第十一話: 歴史が噛み合う時
……あれからイシュタリアは、たっぷり一時間以上も泣き続けた。
そして、嗚咽が聞こえなくなってから30分が過ぎた頃……ようやく、イシュタリアはマリーの胸元から身体を離した。
イシュタリアの姿は……はっきり言って、酷い有様であった。
目の周りは涙で濡れそぼり、鼻水は垂れ、口元は噛み締めた唇の間から涎が滲んでいる。
おまけに足元からは鮮血の鉄臭さが漂い、黄金色の液体のソレと混ざり合って何とも言えない異臭を漂わせている……沈黙が、辺りを包んでいた。
そんな中でイシュタリアは、ぐしぐしと両手で涙をぬぐっている。その姿こそ可愛らしいものの、100年の恋も冷めそうな光景であった。
……涙よりも先にすることがあるだろう。
幸いにもマリーの口から、その言葉が出るようなことはなかった。
「……着替え、いる?」
ぽつりと、サララが呟く。その声にマリーが振り返れば、『ドレス』を抱えたサララが、べっとりと真っ赤に汚れたマリーのドレスを指差した。
言われて、マリーは視線を下げ……うぇ、と眉根をしかめる。
鮮血……というか、まあ経血だろうそれが、ドレスの縁から滴り落ちている。薄々気づいてはいたが、まさかここまでとは……ため息と共にマリーがドレスを脱ぎ捨てた。
手渡された濡れタオルを片手に、肌に張り付いた経血を拭い取る。次いで、『フレッシュ・タオル』で薄らと残った血の痕も取り除く。
いそいそと血で汚れた『ドレス』を片付けているサララを横目にしながら、マリーも着替え終える。
そうして、ようやく気を落ち着けたイシュタリアに連れられて、部屋の隅に一時避難となった辺りで……ほう、と全員が疲れた溜息を吐いた。
「――情けないところを見せてしまったのう」
改めて顔を見合わせてから、開口一番。頬を染めたイシュタリアは、気恥ずかしそうに二人に……特に、マリーに対して深々と頭を下げた。
さすがに、自らの血で……それも、よりによって経血で汚してしまったことに羞恥を隠しきれないようで、二人の視線から逃れるように手をもじもじさせてそっぽを向いている。
そこを気にするよりも前に、まず己の恰好に気を向けるべきなのは……まあ、彼女らしいというか何というか。
呆然とその姿を見つめている二人を他所に、今更ながら周囲を見回していたイシュタリアの視線が……柱の傍で横たわっている金属の塊で止まった。
――途端、イシュタリアは駆け出した。
唐突なその行動に面食らうマリーたちを前に、塊に駆け寄って膝をついたイシュタリアは……そっと、その塊を撫でる。
手が汚れ、濡れた身体に砂埃が張り付くのを構わず……イシュタリアは、順々にそれらを撫で摩り始めた。
……金属のそれらは、何の反応も見せなかった。
それは、別段不思議なことではなかった。何せ、塊に降り積もった砂埃の量は1年2年のものではなく、軽く見ても数十年以上だろうか。
傷こそ見当たらないものの、動かなくなってから相当な年月が過ぎていることが分かる。
また、埃を被っているのは、何もそれだけではない。イシュタリアを中心にして動きを止めている黒球体たちにしても、そうだ。
良く見れば横たわるソレよりも分厚い砂埃を纏っており、動かなくなってからの年月がソレ以上なのがうかがい知れる。
いったい、どれだけの年月を……どれぐらい前から、ダンジョンの中でこうなっていたのだろうか。イシュタリアの背中を見つめながら、二人は思う。
そして何故、イシュタリアはここに居たのだろうか。
そのことを、二人は思う。単純に考えればイシュタリアが姿を消してからこれまでの年月だろうが……おそらく、そうではないだろう。
きっと、イシュタリアにも何かが起こっていたのだろう。そう、二人は思う。
けれども、マリーがそうであったように、サララがそうであったように、イシュタリアもそうだった……ただ、それだけのこと。
だから、今は待とう。
