第二十一話: 夢から覚めて




 ……。


 ……。


 …………今まで体感したことのない、強い喉の渇きと痛み。痺れすら覚える重苦しい関節の痛みに、胃の中をかき回されたかのような吐き気。


 生まれてきたことを謝りたくなってしまう程の苦しさに、マリーは最初自分がどういう状態になっているのか分からなかった。



 ……眼前に広がった世界をしばしの間、マリーは黙って見続ける。



 それが天井の木目にこびり付いたシミであり、自分が布団の中で横たわっているのを理解するまで、少しばかりの時間が必要であった。



 ……ここ、は?



 声を出そうとした瞬間、雷鳴のように脳裏を揺るがした痛みにマリーは息を詰まらせる。まるで、脳みそをハンマーで叩かれたかのような気分だ。


 脈動する激痛に顔をしかめたまま、マリーはぼやけた頭で室内を見回し……座ったまま、うつらうつらと船を漕いでいるサララに視線が止まった。



 ……サララ?



 思わず、声を掛ける。しかし、マリーの乾ききった喉は、掠れた吐息しか出してくれない。


 それだけで、体中の力を吐き出したかのような疲労感が、全身に圧し掛かる。魔力切れを起こしたときよりも酷い倦怠感だ。


 ぐらんぐらんと揺れる頭を騙しながら、気力を振り絞って身体を起こす。


 布団の端が、傍に置かれた桶に当たって水飛沫をあげ……ゆっくりと開かれたサララの意識が……マリーを見て、跳び起きてマリーの身体を支えた。



「――マリー、駄目、動かないで……今はゆっくり休んで」



 サララ……俺は、どうなった?



「覚えてないの? あの後高熱が出て……事情は話すから、今は横になって」



 声にならない声でも、サララには届いているようだ。状況説明を求めるマリーを涙声で諌めて、優しくマリーを布団の中へと戻す。枕元に落ちていたタオルを濡らして絞ると、それをそっとマリーの額に乗せた。


 その冷たさが、心地よい。ホッと息を吐くマリーの視線が、ぽろぽろとサララの両目から滴り落ちる大粒の涙を捉える。


 それに気づいたサララは、涙で濡れた顔を些か乱暴に拭うと、にっこりと、それでいて痛々しくも喜びに満ち溢れた笑みを浮かべた。



「ごめんなさい、少し離れる。イシュタリアたちを呼びに行かないと……」



 マリーが頷くと、サララは涙で潤んだ瞳が目の前に来たかと思ったら、足早に部屋を出て行った。遠ざかって行く足音、頬に残るくすぐったい感触に、マリーはゆっくりと息を吐いた。



(心配、かけてしまったか……)



 サララの泣き顔を見るのは、何度目だろうか。いまいち思い出せないが、何かあるたびに泣かせているような気がしてならない。



 ……そのうち、館の皆に怒られてしまうかもしれない。そうなる前に、これが終わったら、ゆっくりと遊びに行こうか。



 そう思ってサララが来るのを待っていると……ふと、左手に触れた固い何かに、マリーは目を開けた。


 何だろうか。気になったマリーは、関節の痛みを堪えて何かを掴む。それを眼前に持ってきて……掌に収まったソレを見て、マリーは驚愕に目を見開いた。



(これって、夢の中で渡された――!?)



 そこに有ったのは、小さくて細いガラス瓶であった。


 驚いたマリーは瓶の有った場所に手を突っ込み……合計、三つのガラス瓶を前に、マリーは目を瞬かせた。



 ……夢ではないっ!?



 そうマリーが認識した途端、マリーの手からガラス瓶が零れ落ちた。脳裏に溢れかえる、思考全てを埋め尽くす情報の濁流に、マリーは思わず息を詰まらせる。


 身体を丸めて痛みをやり過ごそうとするが、濁流は耳鳴りを生み出し、鋭い苦痛にも姿を変える。頭を掻きむしりたくなるほどの痛みに、マリーは強く歯を食いしばった。


 苦痛が、また、姿を変える。


 ぐにゃり、ぐにゃりと形を変えたそれは……魔法術の力。頭に刻まれていく新たな力を、マリーは布団の中で呻き声を上げながら受け入れさせられた。



 ――こ、れは!?



