第三十五話: 廻り回って灯台下暗し
――極寒の世界へと繋がっていた道が、閉ざされていた。
言葉にすれば、たったそれだけのこと。しかし、後日確認しに行った時のマリーの驚きときたら、とてもではないが言葉に出来ないものであった。
まるで、通路全てを隙間なく土で塞いだかのように。
まるで、初めからそんな通路など無かったかのように。
九丈の亡骸へと続く階段は『壁』へと変わり果てていた。
疑問が湧きあがったのは当然であった。しかし、そんなことに何時までもこだわっている場合でないことを思いだし、マリーたちは地上への出口を探すことを優先した。
今更そんなことを気にするのも……という気持ちもあった。
ただでさえ考えれば考える程疑問しか湧いてこないこの場所……道が一つ無くなった程度で、何時までも悩んではいられなかった。
そう思ってさっさと切り替えたマリーたちは、その翌日から地上への出口を探し始める……とはいえ、手がかりも何もないのだ。
マリーたちも、最悪の事態を覚悟していたのだが……希望は、思いのほかあっさり見つかった。
――地上へと、帰れるかもしれない。
その希望が見つかったのは、『祭壇』を正面から見て右側の通路。斑たち曰く、『何も無い、行き止まりだったはず』と言われていたその先にあった、ある装置の存在。それが、マリーたちに残された希望であった。
――そんな、前に来たときはそんなもの無かったのに!?
そう言って驚きに目を見開く斑たちを他所に、マリーたちはその装置を使うことを決意する。
……が、それをするには、当のマリーがダメージを負い過ぎた。
なので、マリーがある程度動けるようになるまで、マリーたちは『地下街』での滞在を余儀なくされる事となった。
……。
……。
…………マリーたちが寝泊まりしている屋敷の中庭は、外からは見えない作りとなっている。
普段は屋敷の住人たちの洗濯物が干されているそこで、大きなタライに浸した洗濯物を前に、サララは鼻歌を歌いながら手を動かしていた。
……辺りは、とても静かであった。
いや、『地下街』自体が静かな場所であるし、サララの鼻歌がBGMとして鳴っているのだが、それを差し引いても静かである。
そんな中で、シャツに半ズボンだけという非常にラフな格好になったサララは、ふんふんとご機嫌な様子であった。
「…………」
その2メートル程後方の縁側にて、抱えた膝に顔を埋めているマリーの姿が有った。入浴でもするのか、あるいはした後なのか、マリーはほとんど裸であった。
下腹部から股を覆うようにして巻きつけてられた布以外、何も身に纏ってはいなかった。
「…………」
膝に顔を埋めたまま、三角座りを続けるマリー。銀白色の髪から飛び出した耳が、熟れたトマトのように真っ赤になっている。見た目の美しさも相まって、その身からはあまりに儚げな気配が漂っていた。
しかし、そんな様子のマリーが傍にいながら、珍しくサララは気にした様子を見せなかった。
まるで、マリーのことなど気にも留めていないかのように作業に没頭しており、鼻歌を歌いながらも、その目はあくまで真剣であった。
パシャパシャと気持ちの良い水飛沫に混じって、サララの鼻歌が中庭に響く。手慣れた様子で揉み洗いを続けていたサララは、ソレを軽く絞りながら眼前に広げる。
計5枚の洗濯物を順々に確認し終えて、うん、と満足げに頷くと同時に、ふわりと風がサララの横顔をくすぐった。
「――終わったか?」
ふわりと、屋敷を囲う壁を飛び越えてドラコが中庭に降り立った。その手抱えたカゴには、今しがたサララが洗っていたのと同じ物が四枚。
普通のタオルの三倍近い長さのそれを、サララが洗ったそれと交換すると、再び壁を飛び越えて『地下街』の空を舞った。