一人に……いや、彼女と彼らだけにしてあげよう。彼女たちの語らいを邪魔するのは、無粋というやつだろう。
そう判断したマリーとサララは、無言のままにイシュタリアたちから離れ、『出口』の傍に静かに腰を下ろす。次いで、ビッグ・ポケットから甘味をまとめた袋を取り出すと、それを広げる。
彼女の気が済むまで、彼女が今を受け入れるまで、彼女が立ち上がるまで……マリーとサララは飴玉を口の中で転がしながら、黙ってイシュタリアの背中を見つめ続けた。
……。
……。
…………イシュタリアから放たれる気配が変わったのは、二人が思っていたよりもずっと早かった。
「――ありがとう、二人とも。もう、いいのじゃ」
それは、ちょうど二人が5個めの飴をゆっくりと食べ終えた頃。
不意にそう呟いたイシュタリアは、立ち上がってマリーたちへと振り返る。その顔にはもう、涙の跡も悲しみの色も残っていなかった。
「もう、いいのか?」
「もう、よい」
――まだ、いいんだぜ。
そう言外に含ませたマリーの気遣いを、イシュタリアは笑みを持って返した。
「別れは既に済ませていたからのう……いつまでも過去に浸っているわけにもいくまい」
そう言ってほほ笑むイシュタリアの姿に、マリーとサララは互いに顔を見合わせて……一つ、笑みを浮かべた。
「――一つ聞いていいかのう」
それを見てイシュタリアは一瞬ばかり息を呑んだ後、不思議そうに首を傾げた。
「……お主ら、私が離れておる間に何かあったのかのう?」
「え?」
何を唐突に……そう目を瞬かせる二人を見て、「ほれ、それじゃ、それ」イシュタリアは二人の鼻先に指を突き付けた。
「何というか、雰囲気が違うのじゃ。こう、お主らの間にわだかまっていた遠慮というか何というか、そういうのが無くなっておるように見えるのじゃが……」
そう言われて、マリーとサララは改めて互いに顔を見合わせ……フッと、笑みを零した。
その瞬間――イシュタリアは己の鼓動がひと際強く高鳴ったのを知覚し……ああ、と声なき声が零れた。
(――そうか、もう二人は……)
イシュタリアは、改めて理解し、見せつけられた。
無意識の内に求めていた彼はマリーではなく、マリーは彼ではないということに。
姿かたちは同じでも、二人は全く別の存在であることを……イシュタリアはこの瞬間、はっきりと受け入れた。
それは、言葉ではなかった。
けれども、イシュタリアは即座に理解する。
他の誰よりも長く生き、『アルテシア』としての過去が……言われなくとも、その答えを導き出していた。
……気づけば、イシュタリアは静かに目を閉じている己を自覚する。
高鳴った鼓動は、もう静かになっている。不思議なほどに落ち着いていた己を、イシュタリアはどこか他人のように感じていた。
脳裏によみがえるのは、忌まわしき過去の記憶。
けれどもそれは、月光のように己が心を照らし、数百年を超える時の中でも色あせない確かな思い出。捻じ曲がった狂気だとしても、化け物でしかない己に愛情を注いでくれた……そんな者たちとの日々。
それらが次から次へと、脳裏に浮かんではどこかへ消えていく。次々と、次々に、次々へ……フィルムのように切り替わる。
それら一つ一つの中に紛れる、イシュタリアが心から欲したただ一つの存在。
その彼との短くも大切であった日々を思い浮かべ……一つ、ため息を零した。
「あい、分かった。二人の間に何があったかは聞かぬ……じゃが、二つだけ、聞きたいことがあるのじゃ」
辺りを見回し……ジッと、二人を見つめた後、気まずそうに視線を逸らした。
「ドラコと、その……ナタリアはどうしたのじゃ?」
「ドラコは……途中で別れた。ナタリアは、まだ会っていない」
――瞬間、イシュタリアの目が大きく見開かれる。
「勘違いするな、死んだわけじゃねえぞ」
けれども、続けられたマリーの説明に、ほう、とため息を零して安堵した。
「決着をつける、だそうだ」
「……そうか。それでは、その……ナタリアは?」
