第十三話: 一つの終わり

※描写を最小限に抑えていますが、性的な表現があります。苦手な方は気を付けてください。

 この話は『探求大都市のマリー』における最大のテーマであり、根底に関わる部分ですので、飛ばすと少しこんがらがる恐れがあります



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 何故、オドムに付き従っているのか。


 いったい、どうしてしまったのか。


 今まで、何をしていたのか。


 それらのことに想いを馳せて、問い掛ける――よりも前に、二つの影がオドムへと飛び掛かっていた。


 一つは、イシュタリアの影。


 ドレスに形状を変えていたイシュタリアの武器が、しゅるしゅると一部が変形して斧へと変わる。と、同時に、艶やかな女の髪を思わせる輝きと共に伸びたドレスの裾がしゅるりと鋭くなり、空気を貫いてオドムへと迫る。


 一つは、サララの影。


 薙ぎ払う斬撃が、大地に傷を作る。『グングニル』を構えたサララの闘気が跳ね上がった、その瞬間。放たれた『グングニル』の一撃は、不可視の弾丸となってオドムへと――だが、しかし。



「いひひひ、ひひひひひひ、無駄、無駄よぉ、それじゃあ私は殺せない」



 無造作にオドムが腕を振るう。ただ、それだけで、二人が放った攻撃はぐにゃりと軌道を変えて、見当違いの場所を砕いた。



「――っ!」



 すぐさま体勢を立て直した二人が、地を蹴って反転し、追撃を行う――のだが、それも同じ。傍目から見れば奇妙としか言いようがない光景が、繰り広げられた。


 イシュタリアから放たれる攻撃は、まさしく雨あられ。避ける場所はおろか逸らす隙間すら与えない、面による物量的な攻撃。


 対して、サララから放たれる攻撃は、まさしく一筋の砲弾。避ける間はおろか、攻撃されたことすら認識させない程の高速一閃。


 それは、『面』と『点』による連続攻撃。普通の相手であるならば、瞬く間に風穴を開けられた後に、全身を切り裂かれていただろう……けれども、相手は普通ではなかった。



「何で、当たらないの!?」



 思わず、サララは怒声をあげた。それも、致し方なかった。


 何故か、当たらないのだ。どこを狙っても、あらゆる技を試しても、攻撃の軌道が逸れて、あさっての方向へと向かってしまう。


 外しているわけでもないのに、勝手に外してしまう……その異様な感覚に目を白黒させる二人を前に、オドムは……ぎょろり、とイシュタリアを見やった。



「惜しい、もうちょっと頑張りましょう」

「――ぬぁあ!?」



 絶え間なく放たれる猛攻の間に行われていたイシュタリアの企みも、見破られていた。


 無造作にオドムが腕を振るう、ただそれだけで、ナタリアへと伸びていたドレスの裾がグイッと虚空へと引っ張られ、イシュタリアは彼方へと投げ飛ばされる。


 サララも、イシュタリアも、いきなり仕留められるとは端から思ってはいなかったが、本気で攻撃した。


 ナタリアに被害が行かないようにしながらも、オドムただ一人を殺せるように全力を放った。だが、何故か一発も命中しない。


 途中までは、確かにいつも通りだ。けれども、どうやっても軌道が曲がる。突き出した刃先はスルリと軌道を変えて大地を削り、ならばと放つ薙ぎ払いすら、ぐにゃりと明後日の方向へと歪んでしまう。


 イシュタリアの繰り出す突きの雨の軌道すら、ドーム状に逸らされて大地に穴を開けるだけに終わり……二人が手を止めて距離を取ったのは、ある意味当然の判断であった。



「軌道を逸らす……いや、違う。逸らしているというよりも、軌道を元から変えられている……のか?」



 相も変わらず気味の悪い笑みを浮かべて立ったままのオドムを見つめる。初めて体感する現象にサララは首を傾げる。それは、イシュタリアも同様であり、サララの隣へふわりと着地した。



「……ベクトルをも変えるか。なるほど、これは厄介じゃな」

「べくとる?」

「大雑把に言えば、力の方向のことじゃ……ナタリア、私の声が聞こえるか!? 約束通り、お前の元にやって来たのじゃ!」



 思わず零したサララの疑問に、イシュタリアはそう答えると、ナタリアを呼んだ。


 けれども、ナタリアは何の反応も示さない。


 ぼんやりとした様子のまま佇んでいるばかりで、意識があるのかすら分からない状態であった。


 何かをされている? あるいは、された後?