「……加減が難しいけど炎だけあって、やっぱり乾かすのが早い」
屋敷から少し離れた場所にある広場へと、あっという間に飛び去って行くドラコを見つめる。その姿が静かに高度を下げたのを見送ったサララは、さてと、とマリーの傍へと戻った。
「ドラコから四枚ほど乾いたやつが届いたよ」
ピクリ、とマリーの肩が震えた。ぎゅう、と抱えた膝ごと身体を縮こませるマリーに、サララは……慈愛の籠った眼差しを向ける。
マリーの隣にタオルを置くと、縮こまった身体をサララは……そっと抱きしめた。
「大丈夫、恥ずかしい事じゃない。私も、マリーも、いずれは自分か、誰かの世話になる。私は、マリーのお世話が出来て……とても嬉しい」
「…………」
「イシュタリアたちは斑さんたちにお願いされて、瓦礫と家屋の撤去作業。源さんたちは、無憎さんと一緒に『地下街』の至る所に散らばっている亡骸の撤去作業……必然的に、私がマリーの世話をする。これは、誰の命令でもなければ、消去法でもない。皆とのじゃんけんを勝利した私が、自分から望んだこと」
「…………」
「だから、マリーは気にしなくていい。今はただ、身体が良くなるまで身をゆだねていてほしい……大丈夫、誰もマリーを笑う人なんていないから」
「……あのさあ」
ポツリと呟かれたマリーの声に、サララはそっと耳を澄ます。耳よりも赤く染まった顔を膝の間からゆっくりと起こしたマリーは、こみ上げてくる羞恥心の根本を告げた。
「自分のウンコで汚してしまったタオルを洗われるのは、さすがの俺も辛いんだけど……」
自分で言った直後、羞恥心に耐えきれなくなったのだろう。
さらに紅潮した顔を両手で隠すと、そのまま膝に顔を埋めてしまった……そう、マリーが膝を抱える原因は、ソレであった。
――あれから、十六日。
九丈の計画がマリーたちの手によって打ち砕かれてから、それだけの時間が流れた。
それは、九丈とその手下たちによって隠されていた様々な問題を確認し終えるまでに掛かった時間でもあった。
『地下街』の代表兼年長者となる斑、焔、無憎の三人は、一息つく間もなく様々な問題の発見に追われることとなった。
九条たちの魔の手から幸運にも逃れられ、幽閉されていた住人たちの確認と保護を皮切りに、目が回るような忙しさが幕を開けた。
アジトに保管されていた大量の薬の確保、『地下街』の至る所に放置された亡骸の埋葬、マリーたちの逃走劇によって破壊された家屋の撤去と修理……とてもではないが、たった十数日でどうにか出来る問題では無かった。
しかしながら、不幸中の幸いと言うべきか、大勢の住人がいなくなったことに対する混乱は起きなかった。
当初の内は複雑な視線がマリーたちへと向けられはしたが、とにかく、暴動が起きるようなことも無く、『地下街』の平穏は続いていた。
……ただ一つ、悲しみと羞恥心に悶える日々を送る、マリーを除いて。
「そろそろ自分で汚したやつを洗えるぐらいには良くなりましたよ、俺」
ポツリと呟かれたその一言。あまりにも実感の籠ったそれは、切実な願いであった。
「まだ駄目。下手にお腹に力を入れたら漏れちゃう……その座り方だって、一昨日になってようやく出来る様になったのだから」
しかし、サララは一言で切り捨てる。普段ならすべて言い切る前に首を縦に振っているマリーの懇願を、サララは苦笑と共に首を横に振った。
「イシュタリアも言っていたでしょ。大怪我を治した後は、しばらく違和感とかが残るって……排泄の感覚が薄くなったのも、アレの後遺症と思ったら仕方がないよ」
アレとは言うまでもなく、九丈との戦闘にて行われたナタリアとの行為である。
イシュタリアたちの迅速な治療によって、傷自体は痕すら残らず完治したが、後遺症とも言うべきものがマリーの身体に残っていた。