「……あいにく、まだ会っていない。だが、お前は手を出すな。やつは、俺を待っているのだからな」
イシュタリアの質問に、マリーはそれ以上のことをはっきり答えなかった。「……そうか」けれども、それだけでイシュタリアには十分だった。
……沈黙が、流れた。
しばしして、その沈黙を破ったのはイシュタリアの方からであった
「……とりあえずは、ココを出るとするかのう」
声の調子は、元に戻っていた。イシュタリアの言葉に、顔を引き締めたマリーがサララへと振り返る。
力強く頷くサララ……それを見てからイシュタリアは、おもむろに……床に広がっていた黄金色の液体に目を向けた。
――途端、しゅるる、と黄金色の液体は浮上した。
驚きに飛び退く二人を他所に、「大丈夫じゃ、噛みつきはせぬ」イシュタリアはちょいちょいと手招きをした。
すると液体は、まるで意志を持っているかのようにイシュタリアの身体に纏わりつく。
それに合わせてスーッと色が変わり、形状が変化し、質量すらも小さくなり……あっという間に、黄金色の液体は黒いドレスへと姿を変え、イシュタリアの身体を包み込んでいた。
……いったい、何が起こったのだろうか。
呆然と変化を見つめていた二人の視線が、マントとイシュタリアを交互に行き来する。「……ん? これか?」ソレを見て、イシュタリアは首を傾げながらドレスの裾をひらめかせ……ああ、と頬を緩めた。
「私の……母親からの贈り物じゃ。正式名称は『PSX・001』というてな……まあ、便利じゃぞ」
それだけを一方的に告げると、「ここは彼らが眠る棺桶の中。ゆっくりと眠らせてやるのじゃ」そう言ってイシュタリアは歩き出す。
「――案内するのじゃ、この場所の最深部……『オドム』へと続く、この場所唯一の『入口』へな」
すると、イシュタリアは唐突にそれを告げた。
思わず目を見開く二人をしり目に、イシュタリアは言葉を続けた。
「お主らの目的も、もう分かっておる。どうやら奴は、そういう意図もあったようじゃな」
「え、案内って……ちょ、待ちなさいよ!」
「いいから、着いてくるのじゃ」
その背中を、遅れて我に返った二人が慌てて追いかける。
サララが少し怒りながら尋ねるが、「そのかわりと言っては何じゃが……」イシュタリアに全く堪えた様子はなかった。
「終着まで、お主らには年寄りの懺悔に付き合ってほしいのじゃ」
透き通った微笑みを浮かべながら、イシュタリアははっきりと告げた。
……。
……。
…………それから、約二時間強。イシュタリアは、マリーは、サララは、歩き続けた。延々と、延々と、延々と、終わりのない、変化のない景色の中を、ひたすらに歩き続けた。
イシュタリア曰く、本来は移動する為の乗り物を使って移動するのを前提に作られているらしい。
なので、乗り物無しの徒歩ならば、最短ルートを通ったとしても半日以上の時間を必要とする。そう、イシュタリアが説明したのは……出発して、すぐの事。
……そんな時であった。ポツリポツリと、イシュタリアが、語り始めたのは。
最初にイシュタリアが語ったのは、この場所……『フロンティア』についてであった。
朽ち果てたこの地が、いったいどういう場所なのか。どういう目的で製造され、どのような人間が居て、何をしていたのかを、イシュタリアは一つ一つゆっくりと語り始めた。
……イシュタリアは、語り続けた。
滅びから免れようともがく、人間の死にもの狂いの抗いが産んだ狂気の産物。そこで行われたこと、そこで産み落とされたもの、人の暗部とも言うべき歪み淀んだ全てを吐き出し続ける。
イシュタリアは、語り続けた。
それは、イシュタリア自身のことも例外ではなかった。けれども、イシュタリアは一切の誤魔化しせず、全てを語った。
自らが何者なのか、自らが生まれた理由と経緯、そして今まで何をしていたのかを……隠すことなく語った。
イシュタリアは、逃げなかった。