 言葉で理解するよりも前に、心が、魂が、理解する。あの女が語っていた二つの鍵……それが何なのかを、マリーは痛みと共に悟った。



「マリー、イシュタリアたちを連れて――、マリー!?」

(――サララ?)



 耳を塞いでいる中、サララの悲鳴を聞いた気がした。頬を叩かれた感覚にマリーがうっすらと目を開けると……青ざめて蒼白となったサララの顔が、目の前にあった。



「マリー!? ああ、マリー! 起きて! 眠っちゃ駄目! 起きて、起きないと死んじゃう! 起きなさい! 起きてよっ!」



 死ぬって、大げさな。



 そう言いたかったが、痛みで食いしばった奥歯から力を抜くことが出来ない。というか、頬を叩かないでほしい。


 とりあえず、涙と鼻水を垂らして酷い顔になっているサララを慰めよう……と思ったら、グイッとサララの姿が目の前から消えて……イシュタリアが現れた。


 視界の外に消える直前、ナタリアとドラコの二人が苦笑しながらサララを引きずって行くのが見えた。三人の話し声が聞こえていたが、すぐに静かになった。



「無理に話さん方が良い。少し熱が下がっただけなのじゃからな……順々に説明してやるから、今は大人しくしておるのじゃ」



 イシュタリアの小さな手が、タオルの外された額にするりと当てられる。ほわっと灯る癒しの光に、少し痛みが軽くなる。


 イシュタリアは笑顔を見せることなく、しばしの間治癒術を行った後、外したタオルをマリーの頭に戻した。



「少しは熱が下がったようじゃが……お主は、どこまで覚えておるのじゃ? あの肉の化け物とやり合ったところから後は覚えておるか?」



 かすかにマリーが頷くと、イシュタリアも頷いた。



「あの後すぐにお主は高熱を出して寝込んでのう……持ち合せの薬草ではなかなか熱が下がらず、かれこれ三日程眠り続けておったのじゃ。その間は私たちが交代で看病をしていたのじゃが、この三日間は本当に大変だったのじゃ。治ったら、酒の一杯を忘れるでないぞ」



 三日……そんなに眠り続けていたか。呆然としているマリーの反応に、イシュタリアは無理も無いと苦笑した。



「あの化け物は粉々になった。これでお主が抱えていた不安も無くなるじゃろ……それと、バルドクたちから頼まれていた仕事の件なのじゃが、今の所手つかずなのじゃ」



 ……手つかず?



「バルドクたちの言う『化け物』のことなのじゃが、いっこうに姿を見せぬのじゃ。色々と手を使ってみたのじゃが……お主のことも気にかかるし、一度館へ引き返そうかと迷っていたところなのじゃ」



 ……そうか。


 マリーは、力無く息を吐いた。仕方がないこととはいえ、悔しい気持ちが無いと言えば嘘になった。



「……あと、それとな」



 イシュタリアは、マリーからは見えない位置に居るサララを指差した。



「どこぞの小娘が『マリーが死んだら私も後を追う』と喧しくてのう。昨日、お主の呼吸が止まったと勘違いした時には迷うことなく己の手首を切りおってな……斑と焔の御二方のご厚意で部屋を変えさせてもらったのじゃ」



 手首を……切った!?


 驚いて室内を見回せば、なるほど。確かにマリーが初日に寝泊まりしていた部屋と少し違う。


 全体的な作りは似ているが、確かに別の部屋だ。バルドクたちの姿が見えないが、席を外してくれているのだろうか。



「おかげで昨日は流石の私も疲れてしまったのじゃ……まあ、そこで監視している『人形師』の狼狽する姿を見られたから、私としては帳消しじゃがな」



 ――やっぱり、しばらく遊びに誘うのは無しにしよう。


 そう固く心に決めたマリーの耳に、「ところで、一つ聞いていいかのう?」イシュタリアの声が届いた。そちらに目をやれば、「これは何じゃ?」イシュタリアが先ほどの小さなガラス瓶を手に取っていた。



「お主、こんな洒落たもの持っておったか?」



 ああ、それは……。


 起き上がろうとすると、サララたちが素早く手を貸してくれた。サララの手で優しく、お椀に入った水を啜る様に舐めさせてもらう。喋れる程度にまで喉を潤したマリーは、ガラス瓶を指差した。