 それならば、オドムからナタリアを引き剥がせば何かが?


 そう判断した二人は再び攻撃を重ねるが、結果は同じ。


 まるで、吸い寄せられるかのように軌道を変えられてしまう二人は、ひとまずオドムからさらに距離を取った……と。



「残念だが、あいつを倒すには同じ土俵に立たねえと話にすらならんぞ」



 その二人を庇うように、マリーがふわりと前に出た。



「大丈夫だ、あいつに俺をどうこう出来ねえよ」



 慌てて前に出ようとする二人を押し留めると、ナタリアの姿を横目で見やってから……スーッと宙を滑空して、オドムの前で着地した。


 そして、マリーの視線とオドムの視線が交差する。


 それは、記憶を取り戻したマリーと、全てを明かそうとしている『オドム』が対面する……初めてとなる光景であった。



「……お久しぶり、なのかしらねえ」

「まあ、そうなるな……お前、一人か?」

「ええ、そうよ。私は一人よ、ええ、一人になれたの」

「……ナタリアが俺の前に姿を見せなかたのは、お前の仕業か?」

「ええ、そうよ。見ていて楽しかったわ……この子、もう時間が無いってひいひい泣きながら苦しんでいたわよぉ……もう、笑いが止まらなかったわぁ」



 マリーの質問に、オドムはえひひひ、と笑い声をあげ……今更ながらに、マリーの全身を舐めるように見つめた。



「その姿……へえ、様になっているじゃないの」

「……様は無いお前に言われたら、お終いだな」



 ニヤニヤと笑みを浮かべるオドムに、マリーは素っ気なく返す。邪険な態度だが、オドムの目に喜びの色が浮かんだ――瞬間、重苦しい打突音と共にマリーのすぐ傍の大地に亀裂が走った。


 それは、突然の事であった。数十センチの深さに達しているであろうそこからは土煙が舞いあがり、衝撃の凄さを物語っていた。



「――っ!」



 一拍遅れて、攻撃されたのだと理解した二人が躍り出る――が、「何もするな、そこにいろ」その前にマリーが二人を止める。それを見て、えひひひひ、とオドムは笑い声をあげた。


 ――次の瞬間、また打突音が辺りに響いた。だが、今度のはどこの地面にも亀裂は走らない。


 ただ、腹の奥にまで響く重低音と、ふわりと吹き荒れた風を受ける二人の姿だけが、何かが起こっていることだけを辺りに知らしめていた。



「……今のでだいたい分かった。これ以上やっても無駄だぞ」



 えひひ、ひひひ、ひひひひひひ。



「あらぁ、余裕ねぇ。飛ぶことを覚えた程度で、私に勝てるとでも?」



 えひひひひ……響く笑い声の中で……マリーのため息が、静かに溶けた。



「死にかけた鳥よりはマシだろ。その証拠に、お前は俺を仕留めきれてねえだろ」

「あら、それは違うわよ……仕留めきれないんじゃなくて、遊んでいるだけよ――」

「いいから、お前はもう黙っていろ。邪魔をするな」



 オドムの口上を遮って、マリーが腕を振る。その直後……オドムは笑みを浮かべたまま、静かになった。文字通り、その場に静止して動かなくなった。


 …………?