結果的にとはいえ、自らが犯した罪も、世界に惨禍を広めたのも、世界を破壊し尽くしたのも……自らが下した行為であると、はっきりと告げた。
イシュタリアは、語り続けた。
その原因が何なんなのかも、その原因を無かったことにする為に、凄まじい命令を『イヴ』に下し、数百、数千、数万、数えることすら億劫になる命を奪って利用したのだと……そして、それによってマリーをも殺しかけたことすらも、イシュタリアは語った。
それは――饒舌にし難いおぞましい歴史であり、結果であった。
あまりに惨たらしく、あまりに馬鹿馬鹿しく、あまりに情けない人類の歩み。他人が聞けば『イカれた妄想』で一笑されるであろうそれら……けれども、二人は否定しなかったし、遮るようなこともしなかった。
荒唐無稽な話だとは、二人とも思わなかった。マリーは当然のこと、サララだってここに来るまで色々な光景を目にし、体験してきたのだ。
悪夢のような現実だって、夢物語のような現実だって、真正面からぶつかってここまで来た。
だから、マリーも、サララも、イシュタリアの言葉に耳を澄ませた。
マリーはイシュタリアに怒りを見せることも罵詈雑言をぶつけることもなく、サララも、けしてイシュタリアに怒りを向けなかった。
だからこそ、イシュタリアは語り続けた。
淡々と、ともすれば眠気すら覚える調子で静々と語り部に徹し、時に上がるどちらかの問いかけに、イシュタリアは答え続けた。けして、はぐらかしたりはしなかった
「結局、『あるてしあ』とは、いったい何なの?」
「『アルテシア』とは、すなわち『次世代の人間』のことなのじゃ。私……『アルテシア』を作り出した彼らは、滅びに導いた元凶を『種としての人間の限界』だと考えたのじゃ」
「『人間の限界』?」
「未熟だから人は争う。未熟だから死を恐れる。未熟だから滅びを免れない。けれども、既に人間としての種は進化の果てを迎えており、これ以上の成長は望めない……そう考えた彼らは、新しい人類を作ることを決めた。それが、『次世代の人間』なのじゃ」
「『次世代の人間』って、つまり何だ?」
「言うなれば、『旧世代の人間が持つ弱点を克服した人類』のことじゃ。老わず、死なず、衰えず、永劫的に存在し続ける。すなわち、『神』を作ろうとしたのじゃ」
「……作れたの?」
「作れるわけがなかろう。『神』は、不可侵だからこそ『神』なのじゃ。人の手で生み出した『神』なんぞ、もはや『神』ではない。人が産み落とせるのは、同じ人でしかないのじゃ。それに気づくことさえ出来たら……もしかしたら、私はまだ彼らと共に暮らしていたのかもしれんのう」
加えて、イシュタリアは言った。彼らは、欲を出したのだと。
未熟であると大多数を見下しながらも、人間が持つ欲望を何よりも剥き出しにしたのは、彼らに他ならないと、ため息と共に告げた。
旧人類を導く新しい人類を作り上げる。
そこまでなら、まだ良かった。だが、彼らはそこで止まらなかった。
口では崇高な使命を語りながらも、本音はその逆であることに、彼らは最後まで気づかなかったのだ。
次世代の人類に付き従い、世界を導こうとしたのではない。
次世代の人類を作り上げ、それを裏で操ろうとした。
つまり、彼らは人類救済をうたいながら……人類の頂点に立とうとしたのだ。
その本音から目を逸らし続けたから、彼らは失敗したのだと。
己が醜い欲望から目を逸らし続けたからこそ、彼らは失敗したのだと。
仮に後100年の時間があったとしても、彼らは辿り着けなかっただろう……憐れむように、イシュタリアはそう言った。
「人間としての矜持を捨て、生物としての矜持を捨て、鋼鉄の容器に自らを移し、それでもなお諦めきれずに伸ばした手が掴んだのは……紛い物の『神』。それが彼らの、いや、人の限界だったのかもしれんのう。彼らは、滅ぶべくして滅びたのじゃ」
そこまで語った辺りで、ようやくイシュタリアの唇からため息が零れた。それは、イシュタリアが語り始めてから初めてのことであった。