 “夢の中に現れた女に手渡された。”

「……ふむ、夢の中か。幻覚と捉えるところか、迷うところじゃのう」



 真剣な面持ちで、イシュタリアは、そう答える。言葉通り迷っているのが、表情に良く表れていた。


 夢の話なのに信じるのか……そうマリーが尋ねてみれば、「そんな冗談を言う、お主ではないからのう」と返された。



「残された文明の英知、ダンジョンにしかない植物が繁茂する『地下街』、暗がりから姿を見せた触手の化け物に、化け物へと姿を変えた人間……今更夢がどうのこうの言われたところで、信じない理由がどこにある?」

 “言われてみれば、そうだな。“

「それで、その夢の中に現れた女は、それ以外に何かをしたのか? 名前とかは名乗ったのか?」



 言われて、マリーはハッと女に言われたことを思い出す……だが、どうしたことか、女の名前を思い出すことが出来ない。


 それ以外の部分は鮮明に思い出せるのに、まるでそこだけ靄が掛けられたかのように不鮮明だ。



「……思い出せぬのであれば、無理に思い出そうとするでない。お主は死にかけたのじゃぞ……頭を使おうとしてはいかぬのじゃ」



 表情から察したイシュタリアが、助け船を出す。マリーはよほど酷い面になっているようだ。


 ……確かに、今はそれよりも。イシュタリアの手に収まったガラス瓶に視線を向けると、マリーはそっとイシュタリアに腕を差し出した。



 “イシュタリア、お前、それを俺に注射することは出来るか? 確か、お前のビッグ・ポケットには応急処置の為にプッシュ・パスが入っていたはずだよな?”



 ――プッシュ・パス。


 それは、魔力文字式が彫られた特殊な注射器のことである。自動的に滅菌消毒と針の修復を行い、常に最適な状態を用意できる優れものである。



「む……まあ本職には適わぬがな……お主のは血管が太くて刺し易いから注射は楽じゃが……まさか、これを?」

“そうだ。本当かどうかは分からんが、その薬は俺の中にあるウイルスとかいうやつを、一時的に抑えてくれるらしい”



 イシュタリアの目が見開かれた。



「ウイルス……待て、その女、なぜその名称を知っておるのじゃ?」

 “その女は、お前にこの言葉を言えば、目の色が変わると言っていた”



 イシュタリアの疑問を遮って、マリーはジッとイシュタリアを見つめた。



 “その言葉は、『フロンティア』”

「…………なに?」



 ――ぽかん、と大口を開けて、これ以上ないぐらいに大きく見開かれたイシュタリアの瞳に映っていたのは……驚愕の二文字であった。


 それを見たマリーは、首を傾げるサララたちと、部屋の隅で成り行きを見守っている源たちを順々に見やると……改めて、イシュタリアに腕を突き出した。



 ――だが、しかし。



 様々な疑念はさておき、指示通りに注射を終えた後。熱が下がるまで、とりあえずは女から与えられた情報をイシュタリアに伝えようとした……その瞬間。



「――全員動くな!」



 部屋に、怒声が飛び込んできた。思わず肩をびくつかせるマリーたちを他所に、豪快に足音を立てながら室内になだれ込んできた、数人の亜人たち。


 そして、その中に居た毛むくじゃらの獣耳……無憎が、巨大な片手剣をマリーたちに付きつけた。



「……何だ何だ、いきなり何をするつもりだ?」



 マリーたちからすれば、それは当然の反応であった。しかし――。



「おほほほほ、しらばっくれても無駄ですよ」

「誰だ、お前?」

「おほほほほ、御存じないのですか?」



 呆然とするマリーに対して、無憎の後ろから姿を見せたキツネ顔の亜人の男……そいつは、自らを『九丈』と名乗ると、いやらしい笑みをマリーたちに向けた。



「この地に化け物を連れてきた張本人……既に調べは付いている。立ちなさい! あなた達を、『ツェドラ』に連行します」

「……はあ?」



 そう宣言した九丈に……マリーたちは、ただただ突然の展開に首を傾げるしかなかった。


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