 あまりに唐突なその反応に、様子を伺っていたサララとイシュタリアが目を瞬かせる……のを横目で見やりながら、マリーは一つため息を吐いた。



「さて、俺は大丈夫だ。怪我一つ負ってはいないから、心配するな」



 その言葉に、ようやく二人は我に返った。



「――っ、え、で、でも……」



 何をしたのかは分からない。目で捉えきれなかったとか、そういう話ではない。何をしたのか、いや、何かをしたのか、それ自体が分からないのだ。


 だからこそ、駆け寄ろうとする二人に、「いいから、そこで見ていろ」マリーは再度二人を宥めると。



「それよりも、これから俺が行うことを邪魔しないでくれ」



 マリーの視線が……ナタリアへと注がれた。



「邪魔って……まさか――」



 言わんとしていることを想像してサララはもちろん、イシュタリアも絶句する。



「マリー、それは……!」



 爪が皮膚を破き、血が出る程に拳を握りしめたイシュタリアは声を荒げる……だが、「おいおい、早とちりするな」マリーは静かに首を横に振った。



「殺しはしねえよ。ただ、『受け継ぐ』だけのことだ」

「……どういう意味じゃ?」

「『受け継ぐ者』の、もう一つの意味。それを、今から行うってだけの話だ」



 困惑の眼差しを受けてなお冷静にマリーはそう言って、オドムを見つめた。その瞳にはおおよそ怒りというものは浮かんでおらず、あるのは……憐れみにも似た、何かであった。


 何故、そんな顔をするのか。


 何故、そんな目でオドムを見つめるのか。


 その真意が分からずに目を瞬かせるサララとイシュタリアを他所に、マリーは悠然とオドムへと近づき……傍を通り過ぎて、ナタリアの前に立つ。オドムは、それをニヤニヤと見ているばかりであった。


 それは、何とも不思議な瞬間であった。何事もなく悠然と、何の妨害も受けることなく、マリーがナタリアの前に立つ。



「……え?」



 オドムからの攻撃が、絶対に行われているものと思って身構えていたサララとイシュタリアが、思わず困惑するぐらいであった。


 けれども、マリーは構うことなくナタリアの目線に合わせて屈む。


 そして、薄汚れた前髪を払いのけ……精気のない青い瞳が、露わになる。それだけで、正気を失っているのがマリーにはもちろん、離れて様子を見ていたサララとイシュタリアからでも一目で分かった。



 ……そうして改めれば、ナタリアの姿は酷い有様であった。



 行方を眩ましたときから着替えていないであろう衣服は所々が破け、泥や乾いた血の跡がべったりとへばり付いている。


 お世辞にも良いとは言い難い臭いも放っており、生乾きの唾液のすえた臭いと相まって、何とも言えない悪臭を立ち昇らせていた。



「待たせて悪い、遅くなった」



 けれども、マリーは嫌な顔一つ浮かべなかった。汚れた頬や口元を手で拭い去るだけでなく、悪臭を放っているナタリアの髪を手櫛で整えた後……後ろ手で、にやけているオドムを指差した。