その後遺症とはずばり、排泄感覚の消失である。
現在、マリーは排泄感覚が薄く、また鈍くなっている。気付いたら漏らしているというどころか、当初は垂れ流しと言ってもいい状態であった。
……その前の時には、そんな後遺症は残らなかったのに、なぜ今回はそれが残ったのか。
イシュタリア曰く、『今回は裂傷している時間が前よりも長かったら』、というのが最も可能性の高い原因らしい。
詳しく述べるならば、『数分間とはいえ完全に肛門が破壊された状態が維持されてしまったので、頭の方が、使い物にならなくなっていると誤認識しているのかもしれない』、だとか。
そのおかげで、真っ赤な顔を両手で隠しているマリーの姿と、心なしか誇らしげに汚れたマリーの下半身を綺麗にするサララの姿が見受けられるようになったが……それを知っているのは、ごく一部の人達だけである。
「なんでそこまで恥ずかしがるの? 無理やりだったとはいえ、もっと見られたくないところを私たちに見せちゃったのに……」
心底不思議そうに首を傾げるサララに、マリーは顔を埋めたまま身じろぎした。
「方向性が違うんだ。致しているところを見られるのと、自分の排泄で汚れた物を目の前で処理されるのは、恥ずかしさの種類が違うんだ。あっちは我慢出来るが、こっちは駄目だ」
……布団の中で肌を合わせた仲なのに。
その言葉を寸でのところで呑み込んだサララは、「それでも駄目。マリーの今の仕事は自分の身体を治すこと」きっぱりお願いを断ると、マリーの隣に腰を下ろしてタオルを手早く畳み始める。
「た、垂れ流し状態から少しは我慢出来るようになったんだが……」
「出してから初めて、出した、って分かる程度にしか回復していないんだから、安心は出来ない。大丈夫、それを笑うやつがいたら私が叩き切ってやるから」
「そう言われても、サララのような年頃の女の子に洗われるのは色々な意味で消え去りたくなるんだが……」
「仕方がない。今のマリーはお腹に力を入れると漏れちゃうから……しばらくは我慢、我慢、だよ」
優しく、サララはマリーの頭を撫でる。撫でられたマリーは、それを黙って受け入れる。
普段とは逆の光景は、「マリーさん、少しばかりお時間はありますか?」斑がマリーを訪ねてくるまで続いた。
子供特有の甲高い話し声が、至る所から響いている。周囲を囲うようにして散らばっている亜人の子供たちを、焔は黙って見つめる。
しばしの間、感極まったかのように目じりを何度か拭った後……隣に座っていたマリーへ深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、マリーさん。本来ならお願いしてはならない立場なのに、無理を承諾していただいて……」
「ああ、いや、気にするな。頑張るのは俺じゃなくてドラコだ」
頻りに頭を下げる焔にマリーが苦笑して、マリーの隣に居るサララも苦笑する。焔の隣で疑問符を浮かべた子供が見様見まねで頭を下げたのを見て、さらにマリーは苦笑を深めた。
(それにしても……まさか、こういうことになるとはなあ)
自分たちと同じように座っている多種多様の子供たちを、眺める。
下は一桁前半の背格好から、上は十代前半ぐらいの背格好まで。共通しているのは亜人ということと、着ている衣服が質素なものであるということだけ。
最も年長な者たちですら、まだまだ子供の域である彼ら彼女らを見やったマリーは、深々とため息を吐いた。憂鬱な気分になってしまうのを、誤魔化せられなかった。
(九丈の犠牲になったのは、『地下街』の大人たち全員と、子供たち全体の3分の2に当たる数と、『ツェドラ』に隔離されていたあいつらか。こりゃあ、前途多難だな)
それが、ため息の原因であった。