それを聞いて、ひと段落出来るだけのものを吐き出したのだということをおのずと理解したマリーとサララは、深々とため息を吐いて肩の力を抜いた……と。
「――っと、ちょっと立ち寄るのじゃ」
不意に、イシュタリアの足が止まった。一拍遅れて足を止めたマリーとサララが、そちらに目を向ける。開放されてある入口の向こうに見えるのは、十数程度の席がある、かなり大きい部屋であった。
……照明はこれまで通って来た通路と違って、どれも落とされている。
けれども、イシュタリアは光球を頭上に生み出すと、さっさと中に入ってしまった。
その後ろを、促されるがまま二人も続き……思わず、目を瞬かせた。
中に入って最初に目を引いたのは、二人を足してなお届かない……巨大な箱であった。
縦横4メートル、高さにして5メートル近いそれが連なる形の8列で、各列7台、部屋を横断するようにして鎮座している。
その前面は透明なガラスになっており、その中には……大小様々な形状の袋やら何やらが、これでもかと言わんばかりに押し込められていた。
「……何これ?」
「何って、そんなの決まっておるのじゃ」
ぽかん、とそれらを見つめていたサララに、イシュタリアは不思議そうに首を傾げた。
「どこからどう見ても冷蔵庫ではないか。ほれ、ガラスの向こうに氷が張っておるのが見えるはずじゃが」
「冷蔵庫って……え、これ、保冷庫なの!?」
言われて目を凝らせば、うっすらとガラスの向こう側に氷の結晶が見える。そこにあるのは大小様々な袋の数々で、良く見れば袋の表面に絵が入っているものが多く……食べ物だと見えなくもない。
「私にはよく分からないけど、ここに居た人たちって鉄の身体をしていたのよね?」
「正確には少し違うが、だいたいそう思っても構わぬ……それがどうしたのじゃ?」
「いや、だって、鉄の身体なのでしょ? 身体が鉄で出来ているのに、ご飯なんて食べる必要があるの?」
「必要はないのじゃ。しかし、人間とは不思議なものでな。自ら捨てたのに、それを忘れることが出来ないものなのじゃ」
「……よく分からないけど、美味しいものを食べたいってことでいいの?」
いまいち納得しきれないサララに、「そうじゃな、結局はそういうことじゃ!」イシュタリアはけらけらと笑い声をあげた。
(……そういえば、ルリのやつも生きている実感がどうとかで裸でいたっけな)
その後ろで、一人合点がいって意味深に頷くマリーの姿があったが……イシュタリアもサララも気づくことはなかった。
「……ところで、それって大丈夫なの? さすがに食べられないんじゃないの?」
「む、なるほど、最もな疑問じゃな。しかし、大丈夫じゃよ。まだ、予備電源が生きておるのじゃ」
そう述べるサララに、「仮にも文明の頂点に位置していたここの技術力を舐めるではないぞ」イシュタリアは笑みを浮かべると、ガラスに手を当てた。
――途端に、だ。
ガラスの表面に半透明の模様が浮かんだかと思ったら、部屋にある箱全てが光を放った。ガラスの向こうから放たれる光を浴びたイシュタリアは、特に驚いた様子も無く模様を指先で叩き始めた。
「ほれ、好きな物を言うのじゃ。あの時代では貴重過ぎて黄金なみに高値になった、評価トリプルAランクのものばかりじゃぞ」
「それって、凄いのか?」
「例えるなら、その袋一つ買うのに、私らが一ヵ月断食せねばならんぐらいの値段じゃぞ」
――二人の目が見開かれた。
「はあ!? マジかよ!?」
「大マジじゃよ。ほれ、何が欲しいのじゃ?」
そう言うと、イシュタリアはタタタと指先を躍らせる。
「おお! シャトーブリアンがあるではないか!」
喜色満面に指先をタップさせるその姿は、まるで年相応の子供のよう。
「――ていうか、イシュタリア! 私たちにはそんなことしている暇なんて――!」
少しして、我に返ったサララは声を荒げた……のだが。