「お前……ずっと、怯えていたんだな。すまない、ずっと……気付いてやれなかった」

「――っ」



 光と温もりを感じたのか、それともマリーの声に反応したのか。


 ナタリアの目が不意に動く。その青い瞳がマリーに焦点を合わせた……その直後、ナタリアの目が大きく見開かれて。


 ――前触れもなく伸ばされたナタリアの両手が、マリーの首を掴んだ。だが、それは締め付けるためのものではない。


 その証拠に、マリーの顔には苦悶の色一つなく、それどころか……その目には悲しみが浮かび、逆にナタリアを憐れむように瞳を伏せた。



「グ……ゲ……マ……リー……」



 舌をもつれさせながらも……確かに、ナタリアは呼んだ。マリーの、その名を。



「ああ、そうだ、俺だ」



 そうマリーが答えた直後……ナタリアの目から、大粒の涙が伝った。


 一つ、二つ、三つ、瞬く間に数を増やしたそれは滝へと名前を変え、ナタリアの頬についていた泥をも洗い落とした。



「マ、マリー……マリー……マリー……」

「そうだ、俺だ。ナタリア……待たせてすまなかったな」

「来て……来て……くれた……来て……くれた……」



 途切れ途切れの言葉と共に、ナタリアの目に正気が戻る。


 だが、それは燃え尽きようとしている蝋燭のようなものだということを、マリーも、サララも、イシュタリアも……理解していた。



「よく、頑張った。よく、俺が来るまで耐えられたな……偉いぞ」

「マ、リー、マ、リー、わだ、わだじ、マリー……」

「……身体の力を抜きな。後は、俺がやるから」



 そう言うと、マリーは己の首に掛かったナタリアの手を掴み……優しく引き剥がす。


 次いで、力無く身動ぎするナタリアをふわりと大地に横たわらせると、指で軽くナタリアの衣服を縦になぞる。


 ただそれだけでハラリと左右に滑り落ちた衣服の中から露わになったのは……痩せ細って浮き出た骨格と、力無く垂れ下がったナタリアの男性部分であった。


 それを見てマリーは指を鳴らす。途端、ナタリアの肌に付着していた汚れの一切が蒸気のように浮いて、跡形もなく消える。



 ……時間にすれば、数十秒程だろうか。



 霧が晴れた頃には剥きたての卵のように滑らかな身体となったのを確認してから、マリーは、するりとドレスを脱ぎ捨てる。


 そして、サララたちの視線を浴びながらも大きく息を吐き出すと……不意に、マリーの肉体に変化が現れた。



 ――それは、一瞬のことであった。



 辛うじて少年とも取れなくもない骨格がさらり丸みを帯び、骨盤が広がり、腰がくびれる。平らであった胸部には薄らと膨らみが乗ると同時に男性器が見る間に小さく萎み始める。



 ――あっ、と。



 二人が声をあげた時には……女の証である亀裂がそこには出来上がっていた。


 はあ……ため息が、マリーの唇から零れる。その声はいつもの彼よりも1オクターブ程高く、はあ、ともう一度息を吐いた時にはもう、その身体は準備を終えていた。


 ――それを見て、二人は理解した。


 そう、言葉にせずとも、マリーがこれから何を行おうとしているのかを、サララとイシュタリアは気付いた。まさか、と、疑問を挟む余地すら……いや、挟めなどしなかった。


 サララも、イシュタリアも、止めようとはしなかった。これからマリーが行おうとしていること、それを見届ける為に……二人は、ただ黙って見つめた。



「――さて、と。これで用意は整った」



 少女に姿を変えたマリーは、横たわっているナタリアの隣に腰を下ろす。そして涙で濡れたナタリアの頬を軽く撫でると、「いいか、ナタリア。俺の言葉をよく聞きな」そっとナタリアの視線に目を合わせた。



「お前は男しか愛せない。だが、それはお前が持つ生来のものじゃない。知能を与えられたモンスターが、そういう意味で人間を襲うことがないようにオドムが予め組み込んでいた、いわば『セーフティ機能』みたいなものだ。お前を含めたサキュバスは両刀で、本来なら男も女も関係ないんだ」



 そう言うと、マリーの掌がスッとナタリアの視界を遮った。途端、ナタリアの視線がマリーの裸体を上下し……わずかに目が見開かれると同時に、萎えていた男性器がぴくり、と反応し始めた。



「男性体の俺は本来、受け取った命を俺と混ぜ合わせて植え付けることに特化している。回数をこなせばそれでも行えないことはないが、それでは完了する前にお前の命が尽きる。今のお前自身を受け継ぐ為には、この状態でなければならん……それは、分かるな?」



 ……弱弱しくも、一つ、ナタリアは頷いた。



「女性体は受け取った命を混ぜ合わせて育てることに特化している。つまり、相手が何であれ、俺はその存在を受け取って、育み、産み落とすことが出来る。そして、お前たち『モンスター』が唯一孕ませることが出来る存在……その意味は、分かるな?」



 また、ナタリアは頷いた。



 それを見てマリーは大きく頷くと、ナタリアに己が裸身を見せつける様に胸を張り、膝を開いて亀裂がよく見える様に近づける。


 わずかに見開かれたナタリアの視線が、食い入るように向けられるのを見て……マリーは、「さあ、選べ」静かにナタリアを見据えた。



「このまま朽ち果てるか、それとも新たな生を取るか……選ぶんだ、ナタリア」

「……」

「お前たち『モンスター』には、『魂』がない。朽ち果ててもお前は生まれ変わることなく、アイツの一部に戻るだけだ。それが良いと言うなら、このまま目を瞑れ。だが、もし……」



 一瞬……静寂が過ぎた。



「――一つの命として生を受けたいのなら、自分の力でやるんだ、ナタリア」



 その声は、鼓動が響くこの世界に……不思議なほどに響いた。



「自分の力で俺を捕まえ、俺にお前の全てを流し込むんだ」

「……っ」

 膝立ちのまま、マリーは……そっと、ナタリアの胸元に手を置いた。

「もう動けないのは分かっている。だが、やらなければならない。お前が望むのであれば、俺は受け継ぐ。それは、俺の意志であり、お前を地上へと連れて行った罰であり、俺がやらなければならないことだ」

