとは……む、むむ、ぉおお!? なんか物凄い勢いで明るく……おお、黄金のように輝き始めたのじゃ!」

「す、凄いわ……たったこれだけの量でここまで変化するなんて……!」



 待つしか、なかった。







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