(生き残ったのは初潮も精通も迎えていない子供だけか……食料等に関しては心配ないらしいが、なかなか厳しい未来が待っていそうだ)
なぜ、九丈は抵抗しにくい子供たちではなく大人たちを中心に薬を使ったのか、それはマリーたちには分からない。
子供たちが戦いのあった通りから最も離れた場所にある建物に避難させられていた辺り、後で利用するつもりだったのかもしれない……という予想を立てることは出来るが――。
「……マリー、笑顔、笑顔」
――こつん、とサララから脇腹を突かれて、マリーは顔をあげる。
見れば、こちらを見つめる幼子たちが不安そうに目じりを下げている。慌てて満面の笑みを作ると、子供たちは安心したかのように笑顔を浮かべた。
「一番不安を感じているのは、あのぐらいの子供たち。まだ、自分の親がどういうことになったのかをはっきりと認識出来ていない子もいる……薄々は感じ取っているようだけども」
そう言いながら、自然体のままにサララは満面の笑みを幼子たちに向ける。
普段の澄ました顔からは想像も出来ない、柔らかな笑み。それを見た幾人かの幼子が、気恥ずかしそうにサララの傍に歩み寄ってきた。
「どうしたの?」
何かを言われる前に、サララがスッと手を差し伸べる。それが、良いのだろう。
モジモジと気恥ずかしそうに指を絡ませている犬顔の少女は、垂れた耳をぱたん、と動かすと、「あ、あのね」、と話を切り出した。
「お姉ちゃん、もうすぐ帰っちゃうんでしょ?」
ピクリと、サララとマリーの動きが止まった。
いち早く復帰を果たしたサララは、少しばかり困ったように首を傾げた後……穏やかな笑みで、少女の質問に頷いた。
「――いちおうは、ね。もしかしたら、また戻ってくることになるかもしれないけど、これが終わったら帰る予定だよ」
まだ、帰られると決まったわけじゃねえんだけどなあ。
吐きそうになったため息を呑みこむマリーを他所に、犬顔の少女は言葉なく俯くと……おもむろに、頭を下げた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「……?」
とりあえず、サララは「――どういたしまして」と返事をする。次いで、困惑した。
「私、あなたに何かしたかしら?」
さすがに、見覚えのないお礼を前に笑顔を浮かべることは出来ない。
不思議そうに振り返ったサララにマリーも首を横に振ると、犬顔の少女は「ううん、私じゃないの」と、笑みを浮かべた。
「この前、弟から話を聞いたの。転んだところを助けてくれたんでしょ?」
「……ああ、あの子の?」
思い出せば、後は速かった。見る間に会話を弾ませ仲良くなっていくサララと犬顔の少女。
手慣れた様子で相手をするその姿に、マリーは何度目かとなる軽い驚きと共に、眼を瞬かせた。
「俺はずっと屋敷の中にいたから知らなかったが、サララってけっこう子供好きなんだな」
「好きってわけじゃない。ただ、私だって女だもの……子供の相手をするのは嫌いじゃないの」
笑顔のまま、サララは首を横に振った。言葉通り、まんざらでもないのだろう。
館の中では最年少であるサララの意外な一面は、ココに来なかったら見られなかったのかもしれない。
(そう思うと、今回の件はそう悪い事ばかりじゃなかったのかもしれないなあ……んん、いや、でも、どうだろうかねえ……)
ふと、周りに集まっている子供たちを見やる。
右を見れば少年たち、左を見れば少女たち、後ろを見れば幼子たち。
眼前に視線を戻せば、無憎の指示を受けて右往左往する少年少女の集団が目に留まった。
その中には、子供たちを手慣れた様子で誘導している源とテトラとドラコの三人の姿がある。
短い間だが、子供たちには随分と受け入れられたようで、三人を敵視している子供は見られない。