「……っ」

「だが、その為にはお前も抗わなければならない。このまま朽ちるのも、最後の力を振り絞って自らの命を繋げるのも……俺が決めていいことじゃない。全ては、お前が決めて、お前自身で掴み取らなければならないことだ」



 そう言って、マリーはナタリアを見つめる。



「どんなに苦しくても、どんなに辛くても、どんなに痛くても、やるんだ。お前がこの閉ざされた世界から飛び出したのなら、やるしかないんだ。与えられるのではなく、自らの意志で、力で、手を伸ばすんだ」

「……っ、……ぁ」



 カリカリと、ナタリアの震える指先が地面を掻く。それはあまりに力なく、ともすれば聞き落してしまう程の小さな音……けれども、マリーは聞いた。マリーにだけは、届いた。


 ――だから、マリーはナタリアから退いた。


 名残惜しげに視線を向けるナタリアに笑みを向けて、ナタリアから良く見える位置に腰を下ろし……両膝を開き、指で割り開いた自らの女を、ナタリアに見せつけた。



「さあ、手を伸ばせ。俺はここだ。受け継ぐ者はここだ。歯を食いしばって、身体を起こせ。そして、最後までやるんだ……お前一人の力で!」

「……っ!」

「それが、生きるってことなんだ。それが、命を繋げるってことなんだ。お前が触手の一片としての生ではなく、一つの命として生まれ変わりたいのなら……やるんだ!」

「……ぉ、っく、ぉぉ……!」



 マリーの鼓舞が力を与えたのか、それとも、まだ力が残っていたのか。消えかけたナタリアの目に光が戻ると共に、ナタリアはゆっくりと……身体を起こす。


 それはまるで死にかけたミミズのような愚鈍さだったが、マリーも、サララも、イシュタリアも……けして、手を貸そうとはしなかった。


 ……サララも、イシュタリアも、その光景に呑まれていた。


 そう、圧倒されていた。呼吸することすら、忘れてしまいそうになった。けれどもそれは、単純にこの状況が理解の外だったから……では、けしてない



 ナタリアが見せようとしている、命の灯を繋げる為の最後の足掻き。


 マリーが見せた命を受け継ぐという、生物としての根源的な輝きに。



 二人は……その場から動くことも出来ず、どうしようもない程に魅せられてしまっていたのだ。


 眩しさすら覚えるその力の前では、嫉妬なんて不思議なぐらいに湧いてこない。


 女としての矜持など、微塵も関係なかった。その気持ちすら恥じてしまう程の強烈な思いに……口を挟むなんて、二人には出来なかった。



(――ばれ)


 でも、だからこそ。


(――頑張れ、ナタリア!)



 二人は、願わずにおられなかった。手を貸したい気持ちに歯を食いしばり、駆け寄ろうとする身体に爪を立てて堪え、声だけでもという思いを……得物を握り締める指先に込めて、誤魔化す。