――きゅるるる。
静まり返った部屋にて聞こえた、異音。「――っ!!」。思いのほか響いたそれに、マリーとイシュタリアの視線は自然と……発生源であるサララへと向けられた。
「…………」
サララは、無言であった。しかしその顔は、薄暗い室内でもはっきり分かるぐらいに真っ赤になっていて、腹に掌を宛がっている。
けれども、そんなサララの努力空しく、引き締まったサララの腹部は……きゅるるる、とまた空腹を訴えた。
……無言のままに、イシュタリアの指が、タタンとガラスを叩いた。その直後、模様の色が鮮やかな赤色に変わり……白い肌が、淡く照らされた。
箱の横に、亀裂が入った。と、同時に靄が零れ出した。
シューッ、と空気が抜ける音と共に、亀裂部分がせり出す。白い靄の中には……2つの袋と小瓶が納まっていた。
イシュタリアはそれらを手早く取り出して、机の上に置く。ペリペリと袋を開けるイシュタリアの後ろで、せり出した部分はシューッと音を立てながら引っ込み、ピタリと元の場所に収まった。
もうそれだけで、亀裂の跡すら判別出来なくなっていた。
「『シーフード』と『ナポリタン』じゃ。変なところで臆病なお主らには、それが一番丁度良いじゃろうて。あと、これはオレンジジュースじゃ……酒は、飲む気にはならんじゃろ」
言われて、マリーとサララの視線が机の上のそれに向けられる。袋の中身は紙で出来た皿に入れられた具が沢山のパスタであった。
……中は冷えているはずなのに、どうやったのだろうか。
気になる……が、ほわほわと湯気立つそれは空腹を訴える胃袋には強烈過ぎて、そうではなかったマリーの腹も音を立てさせる程であった。
……まあ、せっかく用意してくれたのだし、無下にするのも何だ。
互いに顔を見合わせた二人は、促されるがまま椅子に腰を下ろす。備え付けられたフォークで巻き取ると、恐る恐る……良い匂いのそれを、口の中に放り込んだ。
「マリー、サララ、私は、お主らが大好きじゃ」
「――ぶはぁ!?」
瞬間、マリーはもちろん、サララも全て吐き出した。
「――ひっひっひ」
イシュタリアの笑い声が響く中、致命傷レベルの不意打ちをまともに食らった二人は、部屋の外に響くまで大きく咳き込むと……イシュタリアをギロリと睨みつけた。
「二人だけではない。ここには居ないドラコも、私らを待っているナタリアも、地上で館を守っているマリアたちも、もう会うことはない我が友人たちも皆、私は心から愛しておる。愛おしくて、堪らぬのじゃ」
けれども、いつの間にか笑みを引っ込めていたイシュタリアの前には、何の意味もなかった。
頬杖をついて二人を見つめるその顔にはそれどころか、まるで母親を思い起こさせる優しい瞳があって……怒る気力も自然と失せた。
「好きに選ぶがよい、マリー。お主には、その権利があるのじゃ」
「私はお主を恨まぬ。サララも、お主を恨まぬ」
「だから、己の心に目を向けろ」
「世界の全てがお主の敵に回ったとしても」
「お前に笑顔を向けていた者たちが憎悪の目を向けたとしても」
「私と、サララだけは、最後までお主の味方じゃ」
「この命潰えるその時まで、私らはお主の傍におる」
「だから、他の誰かになどとは考えるな」
「お主の未来は、お主が決めることなのじゃ」
「お主の世界は、お主が選び取るものなのじゃ」
その言葉は、けして大きい声ではなかった。
けれども、痛みすら覚える程に力強く、苦しさすら覚える程に胸に響いた。
「……私が言いたいのは、それだけじゃ。後は、お主が決めることじゃぞ」
そこまで言うと、イシュタリアは笑みを浮かべながら席を立った。「さーて、何にしようかのう」そして、今しがたの言葉など無かったかのように朗らかな声をあげながら離れて行き……箱の向こうへと姿を消してしまった。
……。
……。
…………その間、マリーは何も言えなかった。ただ、呆然とイシュタリアが消えた辺りを見つめるしか出来なかった。