そこに、少しばかりの異常性を覚えているのは俺だけなのだろうか。子供たちの笑顔を盗み見しながら、マリーは思う。
(仕方がなかったとはいえ、俺たちがお前らの親を殺した。なのに、お前たちは俺らに……俺に、怒りをぶつけないのは何故なのやら)
助かった子供たちに共通する理由があるとすれば、だ。
子供たちの親は揃いも揃って、サララたちから、『親として見ていなかったのかもしれない』と言わしめるような育児放棄をしていた。
親から子供へ魔の手が伸びなかったのは、そういう理由なのかもしれない。
反対に、命を落とした者は大なり小なり親から大事にされ……溺愛の傾向にあったと、助かった子供たちが口を揃えて証言してくれた。
こっちは逆に、親がその『幸せ』を子にも分け与えようとした結果なのかもしれない
それを考えれば、子供たちの反応も、斑たちの話を聞けば聞く程何となくではあるが理解は出来る。
皮肉な話だが、十分な愛情を受けられなかったからこそ、助かったのかもしれない……そう思ったマリーは、何とも言えずに苦笑するしかなかった。
「――よし、チビ共は全員離れろ! 今から壊すぞ!」
響き渡った無憎の大声に、マリーはハッと我に返った。
見れば、巨大な木槌を構えた無憎が、子供たちを一斉に避難させているところであった。全員が安全な距離まで離れたのを確認した無憎は、源とドラコを伴って、本格的な撤去作業に移った。
重苦しい破壊音が、『地下街』に何度も響く。固唾を呑んで見守る『子供の亜人たち』を横目で見やりながら、マリーたちは九丈たちのアジトと化していた建物が、少しずつ瓦礫へと姿を変えて行くのを見つめた。
「柱が倒れるぞ、気を付けろ!」
あの日以来、『若返りの薬』の服用を止めたからだろうか。少しばかり体毛が白くなった無憎が、見守っている子供たちへと注意を払う。
――途端、屋敷の根幹を支えていた柱がべきりとへし折れた。
どすん、と、湿気交じりの砂塵が放射状に飛び散る。離れた所で腰を下ろしていたマリーたちの傍まで、土煙の臭いが漂ってくる。子供たちのつぶらな瞳が、瓦礫へと姿を変えたソレを静かに見据えていた。
……亜人たちの大半を巻き込んだ、今回の騒動。
大勢の死者を出しただけでなく、バルドクたちを含めた前途ある者たちを破滅へと導いた、『化け物を生み出す薬』の存在。結局、マリーたちが分かったことはほとんどなかった。
九丈がその薬をどうやって手に入れ、どのようにして使い方を知ったのか。自ら進んでそうなったのか、それとも九丈が無理やり配下を増やしたのか、あるいは……それら全ての疑問を九丈たちは胸中に抱えたまま、死後の世界に旅立ってしまった。
数々の疑問が残り、数々の答えを知る機会は永遠に失われた……そして今ここに、マリーたちが受けた『化け物退治』の依頼は終わりを告げた。
――そして、いよいよ……マリーたちが帰る時が来た。
子供たちに別れを告げたマリーたちは、焔の屋敷の地下に下りて、『祭壇』を通り過ぎて右側の通路を進む。(左側の通路は影も形も無くなっている)斑たち曰く『行き止まり』だと言っていた先……そこに、地上へと帰る手立てが有った。
ウィッチ・ローザに照らし出される、見慣れた土壁が続く光景。その突き当りにて光を鈍く反射させていた、黒色の金属壁。
その名は『高速自動推進エレベーター』……そう、興奮気味にイシュタリアが話していたのが、マリーたちの頭に少しばかり鮮明に残っていた。
押しても駄目、叩いても駄目、引っ張ろうとしても無理。
掴むところが一切無いそれは、何も知らない者からすれば、確かに『行き止まり』と判断しても仕方がない話である。