 目の前の光景に、いつしかサララは涙を流していた。


 イシュタリアも、言葉無く涙を零し、頬を濡らしていた。



 待ち構えているマリーの目にも涙が滲んでいて、這いずって進むナタリアの顔も涙で酷い有様になっていた。


 それは、言葉には出来ない不思議な感覚であった。


 マリーも、サララも、イシュタリアも……ナタリアすらも……一つの意志へと願い、動き、見つめている。


 それは到底言葉で言い表されることではない、原初より続く命のバトンなのだ。


 ――そして、ナタリアの手が、ようやくマリーに届く。


 開かれた足の間にもつれるように倒れ込んだナタリアは、「――さあ、頑張れ!」力なくも血走った目でマリーを見つめ……腰を、突き入れた。



「――ぐっ!」

「――ぎっ!」



 マリーとナタリアは、同時に苦悶の悲鳴を噛み締めた。指先一つ入れば御の字という穴に、子供の腕並みのサイズがねじ込む。


 それは、お互いに途方もない苦痛を与えたが……二人の顔に浮かんでいたのは苦痛から来るものではない、悲哀の笑みであった。


 そしてそれは、サララとイシュタリアも同様であった。


 マリーも、サララも、イシュタリアも、ナタリアも……皆、分かっているのだ。


 これが、お別れなのだということに。


 これが、最後の一時だということが。


 言葉にされなくても、分かってしまうのだ。



「――さあ、願え、ナタリア。何に、なりたい?」



 ぬるり、ぬるり。小刻みというよりは、のたうつ毛虫のよう。けれども、ナタリアが出来る精一杯の命を振り絞って、腰を振る。全てを、叩きつける。その中で、マリーの声が……厳かに響いた。



「お前は、何になりたい?」

「――がっ、――くっ」



 ふわりと、マリーの手がナタリアの喉を撫でる。途端、ナタリアはがちりと歯を食いしばり……。


 ――人間になりたい……そう、答えた。


 ともすれば聞き逃してしまいそうな程にか弱く、消えそうな声であった。けれども、サララにも、イシュタリアにも、そしてマリーにも……聞こえた。



「人間に、なりたいのか?」

「――なりたい。人間に、なりたい! 私は、皆と一緒に大人になって、皆と一緒にお婆ちゃんになって、皆と一緒に……死にたい!」



 それは――ナタリアが誰にも話してこなかった、ナタリアすら意識していなかった願いであった。



「苦しくても、悲しくても、辛くても、私は皆と一緒がいい! もう、一人は嫌なの……皆と一緒に、同じ世界で生きていたい……こんな場所で、終わりたくない!」

「――だったら、強く願え、ナタリア!」



 マリーの細い足が、ナタリアの背中に回される。隙間一つなく繋がったマリーは、今にも接吻せんばかりに顔を近づけてナタリアを抱きしめた――直後、この空間から全ての音が消えた、次の瞬間。



「がっ――ぎっ、ぎぃ――っ!」



 ナタリアの身体が、激しく痙攣した。マリーの身体を跳ね除けんばかりに背を逸らし、舌を突き出し、両の眼球が右往左往する。「――怖がるな!」そのナタリアを、マリーは力いっぱい抱き留めた……そして。


 ……音が、その場より消えた。


 その間、ナタリアは声一つ発しなかった。マリーは、絶対にナタリアの身体を放さなかった。相当な苦痛を覚えているはずなのに、その一切を顔に出さなかった。



「……よく、頑張った。よく、頑張ったな。偉いぞ、ナタリア」



 それどころか、マリーはナタリアを労わった。成し遂げたナタリアを褒め称え、白目を剥いて痙攣するナタリアの頭を……優しく、撫でた。



「全部吐き出せ、全部出しきれ。お前の全部を受け継いで、産み落としてやる。安心して、全部を俺に預けろ」



 その言葉に、卑猥は無い。それは何とも異様で、何とも淫猥で……言葉には出来ない、光があった。



 ――そう、光だ。



 ナタリアの身体から放たれ始めた光の粒子に、サララとイシュタリアは魅了されたかのように言葉を失くす。


 それらは、ふわりと漂う光は吸い込まれるようにマリーへと向かい、膨らんだ腹へと集まっていく。それは、受け継がれる……そう、命が受け継がれる瞬間であった。


 ……けれども……その光景にも、終わりの時は来る。


 痙攣していた身体も、時間の経過と共にその回数を減らす。ぜひぜひと荒げていた呼吸も少しずつ静まり、そして聞こえなくなった頃。辺りには、『肉塊』からの鼓動だけが響いていた。



 ……。


 ……。


 …………時間にすれば、ほんの10分程だろうか。動かなくなったナタリアの背中を、ぽんぽん、と優しく叩いていたマリーが……不意に、ナタリアの下から身体を起こす。


 そのまま、そう、そのまま、粘液が滴るのも構わず、マリーはそっとナタリアを仰向けにさせ……次いで、膨れ上がった己が腹を摩った。


 その腹はまるで、臨月を迎えた女性並みに大きく膨れていた。


 まるで、赤子一人分がそのまま収まっているかのようにまん丸とせり出したそれを、マリーは何度も摩る。


 そして、そこから伝わる温もりを感じ取る様に目を瞑って軽く叩くと……その腹が、目に見えて小さくなり始めた。


 その速度は、膨らむときよりもずっと早かった。


 見る見るうちに小さくなっていく膨らみはなだらかな曲線へと変わり、すらりと伸びた垂直へと形を変え……ほう、と息を吐いたマリーは、安らかな顔で虚空を見つめているナタリアに笑みを向けた。