「――っ、サララ?」
握り締めた拳を摩るサララの温もりに気づくまで、おおよそ……マリーの頭から時間の感覚が無くなっていた。
サララは、何も言わなかった。ただ黙って、マリーの目を見つめていた。
目を逸らすことなく、ただ、静かにマリーのことを見つめていた。
……だから、なのだろうか。その瞬間、マリーは涙が零れそうになったのは。
零れなかったのは、反射的に堪えたから。気づけばマリーは、こみ上げてくる感情が何なのかを理解するよりも前に、そっとサララに顔を近づける。
サララも、それが分かっていたかのように静かに目を閉じ、邪魔をしない程度におとがいをあげて――。
「ああ、一つ言い忘れておったのじゃ」
――背後から掛けられた声に、二人は声なき悲鳴をあげた。
驚きのあまり飛び退くサララを見やり、「おまっ――」噴き出した怒りのあまりにマリーは振り返った――その瞬間、マリーの視界が、イシュタリアの顔で埋まった。
「――っ!?」
避ける間もなかった。
唇に触れる湿り気と、口内をかき回す生暖かい味。ふっ、ふっ、と頬に当たる鼻息と、コツコツとぶつかる歯の衝撃。背後で感じる、サララの声なき驚愕。
情熱的なキス……それをマリーが理解するよりも前に、イシュタリアの唇はするりと離れていた。ツーッと透明な橋が伸びて、途切れた。
完全に思考停止に陥ったマリーを他所に、「んー、久方ぶりの接吻は格別に甘いのう」満足気に己の唇を舐めたイシュタリアは満面の笑みを浮かべると……たん、と床を蹴って、今度こそはこの向こうへと駆けて行った。
「…………」
呆然と、その消えた後ろ姿を見つめるマリー……の視界に、影が下りる。
それが、ほんの僅かにマリーの意識を浮上させた……が、直後に触れたサララの唇が、残っていた意識を根こそぎ吸い取ってしまった。
……。
……。
…………3人とも、分かっていた。これは、日常の再現なのだということが。
楽しかった、幸福であった日常の一時を演じているだけだということが。
なんて空しい行為なのだろう。なんて、女々しい行為なのだろう。
けれども、3人はそうせざるを得なかった。
そうしてしまう己を、抑えられなかった。
かつてのようにイシュタリアがちょっかいを仕掛け、サララが不機嫌になり、マリーが宥める。
そんな、涙が出る程に楽しくて懐かしい時を演じながら、三人は進む。ただひたすらに、地下へと向かう。
イシュタリアは、あれから何も語ることはなかった。己の役目は終わったのだと言いたげに、己が不在の内に起こったこと、それら全てに触れるようなことをしなかった。
サララは、時期が来たときには話すというマリーの言葉を信じ、あえて尋ねようとはしなかった。ただ、静かに……マリーの口から語られる時を待ち続けた。
そしてマリーは……何も、語らなかった。
サララから向けられる期待の眼差しも、イシュタリアから向けられる意味深な眼差しも、分かっていて気づかないフリをし続けた。
3人の思惑が混ざり合う。その中で、3人は進む。
朽ち果てた機械文明の中を、時折呟かれるイシュタリアの説明に耳を傾けながら……そして、ついに彼らは到着した。
『フロンティア』の最深部に当たる場所。『ダンジョン』の奥へと続く道。
マリー曰く、『オドムへと続く道』。
イシュタリア曰く、『イヴから教えられた道』。
本来は『ダンジョン』のもっと奥深くに行かなければ確認することすら出来ないはずの入口。
『星の皮膜』
そう、マリーが呼んだ『最下層への入口』の前に……ついに、マリーとサララは辿り着いたのであった。
現在、地下?階(フロンティア最深部)。
マリー :万全常態(覚醒済)
サララ :万全常態
イシュタリア:傍観者
『鬼人』と『聖女』の最終到達階:地下54階(非公式)
『オドム』が居る場所まで、後――。
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