実際、イシュタリアのおかげでソレが何なのか分かった当初も、『起動スイッチ』はすぐに見付けられたが、肝心の起動させることが出来ずに半ば諦めかけていたぐらいだ。
一見するだけなら、奇妙な鉄の壁に見えないことも無いそれは、かつてマリーたちがワクチンを手に入れるが為に無理やりこじ開けた、あの鉄扉とは少し違う外見をしていた。
「……それで、これで本当に地上へ出られるのか? 俺には新手の棺桶にしか見えないんだが?」
エレベーターの扉を見上げながら、マリーはポツリと呟いた。
「そんなに不安ならば、残ってもよいのじゃぞ」
半信半疑という思いが、そのまま言葉尻に滲んだのだろう。
尋ねられたイシュタリアは、「男がぐちぐちと情けないことを言うでない」ため息と共に、鋼鉄の壁を叩いた……地上へと続く『高速自動推進エレベーター』の扉を叩いた。
「何度も言うが、これはあくまで私がまだ若かりし頃にて実際に運用されていた過去の英知の一つ。『万が一正規のルートが使えなくなった時のための緊急脱出装置』なのじゃ。これは、その中でも『高速自動推進エレベーター』と呼ばれる代物で、かつては『削岩機』というあだ名が付けられていた種類なのじゃ」
「そのあだ名で不安を覚えるなっていうのは、ちょっと酷い話だと俺は思うんだが……」
……『高速自動推進エレベーター』。
イシュタリア曰く、何らかの外的要因によって地上への退去が困難となった場合にのみ使用が許可されていた、脱出装置である。
エネルギー戦争時代よりも前に、いくつかの施設にて実際に設置されていた装置の一つ。上部に取り付けられた特注のドリルによって、無理やり進路を用意するという何とも力任せの装置である。
「迷うな恐れるな……何でもやってみなければ始まらぬのじゃ」
イシュタリアに背中を押されて、マリーは『起動スイッチ』の前に立つ。
25センチ四方の、引っかかり一つない滑らかなソコが、『起動スイッチ』である。ウィッチ・ローザの光を鈍く反射しているそこは、うっすらとマリーの顔を映し出していた。
「ほれ、早く起動させるのじゃ」
モミモミと、肩を揉まれる。くすぐったいなあ、とマリーが思っていると、フッと背中に感じていた体温が消える。
振り返れば、目尻をつり上げたサララがイシュタリアを引き離しているところであった。
「ちょ、お嬢ちゃん。ここしばらくはお嬢ちゃんが独り占めしておったじゃろ、私だって少しぐらいスキンシップを楽しんでもいいではないか、あ、ああ……」
あっという間にマリーから引き剥がされたイシュタリアが、がっくりと肩を落とす。
そんな何時もの光景に、見送りに来た斑たちはもちろん、源たちも思わず笑みを零した。
「君たちは、本当にどこでもこんな調子だな……見ていて楽しくなるよ」
己の腰に抱き着いたテトラの頭を軽く撫でながら、源はサララたちのじゃれ合いを見つめた。
「どこにでもいる……という言葉が役不足な女の子だというのに、なかなかどうして芯が強い。おまけに片方は『時を渡り歩く魔女』と来た……なるほどねえ……ところでマリー君」
「ん、なんだ?」
「実は、一つ聞いておきたいことがあるんだけど……」
そこで一旦言葉を止めると、源はマリーの傍に己とテトラしか居ない事を確認する。
次いで、その他全員がイシュタリアとサララのじゃれ合いに意識が向いているのを素早く見やった源は、そっとマリーの耳元に顔を近づけた。
“君がイルスン講師を怒らせた原因……彼女たちには話したのかい?”
――大きく目を見開いたまま静止していたマリーは、しばしの間を置いた後、ゆっくりと息を吐く。そして、源と同じように声を潜めた。
“なんで、源が知っているんだよ”
それが、マリーの答えだということを察した源は、驚いたように目を瞬かせた。
“あれ、話していなかったのかい?”