「お休み、ナタリア」



 そう言ってマリーは、ナタリアの目を閉じてやる。


 指を振れば、切れた衣服がふわりと繋がると同時に汚れが霧のように吹き出していく。ものの数秒ほどで綺麗な姿になったナタリアの頭を撫でると、そこで初めてマリーは呆然としている二人を見やった。



「イシュタリア、背負ってやってくれ。こんな場所で朽ち果てさせるよりも、ナタリアの望み通り地上に埋葬してやろう」

「――あ、お、おう!」



 マリーの言葉に我に返ったイシュタリアが、慌ててナタリアを背負う。「――よう、頑張ったのう」だらりと力無く垂れ下がる手足に涙が零れそうになるのを堪えながら、落とさないように抱え直す。


 それを確認したマリーは、「――っ!」警戒心を露わにしているサララを見やり……改めて、その視線の先に居るオドムへと振り向く。


 そこには、相も変わらずニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべているオドムがマリーたちを見つめていた。



 ……そう、見つめていた。ただ、見つめていた……のだが、その笑みには全くの変化が見られない。



 いや、笑みどころか、身体の位置はもちろん、視線すら動いていなかった。まるで彼女だけ時が止まったかのように、呼吸すらしていなかった。



「……あ、あれ?」



 そのことにようやく気付き始めたサララが、困惑に首を傾げる。


 その姿にマリーは苦笑してサララを後ろに引かせると、マリーは内股に粘液をへばりつかせたまま、微動だにしないオドムの前に立つと……そっと、笑みのまま固まっているオドムの頬を撫でた。


 その行動に、サララはもちろん、離れた所から様子を伺っていたイシュタリアも驚きの声をあげた。「ちょ、マリー!?」けれどもマリーは、慌てて間に入ろうとするサララに手を振って答えた。



「こいつは今、俺の力で動きを止められているのさ」

「動きって……どういうこと?」

「そのまんまの意味さ。今のこいつは、あいつから切り離された人形も同然でな。自分がどういう状態になっているかも分からずにアホみたいに力を使いまくったせいだな……こいつが切り離されていない状態だったら、どうなっていたことやら」

「……?」

「要は、『ほぼ無尽蔵の動力に繋がれた人形』から、『限りある動力で動く自立人形』になったってわけだ。そんな状態で次元の隙間を通ったり、ナタリアを連れ回したり、俺の拘束を振り払おうと抵抗なんてことをしたから力が尽きかけても……って、どうした、不満そうな顔だな」

「そう見える?」



 サララの言葉に、マリーは頷く。それを見て、隠してもしょうがないと思ったのだろう。「……これは、私事なんだけども」サララは不満そうに、それでいて複雑な面持ちで、笑みを浮かべたままのオドムを見やった。



「私、前にこの人にズタボロにされたの。ギリギリのところで助かったけど、あと少し治療が遅かったら死んでいたらしいの」

「よし、殺そう。生かしちゃおけねえ」



 腕を振り上げたマリーを、「あ、待って、別にそういう意味じゃないの」サララは慌てて止める。


 次いで、サララはその手に持った『グングニル』を……ジッと、見つめた。



「この槍は、その助けてくれた人から譲ってもらったものなの。負けっぱなしは嫌でしょって言われて……」



 へえ……マリーの視線に、サララは顔を伏せた。



「実はマリーに話していなかったけど、『また会うだろう』って言われていたから、もしかしたらここで会うかもって思っていたけど……でも、ね」



 チラリ、と見やったサララは……深々とため息を吐いた。



「ここでマリーがこの人を動けるようにしてもさ、なにか違う。ここで勝負して勝っても、なんかスッキリしないっていうか……この人、言ってしまえば疲れ切っているみたいな状態なんでしょ?」

「ん、ん~……まあ、遠からず近からずってところだな」

「例えば今、この人を動けるようにしたとして、どうなるの?」

「まあ、良くてその場に膝をついて動けなくなっている程度。悪けりゃあ、拘束を開放した瞬間に本人が自覚する前にそのまま死亡……ってところかな」



 はああ……それを聞いて、サララは深々とため息を吐いた。


 肩すかしというか、拍子抜けというか……サララ自身、胸中のソレを上手く整理出来なかった。


 憎しみというほどではないが、破れた屈辱を晴らさんと思っていた相手の、思っても見なかった結末に……正直、残念であった。


 そう、残念であった。正直、サララは残念でならなかった。


 マリーには悪いと思ったが、どうしてもサララはその気持ちを抑えることが出来なかった。


 サララが求めていたのは、正々堂々と戦って勝利することだ。相手が有利であっても、関係ない。


 正面から全力で戦って、正面から打ち勝つこと……そうして初めてサララは雪辱を晴らせるというものだ。


 そうしなければ、サララにとって勝ったことにならないのだ。



「――だから、なおさら納得できないの。全力で戦ってこその勝負なのに、その肝心の相手が私と戦う前に死んでしまった。例え死んでいないとしても、今にも死ぬぐらい消耗している。そんな状態で戦って勝っても嬉しくはないし、何より……空しい」



 そう言って落ち込むサララに……マリーは、声を掛けられなかった。



「……とどめ、刺す?」

「余計空しくなるから、遠慮する」



 マリーの申し出に、サララは苦笑して首を横に振った。



「別に、マリーは気にしなくていいよ。これは私個人が勝手に拘っていたことだし、今はこの人よりも先に進むのが先……でしょ?」



 そう言ってサララは力無く肩を落としてため息を吐くと、のそのそとマリーの後ろに引き下がった。「な、なんだかやり難いぜ……」背後から向けられる視線にマリーは頬を引き攣らせながらも……改めて、彼女を見つめた。



「――で、意識を保ったまま動きを止められた気分はどうだ? 言っておくが、これは嫌がらせじゃないぞ。一部とはいえ、ナタリアの思い出の一部を俺たちに見せてくれた、せめてもの礼だからな」

「…………」

「まあ、連れ回した分で帳消しだけどな……ところでお前、自分から切り離したと言ったな? そんなわけないだろう。切り離したんじゃない。お前は、切り離されたんだよ……何故って、そんなの俺が知っているわけねえだろ」

「…………」

「だがまあ、大体の予想はつく。お前が切り離されたってことは、あいつはようやく、自らの生に幕を下ろす覚悟を固めたんだろう。長いお遊びの時間も、終わりへと近づいているってことだ」



 オドムは、答えなかった。瞳も動かず、笑みを浮かべたまま、静止し続けている。彫刻のように時を止めたままのその姿に、マリーは憐れみの眼差しを向けると……おもむろに、指を振った。


 ――途端、オドムの身体から光の粒子が立ち上り始めた。それはある種幻想的なまでに儚く、空間に溶け込むようにその姿を消していく。


 その勢いは早く、時間にすれば数十秒程でオドムの全てが光の粒子へと変わり、空間へと溶けて……跡形もなくなっていた。



 ……。


 ……。


 …………マリーは、消えたその空間を静かに見つめた。鼓動だけがこの空間に響く中、ただただ黙って光が溶けた先を見つめ続けた……と。



「――マリー、光が……!」



 不意に、サララが声を荒げた。その声に振り返れば、サララもそうだが、「鼓動も……?」イシュタリアも呆然とした様子で空を……『肉塊』を見上げていた。



 ……言われる前に、既にマリーは気づいていた。



 中央を漂う『肉塊』から聞こえていた鼓動が、ここに入った時よりも小さくなっていることも。


 そして、少しずつではあるが、放たれる光が弱まっていることも。言われずとも、見なくても、マリーには……マリーにだけは、分かっていた。



 ――そうさ、お遊びの時間は終わったんだ。



 呆然と『肉塊』を見上げている二人を見やりながら、マリーはそう唇を噛み締める。


 その頭上から、まるでマリーの心を読んだかのように『肉塊』が――とくん、と脈動した。





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