“話す理由が無い。それに、そんなことわざわざ話せるかってんだ”
“何でまたそんなことを……話してあげた方が彼女たちも喜ぶと思うよ”
“うるさいよ、ばか。こっちにはこっちの都合がある――”
「おい、何時まで突っ立っておるのじゃ。さっさと起動させるのじゃ」
「マリー、またお腹の調子が悪くなったの?」
突如、背後から掛けられた声に、マリーは背筋を伸ばし、源は反射的に距離を取った。「ど、どうしたの、マリー?」あまりに異様な反応に首を傾げるサララたちをしり目に、マリーと源は何事も無かったかのように振る舞う。
「よ、よーし、それじゃあスイッチを入れちゃうぞー!」
サララたちからすれば謎でしかない掛け声と共に、『起動スイッチ』の上にマリーは手を置く。
途端、『起動スイッチ』の上から下までを赤い線が走ったかと思ったら、扉が軋みながら開かれた。
直後、中に設置されていた照明の明かりがパッと灯る。
昼間のように明るくなった内部は中々広い作りとなっており、隅の方には『モノレール』の時にも見られた、あの『鉄箱』が壁と一体化するように取り付けられていた。
そう、これが斑たち『亜人』が『行き止まり』だと判断した最も大きな理由。装置を動かす為に必要となる『起動キー』が、なぜか斑たちではなかったのだ。
加えて、起動できるのはマリーただ一人……なぜ、どうやって、何時の間にマリーのデータが入力されたのか。
未だにイシュタリア辺りの頭を悩ませている疑問点であったが……肝心のマリーが『分からんことを何時までも考えるのは面倒だ』という結論を出した為、今の所その疑問が表に出ることはなかった。
「いやあ、改めて見ると中は凄いなあ」
先に入った源がそんなことをわざとらしく呟いている間に、マリーも入る。遅れてサララ、イシュタリア、ナタリア、ドラコと続き、斑たち3人は扉の前に立って、「ありがとう」マリーたちに深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。マリーさん、サララさん、イシュタリアさん、ナタリアさん、ドラコさん、源さんに、テトラさん……このご恩は、末代までお伝え致します」
「ワシからも、ありがとうございます。こんな老いぼれの礼を、どうか受け取ってください……ところで、本当に御代はあれだけで良かったのですか?」
頭を下げたまま、ぽろぽろと大粒の涙を零す焔の背中を摩った斑は、改めてマリーたちを見つめる。その視線の意味に気づいたマリーたちは、一様に苦笑した。
「あんなもので宜しければ、まだまだ沢山あります。どうせここでは使い物にならない置物です……全部持って行っても構いませんというのに……」
「持っていきたいのは山々だが、金の延べ棒なんて沢山あっても出所を疑われるからなあ……面倒な騒動に巻き込まれるのは御免だし、また機会があったらにしてくれ」
首から下げたビッグ・ポケットが、少しばかり食い込む。外からは分からないが、今、その中には……まぎれも無い黄金の延べ棒が分配して入れられていた。
一本当たりの重量おおよそ5キロ、その数合計60本。セクタ紙幣に換算して、おおよそ3000万セクタ……一般平均年収の約50年分に相当する額が、今回マリーたちが受け取ることになった報酬であった。
これを少ないとみるか、それとも多いとみるか、あるいは妥当とみるか。
数十回は命を落としかねない仕事を終えた報酬……判断に分かれるところだが、マリーがそれで良しとしたので、イシュタリアたちは何も言わなかった。
「……済まない、どう言葉に表したらいいかが分からん。俺から言えるのは、ありがとう……これしか頭に浮かんでこないのだ」
次に話を切り出したのは、無憎であった。
「無理に言葉にしなくていいよ。だいたい言いたいことは分かっているから」
「……またここに来られるのであれば、何時でも来い。あの木が欲しければ、一本ぐらいなら大丈夫だ」
「そうか、この装置が上手く動いてくれたら、また来られるらしいぞ。その時には、こっちも土産の一つでも持っていくさ」
武骨な笑みを浮かべる無憎に、マリーはへらへらと笑う。その横で、タイミングを見計らっていたイシュタリアが、エレベーター内部に取り付けられたボタンを押した。
『最終確認ボタンが押されたことを認識しました。ただ今より、現在位置を特定、並びに、残存バッテリーの総量の確認作業に移ります。よろしければ、もう一度ボタンを押してください』
途端、エレベーター内部に鳴り響いた声に、あれ、とナタリアが首を傾げた。
何を言っているのかは分からないが、動くかどうかを確認した先日の時と似たようなニュアンスというか声のリズムに、ナタリアの中で引っかかるものがあった。
「気のせいかしら、同じこと言っているような気がするのだけれども……」
「同じことを言っておるのじゃ」
ぽちり、イシュタリアの細い指が、ボタンを押す。『信号を認識、只今より確認作業に入ります。少々お待ちください』声が、鳴り響いた。
「途中でエネルギーが切れて動かなくなれば、取り残されたやつらがもれなく死ぬからのう。そうしない為に、使用する前に必ず行わなければならない作業が決まっておるのじゃ」
なるほど、ナタリアは納得に頷く。「なに、場所の特定はよほど変な場所でない限りすぐなのじゃ」とイシュタリアが言った直後、場所を特定したというアナウンスが鳴り響いた。
『地上までの行路を測定。設けられた専用脱出通路は67%まで低ロス走行での削岩可能域であることを確認。強固な岩盤は確認されませんでしたので、その地点から専用ドリルにて地上まで移動を行い、同時に、内蔵された凝固剤にて専用通路を新たに設け、以後の救助をスムーズに行えるように処置致します』
がたん、とエレベーターが軋んだ。静かに、それでいて確かに、機械が動き出したのをマリーたちが理解すると同時に、プシュ、と空気が抜ける音と共に扉がゆっくりと閉まり始めた。
「それでは、お元気で。あなた達が無事に地上へ帰られますよう、三賢者と女神の加護があらんことを……」
「――っ」
閉まりきろうとする前に、斑がそう言って祈りを捧げた。
それを見たマリーは、つい先日訪ねてきたときのことを思い出して、あの時のことをもう一度聞こうかと思ったら……目の前で、扉が閉まってしまった。
『扉のロックを確認。ただ今より、地上へと向かいます。到着時間は、およそ6分18秒となります。少々揺れると思いますので、エチケット袋などの使用をお勧め致します』
がたん、と再びエレベーターが揺れる。思わずたたらを踏むマリーたちをしり目に、二度、三度、四度、振動が続いたと思ったら……少しばかりの重圧をマリーたちは感じた。
……後は、地上に着くまでただ待つだけだ。
ほう、とため息を吐いた源を皮切りに、フッと室内の空気が緩んだ。
スッと、手を握られる。思わず肩をびくつかせたマリーが振り返れば、不思議そうに首を傾げるサララと目が合った。
「マリー、今なにか言おうとしなかった?」
「……いや、何も」
そう答えたマリーは、閉まってしまった扉を……黙って見つめた。不思議そうに首を傾げるサララの視線を感じながら――。
「……?」
――にやり、と嫌な笑みを浮かべているドラコと目があったマリーは、首を傾げるしかなかった。
……。
……。
…………ふわりと頬に感じる空気に懐かしさを覚えるのは、それだけ無意識のうちに恋しがっていたのかもしれない。
見覚えのある光景、見覚えがありすぎる人たち……懐かしき館の女たちを前に、マリーたちは……呆然と立ち尽くすしかなかった。
「…………」
「…………」
マリーは、眼前にて言葉を無くしているマリアを見つめる。
その後ろには同じく呆然としているシャラが立っていて、その後ろにはエイミーたちが目を白黒させながら駆け寄って来ているのが見える。
そんな彼女たちの更に後ろにあるのは、見覚えのある館の後ろ側。
……マリーの記憶が正しければ、それはどう考えてもラビアン・ローズ。
つまり、マリーたちが今の今までいた『地下街』とは、『東京』の真下であることを証明していた。
無言のままに、マリーは振り返る。そこに有るのは、今しがた自分たちが乗っていた『高速自動推進エレベーター』の出入り口。
空を真っ赤に染めている夕日に照らし出された黒光りが、何とも言えない哀愁を漂わせていた。
……夢でもなければ、白昼夢でもない。
それを理解したマリーは、再び、マリアへと振り返る。ぽかん、と大口を開けているマリアと目が合った。やっぱり二人は、言葉無く視線を交差させるだけであった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
無言の静寂が通り過ぎる。二人は、というか、その場に居る全員が何も言えなかった。どちらとも理由は違うが、似たような理由で言いあぐねていた。
「……えっと」
どう声を掛けたらいいか分からない。
その内心があまりにも透けているマリアの呟きに、マリーたちの視線が一挙に向けられる。
「と、とりあえず……お帰りなさい」
「――ただいま、戻ったぜ」
困惑を滲ませながらも、優しさが滲み出た満面の笑みを前に……マリーたちは、とりあえず、肩の力を抜くことにした。
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